藤岡 直平衛(ふじおか なおべえ、1881年(明治14年)1… 藤岡 直平衛(ふじおか なおべえ、1881年(明治14年)1月2日 - 1965年(昭和40年)4月25日)は、日本の政治家。元徳島市長。徳島県東みよし町出身。号は楽山。 旧三好郡三好町足代(現在の東みよし町)生まれ。後に徳島市福島に移り住む。徳島師範学校卒業。師範学校卒業後、小学校教員・郡視学・県視学・郡長を経て徳島県学務課長・社寺兵事課長・農林課長を歴任。 1927年(昭和2年)、徳島市助役に就任。1933年(昭和8年)に徳島市長に就任、1937年(昭和12年)まで務めた。第二次世界大戦後、一時的に徳島新聞社社長に就任、徳島県選挙管理委員長を歴任した。 1965年(昭和40年)4月25日、85歳で没する。
押川 清(おしかわ きよし、1881年〈明治14年〉1月1日… 押川 清(おしかわ きよし、1881年〈明治14年〉1月1日 - 1944年〈昭和19年〉3月18日)は、日本のアマチュア野球選手、編集者、起業家。 早稲田大学野球部の三代目主将を務め、日本初のプロ野球チームである「日本運動協会」(芝浦協会)や、「名古屋軍」(中日ドラゴンズの前身)、「後楽園イーグルス」などの創設者としても知られる。 父は牧師で東北学院創設者でもある押川方義、兄は冒険小説家の押川春浪。長男は劇作家の押川昌一。 現在の宮城県仙台市出身(愛媛県松山市出身と書いてある資料もあるが、押川家は1880年から仙台在住である)。 仙台では1887年(明治20年)9月に、米国聖公会の宣教医であったフランク・ハレルが、第二高等中学校(後の旧制二高、現・東北大学)の教師の就任すると、ハレルは野球道具を持ち込み学生たちに野球を教え、仙台に野球が伝えられた。
池邊 龍一(いけべ りゅういち、1881年(明治14年)1月… 池邊 龍一(いけべ りゅういち、1881年(明治14年)1月1日 - 1960年(昭和35年)1月11日)は、日本の外交官。内閣総理大臣秘書官等を経て、東洋拓殖総裁として大日本帝国下における植民地経営にあたった。第二次世界大戦後連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により公職追放された。 長崎県出身。池邊政五郎の三男。私立商工中学校を経て、1904年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。 外務省入省。1907年韓国統監府属。外交官及領事官試験合格の同期に吉田茂(のちに内閣総理大臣)、広田弘毅(のちに内閣総理大臣、外務大臣)、武者小路公共(のちに駐ドイツ大使)、平田知夫(第一次世界大戦でモスクワ総領事在任中、39歳で夭逝)、林久治郎(のちに駐ブラジル大使)、尾崎洵盛(のちに陶磁器研究家)などがいる。
入江 海平(いりえ かいへい、1881年(明治14年)1月1… 入江 海平(いりえ かいへい、1881年(明治14年)1月1日 – 1938年(昭和13年)1月17日)は、日本の朝鮮総督府官僚。南満洲鉄道理事。拓務次官。玄洋社社員。 福岡県宗像郡(現・宗像市)出身。1900年(明治33年)福岡県中学修猷館、1904年(明治37年)7月第七高等学校造士館法科を経て、1908年(明治41年)7月東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、統監府嘱託となった。翌年に高等文官試験に合格し、統監府書記官、朝鮮総督府書記官、総務部会計局経理課長、総督官房会計課長、度支部理財課長を歴任した。1917年(大正6年)、内閣拓殖局書記官に転じ、第一課長、南満洲鉄道株式会社監理官、東洋拓殖株式会社監理官などを務めた。
平野 光雄(ひらの みつお、1881年(明治14年)1月1日… 平野 光雄(ひらの みつお、1881年(明治14年)1月1日 - 1958年(昭和33年)7月26日)は、日本のジャーナリスト・政治家。政治家としては憲政会→立憲民政党に所属し、衆議院議員選挙に通算6回当選し逓信参与官を務めた。 静岡県庵原郡由比町(現在の静岡市清水区)出身。1910年(明治43年)、慶應義塾大学部政治科を卒業。『時事新報』記者を務めた。 1922年(大正11年)、衆議院議員補欠選挙に出馬し当選。第20回衆議院議員総選挙に至るまで6回当選を果たした。その間、岡田内閣で逓信参与官を務めた。 1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙では大政翼賛会の推薦を受けたが落選した。 戦後、公職追放となる。
益田 玉城 (ますだ ぎょくじょう、1881年(明治14年)… 益田 玉城 (ますだ ぎょくじょう、1881年(明治14年)1月1日 - 1955年(昭和30年)4月22日)は、明治 - 昭和前期の日本画家。「玉城」は雅号。本名は「珠城」(たまき)と表記される。宮崎県都城生まれ。 同郷の山内多門とともに上京し、川端玉章(川端画学校)に入門の後、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科選科修了。川端画学校・ 女子美術学校(現・女子美術大学)で後進を育成し、銀座3丁目にあった美術工芸品店㈱生秀館の図案部長も務める。 大正4年第9回文展にて《かの子屋の娘》が初入選、1920年・1921年・1928年・1929年の各年に帝展入選を果たし、1931年(昭和6年)には《姫街道》で無鑑査推薦となる。
横山 運平(よこやま うんぺい、1881年〈明治14年〉1月… 横山 運平(よこやま うんぺい、1881年〈明治14年〉1月1日 - 1967年〈昭和42年〉4月3日)は、日本の俳優。滋賀県犬上郡彦根町(現在の同県彦根市)出身。日本初の劇映画に出演したことで、日本の映画俳優第一号となった。本名は横山 弥太郎(よこやま やたろう)。 1881年(明治14年)1月1日、滋賀県犬上郡彦根町(現在の同県彦根市)に生れる。 1893年(明治26年)、新派劇の草分けである、角藤定憲の一座に入り、子役として舞台に立つ。1899年(明治32年)、上京して、「赤坂演技座」で書生芝居に出演。同年、駒田好洋の「日本率先活動写真会」が日本での活動写真制作を開始。三越写真部の柴田恒吉と共同で、同年に実際に起こった脱獄事件を題材に、日本最初の劇映画『ピストル強盗清水定吉』を製作。
石田 誠(いしだ まこと、1881年〈明治14年〉- 195… 石田 誠(いしだ まこと、1881年〈明治14年〉- 1959年〈昭和34年〉)は、日本の細菌学者、耳鼻咽喉科医師、富田浜病院初代院長。妻の石田マサヲについても記述する。 岡山県苫田郡奥津村細田生まれ。旧制津山中学校・関西中学校を経て、1896年(明治29年)に上京して第一高等学校独法科に入学したが、翌年胸部を患い、北里療養所に入院した。その後、郷里の兵庫県赤穂市で静養を続けた。その後、1901年(明治34年)に京都府立医学専門学校へ入学して、1907年(明治40年)に卒業して医師免許を得た。 その後、京都帝国大学医学部へ入学し、京都帝国大学の耳鼻咽喉科で和辻春次教授の指導を受けて、細菌学や血清学の研究に従事した。
田中 長一郎(たなか ちょういちろう、1881年 - 196… 田中 長一郎(たなか ちょういちろう、1881年 - 1969年)は、日本近代製鉄の礎を築いた二代目・田中長兵衛の長男。父を補佐し家業である製鉄・鉱山業を支えた。 東京は京橋区にて二代目長兵衛と母・よきの間に長男として生まれる。弟・長五郎(1883年生)あり。1896年(明治29年)4月に慶應義塾入社、幼稚舎を経て大学部に進む。1つ年上の従兄弟・横山長次郎と共に1901年(明治34年)の慶應大学庭球部創立メンバーの一人となり、同年秋に一橋大学と行った対抗戦にも出場。学業よりも実地を重んずる厳格な祖父(初代長兵衛)の方針に従い慶應義塾を退学すると、1907年(明治40年)頃から佐渡や生野、足尾、別子など全国の鉱山を視察して回った。
許 修直(きょ しゅうちょく、1881年〈光緒7年〉 - 1… 許 修直(きょ しゅうちょく、1881年〈光緒7年〉 - 1954年)は、中華民国の官僚・文物収集家。旧名は卓然。字は西渓。北京政府・国民政府で官職を歴任し、後者では対日交渉に関わった。中華民国臨時政府など親日政権にも参与した。 日本に留学、中央大学法科を卒業した。なお留学中に中国同盟会に加入している。帰国後は、江蘇提法司科長、蘇州私立法政学堂教習、浙江高等審判庁推事、同代理庁長、浙江官立法政学堂教習、大理院推事を歴任した。 1924年(民国13年)11月、黄郛に起用されて国務院印鋳局局長となる。以後、黄の腹心として活動することになった。1927年(民国16年)、国民政府に転じ上海市法制室主任となる。
金古 久次(かねこ ひさつぐ、1881年 - 1945年)は… 金古 久次(かねこ ひさつぐ、1881年 - 1945年)は、日本の土木技術者、都市計画家 福島県に生まれる。1909年、東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。内務省東京土木出張所に入り、利根川第二期改修工事、ついで荒川上流改修工事に従事。 1926年から2年間欧米各国へ出張。 1929年、下関土木出張所長、34年、名古屋土木出張所長となる。1938年、退任した。 1938年、中国上海の都市計画を実現するため設立した日中合弁の上海恒産会社技術部長に招請される。 1940年、同長を退任。 その後、和歌山市顧問、都市計画和歌山地方委員会委員などをつとめた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
諸 青来(しょ せいらい、1881年〈光緒7年〉 - 没年不… 諸 青来(しょ せいらい、1881年〈光緒7年〉 - 没年不明)は、清末民初の政治家・官僚。名は翔だが、号の青来で知られる。祖籍は浙江省紹興市。中国国家社会党の有力幹部で、後に南京国民政府(汪兆銘政権)の要人となった。 清末に日本に留学し、商工や経済を学んだ。帰国後は、清朝の農商部・財政部に任官する。後に、上海で神州大学を創設し、総務長となる。また、雑誌『銀行周報』編輯となり、上海大夏大学・持志大学・光華大学・中国公学で教授をつとめた。1934年(民国23年)、中国国家社会党に加入する。1937年(民国26年)の日中戦争(抗日戦争)勃発後は、上海の雑誌『新学識』において、国共合作反対の主張を展開した。
東 勝熊(ひがし かつくま、1881年〈明治14年〉 - ?… 東 勝熊(ひがし かつくま、1881年〈明治14年〉 - ?)とは、アメリカ合衆国、フランス、ドイツを渡り歩き、柔術の伝播に貢献した柔術家である。 薩摩国串木野の生まれである。衆議院議長や文部大臣を務めた政治家、長谷場純孝の甥。 9歳から柔術を学び始めたが、流派は不明。東の師は「ホシノ」と「ツツミマサオ」である。「ホシノ」は、四天流の星野九門とする説がある。 故郷を出て同志社英学校(現在の同志社大学)に入学し、卒業。その後、アメリカに渡ってマサチューセッツ州のモンソンアカデミー、さらにイェール大学に進む。当時のアメリカでは柔術が注目を集めており、有名人になった東はアーヴィング・ハンコック(H. Irving Hancock)との共著で柔術解説書『The Complete Kano Jiu-Jitsu』を刊行する。
陳 則民(ちん そくみん、1881年〈清光緒7年〉 - 19… 陳 則民(ちん そくみん、1881年〈清光緒7年〉 - 1951年)は、中華民国の政治家・弁護士。中華民国維新政府、南京国民政府(汪兆銘政権)の要人である。 日本留学経験を持ち、日本大学法科を卒業している。帰国後は参議院議員に選出され、政治討論会副会長にもなっている。また、北京政府の大総統府顧問もつとめた。1920年(民国9年)から3年間、蘇州電気公司董事長となっている。その後は上海で弁護士を開業する。律師(弁護士)公会会長、上海各路商会連合会会長、納税華人理事会理事、蘇州電気廠総弁をつとめた。 日中戦争(抗日戦争)勃発後に蘇州が日本軍により陥落すると、陳則民は蘇州地方自治委員会会長となった。1938年(民国27年)3月、中華民国維新政府に参加し、教育部部長に任じられた。
袁 永廉(えん えいれん、1881年 – 1942年〈民国3… 袁 永廉(えん えいれん、1881年 – 1942年〈民国31年〉)は、清末民初の財務官僚。字は履卿。清朝と北京政府で財務関連各職を歴任し、中華民国臨時政府でも財政部の要職に就いた。 1904年(光緒30年)、甲辰恩科進士。その後日本に留学し、1908年(光緒34年/明治41年)11月に法政大学清国留学生法政速成科補習科を卒業した。清朝では度支部主事や山西清理財政副監理官をつとめた。 中華民国成立後の1912年(民国元年)には、財政部で籌備処弁事や財政調査委員会委員、幣制委員会委員、僉事を歴任した。翌1913年(民国2年)、山西省に赴任し、国税庁籌備処処長や官銭局監理官、普勝銀行監理官をつとめている。
張 孝栘(ちょう こうい、1881年 - 没年不詳)は、清末… 張 孝栘(ちょう こうい、1881年 - 没年不詳)は、清末民初の司法官・法学者。字は棣生。別号は逖省。 日本に留学し、1906年(光緒32年・明治39年)に早稲田大学専門部政治経済科を卒業した。帰国後は京師法政学堂及び京師法律学堂の教習(教官)となる。以後、修訂法律館纂修、憲法編査館科員、北京政府大理院推事を歴任した。1915年(民国4年)、総検察庁首席検察官に任命される。1928年(民国17年)4月、総検察庁検察長暫定代理となった。その後、国立北平大学法学院教授、国立北京大学法律系講師、河北省立法商学院法律系教授を歴任している。 1937年(民国26年)12月、北京に中華民国臨時政府が成立すると、張孝栘もこれに参与する。
徳田 平市(とくだ へいいち、明治14年〈1881年〉 - … 徳田 平市(とくだ へいいち、明治14年〈1881年〉 - 昭和19年〈1944年〉)は、日本の実業家・漁業家。兄の奥田亀造とともに角輪組を設立(二代目社長)。旧制鳥取第二中学校(現・鳥取県立鳥取東高等学校)の創立功労者。 1881年、 鳥取県岩井郡大谷村(現・岩美郡岩美町大谷)の地引き網の網元・奥田周蔵、きよの四男として生まれる。長じて兄・亀造らと朝鮮沿岸の漁場開拓に乗り出したが、日露戦争が始まったため従軍、沙河会戦の功績により金鵄勲章を授与された。 1908年、東京に遠洋漁業角輪商会を合資会社で設立。翌年、単身カムチャツカに渡り、流木で立てた小屋に仮泊しながら、鮭・鱒の漁場調査を行う。1910年、気高郡豊実村宮谷(現・鳥取市宮谷)の豪農・徳田家の養子となり、長女かねと結婚。
井上好三郎(いのうえ こうざぶろう、1881年(明治14年)… 井上好三郎(いのうえ こうざぶろう、1881年(明治14年) - 1943年(昭和18年))は日本の商人、実業家。井上好三郎商店(現:井上鋲螺工業株式会社)創業者。滋賀県甲賀市水口町出身。
橋本 善吉(はしもと ぜんきち、1881年〈明治14年〉 -… 橋本 善吉(はしもと ぜんきち、1881年〈明治14年〉 - 1943年〈昭和18年〉)は、朝鮮九龍浦に居住した日本人実業家。橋本善吉商店店主。 香川県大川郡小田村(のち志度町、現・さぬき市)出身。九龍浦に移住し、妹婿植村倉太郎と共同で鮮魚運搬業を経営する。所有船は海興丸、鷹丸、千代丸、平安丸で、九龍浦を根拠地に朝鮮・関東州方面を活動舞台にする。その他大敷・巾着網漁業、イワシ加工など手広く経営する。 有志と協力して小学校創設に努力して、これを実現する。1938年7月に朝鮮慶尚北道九龍浦公立尋常高等小学校増築費金1322円を寄付したため、1939年12月に褒状を下賜される。学校組合管理者に挙げられる。
植田 末蔵(うえだ すえぞう、1881年〈明治14年〉 - … 植田 末蔵(うえだ すえぞう、1881年〈明治14年〉 - 1943年〈昭和18年〉)は、日本の政治家、実業家。山口県豊浦郡彦島町長。山口県会議員。植田商事常務取締役。植田合名会社員。植田商店代表。山口県参事会員。 山口県豊浦郡彦島町(現・下関市)出身。長い間町村会議員、郵便局長、郡会議員をつとめた。1923年、満場の推選で町長となった。また会社の重役であった。 彦島で海運業、運送業、貸地貸家業、労力請負業などを営んでいた植田惣五郎の二男。性格は純で、正直な事で有名であった。趣味は釣り。宗教は真宗。住所は山口県下関市江ノ浦町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
井上 紅梅(いのうえ こうばい、1881年(明治14年) -… 井上 紅梅(いのうえ こうばい、1881年(明治14年) - 1949年(昭和24年)?)は、大正・昭和戦前期の中国文学・中国文化研究者。当時の言葉で「シナ通 (支那通)」と呼ばれる在野の中国愛好家であり、中国風俗や中国事情を紹介する多くの著作を送り出した。同時代の新文学の紹介も旺盛に行い、魯迅のまとまった翻訳を初めて手がけたことで知られている。また、日本に麻雀を紹介した初期の人物の一人でもある。本名は井上 進(いのうえ すすむ)。 井上紅梅の生涯については不明な点が多く、生没年すら確定されない状況が長く続いた。中国史学者の三石善吉は、1970年代に「シナ通」研究の一環として紅梅についての調査を行ったが、「その生涯については謎ばかり」、「謎の人物」と評した。
野沢竹朝(のざわ ちくちょう、1881年(明治14年) - … 野沢竹朝(のざわ ちくちょう、1881年(明治14年) - 1931年(昭和6年)1月)は、囲碁の棋士。島根県生まれ、本因坊秀栄門下、七段。「常勝将軍」の異名をとる。毒舌で知られ、本因坊家から破門、日本棋院と棋正社の院社対抗戦では棋正社として出場した。 元出雲藩士野沢助之進の三男として島根県松江市に生まれる。6歳から碁石を手にし、10歳頃には囲碁の神童と謳われ、独学ながら1892年に方円社に入塾し、大阪に移っては田淵米蔵に師事。1896年に父と名古屋に移ってからは二段格の本多七兵衛と交流し、この頃には高崎泰策に三子の力があった。1903年に本因坊秀栄に入門し、飛付き二段となる。同年に三段、1907年には四段となる。
信田 一風(のぶた いっぷう、明治14年(1881年) - … 信田 一風(のぶた いっぷう、明治14年(1881年) - 昭和18年(1943年)、本名:信田直四郎)は、明治〜昭和時代の日本画家。 明治14年、栃木県根本(真岡市)の漢方医者の二男として生まれる。漢学を東台村の随光寺の覚菩姉に師事するも、塾内にては専ら絵筆を振り破門(当時13歳)。その後、画工矢橋夫箔の門に入り、花、鳥、山水、人物、と師法を学び、明治29年の秋、東京の鳥越に住する。その後、容斎派の松本楓湖に師事。帝展(現日展)等にも出品。特に人物画を得意とし、歴史画、仏画の百観音なども得意とする。明治39年と43年に福島地方にて画会を開く。昭和に入り、南千住の石浜神社に「天照大神」「猿田彦大神天孫降臨の画」を奉納。
永倉 江村人(ながくら こうそんじん、1881年(明治14年… 永倉 江村人(ながくら こうそんじん、1881年(明治14年) - 1951年(昭和26年))は、日本の画家。京都帝国大学福岡医科大学(後の九州帝国大学医学部、現在の九州大学医学部)解剖教室標本描画嘱託。本名は永倉茂。初号は江村人。 1881年(明治14年1月14日)千葉県印旛郡臼井町(現在の佐倉市臼井)に旧佐倉藩士の永倉良輔の長男として生まれる。旧制佐倉尋常中学(現在の千葉県立佐倉高等学校)を経て、1898(明治31)年東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科本科に入学、当時日本画助教授『横山大観』に師事、日本画を習う、学生時代、考古学研究における先駆者として、「東京人類学会(現日本人類学会)」に寄稿したという。
塩田 武雄(しおた たけお、1881年 - 1943年12月… 塩田 武雄(しおた たけお、1881年 - 1943年12月3日)は、ブルックリン植物園内日本庭園、日本式ヒル・アンド・池庭(Japanese Hill & Pond Garden)の作庭で知られる日系アメリカ人造園家。おもにアメリカ東海岸各地で日本庭園を手がけた。ニューヨーク州の近郊に残る大多数の日本庭園は塩田によるもので、彼が生涯に手がけたと知られている庭のうち約半数は未だに残っているというが、その多くは手入れをされずに放置されている。 千葉県夷隅郡大多喜町の裕福な農家に生まれ、地元の大多喜中学校、現在の千葉県立大多喜高等学校を卒業後、造園業に就き造園技術を習得。1907年新天地を求め26歳で当時日本庭園を造ることが一種のブームであったアメリカに来る。
川口 為之助(かわぐち ためのすけ、川口爲之助、1881年 … 川口 為之助(かわぐち ためのすけ、川口爲之助、1881年 - 1962年2月23日)は、大正・昭和期の日本の政治家。千葉県印旛郡志津村(現在の佐倉市上志津)出身。日本国憲法制定後の初代民選千葉県知事(通算では36代目)。後に参議院議員。
南 能衛(みなみ よしえ、1881年(明治14年) - 19… 南 能衛(みなみ よしえ、1881年(明治14年) - 1952年(昭和27年)5月17日)は、日本の音楽教育者・作曲家。『横浜市歌』などの作曲者として知られる。専門・担当はオルガン、楽理、和声論、音楽教授法、音楽通論。当時でいう唱歌編纂掛、楽語調査掛も務めた。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。 この項目は、クラシック音楽に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル クラシック音楽/ウィキプロジェクト クラシック音楽)。
金 始顕(キム・シヒョン、朝鮮語: 김시현/金始顯、1881… 金 始顕(キム・シヒョン、朝鮮語: 김시현/金始顯、1881年または1882年または1883年 - 1966年1月3日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の政治家。大韓民国臨時政府委員、東洋工科大学学長、第2・5代韓国国会議員。 本貫は安東金氏。字は九和(クファ、구화)、号は何求(ハグ、하구)、鶴右(ハグ、학우)。独立運動家の権愛羅(朝鮮語版)は妻。 慶尚道安東大都護府(現・慶尚北道安東市豊山面)出身。明治大学法学部卒。三・一運動に参加後、満州の吉林省に亡命し、義烈団に入団した。1922年、モスクワに開催された極東革命団体代表大会に金奎植・呂運亨らとともに韓国代表として参加した。1923年、義烈団の密命を受けて朝鮮に潜入し、日本の朝鮮統治機関の破壊や大日本帝国の要人の暗殺などを計画したが、京畿道警察部の黄鈺(朝鮮語版)と連携して爆弾を朝鮮に輸入し挙事しようとして逮捕され、懲役10年の刑を言い渡された。
丹波 恒夫(たんば つねお、 1881年 - 1971年11… 丹波 恒夫(たんば つねお、 1881年 - 1971年11月15日)は、日本の実業家、浮世絵収集家。横浜で貿易商を営み、丹波商会を創設して日本の貿易振興に貢献したほか、浮世絵収集家として国際的に知られ、寄贈した作品は「丹波コレクション」として神奈川県立歴史博物館に所蔵されている。連合軍総司令部(GHQ)繊維部顧問、日本浮世絵協会理事、横浜文化賞受賞。 山形県新片町(現・酒田市幸町)に生まれる。 1901年(明治34年)立教学院東京英語専修学校(現・立教大学)に入学。その後中退し、日露戦争に出兵。 その後、郷里の山形に戻り、酒田郵便局や新庄中学校などに勤務する。 1907年(明治40年)に米国に留学し、英語や経済学などを学び、後に百貨店に勤めて、欧米の絹布・雑貨などの研究を進め、日本の絹織物市場調査を行う。
山口 春吉(やまぐち はるきち、1881年〈明治14年〉 -… 山口 春吉(やまぐち はるきち、1881年〈明治14年〉 - 1938年〈昭和13年〉1月17日)は、日本のヤクザ、山口組創設者・初代組長。 兵庫県津名郡仮屋浦(町村制後:来馬村、現:淡路市仮屋)出身。日露戦争から復員後、1910年ごろまで地元で漁師をしていたが、これに見切りを付け、神戸港に労務者として移住した。 当初は神戸市生田区栄町にあった海運業の倉橋組で働き、持ち前の体力と統率力で小者頭にのし上がった。その後1912年ごろ、神戸港で人夫供給業や造船所の用心棒等を請け負い勢力を持っていた「運河ノ親分」こと大嶋秀吉率いる大嶋組に現場監督として入った。大嶋は吉田磯吉門下で、筑豊から神戸に流れた富永組の富永亀吉の子分である。
赤阪 音七(あかさか おとしち、1881年~1953年8月1… 赤阪 音七(あかさか おとしち、1881年~1953年8月17日)は船舶用エンジンの開発者。兵庫県淡路島洲本町(現洲本市)出身。享年72. 舶用動力機関の始動原理の発見。漁船の動力化に努める。また、船舶用ディーゼル機関の改良、普及にも努める。 【参考資料】 『赤阪翁追悼録』(発行・編纂:株式会社 赤阪鐵工所) 「決して、船主や乗組員に迷惑をかけるような機械をつくってはならない。」 それが彼の口癖だったという。豪快な人柄と確かな技術で、焼津の漁師の心をつかんだ。
荒川 敬(あらかわ けい、1881年 - 1964年)は茨城… 荒川 敬(あらかわ けい、1881年 - 1964年)は茨城県出身の海事実業家。中大型船の入港実績の無かった東京港に最初の汽船を入港させ、受け入れ態勢の整備に尽力した。位階は正六位。勲五等旭日章、瑞宝章受章。 旧水戸藩士・荒川信敬の長男。水戸市下市仲之町にて1881年(明治14年)7月29日に生まれる。地元の小学校を卒業後に数え年17歳で志を持って上京。同郷の西野元のもとに身を寄せ英数漢の学科を勉強した。1904年(明治37年)勃発した日露戦争では徴兵を受け近衛歩兵第1連隊所属の軍曹として満州へ渡り、その働きをもって金鵄勲章を授与される。復員翌年の1906年(明治39年)商船会社に入り海運業に携わった。
竹内 十次郎(たけのうち じゅうじろう、1869年12月30… 竹内 十次郎(たけのうち じゅうじろう、1869年12月30日〈明治2年11月28日〉 - 1937年〈昭和12年〉5月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍主計少監(主計少佐)。公金費消の嫌疑により免官となった人物である。大仏次郎の小説『帰郷』のモデル。 三重県出身。父は旧桑名藩士、兄は陸軍二等兵から中佐まで昇進した。三田英学校から海軍主計学校に進み、13名の同期生のうち首席・恩賜で卒業。日清戦争では旗艦「松島」の主計官として黄海海戦に参戦した。その後横須賀司計部計算官、「赤城」主計長などを勤め、造船造兵監督官としてイギリス駐在となり、現金前渡官吏を兼務。日本が発注する軍艦について代金支払の実務を担うこととなった。
大砲 万右エ門(おおづつ まんえもん、1869年12月30日… 大砲 万右エ門(おおづつ まんえもん、1869年12月30日(明治2年11月28日) - 1918年(大正7年)5月27日)は、岩代国刈田郡三沢村(現:宮城県白石市大鷹沢三沢)出身で尾車部屋に所属した大相撲力士。第18代横綱。本名は角張 萬次(かくばり まんじ)。 明治維新直後の1869年に農家の二男として生まれる。子供の時から身体が大きく怪力で、13歳で四斗俵を左右に軽々と提げて歩いた。この恵まれた体格を持つ少年の噂を聞いた伊勢ノ海部屋の元力士の夫人に見出され、1884年の春に上京して尾車部屋へ入門した。同年5月場所、故郷に因んだ「三沢滝(みさわたき)」の四股名で初土俵を踏んだ。入門当初は「コンニャク」と揶揄されるほど足腰が弱く、初土俵から4場所連続で前相撲から抜けられなかったが、1886年6月場所、師匠の初代尾車が勧進元になった際に、ようやくお情け(いわゆる"お蔭出世")で序ノ口昇進を認めてもらい、1887年1月場所に序ノ口に上がった。
伊沢 多喜男(いさわ たきお、旧字体: 伊澤 多喜男、186… 伊沢 多喜男(いさわ たきお、旧字体: 伊澤 多喜男、1869年12月26日〈明治2年11月24日〉 - 1949年〈昭和24年〉8月13日)は、日本の内務官僚、政治家。 信濃国高遠藩士伊澤勝三郎(文谷)(高遠藩士武井堀右衛門の子で、高遠藩主内藤頼寧に召しだされた伊澤清治の子)の子として生まれる。慶應義塾普通部、第三高等中学校を経て、1895年(明治28年)、東京帝国大学法科大学を卒業、一旦愛知県属となり1897年(明治30年)内務省に入省する。以後山梨県と岐阜県の各県参事官、岐阜県・福井県・滋賀県の各県書記官、滋賀県事務官などを歴任した。1907年(明治40年)に内務大臣であった原敬に引き立てにより警視庁警視、次いで和歌山県知事を務めた。
坂田 重次郎(さかた じゅうじろう、1869年12月24日(… 坂田 重次郎(さかた じゅうじろう、1869年12月24日(明治2年11月22日)- 1919年(大正8年)11月26日)は、日本の外交官。外務省通商局長や、在スペイン特命全権公使を務めた。 出雲国仁多郡三成村(現島根県奥出雲町)で旧家の金坂太八郎の次男として生まれる。兄の金坂儀一郎は村長を務めた。小学校卒業後大志を抱き上京したが、資金が尽きたため帰郷した。島根県師範学校に入学し3年間在学したが、休校となったため退学。1890年に坂田マスの養子となり坂田姓となる。1894年に高等商業学校(後の東京高等商業学校、一橋大学)本科卒業後、1896年第3回高等文官試験(外交科)に合格し、外務省入省。 高等商業学校在学中、1893年に学校から旅費を支給され、同校学生の福田徳三(のちに経済学者)とともに栃木県、群馬県、長野県、新潟県、富山県、石川県、福井県に視察に行った。
松岡 勝太郎(まつおか かつたろう、1869年12月22日(… 松岡 勝太郎(まつおか かつたろう、1869年12月22日(明治2年11月20日) - 1932年(昭和7年)9月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岐阜県、後の揖斐郡八幡村(現池田町)出身。1887年、同人社、1890年、東京専門学校行政科卒。農業を営む。岐阜県会議員、同議長、所得税調査委員、宅地価修正委員となり、会社重役を務めた。 1917年(大正6年)の第13回衆議院議員総選挙において岐阜県の郡部選挙区から憲政会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1920年の第14回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1932年に死去した。
都築 甚之助(つづき じんのすけ、1869年12月21日(明… 都築 甚之助(つづき じんのすけ、1869年12月21日(明治2年11月19日) - 1933年(昭和8年)3月12日)は、明治から昭和前期にかけての軍医、脚気が栄養欠乏でおこり、米糠により予防・治療ができることを動物実験で確認した。愛知県出身。 1869年12月21日((旧暦)明治2年11月19日)、三河碧海郡刈谷藩領(現愛知県刈谷市)の農家、都築甚六・つう夫妻の長男として都築甚之助は誕生した。1883年(明治16年)元刈谷小学校を卒業し郡立高等学校に入学、同校卒業後1885年(明治18年)愛知医学校(現名古屋大学医学部)に入学し、1887年(明治20年)千葉第一高等中学校医学部(現千葉大学医学部)に転じ、1890年(明治23年)4月卒業した。
山田 三良(やまだ さぶろう、1869年12月20日(明治2… 山田 三良(やまだ さぶろう、1869年12月20日(明治2年11月18日) - 1965年(昭和40年)12月17日)は、日本の法学者。専門は国際私法。学位は法学博士。法華会創立者。 1869年、奈良県高市郡越智村(現・高取町)に村長山田平三郎の三男として生まれる。東京専門学校(現早稲田大学)を経て、1896年帝国大学法科大学(現東京大学大学院法学政治学研究科・法学部)卒業。同大学院修了。その後東京帝国大学法科大学助教授に就き、文部省外国留学生としてドイツのハイデルベルク大学、フランスのソルボンヌ大学に3年間留学し国際法を学ぶ。1901年7月19日帰国。 帰国後、東京帝国大学法科大学教授、京城帝国大学総長、東京帝国大学法学部長などをつとめた。
大場 茂馬(おおば しげま、1869年12月19日(明治2年… 大場 茂馬(おおば しげま、1869年12月19日(明治2年11月17日) - 1920年(大正9年)12月30日)は、日本の刑法学者、弁護士、政治家。元公安審査委員会委員長の大場茂行は息子。 明治から大正の日本の刑法学は、富井政章、穂積陳重らがよってたつ主観主義を前提とする新派・近代学派と、客観主義を前提とする旧派・古典学派が対立しており、当時、旧派を代表する学者であり、ギュスターヴ・エミール・ボアソナードの弟子でもある宮城浩蔵は、犯罪を社会的害悪であると同時に道徳的悪であるとしてフランス新古典派がよってたつ折衷主義の立場をとっていた。 1871年のドイツ刑法典を参考にし、ドイツの近代学派が主張した新しい刑事政策的思想を取り入れた現行刑法が1907年に成立すると、新派の牧野英一は、独自の法律進化論の立場から、刑法は旧派刑法理論から新派刑法理論に進化していくものであると主張し、現行刑法の成立こそ新派の勝利の証であるとして凱歌をあげた。
三上 剛太郎(みかみ ごうたろう、明治2年11月15日(18… 三上 剛太郎(みかみ ごうたろう、明治2年11月15日(1869年12月17日) - 昭和39年(1964年10月27日))は、日本の医師・軍医・新聞記者。日露戦争に従軍した時のエピソード(後述)で後世に名を残した。最終階級は陸軍一等軍医。 1869年(明治2年)11月15日、陸奥国三戸県佐井村(現在の青森県下北郡佐井村)の代々医家である三上家の長男(8代目)として生まれた。1875年(明治8年)に佐井小学校(現在の佐井村立佐井小学校)に入学。1884年(明治17年)に上京して、三田英学校(現在の錦城学園高等学校)で学ぶ。そこで漢文学者の森田思軒の影響を受け、文学へ傾倒した。1888年(明治21年)に英学校を卒業後、読売新聞社社会部記者となり、新聞記者の世界へ足を踏み入れた。
成田 栄信(榮信、なりた しげのぶ、1869年12月16日(… 成田 栄信(榮信、なりた しげのぶ、1869年12月16日(明治2年11月14日)‐ 1946年(昭和21年)1月1日) は、日本の言論人、実業家、政治家。衆議院議員。 伊予国宇和郡下灘村(現愛媛県宇和島市) で、成田亀太郎の二男として生まれた。1897年(明治30年)に分家した。苦学して関西法律学校(現関西大学)、英吉利法律学校(現中央大学)で学び水産講習所(現東京海洋大学)を卒業した。 生命保険事業に従事し安田共済支店長を経て、東京社を創立して雑誌『東京』を発行し、1907年(明治40年)に東洋通信社を創立して社長に就任。その他、日本織物取締役を務めた。 1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙愛媛県郡部選挙区に立憲政友会(政友会)から出馬して当選したが、同年12月10日に衆議院議員選挙法違反事件の控訴を取下げて禁錮刑が確定したため議員を退職した。
山本 邦之助(やまもと くにのすけ、1869年12月15日(… 山本 邦之助(やまもと くにのすけ、1869年12月15日(明治2年11月13日) - 1955年(昭和30年)12月23日)は、東京キリスト教青年会(YMCA)の第2代目総主事である。 1869年(明治2年)島根県に生まれる。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後に、地元の村役場、三井銀行(現三井住友銀行)などで勤めた後、日本郵船に入社する。1902年(明治35年)に統計課長に就任した頃、V・W・ヘルムの指導する日本郵船内の聖書研究会の影響で、銀座教会で洗礼を受ける。 1905年(明治38年)に東京YMCAの第2代目の主事になる。1923年(大正12年)の関東大震災の復興を終えるまで務めた。1924年(大正13年)に青山学院高等学部商科長に就任する。
馬場 孤蝶(ばば こちょう、1869年12月10日(明治2年… 馬場 孤蝶(ばば こちょう、1869年12月10日(明治2年11月8日) - 1940年(昭和15年)6月22日)は、日本の英文学者、評論家、翻訳家、詩人、慶應義塾大学教授。 孤蝶は土佐藩士馬場来八の四男として、土佐国土佐郡(現・高知市)に生まれた。本名は勝弥といい、19歳上の次兄に自由民権運動家の馬場辰猪がいる。病弱で就学せずに、1878年両親と上京し、下谷茅町(現・台東区池之端二丁目)の忍ヶ丘小学校から三菱商業学校に進んで中退し、1884年から、共立学校で英語を学んだ。少年期から寄席に入り浸った。浄瑠璃を語った。弓術・盆栽・将棋・パイプ・俳画・古書漁り・旅行と、趣味が広かった。 1889年(明治22年)(20歳)、明治学院2年に入学し、島崎藤村、戸川秋骨と同級になった。
紀藤 閑之介(きとう かんのすけ、1869年12月9日〈明治… 紀藤 閑之介(きとう かんのすけ、1869年12月9日〈明治2年11月7日〉 - 1961年〈昭和36年〉9月28日)は、日本の政治家、実業家、名望家、資産家、地主・家主、山口県多額納税者。第3・6代山口県宇部市長。族籍は山口県士族。 宇部村長、宇部銀行の頭取、宇部共同義会会長等を務めた紀藤織文は、閑之介の叔父にあたり、織文の孫にあたるのが弁護士の紀藤正樹。 閑之介は1869年(明治2年)11月7日、長州藩主毛利氏の永代家老福原氏の家臣である紀藤宗介(後の宇部共同義会初代会長)の長男として長門国厚狭郡川上村(現山口県宇部市)に生まれた。 第三高等中学校(現:京都大学)を卒業した後、宇部村に戻った閑之介は「村内の情報を村民に伝えることが村人の民度を向上させ、ひいては国の繁栄に通じる」と考え、1912年(明治45年)、宇部時報(現:宇部日報)を発刊した。
多 梅稚(おおの うめわか、明治2年11月7日(1869年1… 多 梅稚(おおの うめわか、明治2年11月7日(1869年12月9日) - 大正9年(1920年)6月20日)は、日本の音楽教育者、作曲家、チェリスト。 明治2年、宮廷雅楽の家系である多家の次男として京都に生まれる。東京音楽学校へ進み、1892年年に専修部を卒業すると大阪府尋常師範学校(今の大阪教育大学)で教諭として勤務した。その最中の明治33年(1900年)に、作詞家大和田建樹に依頼され『鉄道唱歌』を作曲した。 このとき、大和田建樹は上眞行(「一月一日」などの作者で、この時東京音楽学校講師)にも作曲を依頼しており、上眞行は自分より格が劣るようだった多にも同時依頼したことを不快に思ったといわれるが、結局は勝つ自信があったため引き受けたといわれる。
福来 友吉(福來 友吉、ふくらい ともきち、明治2年11月3… 福来 友吉(福來 友吉、ふくらい ともきち、明治2年11月3日(1869年12月5日) - 1952年(昭和27年)3月13日)は、日本の心理学者、超心理学者。東京帝国大学助教授、高野山大学教授。文学博士(1906年)(学位論文「催眠術の心理学的研究」)。念写の発見者とされる。 岐阜県高山市の商家に生まれ、見習い奉公に出されたが商人になることを嫌い、学問に志を立てて猛烈に勉強し、岐阜県斐太尋常中学(現・岐阜県立斐太高等学校)から優秀な成績で旧制第二高等学校に進学した。実家が事業に失敗し学費に困ったが、仙台の資産家・町田真秀が援助し、1899年(明治32年)東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。さらに同大学院で変態心理学(催眠心理学)を研究し、1906年(明治39年)、「催眠術の心理学的研究」で文学博士の学位を授与された。
森下 亀太郎(もりした かめたろう、旧字体: 森下 龜太郞、… 森下 亀太郎(もりした かめたろう、旧字体: 森下 龜太郞、1869年12月5日(明治2年11月3日) - 1946年(昭和21年)4月26日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(当選1回)。族籍は岡山県士族。 備中国上房郡高梁町(現在の岡山県高梁市)生まれ。岡山県士族・森下良諒の三男。 有終館で荘田霜渓より漢学を学ぶ。1894年(明治27年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。 甲府・前橋・大阪・大津の各地方裁判所判事、大阪控訴院検事などを歴任。 1905年(明治38年)、退官して大阪市で弁護士を開業。 大阪市会議員を経て、1920年(大正9年)に衆議院議員に当選し、庚申倶楽部に所属した。
城 重雄(じょう しげお、1869年12月3日(明治2年11… 城 重雄(じょう しげお、1869年12月3日(明治2年11月1日) - 1908年(明治41年)6月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 日向国児湯郡、のちの宮崎県児湯郡高鍋町で生まれた。同志社で学び、1893年(明治26年)東京専門学校(現・早稲田大学)英語政治科卒。宮崎県高鍋学校(現・宮崎県立高鍋高等学校)校長、宮崎県会議員、同参事会員となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において宮崎県から立候補したが10票差で落選した。1903年の第8回衆議院議員総選挙では政友倶楽部公認で立候補してトップで初当選した。1904年の第9回衆議院議員総選挙で再選した。衆議院議員を2期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙には不出馬。
鈴木 孝雄(すずき たかお、明治2年10月29日〈1869年… 鈴木 孝雄(すずき たかお、明治2年10月29日〈1869年12月2日〉 - 1964年〈昭和39年〉1月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。栄典は勲一等功三級。 第42代内閣総理大臣鈴木貫太郎の弟。砲兵監、第14師団長、陸軍技術本部長、軍事参議官を歴任。現役を退いてから靖国神社第4代宮司、大日本青少年団長、戦後は偕行社会長。 将校養成機関である陸軍士官学校が設立されて以降に任命された陸軍大将(皇族を除く)のうち、 のいずれにも該当しない、唯一の人物である。 旧関宿藩士鈴木由哲の子として東京に生まれ、前橋中学校・成城学校を経て1889年(明治22年)11月、陸軍士官学校に入校し、1891年(明治24年)7月30日卒業する。