安田 三次(やすだ さんじ、1893年(明治26年)6月26… 安田 三次(やすだ さんじ、1893年(明治26年)6月26日 - 没年不明)は、昭和時代前期の官吏。東京市江戸川区長、品川区長。 古本信蔵の長男として福岡県小倉市(現北九州市小倉北区・小倉南区)に生まれ、のち安田よしの養子となる。1915年(大正4年)中央大学を卒業し三井物産に入社。1921年(大正10年)東京市に奉職し、建築局庶務掛長、土木局庶務課庶務掛長、建築課管理掛長、臨時東京市庁舎建築部庶務課長を経て、1936年(昭和11年)10月、江戸川区長に就任。1938年(昭和13年)5月まで務めたのち、市民局防衛課長、総務局市計画課長を歴任した。1942年(昭和17年)9月、品川区長となった。
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外狩 素心庵(とがり そしんあん、1893年6月25日 - … 外狩 素心庵(とがり そしんあん、1893年6月25日 - 1944年4月22日)は、日本の美術評論家。中外商業新報社学芸部長、参事を歴任。本名は外狩 顕章。愛知県安国寺第15代住職。 明治26年、愛知県生まれ。曹洞宗大学(駒澤大学の前身)、1913年(大正2年)二松学舎卒業。同年、中外商業新報社入社。美術記者となる。1924年学芸部長、1928年(昭和3年)参事を歴任。1943年嘱託。その評論批判は斯界の注目を惹き、古美術に造詣が深く、美術骨董界に貢献した。書道と南画(文人画)をよくし、また漢詩、俳句にも親しんだ。 1930年、中川紀元らにより設立された「六潮会」に参加。洋画から牧野虎雄、木村荘八、中川紀元、日本画から中村岳陵、山口蓬春、平八郎、評論家の横川殻一郎が加わる。
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実吉 雅郎(さねよし まさお、1893年(明治26年)6月2… 実吉 雅郎(さねよし まさお、1893年(明治26年)6月25日 - 1967年(昭和42年)9月4日)は東京都出身の実業家。日揮の創業者。 学習院初等科・中等科、第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部政治学科卒業。卒業後、株式会社横浜正金銀行(現在三菱東京UFJ銀行)、株式会社島商店を経て、1928年(昭和3年)10月25日に日揮株式会社の前身日本揮発油株式会社を創立。 1928年(昭和3年)10月から1966年(昭和41年)5月まで社長を務めたのち会長に就任。翌1967年(昭和42年)9月4日病気のため急逝(享年74)。 その後、遺産を寄附し、日揮・実吉奨学会前身の実吉奨学会を、1968年(昭和43年)、人材の育成と科学・技術の発展に貢献するため、理工系の学科を専攻する大学生・大学院生に対する奨学金の貸与(日本の学生対象)ならびに給与(日本国外から日本国内の学校への留学生のみを対象)、および、若手研究者への研究費助成を行うことを目的として、設立した。
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八木 助市 (やぎ すけいち、1893年 <明治26年> 6… 八木 助市 (やぎ すけいち、1893年 <明治26年> 6月24日 - 1974年 <昭和49年> 11月3日)は、日本の社会政策学者。神戸大学名誉教授。 広島県出身。1911年広島商業学校卒業。1917年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部貿易科卒業。福田徳三門下。1919年神戸高等商業学校教授。3年ほど勤めたのち、ドイツ留学し、ベルリン大学(1学期間研究生)やベルリン高等商業学校(de:Handelshochschule Berlin)で学んだ。 1929年神戸商業大学助教授。1930年神戸商業大学教授。1950年神戸大学学生部長。1954年神戸大学評議員。1957年に退官後、神戸大学名誉教授、福岡大学教授。
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高田 茂(たかだ しげる、1893年(明治31年)6月23日… 高田 茂(たかだ しげる、1893年(明治31年)6月23日 - 1958年(昭和33年))は、昭和期の政治家。長野県飯田市長。旧名は上原 悌三郎。 長野県北安曇郡池田町村(現池田町)で、上原義一郎の四男として生まれた。旧制大町中学(現長野県大町岳陽高等学校)を経て、旧制東京高等蚕糸学校卒業。1929年(昭和4年)下伊那郡上飯田町(現飯田市)の旧庄屋で長野県会議長を務めた高田茂の養子となり、同名を襲名した。 1933年(昭和8年)上飯田町会議員、1937年(昭和12年)飯田市会議員を経て、1947年(昭和22年)に施行された初の公選による飯田市長選挙で当選し、1955年(昭和30年)3月まで2期務めた。
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物部赳夫(ものべ たけお、1893年6月23日 - 1930… 物部赳夫(ものべ たけお、1893年6月23日 - 1930年7月25日)は日本ホーリネス教会ブラジル宣教師である。ブラジル福音ホーリネス教団の生みの親とされている人物。 長野県東筑摩郡宗賀村(現塩尻市)の万福寺の住職の次男として生まれる。東京鉄道学校で学び、国鉄に就職する。1915年、同僚の死を通して、求道を始め、同県上諏訪町(現諏訪市)の福音伝道館に通い、高橋俊三に導かれて、中田重治より洗礼を受ける。 1917年に聖会で献身を決意する。1918年に柏木聖書学院に入学する。1919年に卒業して物部さよと結婚して物部姓になり、小樽教会に赴任する。1922年に品川教会に転任する。 1925年にブラジル伝道を決意し、7月に日本ホーリネス教会最初の宣教師として、ブラジルのサントスに行く。
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村岡 花子(むらおか はなこ、1893年〈明治26年〉6月2… 村岡 花子(むらおか はなこ、1893年〈明治26年〉6月21日 - 1968年〈昭和43年〉10月25日)は、日本の翻訳家・児童文学者。 児童文学の翻訳で知られ、モンゴメリの著作の多くと、エレナ・ポーター、オルコットなどの翻訳を手がけた。基督教文筆家協会(現・日本クリスチャン・ペンクラブ)初代会長(在任、1952年〈昭和27年〉6月 - 1958年〈昭和33年〉10月)。 山梨県甲府市の安中逸平・てつ夫妻の長女として生まれる。本名:村岡 はな(むらおか はな)、旧姓:安中(あんなか)。 クリスチャンである父の希望により、2歳でカナダ・メソジスト派の甲府教会において小林光泰牧師より幼児洗礼を受ける。
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武井 直也(たけい なおや、1893年(明治26年)6月16… 武井 直也(たけい なおや、1893年(明治26年)6月16日 – 1940年(昭和15年)2月5日)は、日本の彫刻家。 長野県出身の彫刻家である。戸張孤雁、アントワーヌ・ブールデルに師事した。日本美術院の同人であったが、脱退して日本彫刻家協会を結成した。代表作となった『髪』は東京国立近代美術館に収蔵されている。そのほか『浴後』と『裸婦』が東京芸術大学大学美術館に収蔵されている。 長野県諏訪郡平野村(現岡谷市)に生まれ、同村の篆刻家の八幡郊処の影響で彫刻家を志した。上京後、戸張孤雁に師事し、東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻本科塑像部を卒業。日本美術院展に3年連続入選した後、1924年フランスへ留学、同郷の清水多嘉示らとパリに住む。
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小林 宗作(こばやし そうさく、1893年〈明治26年〉6月… 小林 宗作(こばやし そうさく、1893年〈明治26年〉6月15日 - 1963年〈昭和38年〉2月8日)は、日本のリトミック研究者・幼児教育研究家。 群馬県吾妻郡岩島村(現・東吾妻町)出身。東京音楽学校乙種師範科(現・東京芸術大学音楽学部)卒。本名は、金子 宗作(旧姓:小林)。 1893年、群馬県岩島村の農家の三男(末子)として誕生。長姉の養子となり、金子姓となるが、基本的に小林宗作の名を用いた。 1899年、吾妻郡三島小学校入学。1907年、三島小学校高等科卒業後、代用教員として勤める。1911年、音楽教師を志して上京し、東京都新宿牛込小学校に勤務する。1916年、東京音楽学校乙種師範科(高等小学校卒業者対象の1年制課程)入学。
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田口 長治郎(たぐち ちょうじろう、1893年6月10日 -… 田口 長治郎(たぐち ちょうじろう、1893年6月10日 - 1979年5月4日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)。衆議院議員(7期)。 長崎県島原市に生まれる。長崎県立島原中学校を経て、農林省水産講習所(後に東京水産大学を経て現東京海洋大学)本科卒業。長崎県、山形、滋賀、茨城各県の水産試験場勤務。1937年農林省水産局に入る。1941年、華中水産株式会社に転職し、取締役副社長となる。戦後は長崎で共和水産株式会社を設立して社長になる。また、日本遠洋底引網漁業協会理事長、長崎県水産振興対策本部副本部長、県漁港協会会長に就任した。 1949年の第24回衆議院議員総選挙長崎1区に民主自由党から出馬し、初当選。
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酒井 忠正(さかい ただまさ、1893年〈明治26年〉6月1… 酒井 忠正(さかい ただまさ、1893年〈明治26年〉6月10日 - 1971年〈昭和46年〉2月16日)は、日本の政治家・篤志家・華族。中央農業会長、日本中央競馬会理事長、横綱審議委員会初代委員長、相撲博物館初代館長、雅楽頭系酒井家26代当主、大東文化学院総長・大東文化学院専門学校校長(第11代)などを歴任した。 備後福山藩の最後の藩主だった華族の阿部正桓伯爵の次男として生まれ、旧姫路藩主家で伯爵家の酒井家の当主酒井忠興の娘・秋子を娶り婿養子となる。1918年(大正7年)に京都帝国大学法科大学を卒業する。1923年(大正12年)9月22日に貴族院伯爵議員補欠選挙で当選し1945年(昭和20年)12月17日まで務める。
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古川 龍生(ふるかわ りゅうせい、1893年6月10日 - … 古川 龍生(ふるかわ りゅうせい、1893年6月10日 - 1968年5月23日)は、日本の版画家。本名・龍夫。 栃木県下都賀郡桑村大字羽川(現在の小山市羽川)出身。栃木県立宇都宮中学校、逗子開成中学校を経て、25歳の時に東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科予科に入学した。1924年に東京美術学校日本画科を卒業した。卒業後は版画に取り組み、1924年に第6回日本創作版画協会展に木版画が入選した。東京美術学校卒業後は教師として働きながら作品を制作し、日本創作版画協会や春陽会に出品した。 1932年ロサンゼルスオリンピックの芸術競技に"A Pose of a Woman Golfer (in Reposing)"と"A Pose of a Woman Golfer (in Striking)"(ともに和題不明)と題する作品を出品し、1936年ベルリンオリンピックの芸術競技に「ゴルフ」と題する作品を出品した。
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沢田 退蔵(さわだ たいぞう、澤田退蔵とも記す。1893年6… 沢田 退蔵(さわだ たいぞう、澤田退蔵とも記す。1893年6月7日 - 1970年2月13日)は、日本の実業家。鳥取県岩井郡浦富村(現・岩美郡岩美町)出身。 オックスフォード大学卒。三菱財閥本社にはいる。その後、三菱より富士紡績に派遣され、大正14年32歳にして取締役就任、昭和19年代表取締役専務(社長に継ぐ次席幹部)に就任。鈴木商店再建のため日本商事(後の双日)設立に尽力、各務記念財団理事、後楽社社長にもなる。 終戦後、財閥解体により公職追放。混乱期の中、大山ハム、東京特殊紡績、ジャパパム・エンジニアリング・カンパニーを創業し社長を務める。日伯中央協会理事として日本・ブラジルの友好につとめる傍ら、(財)日本科学振興財団の役員(評議員)として設立に尽力する。
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酒井 忠悌(さかい ただやす、1893年〈明治26年〉6月6… 酒井 忠悌(さかい ただやす、1893年〈明治26年〉6月6日 - 1962年〈昭和37年〉11月28日)は、出羽庄内藩11代藩主、伯爵・酒井忠篤の四男。鶴城書道会会長。致道博物館顧問。東北農家研究所相談役。山形県社会教育委員。通称は小三郎、号は南荘。子に酒井忠一。 旧庄内藩酒井家当主・酒井忠篤の四男として鶴岡市家中新町に生まれる。伯父(忠篤の長兄)酒井忠恕の未亡人の瑛昌院に奉仕して桧物町邸に居住していたが、没後鷹匠町に移って、長い間酒井家の学問所・文会堂で経書を講じた。早くから漢学を赤沢源也に、漢詩と書道を黒崎研堂に学んでいて、昭和37年(1962年)3月に、松平穆堂の後を継いで鶴城書道会会長となった。
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長井 斉(ながい ひとし、1893年(明治26年)6月4日 … 長井 斉(ながい ひとし、1893年(明治26年)6月4日 - 1985年(昭和60年)12月1日)は、大正時代から昭和時代にかけての合唱指揮者。 兵庫県生まれ。1917年(大正6年)大阪音楽学校選科修了。戦前は大阪音楽学校教授を務めるかたわら関西合唱界の指導に努め、1930年(昭和5年)の関西学生合唱連盟の設立にも寄与した。 戦後の1946年(昭和21年)、関西合唱連盟の設立に尽力し、初代理事長に就任し、1969年(昭和44年)まで理事長を務めた。1948年(昭和23年)4月、学制改革により関西学院高等部音楽科教諭として着任、定年後も講師として残り1961年(昭和36年)まで勤めた。この間関西学院グリークラブをはじめとする合唱団の指導に広く携わり、第1回全日本合唱コンクール(1948年)をはじめコンクールの審査員等も務めた。
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持永 義夫(もちなが よしお、1893年6月4日 - 197… 持永 義夫(もちなが よしお、1893年6月4日 - 1979年8月31日)は、日本の内務・厚生官僚、政治家。県知事、北海道庁長官、衆議院議員。旧姓・小牧。子に衆議院議員の持永和見、自治事務次官の持永堯民。 宮崎県北諸県郡庄内村、現在の都城市出身。持永善一の養子となる。宮崎県師範学校から広島高等師範学校を経て、1921年、京都帝国大学法学部英法科を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格し、内務省に入り衛生局属となる。以後、和歌山県西牟婁郡長、同県海草郡長、広島県理事官、社会局事務官、社会局社会部の福利課長・保護課長・庶務課長、厚生大臣官房会計課長、傷兵保護院業務局長などを歴任。 1939年7月、愛媛県知事に就任。
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宮前 進(みやまえ すすむ、1893年(明治26年)6月4日… 宮前 進(みやまえ すすむ、1893年(明治26年)6月4日 - 1972年(昭和47年)2月16日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、秩父市名誉市民。 埼玉県秩父郡大宮町(現:秩父市)で生まれる。1915年、東京高等商業学校を卒業。書籍雑貨商を営む。 秩父町会議員、所得税調査委員、金銭債務調停委員、商工経済会評議員を務める。 実業界では、埼玉県文具卸施設組合理事長、秩父生活必需品小売業統制組合理事長、秩父商工会議所副会頭、埼玉県信用金庫理事、埼玉県商店会連合会長、秩父市商店連盟連合会長、全日本商店会連合会理事、秩父合同運送取締役社長、宮前商店取締役社長、養成社取締役社長、秩父乳業取締役社長などを務めた。
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平井 直衛(ひらい なおえ、1893年〈明治26年〉6月3日… 平井 直衛(ひらい なおえ、1893年〈明治26年〉6月3日 - 1967年〈昭和42年〉9月15日)は、岩手県出身の教員・酒造家・興行主。紫波郡日詰町(現・紫波町)議会議員・日詰町議会議長。言語学者の金田一京助は実兄。 1893年(明治26年)6月3日、岩手県盛岡市下厨河65番地の金田一家に生まれた。父は金田一久米之助、母は金田一ヤス。直衛は四男であり、兄に金田一京助がいる。 岩手県立盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)、第二高等学校(現・東北大学)を卒業した。1916年(大正5年)12月には岩手県紫波郡日詰町の平井キヌと結婚して平井家の婿養子となった。父の金田一久米之助が事業に失敗したことで経済的に苦しく、結婚の代わりに帝国大学進学に際して平井家から学費援助を受ける条件があったためである。
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淵上 房太郎(ふちがみ ふさたろう、1893年(明治26年)… 淵上 房太郎(ふちがみ ふさたろう、1893年(明治26年)6月2日 - 1976年(昭和51年)2月28日)は、日本の政治家、内務官僚。衆議院議員、官選沖縄県知事。 福岡県出身。淵上仁七郎の長男として生まれる。第一高等学校を経て、1918年、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。大蔵省に入省し専売局書記、同副参事を務める。1920年10月、高等試験行政科試験に合格。 1923年、内務省に転じ兵庫県明石郡長に就任。以後、同県川辺郡長、長崎県地方課長、石川県商工水産課長、宮崎県地方課長、三重県学務部長、青森県書記官・警察部長、岩手県書記官・総務部長、大分県書記官・総務部長、広島県書記官・総務部長などを歴任。
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河村 大助(かわむら だいすけ、1893年〈明治26年〉6月… 河村 大助(かわむら だいすけ、1893年〈明治26年〉6月2日 - 1985年〈昭和60年〉1月12日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。東京都出身。 東京府西多摩郡小河内村(現東京都西多摩郡奥多摩町)で生まれた。1919年(大正8年)に日本大学法学部を卒業。1922年(大正11年)に弁護士になった。司法省の弁護士考試委員、司法研修所教官、司法修習生考査試験委員会臨時委員などを務めたが、殆ど在野法曹であった。 民事が専門で、三越、日本電気の顧問もして、保全経済会事件の和議申立人などもした。 1956年(昭和31年)11月22日に最高裁判所判事となる。最高裁判事就任の抱負について「判決を書いたことはない。
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国府 清山(こくふ せいざん、明治26年(1893年)6月2… 国府 清山(こくふ せいざん、明治26年(1893年)6月2日 - 昭和11年(1936年)8月3日)は、日本画家。 1893年、「北国府屋」の多三郎・千与の長男として岡山県総社南本町で生まれた。本名は宗一。 絵を描くのが好きだった宗一は、申義小学校(現、総社小学校)を卒業後、服部村深町(現、総社市深町)の中島雲哉の許へ入門し、南画の画法を学んだ。25歳の時に雲哉のすすめにより名古屋に出て矢吹璋雲の弟子となり、璋泉と号して8年にわたって修業する。 大正3年(1914年)に帰郷して、天童と号し画業に励んだ。大正6年(1917年)正恵と結婚、やがて清山と改号した。 大正末年頃、清山は松尾華作翁と語らい、近郷の同好者数十名を集めて「杉風社」を結成し、近くの宝満寺を借りて作画の指導にあたった。
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三上秀吉(みかみ ひできち、1893年6月1日 - 1970… 三上秀吉(みかみ ひできち、1893年6月1日 - 1970年10月2日)は、日本の作家。和歌山県生まれ。旧姓・龍田、結婚して三上姓となる。香川県立高松中学校卒。『婦人之友』編集長ののち志賀直哉に師事。娘の三上慶子も作家で、戦時中熊本県球磨郡に家族で疎開、1951年慶子とともに西日本新聞文化賞を受賞。
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山根 キク(やまね きく、1893年6月1日 - 1965年… 山根 キク(やまね きく、1893年6月1日 - 1965年4月23日)は、日本の考古学、歴史学の女性ジャーナリスト、社会活動家、政治家。「竹内文書」から強く影響を受けており、キリストやモーセの墓が日本にあると主張した。本名は山根 菊子(やまね きくこ)。 山根は「竹内文書」から強く影響を受けており、キリスト教に関してエキセントリックな個人的見解を発表した。キリストは処刑されておらず、死んだのは弟で、キリストは日本に来て、日本の女性と結婚し娘をもうけたと主張した。そして山野を歩き回っては、キリストの墓やモーセの墓を「発見」し、キリスト教を日本化しようとした。山根は『光りは東方より』で、「キリストの遺言状」を知っていると述べ、石川県押水町の通称・三ツ子塚という古墳をモーゼの墓であると主張した。
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宮村 才一郎(みやむら さいいちろう、1893年(明治26年… 宮村 才一郎(みやむら さいいちろう、1893年(明治26年)6月 - 1948年〈昭和23年〉2月8日)は、日本の内務官僚。官選県知事。旧姓・大島。 新潟県、のちの高田市出身。大島久作の二男として生まれ、同年、宮村寅吉の養子となる。第一高等学校を卒業。1918年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。民間企業に勤めた後、1922年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年、内務省に入省し岐阜県属となる。 以後、山梨県西山梨郡長、同北巨摩郡長、地方事務官として山梨県・福岡県各勤務、佐賀県書記官・警察部長、鳥取県書記官・内務部長、岐阜県書記官・総務部長、内務書記官・地方局監査課長、東京府書記官・総務部長などを歴任。
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前田 善治(まえだ ぜんじ、1893年(明治26年)5月31… 前田 善治(まえだ ぜんじ、1893年(明治26年)5月31日 - 1970年(昭和45年)6月2日)は、日本の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 和歌山県名草郡安原村字吉原(現・和歌山市)で前田和一の長男として生まれ、1910年、前田勝之助の養子となる。北海道庁立上川中学校を経て、慶應義塾大学部理財科で学んだ。北海道に戻り農業を営む。 旭川信用組合監事、北日本無尽 (株) 監査役、下村育英財団理事、前田和一商店社長、旭川小型モータース社長、旭川信用金庫理事、旭川瓦斯 (株) 常任監査役、人事調停委員などを務めた。 政界では、旭川市会議員、同議長、北海道会議員、同参事会員を歴任。この間、旭川市長候補者に推薦されたが承諾しなかった。
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三好萬次(みよし まんじ 1893年5月28日 - 1967… 三好萬次(みよし まんじ 1893年5月28日 - 1967年7月30日)は、日本の実業家で近畿日本鉄道株式会社元代表取締役会長、近畿車輛株式会社取締役。京都府出身。 1915年(大正4年)、関西大学専門部法律学科在学中に大阪電気軌道(現・近畿日本鉄道)に入社。会計課長から総務部長を経て、1934年(昭和9年)には常務取締役、3年後専務取締役に就任。1944年(昭和19年)には常任監査役となるが、1947年(昭和22年)、公職追放令により同社を退職。1951年(昭和26年)、公職追放解除となり、再び近畿日本鉄道取締役に就任。1954年(昭和29年)には同社取締役会長に選ばれた。1960年(昭和35年)には関西大学第四代理事長に就任した。
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菊田 多利男(きくた たりお、1893年5月28日 - 19… 菊田 多利男(きくた たりお、1893年5月28日 - 1963年12月17日)は、日本の冶金学者。元日立製作所中央研究所所長。元日本金属学会会長。帝国学士院賞受賞。 宮城県仙台市出身。1920年東北帝国大学理学部物理学科卒業。1926年東北帝国大学理学博士。1933年戸畑鋳物(のちの日立金属)入社。1940年帝国学士院賞受賞。1948年日立製作所常務。1951年日立製作所中央研究所所長。1959年日本金属学会会長。日立化工社長、日本学術会議会員を歴任。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
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斎藤 清衛(さいとう きよえ、1893年5月26日 - 19… 斎藤 清衛(さいとう きよえ、1893年5月26日 - 1981年3月4日)は、日本の国文学者。筆名・伎世江。 1893年、山口県熊毛郡で生まれた。徳山中学校、第三高等学校を経て、東京帝国大学国文科に進学。1918年に卒業。 大学卒業後は教諭となり、埼玉師範学校に勤務。次いで1920年より広島高等師範学校教授、1933年に退職し、欧米を訪ねた。1938年、学位論文『応永永享時代文芸意識の研究』を東京帝国大学に提出して文学博士号を取得。1940年、北京師範大学教授として中国に赴任。1942年、京城帝国大学教授に就いた。 1946年、広島文理科大学教授に就いた。1953年、旧・東京都立大学教授に転じた。
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市岡 寿(いちおか ひさし、1893年5月26日 - 196… 市岡 寿(いちおか ひさし、1893年5月26日 - 1963年2月14日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
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及川 規(おいかわ ただし、1893年(明治26年)5月26… 及川 規(おいかわ ただし、1893年(明治26年)5月26日 - 1981年(昭和56年)11月26日)は、大正から昭和期の教育者、弁護士、政治家。衆議院議員。 岩手県江刺郡岩谷堂町(江刺町、江刺市を経て現奥州市)で生まれる。岩手師範学校を経て、1917年(大正6年)東京高等師範学校(のち東京教育大学)を卒業。 岩手県師範学校教諭、島根県立杵築中学校(現島根県立大社高等学校)教諭を歴任。1920年(大正9年)高等試験行政科試験に合格。神奈川県視学官に就任。その後、横浜市で弁護士を開業し、横浜弁護士会副会長も務めた。その他、私立本牧中学校(のち現在の横浜中学校・高等学校に合併)校長兼理事長となった。
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浜田 広介(はまだ ひろすけ、旧字体:濱田 廣介、1893年… 浜田 広介(はまだ ひろすけ、旧字体:濱田 廣介、1893年〈明治26年〉5月25日 - 1973年〈昭和48年〉11月17日)は、日本の童話作家。本名は濱田 廣助。日本児童文芸家協会初代理事長。代表作に『泣いた赤鬼』『椋鳥の夢』『竜の目の涙』などがあり、一連の作品は「ひろすけ童話」と称される。坪田譲治、小川未明とともに「児童文学界の三種の神器」と呼ばれた。次男濱田滋郎は音楽評論家になった。 山形県東置賜郡高畠町の農家に生まれた。幼少時から巖谷小波を愛読。米沢中学(現山形県立米沢興譲館高等学校)、早稲田大学英文科卒。中学時代は大熊信行や上泉秀信と同人誌を作っていた。 1914年(大正3年)大学入学の年に『萬朝報』の懸賞小説に短編小説『零落』が入選したのを皮切りに、何作かの小説を著す。
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浜田 広介(はまだ ひろすけ、旧字体:濱田 廣介、1893年… 浜田 広介(はまだ ひろすけ、旧字体:濱田 廣介、1893年(明治26年)5月25日 - 1973年(昭和48年)11月17日)は、日本の童話作家。本名は廣助。日本児童文芸家協会初代理事長。代表作に『泣いた赤鬼』『椋鳥の夢』『竜の目の涙』などがある。坪田譲治、小川未明とともに「児童文学界の三種の神器」と呼ばれた。既婚。息子は音楽評論家の濱田滋郎である。
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岩元 禄(いわもと ろく 1893年5月23日- 1922年… 岩元 禄(いわもと ろく 1893年5月23日- 1922年12月24日)は日本の大正期の建築家。歴史主義から離れ、斬新なデザインの作品を設計し、建築を創造として捉えた姿勢は同世代、次世代の建築家に影響を与えた。建築家、建築教育者として将来を嘱望されていたが、病気のため早世した。 西陣電話局を設計し、逓信省営繕の中核をなす設計者の一人であった。夭折のため作品数は少ない。 1893年(明治26年)、鹿児島県鹿児島市照国町生まれ。幼少時に父が死去し、兄・岩元禎が一高教師となったのに伴い、上京。青山小学校、府立一中、一高を経て、1915年(大正4年)東京帝国大学工科大学建築学科に入学。1918年に卒業し、逓信省に入った。
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池田 克(いけだ かつ、1893年5月23日 - 1977年… 池田 克(いけだ かつ、1893年5月23日 - 1977年9月4日)は、日本の司法官僚、検事、裁判官。最高裁判所判事。 静岡県出身。幕臣、郡長・池田忠一の三男として生まれる。三重一中、第一高等学校を経て、1917年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業。同年8月、司法省に入り司法官試補・東京地方裁判所詰となる。 1917年7月、東京地裁予備検事に発令され、同検事、兼司法書記官・行刑局付、刑事局兼行刑局(思想部長)、大臣官房調査課長などを歴任。治安維持法などを立案し、その後、思想犯担当検事(通称・思想検事)となる。 1935年3月、大審院検事に就任。以後、東京刑事地方裁判所検事正、司法省刑事局長、名古屋控訴院(現:名古屋高等裁判所)検事長を歴任し終戦を迎える。
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山本 晴介(やまもと はるすけ、1893年〈明治26年〉5月… 山本 晴介(やまもと はるすけ、1893年〈明治26年〉5月20日 - 1978年〈昭和53年〉12月25日)は、日本の武道家。段位は全日本剣道連盟居合道範士九段、剣道教士七段。流派は無双直伝英信流。 高知県香美郡赤岡町須留田で生まれる。香南八ヵ町村組合立城山高等小学校卒業後、唐箕作りの大工修行をしながら大日本武徳会赤岡支所及び高知支部で川崎善三郎らに剣道を学ぶ。1917年(大正6年)、大江正路に入門し、無双直伝英信流居合術を学ぶ。1922年(大正11年)4月、上京し、岩倉鉄道学校3年生に編入するも、同年8月に退学、帰郷する。 土陽新聞通信員兼高知農学校の剣道及び生理衛生科教師となる。1939年(昭和14年)、京都で開かれた全国青年剣道大会に高知農学校剣道部員を引率し、350校の中で準優勝に導いた。
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内山 敬二郎(うちやま けいじろう、1893年5月19日 -… 内山 敬二郎(うちやま けいじろう、1893年5月19日 - 1977年12月24日)は、元旧制高等学校教授、元信州大学、元文教大学教授、西洋古典文学(ギリシア悲劇)研究家、西洋古典学会会員。 新潟県生まれ。1917年東京帝国大学文科大学英文科卒業。1922年旧制松江高等学校に英語の教授として奉職、1941年まで務める。1941年旧制松本高等学校に英語の教授として奉職、1949年5月に信州大学に包括されると、文理学部の英語の教授となり、1959年まで務める。その後、文教大学教授を1977年3月まで務めた。 上述の通り、西洋古典学の専門教育を受けた訳ではなく、在学中に田中秀央から西洋古典学を学んだ程度である。
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薬師寺 尊正(やくしじ たかまさ、1893年(明治26年)5… 薬師寺 尊正(やくしじ たかまさ、1893年(明治26年)5月17日 - 1985年(昭和60年)12月8日)は、日本の弁護士。日本にバスケットボールやバレーボールが紹介された最初期に両競技の選手として活動。大日本体育協会主事を務め、バスケットボールとバレーボールの普及に努めた。第二次世界大戦後に東京都目黒区で人権擁護委員などの役職を務め、区政に貢献したことから、名誉区民として顕彰されている。 熊本県出身。旧制玉名中学校(現在の熊本県立玉名高等学校・附属中学校)、旧制第五高等学校を経て、東京帝国大学に進学。1917年(大正6年)、東京帝国大学法学部政治科を卒業。弁護士となり、岸清一法律事務所で勤務した。
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山田 良秀(やまだ よしひで、1893年5月16日 - 19… 山田 良秀(やまだ よしひで、1893年5月16日 - 1978年1月7日)は、日本の経営者。 佐賀県佐賀市出身。1919年に行文行政科に合格し、1920年に東京帝国大学法学部英法学科を卒業し、同年に逓信省に入省し、岡山郵便局長、経理局長、航空局長官などを歴任。1943年に退官し、北海道配電(のちの北海道電力)社長に就任。北海道放送取締役、北日本航空社長なども歴任。 1978年1月7日老衰のために死去。84歳没。
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保良 せき(ほら せき、1893年5月15日 - 1980年… 保良 せき(ほら せき、1893年5月15日 - 1980年10月6日)は、日本の看護師、厚生官僚、幼稚園経営者である。日本の訪問看護、公衆衛生、保育事業の先駆者の1人である。 長野県飯田市出身。東京市の東京慈恵医院看護婦教育所卒業後、1921年に女性伝道師として渡米。アメリカ合衆国コロラド州の看護師資格を得る。コロラド病院看護学校、コロンビア大学などで学び、ニューヨーク市で公衆衛生看護やセツルメントの訪問看護に携わる。 1929年に帰国後は大阪市の「大阪朝日社会事業団」(朝日新聞社)の「公衆衛生訪問婦協会」で主任として働きつつ、1931年から1943年まで看護専門雑誌「看護婦」を発刊し続けた。
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市川 房枝(いちかわ ふさえ、1893年〈明治26年〉5月1… 市川 房枝(いちかわ ふさえ、1893年〈明治26年〉5月15日 - 1981年〈昭和56年〉2月11日)は、日本の婦人運動家、政治家。参議院議員(5期)。 1924年に「婦人参政権獲得期成同盟会」を結成。婦人参政権運動を主導した。終戦直後の1945年11月3日には「新日本婦人同盟」を結成。公職追放を受けるも、解除後の1950年に同団体を「日本婦人有権者同盟」に改称し、国会と女性を結び付ける運動を推し進めた。1953年に参議院議員に初当選。政界浄化、女性の地位や権利の向上に尽力した。 愛知県中島郡明地村字吉藤(現:一宮市明地)に生まれた。男2人、女4人の6人きょうだいで、市川は三女。誕生名は「ふさゑ」。
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中御門 経民(なかのみかど つねたみ、1893年(明治26年… 中御門 経民(なかのみかど つねたみ、1893年(明治26年)5月13日 - 1989年(平成元年)12月31日)は、大正から昭和期の官僚、政治家、華族。貴族院男爵議員。 海軍士官・男爵、中御門経隆の三男として生まれた。父の隠居に伴い、1915年(大正4年)10月30日、男爵を襲爵した。 1917年(大正6年)7月、京都帝国大学法科大学政治経済学科を卒業。同年、拓殖局嘱託となる。その後、衆議院書記官兼拓務書記官、衆議院秘書課長、同調査部二課長、衆議院事務局議事課長、海軍省事務官、議院制度調査会幹事、議会制度審議会幹事などを務めた。 1939年(昭和14年)6月21日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで2期在任した。
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元泉 馨(もといずみ かおる、1893年〈明治26年〉5月1… 元泉 馨(もといずみ かおる、1893年〈明治26年〉5月11日 - 1948年〈昭和23年〉7月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。変名・元金福。 愛媛県出身。小学校・元泉久吉の三男として生まれる。横浜第一中学校(現神奈川県立希望ヶ丘高等学校)卒業を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業し、同年12月、陸軍騎兵少尉に任官し騎兵第11連隊付となる。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を卒業した。 1927年(昭和2年)3月、騎兵第11連隊中隊長に就任し、陸士教官を経て、1931年(昭和6年)8月、騎兵少佐に昇進し近衛師団参謀となる。1932年(昭和7年)12月、陸軍騎兵学校教官に転じ、1936年(昭和11年)3月、騎兵中佐に進む。
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紅露 みつ(こうろ みつ、1893年〈明治26年〉5月10日… 紅露 みつ(こうろ みつ、1893年〈明治26年〉5月10日 - 1980年〈昭和55年〉12月20日)は、日本の政治家。参議院議員(4期)、衆議院議員(1期)。 群馬県碓氷郡坂本村(現安中市松井田町)出身。神田女学校を卒業して、雑誌記者となり兄の友人[要出典]だった弁護士・紅露昭と結婚。衆議院議員を4期務めた夫の公職追放に伴い、1946年の総選挙に徳島県全県区から出馬(無所属)し、初当選を果たす。 その後民主党に入党するも翌1947年の総選挙では落選、だが同年8月の第1回参議院議員通常選挙補欠選挙で当選(任期3年)して国政復帰を果たし、以後国民民主党→改進党→日本民主党→自由民主党と党籍を変えながら通算4期務める。
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鈴木 泉三郎(すずき せんざぶろう、1893年5月10日 -… 鈴木 泉三郎(すずき せんざぶろう、1893年5月10日 - 1924年10月6日)は、日本の劇作家、編集者である。豊島屋主人(としまやしゅじん)、伊豆 巳三郎(いず みさぶろう)などの筆名ももつ。 1893年(明治26年)5月10日、東京市赤坂区の青山地区(現在の東京都港区北青山か南青山)に生まれる。四谷区左門町(現在の新宿区左門町)にあった旧制・四谷第二小学校(現新宿区立四谷第六小学校)を卒業後、四谷銀行に入社、その傍ら、当時、同市同区葵町3丁目(現在の港区虎ノ門2丁目)にあった旧制・大倉商業学校(現在の東京経済大学)夜間部に通い、卒業する。が同市神田区錦町3丁目(現在の千代田区神田錦町)にあった国民英学会に進む。
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岩切 章太郎(いわきり しょうたろう、1893年5月8日 -… 岩切 章太郎(いわきり しょうたろう、1893年5月8日 - 1985年7月16日)は、日本の実業家。宮崎交通グループの創業者。宮崎県宮崎市出身。 宮崎を観光地として整備した立役者として「宮崎観光の父」と呼ばれる。日南海岸に現在宮崎の風物詩になっているフェニックスの植林を行い、こどもの国の開園、えびの高原の観光開発、橘公園の造園など「大地に絵を描く」という理念で大型の観光開発を行った。 住友時代の同期には、田路舜哉(住友商事会長)、土井正治(住友化学会長)などがいた。また大学の同窓生である岸信介元首相と懇意であり、佐藤栄作元首相に全日空の社長就任を要請されるなど中央政界にも太いパイプを持った人物だった。
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川村 カ子ト(かわむら カネト、1893年〈明治26年〉5月… 川村 カ子ト(かわむら カネト、1893年〈明治26年〉5月5日 - 1977年〈昭和52年〉1月6日)は、上川アイヌの長で、日本国有鉄道の測量技手。アイヌ文化の啓発・普及にも寄与した。国鉄退職後は川村カ子トアイヌ記念館の館長、旭川アイヌ民族史跡保存会長、旭川アイヌ民族工芸会長などを務めた。弟に川村才登、妹・コヨの夫に貝澤藤蔵がいる。 なお、「カネト」の「ネ」を「子」と書いているのは、かつて使われた、カナの「ネ」の異体字である。「カネト」と書かれることもある。また、カネトアイヌの正確な発音は、長男の川村兼一によると、カネトゥカイヌである。 1893年(明治26年)、旭川永山町(現旭川市永山)キンクシベツに生まれる。
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3代 諸橋 久太郎(もろはし きゅうたろう、1893年(明治… 3代 諸橋 久太郎(もろはし きゅうたろう、1893年(明治26年)5月3日 - 1973年(昭和48年)2月12日)は、昭和時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。福島県平市長。旧名・守次。位階は正五位。勲三等旭日中綬章。 福島県磐前郡平町(石城郡平町、平市を経て現いわき市)の金物商、釜屋商店の2代諸橋久太郎の嗣子として生まれる。1916年(大正5年)早稲田大学政治経済科を卒業。1930年(昭和5年)3代久太郎を襲名した。1931年(昭和6年)石城郡農会長に就任したのを皮切りに、平市農会長、信用組合平庶民金庫理事長、諸橋合名会社代表、磐城水産工業、片倉磐城製糸、植田水力電気、福島県農工銀行、相馬塩業などの重役を歴任した。
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尼崎 康定(あまさき やすさだ、旧姓・戸田、1893年(明治… 尼崎 康定(あまさき やすさだ、旧姓・戸田、1893年(明治26年)5月2日 - 1952年(昭和27年)1月16日)は、日本の実業家。尼崎汽船部常務。尼崎造船、尼崎海上火災、関西汽船各取締役。大阪曹達、大阪曹達商事各監査役。 信州松本藩主・戸田光則(松平光則)の孫。子爵・戸田康泰の息子。子爵・戸田康保の弟。1919年、北海道帝国大学附属水産専門部を卒業した。趣味は謡曲、ゴルフ。宗教は神道。住所は大阪市天王寺区生玉町、同市福島区鷺洲南。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
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立花 秀吉(たちばな ひでよし、1893年〈明治26年〉5月… 立花 秀吉(たちばな ひでよし、1893年〈明治26年〉5月1日 - 1956年〈昭和31年〉6月13日)は、福島県磐城市(現・いわき市)長。 福島県磐前郡小名浜町(のち石城郡小名浜町→磐城市、現・いわき市)出身。小名浜の大船主の家に生まれる。1937年、小名浜町会議員となり、1954年に小名浜町長に就任する。同年、小名浜町は泉町、江名町、渡辺村と合併し、磐城市が発足、合併後の市長選挙に立候補し、当選した。市長就任後は小名浜港1万トン埠頭の建設、臨海工場の誘致などに常磐地区総合開発期成同盟会の副会長として力を尽くした。1期目在任中の1956年に死去した。
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中野 泰介(なかの やすすけ、1893年5月 - 没年不詳)… 中野 泰介(なかの やすすけ、1893年5月 - 没年不詳)は、日本のジャーナリスト、実業家、政治家。玄洋社社員。 中野泰次郎の二男として福岡県に生まれる。政治家中野正剛は兄。1912年福岡県立中学修猷館を経て、1917年早稲田大学政治経済学科を卒業。 九州日報社常務取締役を経て、1933年福岡市会議員に挙げられる。 長男は読売テレビ社長を務めた中野達雄。
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