荒岩 亀之助(あらいわ かめのすけ、1871年4月18日(明… 荒岩 亀之助(あらいわ かめのすけ、1871年4月18日(明治4年2月29日) - 1920年(大正9年)9月3日)は、鳥取県(現西伯郡大山町)出身の大相撲力士。本名は山崎 徳三郎(やまざき とくさぶろう)。最高位は大関。陣幕部屋(大坂)、尾車部屋(東京)に所属した。 1871年4月18日(旧暦2月29日)に木こりの二男として生まれる。子供の頃から家業を手伝っていたので自然に足腰や腕力が鍛え上げられ、相撲も好きだったので土地相撲で強豪力士として活躍した。そんな徳三郎少年を見出した大坂相撲の関係者からスカウトされ、1891年に陣幕部屋(大坂相撲)へ入門、「真竜」の四股名で初土俵を踏んだ。しかし、ある時に銭湯で兄弟子の背中を流していたところ、「流し方が悪い」と殴られたことに立腹し、すぐに大坂相撲を脱退すると同時に上京、大戸平廣吉が親方として経営する尾車部屋(東京相撲)へ入門、1894年1月場所において三段目付出で東京相撲での初土俵を踏んだ。
原 勝郎(はら かつろう、1871年4月15日(明治4年2月… 原 勝郎(はら かつろう、1871年4月15日(明治4年2月26日) - 1924年(大正13年)1月12日)は、日本の歴史学者。京都帝国大学教授、京都帝国大学文学部長。 1871年、岩手県盛岡市で旧盛岡藩士・原勝多の長男として生れた。盛岡中学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学文科大学史学科で学んだ。1896年に卒業。同大学大学院に進んだ。 1896年12月から一年志願兵として近衛歩兵第4連隊に入営。1899年2月、陸軍歩兵少尉に任官し、1904年、歩兵中尉に進級。 1899年9月、第一高等学校教授に就いた。1902年10月、文学博士号を取得。 1907年2月から1909年3月まで、イギリス、アメリカ、ドイツに留学。
笹尾 粂太郎(ささお くめたろう、1871年4月14日〈明治… 笹尾 粂太郎(ささお くめたろう、1871年4月14日〈明治4年2月25日〉- 1941年〈昭和16年〉1月29日)は、日本の哲学者である。 長門国、現在の山口県下関市に笹尾勝蔵の息子として生まれ、日本基督教会柳川教会で父から洗礼を受けた。山口高等学校に入学したが、経済的事情で明治学院神学部に転校。同じく、白金にあった自営館(現・巣鴨教会)で共同生活を送った。 明治学院から推薦されて、20歳で渡米し、オーバン神学校、コロンビア大学で学んだ。さらに、1896年にドイツに渡りベルリン大学、ハレ大学、ボン大学でキリスト教とカント哲学の研究を重ね、1899年に学位論文「カントの神概念」によりボン大学より哲学博士号を得た。
横山 源之助(よこやま げんのすけ、明治4年2月21日〈18… 横山 源之助(よこやま げんのすけ、明治4年2月21日〈1871年4月10日〉- 大正4年〈1915年〉6月3日)は、富山県中新川郡魚津町(現在の魚津市)出身のジャーナリスト。号は天涯茫々生。他に有磯逸郎・無膓・夢蝶・漂天痴童・樹下石上人といった筆名を用いた。 魚津の網元の家に私生児として生まれ、すぐに左官職人の横山伝兵衛の養子となる。1881年、魚津明理小学校を卒業後、商家(醤油醸造業)に住み込み奉公をしながら独学し、1885年に富山県立富山中学校に1期生として入学する。しかし2年生の時に中退、代言人(弁護士)を目指して上京し、英吉利法律学校(現在の中央大学)に学ぶ。その後、弁護士試験を数度にわたって受験するが合格できず、各地を放浪する。
西田 当百 (にしだ とうひゃく、1871年4月10日(明治… 西田 当百 (にしだ とうひゃく、1871年4月10日(明治4年2月21日) - 1944年6月30日)は、日本の俳人、川柳作家。本名、嘉吉。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
帆足 準三(ほあし じゅんぞう、1871年4月7日(明治4年… 帆足 準三(ほあし じゅんぞう、1871年4月7日(明治4年2月18日) – 1913年(大正2年)10月3日)は、戦前の日本の朝鮮総督府官僚。 長門国豊浦郡、後の山口県豊浦郡長府村(現下関市長府地区)出身。1890年7月、明治法律学校卒業。1895年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1896年1月、会計検査院に入院後、1899年6月、内務省に転じ試補となる。以後、大分県参事官、千葉県内務部長などを歴任。渡韓し、朝鮮総督府道事務官、1912年4月1日からは朝鮮総督府殖産局長を務めたのち、1913年2月14日、咸鏡北道長官に就任。同年10月3日、在任中に死去。
田村 守衛(たむら もりえ、1871年4月7日(明治4年2月… 田村 守衛(たむら もりえ、1871年4月7日(明治4年2月18日) - 1923年6月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山梨県東山梨郡相興村中尾(現:笛吹市一宮町)に宮司・田村義事の息子として生まれる。1894年(明治27年)7月、陸軍士官学校(5期)を卒業。同年9月、騎兵少尉任官。1901年(明治34年)11月、陸軍大学校(15期)を首席で卒業。参謀本部編制班に配属された。 日露戦争に大本営参謀として出征し、さらに満州軍参謀に転じた。1914年(大正3年)1月、歩兵大佐に昇進し関東都督府高級参謀に就任。1917年(大正6年)4月、陸大幹事となり、1918年(大正7年)7月、陸軍少将に進級。
西村 清雄(にしむら すがお、明治4年2月13日(1871年… 西村 清雄(にしむら すがお、明治4年2月13日(1871年4月2日) - 昭和39年(1964年)12月25日)は日本の教育者。日本人の創作賛美歌の有名な古典「山路こえて」を作詞したクリスチャン。松山名誉市民第3号。 祖父は幕末の松山を代表する歌人西村清臣。叔父は道後村村長で道後温泉本館を建てた伊佐庭如矢。 1871年(明治4年)、愛媛県松山市北京町に伊予松山藩士の長男として生まれる。1885年(明治18年)、愛媛県第一中学校(後の松山中学校、現愛媛県立松山東高等学校)へ入学するが、翌年、廃校。この頃、カトリック教会の洗礼を受けた。 1888年(明治21年)、大阪で英語を学び、大阪基督教会で宮川経輝の教えを受けプロテスタントの信仰を持つ。
安満 欽一(やすみつ きんいち、1871年4月2日(明治4年… 安満 欽一(やすみつ きんいち、1871年4月2日(明治4年2月13日) - 1960年10月24日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
中馬 興丸(ちゅうま おきまる、旧姓・天崎、1871年4月1… 中馬 興丸(ちゅうま おきまる、旧姓・天崎、1871年4月1日(明治4年2月12日) – 1936年(昭和11年)3月14日)は、日本の政治家、医師。衆議院議員(兵庫県第二区選出、当選3回)。尼崎中馬病院主。族籍は兵庫県士族。 摂津国川辺郡尼崎(現在の兵庫県尼崎市)で、浄土真宗本願寺派西性寺の天崎紹印の三男として生まれ、中馬譲吉の養子となった。1898年(明治31年)、東京帝国大学医科大学を卒業。日露戦争に従軍し、陸軍一等軍医に任ぜられた。姫路県立病院副院長を務めた後、中馬病院を開業した。一般の診療に従事した。また尼崎市医師会長、琴浦育児院長、尼崎市訓盲院長などを務めた。 1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
北村 四海(きたむら しかい、1871年4月1日〈明治4年2… 北村 四海(きたむら しかい、1871年4月1日〈明治4年2月12日〉 - 1927年〈昭和2年〉11月14日)は、日本の彫刻家である。本名は直次郎。 現在の長野県長野市生まれ。幼年期より養父で宮彫師あった北村正信から彫刻を学んだ。後に上京し、1893年(明治26年)に島村俊明や小倉惣次郎、新海竹太郎、安田善次郎らと親交を持った。後に島村から木彫、小倉から塑造を学んだ。また同時期に解剖学についても学び始めた。 1900年(明治33年)より留学のため渡仏し、パリに在住し同地で裸体像等の大理石を用いた西洋式彫刻を学んだ。1902年(明治35年)に帰国し、その後は大理石を用いた彫刻を製作し始めた。これによって日本でブロンズ像に対抗して、初の大理石による彫刻像を導入した事で名を馳せた。
吉田 羊治郎(よしだ ようじろう、1871年3月31日〈明治… 吉田 羊治郎(よしだ ようじろう、1871年3月31日〈明治4年2月11日〉- 1939年〈昭和14年〉11月11日)は、明治後期から昭和前期の政治家、衆議院議員(1期)、貴族院議員、滋賀県会議員、滋賀県多額納税者。 滋賀県犬上郡高宮村(現・彦根市)生まれ。吉田与三平の二男。1890年(明治23年)滋賀県商業学校(現・滋賀県立八幡商業高等学校)卒。1911年(明治44年)8月26日、高宮村長になった。町制施行後もそのまま在職し、1915年(大正4年)8月27日に退任した。同年9月、犬上郡選出の滋賀県会議員になった。そのほか、高宮町会議員、同参事会員、所得税調査委員、帝国農会議員、近江水力電気、大正製棉各(株)取締役、滋賀県農工銀行頭取、近江商業銀行、江若鉄道(株)各監査役となった。
井上 羽城(いのうえ うじょう、1871年3月29日〈明治4… 井上 羽城(いのうえ うじょう、1871年3月29日〈明治4年2月9日〉 - 1947年〈昭和22年〉9月30日)は、福井県出身の歌人、新聞記者。本名は井上 一(いのうえ はじめ)。号は羽城のほか、経足、風露郎、紅蓮などを用いた。 1871年(明治4年)2月9日、福井県福井市に井上一庵・起怒の長男として生まれる。家業であった医者を継ぐために金沢高等医学専門学校に入学したが、文学への道を志望し、1892年(明治25年)春に上京し、落合直文の門下に入る。大八洲学校に入学し、落合直文と久米幹文から国文を学ぶ。在学中に金子元臣や品田太吉を助け、雑誌『歌学』や『分海』の編集に当たる。1893年(明治26年)、浅香社の創立に加わる。
亀井 陸良(かめい ろくろう、明治4年2月6日(1871年3… 亀井 陸良(かめい ろくろう、明治4年2月6日(1871年3月26日) - 1923年(大正12年)3月11日)は戦前日本の新聞記者。 古河鉱業に勤務中、義和団事件におけるロシア帝国軍の満洲駐留に危機感を覚え、北京を拠点に時事新報、順天時報(中国語版)で対露主戦論、対中強硬論を唱えたが、晩年はパリ講和会議で聞いた国際連盟構想に影響を受け、一転して中国権益の放棄を主張した。 明治4年(1871年)2月6日大分県下毛郡万田村に医者亀井玄理の次男として生まれた。中津に出て山田小太郎の私塾に学んだ後、1888年(明治21年)上京し、1893年(明治26年)慶應義塾大学部法律科に進学した。在学中は中年寮舎監を務めて学資を稼ぎ、1895年(明治28年)12月大学部法律科を卒業した。
朝永 三十郎(ともなが さんじゅうろう、明治4年2月5日〈1… 朝永 三十郎(ともなが さんじゅうろう、明治4年2月5日〈1871年3月25日〉 - 1951年〈昭和26年〉9月18日)は、日本の哲学者。京都大学名誉教授(西洋哲学)、文学博士、日本学士院会員。京都学派を代表する人物の一人。 兄は工学者で京都帝国大学工科大学教授の朝永正三、長男は物理学者で東京教育大学教授の朝永振一郎。 大村藩士・朝長甚次郎の三男として長崎県東彼杵郡川棚町石木郷で生まれる。私立大村中学校(旧制中学校、第一回入学者・現長崎県立大村高等学校)2年修了後に上京して共立学校、東京英語学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学で学ぶ。丁酉倫理会会員となり、哲学館事件においては意見書に名を連ねた。
米岡 規雄(よねおか のりお、明治4年2月5日(1871年3… 米岡 規雄(よねおか のりお、明治4年2月5日(1871年3月25日) - 没年不詳)は、日本の弁護士。旅順市長。 鳥取県鳥取市に谷口卯三郎の二男として生まれ、米岡勘十郎の養子となった。鳥取中学校を卒業し、1892年(明治25年)より鳥取県属、西伯郡書記となり、さらに鳥取県内務部、大蔵省専売局、大蔵省主税局に勤務した。1901年(明治34年)、和仏法律学校(現在の法政大学)を卒業。1903年(明治36年)、弁護士試験に合格した。1906年(明治39年)、関東州民政署属となり、旅順民政署財務課長を務めた。翌年に退官した後は、旅順で弁護士事務所を開き、さらに大連市にも事務所を設けた。旅順市会議員に選ばれ、1932年(昭和7年)には同市会議長に就任した。
本間 宇兵衛(ほんま うへえ、1871年3月24日〈明治4年… 本間 宇兵衛(ほんま うへえ、1871年3月24日〈明治4年2月4日〉 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。 新潟県佐渡郡畑野村(現佐渡市)生まれ。1890年4月、商業目的のため北海道札幌市南三条東一丁目に一時身を寄せ各地視察の途にあったが、8ケ月間にして遂げるに至る。 後兵役検査のため一時帰国し、1893年来道、日高国幌泉郡に移住し5ケ年間商業に奮闘する。1898年の秋に十勝は未開地で広漠たる平原地と知り、同年広尾港に転住し、日用雑貨商を営む。 日増人口増加に伴い、海産物仲買その他醤油味噌製造販売業を経営し、一歩を進め、事業を拡張し、販路を広め、優良品本位を以て、需要者に販売し、予期以上の成功を遂げる。
林 直助(はやし なおすけ、1871年3月24日 - 195… 林 直助(はやし なおすけ、1871年3月24日 - 1953年5月13日)は、明治時代から昭和時代の医学者、寄生虫学者、病理学者。ツツガムシ病研究の第一人者として知られる。 岐阜県恵那郡福岡村(現中津川市)に生まれた。1897年11月、第一高等学校医学部を卒業後、東京帝国大学医科大学衛生科選科に入学したが、翌年退学している。1900年に検疫官を命ぜられ、1901年2月に退職した。同月に京都帝国大学医科大学に入り藤浪鑑教授の助手となり、病理学、恙虫病について研究をおこなう。1906年、恙虫病調査委員を嘱託された。同年12月、愛知県立医学専門学校の教諭となり、病理学や病理解剖学などを担当した。1913年1月、論文「恙虫病病理解剖並に組織学的研究」により、医学博士の学位を授けられた。
中林 友信(なかばやし とものぶ、明治4年2月3日(1871… 中林 友信(なかばやし とものぶ、明治4年2月3日(1871年3月23日) - 昭和3年(1928年)2月18日)は、衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲民政党)。 大阪府泉北郡東陶器村岩室(現在の堺市南区)出身。関西法律学校(現在の関西大学)を経て、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。1895年(明治28年)より破産管財人を務める。 泉北郡会議員、大阪府会議員を経て、1902年(明治35年)の第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。当選回数は合計で5回を数えた。 大阪盲人学校を創設して校長を務め、また大阪府教育会副会長に就任した。 その他、東京自由通信社主幹、日刊近畿新聞社社長などを歴任した。
12代 工藤 八之助(くどう はちのすけ、1871年3月23… 12代 工藤 八之助(くどう はちのすけ、1871年3月23日(明治4年2月3日)- 1928年(昭和3年)8月21日)は、明治から昭和初期の地主、政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。幼名・松吉、旧名・郁之助。 出羽国村山郡米沢村(山形県西村山郡高松村を経て現寒河江市米沢)で、素封家・先代工藤八之助(五八)の長男として生まれる。格知学舎で国史、国文、漢学などを学んだ。1900年(明治33年)家督を相続し12代八之助を襲名した。 1900年以降、高松村会議員、村山郡会議員、同議長、村山郡農会長、高松村長、山形県会議員、同参事会員などを務めた。 実業界では、羽前製糸社長、庄内電気社長などを務めた。
福島 藤助(ふくしま とうすけ、1871年3月22日(明治4… 福島 藤助(ふくしま とうすけ、1871年3月22日(明治4年2月2日) - 1925年(大正14年)7月6日)は、青森県弘前市の醸造家、実業家。福島酒造会社(のちに福島醸造株式会社)、富名醸造株式会社、陸奥製糸株式会社、株式会社北日本農園、弘前印刷株式会社の創業者。 藤助が大工から酒造業に転業した1896年(明治29年)は、日清戦争後の好景気の波が青森県弘前市にも押し寄せているさなかであった。国の流れは軍備の強化へと向かい、同年9月に第8師団(日本軍)の弘前設置が正式に決定、翌年10月10日に師団司令部が設置された。廃藩によって沈滞していた弘前の経済界や市民は、これを大歓迎した。また、1894年(明治27年)12月1日には青森‐弘前間の鉄道が開通し、師団設置のための資材の輸送などに大いに貢献した。
深町 錬太郎(ふかまち れんたろう、1871年3月17日(明… 深町 錬太郎(ふかまち れんたろう、1871年3月17日(明治4年1月27日)- 1918年(大正7年)9月25日)は、明治後期から大正前期の逓信官僚、内務官僚。官選愛媛県知事。 加賀国金沢下高儀町で加賀藩士深町鉄五郎の長男として生まれる。第四高等学校を首席で卒業。1896年(明治29年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。逓信省に入省し通信局属となる。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格。 1897年(明治30年)逓信事務官となる。以後、通信事務官、鹿児島郵便電信局・大阪郵便電信局・札幌郵便電信局の各勤務を歴任。1899年(明治32年)内務省に転じ、愛知県事務官、茨城県事務官、栃木県事務官、新潟県事務官・内務部長を務めた。
有村 直吉(ありむら なおきち、1871年3月15日(明治4… 有村 直吉(ありむら なおきち、1871年3月15日(明治4年1月25日) - 1911年(明治44年)5月7日)は、現在の茨城県桜川市出身で入間川部屋に所属した力士。本名は小池 直吉(こいけ なおきち)。11代入間川。165cm、109kg。得意手は押し。最高位は東前頭3枚目。 1894年5月場所に初土俵。1903年1月場所に十両昇進、有村直吉に改名。幕末の藩士有村次左衛門に因んだとされるが関係は不明である。1905年5月場所に新入幕。1909年12月に師匠の入間川清藏が廃業した為、以降は二枚鑑札。1910年6月場所に引退。脳病と心臓病に罹っていたので酒を断っていたが、再婚の宴席上で嬉しさの余り酒を飲んでしまい、1911年5月7日に急逝した。
川上 瀧彌(かわかみ たきや、明治4年1月24日(1871年… 川上 瀧彌(かわかみ たきや、明治4年1月24日(1871年3月14日) - 大正4年(1915年)8月21日)は、日本の植物学者。 明治4年(1871年)1月24日、羽後国飽海郡松嶺(現・山形県酒田市)に庄内士族の二男として生まれた。7-8歳から付近の山を歩いて植物採集を始めた、9歳で腸チフスが原因で右足の膝が曲がったまま伸びない悪性リウマチとなった。手術により、どうにか歩行できるようになった。明治24年(1891年)に札幌農学校予科に入学、 明治33年(1900年)に本科を卒業した。この間、庄内、北海道、千島などの植物を研究し多数の学術論文を書いている。明治30年(1897年)には阿寒湖の尻駒別湾で発見した緑藻に「マリモ」の名をつけた。
楠本 長三郎(くすもと ちょうざぶろう、1871年3月10日… 楠本 長三郎(くすもと ちょうざぶろう、1871年3月10日(明治4年1月20日) - 1946年(昭和21年)12月6日)は、日本の内科学者。大阪医科大学を昇格させ大阪帝国大学を創設した。その後、大阪帝国大学第二代総長となり、微生物病研究所、産業科学研究所等を設置し、大阪帝国大学拡大に貢献した。位階は正三位。勲等は勲一等。 肥前国大村藩の医家楠本家の四代元正の二男として1871年(明治4年)1月20日、長崎県西彼杵郡七釜村(現在の西海市西海町中浦)に生まれる。幼少の頃から父を失い、3人の妹と共に祖父と母によって養育された。祖父が1882年(明治15年)10月に亡くなってからは、母が長三郎ら4人を女手ひとりで苦労しながら養育した。
藤山 常一(ふじやま つねいち、1871年3月10日(明治4… 藤山 常一(ふじやま つねいち、1871年3月10日(明治4年1月20日) - 1936年1月4日)は、日本の技術者。日本におけるカーバイド製造の祖とされる人物である。 佐賀県出身。藤山種廣の長男として生まれる。弟には機械工学者の田中不二がいる。 1898年に東京帝国大学工科大学電気学科を卒業した。1902年に仙台で野口遵とともにカーバイドの製造に着手した。1908年に欧州から戻り、渡欧中に研究完成した石灰窒素の製造法の特許を取得し、日本窒素肥料を設立し取締役に就任した。1912年に北海道に王子製紙苫小牧工場の隣接地に北海カーバイド工場を設立し、王子製紙の余剰電力でカーバイド、石灰窒素等を生産した。
松井 郡治(まつい ぐんじ、明治4年1月20日(1871年3… 松井 郡治(まつい ぐんじ、明治4年1月20日(1871年3月10日) - 昭和18年(1943年)10月21日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、弁護士。 新潟県中頸城郡津有村(現在の上越市)出身。東京専門学校(現在の早稲田大学)法律科卒業後、司法官試補、検事代理を経て、新潟・旭川・長岡の各区裁判所、新潟地方裁判所判事を歴任した。1902年(明治35年)に判事を退職し、弁護士を開業。新潟市弁護士会会長、新潟新聞監査役も務めた。 新潟市会議員・新潟県会議員を経て、1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に新潟1区(小選挙区)から憲政会で出馬し、当選。以後、4回の当選回数を重ねた。
川崎 卓吉(かわさき たくきち、1871年3月8日〈明治4年… 川崎 卓吉(かわさき たくきち、1871年3月8日〈明治4年1月18日〉- 1936年〈昭和11年〉3月27日)は、日本の官僚、政治家。広島県賀茂郡広村(現:呉市広町)生まれ。 医師の二男として生まれる。旧制広島中学校(現:広島県立広島国泰寺高等学校)に入学するも4年で中退し、千葉中学校(現:千葉県立千葉高等学校)に編入。旧制第一高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。自治制度研究のため大学院に進み、修了後に内務省入りした。 1916年(大正5年)、福島県知事。1919年(大正8年)、台湾総督府内務局長、さらに殖産局長となる。1922年(大正11年)、名古屋市長。
三浦 数平(みうら かずへい、明治4年1月16日(1871年… 三浦 数平(みうら かずへい、明治4年1月16日(1871年3月6日) - 昭和4年(1929年)9月7日)は、日本の政治家。大分市長、衆議院議員(立憲政友会)。大分県士族。旧姓桜井。 子に国家主義者の三浦義一がいる。 現在の大分県大分市出身。桜井愛造の二男。 明治28年(1895年)、明治法律学校卒業。朝日新聞記者から判検事試験に合格して司法官試補となり、次いで大分町で弁護士、特許弁理士の事務所を開業。 先代貞一の養子となり明治37年(1904年)家督を相続す。大分町会議員、同市会議員、同第3代議長、県会議員を務め、1917年8月9日、大分市長に就任した。 郷里から衆議院議員当選、昭和3年(1928年)再選、立憲政友会に属した。
横手 千代之助(よこて ちよのすけ、明治4年1月15日(18… 横手 千代之助(よこて ちよのすけ、明治4年1月15日(1871年3月5日) - 昭和16年(1941年)11月14日)は日本の衛生学者。東京帝国大学医学部教授。 1894年東京大学医科大学卒業後、直ちに衛生学助手、1898年に助教授となり、1908年に衛生学二代教授となった。なお初代教授は緒方正規である。東京市衛生試験所技師、伝染病研究所技師などを兼任。1931年に退官。その後、上海自然科学研究所所長となった。 学校や工場などの環境衛生の向上を提唱した。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
風間 繁松(かざま しげまつ、明治4年1月13日(1871年… 風間 繁松(かざま しげまつ、明治4年1月13日(1871年3月3日) - 1955年9月14日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は陸軍軍曹、酒田風間氏分家・東美家第七代当主。号は触水。
高山 樗牛(たかやま ちょぎゅう、1871年2月28日〈明治… 高山 樗牛(たかやま ちょぎゅう、1871年2月28日〈明治4年1月10日〉- 1902年〈明治35年〉12月24日)は明治時代の日本の文芸評論家、思想家。東京大学講師。文学博士。明治30年代の言論を先導した。本名は林次郎(りんじろう)。 1871年2月28日(明治4年1月10日)、羽前国鶴岡(現山形県鶴岡市)に生まれた。父は庄内藩士斎藤親信。翌1872年(明治5年)、伯父・高山久平の養子になった。養父は山形県、福島県、警視庁などに勤務した。 福島中学中退、東京英語学校を経て仙台の第二高等学校に入学。井上準之助が同級の友人であった。樗牛の号は「荘子」に因むもので高校時代から用いていたといい、同人誌や山形日報などに評論、紀行などを発表。
島村 抱月(しまむら ほうげつ、1871年2月28日〈明治4… 島村 抱月(しまむら ほうげつ、1871年2月28日〈明治4年1月10日〉- 1918年〈大正7年〉11月5日)は、日本の文芸評論家、演出家、劇作家、小説家、詩人。新劇運動の先駆けの一人として知られる。旧姓は佐々山、本名は瀧太郎。 島根県那賀郡小国村(現・浜田市)に佐々山一平の長男として生まれる。実家は貧しく、小学校卒業後、苦学して浜田町裁判所書記となる。同裁判所検事・島村文耕から学資の援助を受け、上京。1891年(明治24年)に文耕の養子となる(後に文耕の姪と結婚)。 増田藤之助が塾主を務める日本英学院を経て、東京専門学校(現・早稲田大学)文学科で坪内逍遙、大西祝から文学、美学を学び、1894年(明治27年)に卒業。
深川 忠次(ふかがわ ちゅうじ、1871年2月21日(明治4… 深川 忠次(ふかがわ ちゅうじ、1871年2月21日(明治4年1月3日) - 1934年(昭和9年)2月23日)は、日本の実業家、政治家。深川製磁創業者、元有田町長。有田焼の輸出を進め、パリ万国博覧会金賞金牌やセントルイス万国博覧会一等賞金牌を受賞。 当時の肥前国有田(現・佐賀県有田町)出身。8代深川栄左衛門の二男として生まれる。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。1887年に独立して陶磁器製造販売業を営む。1894年に深川製磁を設立。ヨーロッパ人の陶磁器愛好家の好みに合わせてアレンジした大花瓶を、1900年のパリ万国博覧会に出展し金賞受賞。同年よりボールトン・アンド・ワットを代理店としてヨーロッパでの販売展開を進めた。
範多 龍太郎(はんた りゅうたろう、1871年2月20日(明… 範多 龍太郎(はんた りゅうたろう、1871年2月20日(明治4年1月2日) - 1936年(昭和11年)11月10日)は、日本の商人(範多商会、雑貨貿易商)、実業家、造船技術者。日本の造船の近代化を開拓した。 1871年、イギリス人実業家E・H・ハンターと平野愛子の間に生まれ、平野龍太郎として日本の戸籍に入る。龍太郎は神戸市で育ち、神戸一中、神戸商業講習所を卒業後、ドイツのオーデルキルヘン中学に留学し、さらにスコットランドのグラスゴー大学で造船工学と土木工学を修めて、1893年(明治26年)に帰国した。その直後、係累の途絶えていた範多才助なる戸籍を紹介され、同年12月31日付けで範多姓を継承して、範多龍太郎と改名した。
藤野 正年(ふじの まさとし、1871年2月20日(明治4年… 藤野 正年(ふじの まさとし、1871年2月20日(明治4年1月2日) - 1943年(昭和18年)12月13日)は日本の政治家、実業家。衆議院議員、大阪米穀取引所理事。 1871年(明治4年1月)、愛媛県松山市で生まれる。東京法学校(現・法政大学)で法律を専修する。1907年(明治40年)、大阪米穀取引所理事に就任する。その後、浪花火災保険と大日本冷蔵会社などの創設にも力を尽くした。1915年(大正4年)には、鬼度川水力電気取締役や、日本製麻専務にも就任した。1917年(大正6年)に第13回衆議院議員総選挙に愛媛県郡部選挙区から立憲政友会所属で出馬し、当選する。1920年(大正9年)の総選挙は実業多忙を理由として、選挙戦の最中に立候補を取り下げた。
白川 資長(しらかわ すけなが、1871年2月17日〈明治3… 白川 資長(しらかわ すけなが、1871年2月17日〈明治3年12月28日〉 - 1959年〈昭和34年〉6月9日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 神祇大副・白川資訓の長男として生まれる。1906年(明治39年)12月24日、父の死去に伴い子爵を襲爵した。1905年(明治38年)、東京外国語学校仏語科を卒業し、さらに東京帝国大学文科大学を修了した。 1914年(大正3年)以降、名誉掌典、神社調査会委員、神社制度調査会委員などを務めた。また、日本精神研修会長となり、息吹長世の行法を指導した。 1918年(大正7年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し1939年(昭和14年)7月9月まで在任した。
岩井 昇山(いわい しょうざん、明治3年12月26日(187… 岩井 昇山(いわい しょうざん、明治3年12月26日(1871年2月15日) - 昭和28年(1953年)1月11日)は、明治から昭和期の日本画家。 旧暦明治3年12月26日(1871年2月15日)、太政官府の役人・岩井秀一の次男として、東京麹町に生まれる。本名は小五郎。成童のころ北派(文晁系)の画家・吉澤雪庵に学び、次いで容斎派の松本楓湖の安雅堂画塾の門人となる(楓湖の浅草栄久町時代、明治10〜25年の弟子)。晩年の文献には、渡辺省亭に師事したと記載されているものもある。日本画会、明治画会、帝国絵画協会、巽画会などに所属するものの、画家としての活動記録はほとんど見られず、展覧会出品の記録も明治35年(1902年)の第12回「日本絵画協会・日本美術院連合絵画共進会」、大正2年(1913年)の「表装競技会」など極めてわずかで、人嫌い、変人、果ては楓湖門破門説などに結びつけられ、“幻の画家”と称される由縁となっている。
溝淵 進馬(みぞぶち しんま、1871年2月14日(明治3年… 溝淵 進馬(みぞぶち しんま、1871年2月14日(明治3年12月25日) - 1935年(昭和10年)9月11日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の教育者。 土佐国(高知県)出身。第三高等中学校を経て、1895年(明治28年)に帝国大学文科大学哲学科を卒業。高知県尋常中学校教諭、第二高等学校教授、千葉県尋常中学校校長、東京高等師範学校教授、東北帝国大学農科大学予科教授、第四高等学校校長を歴任し、1921年(大正10年)に第五高等学校校長に就任した。さらに1931年(昭和6年)には第三高等学校校長に転じた。
三好 愛吉(みよし あいきち、1871年2月12日(明治3年… 三好 愛吉(みよし あいきち、1871年2月12日(明治3年12月23日) - 1919年(大正8年)2月11日)は、日本の教育者、元第二高等学校校長、元皇子傅育官長。 1871年2月12日(明治3年12月23日)に、村上(現新潟県村上市)に、村上藩士・三好義雄の次男として生まれる。村上中学に学び、1891年(明治24年)第一高等学校卒業、1895年(明治28年)東京帝国大学(現東京大学)哲学科を卒業する。 その後、京都真宗大学教授、新発田尋常中学校長を務め、また長野尋常中学(現長野県長野高等学校)を創設、初代校長となる。暖房費を節約して「神聖なるピアノ」を購入などのエピソードを残す。1900年(明治33年)、仙台の第二高等学校(現東北大学教養課程の前身)教授、のちに第5代校長となり、同校の「雄大剛健」の校風を樹立した。
高野 金重(たかの かねしげ、1871年2月11日(明治3年… 高野 金重(たかの かねしげ、1871年2月11日(明治3年12月22日) - 1932年(昭和7年)4月4日)は、日本の政治家・衆議院議員(中正会)、弁護士。族籍は愛媛県士族。 伊予松山藩士高野金光の長男として松山湊町に生まれる。広島英語学校に英学を修め、芸備日日新聞や大阪毎日新聞に執筆した。1894年(明治27年)、上京して東京法学院(現在の中央大学)に入学して1896年(明治29年)に卒業した。1898年(明治31年)、弁護士試験に合格し、翌年に東京で事務所を開業した。一時期花井卓蔵弁護士事務所で実務を練習し刑事事件に精通したが、高野の得意とする所は民事・商事に関する事件であった。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
小野塚 喜平次(おのづか きへいじ、1871年2月10日〈明… 小野塚 喜平次(おのづか きへいじ、1871年2月10日〈明治3年12月21日〉 - 1944年〈昭和19年〉11月27日)は、明治後期から昭和前期の政治学者。日本初の政治学者の一人とされる。東京帝国大学総長。 1871年、柏崎県古志郡長岡城下上田町(現:新潟県長岡市上田町)に生まれる。級友の身代わりに校長排斥事件の責任をとって長岡中学校を中途退学後に上京し、共立学校から一高を経て、1895年(明治28年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し大学院に進んだ。 1897年(明治30年)文部省から在外研究を命ぜられ、ヨーロッパに留学。1901年(明治34年)帰国後に日本初となる政治学講座の教授となる。
志賀 潔(しが きよし、1871年2月7日(明治3年12月1… 志賀 潔(しが きよし、1871年2月7日(明治3年12月18日) - 1957年(昭和32年)1月25日)は、日本の医学者・細菌学者。赤痢菌の発見者として知られる。朝鮮総督府医院長・京城医学専門学校校長・京城帝国大学総長などを歴任。 赤痢菌の発見とともに化学療法を研究し、明治時代の日本の近代化の中で世界に通用する科学研究の成果を成し遂げた先駆者と評される。赤痢菌の学名(属名)は志賀に因む Shigella であるが、これは主要な病原細菌の学名に日本人の名前が冠されている殆ど唯一の例となった。数々の名誉を得ながらも清貧を貫き、質素な暮らしに徹した。 1871年(明治3年)、仙台藩領・陸前国宮城郡仙台(現在の仙台市)で、佐藤信の三男として生まれた。
戸川 秋骨 (とがわ しゅうこつ、1871年2月7日(明治3… 戸川 秋骨 (とがわ しゅうこつ、1871年2月7日(明治3年12月18日) - 1939年(昭和14年)7月9日)は、日本の評論家、英文学者、教育者、翻訳家、随筆家。別号は秋骨のほか、棲月・早川鴎村、早川漁郎・蒼梧桐・長帆・かげろふなど。 明治3年、等照とジュンの長男として、肥後国玉名郡岩崎村(現:熊本県玉名市)に生まれた。生まれ年から、明三と名付けられた。等照は熊本藩の支藩高瀬藩の藩士で、家老の原家から養子入りしていた。1877年、一族と上京し、東京師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)に入り、巴町の鞆絵小学校(現:港区立御成門小学校)に転じた。 世を捨てた父よりは、その実弟に躾けられ、1883年(12歳)、大阪へ伴われて大阪中学校(旧制三高の前身)に学ぶかたわら、漢訳の聖書や英語を習った。
杉浦 貞二郎(すぎうら さだじろう、明治3年12月18日(1… 杉浦 貞二郎(すぎうら さだじろう、明治3年12月18日(1871年2月7日) - 昭和22年(1947年)4月24日)は、日本の哲学者、教育者。立教大学元学長、立教大学名誉教授、陸軍大学校教授。 若狭国小浜(現福井県小浜市)に生まれる。東京の真光教会牧師杉浦義道の弟である。1887年(明治20年)に兄・義道の影響を受けて、C・M・ウィリアムズより洗礼を受ける。立教大学校(現・立教大学)を経て立教学校(第2次)で学び、同級には吉田栄右がいた。立教大学校で学んだ岩佐琢蔵によると、当時の学生たちは勉学にとても熱心で、貞二郎はその頃の日本の哲学書は全て読破したと誇っていたという。 1892年(明治25年)に立教学校(第2次)を卒業した後、留学のため渡米する。
柳沢 保恵(やなぎさわ やすとし、1871年2月5日〈明治3… 柳沢 保恵(やなぎさわ やすとし、1871年2月5日〈明治3年12月16日〉 - 1936年〈昭和11年〉5月25日)は、日本の統計学者、政治家、実業家、華族(伯爵)。第一生命保険の初代社長。 柳沢氏傍系の越後柳沢家当主で黒川藩藩主の柳沢光昭の次男として、越後国北蒲原郡黒川村(現・新潟県胎内市)に生まれる。幼名は利丸、前名は光敏。保恵の出生前に父の家督は養子で大和郡山藩藩主の息子である柳沢光邦(高家旗本武田信之の六男)がすでに継いでいた。 柳沢一族のなかの優秀な男子ということで本家の養子に選ばれ、明治19年(1886年)、旧大和郡山藩主の柳沢保申の次女秀子と婚約し養子となった(光昭も郡山藩主家の出身であり、保申は保恵の従兄に当たる)。
服部 米次郎(はっとり よねじろう、明治3年12月16日(1… 服部 米次郎(はっとり よねじろう、明治3年12月16日(1871年2月5日) – 昭和39年(1964年)7月1日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。大日本帝国陸軍軍人。 伊勢国一志郡高茶屋村(現在の三重県津市)出身。1894年(明治27年)7月27日に陸軍士官学校(5期)を卒業し、同年9月18日、砲兵少尉に任官。1898年(明治31年)には陸軍砲工学校普通科・高等科を卒業した。砲兵少佐に昇進し、その間に重砲兵第1連隊大隊長、永興湾要塞司令官を歴任した。1910年(明治43年)、憲兵少佐に転じ、統監府警務部長、朝鮮総督府警務部長を歴任した。1918年(大正7年)7月24日に待命となり、1919年(大正8年)、憲兵大佐で予備役に編入された。
初代 村田 正雄(しょだい むらた まさお、天保暦 明治4年… 初代 村田 正雄(しょだい むらた まさお、天保暦 明治4年2月4日 / グレゴリオ暦 1871年3月25日 - 1925年6月7日)は、日本の俳優である。本名は村田 又彦(むらた またひこ)、俳号は村田 芳泉(むらた ほうせん)。 グレゴリオ暦 1871年3月25日(天保暦 明治4年2月4日)、東京府芝(現在の東京都港区)に「村田又彦」として生まれる。 横浜貿易商組合立横浜商業学校(現在の横浜市立大学商学部)を卒業する。1895年(明治28年)ごろの24歳のとき、横浜・港座で『色と慾二股桜』に出演して初舞台を踏む。舞踊については森間藤蔵を師とし、義太夫については、鶴沢友次郎に学んでいる。 1901年(明治34年)、高堂国典が村田の門下となる。
五百木 良三(いおき りょうぞう、明治3年12月14日(18… 五百木 良三(いおき りょうぞう、明治3年12月14日(1871年2月3日) - 昭和12年(1937年)6月14日)は、日本の国粋主義者。俳号は飄亭。 伊予国温泉郡小坂村新場所(現・愛媛県松山市日の出町)の生まれ。明治18年(1885年)松山県立医学校に入学した。明治20年(1887年)大阪に出て、今橋の町医者のもとに寄寓し、医務手伝いのかたわら勉学にはげみ、19歳で医術開業の免許を得たが、その志は「病を癒さんより国を癒すの医」たらんとするものであった。 明治22年(1889年)上京して、旧藩主久松家の設立になる東京学生寮でドイツ語の研究に専心し、正岡子規と文学を論じ、子規から俳句の指導をうけた。
佐伯 勝太郎(さえき かつたろう、1871年2月3日(明治3… 佐伯 勝太郎(さえき かつたろう、1871年2月3日(明治3年12月14日) - 1934年(昭和9年)1月5日)は、明治から昭和期の日本の化学者、実業家。特種製紙社長、東京帝国大学講師。工学博士。 1895年東京帝国大学工科大学卒業。大蔵省印刷局の印刷技師となり、のちに印刷局抄紙部長、農商務省 技師を兼任。1906年に欧米に派遣され、帰国後、東京帝国大学講師を兼ねる。1921年工業化学会会長。1926年に特種製紙を設立。官・民・学の3方面で日本の紙パルプ産業に貢献し業績を残した。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。