河井 清和(かわい きよかず、1933年8月22日- )は… 河井 清和(かわい きよかず、1933年8月22日- )は、日本の経営者。新キャタピラー三菱社長を務めた。 大阪府堺市出身。1956年に大阪大学工学部を経て、1958年に大阪大学院を修了し、同年に新三菱重工業(のちの三菱重工業)に入社。 1990年6月に取締役に就任し、1992年6月に常務を経て、1995年6月に副社長に就任し、1997年6月には特別顧問に就任。1997年6月から2001年6月までに新キャタピラー三菱社長を務めた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
山本 英樹(やまもと ひでき、1933年6月1日 - 201… 山本 英樹(やまもと ひでき、1933年6月1日 - 2018年3月25日)は、日本の経営者。日東電工社長を務めた。大阪府出身。 1956年に大阪大学薬学部を卒業し、同年に日東電気工業(のちの日東電工)に入社。1983年6月に取締役に就任し、1989年6月に常務、1995年6月に専務を経て、1996年6月に社長に就任。2001年4月に会長に就任。 2018年3月25日慢性閉塞性肺疾患のために死去。84歳没。
藤山 朗(ふじやま あきら、1932年 <昭和7年> 10月… 藤山 朗(ふじやま あきら、1932年 <昭和7年> 10月24日 - 2015年 <平成27年> 10月14日)は、日本の経営者。藤沢薬品工業社長、会長を務めた。位階は正四位。 大阪府出身。1956年に大阪大学薬学部を卒業し、同年に藤沢薬品工業に入社。1984年6月に取締役に就任し、1987年6月に常務、1989年3月に専務を経て、1991年6月に副社長に就任し、1992年6月には社長に昇格。1999年6月に会長に就任し、2005年4月からアステラス製薬相談役を務めた。 2005年4月に旭日重光章を受章。 2015年10月14日心不全のために死去。82歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
脇村 春夫(わきむら はるお、1932年1月15日 - )は… 脇村 春夫(わきむら はるお、1932年1月15日 - )は、日本の実業家、元アマチュア野球選手。第5代日本高等学校野球連盟会長(2002年11月 - 2008年11月)。現在は、公益財団法人脇村奨学会代表理事。博士(経済学)(大阪大学)。 脇村禮次郎と祐子(正田貞一郎の三女)との子として東京府東京市小石川区(現:東京都文京区)に生まれる。祖父は田辺市名誉市民・脇村市太郎、正田貞一郎。おじに経済学者・脇村義太郎、鉱物学者・正田篤五郎、数学者・正田建次郎がいる。上皇后美智子の従兄にあたる。
西澤 進(にしざわ すすむ、1932年1月1日 - 2002… 西澤 進(にしざわ すすむ、1932年1月1日 - 2002年12月29日 )は、日本の経営者。兵庫県出身。 1954年に大阪大学工学部応用化学科を卒業し、同年に積水化学工業に入社。1979年7月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1993年7月に副社長に就任し、1994年1月から1999年までに社長を務めた。 2002年12月29日肺癌のために死去。70歳没。
古谷 真吾(ふるや しんご、1932年 - 1988年7月1… 古谷 真吾(ふるや しんご、1932年 - 1988年7月19日)は、日本の実業家。元・阪神タイガース球団代表。 1955年に大阪大学経済学部を卒業後、阪神電気鉄道に入社。阪神甲子園パークや阪神甲子園球場を管轄する事業部門で長く勤め、1983年に球団専務、1986年7月に同常務と昇進したのち、1988年6月10日付で球団の専務取締役社長へ就任した。 しかし、球団代表の交代による多忙さに加えランディ・バースの退団や掛布雅之の引退など数々の騒動によるマスコミ対応などに追われた結果心労を重ね、就任からわずか1ヶ月後の1988年7月19日未明に東京都千代田区のホテルニューオータニで飛び降り自殺を図り死去した。
柏原 正明(かしわら まさあき、1931年〈昭和6年〉12月… 柏原 正明(かしわら まさあき、1931年〈昭和6年〉12月25日 - 2018年〈平成30年〉8月29日)は、日本の実業家。元千代田化工建設代表取締役社長。 大阪府出身。1953年に大阪大学工学部応用化学科を卒業後、千代田化工建設入社。エンジニアリング副本部長、同本部長、技術本部長を経て1987年12月副社長に就任。のち1992年6月玉置正和に代わり社長に就任した。1996年に社長の座を退き、北川正人が次代社長となった。
奥井 功(おくい いさお、1931年9月3日 - 2008年… 奥井 功(おくい いさお、1931年9月3日 - 2008年9月8日)は、日本の経営者。 大阪府大阪市出身。1953年に大阪大学法学部を卒業し、同年に積水化学工業に入社。 1970年に積水ハウスに転職し、経理部長、取締役、常務、専務を経て、1990年4月に副社長に就任した。1992年4月に社長に昇格し、1998年4月から2004年までに会長を務めた。 2002年から2003年までに日本経済団体連合会副会長も務め、関西経済連合会副会長、関西経営者協会会長も歴任した。 2003年11月に旭日大綬章を受章した。 2008年9月8日胃がんのために死去。77歳没。
天野 源博(あまの もとひろ、1930年10月13日 - 2… 天野 源博(あまの もとひろ、1930年10月13日 - 2005年1月20日)は、日本の実業家。 愛知県西春日井郡西春町(現・北名古屋市)出身。1951年に大阪大学薬学部を卒業した後に、天野製薬に入社した。1971年から1995年までに天野製薬社長を務めた。天野製薬を医薬品や食品用の酵素剤でトップに導いた。1995年6月から会長を務め、ドラッグストアのアマノとカメラのアマノの会長も兼任した。1994年から1997年までに中部経済同友会代表幹事や名古屋商工会議所常議員を務め、中部国際空港の早期実現と愛知万博の誘致に力を入れた。日本製薬団体連合会理事や名古屋駐在オランダ王国名誉領事も務めた。 2005年1月20日、腹部大動脈りゅう破裂のために死去。
渡辺 英二(わたなべ えいじ、1930年(昭和5年)9月26… 渡辺 英二(わたなべ えいじ、1930年(昭和5年)9月26日 - )は、日本の実業家。元日揮社長、同会長。 三和銀行名誉会長の渡辺忠雄・みのるの二男として北海道に生まれる。1953年(昭和28年)大阪大学理学部化学科を卒業し、翌年から3年間に渡りスイスおよび米国へ留学し有機化学の研究に従事する。1957年(昭和32年)昭和電工に入社し、1970年(昭和45年)日本揮発油(現日揮)に転じ、1976年(昭和51年)取締役国際事業本部本部長委嘱、1978年(昭和53年)常務、1982年(昭和57年)専務を経て、1988年(昭和63年)同社社長に就任した。 1994年(平成6年)6月、会長兼社長となり、11月には藍綬褒章を受章した。
藤井 康男(ふじい やすお、1930年8月14日 - 199… 藤井 康男(ふじい やすお、1930年8月14日 - 1996年11月10日)は、日本の実業家、生化学者、文筆家。 東京都出身で、3代目得三郎(勝之助)の子。千葉大学薬学部卒業後に、大阪大学大学院理学研究科に進学。 1955年、家業の製薬会社龍角散に入社。1960年大阪大学理学博士。1963年龍角散社長。1967年から1977年まで北里大学助教授。1995年龍角散会長。 日本初の臨床試薬会社ヤトロン(現在のLSIメディエンス)の社長などを兼任。クラシック音楽に精通し、龍角散室内管弦楽団では自らソリストを担当した。千代田区教育委員も務めた。 息子の藤井隆太は、1995年から株式会社龍角散の社長に就任。
久田 孝(ひさた たかし、1930年8月13日 - 1989… 久田 孝(ひさた たかし、1930年8月13日 - 1989年4月5日)は、日本の経営者。内田洋行社長を務めた。 大阪府大阪市出身。1953年に大阪大学法経学部経済学科を卒業し、同年に内田洋行に入社。1961年6月に取締役に就任し、1963年4月に専務を経て、1966年5月には社長に就任した。 1989年4月5日、心不全のために死去。58歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
栗本 一(くりもと はじめ、1930年5月23日 - 199… 栗本 一(くりもと はじめ、1930年5月23日 - 1995年1月15日)は、日本の経営者。栗本鐵工所社長を務めた。大阪府出身。 1953年に大阪大学工学部機械工学科を卒業し、同年4月に住友金属鉱山に入社。 1962年7月に住友金属工業を経て、1964年4月に栗本鐵工所に転職。1978年6月に取締役に就任し、1983年6月に常務、1985年6月に専務を経て、1991年6月に副社長に就任し、1994年6月には社長に昇格。1995年1月に体調不良により、社長を辞任。 1995年1月15日肺炎のために死去。64歳没。
秦 政明(はた まさあき、1930年 - 2003年3月)は… 秦 政明(はた まさあき、1930年 - 2003年3月)は、元URC社長。大阪府出身、大阪大学卒業。 14歳で敗戦を迎え、戦後日本共産党に入党。大阪大学時代は、日本共産党細胞キャップ(地方支部との意味)の指導的メンバーだった(べ兵連の活動にも参加した真継伸彦の著書「青空」に登場する「万里小路君」は秦がモデルとされていると、法制史研究者の蘆田東一が「秦政明さんを偲ぶ」で書いている)。蘆田によると、秦は日本共産党が毛沢東思想に準じて作った山村工作隊の一員として、「吹田事件」を主導したという。この事件の後、秦は在日朝鮮人宅に匿われるなど、しばらく逃亡生活を続けたという。 その傍ら歌ごえ運動に没頭し(その頃からの知人に田川律がいる)、28歳で卒業後の1958年大阪労音に入社。
寺西 忠幸(てらにし ただゆき、1929年3月1日 - 20… 寺西 忠幸(てらにし ただゆき、1929年3月1日 - 2025年11月10日)は、日本の実業家。キリン堂の創業者。兵庫県出身。 1951年に大阪大学薬学部を卒業し、同年10月に京阪薬品工業に入社。1952年3月に専務を経て、1958年3月にキリン堂を設立し、社長に就任。2003年9月には会長に就任し、2015年4月までに務めた。 2018年4月に旭日小綬章を受章。 2025年11月10日、死去。96歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
五十嵐 力(いがらし つとむ、1929年2月9日 - 200… 五十嵐 力(いがらし つとむ、1929年2月9日 - 2005年9月17日)は、日本の経営者。栗本鐵工所社長、会長を務めた。 高知県室戸市出身。1951年に大阪大学工学部機械工学科を卒業し、同年4月に栗本鐵工所に入社した。1979年6月に取締役に就任し、1981年6月には社長に昇格した。1994年6月に会長に就任し、1999年4月に取締相談役を経て、2001年6月から相談役を務めた。 1996年4月に藍綬褒章を受章した。 2005年9月17日、肺炎のために死去。76歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
森 禮次郎(もり れいじろう、1928年11月23日- 20… 森 禮次郎(もり れいじろう、1928年11月23日- 2017年4月11日 )は、日本の経営者。住友金属工業会長、三菱住友シリコン社長を務めた。 大阪府出身。1951年に大阪大学工学部機械工学科を卒業し、同年に住友金属工業に入社した。1981年6月に取締役に就任し、1984年6月に常務、1988年6月に専務を経て、1989年6月に副社長に就任し、1998年10月には会長に昇格した。2001年6月から相談役を務めた。 1994年4月に藍綬褒章を受章。 2017年4月11日、死去。88歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
久木田 稔(くきた みのる、1928年3月22日 - 198… 久木田 稔(くきた みのる、1928年3月22日 - 1988年6月12日)は、日本の経営者。鹿児島県出身。 1951年に大阪大学法学部を卒業し、同年に宝酒造に入社。1965年5月に取締役に就任し、1970年5月に常務、1975年5月に専務を経て、1977年6月に副社長に就任し、1984年6月には社長に昇格。 1988年6月12日脳腫瘍のために社長在任時に死去。60歳没。
西川 禮二(にしかわ れいじ、1928年1月20日 - 20… 西川 禮二(にしかわ れいじ、1928年1月20日 - 2021年10月20日)は、日本の経営者。三菱ガス化学社長を務めた。大阪府出身。 1951年に大阪大学理学部理化学科を卒業し、同年に三菱江戸川化学(のちの三菱ガス化学)に入社。1979年6月に取締役に就任し、1984年6月に常務、1987年6月に専務を経て、1988年6月に社長に就任。1995年6月には会長に就任し、2001年6月には相談役に退いた。 1994年11月に藍綬褒章を受章し、2006年4月には旭日中綬章を受章。 2021年10月20日死去。93歳没。
12代 下村 正太郎(しもむら しょうたろう、1927年(昭… 12代 下村 正太郎(しもむら しょうたろう、1927年(昭和2年)11月20日 - 2007年(平成19年)5月13日)は、日本の実業家。大丸社長・会長。 京都府出身。大丸の創業家12代目当主。府立一中を経て、大阪大学経済学部を卒業。 1951年、大丸の主力行である三菱銀行に入行。ニューヨーク支店などに勤務。1965年に大丸に転じ、取締役となり、常務、専務を経て、1984年に社長に就いた。 梅田店出店のため、社長就任直前の1984年2月期に大丸は赤字決算に転落した。しかし、就任直後の1984年上半期(3~8月)の売上高は前年同期の7%増となった。このまま業績を回復軌道に乗せるため、1万人の労使あげて、サービス向上の「スクラム10,000運動」を始めた。
山本 昭(やまもと あきら、1927年4月27日 - 201… 山本 昭(やまもと あきら、1927年4月27日 - 2015年8月8日 )は、日本の経営者。紀陽銀行頭取を務めた。 和歌山県出身。1953年に大阪大学法学部法学科を卒業し、同年に紀陽銀行に入行した。1971年5月に取締役に就任し、1979年6月に常務、1981年4月に専務を経て、1984年5月に副頭取に就任し、1985年6月には頭取に昇格した。1990年6月から1994年6月までに会長を務めた。 2015年8月8日、急性心筋梗塞のために死去。88歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
河内山 重高(こうちやま しげたか、1927年2月10日 -… 河内山 重高(こうちやま しげたか、1927年2月10日 - 2013年8月8日)は、日本の経営者。山陽放送社長を務めた。 山口県出身。1950年に大阪大学工学部通信工学科を卒業。日本放送協会での勤務を経て、1953年6月に山陽放送に転じ、1968年5月に取締役、1974年に常務、1979年に専務を経て、1981年6月には社長に就任。1996年1月に会長に就任し、同年6月に相談役を経て、1997年4月に顧問に就任。 1994年4月に藍綬褒章を受章し、2000年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2013年8月8日、心不全のために死去。86歳没
板倉 周二(いたくら しゅうじ、大正15年(1926年)4月… 板倉 周二(いたくら しゅうじ、大正15年(1926年)4月23日 - )は日本の実業家。鳥取缶詰代表取締役会長。境港商工会議所参与。元永瀬石油監査役。 岳父は元鳥取缶詰代表取締役会長の板倉乾。長男は鳥取缶詰代表取締役社長の板倉良多。 昭和19年(1944年)大阪陸軍幼年学校卒業。昭和20年(1945年)陸軍航空士官学校廃止により中退。昭和22年(1947年)松江高等学校理科甲類卒業。昭和25年(1950年)大阪大学工学部発酵工学科卒業。 昭和26年(1951年)鳥取缶詰勤務。昭和30年(1955年)同社常務取締役に就任。昭和56年(1981年)同社代表取締役社長に就任。 趣味は読書。座右の銘は分相応。
大庭 浩(おおば ひろし、1925年12月6日 - 2003… 大庭 浩(おおば ひろし、1925年12月6日 - 2003年12月24日)は、日本の実業家、工学博士。川崎重工業社長、会長を務めた。 静岡県掛川市出身。1948年に大阪大学工学部を卒業し、同年に川崎重工業に入社した。1980年6月に取締役に就任し、1983年6月に常務、1985年6月に専務を経て、1986年6月に副社長に就任し、1987年6月には社長に昇格した。在任中は、工場の統廃合や品質保証運動をなどを進めていくことで、経営基盤を再建し、創業100周年の年である1996年には売上高1兆円を達成した。1996年6月には会長も兼任し、1997年6月に会長に専任し、2000年6月に相談役名誉会長を経て、2001年6月には相談役に就任。
植田 義明(うえだ よしあき、1925年10月26日 - )… 植田 義明(うえだ よしあき、1925年10月26日 - )は、日本の経営者。上新電機社長を務めた。奈良県出身。 1948年に大阪大学工学部通信工学科を卒業し、日本電信電話公社に入社した。 近畿電気通信局長などを経て、1979年7月に理事に就任し、1984年4月に日本電通建設副社長などを歴任し、1993年6月には上新電機社長に就任。1998年6月に会長、2000年6月に取締役相談役を経て、2001年6月に特別顧問に就任。 1995年11月に勲三等瑞宝章を受章。
樋口 俊夫(ひぐち としお、1925年 - 2022年4月1… 樋口 俊夫(ひぐち としお、1925年 - 2022年4月11日)は、大阪府出身の薬局経営者。ヒグチ産業創業者、元社長、元会長。 旧制四條畷中学(現大阪府立四條畷高等学校)、大阪薬学専門学校(現大阪大学医学部)卒。1945年陸軍軍医学校を経て、戦後、国立兵庫病院勤務。1947年、大阪市京橋にて、「ヒグチ薬局店」を開業。その後1954年にヒグチ産業の前身となる「京浜薬局」を立ち上げ、「薬ヒグチ」の全国チェーン展開を進めるようになる。 樋口は、この「薬ヒグチ」の全国チェーン展開を「目標!!427店」と掲げる。創業当時の日本には42700件もの薬局があり、その1%に相当する427店を目指して本部と各地の薬局とのフランチャイズ契約を結ぶことによって全国展開を進めた。
小林 啓次郎(こばやし けいじろう、1924年(大正13年)… 小林 啓次郎(こばやし けいじろう、1924年(大正13年)2月6日 - 2014年(平成26年)3月31日)は日本の実業家、元ダイヘン社長。大阪府出身。
中東 素男(なかひがし もとお、1924年1月16日 - 2… 中東 素男(なかひがし もとお、1924年1月16日 - 2014年 )は、日本の経営者。大阪府出身。 1941年に江田島の海軍兵学校に入学し、1949年に大阪大学工学部応用化学科を卒業し、同年に宇部興産(現:UBE)に入社。1975年11月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1988年6月に副社長に就任し、1991年6月に社長に昇格した。1995年6月に会長に就任し、1999年6月から相談役を務めた。 2001年から化学工学会会長を1年間務めた。
嘉納 芳治(かのう よしじ、1921年〈大正10年〉9月1日… 嘉納 芳治(かのう よしじ、1921年〈大正10年〉9月1日 - 没年不明)は、日本の実業家。菊正宗酒造元取締役、元監査役。 妻は九代目嘉納治郎右衛門(本嘉納家9代目当主)の五女・周子。長男はフジ・メディア・ホールディングス代表取締役会長、関西テレビ放送代表取締役会長などを務めた嘉納修治。 兵庫県出身。神戸市東灘区在住。灘の酒造家である嘉納家の一門・乾嘉納家出身。本嘉納商店(現:菊正宗酒造)取締役を務めた嘉納治朗の長男として生まれる。父・治朗は本嘉納家の親戚にあたる嘉納治郎平の四男として生まれ、嘉納百蔵の養子となり本嘉納商店に入社後、嘉納治郎右衛門の片腕として活躍した。 1944年(昭和19年)大阪帝国大学工学部醗酵工学科を卒業後、菊正宗酒造に入社。
佐治 敬三(さじ けいぞう、1919年 <大正8年> 11月… 佐治 敬三(さじ けいぞう、1919年 <大正8年> 11月1日 - 1999年 <平成11年> 11月3日)は、日本の実業家。サントリー第2代社長、元会長。基礎科学研究を熱心にサポートした実業家としても知られる。位階は正三位。 1919年(大正8年)11月1日、サントリー創業者の鳥井信治郎の次男として大阪府大阪市東区住吉町(現:中央区松屋町住吉)に生まれる。 1932年(昭和7年)頃に母方の縁者と養子縁組をして「佐治」姓となったが、そのまま大阪の実父母のもとで暮らした。 1940年に、実兄が死去。 大阪府池田師範学校附属小学校、旧制浪速高等学校卒業。 1942年4月、大阪帝国大学理学部化学科卒業。
嶋井 澄(しまい きよし、1917年(大正6年)10月26日… 嶋井 澄(しまい きよし、1917年(大正6年)10月26日 - 2013年(平成25年)1月13日)は日本の実業家、元日立物流社長。山口県出身。
徐 寅洪(ソ・イノン、朝鮮語: 서인홍、1917年9月25日… 徐 寅洪(ソ・イノン、朝鮮語: 서인홍、1917年9月25日 - 2009年5月26日)は、大韓民国の実業家、政治家。第3代韓国国会議員。本貫は達城徐氏、号は鳳谷(ポンゴク、봉곡)。 日本統治時代の慶尚南道晋州郡(現・晋州市)出身。裕福な家庭の出身で、大阪高等学校、大阪帝国大学(現・大阪大学)工学部応用化学科卒。日本鋼管(現・JFEエンジニアリング)技師、米軍政庁慶尚南道商工二局勤務、釜山水産大学講師、朝鮮製油工場長・理事長、朝鮮化学工業創業者、南鮮化学工業社長、朝鮮汽船副社長、大韓石油公社理事、韓国化学工業会社社長、湖南精油理事・監事、韓日開発社長、第一船舶社長などを務めた。1954年の第3代総選挙では晋州市選挙区から無所属で当選したが、その後は自由党に入党した。
中山 育雄(なかやま いくお、1916年9月24日 - 19… 中山 育雄(なかやま いくお、1916年9月24日 - 1986年7月10日)は、日本の経営者。中山製鋼所社長、会長を務めた。福岡県出身。 1937年に神戸高等商業学校を経て、1940年に大阪帝国大学工学部冶金学科を卒業し、同年に中山製鋼所に入社。1945年6月に取締役に就任し、同年12月には社長に昇格。1973年11月から1975年5月までに会長を務めた。 1973年11月に藍綬褒章を受章。 1986年7月10日肺炎のために死去。69歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
三田 周(みた いたる、1915年11月26日 - 1994… 三田 周(みた いたる、1915年11月26日 - 1994年12月12日)は、日本の経営者、理学博士。参天製薬社長を務めた。兵庫県出身。 1938年に大阪帝国大学理学部化学科を卒業し、1944年に母校の大阪大学で助教授を務め、1946年に参天製薬に入社。1970年12月に副社長に就任し、1983年7月には社長に昇格。1990年10月に会長に就任。 1994年12月12日心不全のために死去。79歳没。
高橋 孝吉(たかはし こうきち、1915年9月20日 - 1… 高橋 孝吉(たかはし こうきち、1915年9月20日 - 1987年1月24日)は、日本の実業家、工学博士。神戸製鋼所社長、会長を務めた。兵庫県神戸市出身。 1915年9月20日熊本県で生まれる。1938年に大阪帝国大学理学部を卒業し、同年に神戸製鋼所に入社した。1966年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1977年10月から社長に就任した。1983年6月から会長に就任した。 日本溶接棒工業会、日本伸銅協会、日本産業用ロボット工業会、軽金属溶接構造協会の各会長、中東協力センター、造水促進センターの各理事長なども歴任した。 1977年11月に藍綬褒章を受章し、1985年に製鉄功労賞を受章した。
新田 長夫(にった たけお、1914年〈大正3年〉12月9日… 新田 長夫(にった たけお、1914年〈大正3年〉12月9日 - 2005年〈平成17年〉3月5日)は、日本の実業家。ニッタ社長。大阪ゴム工業会相談役。ニッタ創業者新田長次郎の孫。ニッタ会長・新田長彦の父。 大阪府大阪市出身。新田長三の長男。1939年に大阪帝国大学工学部応用化学科を卒業、新田帯革製造所に入社した。1945年に新田ベルト、新田ゴム工業各取締役に選ばれ、ついで新田ゴム工業社長に就任。芦原自動車教習所取締役をつとめる。 住所は大阪市浪速区芦原町、堺市出島海岸通2丁目、兵庫県西宮市上甲東園1丁目・2丁目。宗教は真言宗。趣味は写真、水泳、ゴルフ。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
金 正植(キム・ジョンシク、朝鮮語: 김정식、1914年また… 金 正植(キム・ジョンシク、朝鮮語: 김정식、1914年または1915年 - 1989年11月26日)は、大韓民国のジャーナリスト、実業家、政治家。第2代韓国国会議員。本貫は清道金氏(朝鮮語版)。 日本統治時代の慶尚北道栄州郡出身。大阪薬学校(現・大阪大学大学院薬学研究科・薬学部)卒。日本で製薬業を営んだほか、新聞記者を3年間務め、楽貴歌劇団の経営も行った。光復後は大同青年団・韓国青年会会長、大韓青年団栄州郡団長、博愛園園長、議会新聞社社長、厚生会理事長を歴任した。1948年の初代総選挙では栄州郡選挙区から無所属で出馬したが落選し、1950年の第2代総選挙では大韓青年団の候補として当選した。国会議員時代は国会文教委員を務め、共和民政会所属で活動したが、議員非行糾弾事件により朴順天、尹吉重らと共に離党した。
水野 健次郎(みずの けんじろう、1913年〈大正2年〉10… 水野 健次郎(みずの けんじろう、1913年〈大正2年〉10月7日 - 1999年〈平成11年〉4月15日 )は、日本の実業家。ミズノ社長・会長を務めた。父はミズノ創業者の水野利八(次男)。長男はミズノ会長の水野正人、次男はミズノ社長の水野明人。位階は正五位。 大阪府大阪市出身。1936年に大阪帝国大学理学部化学科を卒業。大日日本電線での勤務を経て、1942年5月に美津濃取締役に就任。1947年に副社長に就任し、1969年には社長に昇格した。社長在任時には、1969年にアメリカに現地法人を設立するなど、ミズノを世界有数のスポーツ用品メーカーに育て上げた。1988年に会長に就任。 1972年から1994年までに関西経済同友会幹事を務めた。
杉山 正一(すぎやま まさかず、1912年10月23日 - … 杉山 正一(すぎやま まさかず、1912年10月23日 - 1976年12月17日)は、日本の実業家。荏原製作所社長を務めた。 和歌山県出身。1935年に大阪帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に荏原製作所に入社。 1962年12月に取締役に就任し、1970年12月に常務、1973年3月に専務を経て、1976年4月には社長に就任。 1976年12月17日、急性肝不全のために死去。64歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
内藤 雅喜(ないとう まさよし、1911年(明治44年)11… 内藤 雅喜(ないとう まさよし、1911年(明治44年)11月15日 - 1988年(昭和63年)12月3日)は、昭和時代の日本の経営者 、実業家。 内藤節爾・タケの長男として東京に生まれる。1934年(昭和9年)大阪帝国大学機械工学科卒。現・三井化学の前身である東洋高圧工業に入社。東洋高圧工業化工事業開発室長を経て、1961年(昭和36年)東洋エンジニアリング設立とともに専務となる。1965年(昭和40年)同社副社長、1968年(昭和43年)社長、1982年(昭和57年)会長に就任。1987年(昭和62年)6月相談役となる。尿素を原料とした肥料プラントの輸出振興に努め同社の経営基盤を築いた。身障者への奉仕活動に尽力する。
内藤 正之(ないとう せいし、1910年 <明治43年> 8… 内藤 正之(ないとう せいし、1910年 <明治43年> 8月18日 - 1996年 <平成8年> 10月31日)は、日本の経営者。日立電線社長を務めた。位階は従四位。 岡山県出身。1935年に大阪帝国大学工学部電気工学科を卒業し、同年4月に日立製作所に入社。1956年10月に日立電線に転じ、1961年5月に取締役に就任し、1965年5月に常務、1968年11月に専務を経て、1970年5月に副社長に就任し、1971年11月には社長に昇格。1979年6月に会長を経て、1983年6月から相談役を務めた。 1981年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1996年10月31日呼吸不全のために死去。86歳没。
岡 藤次郎(おか とうじろう、1908年7月9日 - 199… 岡 藤次郎(おか とうじろう、1908年7月9日 - 1996年9月22日)は、日本の経営者。三菱油化(現・三菱ケミカル)社長を務めた。三重県出身。 1933年に大阪帝国大学工学部応用化学科を卒業し、同年に大阪市立工業研究所に入所。翌年に三菱化成に移り、1956年に三菱油化に移った。翌年に取締役に就任し、1969年に社長に昇格した。1972年から相談役を務めた。 1996年9月22日心筋梗塞のために死亡。88歳没。墓所は神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園。
岡林 次男(おかばやし つぐお、1907年1月1日 - 19… 岡林 次男(おかばやし つぐお、1907年1月1日 - 1982年10月23日)は、日本の経営者、工学博士。高知県出身。 1935年に大阪帝国大学工学部機械学科を卒業し、同年にクラレに入社。1959年11月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1971年5月に副社長に就任し、1975年5月に社長に昇格した。 1972年1月に学位を取得した。 1982年10月23日腎不全のために死去。75歳没。
伊瀬 芳吉(いせ よしきち、1905年 <明治38年> 10… 伊瀬 芳吉(いせ よしきち、1905年 <明治38年> 10月8日 - 2000年 <平成12年> 12月22日)は、日本の実業家。元ダイハツ工業社長。位階は従四位。 香川県三豊郡観音寺町(現 観音寺市伊吹町)出身。旧制香川県立三豊中学校、大阪高等工業学校機械科(現 大阪大学工学部)卒業。 三豊中学在学中は、伊吹島を出て下宿先から通った。家が貧しかったので学費を稼ぐために、下宿先の手伝いをしながら勉学に励んだ。数学と理科が得意だったこともあり、先生の薦めもあって大阪高等工業学校に進学する。 1926年(昭和元年)大阪高等工業学校卒業後、日本生命保険に就職。入社後、間もなく応召され入隊。その1年後に除隊となり、22歳の時、發動機製造に入社。
塩塚 忠美(しおづか ただみ、1904年(明治37年)2月8… 塩塚 忠美(しおづか ただみ、1904年(明治37年)2月8日 - 没年不詳)は、日本の実業家。ニチボー第8代社長、ユニチカ第2代会長。 長崎県出身。1926年(大正15年)大阪高等工業学校機械科(現大阪大学)を卒業し、大日本紡績入社。1956年(昭和31年)取締役。1959年(昭和34年)常務取締役。 ブラジル現地の事情に精通していた原乙彦らによって大日本紡績のブラジル進出の準備が進められていた中、1960年8月9日、工場建設の先遣隊として、塩塚(常務)は、市居誠一(ニチボーブラジル初代社長)らと現地に向かった。ちょうどこの年の10月、第3回世界バレーボール大会(女子)がブラジルで開催され、日本代表チーム(東洋の魔女が主力メンバー)のコーチとなった大松博文と選手たちが、アメリカーナ (英語) に先遣隊を訪ね、互いに励ましあった。
森崎 晟(もりさき あきら、1900年<明治33年> 2月2… 森崎 晟(もりさき あきら、1900年<明治33年> 2月26日 - 1980年 <昭和55年> 10月10日)は、日本の経営者。中山製鋼所社長、会長を務めた。位階は従四位。 兵庫県出身。1932年に旧制大阪工業大学冶金学科を卒業し、同年6月に中山製鋼所に入社した。 1943年12月に取締役、1945年12月に常務、1949年4月に専務、1972年5月に副社長を経て、1973年6月には社長に就任。1976年6月には会長に就任。 1977年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1980年10月10日、糖尿病腎症のために死去。80歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
姜 己文(カン・ギムン、朝鮮語: 강기문、1899年または1… 姜 己文(カン・ギムン、朝鮮語: 강기문、1899年または1910年1月22日 - 没年不詳)は、大韓民国の実業家、政治家。制憲韓国国会議員。 慶尚南道山清郡出身。旧制浪速中学校(現・浪速高等学校・中学校)卒、大阪大学商学部卒業または中退。大阪で硝子販売業を営んだ後、帰国しソウル南山洞に姜己文商店を設立し硝子販売および貿易業を経営した。その後、大韓建設工業会社社長、株式会社姜己文商店社長を務め、1948年の初代総選挙で当選した後は国会財政経済第1分科委員を務めた。朝鮮戦争の際、身を隠していたところ北朝鮮に拉致され以後消息不明。弟により失郷私民申告書が提出された。
生悦住 貞太郎(いけずみ ていたろう、1898年(明治31年… 生悦住 貞太郎(いけずみ ていたろう、1898年(明治31年)12月28日 – 1984年(昭和59年)4月25日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)、ダイジェット工業社長、同会長。 奈良県宇陀郡三本松村(室生村を経て現宇陀市)で生まれる。生悦住安蔵の長男。1914年(大正3年)三本松村大野尋常高等小学校を卒業し、隣家、田畑商店の年季奉公人となり醤油の行商に従事した。1919年(大正8年)家出して大阪に移り石堂鋼商会で働く。大阪高等工業学校(現大阪大学工学部)採鉱冶金科の夜学で学び、1923年(大正12年)に卒業した。 1924年(大正13年)米子製鋼所に入社。1928年(昭和3年)独立して三重県飯南郡松阪町(現松阪市)で生悦住鋼商会を開業。
田中 繁松(たなか しげまつ、1898年〈明治31年〉3月1… 田中 繁松(たなか しげまつ、1898年〈明治31年〉3月13日 - 1976年〈昭和51年〉2月26日)は、日本の経営者。三井造船社長を務めた。位階は正四位。 大阪府岸和田市出身。1918年に大阪高等工業学校造船学科を卒業し、同年に三井物産に入社。1942年1月に三井造船に転じ、1946年5月に取締役、同年11月に常務、1947年5月に専務を経て、1958年5月に副社長に就任し、1960年5月には社長に昇格。1970年5月に取締役相談役を経て、1972年5月には相談役に就任。 1968年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1976年2月26日脳血栓のために死去。77歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
江口 孝(えぐち たかし、1898年 <明治31年> 1月1… 江口 孝(えぐち たかし、1898年 <明治31年> 1月1日 - 1985年 <昭和60年> 3月14日)は、日本の経営者、理学博士。福岡県出身。位階は従四位。 1920年に大阪高等工業学校応用化学科を卒業。1929年に海軍技師を経て、1944年に人道石油取締役に就任し、1951年に日本瓦斯化学工業専務を経て、1959年5月に副社長に就任し、1966年11月には社長に昇格した。1968年11月から相談役を務めた。 1962年11月に紫綬褒章を受章し、1968年に勲三等瑞宝章を受章。 1985年3月14日腎不全のために死去。87歳没。死没日付をもって従五位から従四位に進階した。