絹川武良司(きぬがわ むらじ、1894年 - 1968年、秋… 絹川武良司(きぬがわ むらじ、1894年 - 1968年、秋田県南外村(現・大仙市)生まれ)は、日本の物理化学者、鉄鋼技術者であり特にステンレス鋼研究の権威で知られる。理学博士。学士会会員。東海大学教授。 1894年秋田県南外村(現・大仙市)の貧しい農家に生まれる。教職の道を目指して秋田県立師範学校、東京高等師範学校の修学を経て京都帝国大学に進学する。1921年京都帝国大学理学部を卒業。金属業界への就職を恩師から勧められて、住友合資会社伸銅製作所尼崎工場に入社して研究係を務める。1937年学位論文(絹川 1937)にて東京帝国大学より理学博士の学位を授与する。1938年故金子英雄氏遺兒養育資金募集の発起人に参画する。
竺 縵卿(じく まんけい、1894年〈光緒20年〉 – 没年… 竺 縵卿(じく まんけい、1894年〈光緒20年〉 – 没年不明)は、中華民国の実業家・官僚・外交官。字は華雲。初期は主に実業家として活動したが、後に親日政権の中華民国維新政府や南京国民政府(汪兆銘政権)で要職に就いた。 日本に留学し、1920年(民国9年/大正9年)に東京高等師範学校理科第三部甲班を卒業した。1921年(民国10年/大正10年)からは京都帝国大学経済学部に入学し、1924年(民国13年/大正13年)に卒業している。当初は洮江第四中学主任教員兼舎監となったが、まもなく国民政府に入り、外交部江寧交渉員公署秘書兼金陵関監督公署秘書となる。その後は実業界に転じ、中日実業有限公司上海分行経理、中華電気製作廠董事、上海閘北水電公司顧問などをつとめた。
永島 四郎(ながしま しろう、1894年 - 1963年)は… 永島 四郎(ながしま しろう、1894年 - 1963年)は、日本のフラワーデザイナー、華道家。日本のフラワーデザイン(花卉装飾)における先駆者。 長野県埴科郡松代町(現長野市)出身。1921年、千葉県立園芸専門学校(現千葉大学園芸学部)卒業、東洋園芸株式会社に入社。1922年、欧米の花卉装飾の研究のため渡米、翌年帰国。帰国後の永島の作風は、西洋で得たものに日本人の持つ「わびさび」の心を併せ持った独特のものとなり、日本文化の西洋化の一端を担うこととなった。1935年、東京・銀座に「婦人公論花の店」を開店(戦争により1944年に閉店)。1951年、第一園芸株式会社取締役に就任。 「花卉装飾には冨の裏づけが必要である」という名言を残した。
小林 采男(こばやし うねお、1894年 - 1979年)は… 小林 采男(こばやし うねお、1894年 - 1979年)は、日本の実業家・慈善家。小林理学研究所創業者。 弘法大師に憧れ、当初は僧侶になることをめざしたが、東京帝国大学政治学科を1919年に卒業した後、農商務省・商工省に勤務する傍ら地質学を学び、優秀な鉱山技師として知られるようになる。 その後科学の力で人々を救うことを決意して、1934年に小林鉱業株式会社を興し、朝鮮半島各地でタングステン鉱山を操業した。 1940年に小林理学研究所を設立。公職追放を受けたものの、戦後も企業経営や教育機関の運営などで活躍した。1969年に大韓重石鉱業(朝鮮語版)(米軍・韓国政府の接収を経て小林鉱業の資産をもとに設立された韓国企業。
橋本 重郎(はしもと じゅうろう、1894年 - 1988年… 橋本 重郎(はしもと じゅうろう、1894年 - 1988年)は日本の農学者。世界で初めてひよこの雄雌の鑑別法を発見した。農学博士。 1894年、宮城県で橋本亮と嘉治(よしぢ)との間で誕生。1921年(大正10年)東京帝国大学農学部農学科を卒業。農商務省畜産試験場勤務、イギリス留学、宮崎高等農林学校教授を経て、1942年(昭和17年)5月、九州帝国大学農学部教授に就任。 1924年に仲間と共にニワトリのヒナの雌雄鑑別法を発表した。初生雛雌雄鑑別法とは、生まれたばかりのひよこの肛門の内側にある突起があるものが雄、無いものが雌と見分ける方法。当時は雄雌を見分けるのが非常に困難で、世界中が模索していた。
国元 東九郎(くにもと とうくろう、1894年 - 1985… 国元 東九郎(くにもと とうくろう、1894年 - 1985年)は、日本の数学教育研究者、数学教師。 1894年、新潟に生まれる。新潟県高田師範学校を経て、1920年3月に東京高等師範学校理科第一部(数学)を卒業。その後、新潟師範学校の教諭、女子学習院教授、日本大学付属櫻丘高等学校の教頭を務めた。
金沢 秀之助(かなざわ ひでのすけ、1894年 - 1967… 金沢 秀之助(かなざわ ひでのすけ、1894年 - 1967年)は、日本の洋画家。 秋田県横手市出身。1920年に東京美術学校を卒業した。1922年にフランスのパリのアカデミー・ランソンに留学し、1924年に帰国した。1926年に二科展に初入選した。 1952年に日展に出品した「肉屋の店」が特選を受ける。1957年に日展審査員となり、1958年に十柯会を結成した。 二科展、日展の他、春台会(岡田三郎助が主宰していた)や帝展、二部会にも作品を出品していた。十柯会の他、光風会、白岬会の会員でもあった。
奥田 真夫(おくだ さねお、明治27年(1894年) - 昭… 奥田 真夫(おくだ さねお、明治27年(1894年) - 昭和61年(1986年)5月13日)は、明治・大正・昭和時代の剣術家。初め剣道と直心影流(薩摩影之流)を修めたが、後に第十一代宗家薬丸兼文より薬丸自顕流剣術を継承する。 長崎高等商業学校(現在の長崎大学経済学部)卒業後、百四十七銀行(現在の鹿児島銀行)に勤務。1943年(昭和18年)に満州に渡る。帰国後、東條病院事務官として勤務する。そのかたわら、薬丸自顕流の指導に尽力すること五十余年、この間、各地での古武道大会に出場した。戦前に奥田より薬丸自顕流の指導を受けた者の証言では、時代が戦争中であったこともあり、薬丸自顕流の特徴的な稽古法である立木打ちの際、立木を飛び越えたり、その下をくぐらせたり、ジグザグに走って掛りの稽古をするなどしていたようである。
吉田 正一(よしだ しょういち、1894年 - 1971年)… 吉田 正一(よしだ しょういち、1894年 - 1971年)は、日本の弁護士、日本心霊科学協会初代理事長。浅野和三郎の理念を受け継ぎ、第二次世界大戦終戦後、日本心霊科学協会を創立した。弁護士として財団法人認可の手続きを行った。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
徳増 栄太郎(とくます えいたろう、1894年 - 1963… 徳増 栄太郎(とくます えいたろう、1894年 - 1963年)は、日本の西洋経済史学者。初代横浜国立大学経済学部学部長。 神奈川県横浜市生まれ。1919年に東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部を卒業。上田貞次郎門下。 上智大学などで教鞭を執り、1921年から文部省在外研究員としてイギリス、ドイツ、フランスに留学した。1924年に帰国すると横浜高等商業学校の教授となり、経済原論及び商業史を担当した。 1947年一級官。1949年横浜国立大学経済学部学部長兼横浜経済専門学校校長事務取扱。1950年横浜国立大学附属図書館経済学部分館長兼務。退官後、横浜国立大学名誉教授。 1963年正四位勲二等瑞宝章、従三位。
高田 幸二(たかだ こうじ、1894年 - 1982年)は、… 高田 幸二(たかだ こうじ、1894年 - 1982年)は、日本の畜産学者・水産学者。農学博士(北海道帝國大學・論文博士・1933年)。専門は、海洋生物の癌発生のメカニズム。海洋の未利用資源の活用方法を研究。鹿児島大学名誉教授。市立名寄短期大学元学長、札幌静修短期大学初代学長。1967年勲三等瑞宝章受章。三重県出身。 1918年北海道帝国大学水産専門部卒。1924年同農学部卒。同農学部助手、同農学部講師。1937年同助教授を経て、1953年鹿児島大学水産学部教授。1957年同水産学部学部長。1960年鹿児島大学停年退官。同名誉教授。市立名寄短期大学副学長。1961年市立名寄短期大学2代学長に就任。
水野 東太郎(みずの とうたろう、1894年 - 1980年… 水野 東太郎(みずの とうたろう、1894年 - 1980年)は、日本の弁護士。第8代日本弁護士連合会会長。 1894年、愛知県出身。 明治大学卒業後、弁護士となり、東京弁護士連合会会長、日本弁護士連合会会長などを歴任した。 また、明大法学部では、身分法を講じ、理事長にも就任した他、国際親善病院理事長なども務めた。 1980年、死去。勲二等。
木佐木 勝(きさき まさる、1894年 - 1979年)は日… 木佐木 勝(きさき まさる、1894年 - 1979年)は日本の編集者。東京府出身。早稲田大学英文学科卒。 中央公論社、改造社に務め、1965年に図書新聞社で『木佐木日記』を刊行。2016年に中央公論新社で改訂復刊され、ジャーナリズム史・文化史の貴重な資料として評価されている。 1894年、東京府下品川町に生まれる。伯父の感化で文学少年になる。早稲田大学では片上伸に師事。早稲田騒動で波多野精一の留任運動にも加わった。1918年教師などを経たのち、翌1919年、中央公論社に入社。滝田樗陰の下、高野敬録、伊藤茂雄らとともに『中央公論』の編集に従事。図書新聞社から刊行された『木佐木日記』は入社時1919年から、樗陰が死去した1925年までのものである。
佐藤 邦之助(さとう くにのすけ、1894年 - 1981年… 佐藤 邦之助(さとう くにのすけ、1894年 - 1981年)は、日本の牧師。バークレー・バックストン、堀内文一らの薫陶を受け、長年日本イエス・キリスト教団を指導した。 ピューリタン - シュペーナー - 敬虔主義 - フレンド派 - ジョン・ウェスレー - D・L・ムーディー - ジョージ・ホウィットフィールド - ジョナサン・エドワーズ - チャールズ・フィニー - A・B・シンプソン バックストン - ウィルクス - 竹田俊造 - 堀内文一 - 笹尾鉄三郎 - 松野菊太郎 - 秋山由五郎 - 御牧碩太郎 - 柘植不知人 - 土肥修平 中田重治 - 中田かつ子 - 中田あやめ - チャールズ・カウマン - レテー・カウマン - アーネスト・キルボルン - 三谷種吉 - 山崎亭治 - 米田豊 - 車田秋次 - 小原十三司 - 小原鈴子 - 一宮政吉 - 菅野鋭 - 野辺地天馬 - 金森通倫 - 小出朋治 - 小出忍 - 森五郎 - 江賀寅三 - 小林和夫 - 尾花晃 - 村上宣道 - 松木祐三 - 千代崎秀雄 - 峯野龍弘 - 安倍豊造 - 辻啓蔵 - 辻宣道 - 蔦田二雄 - 蔦田公義 - 藤本栄造 - 藤本満 メリマン・ハリス - 本多庸一 - 赤澤元造 - 釘宮辰生 - 阿部義宗 - 結城無二三 - 都田恒太郎 - 渡辺善太 河辺貞吉 - 河辺満甕 - 野田秀 ウィリアム・ブース - 山室軍平 - 山室武甫 マーガリット・バーネット - 舟喜麟一 - 舟喜拓生 - 舟喜信 - 安藤喜市 - 羽鳥明 - 羽鳥純二 小島伊助 - 佐藤邦之助 - 沢村五郎 - 森山諭 - 中田羽後 - 本田弘慈 - 中島秀一 平出慶一 - 大江邦治 - 大江捨一 - 大江寛人 喜田川広 - 本間俊平 - 土山鉄次 - 木村清松 - 岩井清 - 松原和人 - 大槻武二 中央福音伝道館(1901-1908) - 東洋宣教会(1908- ) - 日本聖教団(1911) - 日本ホーリネス教会(1917-1936) - 日本宣教会(1923) - 日本聖教会(1936-1941) - きよめ教会(1936-1941) - イムマヌエル綜合伝道団(1945- ) - ウェスレアン・ホーリネス教団(1992- ) - 基督兄弟団(1946- ) - 基督聖協団(1958 - ) - 東洋宣教団きよめキリスト教会(1940- ) - ホーリネスの群(1946- ) - 日本福音教会連合(1971- ) - 日本福音教団(1952- ) - 日本ホーリネス教団(1949- ) - 日本聖泉基督教会連合(1969- )
森 歓之助(もり かんのすけ、1894年 - 1960年)は… 森 歓之助(もり かんのすけ、1894年 - 1960年)は、日本の造園家、作庭家、造園教育者。 造園指導者として人材育成にあたる傍ら、多くの造園作品を残す。大別して住宅庭園や公園緑地(遊園地等)庭園、学校庭園等が多いが、設計のほか施工監督指導等になるものも含めると作品数は多数に及ぶ。 佐賀県唐津市生まれ。 1914年(大正3年)、千葉県立園芸専門学校(現・千葉大学園芸学部)卒業ののち、一時、当時宮内省出入の植木師として名のあった東京府下戸塚の小川重次郎方に徒弟として造園実務にたずさわった。1915年、恩師本郷高徳の推挙で大阪府吏員となり、大屋霊城と共に府営住吉公園改良工事に従事することとなる。
塚原 嘉一(つかはら かいち、1894年 - 1959年)は… 塚原 嘉一(つかはら かいち、1894年 - 1959年)は、愛知県東春日井郡小牧町春日寺(現在の小牧市)出身の実業家・政治家。小牧町長(1944年 - 1945年)。 朝鮮・満州・中国などに毛織物を輸出した塚原毛織の創業者である。1935年(昭和10年)頃の塚原毛織は約500人もの従業員を抱える大工場だった。塚原毛織には若い女工が多かったことから、小牧高等女学校(現在の愛知県立小牧高等学校)の開校に力を注いだ。名鉄小牧線の開業、町村立組合春日井病院(現在の小牧市民病院)の開院などにも尽力している。
中村 幸吉(なかむら こうきち、1894年 <明治27年> … 中村 幸吉(なかむら こうきち、1894年 <明治27年> - 1968年 <昭和43年> 2月19日)は、日本の政治家。三重県会議員を2期務めた後、初代鳥羽市長に就任し、鳥羽市の発展の基礎を築いた。位階は従五位。 慶應義塾大学教授で政治学者の中村菊男の父である。 1894年(明治27年)、三重県志摩郡答志村大字答志(答志島、現・鳥羽市答志町)に生まれる。父・与助は初代の答志村長や三重県会議員(2期)を務めた政治家であった。 鳥羽町会議員に当選したのを皮切りに政界入りし、1939年(昭和14年)11月に三重県会議員選挙の志摩郡選挙区で石原円吉とともに当選した。1943年(昭和18年)11月の改選は任期延長のため実施されず、1947年(昭和22年)4月の選挙まで県会議員を務めた。
山名 正太郎(やまな しょうたろう、1894年(明治27年)… 山名 正太郎(やまな しょうたろう、1894年(明治27年) - 1992年)は、日本の新聞記者。文筆家。 山口県山口市生まれ。学歴不詳。1919年大阪朝日新聞社入社、名古屋支局長、大阪社会部長、日本海新聞社役員兼編集局長、都新聞事業部長、大阪府嘱託(青少年問題協議会)、朝日新聞客員。
田中金司(たなか きんじ、1894年-1985年)は、日本の… 田中金司(たなか きんじ、1894年-1985年)は、日本の経済学者。神戸大学名誉教授。専門は、貨幣論・金融論・国際金融論。 1913年(大正2年)に群馬県高崎中学校(現群馬県立高崎高校)を卒業し、東京高等商業学校(現一橋大学)予科に入学。東京高商では佐野善作の指導を受けた。卒業後、神戸高等商業学校、神戸商業大学、神戸経済大学を経て神戸大学教授を務めた。さらに、神戸大学退官後は関西学院大学教授を務めた。 門下生には矢尾次郎神戸大学名誉教授、宮下忠雄神戸大学名誉教授、安居洋神戸市外国語大学名誉教授、小寺武四郎元関西学院大学教授・関西学院大学学長・学校法人関西学院・第10代院長などがいる。貨幣論では名目主義、一般的購買手段を主張したほか、全体的な経済理論としては貨幣的経済理論を主張した。
宇野 喜代之介(うの きよのすけ、1894年 - )は日本の… 宇野 喜代之介(うの きよのすけ、1894年 - )は日本の教育者、小説家。
渡貫 良治(わたぬき りょうじ、1894年(明治27年) -… 渡貫 良治(わたぬき りょうじ、1894年(明治27年) - 1958年(昭和33年)10月21日)は、日本のジャーナリスト。元読売新聞論説委員。元長崎日日新聞社社長。第14・15・17代長崎新聞社社長。
西田 半峰(にしだ はんぽう、1894年 - 1961年7月… 西田 半峰(にしだ はんぽう、1894年 - 1961年7月26日)は、日本の版画家、画商。三重県一志郡七栗村(現・津市)出身。本名は西田武雄(にしだ たけお)。 6歳の頃、母方の親類の養子となり横浜へと移り、1945年に三重へ疎開するまで関東で過ごす。横浜商業学校に在学中、第8回文部省美術展覧会(文展)に水彩画「倉入れ」が入選。その後、本郷洋画研究所に入りエッチング(銅版画)の画法の研究・普及に熱心に努め、1923年には東京で画廊「室内社画堂」を開き、日本で最初の洋画商となり、1932年11月には日本エッチング研究所の名のもと、雑誌「エッチング」を創刊・編集したことから「エッチングの父」とも呼ばれる。
吉川 観方(よしかわ かんぽう、1894年〈明治27年〉 -… 吉川 観方(よしかわ かんぽう、1894年〈明治27年〉 - 1979年〈昭和54年〉4月16日)は、大正時代から昭和時代にかけての京都の日本画家・版画家。 京都市に生れる。本名は賢次郎。1900年(明治33年)、まず書を岡阪鉄山に学んだ後、1901年(明治34年)、西堀刀水、竹内栖鳳に師事して日本画を学んでいる。1905年(明治38年)、京都市立一ツ橋小学校を卒業する。1907年(明治40年)、藤原重浪に和歌の添削を受け、1909年(明治42年)から浮世絵の研究を始めた。1913年(大正2年)に京都府立第一中学校を卒業、翌1914年(大正3年)に京都市立絵画専門学校予科に入学した。この頃、江馬務が主宰していた風俗研究会に参加、1916年(大正5年)に江馬が『風俗研究』を創刊してからは、同誌のために古画の模写や挿絵を担当していた。
五百籏頭 眞治郎(いおきべ しんじろう、1894年(明治27… 五百籏頭 眞治郎(いおきべ しんじろう、1894年(明治27年) - 1958年(昭和33年)10月1日)は日本の経済学者。専門は経済政策、経済思想史、イタリア経済学。神戸大学名誉教授、経済学博士。敬虔なクリスチャンであり、キリスト教所有権思想の研究などを行った。イタリア政府より聖マウリッツィオ・ラザロ勲章コンメンダトーレ章を、ローマ教皇庁より大聖グレゴリウス勲章コンメンダトーレ章をそれぞれ受章。
木下 祝夫(きのした いわお、1894年 - 1980年10… 木下 祝夫(きのした いわお、1894年 - 1980年10月23日)は、香椎宮宮司。ドイツ語翻訳家。
黒沢 英一(くろさわ えいいち、1894年 - 1953年)… 黒沢 英一(くろさわ えいいち、1894年 - 1953年)は、日本の植物研究者。台湾総督府中央研究所農業部で技師を務め、植物ホルモンのジベレリンを初めて発見した。 1894年(明治27年)7月5日、茨城県筑波郡板橋村(現・つくばみらい市)の村長、黒澤蔵之助の長男として生まれる。高等小学校を卒業後、茨城県立水戸中学校(現・水戸第一高等学校)に入学したが豪農の跡取りであったため、父の強い意志により茨城県立農学校(現・水戸農業高等学校)へ入学し1912年(明治45年)3月卒業した(第12回卒業生)。当時茨城県立農学校には博物(現在の生物・地学)の授業を担当した安藤伊作(新種・フクロダガヤの発見者)が在職していた。
花和 銀吾(はなわ ぎんご、1894年 - 1957年3月1… 花和 銀吾(はなわ ぎんご、1894年 - 1957年3月16日)は、日本の写真家である。東京生まれ。 1917年、東京帝国大学法学部卒業。大阪住友倉庫に入社。1928年、小石清らが所属した浪華写真倶楽部に入会し、会社員と写真家を兼業したほか、語学に長けていたことから海外の写真関連文献の翻訳紹介も行った。芦屋カメラクラブにも所属。 1938年(1937年とする資料もある)には、樽井芳雄(たるい・よしお、Yoshio TARUI、1902年-1977年)、本庄光郎(ほんじょう・こうろう、Kōrō HONJŌ、1907年-1995年)、平井輝七、服部義文(はっとり・よしふみ、Yoshifumi HATTORI、生没年不詳)、村田米太郎(むらた・よねたろう、 Yonetaro MURATA、1907年-1943年?)、小林基和らとともに「アヴァンギャルド造影集団」を創設。
呉 相淳(ご そうじゅん、1894年旧暦8月 - 1963年… 呉 相淳(ご そうじゅん、1894年旧暦8月 - 1963年6月3日)は、朝鮮の詩人。号は禅雲、空超。植民地下の朝鮮を「虚無」を抱えながら放浪し、詩作を続けた。 1894年陰暦8月、現在のソウル市中区奨忠洞1街10番地に生まれる。本貫は海州呉氏。父は呉泰兗。呉の生家は5百石の地主で、裕福であった。父も呉に新教育を受けさせることに反対せず、呉は早くから於義洞学校、儆新学校で勉強する。母は呉が13歳のときに亡くなり、父は後妻を迎えた。こうした経緯があってか、呉は18歳のとき、誰にも告げず家を出た。 1912年、渡日した呉は、京都の同志社大学宗教哲学科に入学する。1918年、同志社大学を卒業すると帰国し、実家にしばらく戻ったものの、ソウル市鐘路区鐘路5街にあった亡くなった母の実家に身を寄せることになる。
金 孝錫(キム・ヒョソク、朝鮮語: 김효석/金孝錫、1894… 金 孝錫(キム・ヒョソク、朝鮮語: 김효석/金孝錫、1894年または1895年12月19日 - 1966年4月15日)は、大韓民国の政治家。初代韓国国会議員。第3代内務部(現・行政安全部)長官。 慶尚南道陜川郡出身。明治大学法学部卒。光復前は青年運動に関与し、光復後は韓国民主党の成立に参加し、中央常務執行委員を務めた。その後は大韓独立促成国民会に参加し、農林部長を務めた。1948年の制憲選挙で大韓独立促成国民会の公認で陜川郡から立候補して当選し、制憲国会議員を務めた。 朝鮮戦争時に北朝鮮に拉致され、1956年7月に北朝鮮の在北平和統一促進協議会常務委員を務めた。その後北朝鮮で72歳で死去した。
織田 大蔵(おだ たいぞう、1894年(明治27年) - 1… 織田 大蔵(おだ たいぞう、1894年(明治27年) - 1972年(昭和47年)7月7日)は、日本の実業家。福島交通社長。郡山商工会議所会頭。 福島県伊達郡保原町(現・伊達市)大田出身。貧しい家庭に生まれ、保原町の小学校を卒業後に精米所、米屋、繭の仲買人などの商売を行ない、政友会の院外団に入り人脈を得る。 戦後は、闇物資を動かした資金や地主から買い集めた農地証券を元手に保原町にて、福島電気鉄道の下請運送会社、電鉄通運を開業。取引を通じて福島電気鉄道(現在の福島交通)の株を買い、大株主として入社、福島電鉄の会長に登り詰める。 ワンマン経営で労働法を無視して社員を犠牲にして成りあがった守銭奴という評価がある一方、貧しい身の上から成りあがり、東北地方の長者番付で第1位にまでなった成功者として評価する意見も存在する。
13代 稲葉 市郎右衛門(いなば いちろうえもん、1882年… 13代 稲葉 市郎右衛門(いなば いちろうえもん、1882年〈明治15年〉12月31日 - 1954年〈昭和29年〉8月2日)は、京都府熊野郡久美浜村(現・京都府京丹後市)出身の実業家・銀行家・政治家。京都府会議長、久美浜町長。稲葉市郎右衛門景介(いなば いちろうえもん けいすけ)とも呼ばれる。国鉄峰豊線(現・京都丹後鉄道宮津線)の開業に際して多額の私財を投じたことで知られる。 1882年(明治15年)12月31日、京都府熊野郡久美浜村(現・京丹後市)に生まれた。幼名は景介。 父は12代稲葉市郎右衛門(稲葉市郎右衛門英裕)、母はきせ。12代稲葉市郎右衛門は前妻のきせとの間に一男三女、後妻のとしとの間に四女を儲けており、景介は長男だった。
田寺 俊信(たでら としのぶ、1882年(明治15年)12月… 田寺 俊信(たでら としのぶ、1882年(明治15年)12月30日 - 没年不詳)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、姫路市長。族籍は兵庫県平民。 兵庫県飾西郡今宿村(飾磨郡高岡村を経て現姫路市)出身。兵庫県議会議長・田寺敬信の長男。第三高等学校を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、内務省に入省し鳥取県属となる。 以後、鳥取県試補、同県八頭郡長、同理事官・庶務課長、高知県理事官・教育課長、同地方課長・視学官、奈良県理事官・教育課長・視学官、奈良県警察部長、長野県警察部長、香川県内務部長、埼玉県内務部長、愛知県警察部長などを歴任。
佐々木 謙一郎(ささき けんいちろう、1882年(明治15年… 佐々木 謙一郎(ささき けんいちろう、1882年(明治15年)12月29日 – 1953年(昭和28年)6月29日)は、日本の大蔵官僚。南満州鉄道副総裁。 第一銀行頭取佐々木勇之助の長男として生まれる。1907年(明治40年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。大蔵省に入り、税務監督局属、税務監督官、税関監視官、同事務官、神戸税関監視部長、横浜税関監視部長、大蔵参事官、大蔵書記官、大臣官房会計課長等を歴任した。1923年(大正12年)より専売局経理部長、事業部長、販売部長を経て、1932年(昭和7年)に専売局長官に就任した。専売局長在任中に収集品取扱係を設置し、浮世絵・喫煙具などたばこ関係の歴史資料の収集を始め、それらの収集品はたばこと塩の博物館の母体となった。
倉橋 惣三(くらはし そうぞう 1882年12月28日 - … 倉橋 惣三(くらはし そうぞう 1882年12月28日 - 1955年4月21日)は、日本の児童心理学者。
岡 正雄(おか まさお、1882年〈明治15年〉12月27日… 岡 正雄(おか まさお、1882年〈明治15年〉12月27日 - 1948年〈昭和23年〉10月3日)は、日本の内務・警察官僚。憲政会系官選県知事、内務省警保局長。 島根県松江市出身。岡政徳の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し大学院に進む。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1910年、内務省に入省し、北海道庁属となる。 以後、北海道庁事務官補、同理事官、佐賀県理事官、新潟県理事官、青森県警察部長、鳥取県内務部長、愛知県警察部長などを歴任。 1924年7月、富山県知事に就任。県営林造成、第二次伏木港築港工事、県営電力開発などに尽力。憲政会系と見られていたが、公正な県政運営により県民の信頼を得た。
豊田 勝蔵(とよだ / とよた かつぞう、1882年(明治1… 豊田 勝蔵(とよだ / とよた かつぞう、1882年(明治15年)12月27日 - 1939年(昭和14年)11月23日)は、日本の内務・警察官僚、政治家。官選福井県知事、樺太庁長官、台湾総督府内務局長、萩市長を歴任。 山口県阿武郡萩町細工町(現萩市細工町)出身。豊田三蔵の長男。旧制山口高等学校を経て、1908年東京帝国大学法科大学法律学科卒業。内務省に入省し、埼玉県属となる。1909年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、鹿児島県事務官、同理事官、秋田県警察部長、静岡県警察部長、台湾総督府警務官、台北高等商業学校長兼総督府参事官などを歴任。 1924年7月、福井県知事就任。郡役所廃止後に備えた吏員講習所の設置、県営印刷所の設置、自作農創設の新政策の実施などを推進した。
今成 留之助(いまなり とめのすけ、1882年(明治15年)… 今成 留之助(いまなり とめのすけ、1882年(明治15年)12月26日 - 1965年(昭和40年)6月17日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。弁護士。 新潟県高田市(現在の上越市)出身。税務属となった後、日露戦争に従軍。後、1907年(明治40年)に日本大学を卒業し、判事検事登用試験に合格した。司法官試補を経て、甲府地方裁判所・甲府区裁判所判事、新潟地方裁判所判事を務めた。その後新潟市で弁護士を開業し、新潟市会議員、同参事会員、新潟県会議員、同参事会員に選出された。 1937年(昭和12年)、第20回衆議院議員総選挙に出馬し当選。第21回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。戦後、日本進歩党の結成に参加するが、大政翼賛会の推薦議員だったため、公職追放となった。
増永 正一(ますなが しょういち、1882年(明治15年)1… 増永 正一(ますなが しょういち、1882年(明治15年)12月25日 - 1944年(昭和19年)8月1日[要出典])は、日本の裁判官、検事。勲二等、従三位。 千葉県出身。1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、司法官試補となった。前橋地方裁判所判事、横浜地方裁判所判事、横須賀区裁判所判事、横浜区裁判所判事を歴任。1920年(大正9年)に朝鮮総督府裁判所に転じ、1925年(大正14年)に欧米に出張した。帰国後、高等法院判事、高等法院部長を経て、1934年(昭和9年)に朝鮮総督府法務局長となり、1937年(昭和12年)に高等法院検事長に就任した。 1943年(昭和18年)、退官。
橋本 進吉(はしもと しんきち、1882年12月24日 - … 橋本 進吉(はしもと しんきち、1882年12月24日 - 1945年1月30日)は、日本の言語学者・国語学者。 1882年、福井県敦賀市に医師の長男として生まれる。京都府第一中学校(現洛北高校)、第三高等学校(現・京都大学)を経て、1906年に東京帝国大学文科大学言語学科を卒業(銀時計受領)。卒業論文は「係り結びの起源」。 文部省国語調査委員会補助委員、東京帝国大学文科大学国語学教室助手を経て、1927年、同大学国語国文学第一講座助教授に就任。1934年、東京帝国大学より文学博士の学位を取得。1929年には教授に昇任した。1942年、日本文学報国会国文学部会長。1944年、国語学会会長。 1945年、病没。
河本 文一(かわもと ぶんいち、1882年(明治15年)12… 河本 文一(かわもと ぶんいち、1882年(明治15年)12月24日 - 1960年(昭和35年)2月22日)は、日本の大蔵官僚。会計検査院長、枢密顧問官。 山口県美祢郡岩永下郷村(現:美祢市秋芳町岩永下郷)で、河本勝の四男として生まれ、河本兵四郎の養嗣子となる。山口高等学校を経て、1907年7月、京都帝国大学法科大学経済科を卒業。 1907年8月、大蔵省に入省し税務監督局税務属兼大蔵属となり、東京税務監督局に配属された。1908年11月、文官高等試験に合格。以後、宇都宮税務監督局経理部長、税務監督官、秋田税務監督局所得審査委員、税務監督局事務官・仙台税務監督局直税部長、熊本税務監督局直税部長、税務副監督官・札幌税務監督局関税部長、広島税務監督局経理部長事務取扱、大蔵省主計局書記官・臨時官有財産課長、臨時国有財産整理部書記官・総務課長兼管理課長、国有財産整理局書記官、臨時震災救護事務局事務官、兼臨時営繕局書記官、大蔵省参事官兼臨時営繕局書記官・臨時営繕局総務部長心得、兼臨時議院建築局理事などを歴任。
松村 光三(まつむら こうぞう、1882年(明治15年)12… 松村 光三(まつむら こうぞう、1882年(明治15年)12月24日 – 1962年(昭和37年)6月3日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→自由党)、商工参与官、大蔵政務次官、軍需政務次官。 栃木県下都賀郡栃木町(現在の栃木市)出身。1909年(明治42年)、東京高等商業学校専攻部(現在の一橋大学)を卒業。その後、ベルリン大学、ベルリン高等商業学校に留学した。古河合名会社参与、大日本人造肥料株式会社監査役、旭電化工業株式会社監査役、八戸水力電気株式会社監査役、日光登山鉄道株式会社取締役、協調会社会政策学院講師を務めた。 1928年(昭和3年)、日本初の普通選挙となった第16回衆議院議員総選挙に出馬して当選。
谷 寿夫(たに ひさお、1882年(明治15年)12月23日… 谷 寿夫(たに ひさお、1882年(明治15年)12月23日 - 1947年(昭和22年)4月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 陸士15期、陸大24期(優等)。師団参謀長、旅団長、師団長を歴任し、第6師団師団長として第二次上海事変、南京攻略戦に参加した。第二次世界大戦後、南京軍事法廷で、南京事件の首脳クラスの責任者の一人とされ死刑判決、銃殺刑に処せられた。 岡山県の農民出身。岡山中学校、東京府立四中(現東京都立戸山高等学校)卒業。 1937年(昭和12年)10月29日施行を昭和天皇に裁可された、帷幄上奏勅令軍事機密『軍令陸甲第34号』を根拠とした、軍政上の奉勅命令である中支那方面軍司令部の動員命令が、陸軍大臣杉山元大将によって動員担任官へ伝宣され、同司令部の動員がなされた。
江崎 利一(えざき りいち、1882年〈明治15年〉12月2… 江崎 利一(えざき りいち、1882年〈明治15年〉12月23日 - 1980年〈昭和55年〉2月2日)は日本の実業家。江崎グリコの創業者。現・会長の江崎勝久と、その弟の江崎正道の祖父。 佐賀県神埼郡蓮池村(現・佐賀市蓮池町)に生まれた。父は清七、母はタツといって江崎が生まれる二年前から薬種業を始めていた。ときには近在近郷を一軒ずつめぐり歩き、医療の相談相手もつとめていた。暮らしは貧しかった。6人兄弟姉妹の長男(姉2人と弟と妹2人)だった江崎は家事の手伝いや弟妹の子守りに明けくれた。 1897年(明治30年)春、小学校高等科を卒業した。薬の商売のほかに朝食前の塩売りを始めた。1901年(明治34年)6月、父が死去。
岡田 茂吉(おかだ もきち、1882年〈明治15年〉12月2… 岡田 茂吉(おかだ もきち、1882年〈明治15年〉12月23日 - 1955年〈昭和30年〉2月10日)は、日本の芸術家、実業家、思想家、自然農法の創始者、浄霊法の創始者、世界救世教の教祖であり、さまざまな分野で活動した。箱根美術館、熱海美術館(現:MOA美術館)などを創設した。 1882年(明治15年)、東京府浅草区橋場町(現在の東京都台東区橋場)に古道具屋の次男として生まれる。日新尋常小学校を経て、浅草尋常高等小学校(現在の台東区立浅草小学校)に入学する。画家を志し、1897年(明治30年)9月に東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)予備ノ課程に入学するも、眼病のため中退を余儀なくする。
岡崎 栄松(おかざき えいまつ、1882年(明治15年)12… 岡崎 栄松(おかざき えいまつ、1882年(明治15年)12月22日 - 1960年(昭和35年)4月28日)は、かつての仙台市長である。 公選による終戦後初めての仙台市長として、同市の戦災復興に尽力した。 宮城県名取郡秋保村(現在の仙台市太白区西部)長袋字町に生まれ、宮城師範学校を経て日本大学法律学科に進学した。 大学卒業後は教育者となり、丸森小学校(宮城県丸森町)訓導、岩出山小学校(同・岩出山町)校長、宮城県桃生郡視学(教育行政官)を経て、1916年(大正5年)には宮城県県視学に就任した。 1919年(大正8年)からは行政職に転じ、横浜市役所、東京市社会局保護課長、同福利課長、同監査課長、同下谷区長、同大森区長、同電気局電灯部長を歴任した。
大島 破竹郎(おおしま はちくろう、1882年(明治15年)… 大島 破竹郎(おおしま はちくろう、1882年(明治15年)12月20日 - 1953年(昭和28年)6月12日)は、日本の官僚。佐賀県知事、高知県知事、郡山市長を歴任した。 福島県若松町に生まれる。会津中学、一高を経て、1908年(明治42年)東京帝国大学を卒業。同年文官高等試験に合格した。合格者106名中の首席は後藤文夫で、大島の席次は8番である。 大島の官歴は大蔵属に始まる。警視庁方面監察、兵庫県事務官などを経て、1914年(大正3年)以後群馬県警察部、石川県警察部、熊本県警察部、佐賀県警察部で県警察部長を務める。1921年(大正10年)からは、徳島県、朝鮮総督府忠清南道の内務部長を歴任した。
中島 権吉(なかじま ごんきち、1882年(明治15年)12… 中島 権吉(なかじま ごんきち、1882年(明治15年)12月20日 - 1946年(昭和21年)12月22日)は、大日本帝国の軍人である。海軍入隊後、海軍少将まで出世し、その後、海軍大学校の教頭を務めた。岡山県高梁市出身。 1882年(明治15年)に岡山県上房郡高梁町(現:高梁市川端町)で中島岩松・嘉代の次男として生まれる。旧制高梁中学校(現:岡山県立高梁高校)を経て、1902年(明治35年)海軍兵学校を優等で卒業し、エリートコースを歩むことになる。日露戦争では、東郷艦隊付けとなり、佐世保海兵団附で津島海峡警備に当たった。 1908年(昭和41年)海軍砲術学校特修科を修了し、1917年(大正6年)に3ヶ月渡米出張した後、大正7年から10年まで(1918~21年)英国に駐在した。
寺師 義信(てらし よしのぶ、1882年(明治15年)12月… 寺師 義信(てらし よしのぶ、1882年(明治15年)12月20日 - 1964年(昭和39年)8月13日)は、日本の医師。陸軍軍医中将。日本初の衛生飛行機を作成したことで知られる。 1882年(明治15年)、士族の漢方医伊東楽之助の次男として鹿児島県日置郡日置村(現日置市日吉町日置)に生まれる。満5歳の時に同じく士族である寺師清の養子となり寺師家を継いだ。寺師家では医師が多数いたため義信も医師に成ることを望まれたが、義信は漢詩や文筆を好み小説家を志向していた。鹿児島一中に進み、在学時に森鷗外の『水沫集』の影響を受け地方新聞に小説の連載を持っていた。実父の楽之助から何としても医者になるよう命じられたため義信は思い悩んでいたが、一中の岩崎行親校長から「鴎外先生は大文豪であると共に優れた医学者だ。
山田 正三(やまだ しょうぞう、1882年〈明治15年〉12… 山田 正三(やまだ しょうぞう、1882年〈明治15年〉12月20日 - 1949年〈昭和24年〉1月6日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。法学博士。京都帝国大学名誉教授。京都帝国大学法学部長。衆議院議員山田喜之助の異母弟。雉本朗造門下。弟子に中田淳一、小野木常など。 大阪府大阪市生まれ。山田八郎兵衛の四男。幼い頃東京市に転住、同地に於て初等教育及び中等教育を終えた。1906年、金沢の第四高等学校を卒業した。1909年、京都帝国大学法科大学独法科を卒業した。大学院に進んだが司法官試補となって1910年7月14日、大学院を退学した。 1911年、兄・喜之助方より分家して一家を創立した。1911年11月10日、京都帝国大学法科大学の講師を嘱託された。
平山 訓子(ひらやま おしえこ、1882年12月20日 - … 平山 訓子(ひらやま おしえこ、1882年12月20日 - 1925年5月1日)は、女性ジャーナリスト、文筆家、歌人、実業家。 本名は平山 訓(ひらやま おしえ)、旧姓蔵原、元和歌山県知事で衆議院議員の蔵原敏捷は実弟である。 熊本県下益城郡小川町(現・宇城市)出身、父・蔵原穆、母・そでの長女として生まれる。 1900年3月、熊本女学校を卒業。翌1901年、徳島県出身(生まれは東京府)の平山八十五郎と結婚、一児をもうけるが、1903年5月、夫八十五郎が米国スタンフォード大学留学中に客死したため、同年9月、幼子を実家に預け、九州日日新聞社(のち、熊本日日新聞社に社名変更)に入社した。熊本の女性記者第一号として活動する。