瀨古 新助(せこ しんすけ、1907年3月10日 - 199… 瀨古 新助(せこ しんすけ、1907年3月10日 - 1990年10月15日)は、日本の土木工学者。逓信省技官から大学教授に転身し、後半生は実業家となった。 1937年に日本大学旧工学部(現日本大学理工学部)を卒業し、同年逓信省電気局に入省する。後に興亜院(1938年設置)に移った。興亜院に向かう際の出迎役であった大来佐武郎と意気投合し、その後小沢久太郎とも交友を深めた。 1942年、日本大学専門部工科(現日本大学工学部)教授に就任(1944年に日本大学旧工学部助教授、1946年に同教授となる)。教職員適格審査委員会の委員としてGHQと大学との折衝に尽力した。 しかしながら、工学部教授に就任した1946年に大学を辞す。
荒舩 清十郎(あらふね せいじゅうろう、1907年(明治40… 荒舩 清十郎(あらふね せいじゅうろう、1907年(明治40年)3月9日 - 1980年(昭和55年)11月25日)は、日本の政治家、実業家。位階は正三位、勲等は勲一等。運輸大臣(第33代)、行政管理庁長官(第40・42代)、衆議院副議長(第49代)。衆議院議員(13期)。東映フライヤーズのプロ野球選手(1970年 - 1972年)、埼玉県議会議員(1期、1979年4月 - 1983年3月)であった荒舩洋資は甥であり後に養子となる。 埼玉県秩父郡高篠村(現秩父市)出身。先代・清十郎の長男。埼玉県立工業学校卒業、明治大学専門部中退。織物製造業を経営。 「清十郎」は先祖代々の襲名で、本人は16代目にあたる(以後は襲名者は出ていない)。
大岡 博(おおおか ひろし、1907年(明治40年)3月9日… 大岡 博(おおおか ひろし、1907年(明治40年)3月9日 - 1981年(昭和56年)10月1日)は、日本の歌人。 静岡県静岡市生まれ。貿易商だった父延時(1883年 - 1935年)の関係で少年期までを神戸で過ごす。その後、三島に定住。曾祖父の永夢は幕臣で旗本。徳川慶喜の駿府移住に随行し、同地に住んだ、祖父直時は、三島に移り、のちに三島警察署長を務めた。1924年(大正13年)沼津中学校(現静岡県立沼津東高等学校)卒業後、父不在のもと苦学し、家族の病気や経済面から進学を断念して三島市で教職につく。のちに1949年(昭和24年)から1951年(昭和26年)まで県教職員組合執行委員長、初代県立児童会館長、中学校校長を務めるなど教育者として力を尽くした。
井染 四郎(いぞめ しろう、1907年3月8日 - 1943… 井染 四郎(いぞめ しろう、1907年3月8日 - 1943年6月23日)は、日本の俳優である。本名は齋藤 四郎(さいとう しろう)。伊染 四郎と表記に揺れがある。日活太秦撮影所、日活多摩川撮影所などで活躍した二枚目俳優の一人である。 1907年(明治40年)3月8日、東京府東京市日本橋区久松町(現在の東京都中央区日本橋久松町)に生まれる。 旧制獨逸学協会中学校(現在の獨協高等学校)を経て法政大学文科に進学するが、中退。大学在学中、築地小劇場のエキストラに応募するも落選してしまい、結局は自動車会社に勤務する、とされている。1934年(昭和9年)に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』(映画世界社)等によれば、築地小劇場に加入して初舞台を踏むが、僅か1年余りで退いてしまい、自動車会社を3ヶ月勤務した後、失業生活を半年ほど過ごしたという旨が記されている。
鮫島 國三(さめじま くにぞう、1907年〈明治40年〉3月… 鮫島 國三(さめじま くにぞう、1907年〈明治40年〉3月8日 - 1990年〈平成2年〉6月17日)は、日本の中国古典文学者(文字学専攻)で、久留米大学名誉教授。書家としても「春岳」の号で多くの作品を残した。 鹿児島県内(現・薩摩川内市)に生まれる。幼少時に両親に連れられて中国に移住した。 1930年(昭和5年)に中華民国の 南開大学(中国古典文学、文字学専攻)を卒業した。1944年(昭和19年)に満洲国の新京特別市にあった新京法政大学(中国語版)(日本の法政大学とは無関係)の教授となる。 日本の敗戦後に中国から引き揚げ、1952年(昭和27年) に久留米大学教授に就任した。久留米大学では1971年(昭和46年)に商学部長となる。
北町 一郎(きたまち いちろう、明治40年(1907年)3月… 北町 一郎(きたまち いちろう、明治40年(1907年)3月7日 - 平成2年(1990年)9月4日)は、日本の小説家。 新潟県中蒲原郡小須戸町(現新潟市)小向生まれ。福島高等商業学校(現福島大学)特待生を経て、1932年に東京商科大学(現一橋大学)卒業後、婦女界社に入社。記者や、婦女界編集長を務めた。 1935年に「賞与日前後」でサンデー毎日大衆文芸入選。小説家として活動し、太平洋戦争中は大日本帝国陸軍報道班員としてスマトラ島で従軍取材を行い、昭南新聞マレー語版の編集責任者を務めた。 1948年に「健康教室」を創刊し78歳まで編集長を務めたほか、婦女界編集顧問、文部省嘱託、日本学校衛生会主事、日本文芸著作権保護同盟理事などを務めた。
救仁郷 繁(くにごう しげる、1907年3月6日 - 200… 救仁郷 繁(くにごう しげる、1907年3月6日 - 2001年5月26日)は、日本の翻訳家、経済学者。 北海道札幌市生まれ。北海道帝国大学農学部農業経済学科卒。1962年「西ドイツの農業経済」で北海道大学農学博士。ソ連の農業経済などに関する著作を翻訳した。
渡邉 智哲(わたなべ ちてつ、1907年〈明治40年〉3月5… 渡邉 智哲(わたなべ ちてつ、1907年〈明治40年〉3月5日 - 2020年〈令和2年〉2月23日)は、日本のスーパーセンテナリアン、政治家、地方公務員。新潟県上越市浦川原区に在住していた長寿の男性。日本国内並びに世界最高齢男性であった野中正造が2019年1月20日に死去した時点では、日本国内及び世界最高齢男性となっていた(詳細は後述)。ただし、トーマス・ピナレス・フィゲレオ(1906年3月31日 - 2020年9月24日)が世界最高齢男性に認定された為、世界最高齢の男性では無くなっている。 1907年(明治40年)、新潟県東頸城郡浦川原村(現・上越市浦川原区)の農家に生まれる。新潟県立高田農学校(現・新潟県立高田農業高等学校)卒業後、大日本製糖(現・DM三井製糖ホールディングス)に入社し、終戦まで台湾で働いた。
宮本 又次(みやもと またじ、1907年3月5日 - 199… 宮本 又次(みやもと またじ、1907年3月5日 - 1991年3月12日)は、日本の歴史学者。専攻は、日本経済史・近世商業史。経済学博士(九州大学)。大阪大学名誉教授。日本学士院会員。文化功労者。 大阪府大阪市生まれ。旧制大阪府立市岡中学校、大阪外国語学校仏語部を経て、1931年(昭和6年)京都帝国大学経済学部卒業、同大学院修了。同大学助手、日本経済史研究所を経て、1939年(昭和14年)彦根高等商業学校(現・滋賀大学経済学部)教授。 1942年(昭和17年)九州帝国大学助教授、1945年(昭和20年)同教授。1950年(昭和25年)九州大学より経済学博士の学位を取得、学位論文は「江戸時代問屋の研究」。
丸山 三四子(まるやま みよこ、1907年〈明治40年〉3月… 丸山 三四子(まるやま みよこ、1907年〈明治40年〉3月4日 - 1995〈平成7年〉12月26日)は、詩人・丸山薫の妻。詩人としてまだ収入の乏しかった時期の丸山を、マネキンとしての仕事で支えた。昭和初期のマネキンの事情を綴った書籍『マネキン・ガール』の著者として知られる。旧姓は高井。 1907年、愛知県知多郡有松町(現・名古屋市)で誕生した。先進的な父の方針で、横浜の捜真女学校に入学後、家庭の事情で名古屋の金城女学校に転校した後、愛知県立第一高等女学校専攻科(現・愛知県立明和高等学校)を卒業した。 1927年(昭和2年)、丸山薫と結婚した。丸山薫が詩人としてまだ芽が出ていなかったため、働き口を捜して知人のもとを訪れたところ、三四子の働き口ならあるとして、東京マネキン倶楽部を紹介され、マネキンとなった。
厚木 たか(あつぎ たか、1907年〈明治40年〉3月3日 … 厚木 たか(あつぎ たか、1907年〈明治40年〉3月3日 - 1998年〈平成10年〉5月19日)は、日本の記録映画作家。本名・芳賀 松江。 1907年(明治40年)群馬県伊勢崎市新町に岡田清平・すみの長女として生まれる。1929年(昭和4年)日本女子大学英文科卒。 1930年(昭和5年)、日本プロレタリア映画同盟に参加。1934年(昭和9年)にPCL(現・東宝)に入社。1938年(昭和13年)芸術映画社に移る。構成を担当した『或る保姆の記録』(芸術映画社、1942年)が国民映画賞を受賞[要検証 – ノート]。 朝日映画にも一時所属したが、1945年(昭和20年)以降はフリーの脚本家となる。1958年(昭和33年)『おふくろのバス旅行』で教育映画祭最高賞ブルーリボン賞受賞。
棚橋 諒(たなばし りょう、1907年3月2日 - 1974… 棚橋 諒(たなばし りょう、1907年3月2日 - 1974年5月5日)は、岐阜県出身の建築学者。 京都帝国大学卒業、神戸高工(現神戸大学)講師、昭和20年京都帝大教授。 1951年に京都大学工学部 石原藤次郎、理学部 小堀憲らとともに京都大学防災研究所を立ち上げ、初代所長を務めた。 日本建築学会第28代会長(1963年 - 1965年)を歴任。
玉置 敬三(たまき けいぞう、1907年3月2日 - 199… 玉置 敬三(たまき けいぞう、1907年3月2日 - 1996年7月8日)は、日本の官僚。通産事務次官を最後に退官後、東京芝浦電気社長・会長。 和歌山県出身。旧制姫路高等学校を経て、1930年、東京帝国大学法学部卒業。同年、商工省入省。 1941年4月、総力戦研究所出向経験を経て、戦後、通商機械局長(のちの機械情報産業局長)、1952年から1953年にかけて通産事務次官を務める。岸信介らの「統制派」の流れを汲み、その他に山本高行、平井富三郎、徳永久次らがいた。朝鮮特需によりジョゼフ・ドッジらによる自由経済から方向転換、統制派が復権、通商産業省による戦後政策のはじまりだった。 事務次官就任までの経緯は、白洲次郎らの「白洲派」・「外交派」または「通商派」に属すると目された入省同期の始関伊平(旧資源庁長官)との争いであった。
赤木 健介(あかぎ けんすけ、1907年3月2日 - 198… 赤木 健介(あかぎ けんすけ、1907年3月2日 - 1989年11月7日)は、日本の詩人、歌人、編集者、歴史家。本名・赤羽 寿(あかばね ひさし)、別名・伊豆 公夫(いず きみお)。 青森市生まれ。九州帝国大学法文学部中退。姫路高等学校時代から『アララギ』に投稿、1928年の三・一五事件以来、左翼運動に挺身。1933年、検挙投獄。1935年、出獄ののち、渡辺順三らの『短歌評論』に参加。1932年、唯物論研究会に属し、日本共産党に入党するが、1938年、一斉検挙にあい、1944年に判決が下って下獄。この間、1940年に「在りし日の東洋詩人たち」で第4回透谷文学賞を受賞した。敗戦後、1945年10月に連合軍により解放される。
中川 喜次郎(なかがわ きじろう、1907年3月2日 - 1… 中川 喜次郎(なかがわ きじろう、1907年3月2日 - 1982年1月15日)は、鹿児島県出身の実業家。 鹿児島県川辺郡西南方村(現・南さつま市)にて、中川伊勢次郎・イトの次男として生まれる。高等小学校卒業後、1936年に海産物商「中川商店」を設立し、南九州の海産物を満州に卸していき、満州に渡って関東軍の御用商人として財を成す。 1940年に「唐津造船所」を創設。また中川商店の海運部を分立する形で、1944年に大連にて中川海運を設立、終戦直前に帰国し1946年に水産業に進出し中川水産を設立。1948年に照国海運を設立、油送船や鉱石専用船を中心に展開し鹿児島から奄美群島への貨客定期航路などを展開、外航分野への進出で中型タンカー会社として成長を遂げ、最盛期には国内業界9位の中堅級の外航海運会社となっていた。
星 英府(ほし えいふ、1907年3月 - 没年不詳)は、日… 星 英府(ほし えいふ、1907年3月 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は川上 英男(かわかみ ひでお)。マキノ・プロダクションの主要人物の一人である。 1907年(明治40年)3月、神奈川県横浜市北方町(現在の同県中区同町)に生まれる。 京都市立工業学校(現在の京都市立洛陽工業高等学校)を卒業後、貿易商社に入るが、1926年(大正15年)7月、マキノ・プロダクションへ入社する。同年8月27日公開の曽根純三監督映画『砕かれた人形』で映画デビューを果たし、金が有り余るという男役を演じた。以後、マキノの中堅俳優として多数の作品に出演した。翌々年1928年(昭和3年)に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』(映画世界社)など一部の資料によれば、京都府葛野郡花園村天授ヶ丘(現在の同府京都市右京区花園天授ヶ岡町、マキノ・プロダクション内)、京都府京都市一条通大将軍坂田町7番地(現在の同府同市北区大将軍坂田町)と転々と住み、趣味は絵描き、ダンス、散歩であり、洋酒と外国煙草が嗜好であるという。
林 誠之助(はやし せいのすけ、1907年3月 - 1988… 林 誠之助(はやし せいのすけ、1907年3月 - 1988年12月9日)は、日本の俳優である。本名久保 十郎(くぼ じゅうろう)。引退後、実業家となった。 1907年(明治40年)3月、佐賀県杵島郡橘村(現在の同県武雄市橘町)に生まれる。 旧制・佐賀県立鹿島中学校(現在の佐賀県立鹿島高等学校)に進学するも、1923年(大正12年)に中途退学し、二代目市川荒太郎に入門して歌舞伎役者となる。翌1924年(大正13年)、師の荒太郎とともに京都の松竹下加茂撮影所に入社、師の主演映画に「林 誠之助」の名で助演して、映画界にデビューする。同年末、師の荒太郎は同撮影所を退社、それを機に、林は松竹キネマに残留し、東京の松竹蒲田撮影所に異動する。
北原 武夫(きたはら たけお、1907年2月28日 - 19… 北原 武夫(きたはら たけお、1907年2月28日 - 1973年9月29日)は、日本の小説家。 神奈川県小田原市の医家に生まれる。神奈川県立小田原中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)を経て、家業を継ぐべく旧制新潟高等学校理科に入学するが父に反抗して中退し、慶應義塾大学予科に入学。慶應義塾大学文学部仏文科に進むが国文科に転じ、1932年に卒業。在学中に、井上友一郎、田村泰次郎らの同人誌『桜』に参加。 都新聞社に入社。横浜支局に勤務。1934年、都新聞社本社に転勤。この間、1933年に宇野千代と知り合う。1936年、宇野千代と共に日本最初のファッション雑誌『スタイル』を創刊。1938年、『妻』を発表して芥川賞候補となり文壇にデビュー。
折口 春洋(おりくち はるみ、旧姓: 藤井、1907年2月2… 折口 春洋(おりくち はるみ、旧姓: 藤井、1907年2月28日 - 1945年3月19日)は、日本の国文学者、歌人。折口信夫の門弟、養嗣子。國學院大學教授。最終階級は陸軍中尉。 1907年(明治40年)2月28日、石川県羽咋郡一ノ宮村一ノ宮寺家千五十七番地(現・羽咋市)に藤井升義の四男として生まれる。 1913年(大正2年)4月、一ノ宮小学校に入学。1919年(大正8年)4月、金沢市少将町高等小学校に転じる。長兄・次兄と共に、同村の老婦をつけて、早くから遊学させられた。1920年(大正9年)4月、石川県立金沢第一中学校(現・石川県立金沢泉丘高等学校)入学。 1925年(大正14年)4月、國學院大學予科入学。
樋口 澄雄(ひぐち すみお、1907年2月28日 - 198… 樋口 澄雄(ひぐち すみお、1907年2月28日 - 1985年10月12日)は、日本の初等教育者。 長野県小県郡中塩田村(現上田市)出身。旧制上田中学を経て、1926年東京府青山師範学校卒業、1930年同専攻科修了。東京都の小学校教諭をへて、港区桜田小学校校長、同区西桜小学校校長。日本幼児教育研究会会長を務めた。
山本高行(やまもと たかゆき 1907年2月28日 - 19… 山本高行(やまもと たかゆき 1907年2月28日 - 1961年5月17日)は、日本の官僚。
伊勢 正義(いせ まさよし、1907年2月28日 - 198… 伊勢 正義(いせ まさよし、1907年2月28日 - 1985年11月18日)は、日本の洋画家。 秋田県鹿角郡小坂町出身。1931年東京美術学校西洋画科卒。藤島武二に師事した。1933年の第20回光風会展でK夫人賞を受け、1934年に光風会会員となった。1934年の第15回帝展に出品した「カルトン」が初入選した。1935年の第22回光風会展で初の光風特賞を受賞した。同年、第二部会展で特選、文化賞を受賞した。 1936年に猪熊弦一郎などとともに新制作派協会(後の新制作協会)を結成した。その後は、同協会の中心会員として活躍した。 1936年ベルリンオリンピックの芸術競技の絵画種目に「フットボール」という作品を出品した。
高橋 長太郎(たかはし ちょうたろう、1907年2月28日 … 高橋 長太郎(たかはし ちょうたろう、1907年2月28日 - 1991年3月29日)は、日本の経済学者。経済学博士(一橋大学・1960年)。一橋大学名誉教授。一橋大学経済研究所長、専修大学学長等を歴任。正四位勲二等瑞宝章。東京生まれ 1927年旧制東京商科大学(現一橋大学)予科修了。1930年同大学学士。1932年同大学研究科修了。哲学者の山内得立教授に師事した。1934年法政大学商業学校教諭。1947年大蔵省内閣統計官。1949年東京商科大学経済研究所教授。一橋大学経済研究所国民所得・再生産研究部門主任教授として倉林義正らと国民経済計算を行い、1959年から小原敬士の後任として第6代一橋大学経済研究所長を務めた。
満留 正光(みつどめ まさみつ、1907年2月27日 - 1… 満留 正光(みつどめ まさみつ、1907年2月27日 - 1993年10月24日)は日本の政治家。鹿児島県串木野市長(3期)。串木野市名誉市民。 鹿児島県日置郡串木野村(串木野町、串木野市を経て現いちき串木野市)荒川に生まれる。1919年3月に荒川尋常小学校(現いちき串木野市立荒川小学校)を卒業し、三井鉱山の串木野鉱山西山坑勤務を経て、1920年10月串木野村役場職員に採用される。働きながら串木野村立公民学校で学び、1927年卒業。1932年9月鹿児島県庁職員に採用され転任。働きながら鹿児島法学院で学ぶ。戦後、鹿児島県の内務部、議会調査局、出納長室、教育委員会事務局(教育庁)の中の各課長などを経て、1955年12月24日串木野市助役に就任。
手島 志郎(てしま しろう、1907年2月26日 - 198… 手島 志郎(てしま しろう、1907年2月26日 - 1982年11月6日)は、日本のサッカー選手およびサッカー指導者。 東京帝国大学で若槻礼次郎と同窓だった父が台湾総督府の高官在任時に台北で生まれ、まもなく帰国し広島で育った。長沼健は親戚にあたる。広島高等師範附属中学(現広島大学附属高校)から1925年、創設間もない旧制広島高校(現広島大学総合科学部)に進学。 1926年、東京帝大主催による官立旧制高校の全国大会、第3回全国高等学校ア式蹴球大会(インターハイ)でセンターフォワード(CF)として準優勝。1、2年生チームでの健闘は大きな話題となった。1928年の第5回大会では、幅広い動きで当代随一と評を得たHB・野沢正雄主将らと、身長152cmのCF・手島もコマネズミのように動きまわり得点を重ねチームを優勝に導いた。
宮原 道也(みやはら みちや、1907年2月26日 - 没年… 宮原 道也(みやはら みちや、1907年2月26日 - 没年不詳)は、日本の医師、医学者。専門は産婦人科。 熊本県玉名市出身。旧制熊本県立玉名中学校を経て熊本医科大学を卒業した。1933年に熊本医科大学産婦人科教室に入局し、講師や医学専門部の教授を歴任した。この間、1945年10月には論文「副腎の組織呼吸に関する研究」で熊本医科大学から医学博士号を取得した。 戦後の1950年から国立熊本病院の副院長兼産婦人科部長となった。1957年、熊本市内で産婦人科医院を開業した。
若槻 修道(わかつき しゅうどう、1907年2月26日 - … 若槻 修道(わかつき しゅうどう、1907年2月26日 - 1999年10月11日)は、日本の政治家、僧侶。島根県飯梨村長、島根県議会議員(2期)、全国社会福祉協議会会長などを歴任。安来市萬松院十四世。号は活禅。 明治40年、能義郡飯梨村(現: 安来市)生まれ。1934年、曹洞宗大学(現: 駒澤大学)仏教学科卒業。曹洞宗研究生修了。 宗議会議員、飯梨村長(1947年4月から時期不明)、島根県議会議員(1951年5月から1959年4月まで)、県共同募金会会長、県社会福祉協議会会長、全国社会福祉協議会会長、仏教年鑑編集長などを務める。著書に「大乗経典の概説」など。 この項目は、宗教家に関連した書きかけの項目です。
板垣 修(いたがき おさむ、1907年2月26日 - 198… 板垣 修(いたがき おさむ、1907年2月26日 - 1987年11月19日)は、日本の外交官。 宮城県仙台市出身。1931年高等試験外交科、行政科試験に合格。翌32年東京帝国大学法学部政治学科卒業、外務省に入省。英国、中国などに勤務し、南京の中華民国大使館勤務中に終戦を迎える。1946年以降、外務省管理局経済部総務課長、総務局資料課長、同局総務課長、中国連絡調整事務局長、貿易局長、経済審議庁審議官を務める。 その後、香港総領事、通産省通商局長、外務審議官、アジア局長を経て1959年7月ノルウェー大使に就任。1962年5月フィリピン大使、65年2月インド大使、66年8月カナダ大使、69年5月中華民国(台湾)大使を歴任した後、72年3月に退官。
永井 鱗太郎(ながい りんたろう、1907年(明治40年)2… 永井 鱗太郎(ながい りんたろう、1907年(明治40年)2月26日 - 1985年(昭和60年)11月5日)は、日本の児童劇作家。日本児童演劇協会常任理事を務めた。 福井県あわら市(旧金津町八日)出身。本名は善太郎。 1927年、福井師範学校を卒業。福井県あわら市伊井小学校で小学校教師を始めるが、1933年に上京。 東京で小学校教師として働くかたわら、1936年に正善達三らと児童劇団「子供町」を結成(1944年解散)。戦後文筆生活にはいる。児童劇脚本研究会「こまの会」を主宰。 1953年『お月さまをたべたやっこだこ』で小学館児童文化賞受賞。1980年、日本児童演劇協会功労賞受賞。1984年には芸術文化功労者として勲五等瑞宝章を受けた。
周藤 吉之(すとう よしゆき、1907年2月25日 - 19… 周藤 吉之(すとう よしゆき、1907年2月25日 - 1990年1月21日)は、日本の中国史学者、東京大学名誉教授。 島根県簸川郡直江村大字下直江(現・出雲市斐川町直江)に生まれる。旧制島根県立商業学校(現・島根県立松江商業高等学校)、旧制松江高等学校文科乙類を経て、東京帝国大学文学部東洋史学科卒。宋代史の専門家で東京大学東洋文化研究所教授を務め、1956年「中国土地制度史研究」で日本学士院賞受賞、1957年文学部東洋史学科教授、1967年定年退官。
阿部 行蔵(あべ こうぞう、1907年2月25日 - 198… 阿部 行蔵(あべ こうぞう、1907年2月25日 - 1981年4月28日)は、日本の歴史学者(近代思想史、歴史理論)、旧・東京都立大学(現首都大学東京を経て東京都立大学)教授、牧師。平和運動家。政治家、第10代東京都立川市長。 広島県広島市出身。最初、川端画学校の藤島武二に師事したが1928年、賀川豊彦の集会に出席して神学を学ぶことを決意する。神田の中央バプテスト教会(三崎町教会)で中島力三郎からバプテスマ(洗礼)を受ける。 関東学院に入学、神学部に学ぶ。キリスト者学生運動に参加の後、日本戦闘的無神論者同盟に加盟。1933年治安維持法違反容疑で検挙され執行猶予。1937年同志社大学文学部神学科を卒業すると姫路バプテスト教会に赴任する。
山崎 功(やまざき いさお、1907年2月25日 - 198… 山崎 功(やまざき いさお、1907年2月25日 - 1983年6月3日)は、日本のジャーナリスト、イタリア研究者、翻訳家。 石川県金沢市生まれ。1927年東京外国語学校イタリア語科卒後、読売新聞社に入る。ローマ特派員、1942年ローマ大学政治学部卒。欧米部次長、論説委員。
藤村 義朗(ふじむら よしろう、1907年〈明治40年〉2月… 藤村 義朗(ふじむら よしろう、1907年〈明治40年〉2月24日 - 1992年〈平成4年〉3月18日)は、日本の海軍軍人、実業家。最終階級は海軍中佐。旧名・義一(よしかず)。 大阪府出身。実業家・藤村義正の長男として生まれる。堺中学を経て、1927年(昭和2年)3月、海軍兵学校(55期)卒業。1928年(昭和3年)10月、海軍少尉任官。海軍砲術学校高等科で学ぶ。1934年(昭和9年)7月、「長月」砲術長に就任、以後、砲術学校専攻科学生、「綾波」砲術長、砲術学校教官、「白雲」「厳島」の各砲術長を歴任。1939年(昭和14年)11月、海軍少佐に昇進。1940年(昭和15年)4月、海軍大学校(甲種37期)を首席で卒業した。
阿部 信文(あべ のぶふみ、1907年(明治40年)2月24… 阿部 信文(あべ のぶふみ、1907年(明治40年)2月24日 - 1983年(昭和58年)12月29日)は、日本の柔道家(講道館9段)、教育者。 講道館創始者嘉納治五郎に直接柔道の手ほどきを受けた直弟子で大正末期から昭和初期の現役時代には得意の背負投を武器に一世を風靡し、後には全日本柔道連盟評議員・常任理事、境港市教育委員長、鳥取県体育協会評議員、鳥取県柔道連盟会長、境港市体育協会会長を務めるなど日本柔道界の重鎮として知られた。 鳥取県西伯郡余子村(現・境港市高松町)出身。県立米子中学校(現・県立米子東高校)時代には右の一本背負投や跳腰で名を馳せ県下に伍する者無く、身長165cm・体重68kgの小兵ながら在学中に大日本武徳会で2段位を取得した。
森 元治郎(もり もとじろう、1907年2月24日 - 19… 森 元治郎(もり もとじろう、1907年2月24日 - 1999年5月14日)は、日本の政治家。参議院議員(3期、日本社会党)。 茨城県水戸市出身。1930年青山学院英文科卒。卒業後は新聞連合社(のち同盟通信社)に入り、欧州特派員、政治部次長などを務める。戦後、同盟通信社は共同通信社となり、論説委員となる。1947年片山内閣が成立すると内閣総理大臣秘書官となる。1956年の第4回参議院議員通常選挙において茨城地方区から日本社会党公認で立候補して初当選。連続3期務める。国会内では参議院懲罰、決算各委員長を歴任し、党内では茨城県委員長、党外交部長などを務めた。1974年の第10回参議院議員通常選挙に出馬せず引退。
李 孝石(イ・ヒョソク、1907年2月23日 - 1942年… 李 孝石(イ・ヒョソク、1907年2月23日 - 1942年5月25日)は朝鮮の小説家。本貫は全州。号は可山。兪鎮午に「小説の形式で詩を吟じた作家」と評され、郷土の美しさを詩のような流れる文筆で描いた。その代表作が『ソバの花咲く頃(메밀 꽃 필 무렵)』である。 1907年2月23日、江原道平昌郡蓬坪面倉洞2区南安洞681番地に1男3女の長男として生まれる。父の李始厚は漢城師範学校出身で、京城で教鞭を執っていた。母、康洪敬は珍富の聖潔教会の功労者として知られていた。父の仕事のため、一時京城に住むも、5歳のときに再び故郷に戻り、私塾で漢学を学んだ。非常に物覚えのよい李は村人から神童と呼ばれるほどであった。
山田 憲太郎(やまだ けんたろう、1907年2月21日 - … 山田 憲太郎(やまだ けんたろう、1907年2月21日 - 1983年2月3日)は、香料研究者、東西交渉史学者。 長崎県諫早市出身。1932年神戸商科大学(現神戸大学)卒。小川香料(香料会社)勤務、1950年「中世のアラビヤ人が初めて東方に伝えた龍涎香とジヤスミン」で國學院大學文学博士。1954年近畿大学経営学部教授。1958年桃山学院大学経済学部教授、名古屋学院大学教授、77年定年、名誉教授。東アジアの香料史および東西交通史を研究し、1977年「東亜香料史研究」で日本学士院賞受賞。78年、奈良県明日香村のマルコ山古墳で出土した人骨から発した芳香について、古代中国から伝わった「竜脳」だと鑑定した。
金子 岩三(かねこ いわぞう、1907年〈明治40年〉2月2… 金子 岩三(かねこ いわぞう、1907年〈明治40年〉2月20日 - 1986年〈昭和61年〉12月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(9期)、科学技術庁長官、農林水産大臣、長崎県議会議長などを歴任。勲一等旭日大綬章受章(1984年)。長崎県知事や農林水産大臣を務めた金子原二郎は次男。鈴木善幸元首相と並んで、自由民主党の代表的な水産族議員として知られた。がんちゃんの愛称で知られる。 長崎県北松浦郡生月村(現・平戸市)に、旅館経営・田中仙蔵の三男として生まれる。その後海産物仲買業・金子源作に見込まれ、10歳の時に金子家の養子となる。1923年生月村山田実業補習学校を卒業後、家業に従事する。1942年生月村議、1947年長崎県議、1955年同県議会議長を経て、1958年1月に西岡竹次郎知事死去に伴う長崎県知事選に出馬するが佐藤勝也に敗れて落選。
武田 文吾(たけだ ぶんご、1907年2月19日(1907年… 武田 文吾(たけだ ぶんご、1907年2月19日(1907年12月28日説もあり) - 1986年12月3日)は、元騎手(京都競馬倶楽部、阪神競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬)、元調教師(阪神競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会〈JRA〉)。北海道石狩国札幌郡江別村(現・江別市)出身。1978年11月3日、勲五等双光旭日章を授章。1986年、正六位叙位。息子の武田博は日本中央競馬会の元騎手・元調教師。名馬シンザンの鞍上としてクラシック三冠を制した元騎手・元調教師の栗田勝は娘婿。 尾形藤吉とともに「東の尾形、西の武田」と並び称された名調教師。タケブン、ブンテキなどの愛称で親しまれた。五冠馬シンザン・二冠馬コダマ・牝馬二冠馬ミスオンワードなどの名競走馬、また栗田勝・福永洋一などの名騎手を育て、人馬両面において中央競馬、とくに関西地区の競馬の発展に大きな足跡を残した。
韓 徳銖(ハン・ドクス、한 덕수、1907年2月18日 - … 韓 徳銖(ハン・ドクス、한 덕수、1907年2月18日 - 2001年2月21日)は、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯)の初代議長。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)最高人民会議代議員を務めた。 1907年、朝鮮・慶尚北道生まれ。1927年に声楽家を目指して日本に渡り、1928年に日本大学に入学。退学後は丹那トンネルの労働運動に参加し逮捕され、懲役2年執行猶予3年の判決を受ける。1934年には朝鮮人労働者のストライキを指導したため再び逮捕され、以後十数回に渡り逮捕された。 第二次世界大戦後の1945年10月15日、新たに結成された在日本朝鮮人連盟(朝連)に参加し、直後の第1回中央委員会において総務部局長に選出されたが、GHQから公職追放を受ける。
小林 宏治(こばやし こうじ、1907年 <明治40年> 2… 小林 宏治(こばやし こうじ、1907年 <明治40年> 2月17日 - 1996年 <平成8年> 11月30日)は、日本の実業家。元日本電気(NEC)社長、会長。位階は正三位。 山梨県大月市出身。1925年に山梨県立都留中学校(現山梨県立都留高等学校)を卒業した後、旧制松本高校理科甲類、東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し、1929年に日本電気に入社する。常務、専務、副社長を経て、1964年社長となる。小林が社長の時代に、NECは通信とコンピュータ、半導体を主軸とした総合電器メーカーへと発展し、「NEC中興の祖」と呼ばれた。1976年会長に就任。父親、藤本氏から小林氏に入婿(本姓 藤本氏)[要出典]。
久保田 藤麿(くぼた ふじまろ、1907年(明治40年)2月… 久保田 藤麿(くぼた ふじまろ、1907年(明治40年)2月17日 - 1993年(平成5年)5月8日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)。衆議院議員(2期)。 1907年(明治40年)、三重県鈴鹿市にて出生。 旧制福岡高校を経て、東京大学法学部政治学科卒業。文部省各課長。内閣総理大臣・文部大臣秘書官。文部省施設局長・管理局長・調査局長。自由民主党の文教調査副会長となり万国著作権条約会議・諸外国の教育事情を視察するために欧米各国に出張する。九州大学助教授、日本短波研究所理事長も務めた。 1955年(昭和30年)の第27回衆議院議員総選挙と1958年(昭和33年)の第28回衆議院議員総選挙に三重1区から無所属で出馬するが、落選。
呉 泰次郎(ごう たいじろう、1907年〈明治40年〉2月1… 呉 泰次郎(ごう たいじろう、1907年〈明治40年〉2月17日 - 1971年〈昭和46年〉7月1日)は、日本の作曲家である。叔父は小説家の村井弦斎。校歌等、学校歌の作曲なども多く手がけ、代表的なものに日本体育大学の校歌や北海道帝国大学桜星会の歌等がある。 大連で実業家の次男として生まれた。家は代々雅楽を行い、父は篳篥の名人で大連雅楽会長であった。母は箏を奏した。姉はピアノを弾き、チェリストの彭城昌平と結婚した関係で、泰次郎は8歳の頃から義兄にチェロを習った。また泰次郎の家は兄弟7人とも楽器を奏し、一家で合奏することもしばしばであった。 13歳より5年間、ピアノを大連音楽学校長の園山民平に、歌を東海林久子、チェロをスカルスキーに学ぶ一方で作曲を独学し、多くの習作を書いた。
奥山 儀八郎(おくやま ぎはちろう、1907年(明治40年)… 奥山 儀八郎(おくやま ぎはちろう、1907年(明治40年)2月17日 - 1981年(昭和56年)10月1日)は、日本の木版画家。山形県出身。主に商業広告版画・創作版画を手がけた。広告版画のパイオニア。 1907年山形県西村山郡寒河江町(現・寒河江市)に生まれる。子供の頃から木版画に親しみを持ち、1928年に日本創作版画協会展に初入選を果たした。同年その技量を買われて日本毛織宣伝部の広告作家として数々の商業広告を手がけ、後に大高重治とともにニッカウヰスキーのポスター・ウイスキーラベルのデザインも木版画で制作した。1936年に浮世絵研究家の石井研堂に師事し、伝統的技法の復興に注力した。また、自らのコーヒー好きが高じて歴史等を研究しコーヒーの多様な呼び方を表した木版画「かうひい異名熟字一覧」を制作した。
志村 立美(しむら たつみ、1907年2月17日 - 198… 志村 立美(しむら たつみ、1907年2月17日 - 1980年5月4日)は、日本画家、挿絵画家、美人画家。群馬県高崎市生まれ。本名 仙太郎。 群馬県高崎市新町甲百番地の有馬屋質店の長男として生まれ、その後横浜市中区へ移住する。神奈川県立神奈川工業高等学校図案科を中退して、1924年(大正13年)山川秀峰に入門美人画を修める。当時、山川秀峰は鏑木清方同門であった伊東深水と共に、挿絵での活動もしていた。岩田専太郎、志村立美と小林秀恒は、挿絵界の「三羽烏」。山川秀峰の推薦を受け、立美も挿絵での活動を行うようになる。また、金田信武の株式会社金田商店から、新版画と呼ばれている木版画も描いている。 肉筆画も鏑木清方主宰の郷土会、師である山川秀峰、伊東深水らの主宰する青衿会等へ出品をする。
小川 善吉(おがわ ぜんきち、明治40年(1907年)2月1… 小川 善吉(おがわ ぜんきち、明治40年(1907年)2月16日 - 平成9年(1997年)1月28日 )は、日本の裁判官。横浜地裁所長。早稲田大学講師、司法試験委員(商法)を務めた。位階は正三位。勲二等旭日重光章。 横浜銀行取締役会長小川是、東京ガス専務小川明良の実父。 三重県員弁郡梅戸井村出身。順吉の次男。 昭和7年(1932年)11月高等試験司法科合格。昭和8年(1933年)3月東京帝国大学法学部卒業。昭和9年(1934年)12月判事に任官。司法事務局同書記官、最高裁事務総局総務局第一課長を経て昭和24年(1949年)6月東京地裁判事。1977年春の叙勲で勲二等旭日重光章を受章。1997年死去。
横山 フク(よこやま ふく、1907年〈明治40年〉2月16… 横山 フク(よこやま ふく、1907年〈明治40年〉2月16日 - 1991年〈平成3年〉11月4日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)。 東京府東京市神田区須田町(現千代田区)生まれ。東京府第一高等女学校卒業、日本大学法学部(夜間)卒業。 職業婦人になるため三省堂に勤務しながら夜は速記塾で学んだ。1927年、東京府産婆会書記になり、その縁で1932年に産婆の資格をとり、板橋で開業。 1947年板橋区議会議員に当選、1950年の第2回参議院議員通常選挙全国区に無所属で立候補したが、落選。1953年の第3回参議院議員通常選挙全国区に自由党公認で初当選。以後連続3期当選。 1955年、日本看護協会助産婦部会長として、国際看護師協会加盟に絡み、日本助産婦会を設立、初代会長に就任。
木崎 国嘉(きざき くによし、1907年2月15日 - 19… 木崎 国嘉(きざき くによし、1907年2月15日 - 1984年6月17日)とは、日本の医師、教育者、タレント。 実弟は鹿児島大学教養部、立正大学文学部で教授を務めた歴史学者の木崎良平。 大阪府生まれ。1924年(大正13年)大阪府立北野中学校卒業、1928年(昭和3年)大阪高等学校 (旧制)理科を卒業。1932年(昭和7年)京都帝国大学医学部卒業後、同付属病院内科勤務を経て大阪赤十字病院に入り、1969年(昭和44年)まで内科部長を務める。 その頃、テレビ番組11PMの大阪局製作分においてセックスドクター、木崎ドクターとしてレギュラー出演。藤本義一、アンナ・ルーセンとエッチな会話をする医師として人気を博した。
本間 仁(ほんま まさし、1907年2月15日 - 2010… 本間 仁(ほんま まさし、1907年2月15日 - 2010年8月17日)は、昭和期の土木工学者。専攻は水理学、河川工学、海岸工学。神奈川県横須賀市浦賀出身。東京大学名誉教授。専門は水理学・河川工学・海岸工学。この分野の開拓者、創始者であり、第一人者として学界をリードした。また、指導者として多くの優れた研究者・技術者を育てた。 戦前の本間の仕事の前半は内務省(現、国土交通省)土木試験所および下関港修築事務所でなされたものであり、後半は東京帝国大学での研究である。戦前、戦後(東京大学定年まで)を通じての主な仕事は「本間 仁博士論文選集」に収められている。 戦前の研究を大別すれば、波に関するもの、河川、港湾等の現地調査に関するもの、水面形や越流堰に関するもの、射流に関するものである。
鷹野 孝徳(たかの たかのり、1907年2月15日 - 19… 鷹野 孝徳(たかの たかのり、1907年2月15日 - 1997年5月8日 )は、日本の経営者、銀行家。鹿児島銀行頭取を務めた。 山梨県甲府市出身。1928年に長崎高等商業学校を卒業し、同年に日本銀行に入行した。1959年11月に鹿児島銀行に転じ、副頭取に就任し、1960年5月には頭取に昇格した。1979年12月に会長を経て、1986年6月には相談役に就任。 1970年10月に藍綬褒章を受章し、1977年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1997年5月8日、脳梗塞のために死去。90歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。