嶋崎 重和(しまざき しげかず、1908年(明治41年)9月… 嶋崎 重和(しまざき しげかず、1908年(明治41年)9月9日 - 1945年(昭和20年)1月9日)は、日本の海軍軍人。空母「瑞鶴」飛行隊長として真珠湾攻撃で第二次攻撃隊長を務めた。戦死による二階級特進で最終階級は海軍少将。 本籍は大分県。鉄道局技師・澤重元の三男として奈良市で生れ、嶋崎家の養子となる。上野中学校(現・三重県立上野高等学校)、愛知県岡崎中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)を経て、1929年(昭和4年)3月、海軍兵学校(第57期)を卒業。1930年(昭和5年)12月、海軍少尉任官。高橋赫一の薦めにより、高橋の妻の妹と結婚する。 1932年(昭和7年)12月から翌年7月まで、第23期飛行学生として訓練を受けた。
十朱 久雄(とあけ ひさお、1908年9月8日 - 1985… 十朱 久雄(とあけ ひさお、1908年9月8日 - 1985年12月18日)は、日本の俳優。本名は小倉 久雄。東京府東京市日本橋区小網町(現:東京都中央区日本橋小網町)出身。 軽妙洒脱な演技で多くの映画に出演し、個性派の脇役俳優として活躍した。戦前は長岡輝子らのテアトル・コメディに参加し舞台で活動、戦後から映画に出演し、作品数は250本を超える。 幼いころから芸の世界に親しみ(⇒人物)、暁星小学校から京華中学校を経て法政大学経済学部に入学し、在学中の1928年に高見順主宰の劇団制作座に参加。 1930年、大学の先輩だった三島雅夫の紹介で知り合った金杉惇郎や、フランスから帰国したばかりの長岡輝子らが結成したテアトル・コメディの創立に参加し、『ジャン・ド・ラ・リュンヌ』の主役で初舞台を踏む。
夏目 忠雄(なつめ ただお、1908年(明治41年)9月8日… 夏目 忠雄(なつめ ただお、1908年(明治41年)9月8日 - 1997年(平成9年)9月30日)は、参議院議員(2期)。長野県長野市長(3期)。長野県議会議員。 長野市生まれ。松本高等学校文科甲類、1932年東京帝国大学法学部卒業。1955年長野県議会議員当選、2期目の途中で辞職し、1962年長野市長選挙に当選、1974年第10回参議院議員通常選挙長野県選挙区に自由民主党から出馬し、初当選。1979年第2次大平内閣科学技術政務次官、1980年第12回参議院議員通常選挙で再選した。 長野市長在任中は篠ノ井市等との2市6町村合併による「大長野市」の実現に尽力した。
小林 稔(こばやし みのる、1908年(明治41年)9月8日… 小林 稔(こばやし みのる、1908年(明治41年)9月8日 - 2001年(平成13年)1月6日)は、日本の理論物理学者。京都大学名誉教授。 1933年京都大学を卒業後、理学部副手を経て、翌年理化学研究所に入所する。仁科研究室で坂田昌一博士に教えを受ける。同じく仁科研に在籍した日本で最初のノーベル物理学賞受賞者、湯川秀樹博士の中間子論の確立に協力する。 1946年、日本の研究活動を国外に知らせるため、湯川秀樹博士とともに欧文による学術誌『Progress of Theoretical Physics』(理論物理学の前進)の発行を開始し、初代編集長を務めた。 1949年(昭和24年)11月3日深夜、当時京都大学の総長だった鳥養利三郎は、新聞社からの電話で湯川秀樹のノーベル賞受賞の報に接し、すぐに大学として記念事業を行うことを思い立った。
坂本 徳松(さかもと とくまつ、1908年9月8日 - 19… 坂本 徳松(さかもと とくまつ、1908年9月8日 - 1988年8月13日)は、日本の国際政治評論家。 高知県中村市出身。東京帝国大学文学部社会学科卒業後、南満州鉄道株式会社(満鉄)東亜経済調査局に入る。1954年、日本ベトナム友好協会を創立。1955年、ニューデリーで開かれたアジア諸国民会議に出席、のちアジア・アフリカ人民連帯日本委員会、日本カンボジア友好協会理事長など。1956年より愛知大学政経学部教授。社団法人中国研究所評議員。1974年、北方領土返還促進運動を組織。
津田 四郎(つだ しろう、1908年9月8日 - 1965年… 津田 四郎(つだ しろう、1908年9月8日 - 1965年2月23日)は、兵庫県氷上郡柏原町(現:丹波市)出身のプロ野球選手(捕手・内野手・外野手)、プロ野球審判員。 旧制関西中学校卒業後、中国大陸へ渡って満洲電信電話社員として勤務しながらノンプロ野球チームである大連実業團に入ってプレーする。大連実業のメンバーとして第2回全日本都市対抗野球大会(1928年)に出場している。その後、奉天日満実業團へ移ってプレーした。 1934年、日本へ戻ると大日本東京野球倶楽部(現在の巨人軍)結成に加わり、翌年の第一次アメリカ合衆国遠征に参加した。 1936年、第二次アメリカ合衆国遠征に際して田部武雄の後を受けて第3代巨人軍主将に任命される。
吉村 順三(よしむら じゅんぞう、1908年9月7日 - 1… 吉村 順三(よしむら じゅんぞう、1908年9月7日 - 1997年4月11日)は、日本の建築家。東京藝術大学名誉教授。 東京市本所区緑町の呉服商の家に生まれる。東京府立三中卒業。東京美術学校(現東京藝術大学)で建築を学び、実測と観察を通して日本の古建築に触れた。1931年に卒業後、アントニン・レーモンドに師事。モダニズム建築を体得するとともに、レーモンドに日本建築を伝える。1941年、吉村順三設計事務所を開設。1945年、東京美術学校助教授就任。1962年、東京藝術大学教授に就任。1970年、東京藝術大学名誉教授。1990年、日本芸術院会員。 皇居新宮殿の建設に関わった。日本の伝統とモダニズムの融合を図った。
小崎 甲子(こさき かつこ、1908年9月6日 - 1997… 小崎 甲子(こさき かつこ、1908年9月6日 - 1997年2月17日)は、愛知県名古屋市出身の日本の柔道家。講道館五段。1932年(昭和7年)に大日本武徳会から、1933年(昭和8年)に講道館からそれぞれ初段を認められ、明治以降の近代柔道において女性として初めて黒帯を許された人物である。 小崎甲子は1908年(明治41年)、名古屋市中心部に位置する伊勢町(現在の中区丸の内)にて、美術商「清源堂」店主小崎天大(たかお)の次女として誕生した。幼少期から活発なお転婆娘として鳴らし、金城女学校在学中はテニス・ソフトボール・陸上競技と様々なスポーツに打ち込んだ。1925年(大正14年)に女学校を卒業後は実家の美術商にて家事手伝いの身となったが、家事や稽古事を習いつつ縁談を待つ、当時の子女の当たり前の人生を自分には合わないものと考えていた。
有坂 秀世(ありさか ひでよ、1908年(明治41年)9月5… 有坂 秀世(ありさか ひでよ、1908年(明治41年)9月5日 - 1952年(昭和27年)3月13日)は、日本の言語学者、日本語学者。日本語の音韻史や音韻論に関して業績を遺した。上代特殊仮名遣に関する有坂の法則で知られる。 大学卒業後、矢継ぎ早に論文を出し、当時の学界の第一線に立った。しかし、その活躍は卒業後のわずか10年間のみであり、その10年もほとんどの時間を病院・診療所で過ごしている。33歳以降は論文の数は激減し、闘病の末43歳で没した。橋本進吉から、東京帝大の国語学主任教授の後任と白羽の矢を立てられながら、辞退したのも病身の故であった。 有坂が昭和5年12月に東京帝国大学へ提出した卒業論文は、言語学科主任教授の藤岡勝二教授ひとりが目にしたと思われ、現存はしないようである。
平田 敬一郎(ひらた けいいちろう、1908年9月5日 - … 平田 敬一郎(ひらた けいいちろう、1908年9月5日 - 1992年5月22日)は、日本の大蔵官僚。大蔵事務次官、日本開発銀行総裁。 長崎県南高来郡瑞穂村(のち瑞穂町、現雲仙市)出身。実家には古部の佐嘉領境界石がある。島原中学校(長崎県立島原高等学校)、第五高等学校、東京帝国大学法学部法律学科(英法科)を経て、大蔵省入省(配属先は東京税務監督局兼主税局)。1932年(昭和7年)12月 和歌山税務署長。1934年(昭和9年)6月 淀川税務署長。1935年(昭和10年)6月 北税務署長。大臣官房戦後緊急対策企画室主幹、終戦連絡部主幹、物価部第一課長、物価庁第一部長、主税局長などを歴任。税のエキスパートとして知られた。
二代目 津村重舎(つむら じゅうしゃ、1908年(明治41年… 二代目 津村重舎(つむら じゅうしゃ、1908年(明治41年)9月5日 - 1997年(平成9年)7月12日)は、日本の実業家。東京都出身。株式会社津村順天堂(現 株式会社ツムラ)の二代目社長。漢方の復権に尽力した。幼名は基太郎。 1874年(明治7年)発布の「医制」以後、日本の医療は西洋医学中心となり漢方医学・東洋医学は凋落していたが、1957年(昭和32年)10月、二代目重舎は自社ビル(中将湯ビル)の一部を漢方診療所(現金匱会診療所)とし、大塚敬節を中心として小出弥生、藤平健、伊藤清夫、相見三郎、山田光胤、大塚恭男ら著名な漢方医を迎え入れる。翌年その診療所は医療法人としての認可を受け、二代目重舎が理事長となるが、日本で漢方診療施設が法人認可されるのは初であった。
毛利 元靖(もうり もとやす、1908年〈明治41年〉9月5… 毛利 元靖(もうり もとやす、1908年〈明治41年〉9月5日 - 1961年〈昭和36年〉9月18日)は、徳山毛利家第12代当主。 1908年(明治41年)9月5日、山口県都濃郡徳山町において、旧徳山藩毛利家第11代当主・毛利元秀の長男として生まれる。 東北大学経済科卒業後、南満洲鉄道に入社し、本社総裁室管理課長代理、新京支社殖産課長、総務局管理課長などを務める。 1942年(昭和17年)5月に父・元秀が死去し、同年7月に家督を継承した。 1945年(昭和20年)10月に妻の毛利行子が死去。 1948年(昭和23年)3月に山口県公安委員となり、5月からは旅館「岐山」を経営し、1954年(昭和29年)12月に徳山商工会議所会頭に選ばれた。
四ツ柳 高茂(よつやなぎ こうも/たかしげ)、1908年 <… 四ツ柳 高茂(よつやなぎ こうも/たかしげ)、1908年 <明治41年> 9月4日 - 1996年 <平成8年> 3月20日)は、日本の経営者。北海道電力社長を務めた。位階は従三位。北海道函館市出身。長男は化学工学者で東北大学名誉教授の四ツ柳隆夫。 函館の資産家、四ツ柳亮策・イシの長男として生まれる。 函館市住吉小学校(現・青柳小学校)、旧制函館中学校、旧制水戸高等学校を経て、1932年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業。東京での生命保険会社勤務の後、肺結核に罹り故郷の函館に戻った後、1936年に帝国電力に入社、翌年には米屋を営んでいたヤエと結婚、5人の男児をもうける。1944年には乙種合格で徴兵され旭川通信隊を経て千島方面に配属が予定されるも五十音順で後の方になっていたことから配属漏れとなった。
稲葉 幸夫(いなば ゆきお、1908年9月4日 - 2001… 稲葉 幸夫(いなば ゆきお、1908年9月4日 - 2001年10月7日)は、日本の騎手(東京競馬倶楽部、日本競馬会所属)、調教師(日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会所属)。騎手としてロツクパークによる第1回横浜農林省賞典四歳呼馬(現・皐月賞)優勝など通算174勝。また調教師としては騎手兼業であった戦前期から顕著な成績を残し、八大競走13勝を含む通算1451勝を挙げた。特に牝馬の管理に長けたため「牝馬作りの名人」、「牝馬の稲葉」と称され、史上初の牝馬三冠トレーナーともなっている。1981年、黄綬褒章を受章。2004年、調教師顕彰者に選出され、中央競馬の殿堂入りした。
帯谷 竜一(おびたに りゅういち、古い資料では「帶谷龍一」。… 帯谷 竜一(おびたに りゅういち、古い資料では「帶谷龍一」。1908年9月4日 -没年不明 )は、日本の男性フィギュアスケート選手。1932年レークプラシッドオリンピック男子シングル日本代表。慶應義塾大学経済学部卒業。兵庫県出身。 オリンピック出場のため1932年の全日本選手権には出場していない。
石田 アヤ(いしだ アヤ、1908年9月4日 - 1988年… 石田 アヤ(いしだ アヤ、1908年9月4日 - 1988年2月18日)は、昭和期の教育者。文化学院の創立者である西村伊作の長女。英文学を専攻し、1931年に母校文化学院の教授となり、1963年から父の後を継ぎ、校長になる。 1908年(明治41年)、父・西村伊作、母・光恵の長女として和歌山県新宮市に生まれる。9歳の頃に父が英訳本から訳し聞かせた『ピノキオ』を文章化、絵を描いて1920年(大正9年)に『ピノチヨ』として出版される。1921年(大正10年)に父がアヤのために設立し校長を務める文化学院に入学。やがて文化学院を卒業すると、追加創設された本科(大学部)に進学する。1928年(昭和3年)文学科を終えると卒業式をまたず渡米し、アメリカのマウントホリヨーク大学に入学する。
鈴木 充(すずき たかし、1908年9月4日 - 2000年… 鈴木 充(すずき たかし、1908年9月4日 - 2000年6月30日)は、日本の実業家。中日新聞社副社長と東海テレビ放送社長を務めた。 愛知県渥美郡赤羽根町出身。1928年にハルピン学院を卒業し、1933年に中日新聞社の前身である名古屋新聞社に入社した。 編集局長、取締役、常務、専務を経て、1968年に中日新聞社副社長に就任した。1971年に東海テレビ放送社長にも就任し、1987年6月から会長を務め、1992年6月から相談役を務めた。東海テレビでの在職時にメキシコ、中国などの放送局と姉妹提携し、国際化に力を入れた。 1974年に藍綬褒章を受章し、1980年に勲二等旭日重光章を受章した。1957年にボーン国際記者賞を受賞した。
井上 良夫(いのうえ よしお、1908年9月3日 - 194… 井上 良夫(いのうえ よしお、1908年9月3日 - 1945年4月25日)は、日本の探偵小説評論家、翻訳家。1930年代のいわゆる「本格ミステリの黄金時代」の海外作品を、日本に多数紹介した。戦前における最もすぐれた探偵小説評論家といわれる。 1908年(明治41年)9月3日、福岡県若松市(現・北九州市)に生まれる。 1926年(大正15年)、愛知県立熱田中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)卒業。名古屋高等商業学校(現・名古屋大学経済学部)に進学し、1930年(昭和5年)に卒業。バス会社に入社するが、名古屋市営バスと併合されて解散になったため、1937年(昭和12年)から名古屋市立白鳥尋常高等小学校(現・名古屋市立白鳥小学校)教員、1941年(昭和16年)から名古屋女子商業学校(現・名古屋経済大学市邨中学校・高等学校)教師(英語担当)。
荻田 保(おぎた たもつ、1908年 <明治41年> 9月2… 荻田 保(おぎた たもつ、1908年 <明治41年> 9月2日 - 2003年 <平成15年> 4月9日)は、日本の内務官僚。位階は従三位。 三重県生まれ。東京帝国大学法学部法律学科卒業。東京帝大在学中の1930年10月、高等試験行政科試験に合格。1931年4月に内務省に入省。東京府内務部地方課属。1948年1月7日に地方財政委員会事務局長。1949年6月に地方自治庁財政部長。同年12月に地方自治庁次長となり、1950年5月30日からは再び地方財政委員会事務局長。1952年7月に地方財政審議会委員となり、1967年10月に公営企業金融公庫総裁。1976年11月から1979年11月まで地方財政審議会会長。
下田 弘(しもだ ひろし、1908年9月2日 - 生没不明)… 下田 弘(しもだ ひろし、1908年9月2日 - 生没不明)は、日本の哲学者、武蔵工業大学名誉教授。 1908年、女子教育者の先導者であった下田次郎の四男として東京に生まれる。1932年、東京帝国大学哲学科を卒業。 1939年より第一高等学校教授となるが、1944年に病気のため退職。戦後1950年より清泉女子大学教授、1956年より武蔵工業大学教授となり、1959年から1967年まで図書館長も務めた。1979年に退職し、名誉教授となった。 1981年勲三等瑞宝章。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
川崎 京市(かわさき きょうし、1908年9月2日 - 19… 川崎 京市(かわさき きょうし、1908年9月2日 - 1987年12月)は、日本の化学技術者、実業家、工学博士。日本合成ゴム代表取締役社長や、化学工学協会会長、日本工学アカデミー副会長などを歴任した。 1932年東京工業大学染料化学科卒業、近藤製薬工場入社。1950年「人造麝香に関する研究」により東京工業大学工学博士。1957年日本合成ゴム常務取締役。1961年有機合成化学協会会長。1968年日本合成ゴム取締役副社長。1969年日本合成ゴム取締役社長。1971年藍綬褒章受章。1975年日本合成ゴム取締役会長。1979年日本合成ゴム相談役、勲二等瑞宝章受章。1980年石油学会名誉会員。1981年日本粉体工業技術協会会長、化学工学会名誉会員。
田岡 典夫(たおか のりお、1908年9月1日 - 1982… 田岡 典夫(たおか のりお、1908年9月1日 - 1982年4月7日)は高知県出身の小説家。 長崎市生まれ、高知市育ち。中国文学者・田岡嶺雲の甥。父親の田岡典章は東亞セメント専務、田岡式セメント石合資代表。母の田岡寿子は日本キリスト教婦人矯風会高知支部長。 土佐中学、高知一中(現高知県立高知追手前高等学校)、東京府立一中(現東京都立日比谷高等学校)中退を経て、1926年早稲田第一高等学院に入学するも中退。のちパリに遊学し、帰国後は6代目尾上菊五郎の俳優学校に学ぶ。 菊池寛と田中貢太郎に師事し、1943年に短篇『強情いちご』で直木賞受賞。戦時中は熱海市桃山に住み、近所の志賀直哉や広津和郎たちと交際。
柴田 淑次(しばた よしじ、1908年 <明治41年> 9月… 柴田 淑次(しばた よしじ、1908年 <明治41年> 9月1日 - 1982年 <昭和57年> 7月26日)は、日本の国土交通技官、理学博士。気象庁長官を務めた。位階は従三位。 京都府出身。旧制京都一中、旧制三高を経て、1931年に京都帝国大学理学部宇宙物理学科を卒業し、同年に気象庁に入庁した。1960年に仙台管区気象台長、1963年に海洋気象部長を経て、1965年3月から1969年3月までに長官を務めた。1969年から1979年までに拓殖大学教授を務めた。 1978年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1982年7月26日に急性肺炎のために死去。73歳没。死没日付をもって正六位から正四位、さらに従三位に進階した。
大浪 妙博(おおなみ たえひろ、1908年9月1日 - 19… 大浪 妙博(おおなみ たえひろ、1908年9月1日 - 1985年7月7日)は、秋田県南秋田郡戸賀村出身で高島部屋に所属した力士。本名は石川 三治。187cm、101kg。最高位は東前頭3枚目。 1926年5月場所初土俵、1932年2月場所春秋園事件により幸運な十両昇進。十両では新十両の場所で8戦全勝優勝を果たすなど負け越しがなく、翌1933年1月に新入幕を果たした。連続6場所幕内を務めたのち、一度十両に陥落したが、再度十両優勝を果たしている(1936年1月場所)。1936年5月に再入幕、1940年1月場所には最高位である東前頭3枚目に進出、同年5月場所では横綱男女ノ川を倒して金星を獲得したが、翌1941年1月場所を全休してそのまま廃業した[要出典]。
森野 米三(もりの よねぞう、1908年8月31日 - 19… 森野 米三(もりの よねぞう、1908年8月31日 - 1995年10月24日)は、物理化学者。東京大学名誉教授。
河津 清三郎(かわづ せいざぶろう、1908年〈明治41年〉… 河津 清三郎(かわづ せいざぶろう、1908年〈明治41年〉8月30日 - 1983年〈昭和58年〉2月20日)は、日本の俳優である。本名中島 誠一(なかじま せいいち)、旧芸名河津 精一(かわづ せいいち)、河津 史郎(かわづ しろう)。 阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画で映画デビューし、マキノ・プロダクション移籍後は沢村國太郎に次ぐ若手時代劇スターとなった。その後、新興キネマに入社して男優の看板スターとして多くの作品に主演し、戦後は個性派の脇役として活躍した。主な出演作品に『首の座』『次郎長三国志』シリーズ、『用心棒』など。妻は女優の高津慶子。 1908年(明治41年)8月31日、東京府東京市日本橋区蠣殻町に生まれる。
長嶺 秋夫(ながみね あきお、1908年(明治41年)8月2… 長嶺 秋夫(ながみね あきお、1908年(明治41年)8月29日 - 2002年(平成14年)10月29日)は、日本の政治家。小禄村長(第8・9代)、立法院議員(7期)、立法院副議長(3期)、立法院議長(3期)を歴任。 米国統治下の沖縄において、当時の佐藤栄作首相や日米国政府高官と度重なる会合・折衝を実施し、沖縄の本土復帰に尽力した。全8回実施された琉球政府立法院議員選挙において、初回を除く7回に立候補し、全て当選した。琉球政府立法院の議長を3期務めた人物は長嶺以外に存在しない。尚、長嶺は副議長も3期務めており、過去最多である。
斎藤 忠(さいとう ただし、1908年〈明治41年〉8月28… 斎藤 忠(さいとう ただし、1908年〈明治41年〉8月28日 - 2013年〈平成25年〉7月21日)は、日本の考古学者。 1908年、北海道で生まれた。生後ほどなく仙台市に移り、幼少期を過ごした。1926年3月、宮城県仙台第二中学校を卒業し、同年4月に第二高等学校文科甲類入学。1929年4月、東京帝国大学文学部国史学科に入学。1932年、卒業論文『本邦古代に於ける葬制の研究』を提出して同大学を卒業。 1955年、学位論文『新羅文化の考古学的研究』を東京大学に提出して文学博士の学位を取得。1965年、東京大学教授に就いた。1970年からは大正大学教授として教鞭を執り、1983年に退任。その後は財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所長を務めた。
久富 貢(ひさとみ みつぐ、1908年8月28日-1988年… 久富 貢(ひさとみ みつぐ、1908年8月28日-1988年2月23日)は、美術評論家。 福岡県山門郡生まれ。広島高等学校卒業、1932年京都帝国大学文学部美学美術史学科卒業。同年東京帝国大学文学部大学院に入学、35年中退、日本大学講師。1937年国際文化振興会に勤務、1946年同編纂課長。1947年中央労働学園専門学校講師、48年改組により法政大学講師、1950年東京学芸大学講師、51年教授。59-61年同附属図書館館長、72年停年退官、名誉教授。1973年共立薬科大学教授、1974年跡見女子大学教授を兼任。近代日本画、フェノロサを研究した。妻は料理評論家の久富志子。孫に映画研究者の谷川建司がいる。
末松 正樹(すえまつ まさき、1908年8月28日 - 19… 末松 正樹(すえまつ まさき、1908年8月28日 - 1997年4月28日)は、日本の洋画家。多摩美術大学名誉教授。 1908年、新潟県新発田市に生まれた。1930年、旧制山口高等学校卒業。1933年に上京、逓信省東京中央電話局に就職し、そのかたわらでレニ・リーフェンシュタール出演の映画『聖山』(1927年、アーノルト・ファンク監督)に感銘をうけ、ドイツの前衛舞踏「ノイエ・タンツ」に関心をもつ。この時期、舞踊家の執行正俊が主宰するスタジオに通い始める。 1939年、パリに渡る舞踏家に同行して渡欧。第二次世界大戦開戦後もパリに留まるが、ドイツの進駐をうけてマルセイユに逃れ、現地の領事館に勤務する。
三橋 一夫(みつはし かずお、1908年8月27日 - 19… 三橋 一夫(みつはし かずお、1908年8月27日 - 1995年12月14日)は、日本の作家、健康研究家。 兵庫県神戸市生まれ。本名・敏夫。父親の三橋信三は三菱倉庫に勤務で、後、同社社長、三菱本社理事などを歴任。父親の影響で武術をはじめるが、一方で文学少年でもあった。 慶應義塾大学経済学部卒。在学中にヨーロッパへの留学経験がある。1940年ごろから同人誌『三田文学』、『文芸世紀』などに創作を発表し、終戦後の1948年には林房雄の紹介で『新青年』に「腹話術師」が掲載され、商業誌にデビューした。「不思議小説」と銘打った奇妙な作風で好評を博し、同誌の常連執筆者となる。『新青年』1949年6月号から同誌休刊の1950年7月号まで、横溝正史の命名による「まぼろし部落」のタイトルで不思議小説を毎号連載した。
川崎 勉(かわさき つとむ、1908年(明治41年)8月27… 川崎 勉(かわさき つとむ、1908年(明治41年)8月27日 - 1997年(平成9年)4月22日 )は、日本の実業家。日本鉄鋼連盟(鉄連)欧州事務所長を歴任。経済学博士。 三重県出身の政治家・川崎克の長男。弟は衆議院議員の川崎秀二。妻は大審院次長検事、大阪控訴院検事長を務めた金沢次郎の長女。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
上原 敏(うえはら びん、本名:松本 力治(まつもと りきじ… 上原 敏(うえはら びん、本名:松本 力治(まつもと りきじ)、1908年〈明治41年〉8月26日 - 1944年〈昭和19年〉7月29日)は、秋田県出身の歌手。 戦前に活躍した流行歌手で「妻恋道中」「裏町人生」などのヒット曲を持つが、第二次世界大戦で行方不明(のちに死亡認定)となった。最終学歴は専修大学卒業。 1908年(明治41年)に秋田県北秋田郡大館町(現:秋田県大館市)の商家「ネリヤ」で生まれる。旧制秋田県立大館中学校在学中からヴァイオリンに夢中になり、音楽の素養を身につけた。スポーツは野球を得意とし、専修大学商学部に入学後も東都大学野球連盟に選手として出場している。ポジションは投手で、1933年(昭和8年)春と1934年(昭和9年)春の東京五大学リーグ戦優勝に貢献し、4年生では主将を務めた。
石原 藤次郎(いしはら とうじろう、1908年(明治41年)… 石原 藤次郎(いしはら とうじろう、1908年(明治41年)8月26日 - 1979年(昭和54年)10月2日)は、昭和時代の土木工学者。 京都府に生まれる。1930年(昭和5年)京都帝国大学工学部土木工学科を卒業し、同大講師、助教授を経て、1943年(昭和18年)教授となり、1973年(昭和48年)退官する。退官後は、日本大学理工学部教授となった。この間、工学部長、防災研究所長、大型計算機センター長などを歴任した。日本学術会議会員、同第五部長。ほか、国際水理学会会議組織委員長、土木学会会長などを務めた。 水理学、水文学、河川工学、海岸工学における先駆的、体系的な業績を残した。特に河床洗堀、開水路水理学、水理学統計学などの分野において功績がある。
伊部 禧作(いべ きさく、1908年8月26日 - 1993… 伊部 禧作(いべ きさく、1908年8月26日 - 1993年11月26日)は、日本の経営者。ゼリア新薬工業社長、会長を務めた。東京都出身。 1928年に明治大学政治経済学部を卒業。 1937年に共立薬品研究所を設立し、1942年には山之内製薬取締役に就任し、1946年11月に常務、1950年10月に科研薬化工業社長を経て、1958年5月にゼリア化学工業(のちのゼリア新薬工業)社長に就任。1982年4月には会長に就任。 1993年11月26日心筋梗塞のために死去。85歳没。
岸本 実、ないし、岸本 實(きしもと みのる、1908年8月… 岸本 実、ないし、岸本 實(きしもと みのる、1908年8月25日 - 1992年2月17日)は、人口地理学を専門とする日本の地理学者。徳島大学、立正大学などで教え、立正大学名誉教授となった、日本地理学会会長も務めた。 徳島県徳島市沖浜町大木に生まれた。 徳島師範学校本科第1部に学び、東京高等師範学校文科第4部(歴史地理科)に進んだ。 1939年に東京文理科大学地学科地理学専攻を卒業した。 千葉県師範学校在職中に応召し、陸軍中尉として中国大陸に従軍した。1943年11月には、千葉師範学校教授となった。 戦後は、両親の求めに応じて1946年7月に帰郷し、徳島師範学校教授となり、学制改革を経て徳島大学教育学部教授となった。
間宮 純一(まみや じゅんいち、1908年(明治41年)8月… 間宮 純一(まみや じゅんいち、1908年(明治41年)8月25日 - 1981年(昭和56年)11月19日)は、将棋棋士。溝呂木光治八段門下。間宮 久夢斎(きゅうむさい)とも称した。入玉狙いという特異な棋風と放浪癖から、将棋界きっての奇人変人として知られた。 静岡県田方郡大仁町(後の伊豆の国市大仁)出身。裕福な家系(後述)に生まれ、経済的に恵まれた環境で幼少期を過ごした。 中等学校を四年次で中退して溝呂木光治の弟子となり、1923年に初段となった。18歳のときには溝呂木の内弟子となり、それから4年ほどで三段まで昇段したが、なかなか四段に上がれず苦しんだ。23歳の時に内弟子を辞めて独立し、各地を放浪するようになる。
佐々木 盛雄(ささき もりお、1908年(明治41年)8月2… 佐々木 盛雄(ささき もりお、1908年(明治41年)8月23日 - 2001年(平成13年)8月25日)は、日本の新聞記者・編集者、政治家。 衆議院議員(4期)、内閣官房副長官を歴任した。 兵庫県出身。1932年、東京外国語学校を卒業。報知新聞社に入社し、外信部記者、政治部記者、海外特派員を務めた。戦時中は大本営海軍報道部嘱託、情報局嘱託となる。 終戦後、『自由新聞』を創刊し編集局長となる。その後、報知新聞社渉外部長に就任。1947年4月、第23回衆議院議員総選挙で兵庫県第5区に日本自由党から出馬し当選。以後、第24回、第26回、第28回総選挙で当選し、衆議院議員を通算4期務めた。この間、衆議院厚生委員長、第5次吉田内閣の労働政務次官、1960年7月から同年12月まで第1次池田内閣の内閣官房副長官、日本自由党情報部副部長、民主自由党政調会外務委員長、自由民主党総務、同国会対策副委員長などを歴任。
細川 泉一郎(ほそかわ せんいちろう 1908年8月22日 … 細川 泉一郎(ほそかわ せんいちろう 1908年8月22日 - 2000年5月1日)は、元日本国有鉄道常務、技師。元日本車輌製造副社長。
児井 英生(こい えいせい、1908年8月21日 - 199… 児井 英生(こい えいせい、1908年8月21日 - 1992年3月10日)は、日本の映画プロデューサー、映画監督、脚本家、作詞家、実業家である。日活の契約プロデューサーだった時代に石原裕次郎を売り出し、小林旭をスターにした人物として知られる。本名は兒井 英男(こい ひでお)、大都映画でのペンネームは高樹 彦九郎(たかぎ ひこくろう)である。児井プロダクション代表。 1908年(明治41年)8月21日、兵庫県神戸市に鉄道院の高級官吏(神戸運輸事務所長)だった児井英松と公卿の娘だった母の長男として出生。姉が2人の末っ子だった。父の転職により、東京の渋谷に移住し、旧制中学校の私立芝中学校を経て、早稲田大学法学部に入学するが、2年次に政経学部に、3年次に文学部に転部し卒業後、衣笠貞之助に誘われ1931年に松竹キネマ京都撮影所監督部に入社した。
金湊 仁三郎 (かねみなと にさぶろう、 1908年8月18… 金湊 仁三郎 (かねみなと にさぶろう、 1908年8月18日 - 1979年11月23日)は、現在の千葉県船橋市金杉町出身で湊川部屋に所属した大相撲力士。本名は石井 仁三郎。身長164cm、体重86kg。最高位は東前頭5枚目。1940年1月場所のみ金湊利三郎を名乗った[信頼性要検証]。 1927年1月場所に初土俵を踏む。1931年5月、双葉山定次とともに新十両を果たし、2場所連続して双葉山を破る。春秋園事件で一度は脱退するが、1933年1月に十両格別席で復帰、1934年5月場所に新入幕を果たした。 小兵ながら動きの早い相撲で、若手をいじめることが多く、「追いはぎ」とあだ名されている。大きな出羽ヶ嶽文治郎に初顔から連勝したり、新入幕の羽黒山政司に初日に土をつけたり、1939年1月には双葉山の連勝を止めた安藝ノ海節男を終盤に破って負け越しを味わわせたりと、大物食いで名をはせた。
池田 誠一郎(いけだ せいいちろう、 1908年8月17日 … 池田 誠一郎(いけだ せいいちろう、 1908年8月17日 - 2001年4月10日)は、日本の編集者、作詞家。作詞家としてのペンネームに池田 真琴(いけだ まこと)や椿 三平(つばき さんぺい)、川柳作家としてのペンネームに池田 秋の月(いけだ あきのつき)がある。 東京府北豊島郡岩淵町(現在の東京都北区)出身。都内の出版社に編集者として勤務する傍ら作詞の投稿を趣味とし、50点近くの歌詞が採用された。代表作は「椿三平」名義で入選した読売ジャイアンツの3代目球団歌「巨人軍の歌 -闘魂こめて-」(1968年)であるが、これ以前に「池田真琴」名義で応募した広島カープの2代目球団歌「広島カープの歌」が採用されている。
尾鍋 輝彦(おなべ てるひこ、1908年(明治41年)8月1… 尾鍋 輝彦(おなべ てるひこ、1908年(明治41年)8月15日 - 1997年(平成9年)3月21日)は、日本の西洋史学者。お茶の水女子大学名誉教授。1980年勲三等旭日中綬章受章、没後正四位。 1908年、愛知県名古屋市で生まれた。東京帝国大学文学部西洋史学科で学び、1933年に卒業。 1950年、成城大学助教授に就いた。1951年にお茶の水女子大学助教授に転じ、1953年に教授昇格。1973年にお茶の水女子大学を定年退官し、名誉教授となった。1997年死去。没後叙正四位。
富井 一雄(とみい かずお、1908年8月14日 - 199… 富井 一雄(とみい かずお、1908年8月14日 - 1998年2月8日)は、日本の経営者。ユニチカ社長を務めた。奈良県出身。 1930年に高岡高等商業学校(現富山大学)を卒業し、翌年に日本レイヨンに入社した。1959年に取締役に就任し、常務、専務を経て、1970年に社長に就任し、1972年から相談役、顧問、名誉顧問を歴任した。 1981年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1998年2月8日慢性呼吸不全のために死去。89歳没。
玉井 力三(たまい りきぞう、1908年(明治41年)8月1… 玉井 力三(たまい りきぞう、1908年(明治41年)8月14日 - 1982年(昭和57年)7月23日)は、昭和期に活動した日本の洋画家、表紙画家。 1928年(昭和3年)より「太平洋画会研究所」で中村不折に師事する。その後は「太平洋美術学校」講師、「新京美術院」助教授を歴任するとともに、多くの洋画作品を制作した。 戦後は、洋画団体「示現会」の会員として活動しつつ、雑誌や絵本の表紙画家としても活動した。特に複数の出版社から発行された学年別学習雑誌、いわゆる「学年誌」における表紙画を長年担当し、少年少女の表情を大きく豊かに描いた作品を多く制作した。小学館の学年誌(『小学一年生』他)で20年以上にわたって表紙画を担当したほか、講談社、学習研究社など、学年誌市場で競合する各社の表紙画を同時期に担当したこともある。
井田 誠一(いだ せいいち、1908年(明治41年)8月13… 井田 誠一(いだ せいいち、1908年(明治41年)8月13日 - 1993年(平成5年)10月12日)は、昭和期の作詞家。 東京都八王子市出身。早稲田大学文学部卒業。 戦後、ビクター専属作詞家として活躍し、「東京シューシャンボーイ」、「水色のスーツケース」、「若いお巡りさん」などを作詞。明るい内容の歌詞が特徴的だった。その他、外国曲の訳詞を行った。 1993年(平成5年)10月12日死去。享年85。墓所は八王子市の富士見台霊園。 1999年、高尾山薬王院の境内に「若いお巡りさん」の歌詞を刻んだ歌碑が建立された。
玉山 勇(たまやま いさむ、1908年8月12日 - 198… 玉山 勇(たまやま いさむ、1908年8月12日 - 1989年4月28日)は、福島大学学長、元・経済史・経営史専攻の教授。岩手県紫波郡紫波町出身。 明治学院から神戸商業大学に進み1936年に卒業し関西学院高等部の教師となる。1940年東北学院大学教授、1950年福島大学経済学部教授、1958年福島大学経済学部部長を経て、1973年10月15日学長に就任。翌1974年12月4日退任。 日本生産性東北地方本部理事、東北経済開発センター(現在の東北活性化研究センター)理事、福島県中小企業診断協会会長なども歴任した。 1989年4月28日午後5時に内臓疾患の為、福島県立医科大学附属病院で死去。享年80歳。
大智 浩(おおち ひろし、1908年〈明治41年〉8月10日… 大智 浩(おおち ひろし、1908年〈明治41年〉8月10日 - 1974年〈昭和49年〉7月18日)は、日本のグラフィックデザイナーである。岡山県出身。 旧制新潟県立村上中(現:新潟県立村上高等学校)、長岡高等工業学校を経て、東京美術大学(現在の東京芸術大学)卒業後、当時第二次世界大戦下で情報及び宣伝要員として活動した。戦後に独立し自身のデザイン事務所を設立し、多くの企業のCIマークの制作に携わる。1954年(昭和29年)にはニューヨークで開催された個展で大智の作品が出品され、デザイナー団体の日本代表に選出される等外でも有名となった。 その後は誠文堂新光社のデザイン雑誌『アイデア』のアートディレクターや東京教育大学や金沢美術工芸大学、実践女子大学の教授、国際デザイン交流協会会長を務めるなど、学生や海外のデザイナー対しての交流を深めた。
植草 甚一(うえくさ じんいち、1908年〈明治41年〉8月… 植草 甚一(うえくさ じんいち、1908年〈明治41年〉8月8日 - 1979年〈昭和54年〉12月2日)は、ジャズ、ミステリー、映画評論家で1970年代・サブカルチャーの旗手だった、通称“J・J氏”。 植草は東京市日本橋区小網町(現・東京都中央区日本橋小網町)にて、木綿問屋の一人息子として生まれた。1915年東華小学校に入学。10歳あたりから、姉に連れられ地元の映画館「水天館」に通った。1921年渋谷鉢山町の東京府立第一商業学校に入学、ここでは首席を通した。1923年9月1日の関東大震災で被災し、これをきっかけに植草家は没落した。 1926年、旧制第一高等学校を受験するが失敗。このため、東京府立第五中学校の補習科に通学。
玉置 明善(たまき あきよし、1908年〈明治41年〉8月8… 玉置 明善(たまき あきよし、1908年〈明治41年〉8月8日 - 1981年〈昭和56年〉6月2日)は、昭和時代の実業家。 清の大連にて玉置準三の長男として生まれる。本籍は佐賀県。旧制佐賀高等学校、1930年に九州帝国大学工学部応用化学科を卒業。同年、三菱合資会社に入社。翌年1931年、三菱石油(現 JXTGエネルギー)に移る。1946年に工事部長、1948年に同社工事部が分離独立して千代田化工建設が発足すると常務取締役となる。1957年11月、初代社長の大久保繁雄に代わり社長に就任。1970年会長兼務。 安全工学協会(現: 特定非営利活動法人安全工学会)の第2代会長(1967年-1978年)や、化学工学協会(現: 公益社団法人化学工学会)の第16代会長(1967年-1969年)、日本プラントメンテナンス協会の初代会長(1981年)を務めた。