木村 保久(きむら やすひさ、1924年5月29日 - 20… 木村 保久(きむら やすひさ、1924年5月29日 - 2015年2月19日)は元プロ野球選手(内野手)。愛知県一宮市出身。
立教大学:1,675人
木村 保久(きむら やすひさ、1924年5月29日 - 20… 木村 保久(きむら やすひさ、1924年5月29日 - 2015年2月19日)は元プロ野球選手(内野手)。愛知県一宮市出身。
有元 三郎(ありもと さぶろう、1924年2月4日 - 没年… 有元 三郎(ありもと さぶろう、1924年2月4日 - 没年不明)は、日本の大蔵官僚。 岡山県出身。立教大学経済学部卒業。1948年4月 証券処理調整協議会職員。総務課配属。1949年 国家公務員試験を合格。同年 大蔵省入省。大臣官房会計課配属。1955年5月 上郡税務署長。1959年12月 造幣局総務部総務課長。1968年6月 理財局管理課長。1970年7月 印刷局業務部長。1971年11月10日 福岡国税不服審判所長(首席国税審判官)。1974年6月2日 大臣官房付・退官。同年6月15日 北海道東北開発公庫監事(〜1975年12月31日)。
飯島 良男(いいじま よしお、1924年 - 1998年11… 飯島 良男(いいじま よしお、1924年 - 1998年11月8日)は、日本の実業家、ヤマザキナビスコ株式会社(現・ヤマザキビスケット)元代表取締役社長、山崎製パン株式会社元常務取締役。別名、飯島秀浩(いいじま ひでひろ)。 1924年生まれ。山崎製パン創業者の飯島藤十郎の末弟。立教大学卒業。 1951年、山崎製パンに入社。1956年山崎製パン取締役、1969年山崎製パン常務に就任。 1970年、山崎製パンが総合商社ニチメン(現・双日)の仲介によって、アメリカの製菓会社のナビスコとの合弁会社としてヤマザキナビスコ株式会社(現・ヤマザキビスケット株式会社)を設立し、同社代表取締役社長に就任。 1971年、山崎製パン監査役。
牛窪 浩(うしくぼ ひろし、1924年 - 1987年9月2… 牛窪 浩(うしくぼ ひろし、1924年 - 1987年9月27日)は、経営学者。神奈川県生まれ。1950年立教大学文学部社会学科卒、同社会学部助教授、教授。1962年イリノイ大学産業関係研究所客員研究員、1966年シカゴ大学産業科学部客員教授。洗礼名アウガスティン。
内藤 則邦(ないとう のりくに、1923年8月20日 - )… 内藤 則邦(ないとう のりくに、1923年8月20日 - )は、日本の社会政策学者。立教大学名誉教授。 福島県田村郡三春町生まれ。実家の家業は味噌醤油の醸造業。1941年福島県立田村中学校卒業。1943年立教大学経済学部予科入学。在学中に学徒出陣で海軍に入隊するが、病気のため半年ほどで除隊。1945年立教大学経済学部本科入学。立教でも教鞭を執っていた東京大学教授の大河内一男と出会い、東大の大河内ゼミに参加。1947年に大河内に代わって隅谷三喜男が立教で社会政策を担当するようになり、隅谷ゼミに参加し、引き続き東大の大河内ゼミにも参加。1948年立教大学経済学部卒業、同研究科入学。籍は立教にあったが、実際は東大で大河内・隅谷の指導を受けた。
砂押 邦信(すなおし くにのぶ、1922年9月25日 - 2… 砂押 邦信(すなおし くにのぶ、1922年9月25日 - 2010年7月18日)は、茨城県出身の元野球選手(投手)、コーチ・プロ野球監督。 立教大学監督時代にMLB流の指導法で長嶋茂雄を育てた人物として知られている。 水戸商業高校卒業後、1942年に立教大学へ入学。水戸商業の後輩に早稲田大学で選手・監督として活躍した石井藤吉郎、立大の2年先輩には西本幸雄がいた。戦時中は学徒兵として兵役に就き、戦後の1947年に卒業。 小口工作所の選手兼任監督(1948年 - 1949年)を経て、1950年に母校・立大監督に就任。「鬼の砂押」と恐れられたほどのスパルタ式猛練習で、1953年春季には20年ぶりに東京六大学リーグ優勝を果たしたほか、第2回日本選手権にも優勝。
山田 達雄(やまだ たつお、1922年3月5日 - 1980… 山田 達雄(やまだ たつお、1922年3月5日 - 1980年6月6日)は、日本の映画監督、脚本家である。 1922年(大正11年)3月5日、兵庫県神戸市に生まれる。立教大学卒業。 京都の映画界に入り、伊藤大輔監督の門下となり助監督を務める。1947年(昭和22年)、新東宝で助監督となる。1950年(昭和25年)、中川信夫監督の『アマカラ珍騒動』等でチーフ助監督を務めた。 1956年(昭和31年)、監督に昇進し、嵐寛寿郎主演の『剣豪相馬武勇伝 檜山大騒動』で監督としてデビューした。1961年(昭和36年)の同社の倒産までに22本を監督した。1960年12月公開の『東海道非常警戒』について、映画評論家の水野和夫は、「脱出という主題を具体的な速度感で映像化して行くクライマックスのカット・バックは山田達雄監督自身が堕落した現代映画の枠から脱出するかのごとく見事」であり、「日本映画界の底辺にあると思われている人たちが、実は最も力をこめて日本映画の土台をかためていることを再認識して、僕は激しい感動を禁じえなかった。
遠入 昇(えんにゅう のぼる、1922年 - 2020年7月… 遠入 昇(えんにゅう のぼる、1922年 - 2020年7月8日)は、日本の実業家。東レ株式会社元広報宣伝部長、鐘紡株式会社元代表取締役副社長。東レ時代にミニスカートブームを仕掛けるなど日本のファッション史に残る数々の業績を上げた人物として知られる。 1922年、大分県生まれ。1939年、立教大学経済学部入学。1944年、学徒動員仮卒業。1946年3月、立教大学経済学部卒業。同年4月、東洋レーヨン株式会社(現・東レ株式会社)入社。 1960年、東京販売部長補佐兼宣伝課長、1964年、広報宣伝部長、1970年、繊維事業本部主幹、1975年、兼商品企画担当を歴任。 1981年、鐘紡株式会社入社、1982年、常務取締役、1984年、専務取締役、1988年、代表取締役副社長、1990年、常任顧問を歴任。
林 英夫(はやし ひでお、1920年12月10日 - 200… 林 英夫(はやし ひでお、1920年12月10日 - 2007年2月5日)は、日本の歴史家(日本史)。立教大学名誉教授。 織物業史・農村工業史を専門とし、マニュファクチュア論争に大きな影響を与える。『豊島区史』などの自治体史編纂にも従事した他、古文書解読字典の編纂など、近世古文書学にも通じる。 愛知県中島郡(現在の一宮市)生まれ。生家は美濃路・起宿の脇本陣。立教大学文学部史学科に進学し、当時講師として出講していた伊東多三郎の指導を受けて日本近世史を専攻するようになった。起宿を取り上げた卒業論文の採点も伊東が行った。1943年卒業。 台湾から復員後、本郷高等学校に勤務。1951年開成高等学校に転じ、文部省検定の教科書を使わずに、手作りの「開成日本史」を活用した。
永利 勇吉(ながとし ゆうきち、1920年12月9日 - 1… 永利 勇吉(ながとし ゆうきち、1920年12月9日 - 1962年6月27日)は、福岡県出身のプロ野球選手(外野手・捕手)、野球解説者。 嘉穂中学から立教大学へ進み、野球部へ入部。当初は外野手だったが、捕手難だったため、1942年の春季リーグ前に捕手へコンバートされた。同年の春季リーグでは打率.500で首位打者を獲得した。 その後、社会人野球の強豪チームの星野組で荒巻淳らと共に都市対抗野球大会でプレーし、第19回都市対抗野球大会では本塁打2本を放ちこの大会チームは準優勝。永利は久慈賞を受賞した。 1948年に阪急ブレーブスに入団。1950年に宇高勲に引き抜かれ西日本パイレーツへ移籍となる。同年は開幕から5番・左翼手を務めたが、シーズン途中に関口清治と守備位置を交換し、3番・右翼手に定着した。
久保 虎二郎(くぼ とらじろう、1920年7月4日 - 20… 久保 虎二郎(くぼ とらじろう、1920年7月4日 - 2011年8月29日)は、日本の実業家、日動火災保険(現・東京海上日動火災保険)元代表取締役社長、元名誉相談役、学校法人立教学院元理事長。 1920年生まれ、東京都出身。1943年、立教大学商学部(現・経営学部)卒業。 日動火災保険株式会社(現・東京海上日動火災)常務取締役などを歴任したのち、代表取締役社長を務めた。社長退任後は、名誉相談役に就任。 1991年7月から1995年6月まで学校法人立教学院理事長を務めた。1981年6月から1983年6月まで立教経済人クラブの初代会長も務めた。 1980年に藍綬褒章、1990年に勲三等瑞宝章を受章。
利光 達三(としみつ たつぞう、1920年4月23日 - 1… 利光 達三(としみつ たつぞう、1920年4月23日 - 1994年11月5日)は、日本の実業家。小田急電鉄社長や、同社会長、日本民営鉄道協会会長、立教学院理事長等を歴任した。勲一等瑞宝章受章。 千葉県市川市出身。1944年立教大学経済学部経済学科卒業。小田急電鉄専務取締役を経て、1981年から小田急電鉄取締役社長を務め、小田急エージェンシーの設立などを行った。1987年立教学院理事長、立教大学校友会会長。1989年日本民営鉄道協会会長。1991年小田急電鉄取締役会長。1982年藍綬褒章受章、1991年勲一等瑞宝章受章。1994年11月5日、急性心不全のため死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
安藤 信和(あんどう のぶかず、1920年〈大正9年〉3月3… 安藤 信和(あんどう のぶかず、1920年〈大正9年〉3月30日 - 2014年〈平成26年〉12月29日)は、昭和・平成期のアメリカンフットボール功労者。旧磐城平藩主安藤家16代当主。 1920年(大正9年)3月30日、子爵安藤信昭(旧磐城平藩主安藤家15代当主)の次男(第3子)として、東京都に生まれる。母は、閑院宮載仁親王と同妃智恵子の第1女子・恭子女王(ゆきこじょおう)である。 東京府立第六中学校(現:東京都立新宿高等学校)を経て、1937年(昭和12年)に立教大学予科へ入学。入学後すぐアメリカンフットボール部に入り、ラインとして活躍した。1942年(昭和17年)に立教大学を卒業。 1952年(昭和27年)、関東大学連盟理事に就任。
白井 孝夫(しらい たかお、1920年(大正9年)2月17日… 白井 孝夫(しらい たかお、1920年(大正9年)2月17日 - 没年不詳)は、日本の実業家、本田技研工業株式会社元専務取締役、本田技術研究所元所長。30代の課長時代には、鈴鹿製作所の工場建設を一手に任され、現在のモータスポーツにまで至るHONDAの鈴鹿拠点の基盤を作り、会社の成長を支えた。 静岡県出身。1943年(昭和18年)立教大学経済学部卒業。大学卒業後、東洋製鋼、繊維貿易公団を経て、1950年(昭和25年)本田技研工業に入社する。 1959年1月、生産課長として前年11月末に起きたスーパーカブの初期トラブルを解決し、年末までに増産体制を取り終えたばかりの頃、社長の本田宗一郎から呼び出され、何の説明もなしに『ヨーロッパへ行って来い』と言われる。
山下 勝(やました まさる、1920年 - 2010年)は、… 山下 勝(やました まさる、1920年 - 2010年)は、日本の実業家、起業家、野球選手。山下ゴム株式会社元代表取締役社長。 1938年(昭和13年)3月、兵庫県立旧制姫路中学校(現・兵庫県立姫路西高等学校)卒業。 中学卒業前に立教大学野球部のセレクションを受けるが、この時、同じく野球部のセレクションを受け立教大学を受験する同志に、内野手の西本幸雄(和歌山中学)、中林正道(立教中学)、2塁手の辻勉(愛知商業)、捕手の伊藤治夫(亨栄商業)、外野手の高橋進(一宮中学)、後にマネージャーとして活躍する中島正明(関西学院中学)らがいた。このセレクション受ける中学生で1チームを構成し、大学予科のチームを相手に3試合したが、全て中学生のチームが勝利した。
林田 正恒(はやしだ まさつね、1919年 <大正8年> 1… 林田 正恒(はやしだ まさつね、1919年 <大正8年> 12月22日 - 2010年 <平成22年> 1月22日)は、日本の地方公務員、経営者。熊本県教育長、熊本朝日放送初代社長を務めた。福島県出身。 1943年に立教大学経済学部を卒業。 熊本県庁での勤務を経て、1975年に熊本県教育委員会教育長、1980年に熊本県信用保証協会専務理事を経て、1988年12月に熊本朝日放送社長に就任。1996年6月から1997年6月までに会長を務めた。 2010年1月22日心不全のために死去。90歳没。
綱島 新八(つなしま しんや、1919年9月2日 - 199… 綱島 新八(つなしま しんや、1919年9月2日 - 1997年1月28日)は、群馬県出身のプロ野球選手(外野手)。1966年に綱島新哉に改名。 高崎市立商業補習学校から立教大学、社会人野球の明電舎、増田化学工業、山藤商店を経て、1949年に大映スターズへ入団。 1950年に松竹ロビンスへ移籍。1953年は前年に球団が吸収合併されたため洋松ロビンス所属となり、同年限りで現役を引退。 1958年にPL学園高等学校の監督に就任。1961年に退任するが1963年に復帰し、同年再び退任。1966年に拓殖大学の監督を務めた。
李 相冕(イ・サンミョン、朝鮮語: 이상면、1919年5月3… 李 相冕(イ・サンミョン、朝鮮語: 이상면、1919年5月3日 - 2002年1月10日)は、大韓民国の政治家。第5代韓国国会議員。 号は松庵(ソンアム、송암)。 日本統治時代の慶尚北道迎日郡出身。立教大学文学部2年修了後に学徒兵として出陣した。1960年の第5代総選挙で国会議員に当選したが、大法院による選挙無効判決を受けて再選挙でまた当選したものの、5・16軍事クーデターにより辞退した。ほかには民主党浦項市党委員長・中央委員、国会商工委員を務めた。
亀井 要(かめい かなめ、1919年(大正8年)2月17日 … 亀井 要(かめい かなめ、1919年(大正8年)2月17日 - 没年不詳)は、日本の実業家、株式会社三省堂元会長、社長。 東京府(現東京都)出身。1919年、亀井寅雄(三省堂書店創業者・亀井忠一の四男)の長男として生まれる。 1942年、立教大学文学部卒業。大学卒業後、家業の株式会社三省堂に入社。(株式会社三省堂は、父・寅雄の提案により1915年に三省堂書店から出版事業部が分離独立して設立されている。) 1947年、三省堂常務、1951年同社専務と歴任し、1956年三省堂社長に就任。 その後一旦、社長を退くが、1961年三省堂取締役に再任され、1965年に会長に就任。1970年に再び三省堂社長となった。
高久保 豊三(たかくぼ とよぞう、1919年 - 没年不明)… 高久保 豊三(たかくぼ とよぞう、1919年 - 没年不明)は、愛媛県出身の元プロ野球選手(外野手)。
千家 潔(せんげ きよし、1919年〈大正8年〉- 1994… 千家 潔(せんげ きよし、1919年〈大正8年〉- 1994年〈平成6年〉)は、日本の洋画家。詩人、千家元麿の次男として東京都に生まれる。立教大学卒。 ギリシャや日本の神話を題材にした作品を数多く遺しており、古代フレスコ画を連想させるかのような、独特の表現技法には、モネやルノワールなどの、後期印象派へと通ずるものが観られ、繊細、かつ柔和なタッチと淡くも克明なる色遣いからは、鑑賞する者に安堵なる余韻をもたらす。また、ありとあらゆる美術団体に属することを好まず、1994年に75歳で亡くなるまでの間、生涯在野の画家として活躍したことでも知られている。 千家という名からも、本家は出雲国造の出身であり、古い豪族の出に由来している点からも、彼が神話をモチーフにした作品を、数多く制作してきた背景には、由緒ある血縁にも、多少は影響されていたためではないかと考えられる。
好村 三郎(よしむら さぶろう、1919年 - 2012年)… 好村 三郎(よしむら さぶろう、1919年 - 2012年)は、日本のジャーナリスト、新聞記者、野球選手。朝日新聞社運動部長、東海大学教授。立教大学では野球部の4番・エースとして東京六大学リーグで活躍し、主将と監督も兼ね、立大野球部初の三割打者となった。日本アマ野球規則委員会顧問、日米大学野球組織委員。 1919年(大正8年)、兵庫県芦屋に生まれる。旧制灘中学校に入学し、野球部で右投げ左打ちの投手、主力打者として活躍。 1937年(昭和12年)3月、立教大学に入学。野球部で投手、主力打者としてプレーし、主将、監督も兼ねた。終身打率は3割4厘で、東京六大学野球史上13番目の終身打率三割打者となり、立教大学野球部としても初の三割打者となった。
雁瀬 治貞(がんせ はるさだ 1919年 - 1946年2月… 雁瀬 治貞(がんせ はるさだ 1919年 - 1946年2月)は、日本の元アマチュア野球選手。京都府出身。
鵜藤 俊平(うとう しゅんぺい、1918年12月1日 - )… 鵜藤 俊平(うとう しゅんぺい、1918年12月1日 - )は、日本の水泳選手。1936年ベルリンオリンピック400メートル自由形で銀メダル、1500メートル自由形で銅メダルを獲得している。立教大学出身。
加藤 誠一(かとう せいいち、1918年9月27日 - 19… 加藤 誠一(かとう せいいち、1918年9月27日 - 1987年7月5日)は、日本の経済学者。学位は、経済学博士(立教大学・1980年)(学位論文「中小企業の国際比較にかんする実証的研究」)。立教大学名誉教授。 東京出身。1943年立教大学経済学部卒、同助手となる。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、同年9月、海軍経理学校に入学し、1944年(昭和19年)3月に卒業して海軍主計中尉に任官。大阪経理部に配属。1945年(昭和20年)3月、海軍主計大尉に昇進して終戦を迎えた。同年11月に予備役に編入され解員(復員)。 その後、立教大学助手に復職し、1950年講師、1952年助教授、1960年教授、1984年定年となり名誉教授、中京大学教授を務めた。
神島 二郎(かみしま じろう、1918年4月18日 - 19… 神島 二郎(かみしま じろう、1918年4月18日 - 1998年4月5日)は、日本の政治学者。専門は日本政治思想史。立教大学名誉教授。 東京市四谷区四谷左門町(現・東京都新宿区左門町)生まれる。砧小学校、国士舘中学校を卒業。 1942年に第一高等学校文科乙類を卒業後、東京帝国大学法学部政治学科に入学するが、1943年4月から12月にかけて東部第六部隊に所属。1944年1月から8月まで仙台予備士官学校に配属され、1944年12月から1945年9月までフィリピン方面軍特別情報部。 1946年1月に復員。1947年に東京大学(旧制)法学部を卒業後、大学院特別研究生となる(1949年に修了)。 1950年に国立国会図書館嘱託、主事、調査員。
木暮 武太夫(こぐれ ぶだゆう、旧名・欽一(きんいち)、19… 木暮 武太夫(こぐれ ぶだゆう、旧名・欽一(きんいち)、1918年〈大正7年〉3月21日 - 1988年〈昭和63年〉5月1日)は、日本の政治家、実業家。伊香保町議会議長、株式会社木暮旅館(現・ホテル木暮)代表取締役社長、伊香保ガス株式会社代表取締役社長、上毛新聞社取締役。日本観光協会理事、群馬県観光協会長、群馬県スケート連盟会長、26代目武太夫。位階は従五位。 1918年(大正7年)、先代木暮武太夫(元運輸大臣、国会議員、旧名:正一)の長男として群馬県北群馬郡伊香保町(現・渋川市)に生まれる。木暮家は、天正10年(1582年)長尾輝景から伊香保温泉の安堵状を与えられた木暮下総守を先祖とする旧家で、木暮旅館(現在のホテル木暮)を営み、代々「武太夫」の名を世襲する家柄である。
池部 良(いけべ りょう、1918年〈大正7年〉2月11日 … 池部 良(いけべ りょう、1918年〈大正7年〉2月11日 - 2010年〈平成22年〉10月8日)は、日本の俳優、随筆家。 東京市大森区(現・東京都大田区)出身。身長174センチメートル。立教大学文学部英文科卒業。昭和中期の代表的な映画スターの一人。甘いマスクとスマートさで「万年青年」の異名をとった。 大学では富田彬などから学ぶとともに、映画監督になるのを夢見て在学中の1940年に東宝撮影所のシナリオ研究所に研究生として入り、1941年に卒業すると同時にシナリオ研究所を卒業して東宝に入社する。監督希望だったが、戦時下の作品制作数の大幅減少で助監督の空きがなく、文芸部に配属されて早々部長に面食いだからと言われ、当時は子役の大スターだった中村メイコの子守を命じられ、彼女の大絶賛を聞いた映画監督・島津保次郎に請われて『闘魚』に脇役で出演する。
島方 金則(しまかた かねのり、1918年1月14日 - 1… 島方 金則(しまかた かねのり、1918年1月14日 - 1995年8月4日)は、長野県松本市出身のプロ野球選手。
伊藤 経盛(いとう つねもり、1918年 - )は、愛知県出… 伊藤 経盛(いとう つねもり、1918年 - )は、愛知県出身のプロ野球選手。
上野 泰(うえの やすし、大正7年(1918年) - 昭和4… 上野 泰(うえの やすし、大正7年(1918年) - 昭和48年(1973年)2月21日)は、日本の俳人。妻の上野章子は高浜虚子の六女である。 横浜市の出身。立教大学経済学部卒業。昭和17年(1942年)、高浜虚子の六女・章子と結婚した。出征、復員の後、小諸に疎開中の虚子から俳句を学び、戦後の『ホトトギス』の新人として、野見山朱鳥と並び賞された。虚子から「泰の句に接すると世の中の角度が変わって現れてくる。」と評され、「新感覚派と呼んだらどんなものであろう。」と評された。家業の運送業の経営に加わりながら、昭和26年(1951年)『春潮』を主宰した。昭和48年(1973年)2月21日、癌のために急逝した。
矢崎 健一(やざき けんいち、1918年 - 没年不詳)は、… 矢崎 健一(やざき けんいち、1918年 - 没年不詳)は、日本の聖職者、教育者。日本聖公会の聖職者として小金井聖公会主任司祭や、教育者として立教大学一般教養部助教授を務める傍ら、立教学院百年史の編纂を提案し刊行するなど、立教学院の史実を掘り起こし、歴史を体系化することに尽力した。 1940年(昭和15年)、立教大学文学部宗教学科卒業。 1954年(昭和29年)、矢崎は小金井聖公会の主任司祭に就任する。1951年(昭和26年)に購入してあった用地に、牧師館と小金井聖公会仮聖堂が建てられ、同年12月12日には献堂式が行われた。 1964年(昭和39年)の秋頃、立教大学一般教育部助教授であった矢崎は、立教学院の年史書である「立教学院八十五年史」の次の年史である「立教学院百年史」の編纂を立教大学文学部史学科教授の海老沢有道とともに提案し、編纂を進めた。
張 利鎮(チャン・イジン、1917年10月28日 - 没年不… 張 利鎮(チャン・イジン、1917年10月28日 - 没年不明)は、朝鮮半島出身のバスケットボール選手・指導者。 1936年ベルリンオリンピックには日本代表として、1948年ロンドンオリンピックには韓国代表として出場している。 平壌生まれ。延禧専門学校(現在の延世大学校)のバスケットボール部で活躍。1936年の全日本選手権では朝鮮代表(延禧専門学校)として出場し、優勝した。1936年ベルリンオリンピックには日本代表選手の一人として出場した。この時の日本代表チームには、張利鎮を含む3人の朝鮮人選手が参加していた。ほかの2人も全日本選手権優勝メンバーで、李性求(延禧専門学校OB)・廉殷鉉(延禧専門学校学生)である。
砂田 重民(すなだ しげたみ、1917年3月4日 - 199… 砂田 重民(すなだ しげたみ、1917年3月4日 - 1990年9月24日)は、日本の政治家。位階は正三位勲一等、勲章は旭日大綬章。衆議院議員、文部大臣、沖縄開発庁長官兼北海道開発庁長官などを務めた。父は自民党総務会長を務めた砂田重政。従弟は元衆議院議員の砂田圭佑。 兵庫県神戸市出身。暁星学園を経て、立教大学経済学部卒業。河野一郎の秘書を経て、1963年の第30回衆議院議員総選挙に父・重政の後継者として旧兵庫1区から出馬し初当選。当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・小宮山重四郎・伊東正義・田中六助・渡辺美智雄・佐藤孝行・藤尾正行・中川一郎・三原朝雄・鯨岡兵輔・西岡武夫・奥野誠亮などがいる。以後2回連続当選後、3期目途中で議員を辞職し、1972年の神戸市長選挙に、自民党と袂を分かった現職の宮崎辰雄に挑む形で立候補したが落選。
北原 昇(きたはら のぼる、1917年 - 没年不明)は、長… 北原 昇(きたはら のぼる、1917年 - 没年不明)は、長野県出身のプロ野球選手。ポジションは二塁手、遊撃手。
新井 茂雄(あらい しげお、1916年〈大正5年〉8月8日 … 新井 茂雄(あらい しげお、1916年〈大正5年〉8月8日 - 1944年〈昭和19年〉7月19日)は、静岡県出身の日本の男子競泳選手。1936年ベルリンオリンピック800mフリーリレー金メダリスト、100m自由形銅メダリスト。戦前の日本競泳界を牽引した選手のひとり。1941年に佐藤宣子と結婚したため、自身は「佐藤茂雄」とも名乗っていた。なお2人の間に一女が生まれているが、早世している。 静岡県沼津市出身。静岡県立浜松農蚕学校から立教大学へと進学し、1936年ベルリンオリンピック800メートルリレーで金メダルを、100メートル自由形で銅メダルを獲得した。特に800メートルリレーでは遊佐正憲、田口正治、杉浦重雄とチームを組み、新井はアンカーで泳ぎ2位のアメリカを大きく引き離して8分51秒5の世界新記録をマークするなどの圧勝ぶりでもあった。
西郷 準(さいごう ひとし、1916年4月25日 - 194… 西郷 準(さいごう ひとし、1916年4月25日 - 1945年5月28日)は、鹿児島県鹿児島市出身の元アマチュア野球選手。 西郷菊次郎(元・京都市長)の7男7女のうち六男として出生する。西郷隆盛の孫にあたる。鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高、28回卒)を経て立教大学へ進学、東京六大学野球で活躍し神宮球場を沸かせた。 二中に進学すると野球部へ入った。準が1年次の1930年、二中野球部は当時の全国中等学校優勝野球大会に出場し、全盛期を迎えていた。当時は九州から南北それぞれ1校のみ出場でき、全国(甲子園)大会出場は難関だった。1932年には準の2年先輩かつ立教大学野球部でも先輩で、大洋ホエールズ投手・コーチとなる有村家斉がエースとして活躍したが、当時準は遊撃手であった。
菅 利雄(かん としお、1916年4月12日 - 没年不明)… 菅 利雄(かん としお、1916年4月12日 - 没年不明)は、愛媛県出身のプロ野球選手(一塁手、三塁手、外野手)。
岡見 如雪(おかみ なおゆき、1916年 - 2011年11… 岡見 如雪(おかみ なおゆき、1916年 - 2011年11月14日)は、日本の実業家、教育者。頌栄女子学院元理事長・校長、ウィンチェスター頌栄カレッジ創設者、三協日野ルノー代表取締役社長。 1916年(大正5年)、岡見敬一の長男として生まれる。祖父は頌栄女子学院創設者の岡見清致。(祖父清致の叔父は、慶應義塾の基礎を造った岡見清熙。) 1939年(昭和14年)、立教大学経済学部卒業。在学中は、スキー部に所属し、1937年(昭和12年)の創部にも携わった。 大学卒業後、三井物産勤務を経て、三協日野ルノー代表取締役社長を務めた。 1962年(昭和37年)、頌栄高等女学校の理事長に就任。 1964年(昭和39年)、校名を現在の「頌栄女子学院中学校」と「頌栄女子学院高等学校」に改称し、キリスト教学校教育同盟にも加盟。
景浦 將(かげうら まさる、1915年7月20日 - 194… 景浦 將(かげうら まさる、1915年7月20日 - 1945年5月20日)は、愛媛県松山市出身のプロ野球選手(外野手、投手)。
スパット・スタタム(Suphat Sutatum、1915年… スパット・スタタム(Suphat Sutatum、1915年7月11日 - 没年不詳)は、タイ王国の政治家、タイ王国元財務大臣。 1915年7月11日、タイのバンコクで生まれる。1930年に、ワット・ボピトルピムク・スクール(Wat Bopitrpimuk school)で中等教育を修了。 1934年にタイ会計検査院で研修生としてキャリアをスタートさせ、1935年に2級事務官に任じられた。 その後来日し、立教大学で学び、1941年には商学修士号を取得。また、バンク・オブ・アメリカの監査役として研修を受けた。 1948年、タイ監査委員会委員、1975年、監査委員会事務局長、1972-75年、監査委員会委員長、1974年、汚職・腐敗行為防止局委員など、タイの国家財務の要職を歴任。
勝 芳孝(かつ よしたか、1915年5月5日 - 没年不詳)… 勝 芳孝(かつ よしたか、1915年5月5日 - 没年不詳)は、日本の華族、実業家。新興製作所代表取締役社長、伯爵。徳川慶喜の孫および勝海舟の曾孫であり、勝家第3代当主。 1915年(大正4年)5月、父・勝精(徳川精、徳川慶喜の十男)と母・勝伊代(勝小鹿の長女)の長男として生まれる。 学習院を経て、立教大学経済学部を卒業。 1941年(昭和16年)に出征し、ラバウルの陸軍部隊にいて終戦を迎える。一時戦死したとの誤報も流れた中、赤坂・氷川の邸宅も空襲で焼かれた。わずかに土蔵が残ったものの、これも戦後のどさくさの中で、伯爵家の執事の三太夫に持ち出され、散逸したものが多いという。名刀や名剣の類は、進駐軍のアメリカ軍人らに持ち出された。
綿貫 惣司(わたぬき そうじ、1915年4月6日 - 没年不… 綿貫 惣司(わたぬき そうじ、1915年4月6日 - 没年不明)は、埼玉県出身の元プロ野球選手(内野手)。 川越中学出身。1931年に第8回選抜野球大会へ3番ファーストとして出場したがチームは初戦で杉浦清、野口明らがいた中京商業に0-11で敗れた。卒業後に立教大学へ進学し、景浦將と共にクリーンナップを打つなど活躍した。 1936年に大学を中退して東京セネタースへ入団。1938年に応召。 戦後はノンプロの豊岡物産で監督兼選手として都市対抗野球大会に出場し、日本球界初の天覧試合にも出場している。 1950年から1953年まで、富士製鐵室蘭の監督を務めた。
有村 家斉(ありむら いえなり、1914年7月24日 - 1… 有村 家斉(ありむら いえなり、1914年7月24日 - 1997年6月23日)は、鹿児島県出身のプロ野球選手。 鹿児島第二中学校では投手として活躍し、1932年の全九州中等学校野球大会で佐賀中学校との試合では20三振を奪っている。 立教大学では4番ファーストとして出場し、卒業後は満州電業、全鹿児島、林兼造船とノンプロチームでプレー。 1952年に38歳という年齢で大洋ホエールズへ入団。1954年に外野手へ転向するが同年引退。1955年から大洋の二軍コーチに就任し、1957年に退団。 その後は北洋水産、柳川商業高校(現・柳川高校)、関東学院大学で監督を務めた。
鬼 俊英(おに としひで、1914年〈大正3年〉6月3日 -… 鬼 俊英(おに としひで、1914年〈大正3年〉6月3日 - 1946年〈昭和21年〉)は昭和期の歌手。 福岡県山門郡山川村立山(現在のみやま市山川町立山)出身。神奈川県立湘南中学校を経て立教大学経済学部卒業。在学中は水泳選手としても活躍した。1939年(昭和14年)10月1日にテイチクから歌手デビュー。テイチクレコード盤の「空の勇士」、興亜行進曲など戦時歌謡中心に吹き込む。1941年にはキングレコードへ移籍。終戦後の1946年(昭和21年)、闇市に出回っていた航空機用のメチルアルコールを飲用し急逝。 妻は同じく昭和期の歌手である生島清美。 この項目は、歌手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ芸能人)。
坪内 道典(つぼうち みちのり、1914年4月7日 - 19… 坪内 道典(つぼうち みちのり、1914年4月7日 - 1997年9月16日)は、愛媛県伊予郡郡中町(現:伊予市)出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ・監督。
前田 昌保(まえだ まさやす、1914年3月10日 - 生没… 前田 昌保(まえだ まさやす、1914年3月10日 - 生没不明)は、日本のバスケットボール選手・指導者。1936年ベルリンオリンピックに出場。1956年メルボルン、1960年ローマの2大会でオリンピック日本代表チームのコーチを務めた。 立教大学に入学。1933年から1936年にかけてバスケットボール部主将を務めた。1934年には第10回極東選手権競技大会(マニラ)に出場した。 1936年、立教大学経済学部商学科を卒業。1936年ベルリンオリンピックに出場した。 第二次世界大戦後は立教大学でバスケットボールの指導に当たるとともに、1956年メルボルンオリンピック、1960年ローマオリンピックで日本代表チームのコーチを務めた。
佐川 直行(さがわ なおゆき、1914年 - 1970年5月… 佐川 直行(さがわ なおゆき、1914年 - 1970年5月4日)は、日本のプロ野球選手スカウト。大阪タイガース・阪神タイガースで大物選手の入団を担当した、1950年代後半から1960年代を代表する敏腕スカウトとして知られる。 1914年、北海道生まれ。旧制札幌商業学校(現・北海学園札幌高等学校)から旧制立教大学へ進学。札幌商業時代は、1931年の夏の甲子園に出場した経験がある。ポジションは捕手。立教大学卒業後は、富士銀行で銀行員として働いていた。1945年11月には、同行数寄屋橋支店で勤務しており、同支店に口座を持っていた日本野球連盟が、同年に行われた東西対抗野球の入場料金を収納した際に窓口で応対している。
飯島 淳秀(いいじま よしひで、1913年9月30日 - 1… 飯島 淳秀(いいじま よしひで、1913年9月30日 - 1996年)は、日本の英文学者、翻訳家。駒澤大学名誉教授。 京城生まれ。福岡、大阪、朝鮮と転々とし、11歳で関節炎のため左脚を切断、義足となる。 1937年立教大学英文学科卒。立教中学校教員、1946年立教大学予科講師、1947年予科教授、1949年立教大学助教授、1955年教授、1970年定年、駒澤大学教授。 英米文学の翻訳のほか、児童文学も多数翻訳する。1961年、飯島が共訳した『アラビアン・ナイト』が含まれる講談社『世界童話文学全集』が産経児童出版文化賞を受賞。(飯島淳秀先生略年表『英米文学』90年) この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
紺野 陽吉(こんの ようきち、1913年5月16日 - 19… 紺野 陽吉(こんの ようきち、1913年5月16日 - 1945年10月3日)は、山形県生まれの作曲家。 1913年、山形県西置賜郡東根村大字畔藤(現白鷹町畔藤)で生まれる。紺野家は祖父の代からの医者の家で、陽吉は男3人女3人の6人兄弟の次男であった。県立長井中学校 (現山形県立長井高等学校) を1931年に卒業し、上京する。親は医学の道を望んだが、本人は自分の好きな音楽の道へ進む。立教大学交響楽団やコンセール・ポピュレール (後の青年日本交響楽団) というセミプロ楽団でヴァイオリンを弾く。生活の糧は、当時さかんに発売されていたポピュラー音楽のレコード録音の伴奏者として得ていたものと考えられる。