江頭 郁夫(えがしら いくお、1931年2月11日 - 20… 江頭 郁夫(えがしら いくお、1931年2月11日 - 2014年4月26日)は、日本の経営者。日動火災海上保険(現在の東京海上日動火災保険)社長を務めた。 熊本県出身。1951年に長崎経済専門学校を卒業し、同年に日動火災海上保険に入社。1972年6月に取締役に就任し、1973年6月に常務、1977年6月に専務、1982年2月に副社長を経て、1988年6月には社長に就任。1995年6月から2001年6月までに会長に就任。 2014年4月26日に心不全のために死去。83歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
田﨑 俊作(たさき しゅんさく、1929年2月18日 - 2… 田﨑 俊作(たさき しゅんさく、1929年2月18日 - 2011年4月26日)は、株式会社TASAKI創業者。日本真珠振興会会長、神戸ファッション協会会長などを務めた。長崎県出身。 長崎県大村市で、男5人、女4人の9人兄弟の二男として生まれる。家業は真珠養殖業。 海軍兵学校(77期)在学中に敗戦。その後、長崎経済専門学校(現:長崎大学経済学部)を卒業し、父・甚作が神戸の真珠を取り扱う会社で番頭をしていたこともあり、神戸へ行く。 1956年に田崎真珠商会(後の株式会社TASAKI)を設立し、1970年代に真珠の量産に成功した。真珠の養殖・加工・販売を自社で行い、国内真珠最大手の会社に育てた。1975年には、重度身体障害者の自立のため、長崎県大村市に社会福祉法人大村パールハイムを設立した。
田﨑 俊作(たさき しゅんさく、1929年2月18日 - 2… 田﨑 俊作(たさき しゅんさく、1929年2月18日 - 2011年4月26日)は、田崎真珠創業者。日本真珠振興会会長、神戸ファッション協会会長などを務めた。長崎県出身。
下村 脩(しもむら おさむ、1928年(昭和3年)8月27日… 下村 脩(しもむら おさむ、1928年(昭和3年)8月27日 - 2018年(平成30年)10月19日)は、生物学者(有機化学・海洋生物学)。 学位は理学博士(名古屋大学、1960年)。位階は従三位。ボストン大学名誉教授、ウッズホール海洋生物学研究所特別上席研究員、名古屋大学特別教授。 有機化学・海洋生物学を専門とする生物学者、中でも生物発光研究の先駆者であり第一人者。旧制長崎医科大学、名古屋大学、プリンストン大学、ボストン大学、ウッズホール海洋生物学研究所などに在籍し、発光生物についての研究を継続。その中の一つ、オワンクラゲの緑色蛍光タンパク質の発見は、その後生命科学、医学研究用の重要なツールに発展して2008年(平成20年)のノーベル化学賞受賞に結びついた。
土井 定包(どい さだかね、1928年7月27日 - 200… 土井 定包(どい さだかね、1928年7月27日 - 2009年4月14日)は、日本の実業家。佐賀県生まれ。元大和証券社長・会長。大和証券を業界2位に押し上げ「中興の祖」と評されるが、総会屋への利益供与事件によって1997年に退任、顧問に退いた。
土山 秀夫(つちやま ひでお、1925年(大正14年)4月2… 土山 秀夫(つちやま ひでお、1925年(大正14年)4月23日 - 2017年(平成29年)9月2日)は、日本の病理学者、医師。長崎大学名誉教授、長崎平和宣言文起草委員、核兵器廃絶ナガサキ市民会議代表、「核兵器廃絶―地球市民長崎集会」実行委員会顧問、長崎県九条の会共同代表ほか。元長崎大学学長。世界平和アピール七人委員会委員。 1925年(大正14年)4月23日、長崎県長崎市に生まれる。1943年(昭和18年)、長崎県立長崎中学校を卒業。1945年(昭和20年)8月9日、午前中は長崎を離れていたが、夕方に長崎に戻ったため、被爆。1952年(昭和27年)、長崎医科大学(現長崎大学医学部)を卒業。その後、長崎大学医学部助手、講師、助教授を務める。
田中 範隆(たなか のりたか、1924年(大正13年)3月2… 田中 範隆(たなか のりたか、1924年(大正13年)3月21日 - )は、日本の政治家。元福岡県筑紫野市長(2期)。 福岡県出身。1945年、長崎高等商業学校(現・長崎大学経済学部)卒。卒業後は田中油糧工業に入り、専務を経て、社長となる。また、筑紫野市商工会議所会頭も務めた。筑紫野市議会議員を経て、1995年、筑紫野市長に初当選。1999年は無投票で再選。2003年に元筑紫野市議の平原四郎に敗れた。
朴 璟遠(パク・キョンウォン、朝鮮語: 박경원、1923年1… 朴 璟遠(パク・キョンウォン、朝鮮語: 박경원、1923年1月3日 - 2008年2月20日)は、大韓民国の政治家。第10代大韓民国国会議員。元内務部長官(3回)、第19代逓信部長官、第17代交通部長官。統一主体国民会議事務総長。 本貫は密陽朴氏。号は蓮牛(ヨヌ、연우)。カトリック教徒。 日本統治時代の全羅南道霊光郡に生まれた。木浦商業高等学校(現・木商高等学校(朝鮮語版))、長崎高等商業学校卒業。学徒出陣して日本軍少尉。千葉陸軍高射学校卒業。1946年6月12日付で軍事英語学校を卒業して任少尉(軍番10106番)。1960年に檀国大学校法律学科を卒業し、翌年に国防大学院を修了した。韓国陸軍入隊後は少将・中将を務めた。
谷口 是巨(たにぐち よしのり、1922年(大正11年)2月… 谷口 是巨(たにぐち よしのり、1922年(大正11年)2月2日 - 2010年(平成22年)12月25日)は、日本の政治家。公明党衆議院議員(2期)。 長崎県出身。1942年(昭和17年)長崎医大附属薬学専門部(現長崎大学薬学部)卒。薬剤師免許を取得。同年、徴兵され陸軍西部第47部隊に入隊し、1946年(昭和21年)に復員。 1947年(昭和22年)から長崎市立西浦上中学校教員を務めた。1963年(昭和38年)長崎県議会議員に当選し3期在任。1974年(昭和49年)の第10回参議院議員通常選挙で長崎県地方区から公明党公認で立候補して落選。1976年の第34回衆議院議員総選挙で長崎1区から公明党公認で立候補して初当選し、連続2期務めた。
村山 利雄(むらやま としお、1920年9月23日 - 20… 村山 利雄(むらやま としお、1920年9月23日 - 2020年9月24日)は、日本の経営者。日立造船社長を務めた。宮崎県都城市出身。 1941年に長崎高等商業学校を卒業し、同年に日立造船に入社。1975年5月に取締役に就任し、1977年6月に常務を経て、1979年6月に副社長に就任し、1983年6月から1988年6月までに社長を務めた。 2020年9月24日急性肺炎のために死去。100歳没。
鄭 煕燮(チョン・ヒソプ、朝鮮語: 정희섭、1920年2月1… 鄭 煕燮(チョン・ヒソプ、朝鮮語: 정희섭、1920年2月1日 - 1987年10月26日)は、大韓民国の官僚、医師、政治家、陸軍軍人。初代労働庁(現・雇用労働部)長、第9・12代保健社会部(現・保健福祉部)長官、第9・10代韓国国会議員などを歴任した。キリスト教徒。 日本統治時代の平安南道平原郡(現・朝鮮民主主義人民共和国領)出身。崇実中学校、平壌医学専門学校(現・平壌医科大学)卒業。1943年に卒業後は医師となり、中国の河南省、浙江省の病院に勤務した。開封の河南医院勤務中に韓国光復軍徴募第3分処と内通し、徴募などの地下活動に協力していた。光復後に帰国し、ソウルで開業医として活動した。 1954年、長崎医科大学(現・長崎大学)で医学博士学位を取得した。
佐藤 助雄(さとう すけお、1919年(大正8年)4月22日… 佐藤 助雄(さとう すけお、1919年(大正8年)4月22日 - 1987年(昭和62年)10月19日)は、日本の彫刻家。山形県山形市出身。 初め木彫り彫刻を志し、後にブロンズ像に転向した。おおらかで詩的な人物像を得意とした。 長男は日本画家の佐藤良助。次男は彫刻家で長崎大学名誉教授の佐藤敬助。 1919年(大正8年)4月22日、仏師の父親の息子として山形県山形市に生まれる。父に木彫りを学んだ後、1936年(昭和11年)上京し木彫り彫刻家後藤良の内弟子となる。 1939年(昭和14年)、日本美術協会展出品作「ことり」が銅賞受賞。1941年(昭和16年)、第4回新文展出品作「後庭菜果」が初入選。1943年(昭和18年)、第6回新文展で「従軍看護婦」が特選受賞、政府買い上げ。
篠原 康次郎(しのはら こうじろう、1918年2月17日- … 篠原 康次郎(しのはら こうじろう、1918年2月17日- 2018年2月7日)は、日本の実業家。広島相互銀行頭取や広島総合銀行会長を務めた。藍綬褒章受章、オーストリア共和国有功大栄誉報賞受賞、広島経済大学名誉博士。 福岡県福岡市出身。福岡商業学校(現福岡市立福翔高等学校)、長崎高等商業学校を経て、1941年12月に旧制東京商科大学(現一橋大学)を卒業し、1942年1月日本銀行に入行。短期現役海軍主計科士官(12期)を志願。1944年9月、海軍経理学校に入学し1945年(昭和20年)に卒業。同年6月、海軍主計少尉に任官し、秋田県田沢湖付近の補給工場で終戦を迎える。 1945年福岡に復員し、1945年10月から1年間広島支店に配属。
椋本 伊三郎(むくもと いさぶろう、1918年 - 2002… 椋本 伊三郎(むくもと いさぶろう、1918年 - 2002年11月28日)は、日本の外交官。駐エチオピア特命全権大使や、駐ウルグアイ特命全権大使を務めた。金大中第15代大韓民国大統領の恩師。 福岡県築上郡椎田町(現築上町)生まれ。中津商業学校(現岐阜県立中津商業高等学校)を経て、1939年長崎高等商業学校(現長崎大学)本科卒業。 朝鮮総督府木浦公立商業学校教諭などを経て、1944年東京商科大学(現一橋大学)卒業。1948年九州連絡調整地方事務局小倉連調事務所長代理。 在シドニー日本国総領事館領事、在アメリカ合衆国日本国大使館一等書記官等を経て、1964年外務省欧亜局中近東アフリカ部中近東課長。
西元 文平(にしもと ぶんぺい、1917年8月28日 - 2… 西元 文平(にしもと ぶんぺい、1917年8月28日 - 2008年2月29日)は、日本の経営者。日立建機社長、会長、相談役、名誉相談役を歴任。 鹿児島県鹿児島市下竜尾町出身。兵庫県神戸市で生まれ、小学2年生の時に故郷鹿児島へ移る。鹿児島市立大龍小学校、鹿児島商業学校(現鹿児島商業高等学校)を経て、1935年に長崎高等商業学校(現長崎大学経済学部)へ進学し、1938年に卒業。 1938年、日立製作所に入社し、日立工場勤務。経理部長を経て、1969年に日立建機取締役となる。1970年11月に日立建機常務に就任し、1979年6月に専務を経て、1981年6月に社長に就任。1987年6月に会長に就任し、1991年6月に相談役を経て、1997年6月から名誉相談役を務めた。
島尾 敏雄(しまお としお、1917年(大正6年)4月18日… 島尾 敏雄(しまお としお、1917年(大正6年)4月18日 - 1986年(昭和61年)11月12日)は、日本の小説家。日本芸術院会員。 大学卒業後に海軍予備学生に志願し第十八震洋特攻隊隊長として、奄美群島加計呂麻島に赴任。1945年8月13日に特攻戦が発動され、出撃命令を受けたが発進の号令を受けぬまま即時待機のうちに終戦を迎えた経験を持つ。「ヤポネシア」という概念を考案したことでも知られる。 作品は超現実主義的な『夢の中での日常』などの、戦争中の体験を描いた作品群、『出発は遂に訪れず』などの作品群、さらに家庭生活を描いた『死の棘』などの作品群に大別される。また、小説作品との決定的な差異はないとされる日記や、紀行文など記録性の高いテキスト群や南島論なども多く書き続けた。
石田 正(いしだ ただし、1917年 <大正6年> 3月24… 石田 正(いしだ ただし、1917年 <大正6年> 3月24日 - 1996年 <平成8年> 1月4日)は、日本の経営者。グンゼ社長、会長を務めた。位階は従四位。 岡山県出身。1938年に長崎高等商業学校を卒業し、同年に朝鮮銀行に入行。 1945年に郡是製絲(のちのグンゼ)に転じ、1967年に取締役に就任し、1969年に常務、1975年に専務を経て、1979年2月には社長に就任。1985年2月に会長を経て、1988年6月には相談役に就任。 1983年4月に藍綬褒章を受章し、1988年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1996年1月4日肝不全のために死去。78歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
中原 呉郎(なかはら ごろう、1916年〈大正5年〉7月31… 中原 呉郎(なかはら ごろう、1916年〈大正5年〉7月31日 - 1975年〈昭和50年〉6月12日)は、日本の医師。詩人の中原中也は兄で、弟に伊藤拾郎がいる。山口県吉敷郡(現:山口市)出身。 中原謙助、フクの六人兄弟の五男として生まれる。 1924年頃、弟の拾郎にハーモニカを教える。 1938年3月に山口高等学校を卒業して、4月に長崎医科大学に入学した。 1942年1月13日、医師免許証を取得し、同月20日に短期現役軍医として入隊する。 1946年、中原医院の事務員となる。 1955年には国立療養所多磨全生園厚生技官となる。 1959年に整形外科医長に就任した。はにかに屋で大酒飲みだったが、深酒した翌日も絶対に休診することはなかったとされる。
隈 治人(くま はると、1915年12月8日 - 1990年… 隈 治人(くま はると、1915年12月8日 - 1990年11月23日)は、長崎県出身の俳人。戦災の悲劇を句作の原点とした。 長崎市生。長崎医科大学附属薬学専門部(現長崎大学薬学部)卒。1951年、「かびれ」に入会し大竹孤悠に師事。1954年、長崎原爆忌俳句大会を創設。1959年、長崎新聞俳壇選者。1962年、金子兜太らと「海程」を創刊・同人。1965年、第12回現代俳句協会賞受賞。1971年「土曜」創刊・主宰。1990年、長崎新聞文化章。同年11月23日死去、74歳。1992年、「土曜」会員有志より「雲が首灼く浦上 花をもっと蒔こう」句碑が長崎平和公園周辺に建てられている。
山田 勝次(やまだ かつじ、1915年1月4日 - 1989… 山田 勝次(やまだ かつじ、1915年1月4日 - 1989年7月18日)は、日本の実業家。東陶機器(現TOTO)社長や、同社取締役会長を務めた。正四位勲二等瑞宝章。 1936年長崎高等商業学校(現長崎大学)卒業、東洋陶器入社。1959年取締役昇格。1961年常務取締役。1973年専務取締役。1975年取締役副社長。1979年から取締役社長を務め、営業、開発、製造の連携を進めるなどした。1985年取締役会長。1986年勲二等瑞宝章受章。1989年相談役、正四位。性格は温厚。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
谷山 兵三(たにやま ひょうぞう、1913年1月25日 - … 谷山 兵三(たにやま ひょうぞう、1913年1月25日 - 1990年7月4日)は、日本の薬学者。長崎大学名誉教授。日本薬学会有功会員。徳島文化女子短期大学元学長。 大阪府吹田市出身。1938年に長崎医科大学附属薬学専門部卒業。大日本製薬、大阪帝国大学、京都帝国大学での研究を経て、1944年に大阪薬学専門学校(現大阪大学)講師に就任しその後、同校教授を経て大阪大学医学部助教授、近畿大学薬学部教授を歴任。1961年に長崎大学教授、1963年に同大学薬学部長に就任し1965年まで務めた。1970年に再び同大学薬学部長に就任し1972年まで務めた。 長崎大学退官後は徳島文化女子短期大学学長、大阪医療技術学園専門学校理事長、大阪生物工学専門学校(現大阪動植物海洋専門学校)名誉学長を歴任。
早瀬 鎮雄(はやせ しずお、1912年12月28日 - 19… 早瀬 鎮雄(はやせ しずお、1912年12月28日 - 1975年2月26日)は、日本の経営者。日興証券社長を務めた。愛知県名古屋市出身。 1933年に長崎高等商業学校を卒業し、同年に日興証券に入社した。 1958年11月に取締役に就任し、1961年11月に常務、1964年10月に専務、1968年8月に副社長を経て、1973年12月に社長に就任。 1975年2月26日脳出血のために在任中に死去。62歳没。
福田廣宣(ふくだ ひろのぶ、1912年1月5日 - 没年不詳… 福田廣宣(ふくだ ひろのぶ、1912年1月5日 - 没年不詳)は、日本の歌人、センテナリアン。 福岡県浮羽郡田主丸町(現:久留米市)生まれ。1932年、長崎高商(現:長崎大学経済学部)在学中に「西陵短歌」を主宰創刊すると共に、土田杏村、清水信らの「短歌建設」に参加する。卒業後、三菱鉱業株式会社(現三菱マテリアル)及び同系列会社に勤務しながら、1928年より新短歌(口語自由律短歌)を創り続ける。「新短歌」「芸術と自由」同人。 短歌新聞社から「新短歌作品賞」、「新短歌功績賞」を受賞。新短歌社から「新短歌功績賞」を受賞。 2012年に100歳を迎えたことが報告されていた。兵庫県芦屋市在住していた。
伊藤 清敏(いとう きよとし、1911年10月5日 - 20… 伊藤 清敏(いとう きよとし、1911年10月5日 - 2008年8月10日)は、日本の経営者。住友海上火災保険社長を務めた。 兵庫県出身。1933年に長崎高等商業学校を卒業し、同年に住友海上火災保険(現在の三井住友海上火災保険)に入社。1965年6月に取締役に就任し、1967年6月に常務、1970年6月に専務を経て、1972年6月に副社長に就任し、1974年1月には社長に昇格。1979年7月に会長に就任し、1982年7月には相談役に就任。 1976年10月に藍綬褒章を受章し、1982年4月に勲三等瑞宝章を受章。 2008年8月10日に胆管癌のために死去。96歳没。
永田 敬生(ながた たかお、1911年 <明治44年> 9月… 永田 敬生(ながた たかお、1911年 <明治44年> 9月1日 - 1998年 <平成10年> 2月9日)は、日本の経営者。日立造船社長、会長を務めた。位階は従三位。 熊本県出身。1933年に長崎高等商業学校を卒業し、1934年に大阪鉄工所(のちの日立造船)に入社。1962年11月に社長に就任し、1979年6月には会長に就任。1983年6月に代表取締役を経て、1986年4月から取締役相談役を務めた。日本経営者団体連盟副会長も務めた。 1998年2月9日心不全のために死去。86歳没。死没日付をもって従三位に叙された。
久保 勘一(くぼ かんいち、1910年9月25日 - 199… 久保 勘一(くぼ かんいち、1910年9月25日 - 1993年11月23日)は、日本の政治家。長崎県知事(公選第7-9代)、参議院議員(2期)。愛称は「クボカン」。元五島市長の中尾郁子は娘。 長崎県五島列島の三井楽町(現五島市)で生まれる。長崎県師範学校(現長崎大学)を卒業後、五島の農協組合長を経て長崎県議会議員に当選。1961年から1962年に同議会議長。 1962年の第6回参議院議員通常選挙に出馬し、長崎地方区で初当選。参議院文教委員長などを務め、2期目途中の1970年に長崎県知事選挙に出馬。4選をめざす佐藤勝也に挑戦し、地元生え抜きの久保と官僚出身の佐藤という構図の対決となり、自民党県連が2つに割れた。
手島 郁郎(てしま いくろう、1910年 - 1973年12… 手島 郁郎(てしま いくろう、1910年 - 1973年12月25日)は、無教会主義の流れを汲むキリスト教系宗教団体である、「キリストの幕屋」の創始者。熊本県出身。別名、手島アブラハム郁郎。 手島はイスラエルと深い交友関係を持っており、マルティン・ブーバーを訪ねたこともある。 また、聖地エルサレムへは何度も訪れている。1973年3月にはイスラエル建国25周年を祝うために、400人の団員を引き連れてヘルツルの丘を訪問した。 第三次中東戦争が勃発した際には「イスラエル救援委員会」を組織し、救援物資を持ってイスラエルへと渡った。また、第四次中東戦争が勃発した際には、手島が先頭に立って日本全国から3000人規模の人員を集め、イスラエルへの支持を唱えて東京都内を行進した。
亀谷 了(かめがい さとる、1909年7月12日- 2002… 亀谷 了(かめがい さとる、1909年7月12日- 2002年7月24日)は、日本の生物学者、医師。医学博士(長崎医科大学・論文博士・1940年)。寄生虫学の世界的権威として知られた。岐阜県出身。紫綬褒章・勲三等瑞宝章受章。 山口高等学校を経て長崎医科大学を卒業。1939年、満鉄入社。1940年、医学博士(長崎医科大学)の学位を取得。「生体内の銅について特に其系統発生学的、個体発生学的並性別的差異 」。1943年、満州国立厚生研究所留学。1945年、奉天衛生試験所勤務。1947年に帰国、日本生物科学研究所入所。1948年、目黒に内科小児科診療所を開設。1953年、私財を投じて寄生虫専門の研究機関「目黒寄生虫館」を設立した。
横山 復次(よこやま またつぐ、1908年(明治41年)10… 横山 復次(よこやま またつぐ、1908年(明治41年)10月2日 - 1990-93年(平成2-5年) )は、日本の薬学者であり教育者でもある。長崎医科大学教授(現・長崎大学医学部)を務めた後、岐阜薬科大学教授、エーザイ研究所長 。長崎医科大学時代に長崎原爆を経験した。岡山県出身。 1908年(明治43年)に岡山県に生まれる。その後、1923年(大正12年)旧制岡山県立高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)に入学、卒業を経て、1928年(昭和3年)第一高等学校理科乙類へ入学し、1931年(昭和6年)同校を卒業。同年に東京帝国大学医学部薬学科へ入学、1934年(昭和9年)3月に同大学を卒業し、助手として京都帝国大学薬学科で薬学研究を続けた。
原 仙作(はら せんさく、1908年9月14日 - 1974… 原 仙作(はら せんさく、1908年9月14日 - 1974年7月9日 )は英語教師、英文学者。旺文社にて編集顧問を務め、大学受験生向けの英語の参考書の著者として活動した。弟は画家の原覚。 長崎県諫早市出身。海星中学校を経て1931年長崎高等商業学校(現在の長崎大学経済学部)を卒業し、日本統治下の朝鮮に渡って龍山公立中学校の教諭となる。終戦直後に米軍政長官付き通訳官兼参謀二課翻訳官を務めたあと、1946年5月に日本へ引き揚げ。旺文社の主幹となり、1948年編集顧問となる。そのかたわら1950年から1956年まで開成高等学校講師、その後は千葉大学工業短期大学部、明治大学、青山学院大学、実践女子短期大学で非常勤講師を務める。
鷹野 孝徳(たかの たかのり、1907年2月15日 - 19… 鷹野 孝徳(たかの たかのり、1907年2月15日 - 1997年5月8日 )は、日本の経営者、銀行家。鹿児島銀行頭取を務めた。 山梨県甲府市出身。1928年に長崎高等商業学校を卒業し、同年に日本銀行に入行した。1959年11月に鹿児島銀行に転じ、副頭取に就任し、1960年5月には頭取に昇格した。1979年12月に会長を経て、1986年6月には相談役に就任。 1970年10月に藍綬褒章を受章し、1977年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1997年5月8日、脳梗塞のために死去。90歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
柳田 桃太郎(やなぎだ ももたろう、1907年(明治40年)… 柳田 桃太郎(やなぎだ ももたろう、1907年(明治40年)2月13日 - 2004年(平成16年)8月8日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)、門司市長。 福岡県門司市大字畑(現北九州市門司区畑)で、農業・柳田春太郎、ミチ夫妻の三男として生まれる。福岡県立小倉中学校を経て、1928年、長崎高等商業学校を卒業。 1928年、大連市の国際運輸(株)に入社。1933年、満洲国官吏に転じ、ハルビン市、国務院官需局、同興農部、同経済部で勤務し、地方行政、農林行政、鉱山行政担当の部課長を歴任した。 1946年、満洲から引揚げて、故郷で農業を営む。農業協同組合理事を経て、1949年、中央経済調査庁に入庁し、監査部の部課長を務めた。
松尾 信人(まつお のぶと 、1905年〈明治38年〉4月9… 松尾 信人(まつお のぶと 、1905年〈明治38年〉4月9日 - 1990年〈平成2年〉9月19日)は、日本の政治家。公明党衆議院議員(2期)。 長崎県長崎市生まれ。1928年(昭和3年)、長崎高等商業学校(現・長崎大学経済学部)卒業。同年、長崎税関に入った。長崎税関総務部長、離島振興対策審議会委員を務めた。1969年(昭和44年)の第32回衆議院議員総選挙で長崎1区に公明党から出馬し、初当選。以後連続2期務める。同年の選挙には立候補せずに引退した。 その他、創価学会副理事長や中央選挙管理会予備委員務めた。 1990年(平成2年)9月19日、心不全のため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。
下村 ひろし(しもむら ひろし、1904年6月16日 - 1… 下村 ひろし(しもむら ひろし、1904年6月16日 - 1986年4月21日)は、長崎県出身の俳人、医師。本名宏。長崎市生。長崎医科大学卒。在学中、田中田士英の指導で俳句を始める。1933年、「馬酔木」に入会し水原秋桜子に師事。1947年「棕梠(しゅろ)」を創刊・主宰。終生まで長崎で活動したと見られ、初期より異国情緒のある句を詠む。また医師として被爆者の救済に務めた経験ものちの句作に影響を及ぼした。1977年、『西陲集』により第17回俳人協会賞を受賞。句集に『石階聖母』(1963年)『西陲集』(1976年)『西陲集以後』(1988年)。
松尾 あつゆき(まつお あつゆき、1904年6月16日 - … 松尾 あつゆき(まつお あつゆき、1904年6月16日 - 1983年10月10日)は、長崎県出身の俳人。本名、敦之。 1904年(明治37年)、長崎県北松浦郡生まれ。長崎高等商業学校(旧制。現・長崎大学)卒業後、英語教師となる。在学中より自由律俳句に傾倒し、24歳のとき「層雲」に入会、荻原井泉水に師事。のち「層雲」同人、1942年層雲賞受賞。。1945年、生地長崎で原爆に遭い、家と妻、四人の子供のうち長男、次男、次女の三人を失う。11月、重症を生き延びた長女とともに佐世保市に転居、公立学校教員(地方公務員)となり、旧制 佐世保第二中学校の英語教師となる。1948年に再婚、生地を離れ長野県千曲市の高等学校に赴任した。
三間 安市(みつま やすいち 、1903年(明治36年)8月… 三間 安市(みつま やすいち 、1903年(明治36年)8月3日 - 1974年(昭和49年)2月7日)は、日本の実業家。日本鉱業の社長や会長、日本鉱業協会会長などを歴任した。従三位勲一等。 岐阜県生まれ。1924年長崎高等商業学校(現長崎大学)卒業。1925年東京商科大学(現一橋大学)本科入学。1928年同卒業、久原鉱業入社。 鉱山統制会原価計算課長などを経て、1946年日本鉱業常務取締役。1957年日本鉱業取締役社長。1962年日本鉱業協会会長。1963年藍綬褒章受章。 1968年には田中清玄及び中山素平の日本自主原油開発油田確保計画に基づき、アブダビ石油を設立し、同社取締役社長に就任。1969年日本鉱業取締役会長、共同石油取締役会長。
辻 一三(つじ いちぞう、1903年(明治36年)3月14日… 辻 一三(つじ いちぞう、1903年(明治36年)3月14日 - 1989年(平成元年)9月6日)は、昭和期の日本の政治家で、公選3人目の佐世保市長である。同市名誉市民。 広島県安芸郡音戸町(現在の呉市)出身。1925年長崎高等商業学校(現長崎大学経済学部)卒。辻産業、西九州倉庫など会社経営から1958年、佐世保商工会議所会頭、市議会議員及び議長を経て1963年4月の市長選で現職を破り、第17代佐世保市長に就任。以後1979年まで、4期16年に及び市長を務めた。 市長就任2年後の1965年、喉頭がんが発見され手術を受けた。この際に声帯も切除せざるを得ず、前例のない「声なき市長」となる。一時は辞任も検討したが、食道発声法を習得して職務復帰を果たした。
羽田野 次郎(はたの じろう、1903年(明治36年)2月2… 羽田野 次郎(はたの じろう、1903年(明治36年)2月26日 - 1988年(昭和63年)4月29日)は、昭和期の農業協同組合指導者、政治家。衆議院議員。旧姓・前田。 大分県大野郡緒方村(緒方町を経て現豊後大野市)で、篤農家・前田弥三郎の二男として生まれる。大分県立竹田中学校(現大分県立竹田高等学校)を経て、1928年(昭和3年)長崎高等商業学校(現長崎大学)を卒業した。 同郷の羽田野ワキと結婚して羽田野に改姓し、東京市役所に勤務。その後帰郷し、教員、産業組合理事を務めたが、病のため療養した。 1946年(昭和21年)緒方村農地委員会長に就任し、大分県農地委員、緒方村助役を歴任。緒方村農業協同組合長、大分県農業協同組合連絡協議会長を務め、1948年(昭和23年)農協五連(信用、購買、販売、指導、厚生)結成発起人会総代表となり各連合会の結成に尽力し、大分県信用農業協同組合連合会長に就任した。
若杉 末雪(わかすぎ すえゆき、1903年2月22日 - 1… 若杉 末雪(わかすぎ すえゆき、1903年2月22日 - 1973年5月10日)は、日本の実業家。第3代三井物産代表取締役社長や、初代三井広報委員会会長を務めた。 長崎県出身。1925年長崎高等商業学校(現長崎大学)卒業。米国三井物産社長などを経て、1969年から三井物産社長を務め、イラン石油化学開発の設立などを行った。1972年初代三井広報委員会会長。
朴 在洪(パク・チェホン、朝鮮語: 박재홍、1903年1月1… 朴 在洪(パク・チェホン、朝鮮語: 박재홍、1903年1月18日または1906年1月18日 - 1979年6月28日または6月29日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のアナキスト、独立有功者、実業家、政治家。第3代韓国国会議員。浄土宗の仏教徒。 慶尚南道金海郡(現・金海市)出身。大成中学校、長崎商高、山口高商を卒業後、早稲田大学政経科2年修了。日本社会党幹部を務めたが、朴烈らと無政府運動を行ったため、大阪刑務所で3年8か月間留置された。その他は日活キネマ脚本部勤務、釜山朝紡会社人事課勤務を経て、大邱府で映画館大鏡館を経営し、大分県別府市で日鮮貿易商会を経営した。その後は満洲へ渡り、満州事変の時は長春市居留民僑胞団副委員長を務めたが、1932年に満洲派遣関東軍に従軍して1等通訳官として奉天、熱河、吉林、黒龍江各省を転戦した。
穂積文雄(ほづみ ふみお、1902年9月2日 - 1979年… 穂積文雄(ほづみ ふみお、1902年9月2日 - 1979年11月26日)は、日本の経済史学者。京都大学名誉教授。 愛媛県生まれ。愛媛県立宇和島中学校(現・愛媛県立宇和島東高等学校)、長崎高等商業学校(現・長崎大学)卒、1926年京都帝国大学経済学部卒。1927年東亜同文書院教授、1932-1934年ドイツに学ぶ。1939年京都帝大講師、1939年助教授、1945年3月教授、1952-1954年京都大学経済学部長。1957年「英国産業革命史の一断面 ラダイツの研究」で経済学博士。1966年定年退官、名誉教授、名古屋学院大学教授。1977年大阪工業大学教授。
與賀田 辰雄(よがた たつお、1902年 <明治35年> 1… 與賀田 辰雄(よがた たつお、1902年 <明治35年> 1月27日 - 1986年 <昭和61年> 1月7日)は、日本の経営者。東京書籍社長を務めた。位階は正五位。 佐賀県出身。1923年に長崎高等商業学校を卒業し、同年に大蔵省に入省。1941年に凸版印刷取締役に就任し、1944年12月に常務、1953年7月に専務を経て、1967年9月には東京書籍社長に就任。1973年12月に会長に就任し、1978年12月に監査役を経て、1982年8月には相談役に就任。 1972年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1986年1月7日悪性リンパ腫のために死去。83歳没。死没日付をもって従六位から正五位に進階した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
池崎 勇(いけざき いさむ、1901年 <明治36年> 2月… 池崎 勇(いけざき いさむ、1901年 <明治36年> 2月28日 - 1976年 <昭和51年> 7月10日)は、日本の経営者。日魯漁業社長を務めた。 熊本県出身。1928年に長崎高等商業学校を卒業し、同年に日魯漁業に入社。 1955年に取締役に就任し、1957年1月に常務、1960年4月に専務、1964年1月に副社長を経て、1968年1月に社長に就任。1972年1月から1974年1月までに会長を務めた。 1971年5月に藍綬褒章を受章。 1976年7月10日、尿毒症のために死去。75歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
多川 静志(たがわ せいし、1900年〈明治33年〉8月 -… 多川 静志(たがわ せいし、1900年〈明治33年〉8月 - 没年不明)は、日本の実業家。 広島県賀茂郡阿賀町(現呉市)出身。多川熊次郎の三男。多川一治の弟。1923年、長崎高商を卒業する。1940年、分家する。桜井大二郎商店支配人、同参事、桜井化学興業専務、桜井本部専務理事、桜井加工紙、朝鮮、満州、台湾各桜井興業取締役を歴任。 趣味は読書、運動。宗教は仏教。住所は東京都文京区原町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
横山 清松(よこやま きよまつ、1900年 <明治33年> … 横山 清松(よこやま きよまつ、1900年 <明治33年> 5月20日 - 1980年 <昭和55年> 2月21日)は、日本の経営者。グンゼ社長、会長を務めた。宮崎県出身。位階は従四位。 1923年に長崎高等商業学校本科を卒業し、1925年に郡是製絲 (のちのグンゼ) に入社。1952年1月に取締役、1955年2月に常務、1960年1月に専務を経て、1965年10月には社長に就任。1970年1月には会長に就任。 1970年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1980年2月21日閉塞性黄旦のために死去。79歳没。死没日付をもって正八位から従四位に進階した。
濱野 重郎(はまの じゅうろう、1900年〈明治33年〉- … 濱野 重郎(はまの じゅうろう、1900年〈明治33年〉- 1975年《昭和50年〉10月1日)は、日本の教育者。学校法人清明学園(清明幼稚園・清明学園初等学校・清明学園中学校)の創立者である。 大正自由教育の拠点であった成城小学校にて教鞭を執った後、その理想を追求するために独立し、1930年に清明学園を創設した。 徹底した児童中心主義を基盤とし、机上の空論よりも独自の「遊び」や「体験」を重視する教育を確立。 戦後は日本私立小学校連合会の初代会長として私学教育を牽引する一方、小中一貫教育の実践など、常に子どもの成長を見据えた先駆的な取り組みを行った人物である。 長崎県佐世保市出身。長崎県師範学校(現・長崎大学教育学部)を卒業後、教職に就く。
吉田 敬太郎(よしだ けいたろう、1899年5月8日 - 1… 吉田 敬太郎(よしだ けいたろう、1899年5月8日 - 1988年7月28日)は、日本の実業家、政治家、牧師。第二次世界大戦の戦時下で衆議院議員を1期務めたが、政府批判をして投獄された。獄中で聖書に出会い、戦後キリスト教に入信、公職追放に指定されて牧師となった。追放解除後には若松市長となり、5市合併によって北九州市が成立した際には市長職務執行者を務めた。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 俠客出身の実業家で、衆議院議員も務めた吉田磯吉の養子として育ち、小倉中学校(後の福岡県立小倉高等学校の前身)、長崎高等商業学校に学んだ。 東京商科大学を卒業後、三菱鉱業勤務を経て、大倉高等商業学校(後の東京経済大学)講師となった。
勝沼 六郎(かつぬま ろくろう、 1898年(明治31年)6… 勝沼 六郎(かつぬま ろくろう、 1898年(明治31年)6月26日 - 1989年(平成元年)9月3日)は、日本の医師。内科医。国立療養所中部病院長。医学博士。静岡県出身。 静岡県立静岡中学校を経て、1927年(昭和2年)、長崎医科大学卒業、助手。台湾総督府技師、愛知・西尾病院長。1933年(昭和8年)、名古屋帝国大学講師、1934年(昭和9年)、欧米出張。1938年(昭和13年)、勝沼病院長。1947年(昭和22年)4月、国立療養所大府荘長。1966年(昭和41年)4月、国立療養所中部病院長(初代)。1969年(昭和44年)、定年退官。
宮田 又三郎(みやた またさぶろう、1898年2月25日 -… 宮田 又三郎(みやた またさぶろう、1898年2月25日 - 1985年8月9日)は、日本の実業家で、西日本鉄道社長を務めた。 佐賀県佐賀市出身。1920年に長崎高等商業学校(現・長崎大学経済学部)を卒業し、東邦電力(現・九州電力)での勤務を経て、西日本鉄道の前身である福博電車に入社した。 旧帝国大学出身者が学閥を組んで経営の中心となっていた西鉄の中で、高商卒の宮田はまさに「叩き上げ」で出世していく。常任監査役、常務、専務を経て、1960年から1963年11月までに社長を務めた。在任中に西鉄ライオンズのオーナーも務めた。 西鉄不動産、筑豊電気鉄道、大分交通、テレビ西日本、福岡スポーツセンターなどの各取締役を歴任した。
今牧 嘉雄(いままき よしお、1897年(明治30年)12月… 今牧 嘉雄(いままき よしお、1897年(明治30年)12月15日 - 1980年(昭和55年)5月17日)は、大正から昭和期の内科医、右翼活動家、政治家。衆議院議員、医学博士。 富山県射水郡新湊町(高岡市、新湊町、新湊市を経て現射水市)で生まれる。1920年(大正9年)長崎医学専門学校(のち長崎医科大学、現長崎大学)を卒業し、その後、京都帝国大学医学部で研究した。 別府市の朝見病院長を経て、1930年(昭和5年)東京市京橋区で開業した。大川周明の雑誌『満蒙』に執筆し、大川の治療を行ったことなどから神武会に加盟した。1936年(昭和11年)大日本青年党に加わり、その後、大日本赤誠会に改称。また、日本医師会理事、日本医療団評議員、富士工業社長などを務めた。