金 周黙(キム・ジュムク、朝鮮語: 김주묵/金周默、1918… 金 周黙(キム・ジュムク、朝鮮語: 김주묵/金周默、1918年1月14日または1920年 - 1988年11月8日)は、大韓民国のジャーナリスト、政治家。第4代韓国国会議員。 本貫は旧安東金氏。号は東石(トンソク、동석)。ジャーナリストの金相範は父、学者で元保健福祉部次官の金学黙は兄、演出家・プログラムディレクターの金在衡と金在衍、実業家の金在徽は甥。 日本統治時代の忠清北道陰城郡出身。京城公立高等普通学校、早稲田大学法学部卒。1958年の第4代総選挙では民主党の候補として陰城郡選挙区から出馬し当選したが、4・19事件の直前に自由党に鞍替えし、5・16事件の後にまた野党側に戻った。他には国務総理秘書官、韓国日報政治部長、朝鮮日報政治部長、民主党中央委員、大韓証券協会常勤副会長などを務めた。
朴 永鍾(パク・ヨンジョン、朝鮮語: 박영종、1917年2月… 朴 永鍾(パク・ヨンジョン、朝鮮語: 박영종、1917年2月19日 - 1959年4月28日)は、大韓民国のジャーナリスト、政治家。第3代韓国国会議員。 本貫は咸陽朴氏(朝鮮語版)。キリスト教徒。 日本統治時代の全羅南道光州郡出身。早稲田大学政治学部政治科卒。民族陣営の運動を行った後、光州青年団を組織した。解放後は独立促成中央協議会全南支部組織者、外務部書記官、ソウル新聞記者、湖南新聞編集局長、大韓青年団全羅南道団副団長を歴任した。1954年の第3代総選挙では自由党の候補として潭陽郡選挙区から当選し、国会内務委員・予決委員を務めたが、与党内のよくない所を糾弾したため、自由党から除名され民主党に入党した。
川越 政則(かわごえ まさのり、1916年2月20日 - 1… 川越 政則(かわごえ まさのり、1916年2月20日 - 1998年9月6日)は、日本のジャーナリスト、新聞経営者、郷土史家。南日本新聞社社長を務めた。 鹿児島県鹿児島市出身。1939年に早稲田大学法学部法律学科を卒業。佐世保海軍経理部調達係での勤務を経て、1943年4月に鹿児島日報社、後の南日本新聞社に入社し、1961年12月に取締役に就任し、1962年12月に常務、1968年3月に鹿児島テレビ放送専務を経て、1972年11月から1981年12月までに南日本新聞社社長を務めた。 1986年4月に勲三等瑞宝章を受章した。 郷土史家、民芸品収集家としても知られ、鹿児島県文化財専門委員等も務めた。著書に『南日本文化史』『南日本風土記』『鹿児島の旅』『鹿児島県史概説』『鹿児島民芸風土記』『鹿児島の美 南日本民芸図説』『焼酎文化図譜』など。
韓 泰淵(ハン・テヨン、朝鮮語: 한태연、1916年1月5日… 韓 泰淵(ハン・テヨン、朝鮮語: 한태연、1916年1月5日 - 2010年9月20日)は、大韓民国の法学者、大学教授、政治家、ジャーナリスト。第6・9・10代韓国国会議員。 本貫は清州韓氏。号は栗山(ユルサン、율산)。キリスト教徒。 咸鏡南道永興郡出身。早稲田大学法学部卒。高等文官試験行政科合格。成均館大学校、ソウル大学校法科大学、東国大学校、漢陽大学校、東亜大学校大学院で教授を務めたほか、ソウル新聞主筆、韓国憲法学会会長などを務めた。1963年の第6代総選挙で初当選以降、1973年から1980年までは維新政友会所属の第9・10代国会議員を務めた。1972年の朴正煕大統領時代には葛奉根らと共に維新憲法の制定に参加した。
宮崎 吉政(みやざき よしまさ、1915年8月8日 - 20… 宮崎 吉政(みやざき よしまさ、1915年8月8日 - 2006年3月3日)は、日本のジャーナリスト、政治評論家。
池田 雅雄(いけだ まさお、1915年1月19日 - 198… 池田 雅雄(いけだ まさお、1915年1月19日 - 1988年11月27日)は、日本のジャーナリスト、相撲評論家である。 長年にわたり、ベースボール・マガジン社の雑誌『相撲』の編集者・顧問として幅広く相撲研究に取り組み、多くの記事やエッセイを著した。本名での執筆とともに、〈国立浪史〉〈葛飾太郎〉のペンネームもしばしば使用した。奈良県桜井市出雲名誉区民、実兄はベースボール・マガジン社創設者の池田恒雄、息子は早稲田大学教授の池田雅之、姪はエッセイストの工藤美代子、姪は池田晶子、從孫は産経新聞記者の猪谷千香。 東京市本所区南二葉町(現在の墨田区亀沢)出身。「相撲の神様」として有名な野見宿禰神社の近くで育ち、少年時代は本場所前に相撲部屋の親方に連れられて必勝祈願に参詣するのを楽しみにしていたという。
金 仁湜(キム・インシク、朝鮮語: 김인식、1913年12月… 金 仁湜(キム・インシク、朝鮮語: 김인식、1913年12月22日 - 2008年2月25日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、ジャーナリスト、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員。 本貫は金海金氏。号は海石(ヘソク、해석)。 日本統治時代の黄海道海州(現・黄海南道海州市)出身。1929年に光州学生運動に参加したため、海州高校から退学し中国で高校課程を終えた。早稲田大学法学部卒業後は東亜日報海州支局長、製材業・製薬業経営を経て、解放後に西北青年会黄海道委員長、大同青年団黄海道団長・総本部西北事務処長を歴任した。1948年の初代総選挙で当選した後、制憲国会で政府内親日派粛清に関する建議特別調査委員会委員長、国家保安法代表発議者を務めた。
李 相敦(イ・サンドン、朝鮮語: 이상돈、1912年3月20… 李 相敦(イ・サンドン、朝鮮語: 이상돈、1912年3月20日 - 1997年7月14日)は、大韓民国の実業家、ジャーナリスト、政治家。制憲・第5・6代韓国国会議員。 本貫は慶州李氏。号は青居(チョンゴ、청거/靑居)。 日本統治時代の忠清南道天安郡出身。光州学生運動に関わったことにより公州高普中退、1933年徽文高等普通学校卒。早稲田大学第一高等学院を経て、1939年に早稲田大学政治経済学部経済科卒。卒業後は東亜日報に入社して記者・編集局論説部論説委員を務めたが、翌1940年に強制廃刊された。その後は京城天一薬房庶務課長、東亜薬品工業創立者・常務理事、韓国民主党中央執行委員・宣伝部次長、民主国民党宣伝部次長、民主党天安乙区党委員長・中央常務委員・政策委員を務めた。
池田 恒雄(いけだ つねお、1911年〈明治44年〉5月3日… 池田 恒雄(いけだ つねお、1911年〈明治44年〉5月3日 - 2002年〈平成14年〉2月9日)は、日本のスポーツを中心としたジャーナリスト、出版社経営者。ベースボール・マガジン社(以下、BBM)の創立者。社長・会長を歴任。 相撲評論家の池田雅雄は弟。工藤写真館が実家の妻とは離婚。作家の工藤美代子、BBM2代目社長の池田郁雄、3代目社長の池田哲雄(三男)、翻訳家の池田晶子は実子。スキー選手の猪谷千春は元娘婿。元産経新聞記者でジャーナリストの猪谷千香は孫。英文学者の池田雅之は甥。 新潟県北魚沼郡小出町(現・魚沼市)出身。旧制・新潟県立小千谷中学校を経て、早稲田大学文学部を卒業。大学在学中の1931年に雑誌「野球界」の編集に携わり、雑誌編纂や野球の魅力にとりつかれていく。
近盛 晴嘉(ちかもり はるよし、1910年5月16日 - ?… 近盛 晴嘉(ちかもり はるよし、1910年5月16日 - ?)は、日本のジャーナリスト、歴史家。 兵庫県出身。早稲田大学政治経済学部卒。大阪毎日新聞記者をへて、大阪読売新聞社勤務。1965年定年退職、帝塚山学院短期大学教授を務め、78年定年退職。ジョセフ彦記念会会長を務めた。
狩野 近雄(かのう ちかお、1909年〈明治42年〉4月5日… 狩野 近雄(かのう ちかお、1909年〈明治42年〉4月5日 - 1977年〈昭和52年〉3月10日)は、日本のジャーナリスト。毎日新聞社取締役、スポーツニッポン新聞社社長。 群馬県群馬郡古巻村八木原(現・渋川市八木原)に生まれる。旧制高崎中学校を経て、1932年(昭和7年)早稲田大学法学部を卒業。福田赳夫は高崎中学校の同級。 大学卒業後毎日新聞記者となる。東京裁判の取材ではキャップとして活躍。中部本社編集局長、印刷局長、東京出版局長、東京編集局長を歴任し、1965年(昭和40年)取締役に就任。中部本社代表、西部本社代表、常務取締役も務める。 1971年(昭和46年)よりスポーツニッポン新聞社社長、1975年(昭和50年)同会長。
禹 甲麟(ウ・ガムニン、朝鮮語: 우갑린、1909年2月21… 禹 甲麟(ウ・ガムニン、朝鮮語: 우갑린、1909年2月21日 - 2000年3月11日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、労働運動家、ジャーナリスト、政治家。第6代韓国国会議員。本貫は丹陽禹氏。 ソウル出身。中学校中退、早稲田大学法政学部卒。新幹会代議員、朝鮮日報記者、朝鮮青年総同盟調査部次長、大韓独立促成国民会創立委員・宣伝委員、反託闘争国民総動員委員、米ソ共同委員会団体代表、大韓労働総連盟事務総長、自由党訓練部長、民政党組織委員長・選挙対策委員会副委員長、新民党指導委副議長を務めた。 2000年3月11日、ソウルの新村セブランス病院で持病により死去。享年93。 柳津(朝鮮語版)と林次周が新民党を離党したことにより第6代国会議員職を喪失した後、禹は1967年6月26日に繰り上げ当選したが、任期満了日は同月30日だったため、議員を5日間しか務めなかった。
木村 象雷(きむら しょうらい、1908年(明治41年)2月… 木村 象雷(きむら しょうらい、1908年(明治41年)2月7日 - 1986年(昭和61年)1月26日)は、昭和時代の競泳選手、スポーツジャーナリスト。選手としては1928年アムステルダムオリンピックに出場。ジャーナリストとしては第二次世界大戦をまたいでオリンピック5大会の取材に当たり、『サンケイスポーツ』の創刊に携わった。 岡山県美作地方(現在の勝田郡勝央町)出身。おじに文学者の木村毅がいる。 京都市の同志社中学(現在の同志社中学校・高等学校)に学ぶ。水泳は大日本武徳会遊泳部(のちの京都踏水会)で習得したという。 早稲田大学に入学。大学在学中、1928年アムステルダムオリンピックに競泳日本代表として男子100m背泳ぎに出場したが予選落ちに終わった。
圓城寺 次郎(えんじょうじ じろう、1907年(明治40年)… 圓城寺 次郎(えんじょうじ じろう、1907年(明治40年)4月3日 - 1994年(平成6年)3月14日)は日本のジャーナリスト、実業家。日本経済新聞社社長。 千葉県印旛郡公津村下方(現:成田市下方)の農家の次男として生まれる。農家とは言っても圓城寺家は成田の近郷にその名を知られた旧家だった。旧制成田中学(現:成田高等学校)四年の時、虫垂炎を患い、更に心臓も病むようになる。健康状態が思わしくない状態が続き、圓城寺本人は東京の大学へ進むつもりでいたが、千葉医専(現:千葉大学医学部)で診察を受けると「こんな体で東京に行くなんて死に行くようなもんだ」と医者におどかされてしまう。このため、いったん進学をあきらて、自宅で無為徒食の生活を三年続けた。
池宮城 秀意(いけみやぐしく(いけみやぐすく) しゅうい、1… 池宮城 秀意(いけみやぐしく(いけみやぐすく) しゅうい、1907年1月7日-1989年5月24日)は、日本のジャーナリスト、元琉球新報社社長。
金 銕洙(キム・チョルス、朝鮮語: 김철수、1906年12月… 金 銕洙(キム・チョルス、朝鮮語: 김철수、1906年12月2日 - 1973年7月3日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、実業家、政治家。制憲国会議員。 忠清南道扶余郡出身。京城徽文高等普通学校中退。東京正則英語学校、早稲田大学専門部政経科卒。ジャーナリストとして中国の華中地域で歴遊した後、京城評論社社長、忠南興業株式会社専務取締役を経て、朝鮮建国準備委員会扶余郡副委員長、大韓独立促成国民会扶余郡支部副委員長を歴任した。 1973年7月3日、ソウル市城北区の自宅で死去。享年67。
竹節 作太(たけふし さくた、1906年4月17日 - 19… 竹節 作太(たけふし さくた、1906年4月17日 - 1988年8月12日)は、長野県下高井郡平穏村(現・山ノ内町)出身のジャーナリスト、クロスカントリースキー選手、登山家。 旧制飯山中学校を経て、1929年早稲田大学商学部卒。全日本スキー選手権大会クロスカントリースキーのリレーでは早大チームのメンバーとして1925年の第3回大会、翌年の第4回大会と連覇を果たした。日本初参加となった1928年サンモリッツオリンピックでは、クロスカントリースキー個人18kmで30位、個人耐久(50km)で26位だった。研究熱心な竹節は同大会で欧米の選手が用いていた距離スキー専用のワックスや、ヒッコリー材のスキーを大会後いち早く導入するなど、日本のスキー技術の向上につとめた。
金 汶枰(キム・ムンピョン、朝鮮語: 김문평、1906年 -… 金 汶枰(キム・ムンピョン、朝鮮語: 김문평、1906年 - 1987年1月27日)は、日本統治時代の朝鮮の銀行家、ジャーナリスト、大韓民国の政治家。第2代麗川郡郡守、制憲韓国国会議員。 本貫は霊光金氏(朝鮮語版)、初代大法院長の金炳魯は岳父、政治家の金鍾仁は妻の甥、元憲法裁判所長の尹永哲(朝鮮語版)と政治家の李宅敦は妻の姪の夫である。 全羅南道麗水出身。1932年に早稲田大学政治学部政治経済科卒。卒業後は海東銀行に就職し、1938年1月までは海東銀行本町支店次席支配人を務め、同年の漢城銀行による買収後は漢城銀行本町支店支配人代理となり、その後は東亜日報麗水支局長を務めた。 光復直後は朝鮮建国準備委員会麗水支部文化部長を務め、1945年9月には韓国民主党麗水郡党、11月には韓国民主党全羅南道党の結成に参加した。
高橋 勝之(たかはし かつゆき、1904年8月15日 - 1… 高橋 勝之(たかはし かつゆき、1904年8月15日 - 1986年6月8日)は、日本のジャーナリスト、翻訳家。 高知市出身。1927年早稲田大学第二高等学院ロシア文科卒。筆名・里見三吉。日本共産党、新日本文学会に属し、マルクス主義について執筆・翻訳を行った。
塩田 賀四郎(しおた がしろう、1904年〈明治37年〉6月… 塩田 賀四郎(しおた がしろう、1904年〈明治37年〉6月31日 - 1989年〈平成元年〉9月7日)は、昭和期の実業家、ジャーナリスト、政治家。衆議院議員。 兵庫県出身。1923年(大正12年)大阪府立市岡中学校(現大阪府立市岡高等学校)を卒業。早稲田大学法律科で学んだ。 津自動車学院校長、同校主、交通日日新聞記者、三共製作所取締役、生球精工代表取締役、政治新聞社取締役社長、大東建設社長、サン通信社長などを務めた。 日本自由党の創立委員となり同党幹事に就任し、1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で兵庫県第1区に日本自由党公認で出馬して落選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙で兵庫県第2区に出馬して落選。
長島 又男(ながしま またお、1904年1月 - 没年不明)… 長島 又男(ながしま またお、1904年1月 - 没年不明)は、日本のジャーナリスト。機関紙連合通信社設立者、日本機関紙通信社元理事長 埼玉県北足立郡小谷村(現・鴻巣市)に生まれる。旧制埼玉県立熊谷中学校を経て、早稲田大学政治経済学部に進学した。しかし、大山郁夫に絡んで、在学中の1927年に大学を中退する。 1929年、新聞連合に加入する。1936年、同盟通信社に入社し、南方部長を務める。 1945年の日本の敗戦後、同盟通信社はGHQの指令により解散となる。長島は、解体に伴って設立された共同通信社に移り、解説委員長となる。同年、民報社を設立して取締役となり、東京都で第二次世界大戦後最初に創刊された夕刊紙である『民報』を創刊して主筆を務めた。
入江 啓四郎(いりえ けいしろう、1903年4月20日 - … 入江 啓四郎(いりえ けいしろう、1903年4月20日 - 1978年8月13日)は、日本の国際法学者・ジャーナリスト。 鳥取県西伯郡春日村(現・米子市)生まれ、上海で育つ。1919年豊浦中学校中退。1921年日本中学校卒業。1923年第一早稲田高等学院卒業。1927年3月、早稲田大学法学部卒業。1927年4月、ジャパンタイムズに記者として入社。その後、日本新聞連合社記者を経て、1936年1月、同盟通信社に勤務、1937年に同社パリ支局長。1939年に同社ジュネーヴ支局長。『ヴェルサイユ体制の崩壊』全3巻を上梓する。1945年同社編集局外信部長。1945年、時事通信社編集局外信部長。1946年、同社時事研究所長。
阿子島 俊治(あこしま しゅんじ、1902年〈明治35年〉6… 阿子島 俊治(あこしま しゅんじ、1902年〈明治35年〉6月29日 - 1954年〈昭和29年〉4月30日)は、日本のジャーナリスト、政治家。 宮城県刈田郡白石町(現・白石市)生まれ。1927年早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業し、国民新聞社に入社。政治部記者、政治部次長、論説委員を歴任した。 政治ジャーナリストとして活動する一方早くから政界入りを志し、1936年に立憲民政党公認で第19回衆議院議員総選挙に立候補したが落選。その後1942年に行われた翼賛選挙で翼賛政治体制協議会の推薦候補として立候補し初当選、翼賛政治会・大日本政治会に所属した。 阿子島が総選挙に初当選したのは翼賛選挙だったが、落選したとはいえ政党解消前に民政党公認で総選挙に立候補したことがあったことや、ジャーナリスト時代に衆議院議長を務めたこともある民政党の大物政治家・藤沢幾之輔の伝記を上梓したこともあったため、阿子島は翼賛議会においては戦前の民政党の系譜を受け継ぐ政治家とみなされた。
常安 弘通(つねやす ひろみち、1902年2月28日 - 1… 常安 弘通(つねやす ひろみち、1902年2月28日 - 1988年10月3日)は、日本のジャーナリスト、新聞編集者、郷土史家。 佐賀県唐津市出身。1923年3月福岡県立中学修猷館を経て、1929年3月早稲田大学文学部哲学科を卒業。 1929年4月朝日新聞社大阪本社に入社。1936年3月中華民国北平(北京)特派員となる。1937年7月7日勃発した盧溝橋事件において、事前にその情報を掴み、現場に一番乗りして取材し、7月9日の朝日新聞朝刊の一面を飾るスクープをものにした。1939年10月西部本社編集局東亜課、1941年東京本社を経て、1942年3月中華民国済南支局長兼青島支局長、1944年9月奉天支局長を歴任するが、ここで終戦を迎え、抑留された後、1946年7月帰国。
萬 直次(よろず なおじ、1902年1月5日 - 1973年… 萬 直次(よろず なおじ、1902年1月5日 - 1973年12月12日)は、日本のジャーナリスト、新聞社経営者。元日本経済新聞社社長。北海道小樽市出身。 1926年に早稲田大学政経学部を卒業し、中外商業新報社(現日本経済新聞社)に入社。政治部記者・編集局次長・工務局長などを歴任し、1945年に取締役となる。その後常務・専務を経て、1956年社長に就任。就任後は積極的な経営政策をとり、設備の近代化・通信網の拡大・マーケティング活動の拡張などを推進した他、1964年には東京・大手町に新社屋を建設した。経済専門紙としての同紙の飛躍的な発展の基を築き、後任社長の圓城寺次郎とともに「中興の祖」と呼ばれる。
佐藤 観次郎(さとう かんじろう、1901年8月19日 - … 佐藤 観次郎(さとう かんじろう、1901年8月19日 - 1970年3月3日 )は、愛知県出身の日本の政治家、ジャーナリストである。衆議院議員8期(日本社会党所属)、中央公論編集長を務めた。愛称はサトカン。
植竹 圓次(うえたけ えんじ、1901年(明治34年)2月2… 植竹 圓次(うえたけ えんじ、1901年(明治34年)2月28日 - 1977年(昭和52年)11月16日)は、ジャーナリスト・政治家。第16 - 18代八王子市長を務めた。 1901年(明治34年)2月28日東京府八王子町元子安(現八王子市子安町)で三男として生まれる。町立第三尋常小学校(現八王子市立第三小学校)、攻玉社中学校、早稲田高等学院を経て1927年(昭和2年)早稲田大学政治経済学部を卒業。在学中に高等文官試験行政科に合格するも東京日日新聞社(現毎日新聞社)に入社。1936年(昭和11年)には整理部長、1948年(昭和23年)には毎日小学生新聞部長、1954年(昭和29年)には地方部長兼地方版編集長となり1956年(昭和31年)定年退職。
高木 翔之助(たかぎ しょうのすけ、1900年〈明治33年〉… 高木 翔之助(たかぎ しょうのすけ、1900年〈明治33年〉11月9日 – 1980年〈昭和55年〉)は、昭和のジャーナリスト・文筆家・出版業者。満洲・華北でジャーナリストとして活動し、日本による満洲国・冀東防共自治政府の樹立などを擁護した。その一方で、関東軍による出版弾圧にも激しく抵抗したことで知られる。戦後は地元・群馬県の地方ジャーナリストとして活動した。 群馬県佐波郡采女村(現・伊勢崎市)に生まれる。1923年(大正12年)、早稲田大学専門部政治経済科を中退。1925年(大正14年)5月、横浜市で週刊新聞『日本実業新報』を創刊・主宰した。1927年(昭和2年)9月に同紙を廃刊すると満洲に渡り、雑誌『海外之日本』大連支局主任となる。
本田 親男(ほんだ ちかお、1899年11月21日 - 19… 本田 親男(ほんだ ちかお、1899年11月21日 - 1980年7月30日)は、鹿児島県出身のジャーナリスト、実業家。毎日新聞社社長、会長、最高顧問、毎日放送会長、相談役を歴任した他、日本新聞協会会長を2期務めた。 本田の祖先は、武蔵国本田郷の領主・本田左衛門尉貞親で、島津忠久夫人の父。 1899年11月21日、鹿児島市下荒田町生まれ。鹿児島師範学校附属幼稚園を経て、1906年に鹿児島市立八幡小学校へ入学。このころ本田の人間形成に与えた訓育がある。旧薩摩藩独自の教育制度・郷中制度の精神を受け継いだ学舎「研明舎」での教育がそれで、本田は5歳ごろより小学校の放課後にここへ通い、先輩舎生の監督下で諸学科の復習や予習をした。
鈴木 正文(すずき まさふみ / まさぶみ、1899年〈明治… 鈴木 正文(すずき まさふみ / まさぶみ、1899年〈明治32年〉8月30日 - 1978年〈昭和53年〉5月25日)は、日本のジャーナリスト、政治家。位階は従三位、勲等は勲二等。 衆議院議員(3期)、労働大臣。 山梨県北巨摩郡出身。1925年(大正14年)、早稲田大学政治経済学部を卒業。 朝日新聞社に入社し海外特派員となる。京城支局長を経て、1940年(昭和15年)、論説委員に就任し1941年(昭和16年)に退社。その後、日本印刷文化協会理事、山梨日日新聞論説委員を務める。 戦後、1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に日本自由党から山梨県全県区(当時)で立候補するが落選した。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙に山梨県全県区で立候補し当選。
岡 延右衛門(延右エ門、おか のぶえもん、1899年(明治3… 岡 延右衛門(延右エ門、おか のぶえもん、1899年(明治32年)3月15日 - 1970年(昭和45年)12月1日)は、大正末から昭和期のジャーナリスト、政治家。衆議院議員(1期)。カトリック教徒。 長崎県北松浦郡黒島村(現佐世保市黒島町)でカトリックの家に生まれる。1924年(大正13年)早稲田大学専門部政治経済科を卒業した。同年、母校にカトリック研究会を設立し、公教青年会のメンバーとしても活躍した。 大学卒業後、『萬朝報』の記者となり、社会部長、政治部長、整理部長、編集局長を歴任。戦時下に内閣情報部嘱託、情報局嘱託、内閣嘱託となり、情報局から日・満・支のカトリック統合の使命を帯びて北京に派遣された。
岡田 益吉(おかだ ますきち、1899年 - 1981年4月… 岡田 益吉(おかだ ますきち、1899年 - 1981年4月10日)は、日本のジャーナリスト。 東京府出身。1923年早稲田大学卒。 読売新聞、東京日日新聞政治部記者、満洲国情報課長、防衛総司令部調査室。 戦後、河北新報記者、1954年より著述業。
楠山 義太郎(くすやま よしたろう、1897年(明治30年)… 楠山 義太郎(くすやま よしたろう、1897年(明治30年)6月28日 – 1990年(平成2年)1月7日)は、大正・昭和期のジャーナリスト、政治家。衆議院議員。 和歌山県日高郡由良村(現由良町)で楠山四郎右衛門の二男として生まれた。1920年(大正9年)早稲田大学政治経済学科を卒業。同年9月、大阪毎日新聞社に入社。1921年(大正10年)コロンビア大学に留学し、さらにバージニア大学で学んだ。 ロンドン特派員となり、1932年(昭和7年)リットン調査団報告書をスクープした。神戸支局長を経て、東京日日新聞外国通信部長に転じて第二次世界大戦下のヨーロッパを視察した。欧米部長、副主筆を経て、戦時中は日本タイムス社長、上海タイムス社長を務めた。
朴 瓚熙(パク・チャニ、朝鮮語: 박찬희、1897年1月29… 朴 瓚熙(パク・チャニ、朝鮮語: 박찬희、1897年1月29日 - 1972年3月2日または4月2日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、政治家。参議員。 漢字表記は朴讚熙とも。 漢城府出身。本籍地は忠清北道鎮川郡鎮川面。早稲田大学経済学部卒。1919年には出版法と保安法違反により起訴されたが、免訴放免の処分を受けた。時代日報記者、東亜日報地方部長を務めた後、韓国民主党結党に参加し、同党情報部長・運動部長・労働部長・調査部長を歴任した。その後は民主国民党と民主党の結党にも参加し、民主党中央常任委員を務めた。1950年の第2代総選挙と1954年の第3代総選挙ではいずれも落選したが、四月革命以後の第5代総選挙では民主党所属の参議員に当選し、国会交通逓信委員会委員長を務めた。
金 良洙(キム・ヤンス、朝鮮語: 김양수、1896年9月4日… 金 良洙(キム・ヤンス、朝鮮語: 김양수、1896年9月4日 - 1969年9月19日または1971年1月19日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、実業家、政治家、独立有功者。第2代韓国国会議員、原子力院(現・原子力安全委員会)院長を歴任した。 本貫は光山金氏。号は若嬰。キリスト教徒。 全羅南道順天出身。早稲田大学政経学部卒、コロンビア大学・ロンドン大学修学。東亜日報・朝鮮日報論説委員、ハワイ第二次汎太平洋会議朝鮮代表(徐載弼・金活蘭・申興雨と共同)、ニューヨーク三一新報主幹・主筆、ベルリン世界反帝同盟会議出席者、朝鮮興業株式会社重役を務めた。中国で金枓奉とハングル運動について意見を交わした後、1935年から朝鮮語学会に参加して辞典の編纂を財政的に支援したが、1942年の朝鮮語学会事件により3年間投獄され、1945年1月に懲役2年・執行猶予4年の刑を言い渡された。
中野 泰介(なかの やすすけ、1893年5月 - 没年不詳)… 中野 泰介(なかの やすすけ、1893年5月 - 没年不詳)は、日本のジャーナリスト、実業家、政治家。玄洋社社員。 中野泰次郎の二男として福岡県に生まれる。政治家中野正剛は兄。1912年福岡県立中学修猷館を経て、1917年早稲田大学政治経済学科を卒業。 九州日報社常務取締役を経て、1933年福岡市会議員に挙げられる。 長男は読売テレビ社長を務めた中野達雄。
鄭 顕模(チョン・ヒョンモ、朝鮮語: 정현모/鄭顯模、189… 鄭 顕模(チョン・ヒョンモ、朝鮮語: 정현모/鄭顯模、1893年または1901年6月27日 - 1965年1月1日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、ジャーナリスト、官僚、政治家、実業家。制憲韓国国会議員、初代慶尚北道知事、第4代忠清北道知事を歴任した。 本貫は東萊鄭氏(朝鮮語版)。号は白下(ペカ、백하)。 慶尚北道安東郡出身。早稲田大学卒。新幹会安東支会長を経て、解放後は朝鮮日報主筆、時代日報主筆を務めた。1948年の初代総選挙で当選したが、同年10月19日に慶尚北道知事に任命されたため議員を辞職した。以後初代慶尚北道知事(1948年10月18日~1950年1月23日)、第4代忠清北道知事(1952年9月~1953年11月)、自由党政務委員長、民友党結党発起人を務めた。
永川 俊美(ながかわ としみ、1892年6月 - 没年不詳)… 永川 俊美(ながかわ としみ、1892年6月 - 没年不詳)は、日本のジャーナリスト。 永川越太郎の長男として福岡県に生まれる。1912年福岡県立中学修猷館を経て、1916年早稲田大学政治経済学科を卒業。 1916年東京朝日新聞(現・朝日新聞東京本社)政治部に入社し、1923年同次長に進み、政治経済部次長を経て、1930年連絡部長に就任。その後、朝日新聞名古屋支社(現・朝日新聞名古屋本社)編集局長に転じ、1939年同支社長も兼任、1940年に名古屋支社が中部本社となるとその社長兼編集局長となる。
村島 歸之(むらしま よりゆき、1891年10月20日 - … 村島 歸之(むらしま よりゆき、1891年10月20日 - 1965年1月13日)は、日本のジャーナリスト。 自由党衆議院議員滝口帰一の三男として奈良県に生まれる。早稲田大学政治経済学部を卒業する前に母方の姓を継ぎ、村嶋姓となる。1915年、大阪毎日新聞社に入社、売春、風俗、労働問題などに関心を持ち多くのルポルタージュをものする。1925年『歓楽の墓』を上梓して自身の買春を懺悔し、賀川豊彦により洗礼を受ける。以後、廃娼運動家、社会主義者として論陣を張る。谷崎潤一郎が「蓼食ふ蟲」を連載した際は担当記者。1946年賀川とともに平和学園を創設。近年著作選集全5巻が刊行された。長男は社会評論家の村嶋健一。
渡辺 泰邦(渡邊 泰邦、わたなべ やすくに、1891年(明治… 渡辺 泰邦(渡邊 泰邦、わたなべ やすくに、1891年(明治24年)8月1日 - 1949年(昭和24年)10月5日)は、日本の政治家、ジャーナリスト。衆議院議員。旧名・長一郎。 北海道函館区船見町(現函館市)で渡辺長蔵の長男として生まれる。早稲田実業学校を経て、早稲田大学政治経済科専門部で学んだ。 その後、函館新聞記者となる。1914年、家督を相続し「泰邦」と改名。函館区会議員、函館市会議員を務める。政治家としての見識を広げるため、1923年から1928年まで、中国、蒙古、インドを経てヨーロッパ、アメリカ合衆国を視察した。 1930年、函館市で興民会を組織し、機関誌『興民』を発刊した。同年2月、第17回衆議院議員総選挙で北海道第三区から出馬して当選し、立憲民政党に所属。
大内 一郎(おおうち いちろう、1891年(明治24年)3月… 大内 一郎(おおうち いちろう、1891年(明治24年)3月11日 - 1962年(昭和37年)3月18日)は、日本のジャーナリスト、実業家、政治家。衆議院議員。号・逸堂。 福島県安達郡針道村(東和村、東和町針道を経て現二本松市針道)で、大内丈右衛門の息子として生まれる。早稲田大学大学専門部政経科を中退した。 立憲政友会に入党し、1919年(大正8年)10月、安達郡会議員に当選し(2期在任)、公立福島病院組合議員(5期)を務め、1927年(昭和2年)9月、福島県会議員に選出され4期在任した。 また、福島新聞主筆、福島民報主筆、読売新聞福島支局長を務め、1937年(昭和12年)から1941年(昭和16年)まで岩盤中央新聞を経営した。
阿部 賢一(あべ けんいち、1890年(明治23年)8月28… 阿部 賢一(あべ けんいち、1890年(明治23年)8月28日 - 1983年(昭和58年)7月26日)は、日本の経済学者・ジャーナリスト。第8代早稲田大学総長。 徳島県板野郡大山村大字神宅村(現在の上板町)生まれ。1903年(明治36年)から1908年(明治41年)までの5年間を同志社普通学校で学ぶ。同窓には湯浅八郎がいた。同志社を出た後早稲田大学大学部政治経済学科に進学。1912年(明治45年)同学科を首席卒業。同年専門学校令により設立された同志社大学に講師として赴任し、さらに1916年から2年間アメリカに留学する。 1922年、田中穂積に請われて早稲田大学に移籍。立教大学商学部(現・経済学部、経営学部)教授も務め、財政学を講じた。
崔南善(チェ・ナムソン、1890年4月26日 - 1957年… 崔南善(チェ・ナムソン、1890年4月26日 - 1957年10月10日)は朝鮮の詩人、ジャーナリスト、歴史家である。号は六堂(ユクタン)。本貫は東州崔氏。
小汀 利得(おばま としえ、1889年(明治22年)12月3… 小汀 利得(おばま としえ、1889年(明治22年)12月3日 - 1972年(昭和47年)5月28日)は、日本のジャーナリスト、時事評論家。 第二次世界大戦前は中外商業新報(後の日本経済新聞)の記者で、経済部長、編集局長、社長を歴任、戦後はTBSテレビの座談会番組「時事放談」のレギュラー出演者として有名だった。なお名前はしばしば音読みで「りとく」と呼ばれた。 島根県(旧)神門郡に8人兄弟の三男として生まれる。父は同郡川跡村役場に勤めるも、呑む打つ買うの道楽が過ぎて退職、一方母は素封家の娘で近在でも評判の働き者であったという。 早くから新聞記者を目指していた小汀は、酒屋などで小僧奉公の後、1906年に上京、当時は人気がなかった青山方面で真っ暗闇のなか新聞配達で学資を稼ぎつつ、国民英学会に一時籍を置いたりしながら正則英語学校、研数学館など複数校に通ったが、これらの学校では当時中学校卒業資格を得られなかったため、やがて早稲田大学の独特の資格試験に臨み、同大学予科入学。
横山 昊太(よこやま こうた、1889年(明治22年)5月8… 横山 昊太(よこやま こうた、1889年(明治22年)5月8日 - 1974年(昭和49年)7月20日)は、岡山県岡山市旭町出身のジャーナリスト、政治家。岡山新聞社長。旧姓・佐藤。位階は正五位。 1889年5月8日、岡山市旭町に生まれる。佐藤武一郎の二男。1916年、横山家の養子となる。1919年、早稲田大学専門部政治経済科を卒業、同年、中国民報(現・山陽新聞)へ入社。記者として働く。岡山毎夕新聞、岡山新聞各社長をつとめた。 1921年、岡山市会議員となる。1925年、憲政会岡山支部を創設。その後、市会議長、岡山県会議員を務める。 1951年、岡山市長に当選。1955年まで1期務める。 退任後は、岡山市政顧問、三恵工業会長を歴任した。
矢野 晋也(やの しんや、1888年〈明治21年〉4月25日… 矢野 晋也(やの しんや、1888年〈明治21年〉4月25日 - 1948年〈昭和23年〉3月2日)は、日本の政治家、ジャーナリスト。衆議院議員(立憲政友会)。 鳥取県西伯郡米子町道笑町(現在の米子市)出身。矢野市郎兵衛の三男あるいは六男。矢野藤十郎の弟。鳥取県立米子中学校を卒業後、1906年(明治39年)より『東京日日新聞』記者となった。そのかたわら早稲田大学政治経済科で学び、1910年(明治43年)に卒業した。 その後『中央新聞』を経て、1911年(明治44年)に二六新報社に入社し、社会部長を務めた。1917年(大正6年)に政治部長に転じ、1924年(大正13年)に社長の秋田清が辞任すると、後任の社長に就任した。
緒方 竹虎(おがた たけとら、1888年〈明治21年〉1月3… 緒方 竹虎(おがた たけとら、1888年〈明治21年〉1月30日 - 1956年〈昭和31年〉1月28日)は、日本のジャーナリスト、政治家。交詢社会員、朝日新聞社副社長・主筆、自由党総裁、自由民主党総裁代行委員、国務大臣、情報局総裁、内閣書記官長、内閣官房長官、副総理などを歴任。栄典は正三位勲一等旭日大綬章。 兄の緒方大象は医学者・九州大学名誉教授、弟の緒方龍は医師。二男の緒方研二は元日本電気(NEC)副社長、三男の緒方四十郎は元日本銀行理事。 早稲田大学卒業後、東京朝日新聞社に入社。若くして主筆となり、1943年副社長。1944年退社し政界入り。情報局総裁、小磯内閣、東久邇内閣で国務相となる。
野村 秀雄(のむら ひでお、1888年1月8日 - 1964… 野村 秀雄(のむら ひでお、1888年1月8日 - 1964年6月20日)は、日本のジャーナリスト、放送経営者。朝日新聞社代表取締役、熊本日日新聞社社長、第8代日本放送協会(NHK)会長を歴任。広島県双三郡原村(現・三次市十日市町)出身。 旧制三次中学校(現・広島県立三次高等学校)を経て1911年、早稲田大学専門部法律学校卒業。立憲政友会の機関誌中央新聞に就職、続いて徳富蘇峰社長の國民新聞に移った。ここで原敬の信頼を得て政治記者として大成の道を歩む。1920年朝日新聞社入社。38歳で政治部部長となり取材体制の近代化、政治記事の刷新を行い、記憶力のよさと行動的取材力で「夜討ち朝駆け」の記者像をつくったと言われる。
仲吉良光(なかよし りょうこう、1887年(明治20年)5月… 仲吉良光(なかよし りょうこう、1887年(明治20年)5月23日 - 1974年(昭和49年)3月1日)は、沖縄県出身のジャーナリスト、政治家。後半生を沖縄の日本復帰運動に挺身し、「復帰男」「沖縄復帰の父」と呼ばれた。 首里儀保村に生まれる。1908年、沖縄県中学校を卒業し、早稲田大学英文科に入学する。大学在学中はキリスト教と文学に傾倒した。1912年、早稲田大学を卒業し、『琉球新報』記者となり、のちに『沖縄朝日新聞』を創設した。1919年に上京し、『東京日日新聞』記者となる。1921年にはアメリカ合衆国に移住し、1923年、ロサンゼルスの羅府新報社に入社し、1925年には帰国し、東京日日新聞社に再入社する。
山田 毅一(やまだ きいち、1887年(明治20年)1月21… 山田 毅一(やまだ きいち、1887年(明治20年)1月21日 – 1953年(昭和28年)4月15日)は、衆議院議員(立憲民政党)、ジャーナリスト。 富山県東礪波郡福野町(現在の南砺市)出身。早稲田大学・東京外国語学校に学んだ後、『東京日日新聞』・『やまと新聞』・『國民新聞』の記者を務めた。その間、樺太・沿海州・南洋諸島・欧米諸国などを歴訪した。その後、復興通信社を創業し、社長に就任した。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第17回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。 その後、南進社、南方産業調査会を主宰し、南方政策を研究した。