吉津 正(よしづ ただし、1937年(昭和12年)6月12日… 吉津 正(よしづ ただし、1937年(昭和12年)6月12日 - 1984年(昭和59年)9月24日)は、テレビ朝日のプロデューサー。中国生まれ。 1958年(昭和33年)早稲田大学演劇科を卒業後、東映に入社。卒業論文のテーマは「映画とテレビの共存共栄」。当時の東映社長大川博に、「君、これからはテレビの時代になるよ」と言われたことが忘れられないと語る。 1963年(昭和38年)日本教育テレビに出向する(のち移籍)。しかし、結核を患い、1年間の闘病を余儀なくされる。サラリーマンにとって、病気はマイナス。特に体が資本といわれるテレビ業界では、大きな病気というのは致命的でもある。吉津の場合も結核の治療期間が、彼にある種の挫折感を与えたのは確かだった。
堀 長文(ほり ながふみ、1936年4月29日 - 2015… 堀 長文(ほり ながふみ、1936年4月29日 - 2015年11月7日)は、日本の元演出家・プロデューサー。元東映東京撮影所所属。香川県出身。早稲田大学卒業。企画会社堀屋ほり長の社長としてドキュメンタリー番組の制作に携わっていた。おいはファニメーション社長のゲン・フクナガ。 大学を卒業後、1961年に東映東京撮影所に入社。主に深作欣二に師事し、社員監督の立場で数々の作品に携わるが、監督としてはあまり作品にタッチできなかった。主な助監督作品に『刑事くん』『ジャイアントロボ』など。1971年放映『キイハンター』の一編にて監督デビュー。その後、『Gメン'75』で助監督兼監督を務めたり、大正製薬の『リポビタンD』のテレビコマーシャル演出などに携わるが、1983年よりプロデューサーの鈴木武幸からの招きで、スーパー戦隊シリーズの『科学戦隊ダイナマン』より特撮作品の演出を担当。
伊地智 啓(いじち けい、1936年2月8日 - 2020年… 伊地智 啓(いじち けい、1936年2月8日 - 2020年4月2日)は、日本の映画プロデューサー。これまでに100本以上の作品を手がけた。 2015年から多摩市議会議員(社民党)を務める伊地智恭子は娘。 1936年2月8日、兵庫県に生まれる。早稲田大学文学部を卒業。1960年、日活撮影所助監督部に入社する。1971年にプロデューサーへ転身したのち、1977年に同社を退社する。 セントラル・アーツを経て、1978年、長谷川和彦監督のために設立されたキティ・フィルムに、「映画のプロがいないから」と長谷川に引っ張り込まれて参加。長谷川監督の『太陽を盗んだ男』や相米慎二監督の『セーラー服と機関銃』を手がけ、以降も『あぶない刑事』など数多くヒット作を連発する。
橋本 幸治(はしもと こうじ、1936年1月21日 - 20… 橋本 幸治(はしもと こうじ、1936年1月21日 - 2005年1月9日)は日本の映画プロデューサー、元映画監督、東宝映画常務取締役。栃木県足利市出身。
原 徹(はら とおる、1935年12月26日 - 2021年… 原 徹(はら とおる、1935年12月26日 - 2021年12月14日)は、日本の映画プロデューサー、実業家。 トップクラフト代表取締役社長、株式会社スタジオジブリ常務取締役、株式会社スタジオジブリ代表取締役社長などを歴任した。 福岡県北九州市出身。福岡県立八幡高等学校を経て、早稲田大学入学。在学中に、しとうきねお、園山俊二、東海林さだお、福地泡介らとともに早稲田大学漫画研究会を創設。「漫画サンデー」に4コマ漫画を描く。漫画家の道は断念し、1959年に大学を卒業すると同時に東映動画に入社。 企画制作の仕事をし、1965年のテレビアニメ『宇宙パトロールホッパ』を始めとして、『ひみつのアッコちゃん』『魔法のマコちゃん』『さるとびエッちゃん』等少女向けテレビアニメの製作を担当。
近藤康弘(こんどう やすひろ、1935年 - 2025年頃)… 近藤康弘(こんどう やすひろ、1935年 - 2025年頃)は、元NHKエデュケーショナル エグゼクティブプロデューサー。『おかあさんといっしょ』に放送準備から関わった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
日下部 五朗(くさかべ ごろう、1934年7月23日 - 2… 日下部 五朗(くさかべ ごろう、1934年7月23日 - 2020年2月7日)は、日本の映画プロデューサー。岐阜県出身。 早稲田大学卒業後、1957年に東映に入社。映画『現代任侠史』『日本の首領シリーズ』などをプロデュースした。1996年、映画『藏』で日本アカデミー賞 特別賞企画賞を受賞。また、映画『楢山節考』(監督:今村昌平)でパルム・ドールを受賞。2020年、腎不全により京都府で没した。 製作総指揮を務めた『鬼龍院花子の生涯』に関しては、企画を東映に持ち込んだ梶芽衣子から批判されている。梶は『オール讀物』の連載「自伝 梶芽衣子」2017年8月号で「間違った情報がまるで事実であるかのように世間に広がっているので、野放しにできない」と初めてその経緯を話し、この日下部の話は事実無根で、日下部は自身(梶)の企画を横取りした卑劣な人間と批判している。
田中 知己(たなか ともみ、1934年7月7日 - 2015… 田中 知己(たなか ともみ、1934年7月7日 - 2015年10月21日)は東京都出身のテレビディレクター、テレビプロデューサー兼鉄道雑誌編集会社社長およびその編集者。早稲田大学卒業。 1957年日本テレビ入社。1959年にドラマ「恋人」でデビュー後、愛の劇場、日産スター劇場、サスペンス劇場といった連続ドラマ枠を担当。その後も「気になる嫁さん」、「ほおずきの唄」、「オレの愛妻物語」などのドラマや、「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」といったバラエティー番組の演出も手掛けた。1989年に日本テレビを退社しフリーとなった。 その後は鉄道月刊誌「鉄道ピクトリアル」を発行する電気車研究会に転職し同社の社長を務め、その後会長を務めた。
髙嶋 弘之(たかしま ひろゆき、1934年〈昭和9年〉5月1… 髙嶋 弘之(たかしま ひろゆき、1934年〈昭和9年〉5月18日 - )は、日本の音楽ディレクター・プロデューサー。髙嶋音楽事務所代表。「ビートルズの日本での仕掛人」として有名。一男二女の父親で、次女はヴァイオリン奏者の高嶋ちさ子。 兵庫県武庫郡御影町(現:神戸市東灘区御影)生まれ。兵庫県立神戸高等学校を経て、早稲田大学第一文学部(演劇専修)を卒業。1959年東京芝浦電気(株)レコード事業部(のちの東芝音楽工業→東芝EMI→EMIミュージック・ジャパン)入社、洋楽ディレクターとしてスタート。1964年、ビートルズの初代ディレクターとなり、訪日時にも担当。その後、邦楽担当となり和製ポップスで数々のヒットを作る。
居作 昌果(いづくり よしみ/いずくり よしみ、1934年3… 居作 昌果(いづくり よしみ/いずくり よしみ、1934年3月31日 - 2005年4月10日)は、日本のテレビプロデューサー。 元TBSにてプロデューサー、演出三部長、第一制作局長、制作局長を歴任後、制作会社・タイクスを設立し、代表取締役社長を務めた。 バラエティ番組のプロデューサーとしての手腕を、日本テレビの井原高忠、フジテレビの横澤彪、テレビ朝日の皇達也と、また自社の後輩である桂邦彦らとしばしば比較される。 息子は元電通プロモーションプラス専務執行役員の居作和果。 1934年、東京府(現在の東京都)生まれ、東京府東京市京橋区銀座(現在の東京都中央区銀座)出身。早稲田大学第一文学部英文科卒業。
鈴木 淳(すずき じゅん、1934年2月7日 - 2021年… 鈴木 淳(すずき じゅん、1934年2月7日 - 2021年12月9日)は、日本の作曲家、音楽プロデューサーである。本名:藤田 順二郎(ふじた じゅんじろう)。 夫人は元女優で作詞家の悠木圭子、前妻は作詞家の有馬三恵子。鈴木淳音楽事務所所属。 1934年(昭和9年)2月7日、山口県防府市の防府天満宮の宮司の子息として生まれる。 山口県立防府高等学校、早稲田大学教育学部国語国文学科卒業後、音楽之友社に入社、音楽雑誌の編集を手がけるが、過労により郷里に戻り、入院生活を送る。2年間の療養生活を経て、さらに2年間、同地の女子高校に国語科教諭として勤務する。合計4年の時期を経て東京に戻り、音楽之友社に復帰、音楽雑誌『教育音楽』『ポップス』の編集に携わり、『ポップス』編集長に就任する。
春日 千春(かすが ちはる、1934年2月6日 - 2016… 春日 千春(かすが ちはる、1934年2月6日 - 2016年10月16日、男性)は、日本のテレビプロデューサー。最終的な役職は大映テレビ顧問。大映テレビ制作の多くのテレビドラマにおいて、企画・プロデューサーを務めた。 長野県上伊那郡高遠町(現:伊那市)にて、5人兄弟の末っ子として出生。兄弟の上が4人とも男子で、両親は「今度こそ女の子を」と願っていたが、5人目も男子と分かるや父親はやけ気味に、当時まだ幼かったすぐ上の四男に「この中から好きなのを選べ」と命名の候補を見せて、四男が選んだのが「千春」だった。 小学1年生の時に、医師の大叔父が居た千葉県夷隅郡大多喜町に転居。旧制千葉県立千葉中学校(現:千葉県立千葉中学校・高等学校)に入学。
松本 明(まつもと あきら、1934年1月22日 - 202… 松本 明(まつもと あきら、1934年1月22日 - 2022年7月18日)は、日本のテレビディレクター・プロデューサー・小説家である。京都市右京区出身。 1952年、京都府立嵯峨野高等学校を卒業し、1957年、早稲田大学第一文学部演劇科を卒業。同年6月、大映京都撮影所企画部に入社。同年末に退社。 大映退社後、大阪テレビ放送(のちにラジオ単営局だった朝日放送と合併)に移籍。演出部に配属され、フロアディレクターとして活躍後、1960年、『サンドイッチマン物語』の演出で正ディレクターとしてデビュー。『スチャラカ社員』、『てなもんや三度笠』といった公開コメディの先駆けとなった。 のちにドラマ部門に移籍し、『女の劇場』(帯ドラマ)、『近鉄金曜劇場』、『東芝日曜劇場』(当時のキー局であるTBS制作で、系列局も持ち回りで制作していた)などの単発ドラマをはじめ、マルチカメラのスタジオドラマに勝新太郎を起用した『悪一代』(1969年)、町工場を舞台にした庶民派喜劇『おやじ火山』(1970年)などを演出。
高嶋弘之(たかしま ひろゆき、1934年 - )は、日本の音… 高嶋弘之(たかしま ひろゆき、1934年 - )は、日本の音楽ディレクター・プロデューサー。高嶋音楽事務所代表。「ビートルズの日本での仕掛人」として有名。娘はバイオリニスト・高嶋ちさ子。
天尾 完次(あまお かんじ、1933年(昭和8年)9月20日… 天尾 完次(あまお かんじ、1933年(昭和8年)9月20日 - 2011年(平成23年)7月3日)は、日本の映画プロデューサー。山口県出身。早稲田大学卒業。 1933年9月20日、山口県生まれ。早稲田大学文学部国文科卒業。小説家志望だったが、石原慎太郎『太陽の季節』(1955年)に打ちのめされて文学を断念、映画界に活路を求めた。 1956年、東映に入社。京都撮影所で量産体制のピーク期にあった時代劇の進行主任を多数つとめ、内田吐夢監督を師と仰いだ。プロデューサーとしての第一作は『若さま侍捕物帖 お化粧蜘蛛』(1962年)。その後、『十三人の刺客』(1963年)、『武士道残酷物語』(1964年)、『十一人の侍』(1967年)等、批評家から高く評価される作品を手がけたが、興行的には振るわなかった。
小泉 修吉(こいずみ しゅうきち、1933年6月7日 - 2… 小泉 修吉(こいずみ しゅうきち、1933年6月7日 - 2014年11月12日)は、ドキュメンタリー映画監督、プロデューサー。 ドキュメンタリー映像制作会社「グループ現代」元・代表取締役会長。神奈川県横浜市生まれ。 「民族文化映像研究所」取締役事務局長。「環境テレビトラスト日本委員会(TVEジャパン)」委員長。 父は、映画監督・記録映画作家の上村修吉。義妹は、滋賀県環境生活協同組合理事長、NPO法人「菜の花プロジェクトネットワーク」代表の藤井絢子(ふじい あやこ)。 早稲田大学文学部ロシア文学科卒業。上野耕三の「記録映画社」を経て、フリーのドキュメンタリー映画ディレクターとなる。 レイチェル・カーソンの『沈黙の春』 に啓発され、1967年、農村医学の先駆者である、長野県の佐久総合病院の若月俊一院長の協力を得て、自主制作映画『農薬禍』を制作・演出。
林 功(はやし いさお、1933年5月28日 - 没年不明)… 林 功(はやし いさお、1933年5月28日 - 没年不明)は日本の映画監督、映画プロデューサー、俳優。 東京都出身。1956年、早稲田大学教育学部卒業。大仁東映と日活で働いている間、多くのコメディ、犯罪、冒険と歴史を題材とした作品を撮った。また、各映画に出演し、中平康、鈴木清順、舛田利雄、鍛冶昇などの他の監督と協力した。 時期は不明だが会員である日本映画監督協会公式サイトでは物故者となっている。
大平 和登(おおひら かずと、1933年(昭和8年)1月5日… 大平 和登(おおひら かずと、1933年(昭和8年)1月5日 - 2012年(平成24年)11月15日)は、元東宝インターナショナル代表取締役・エッセイスト・演劇評論家・プロデューサー。 広島市生まれ、山口県出身。1956年(昭和31年) 早稲田大学文学部仏文科卒業後、東宝株式会社入社。 1961年(昭和36年) 米国ロスアンジェルス東宝ラブレア劇場支配人。1963年(昭和38年) ニューヨーク東宝シネマ支配人。 1965年(昭和40年) 帰国。東宝東和宣伝企画課長(出向)。 1969年(昭和44年) ニューヨーク再赴任。東宝ニューヨーク駐在代表(以後2004年まで在住)。 1985年(昭和60年) 第2回山路ふみ子文化賞受賞。
黒澤 満(くろさわ みつる、1933年 - 2018年11月… 黒澤 満(くろさわ みつる、1933年 - 2018年11月30日)は、日本の映画プロデューサー。東映ビデオ株式会社代表取締役副社長、株式会社セントラル・アーツ代表取締役を歴任。早稲田大学卒業。 1955年、日活に入社。梅田日活、名古屋日活支配人、日活関西支社宣伝課長など劇場興行職10年を経て、1970年に映画本部長室の開設に伴い俳優部次長に就任し、ダイニチ映配時代のキャスティング等を担当。1971年11月、ロマンポルノに転換した日活の企画製作の中核として多くのロマンポルノ作品をプロデュースした。"ロマンポルノ"という呼称の名付け親とも言われている。1973年10月、日活の撮影所長に就任。 1977年4月、日活役員会で旧知の社員仲間らを更迭する動議が出たため、慰留されつつも彼らと共に日活を退社。
大山 勝美(おおやま かつみ、1932年2月5日 - 201… 大山 勝美(おおやま かつみ、1932年2月5日 - 2014年10月5日)は、日本のテレビプロデューサー、演出家。TBS制作局理事、カズモ代表取締役。本名︰大山 勝美(おおやま かつよし)。 1957年、TBSに入社。演出家・プロデューサーとしてテレビドラマ畑一筋に歩み『知らない同志』『熱い秋』『想い出づくり。』『くれない族の反乱』を手がけ“ドラマのTBS”の全盛期を支えた。1992年、TBSを定年退職後はテレビ制作会社カズモを設立し、代表取締役も務める一方で、『蔵』『天国までの百マイル』『長崎ぶらぶら節』等多くのドラマを送り出した。妻は女優の渡辺美佐子。 鹿児島県姶良郡福山町(霧島市)出身。
原 正人(はら まさと、1931年11月18日 - 2021… 原 正人(はら まさと、1931年11月18日 - 2021年3月17日)は、日本の映画プロデューサー。Hara Office代表。 本名は山田 良雄(やまだ よしお)。 埼玉県熊谷市生まれ。旧制中学の埼玉県立熊谷中学校(現:埼玉県立熊谷高等学校) から第一早稲田高等学院(現:早稲田大学高等学院)に進学。結核を患い早稲田大学理工学部建築学科を中退後、今井正、山本薩夫監督などの下で制作、宣伝として第一期独立プロ運動に参加する。1958年に日本ヘラルド映画に入社、洋画ヒット作を生む傍ら、手塚治虫監督作『千夜一夜物語』(1969年)や、黒澤明監督作『デルス・ウザーラ』(1975年)、『乱』(1985年)など邦画製作に携わる。
石田 敏彦(いしだ としひこ、1930年(昭和5年)10月5… 石田 敏彦(いしだ としひこ、1930年(昭和5年)10月5日 - 2013年(平成25年)11月5日)は、日本の映画プロデューサー、実業家。12代目東宝代表取締役社長。東京都出身。
藤井 賢祐(ふじい けんゆう、1930年8月17日 - 没年… 藤井 賢祐(ふじい けんゆう、1930年8月17日 - 没年不明)は、元・日本テレビ放送網社員、テレビプロデューサー。日本テレビ版『ドラえもん』の企画を立ち上げたことで知られる。 1958年、早稲田大学第一法学部を卒業し、同年に日本テレビ(現・日本テレビホールディングス)に入社。1960年代前半に『リッピー・ハーディー珍道中』などの輸入アニメのプロデュースを手がけたのち、1960年代後半から1970年代前半にかけて、ほぼ全ての日本テレビ制作の日本テレビ系アニメのプロデュースに携わった。後述の不祥事以降はアニメ番組からは退き、主に日本テレビの報道部で活動し、ドキュメンタリー番組などを手掛けた。 『アニメージュ』1979年4月号「TBS&NTVアニメ16年史」特集のインタビューでは思い出の一作として『男一匹ガキ大将』を挙げている。
和田 勉(わだ べん、1930年〈昭和5年〉6月3日 - 2… 和田 勉(わだ べん、1930年〈昭和5年〉6月3日 - 2011年〈平成23年〉1月14日)は、日本の演出家・映画監督で、NHKディレクター、プロデューサー。退局後はタレントとしても活動した。本名は名の読みが「つとむ」。 ワダベンカンパニー代表取締役で、生島企画室(現在のFIRST AGENT)と業務提携していた。 妻は衣装デザイナーのワダ・エミ(2021年没)。 三重県松阪市生まれ、鹿児島県鹿屋市出身。鐘紡勤務だった父・和田義太郎(後に鹿屋市議、鹿屋商工会議所会頭)は転勤が多く、生後半年で松阪から京都府福知山市に移り、小学校就学前に愛知県東春日井郡鷹来村(現・春日井市)(春日井市立鷹来小学校の前身にあたる鷹来尋常高等小学校)、小学校3年生時に福島県信夫郡庭坂村(現・福島市)へ引っ越し、1年半を過ごした。
萩元 晴彦(はぎもと はるひこ、1930年(昭和5年)3月7… 萩元 晴彦(はぎもと はるひこ、1930年(昭和5年)3月7日 - 2001年(平成13年)9月4日)は、日本のテレビ制作者、音楽プロデューサー、実業家。テレビマンユニオン初代社長。 長野県飯田市出身。父・萩元隼人は、労働運動家で日本社会党→左派社会党公認で長野4区から総選挙に出馬したが、1953年の総選挙公示直前に急死した。このため身代わりとして母・萩元たけ子が立候補。トップ当選を果たし、衆議院議員を1期務めた。 1937年に一家で上京し、自由学園に学ぶ。幼少のころは虚弱児童で、小学校は病気がちで欠席が多かった。しかし勉学の方は大変早熟であり、小学校1年生のときに6年生までの漢字はほとんど読めた。
藤浦 敦(ふじうら あつし、1930年1月1日 - 2023… 藤浦 敦(ふじうら あつし、1930年1月1日 - 2023年5月28日)は、日本の映画監督・プロデューサー、脚本家、落語作家。 東京都港区赤坂出身で、実家は青果問屋の家系。先々代藤浦周吉(三周)が初代三遊亭圓朝一門を経済的に支援した縁から「圓朝」の名跡を預かることになり、「三遊派宗家」を名乗る。 祖父は藤浦周吉(三周)、父は東京市会議員も務め東京中央青果株式会社(現在の東京シティ青果株式会社)の初代社長で三遊亭圓朝関連の著書も多数出版した藤浦富太郎。 1952年早稲田大学政治経済学部卒業後、同大学大学院国文科を中退し、読売新聞記者を経て、1954年、日活入社。助監督となり、伊藤大輔監督を師と仰ぐ。
藤田 潔(ふじた きよし、1929年7月11日 - 2021… 藤田 潔(ふじた きよし、1929年7月11日 - 2021年3月9日)は、日本のテレビプロデューサー、実業家。株式会社ビデオプロモーション取締役名誉会長。 愛媛県新居浜市出身。早稲田大学商学部卒業。 「世界遺産」や「美の巨人たち」といった数々の名番組も企画している。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
秋山 邦晴(あきやま くにはる、1929年5月22日 - 1… 秋山 邦晴(あきやま くにはる、1929年5月22日 - 1996年8月17日)は、日本の音楽評論家、音楽プロデューサー、詩人、作曲家。東京都生まれ。 父は陸軍軍人でのち牧車の号で俳人となった秋山邦雄。父の転任により、1935年から1937年までの幼年期を天津で過ごす。東京都立六中(現・東京都立新宿高等学校)、長野県松本中学校(現・長野県松本深志高等学校)、早稲田大学第二高等学院を経て早稲田大学文学部フランス文学科に入学。1950年代、日比谷にあったGHQのCIE図書館(民間情報教育局)でレコード・コンサートをシリーズで開き、アメリカやヨーロッパの現代音楽を紹介。また、音楽雑誌「レコード音楽」編集長などを務めた。
堀 貞一郎(ほり ていいちろう、1929年2月6日 - 20… 堀 貞一郎(ほり ていいちろう、1929年2月6日 - 2014年2月10日)は、日本の男性プロデューサー。陶芸家。東京都出身。 80歳になるまで、全国で講演活動をするとともに、毎月ホリテーマサロンを開催。若手の育成に力を注いだ。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。 この項目は、東京ディズニーリゾートに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:ディズニー/PJ:東京ディズニーリゾート)。
チャーリー石黒(チャーリーいしぐろ、1928年1月20日 -… チャーリー石黒(チャーリーいしぐろ、1928年1月20日 - 1984年12月14日)は、日本の音楽プロデューサー。本名、石黒 寿和(いしぐろ としかず)。作曲などペンネームは城 美好。 早稲田大学理工学部卒業。大学在学中はジャズやラテン音楽に親しんでいた。1954年、自身がリーダーを務める18人編成の楽団・チャーリー石黒と東京パンチョスを結成。楽団としてテレビや舞台に出演した。また、渡辺プロダクション専属の音楽プロデューサーとして森進一や内山田洋とクール・ファイブなどを手掛けた。1983年頃に体調を崩し、療養生活を続けていたが、1984年12月14日に病で病死。
今村 昌平(いまむら しょうへい、1926年〈大正15年〉9… 今村 昌平(いまむら しょうへい、1926年〈大正15年〉9月15日 - 2006年〈平成18年〉5月30日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、日本映画学校(現:日本映画大学)の創設者。同姓同名の別人で映画関係者(小道具関連)がいる。日本映画監督協会会員。 カンヌ国際映画祭で2度の最高賞を受賞した日本を代表する映画監督の一人。松竹、日活を経て、独立プロダクションの株式会社今村プロダクションの代表取締役を務めていた。映画監督の長谷川和彦は正社員として所属した。 性格的には家父長志向が強く、そのことは一面では教育者としての顔も持ち合わせ、長谷川和彦を育て、映画人を育成する横浜映画専門学院を創立、後に日本映画学校となり、日本映画大学の母体となった。
葛井 欣士郎(くずい きんしろう、1925年11月28日 -… 葛井 欣士郎(くずい きんしろう、1925年11月28日 - 2014年4月30日)は、実業家、映画館経営者、映画・演劇プロデューサー。日本アート・シアター・ギルド(ATG)の主要な映画館「アートシアター新宿文化」総支配人として、また、ATG映画の製作者として知られる。妻は村井志摩子。 三重県伊勢市生まれ。1951年、早稲田大学文学部芸術学科卒業後、三和興行に入社。 1961年の日本アート・シアター・ギルド創設に参加。1962年には、三和翼下で、ATGの映画を上映する映画館「アートシアター新宿」が設立され総支配人に。1963年からは、映画だけではなく、前衛演劇も上演するようになる。1967年には映画館の地下にアングラ小劇場「蝎座」を設立。
市川 喜一(いちかわ きいち、1923年〈大正12年〉6月2… 市川 喜一(いちかわ きいち、1923年〈大正12年〉6月26日 - 2006年〈平成18年〉3月31日)は、日本の映画プロデューサー・元俳優である。俳優としての芸名は黒田潤。群馬県高崎市出身。妻は市川千恵子(旧姓・関千恵子、元女優)。 海軍予備学生として魚雷艇部隊に在籍した。1946年に早稲田大学法学部を卒業するとともに、黒田潤名義で、新人スターとして大映入りして、いくつかの作品に出演。デビュー作『いつの日か花咲かん』で共演した関千恵子と交際、後に結婚。 1952年に大映を退社してフリーとなる。シナリオ作家志望だった市川は、故郷の群馬県高崎市の交響楽団をモデルにした作品を構想して、今井正監督に売り込んで採用される。
徳間 康快(とくま やすよし、1921年〈大正10年〉10月… 徳間 康快(とくま やすよし、1921年〈大正10年〉10月25日 - 2000年〈平成12年〉9月20日)は、日本の実業家・映画プロデューサー。日本映画テレビプロデューサー協会、日本雑誌協会、各会員。 株式会社徳間書店社長(初代)、徳間ジャパンコミュニケーションズ社長、大映株式会社社長、徳間プレスセンター社長、学校法人逗子開成学園理事長(第5代)、逗子開成高等学校校長(第12代)、株式会社スタジオジブリ社長(初・3代)、東京都写真美術館館長(第3代)などを歴任した。他に社団法人日本映画製作者連盟理事、社団法人日本レコード協会理事、東京国際映画祭ゼネラルプロデューサーなど。 神奈川県横須賀市生まれ。
三嶋 与四治(みしま よしはる、1921年2月23日 - 2… 三嶋 与四治(みしま よしはる、1921年2月23日 - 2002年5月18日)は、日本の映画プロデューサー。 福井県出身。1941年早稲田大学専門部政経学科卒業後、同年松竹に入社するが、1942年入営。終戦で南方より復員し、松竹に復職。演劇部、松竹歌劇団製作課長を経て松竹会館支配人、プロデューサー、映画宣伝部長、テレビ部長、映画製作本部次長兼企画部長などを歴任。1969年4月28日の松竹第97期定時株主総会で取締役に就任し、総会後の取締役会で映画製作のトップ・映画製作本部長兼企画部長に就任した。当時の松竹は映画部門が長年に渡り不振が続き、演劇など他部門の利益を食う状態。映画製作のトップに就任後、松本清張作品を次々映画化し、伝統的に強い喜劇、青春映画と合わせて松竹の映画部門を立て直した。
丸林 久信(まるばやし ひさのぶ、1917年11月17日 -… 丸林 久信(まるばやし ひさのぶ、1917年11月17日 - 1999年)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、演出家、文筆家である。脚本家としての筆名に栄町 はじめ(さかえまち はじめ)がある。日本映画監督協会元会員、日本放送作家協会会員、日本脚本家連盟信託者。専修大学文学部講師、シナリオ・センター講師を歴任した。黒澤明の『生きる』、『生きものの記録』でチーフ助監督を務めたことでも知られる。 1917年(大正6年)11月17日、三重県多気郡下御糸村(現在の同県同郡明和町)に生まれる。のちに三重県立松阪高等学校の教諭を務めた丸林勝人(1921年 - 2010年)は実弟。 1937年(昭和12年)3月、早稲田第二高等学院(現在の早稲田大学高等学院)を卒業、同年4月には旧制早稲田大学文学部国文科(現在の早稲田大学文学部日本語日本文学コース)に進学、当時の恩師に河竹繁俊(1889年 - 1967年)がいた。
本木 荘二郎(もとき そうじろう、1914年6月19日 - … 本木 荘二郎(もとき そうじろう、1914年6月19日 - 1977年5月21日)は、日本の映画プロデューサー、映画監督、脚本家である。独立し、映画監督を兼ねるようになってからの筆名に岸本 恵一(きしもと けいいち)、高木 丈夫(たかぎ たけお)、藤本 潤三(ふじもと じゅんぞう)、藤本 潤二 (ふじもと じゅんじ)等がある。
佐藤 一郎(さとう いちろう、1913年12月25日 - 1… 佐藤 一郎(さとう いちろう、1913年12月25日 - 1987年10月1日)は、日本の映画プロデューサー、脚本家である。 第二次世界大戦後の新東宝、東宝、東京映画で活動した。『われ一粒の麦なれど』、「駅前シリーズ」を手がけ、日本映画製作者協会(現在の日本映画テレビプロデューサー協会)の第4代理事長を歴任した。脚本家としてのペンネームは椿 澄夫(つばき すみお)、佐藤 信一郎(-しんいちろう)とも名乗った。 1913年(大正2年)12月25日、東京市(現在の東京都)に生まれる。 早稲田大学を卒業後、東宝の前身の東宝映画に入社、戦後、新東宝の設立に参加した。1949年(昭和24年)、渡辺邦男監督の「渡辺プロダクション」と新東宝との共同製作で、同監督の『異国の丘』を同監督とともにプロデュースし、「製作」として名を連ねる。
小谷 正一(こたに まさかず、1912年7月31日 - 19… 小谷 正一(こたに まさかず、1912年7月31日 - 1992年8月8日)は、日本のイベントプロデューサー。兵庫県姫路市竜野町出身。 旧制姫路中学校(現・兵庫県立姫路西高等学校)→早稲田第二高等学院を経て、1935年に早稲田大学卒業。その後1年ほど松竹大船撮影所付属の脚本研究所に入るが、結局松竹を退社して大阪毎日新聞社に入社する。ただ毎日新聞では事業部に配属されたため、第二次世界大戦末期の一時期を除いて新聞記者として働いた時期はほとんどない。毎日新聞社主催の音楽コンクールヴァイオリン部門で第1位となった辻久子のリサイタルを企画した。 1946年に毎日新聞が紙不足の状況下、自社のダミーとして『新大阪』を発行する新大阪新聞社を設立すると、毎日新聞から同社に派遣される形で同社編集局長に就任。
伊藤 武郎(いとう たけろう、1910年7月17日 - 20… 伊藤 武郎(いとう たけろう、1910年7月17日 - 2001年11月29日)は、日本の映画プロデューサー、労働運動家。日本映画演劇労働組合の初代委員長として、東宝争議を指揮した。本名伊藤 武男(いとう たけお)。 1910年(明治43年)7月17日、福井県に「伊藤武男」として生まれる。 東京に移り、早稲田大学に入学、同学を卒業後の1937年(昭和12年)、東宝映画(現在の東宝)に入社する。東宝映画東京撮影所(現在の東宝スタジオ)で、1942年(昭和17年)、渡辺邦男監督の『武蔵坊弁慶』で伊藤基彦とともに初めて「製作」に名を連ね、映画プロデューサーとなる。 第二次世界大戦終結の翌年、1946年(昭和21年)2月に東宝撮影所で東宝争議が起きる。
児井 英生(こい えいせい、1908年8月21日 - 199… 児井 英生(こい えいせい、1908年8月21日 - 1992年3月10日)は、日本の映画プロデューサー、映画監督、脚本家、作詞家、実業家である。日活の契約プロデューサーだった時代に石原裕次郎を売り出し、小林旭をスターにした人物として知られる。本名は兒井 英男(こい ひでお)、大都映画でのペンネームは高樹 彦九郎(たかぎ ひこくろう)である。児井プロダクション代表。 1908年(明治41年)8月21日、兵庫県神戸市に鉄道院の高級官吏(神戸運輸事務所長)だった児井英松と公卿の娘だった母の長男として出生。姉が2人の末っ子だった。父の転職により、東京の渋谷に移住し、旧制中学校の私立芝中学校を経て、早稲田大学法学部に入学するが、2年次に政経学部に、3年次に文学部に転部し卒業後、衣笠貞之助に誘われ1931年に松竹キネマ京都撮影所監督部に入社した。
奥田 久司(おくだ ひさし、1908年(明治41年) - 1… 奥田 久司(おくだ ひさし、1908年(明治41年) - 1987年(昭和62年)9月10日)は日本の映画プロデューサー、映画史研究家。 1908年(大正15年)生まれ。旧制京都一中を卒業後、映画界か小説家か進路に迷った末に、早稲田大学ロシア文学科に入学。 1934年(昭和9年)、早大を病気で中退し、銀座にあった映画の通信社の「日本演芸通信社」に入社。デスクを務め、7年間在籍する。 1941年(昭和16年)、映画界への夢をあきらめられず、友人の紹介で北京の国策映画撮影所「華化映画」に入所。 1944年(昭和19年)、「大日本映画製作株式会社」に入社。監督志望だったが、企画部に配属となる。 1945年(昭和20年)、日本敗戦。
田口 助太郎(たぐち すけたろう、1907年(明治40年)8… 田口 助太郎(たぐち すけたろう、1907年(明治40年)8月10日)- 1983年(昭和58年)12月11日)は、日本の実業家、映画プロデューサー、政治家。衆議院議員。 埼玉県北足立郡草加町(現:草加市)で生まれる。1932年、早稲田大学専門部法律科を卒業した。農林省馬政局属を経て、日満工業社員、大同産業取締役社長、国際映画プロダクション理事長を務めた。 1947年4月、第23回衆議院議員総選挙で埼玉県第一区から日本自由党所属で出馬して当選し、その後、民主自由党に移り衆議院議員を一期務めた。 1949年、読売映画社社長に就任。ニュース映画製作者連盟会長、教育映画製作連盟理事長、映像文化製作者連盟理事長、産経映画社社長などを務めた。
根岸 寛一(ねぎし かんいち、明治27年(1894年)11月… 根岸 寛一(ねぎし かんいち、明治27年(1894年)11月1日 - 昭和37年(1962年)4月28日)は、戦前日本の映画プロデューサー。昭和10年(1935年)から日本映画の黄金時代である日活多摩川撮影所時代をマキノ満男らとつくりあげる。その後、満州映画協会理事を経て敗戦後はニュース映画を製作する日本映画社(日映)の社長として原爆記録映画を製作。日映を辞したのちは東急資本による東横映画、さらに東京映画配給(のちの東映)の「第四系統」(東宝、松竹、大映の後発組の邦画配給系統の意)に参画するが、公職追放により辞任。追放解除の頃には肺結核が悪化、斯界から引退した。 戦前から戦後まで古野伊之助、甘粕正彦、五島慶太という大物の影響力を利用しながら、迫害された映画人を徹底して庇護した根岸に対して、現在まで「左翼」との評価が根強く残っている。
羽鳥 風画(はとり ふうが、12月18日 - )は、日本のソ… 羽鳥 風画(はとり ふうが、12月18日 - )は、日本のソングライター、編曲家、音楽プロデューサー。 東京都出身。早稲田大学第一文学部英文科を卒業後に渡仏し、フランス国立リヨン地方音楽院を卒業。帰国後はフリーランスの作曲家として活動し、主にゲーム・アニメの主題歌やBGMを手掛けている。studio CHANT名義で活動する他、同人では羽っ鳥もさく共和国としても活動。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。
坪内 大介(つぼうち だいすけ、11月12日 - )は、株式… 坪内 大介(つぼうち だいすけ、11月12日 - )は、株式会社TBSグロウディア所属のプロデューサー。元文化放送プロデューサー。北海道出身。 早稲田大学卒業。大学時代はアナウンス研究会に所属して、主に番組企画・構成に携わる。そのかたわら放送作家としてもテレビ・ラジオを中心に活動、学生ながら高額ギャラの恩恵を受ける。大学卒業後は放送作家の道を進む予定だったが、ラジオ好きだったため文化放送に就職。早朝から深夜まで数々の番組を担当。アイドル番組・お笑い番組・音楽番組を中心に多くの番組を立ち上げる。 その後、コンサルファームに所属。コンサルタントとして新規事業・業務改善・企業IT化・デジタルマーケティング領域のコンサルを担当。
江野 夏平(えの なつへい、7月15日 - )は、テレビ朝日… 江野 夏平(えの なつへい、7月15日 - )は、テレビ朝日に所属する日本のプロデューサー。
石田 美也(いしだ みや、7月11日 - )は、日本のカント… 石田 美也(いしだ みや、7月11日 - )は、日本のカントリー・ミュージック歌手、作詞家、音楽プロデューサー。東京都杉並区出身。 スティール・ギター奏者の父・石田新太郎の影響でカントリー・ミュージックに親しみ、立教女学院中高では聖歌隊で活動。幼少時代より劇団に所属し、大学時代は早稲田大学演劇倶楽部で舞台活動、テレビ、映画のエキストラに参加。加賀まりこの兄で演劇プロデューサー加賀祥夫の「父親がカントリー音楽の仕事をしているなら、カントリーミュージック歌手になったら。」との勧めで加賀祥夫のもとで音楽を始める。大野義夫の勧めで堀威夫とスイングウエストのメンバーであった新井利昌に師事する。大学卒業後はSONYに就職し、会社員と音楽の二重生活をする。
森川 真行(もりかわ まさゆき)は、日本のテレビ・映画プロデ… 森川 真行(もりかわ まさゆき)は、日本のテレビ・映画プロデューサー。株式会社ファインエンターテイメント代表取締役。北海道出身。
亀井 登志夫(かめい としお)は、奈良県生まれ大阪府出身の作… 亀井 登志夫(かめい としお)は、奈良県生まれ大阪府出身の作曲家、音楽プロデューサー。 大阪府立大手前高等学校、早稲田大学文学部演劇科卒業。同大学在学中からキングレコードと契約しプロとしての音楽活動を開始する。また同大学生であった作詞家の康珍化と出会い、彼からユニット・TRUSTの作詞を担当してもらう。亀井は作曲・ヴァイオリン・ギター・歌唱。TRUSTは後楽園音楽祭に出演し、楽曲「ダンス」でグランプリを獲得。キングレコードからデビューし、アルバム1枚、シングル2枚をリリース。同時に劇伴・映像のための作曲も開始。以来、作曲家として山下久美子、松田聖子、渡辺美里、髙橋真梨子、斉藤由貴、夏川りみ等、数多の歌手に楽曲提供。