三木 克己(みき かつみ、1900年 - 1972年)は日本… 三木 克己(みき かつみ、1900年 - 1972年)は日本の中国文学者。 1900年兵庫県生まれ。1972年死去。京都大学中国文学科卒。大谷大学教授を務める。三木清の弟。 古今東西の文学、特に小説を耽読する。中国の史書が時に小説よりも小説的であることを、いち早く見抜いていた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
竹山 晋民(たけやま しんみん、本名は竹山 晋一郎=たけやま… 竹山 晋民(たけやま しんみん、本名は竹山 晋一郎=たけやま しんいちろう、1900年 - 1969年)は、日本の鍼灸師・ジャーナリスト・政治家。 茨城県真壁郡出身。早稲田実業学校を経て1925年に慶應義塾大学経済学部を卒業、大阪時事新報に入社し社会部記者となる。病を得て一時危篤状態に陥った際に漢方医の治療で一命を取り留めたことから東洋医学に関心を持ち、駒井徳三の紹介で1938年に雑誌『東邦医学』編集部入り。1939年に弥生会(現経絡治療学会)の世話人となる。1941年に漢方医学復興の理論を出版し、1942年に鍼灸師資格を取得。戦後は1953年の第26回衆議院議員総選挙に日本共産党公認で茨城県第3区から出馬したものの落選した。
寺内 寿太郎(てらうち じゅたろう 1900年? - 没年不… 寺内 寿太郎(てらうち じゅたろう 1900年? - 没年不明)は、昭和初期の詩人。川柳にも才能を発揮し、当時流行の探偵小説にも凝ったことがある。慶應義塾大学初の箱根駅伝ランナーでもある。 評論家山岸外史のいとこ。幼時に父を日露戦争で亡くし、親戚の間を転々として育つ。伯父の世話で慶應義塾大学部理財科(現在の経済学部)を卒業して会社勤めをしていたが、不遇を託ち、家出すること数回。伊豆の天城山の奥深く分け入り、自殺を企てたこともあるが、10日間消息を絶った後、親戚に発見されて連れ戻された。なお、慶大時代は競走部(陸上部に相当)に所属し、箱根駅伝にも3回(1920年〈第1回大会でもある。区間4位〔最下位〕〉,1921年〈10区。
金 文輔(キム・ムンボ、日本語読み: きん ぶんすけ、朝鮮語… 金 文輔(キム・ムンボ、日本語読み: きん ぶんすけ、朝鮮語: 김문보、1900年〈光武3年〉 - 没年不明)は大韓帝国出身のバリトン歌手、作曲家。 大韓帝国大邱郡出身。1918年、京城の徽文義塾(朝鮮語版)卒業後に日本に渡航。1919年、東京音楽学校予科に特別入学。1924年3月、同校本科声楽部を修了。東京音楽学校在学中に船橋榮吉とハンカ・ペツォルトに、修了後にマルガレーテ・ネトケ=レーヴェに師事。関東学院の音楽教員となった。作曲家としての作品に『朝鮮樵夫の哀調歌』がある。 ソプラノ歌手であった先妻の吉澤なを(金直子)と結婚。移住の直前に文輔の弟子であった長野県出身の宇田豊子(朝鮮名:金朝美、キム・チョミ)と再婚。
西川 浩(にしかわ ひろし、1900年 - 1951年)は、… 西川 浩(にしかわ ひろし、1900年 - 1951年)は、日本の造園家。東京美術学校(美校)出身。美校では建築家の吉田五十八と同期。卒業後は1924年に開校した東京高等造園学校に第一期生として入学するが、自分の興味のある授業しか受講しないので、落第する。その後、造園家として独立。 その他、鎌倉山松本氏別邸庭園などがある。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
深谷伊三郎(ふかや いさぶろう、1900年 - 1974年)… 深谷伊三郎(ふかや いさぶろう、1900年 - 1974年)は、日本のきゅう師、灸関連書籍著者、一般社団法人日本鍼灸師会学術部長、第20回日本鍼灸治療学会会長、東京高等鍼灸学校(現・東京呉竹医療専門学校)講師、鍼灸之世界社主宰。 東京府東京市麹町区中六番町(現在の千代田区四番町)生まれ、番町尋常高等小学校(現:千代田区立番町小学校)卒業。早稲田大学入学、日本大学法学科卒業。 小学校卒業後、奉公に出て箱を作る仕事に従事した。小学校しか出でいなかったが、ある日日本大学法制学会発行の普通文官養成講義録と言う通信講座の新聞広告を目にする。その通信講座を一年間受講して卒業試験に合格すれば日本大学専門部に無試験で入学出来た。
渡辺 輝一(わたなべ きいち、1900年 - 1988年)は… 渡辺 輝一(わたなべ きいち、1900年 - 1988年)は、日本の経済学者。専門は経済政策。太平洋戦争中南洋学院教授を務め、日本の降伏後、横浜国立大学経済学部学部長などを経て、横浜国立大学名誉教授。 愛媛県出身。1923年に東京商科大学(現一橋大学)卒業。町田實秀(のちに法制史学者、一橋大学名誉教授)とは三浦新七ゼミの同期。1924年に横浜高等商業学校が開校されると同校教授に着任し、商業政策、交通論、商業英語を担当した。また、同校と横浜市立横浜商業専門学校の教授の懇談会をイスペ会と命名した。ゼミの指導学生に上野豊(のちに横浜商工会議所会頭等)などがいた。 1941年に太平洋戦争が始まると、横浜高等商業学校内に、田尻常雄校長が自らが所長となり設立された太平洋貿易研究所において、各務財団から助成を受けて調査研究に従事し、さらに仏印進駐後には、1942年に新設された南洋学院の教授に就任し、フランス領インドシナでの現地調査も行った。
大野 信三(おおの しんぞう、1900年 - 1997年)は… 大野 信三(おおの しんぞう、1900年 - 1997年)は、大正から昭和の日本の経済学者、教育者。明治大学商学部教授・商学部部長、創価大学経済学部教授・経済学部長、中央大学教授、立教大学教授。理論経済学の泰斗として知られる。 1900年、北海道生まれ。 1921年(大正10年)、立教大学商科を卒業後、立教大学教授に就任。同年、留学生として渡欧し、ベルリン大学において経済学の研究に従事する。 熱心に研究活動を行っていたところ、立教大学より帰国するよう命じられ、1926年(大正15年)にシベリア鉄道経由で帰国するものの、なぜか大学教授の職を解かれてしまう。大野は当時病気のため、仕方なく郷里の北海道へ帰り、静養のかたわらで専攻科目の研究に没頭した。
左本 政治(さもと まさじ、1900年 - 没年不詳)は、日… 左本 政治(さもと まさじ、1900年 - 没年不詳)は、日本の新聞記者、演劇・舞踊評論家。「女剣劇」の命名者とされる。 1900年(明治33年)、北海道に生まれる。大正時代に上京し早稲田大学に入学。卒業後、1928年(昭和3年)に都新聞社(1942年より東京新聞)に入社、演劇記者となる。1936年(昭和11年)、浅草で観劇した不二洋子の剣劇芝居を「女剣劇」と記事で紹介したことから、「女剣劇」の名付け親とされる。第二次世界大戦中に空襲で家を焼かれ、東京新聞を退社し妻と娘を連れて北海道へ疎開、北海タイムスで働く。1951年(昭和26年)に再び上京し報知新聞社に入社する。1960年(昭和35年)に定年退職後は、演劇・舞踊の評論家として活躍。
末光 賢吉(すえみつ けんきち、前名・一郎、1900年(明治… 末光 賢吉(すえみつ けんきち、前名・一郎、1900年(明治33年) - 没年不明)は、日本の実業家。関門日報社会長。 山口県下関市出身。末光鉄之助の長男。前名・一郎を改める。1926年、早稲田大学専門部法科を卒業する。父経営の関門日日新聞に入り社長秘書兼会計課長を経て、1942年1月合併と共に関門日報社監査役。住所は山口県下関市阿弥陀寺町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
下山 重丸(しもやま しげまる、1900年(明治33年) -… 下山 重丸(しもやま しげまる、1900年(明治33年) - 1998年(平成10年))は、国際的庭園家。 群馬県太田市出身。趣味に篆刻。 1918年(大正7年)に渡米。1919年カリフォルニア大学に入学。建築学科に学び、1924年に卒業し建築学士の称号を得る。その後マサチューセッツ工科大学に進もうとしたが、建築は肌に合わず、ランドスケープ学専攻もあるハーバード大学デザイン大学院に進学。Master oflandscpe architecture in city planningに籍を置き、そこの院生として、都市計画の中に位置づけされた造園を専攻することにした。1930年に修了。なお修士称号のM.LACPはこれっきりで、自身を含めわずか8人しかもっていない。
濱野 重郎(はまの じゅうろう、1900年〈明治33年〉- … 濱野 重郎(はまの じゅうろう、1900年〈明治33年〉- 1975年《昭和50年〉10月1日)は、日本の教育者。学校法人清明学園(清明幼稚園・清明学園初等学校・清明学園中学校)の創立者である。 大正自由教育の拠点であった成城小学校にて教鞭を執った後、その理想を追求するために独立し、1930年に清明学園を創設した。 徹底した児童中心主義を基盤とし、机上の空論よりも独自の「遊び」や「体験」を重視する教育を確立。 戦後は日本私立小学校連合会の初代会長として私学教育を牽引する一方、小中一貫教育の実践など、常に子どもの成長を見据えた先駆的な取り組みを行った人物である。 長崎県佐世保市出身。長崎県師範学校(現・長崎大学教育学部)を卒業後、教職に就く。
吉田 五郎(よしだ ごろう、1900年 - 1993年)は、… 吉田 五郎(よしだ ごろう、1900年 - 1993年)は、日本の技術者で、キヤノンのルーツである精機光学研究所の創業者。 広島県福山市出身。小学生からカメラを分解し組み立てるというカメラ少年で、これが病みつきになり福山中学(現・福山誠之館高校)を学業半ばにして1917年上京。機械知識を生かして光学精密機械の輸入商社に出入りしたのが切っ掛けで映画の世界に入り、映写機関係の仕事に身を託した。この期の技術習得が実を結び、昭和の初めには映写機の修理、改良の域を脱し、製作にも手を伸ばしていた。日本初の本格的なトーキー映画といわれる『マダムと女房』(1931年)で使われた土橋式の録音機は土橋武夫・土橋晴夫兄弟の製作した物であるが、再生機は吉田が中国の上海で買って来た物が使われたという。
アンドウ ゼンパチ(本名 安藤潔、1900年(明治33年) … アンドウ ゼンパチ(本名 安藤潔、1900年(明治33年) - 1983年(昭和58年))は、広島県出身の著述家、啓蒙活動家。ブラジル日系社会の文化的発展に貢献。
額田 長(ぬかた ひさし、1900年(明治33年)- 198… 額田 長(ぬかた ひさし、1900年(明治33年)- 1984年(昭和59年)5月31日)は、日本の著名な剣道家および居合道家である。その段位称号は剣道範士八段、居合道範士九段に達している。 額田長は1900年、香川県高松市の銀行家の家庭に生まれた。1914年(大正3年)、県立高松中学校に入学し、体育祭の剣道行事で突如10人を勝ち抜き、これが剣道を始めるきっかけとなる。同校剣道部の師範であった植田平太郎(天真正伝神道流)に師事し、その才能を開花させた。 1918年(大正7年)、東京高等商業学校(現・一橋大学)への入学を目指し上京するが、受験には失敗した。この時、九段坂で高野佐三郎(中西派一刀流)が主宰する道場「明信館」を見つけ、そこに入門した。
梅本 貞雄(うめもと さだお、1900年 - 1961年9月… 梅本 貞雄(うめもと さだお、1900年 - 1961年9月22日)は、長崎市生まれの写真史家。1920年代から日本の写真の歴史の研究を行い、日本初の写真史家といわれる。 1900年に長崎の写真師上野彦馬撮影局があった伊勢町中島川畔で産まれる。祖父梅本栄太郎、祖母ことの手で養育されたが、祖父は上野の友人で、幼い梅本によく上野の話をしていたという。梅本は長崎市立勝山小学校をへて、市立長崎小学校に入学後、郷土史家古賀十二郎に私淑して「我国の文明史料の研究」「開港場長崎の歴史」の研究を開始。古賀の薫陶をうけ、長崎が写真発祥の地と知り、上野彦馬と門下生の研究を始める。長崎商業学校時代には、写真術も修業した。
田中 隆三(たなか りゅうぞう、1900年 - 1991年2… 田中 隆三(たなか りゅうぞう、1900年 - 1991年2月22日)は日本の編集者。『鉄道ピクトリアル』を発行する電気車研究会の初代社長であり、元鉄道省職員である。
赤木 志津子(あかぎ しづこ、1900年 - 1990年12… 赤木 志津子(あかぎ しづこ、1900年 - 1990年12月8日)は、日本の歴史学者。日本史、特に平安時代の文化史を専門とし、日本文学研究との学際的な研究を行い、お茶の水女子大学、都留文科大学などの教員を務めた。 大学を卒業した女性の歴史学者としては、最初期の先駆的存在であった。 福井県今立郡神明村(後の鯖江市)に生まれた。父は陸軍主計将校、母は御家人の家の娘で、志津子は、夭折した長男に続いて生まれた三姉妹の次女であった。父の転任にともない石川県金沢市へ移り、次いで父の台湾への派遣にともない、母の実家のあった静岡県静岡市へ移った後、1905年以降は父の転任に従って広島県広島市に定住した。このため、出身地は広島市とされることもある。
曹 承宗(そう しょうそう、1900年 – 1945年)は中… 曹 承宗(そう しょうそう、1900年 – 1945年)は中華民国・満洲国の官僚。 日本へ留学し、慶應義塾大学理財科と鉄道省立鉄道行政専科を卒業した。帰国後は奉海鉄路車務処運転科長、奉天交渉署第二科長、東北憲兵司令部秘書、遼寧省政府諮議を歴任した。 満洲国建国に際しては奉天省政府諮議となり、1934年(康徳元年)に同省実業庁長となる。1940年(康徳7年)1月に地籍整理局長となり、翌月、地政総局長に改任された。1942年(康徳9年)9月28日、安東省長に起用され、満洲国崩壊までこの地位にあった。 1945年8月に満洲国崩壊した後は、国務総理大臣だった張景恵の呼びかけに応じ、「安東省地区治安維持会」を創設して蔣介石国民政府(中国国民党)との連携を図った。
手塚 粲(てづか ゆたか、1900年(明治33年) - 19… 手塚 粲(てづか ゆたか、1900年(明治33年) - 1986年(昭和61年)5月14日)は、日本の会社員、アマチュア写真家。丹平写真倶楽部のメンバー。手塚治虫の父としても知られる。 司法官・手塚太郎の子として東京に生まれる。 1921年(大正10年)、中央大学法学部を卒業後、大阪の住友倉庫に入社する。後に、住友伸銅鋼管(1935年〔昭和10年〕、住友金属工業となる)に異動となる。同社にて勤務する一方、当初は東京写真研究会関西支部に所属、その後、丹平写真倶楽部へと参加した。前衛的な写真家であったとされ、丹平写真倶楽部においては、その実験的作風によって台頭し、丹平十傑の一人とされた。 「写真家四十八宜(しゃしんをうつすひとよんじうはちよろし)」は、48ヶ条にわたって写真家の心得をまとめたもので、丹平写真倶楽部の会員であった安井仲治によって光芒亭主人の名で発表されたが、これは同じく同倶楽部の会員であった手塚とともに考え出したものとされる。
赤尾 晃(あかお あきら、1900年 - 没年不明)は、日本… 赤尾 晃(あかお あきら、1900年 - 没年不明)は、日本の医化学者。専門は、家蚕の成長、吐糸、体液成分、また絹糸の縫合糸材料への応用など。カイコの卵巣を用いた先駆的な実験により生体における亜鉛の必須性に言及したことでも知られる。 1900年大阪府生まれ。1925年東京帝国大学(現在の東京大学)医学部卒業。1926年7月19日京城帝国大学医学部医化学教室助教授、1938年3月31年免官。以降、農林省(現在の農林水産省)蚕糸試験場嘱託として活動。
長谷 秀雄(はせ ひでお、1900-1986年)日本の彫刻家… 長谷 秀雄(はせ ひでお、1900-1986年)日本の彫刻家。大分県別府市生まれ。 彫刻家 朝倉文夫に師従し、現在の東京藝術大学の前身である東京美術学校(旧制)を修了。 京都西本願寺 大谷尊由の支援を受け、埼玉県蕨市中央三丁目にアトリエを開設。終戦の2年後(昭和22年)には蕨画塾(わらびがじゅく)を開塾、翌年(昭和23年)には埼玉県から各種学校の認可を受けている。芸術家を志す人だけでなく広く一般人を受け入れ、戦後美術の発展に寄与した。 閉校するまでの受講生は約1300名、現在の東京藝術大学にも200名以上の塾生が入学した。東京芸術藝術大学教授の安井 曾太郎は画塾を「芸大分校」と形容している。 随筆集『随筆画窓漫談』には熊本の「とのさん」こと細川護立侯と当時の美術界の面々の日常が記され、歌集『浩然居歌集』の題字も細川侯より寄稿されている。
小山悌(こやま やすし、1900年(明治33年) - 198… 小山悌(こやま やすし、1900年(明治33年) - 1982年(昭和57年)8月25日)は、日本の航空機・林業機器技術者、実業家。第二次世界大戦中は中島飛行機技師長・取締役、中島飛行機三鷹研究所長・黒沢尻製作所長(第1軍需工廠第21製造廠長)、戦後は岩手富士産業(中島の後身富士重工業系、現・イワフジ工業)取締役。 大日本帝国陸軍(陸軍航空部隊)の九七式戦闘機・一〇〇式重爆「呑龍」・一式戦闘機「隼」・二式戦闘機「鍾馗」・四式戦闘機「疾風」の設計主務者であり、戦前日本を代表する航空機技術者であった。 第二高等学校を経て、1922年(大正11年)4月に東北帝国大学工学部機械科進学。卒業後は理学部助手を務め、1925年(大正14年)12月に一年志願兵(学歴と財力を持つ者を対象に短期間の現役期間の後に予備役幹部に登用する制度、のちの幹部候補生制度)として帝国陸軍の電信部隊(在中野)に入営する。
兼島 信栄(かねしま しんえい、1900年 - 没年不明)は… 兼島 信栄(かねしま しんえい、1900年 - 没年不明)は、日本の政治家、空手家、弁護士、画家。沖縄県那覇市首里寒川町出身。 東京都北区に疎開し、警察官として勤務した。 日本大学法学部を卒業して弁護士となる。 1947年9月10日、美里村で琉球社会党を結成し、10月20日には兼島信栄の第一次沖縄社会党に合併。沖縄社会党は沖縄民主同盟や沖縄人民党とともに知事・議会議員の公選を訴え、アメリカ合衆国による沖縄統治の下での琉球独立を模索した。 山城善光によれば、1949年5月1日以後、社会党・民主同盟・人民党の3党からなる「民族戦線演舌会」が開催されると、那覇市を皮切りに、糸満、石川、名護、本部、今帰仁、大宜味で盛況を収めたという。
朴 祺培(パク・キベ、朝鮮語: 박기배、1900年または19… 朴 祺培(パク・キベ、朝鮮語: 박기배、1900年または1913年ごろ - 1977年1月5日)は、大韓民国の農家、政治家。第2代韓国国会議員。 全羅南道海南郡出身。明治大学法科卒。瑞山郡で農場を経営した後、無所属・自由党所属の国会議員を務めた。国会議員在任中も政治活動より農場の経営に熱心で、国会への欠席が多かった。 1977年1月5日、ソウル市冠岳区の自宅で持病のため死去。64歳没。 この項目は、政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。 この項目は、朝鮮に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:朝鮮)。
趙 憲泳(チョ・ホニョン、朝鮮語: 조헌영、1900年または… 趙 憲泳(チョ・ホニョン、朝鮮語: 조헌영、1900年または1901年1月8日 - 1988年5月23日)は、日本統治時代の朝鮮、大韓民国および朝鮮民主主義人民共和国の韓医学者、韓医師、政治家、独立運動家。制憲・第2代韓国国会議員、元在北平和統一促進協議会書記長。 本貫は漢陽趙氏(朝鮮語版)。字は応文、号は海山。趙光祖の子孫で、元義兵隊長の趙承基は祖父、教育者の趙寅錫は父。元国立図書館長の趙銀泳は兄、元大邱市長・慶尚北道知事の趙俊泳は弟、時調詩人の趙愛泳は妹。詩人の趙芝薫(趙東卓)と趙東振(朝鮮語版)は息子、外交官・外交部長官の趙兌烈は孫。 慶尚北道英陽郡日月面出身。祖父と父から四書三経や漢文を学んだ後、大邱公立高等普通学校卒。
金 鍾烈(キム・ジョンヨル、朝鮮語: 김종열、1900年また… 金 鍾烈(キム・ジョンヨル、朝鮮語: 김종열、1900年または1901年2月28日 - 1985年5月29日)は、大韓民国の裁判官、政治家、弁護士。第2代韓国国会議員。 キム・ジョンニョル(김종렬)とも表記される。キリスト教徒。 忠南大田(現・大田広域市)出身。京城帝国大学(現・ソウル大学校)法文学部法科卒。清州地方法院判事、大田地方法院判事、第2代国会民議院法制司法委員会委員、大韓労総法律顧問、法務部秘書官を務めた。 1985年5月29日、ソウル市江南区の自宅で老衰により死去。享年84。 1950年の第2代国会第8回第51次本会議において、日程が急であるため、緊急議案を議事日程への掲載ができなかったことや印刷物を配布できなかったことについて、壇上で謝罪し弁解した。
片山牧羊(かたやま ぼくよう、1900年(明治33年) - … 片山牧羊(かたやま ぼくよう、1900年(明治33年) - 1937年(昭和12年)8月26日)は、大正、昭和初期の日本画家。庄田鶴友、蔦谷龍岬、荒木十畝に師事し、旧帝展特選1回入選3回に及んでいた。 1900年、尾道市長江町に生まれる。本名健三。父は漢学者の片山辰之助。1915年、大阪で南画を学ぶ。また、合川澄水に書道を学ぶ。1917年、京都で、庄田鶴友に師事し日本画を学ぶ。また、山本竟山に書道を学ぶ。この頃、短歌集『曼珠華沙』を作る。1921年上京し、蔦谷龍岬塾・鐸鈴社に入門、本格的に日本画を学びはじめる。1927年、第8回帝展に「おぼろ」(広島県立美術館所蔵)を出品、初入選で特選を受賞する。
大西 猪之介(おおにし いのすけ、1888年(明治21年)1… 大西 猪之介(おおにし いのすけ、1888年(明治21年)12月28日 - 1922年(大正11年)2月8日)は日本の経済学者。専攻は経済哲学・経済思想史。 京都市上京区に生まれる。1905年、京都市立商業学校を卒業し神戸高等商業学校(現・神戸大学)に入学。津村秀松に師事し、1909年、500頁に及ぶ卒業論文「帝国主義論」を提出(のち刊行)して卒業し東京高等商業学校専攻科(現・一橋大学)に入学。關一の指導を受け、關の退官後は福田徳三の指導を受けた。1911年には卒論「社会主義に関する研究」を提出し卒業し、同年小樽高等商業学校(小樽商科大学の前身)講師、小樽高等商業学校図書館主幹に就任。 1913年、同校の教授に昇任し、同年1月から1917年8月まで「経済学及商業学研究」のためヨーロッパに留学した。
菊池 寛(きくち かん、旧字体: 菊池 寬、1888年〈明治… 菊池 寛(きくち かん、旧字体: 菊池 寬、1888年〈明治21年〉12月26日 - 1948年〈昭和23年〉3月6日)は、日本の小説家、劇作家、ジャーナリスト。本名の読みは「きくち ひろし」。実業家としても文藝春秋社を興し、芥川賞、直木賞、菊池寛賞の創設に携わった。帝国芸術院会員。 生家は高松藩の儒学者の家柄。幼少期より旺盛な読書家であった。京大英文科卒。芥川龍之介などの『新思潮』に参加。 著作に『屋上の狂人』(1916年)、『父帰る』(1917年)などの戯曲のほか、『忠直卿行状記』(1918年)、『藤十郎の恋』(1919年)(のち脚色)などの小説がある。人生観や思想を基盤とした明快な主題を打ち出した、いわゆるテーマ小説が特徴である。
斎藤 源八(さいとう げんぱち、1888年12月26日 - … 斎藤 源八(さいとう げんぱち、1888年12月26日 - 1970年5月6日)は戦前の日本ホーリネス教会(戦後の日本ホーリネス教団)の牧師である。 1888年(明治21年)に長野県小県郡西内村(現上田市)に生まれる。1906年(明治39年)に日本聖公会上田教会に出席し、同教会で1907年(明治40年)に聖公会の洗礼を受ける。 1909年(明治42年)に上京し単立教会・本郷浅嘉町教会に出席する。そこで、初めて救いの確信を得る。その後、牧師になるため直接献身する。聖書学院に入学し、神学を学ぶ。 1916年(大正5年)に聖書学院を卒業し仙台福音伝道館の牧師に任命される。 その後、兵庫県武庫郡住吉村で開拓伝道をする。
尾山 三郎(おやま さぶろう、1888年(明治21年)12月… 尾山 三郎(おやま さぶろう、1888年(明治21年)12月25日 - 1951年(昭和26年)10月3日)は、日本の実業家、政治家。参議院議員(1期)、富山市長。旧姓は大野。 富山県婦負郡富山手伝町(現富山市)で大野清兵衛の三男として生まれ、1899年、富山市千石町の尾山定次郎の養子となる。1905年3月、富山市立富山商業学校(現富山県立富山商業高等学校)を卒業した。 富山市蛯町の (株) 青物市場に入社。同支配人、同社長、帝国館社長、富山鉄道監査役、富山県食糧営団理事、富山県水産業会副会長、富山消防組組頭、富山警防団長、大日本警防協会理事などを務めた。 政界では、富山市会議員(6期)、富山県会議員(4期)に選出され、市会副議長、同議長も務めた。
藤林 広超(ふじばやし こうちょう、1888年(明治21年)… 藤林 広超(ふじばやし こうちょう、1888年(明治21年)12月25日 - 1984年(昭和59年)3月12日)は、日本の中国文学者、真宗大谷派僧侶。 1911年、第三高等学校を卒業。1914年、京都帝国大学中国文学科を卒業。同志社大学教授、同志社女専講師を歴任。僧侶としては西宗寺(京都府京都市下京区)の住職を務めていた。 大正のおわりごろ現地で購入して以来、長年親しんできた中国の李汝珍の小説『鏡花縁』の翻訳を、大学を退官した70歳のとき(1968年)に決意、以後20年以上の歳月を掛けてこれを翻訳し、92歳のとき(1980年)これを出版した。
洲崎 義郎(すのさき よしろう、1888年(明治21年)12… 洲崎 義郎(すのさき よしろう、1888年(明治21年)12月25日 - 1974年(昭和49年)4月1日)は、日本の政治家、教育家である。柏崎市長を務めた。 新潟県にて大地主の家系だった洲崎伝吾の長男として生まれる。早稲田大学卒業後の1918年(大正7年)に同県比角村の村長を務め、その傍らで比角小学校(現在の柏崎市立比角小学校)の青年教師として自由教育の奨励に携わった。また洋画家の中村彝や苦学生の援助にも携わり、新潟県の青年団副団長や柏崎体育連盟の会長、新潟県体育協会の副会長を歴任する。第二次世界大戦直後には戦時中の青年団活動を反省したことで世界平和運動に参加し、1951年(昭和26年)には柏崎市長に就任した。
江本 茂夫 (えもと しげお、1888年(明治21年)12月… 江本 茂夫 (えもと しげお、1888年(明治21年)12月25日 - 1966年(昭和41年)1月29日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中佐。 ※ 吉村和嘉著 『かかる師ありき 恩師・江本茂夫傳』、暮らしの手帖社、2008年(注:国立国会図書館の蔵書本) ※ 江利川春雄著 『英語と日本軍 知られざる外国語教育史』、NHKBOOKS1238 第2刷2016年 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
森戸 辰男(もりと たつお、1888年(明治21年)12月2… 森戸 辰男(もりと たつお、1888年(明治21年)12月23日 - 1984年(昭和59年)5月28日)は、日本の学者、社会思想家、教育者(初代広島大学学長・名誉教授)、政治家(衆議院議員、文部大臣)。広島県広島市、福山市名誉市民。文化功労者(1971年)、勲一等旭日大綬章(1974年)。位階は従二位。 広島県深津郡福山東堀端(現在の福山市)に旧福山藩士・森戸鸞蔵、チカの二男として生まれる。広島県立福山中学校(現在の広島県立福山誠之館高等学校)から1907年、第一高等学校に進学した。前年校長に就任した新渡戸稲造の倫理の講義に感銘を受ける。弁論部で活動し、一高を卒業する1911年2月、弁論部の後輩・河上丈太郎に頼まれ大逆事件を主題とした徳冨蘆花の講演会「謀叛論」を開催した。
野口 尚一(のぐち ひさかず、1888年(明治21年)12月… 野口 尚一(のぐち ひさかず、1888年(明治21年)12月23日 - 1986年(昭和61年)9月27日)は、日本の機構学者。東京帝国大学教授、工学院大学初代学長。日本機械学会、日本クレーン協会の各会長。『穀粒層を通過する気流に関する研究』で工学博士(東京帝大)。
宮部 一郎(みやべ いちろう、1888年〈明治21年〉12月… 宮部 一郎(みやべ いちろう、1888年〈明治21年〉12月22日 - 1990年〈平成2年〉10月3日)は、日本の実業家。 埼玉県羽生市出身。東京帝国大学経済学部卒業。昭和期における産業組合(農業協同組合の前身)の指導者として活動した。協同組合短期大学(1973年廃止)の2代目学長も務めた。植物学者・宮部金吾の女婿。 宮部一郎 | 打越顕太郎 | 美土路達雄 | 湯河元威 | 江上繁一
小林 弥七(こばやし やしち、1888年12月22日 - 1… 小林 弥七(こばやし やしち、1888年12月22日 - 1967年6月23日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 群馬県高崎市出身、早稲田実業学校卒業。高崎佐藤商組合頭取、群馬県糖業連合会会長、上州銀行、利根産業、群馬製菓、信永運輸各(株)取締役、利根木材、森永製品開発、利根産業各(株)取締役社長、高崎商業会議所議員、高崎市農会評議員、群馬県選挙管理委員となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において群馬2区から実業同志会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。1928年の第16回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1967年死去。
吉田 鞆明(よしだ ともあき、1888年(明治21年)12月… 吉田 鞆明(よしだ ともあき、1888年(明治21年)12月20日 – 1955年(昭和30年)9月20日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。ジャーナリスト。
後藤 隆之助(ごとう りゅうのすけ、1888年12月20日 … 後藤 隆之助(ごとう りゅうのすけ、1888年12月20日 - 1984年8月21日)は、日本の政治活動家。近衛文麿のブレーンとして彼を支え、大政翼賛会の組織局長を務めた。 茨城県出身。千葉県佐原出身ともされる。第一高等学校入学。在籍中、野球害毒論に関連し、新渡戸稲造校長を押川春浪が批判した際、単身押川の自宅を訪れ、謝罪文を書かせたとされる。一高には、6年通い、新渡戸稲造校長の「これ以上留年させても仕方がない。卒業させた方が社会のためになるだろう」との言により卒業したというエピソードがある。豪傑肌の反面、求道的なところがあり、いきなり徳富蘆花を訪れ「人生とはなんだ、教えてくれ」と迫って蘆花を困らせたり、人生の意義が判るまで帰らないと言って、関東一円をぐるぐると彷徨したりした。
柳沢 保承(やなぎさわ やすつぐ、旧字体: 柳澤 保承、18… 柳沢 保承(やなぎさわ やすつぐ、旧字体: 柳澤 保承、1888年〈明治21年〉12月20日 - 1960年〈昭和35年〉10月25日)は、日本の実業家、政治家、華族。貴族院伯爵議員。 伯爵・柳沢保申の長男として生まれ、義兄柳沢保恵の養子となる。養父・保恵の死去に伴い1936年(昭和11年)6月15日、伯爵を襲爵した。 1914年(大正3年)京都帝国大学法科大学を卒業。1921年(大正10年)私立大阪信愛高等女学校講師となる。以後、柳沢統計研究所総裁、日本錫工業取締役会長、太平洋海上火災保険取締役などを務めた。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院伯爵議員に選出され、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
庄野 理一(しょうの りいち、1888年12月20日 - 1… 庄野 理一(しょうの りいち、1888年12月20日 - 1954年5月23日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。香川県出身。 1913年(大正2年)に東京帝国大学独法科を卒業し、すぐに弁護士になった。民事が専門。弁護士をしながら、東邦商事など数社の役員や顧問をし、実業界でも活動した。東京弁護士会会長も務め、戦後は公職資格審査委員会委員長に選出されたりもした。 裁判官任命諮問委員会による諮問の結果、1947年(昭和22年)8月に最高裁判所判事となる。1948年(昭和23年)2月10日、東京帝大出身の弁護士を中心として開かれた会合で、平野事件に関して「牧野英一公職適否審査委員長が西尾末広から50万円を貰い、委員に10万ずつ渡した」旨の発言をした。
早坂 久兵衛(はやさか きゅうべい、Irenaeus Kyū… 早坂 久兵衛(はやさか きゅうべい、Irenaeus Kyūbei Hayasaka、1888年12月16日 - 1946年1月6日)は、日本および朝鮮のカトリック聖職者で、洗礼名は「イレネウス」。カトリック仙台教区の教会の主任司祭を務め、1942年に朝鮮の第3代大邱使徒座代理区長の座に着き、戦後に代理区長を辞任して大邱に留まっている間に亡くなった。日本人初の司教となった早坂久之助の実弟である。 1888年12月16日に宮城県仙台市で生まれ、1898年3月仙台市元寺小路尋常小学校に通い、1902年3月に仙台市東二番町高等小学校を卒業し、1907年3月に東北中学校を卒業。1907年9月、第二高等学校に入学。
藪田 貞治郎(やぶた ていじろう、1888年(明治21年)1… 藪田 貞治郎(やぶた ていじろう、1888年(明治21年)12月16日 - 1977年(昭和52年)7月20日)は、日本の農芸化学者。東京帝国大学農学部教授、理化学研究所会長等を歴任する。1926年に黒沢英一が発見した植物ホルモン「ジベレリン」の構造化、単離結晶化の成功者。命名者。滋賀県出身者として最初の農学博士(博士登録番号42番)。 1888年(明治21年)12月16日、大津市に生まれる。1905年(明治38年)、滋賀県立第二中学校(現在の膳所高等学校)を卒業した。 第三高等学校を経て東京帝国大学農科大学農芸化学科に入学する。1911年(明治44年)7月同大学を卒業し、直ちに大学院に入る。農芸化学の研究に従事し、コウジ酸の化学構造を決定し1917年(大正6年)7月コウジ酸発見に係わる論文「麹菌ニヨリ生産セラルル一新有機酸(麹酸)ニ就イテ」提出により農学博士学位を授与され、直後に東京帝国大学講師となる。
鈴木 貞一(すずき ていいち、1888年(明治21年)12月… 鈴木 貞一(すずき ていいち、1888年(明治21年)12月16日 - 1989年(平成元年)7月15日)は、日本の軍人、陸軍中将。千葉県出身。通称「背広を着た軍人」。「三奸四愚」と呼ばれた東條英機側近三奸の一人とされる。
坂田 武雄(さかた たけお、1888年12月15日 - 19… 坂田 武雄(さかた たけお、1888年12月15日 - 1984年1月12日)は、日本の経営者。サカタのタネの創業者。 東京都出身。1909年に東京帝国大学農学部実科を卒業。農商務省海外実業練習生として、アメリカやヨーロッパの苗木商で経験を積み、アメリカでは簿記を学んだ。1913年に横浜で坂田商会を創業し、植物種子の生産輸出を始めた。1942年12月に坂田種苗と改称し、社長に就任。1974年に会長に就任。 1958年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲四等瑞宝章を受章した。 1984年1月12日心不全のために死去。95歳没。 サカタのタネが成功するきっかけとなったのは、坂田が完成させた必ず咲く八重咲きペチュニアだった(それまでは、種を撒いても八重咲きとなるのは50%程度だった)。
福田 耕(ふくだ たがやす、1888年(明治21年)12月1… 福田 耕(ふくだ たがやす、1888年(明治21年)12月15日 - 1970年(昭和45年)2月7日)は、大正から昭和期の官僚、実業家、政治家。衆議院議員。 福井県今立郡吉谷村(片上村を経て現鯖江市)で福田助右衛門の長男として生まれる。1921年(大正10年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。 東京市主事に就任し電気局、道路局で勤務。日本無線電信 (株) に転じ、対欧建設事務所副長、建設課長、工務課長を歴任。1934年(昭和9年)岡田内閣の内閣総理大臣秘書官に就任。1936年(昭和11年)2月の第19回衆議院議員総選挙で福井県全県区から無所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。その後、華中電気通信社長、日本タイプライター社長、大和紙業社長を務めた。
上坂 酉蔵(酉三、こうさか とりぞう、1888年(明治21年… 上坂 酉蔵(酉三、こうさか とりぞう、1888年(明治21年)12月15日 - 1976年(昭和51年)4月4日)は、日本の商学者。早稲田大学名誉教授。商学博士。宮城県生まれ。 宮城県気仙沼市魚町出身。1914年(大正3年)に早稲田大学高等予科に入学し、翌年 大学部商科に進学。1918年(大正7年)早稲田大学商科卒業。 水産加工の実務に従事しながら苦学し、29歳で大学卒業。1918年4月増田貿易株式会社に入った後、1925年(大正14年)早稲田大学講師となり、翌年 早大留学生としてイギリス、ドイツに各1年滞在。ヨーロッパ留学後、1928年4月帰国し助教授に就任。翌1929年(昭和4年)教授となり日本の貿易と商学についての研究を重ねる。
滝脇 宏光(瀧脇、たきわき ひろみつ、1888年〈明治21年… 滝脇 宏光(瀧脇、たきわき ひろみつ、1888年〈明治21年〉12月13日 - 1964年〈昭和39年〉2月22日)は、大正から昭和期の鉄道官僚、実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・古市、旧名・強哉。 帝国大学工科大学学長・古市公威の四男強哉として生まれ、子爵・滝脇信鑰の養子となる。養父の隠居に伴い、1923年(大正12年)4月30日、子爵を襲爵。宏光と改名した。 第七高等学校造士館を経て、1915年(大正4年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年、鉄道院に入り経理局属となる。1916年(大正5年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。以後、鉄道院書記、同副参事兼同総裁秘書、鉄道省事務官兼同大臣秘書官、鉄道省参事官、内閣総理大臣秘書官などを歴任。