広島 定吉(ひろしま さだきち、1896年9月22日-196… 広島 定吉(ひろしま さだきち、1896年9月22日-1964年9月17日)は、日本の経済学者。宮崎県出身。早稲田大学卒。マルクス主義の文献を翻訳した。戦後は日ソ親善協会常任理事、日ソ翻訳出版協会懇話会役員など。
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広島 定吉(ひろしま さだきち、1896年9月22日-196… 広島 定吉(ひろしま さだきち、1896年9月22日-1964年9月17日)は、日本の経済学者。宮崎県出身。早稲田大学卒。マルクス主義の文献を翻訳した。戦後は日ソ親善協会常任理事、日ソ翻訳出版協会懇話会役員など。
武田 キヨ(たけだ キヨ、1896年9月21日 - 1954… 武田 キヨ(たけだ キヨ、1896年9月21日 - 1954年3月14日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 滋賀県滋賀郡膳所町(現大津市)生まれ。のち父の転勤で山口県に移り、山口女学校に通う。その後1919年に東京女子高等師範学校文科を卒業する。卒業後は広島県立呉高等女学校、旧制呉港中学校、呉商業学校各教諭や大正学園理事、東京八雲女学校長などを歴任、婦選獲得同盟中国支部長も務めた。1946年の第22回衆議院議員総選挙に広島県から日本自由党公認で立候補して当選する。翌年の第23回衆議院議員総選挙でも再選。その直後に民主党に移籍した。1949年の第24回衆議院議員総選挙で落選した。1954年に脳溢血で死去した。
李 栄俊(イ・ヨンジュン、朝鮮語: 이영준/李榮俊、1896… 李 栄俊(イ・ヨンジュン、朝鮮語: 이영준/李榮俊、1896年9月17日 - 1968年8月18日)は、日本統治時代の朝鮮の医学者、医学教育者、大韓民国の政治家。第3代セブランス医学専門学校(現・延世大学校医療院)校長、制憲・第4・5・6代韓国国会議員、第5代民議院副議長を歴任した。 本貫は公州李氏(朝鮮語版)。キリスト教徒。 ソウル市南大門出身。大邱仁南学校、啓聖高等普通学校、京城養正高等普通学校を経て、1926年にセブランス医学専門学校(現・延世大学校医療院)卒。京畿道小学校教員試験合格。1931年、東京帝国大学(現・東京大学)にて医学博士取得。以後セブランス連合医学専門学校教授、東京帝国大学医学部にて皮膚泌尿器科学について研究した。
谷 鼎(たに かなえ、1896年〈明治29年〉9月16日 -… 谷 鼎(たに かなえ、1896年〈明治29年〉9月16日 - 1960年〈昭和35年〉7月15日)は、日本の歌人・国文学者。元大東文化大学教授。 父・谷鼎次郎、母・タツの長男として、小田原市にて出生。4歳まで小田原市で過ごし、中郡西秦野村千村(現在秦野市)の実家に戻り、幼少年期を過ごす。実家は大地主であり、鼎次郎は中郡の代議士を務め、白山神社の宮司も引き受けるなど地元の名士でもあった。 中郡西秦野村立尋常高等渋沢小学校に在学中、県下の作文コンクールにて「父母の恩」という題で入選。 少年時代より、文筆に優れ、神奈川師範学校(鎌倉師範)に進学した頃より、作歌を試む。鎌倉師範の同学年に詩人の八木重吉がいる。
村山 槐多(むらやま かいた、1896年〈明治29年〉9月1… 村山 槐多(むらやま かいた、1896年〈明治29年〉9月15日 - 1919年〈大正8年〉2月20日)は、明治・大正時代の日本の洋画家で、詩人、作家でもある。愛知県額田郡岡崎町(現在の岡崎市生まれ、京都市上京区育ち。母方の従兄に山本鼎(画家)と嶺田丘造(官僚)、はとこに黒柳朝(随筆家)がいる。 みなぎる生命力を退廃的・破滅的雰囲気を纏わせながら絵画に表した。ガランス(深い茜色、やや沈んだ赤色)を好んで使ったことでも知られる。 槐多は、愛知県額田郡岡崎町にて小学校教諭・村山谷助とその妻・たまの長男として生まれた。岡崎町はかつての岡崎城の城下町で、現在の岡崎市。従来の出生地の定説は、父親が教員を務めていたという神奈川県橘樹郡神奈川町(現在の横浜市神奈川区)であったが、岡崎市美術博物館の学芸員が親族への聞き取りと岡崎市役所に残された槐多の出生届資料を確認したうえで、2011年(平成23年)12月に正しい情報を公表した。
土光 敏夫(どこう としお、1896年〈明治29年〉9月15… 土光 敏夫(どこう としお、1896年〈明治29年〉9月15日 - 1988年〈昭和63年〉8月4日)は、昭和時代の日本のエンジニア、実業家。位階勲等は従二位勲一等(勲一等旭日桐花大綬章・勲一等旭日大綬章・勲一等瑞宝章)。岡山県名誉県民、岡山市名誉市民。 石川島重工業・石川島播磨重工業 社長、東芝社長・会長を歴任、日本経済団体連合会第4代会長に就任し、「ミスター合理化」として「土光臨調」と称されている第二次臨時行政調査会でも辣腕を振るった。他方、橘学苑の理事長、校長を創設者の母から引き継いだ。また、質素な暮らしぶりで「メザシの土光さん」としても親しまれた。次男の土光哲夫は東芝タンガロイの元役員。
矢野 兼三(やの けんぞう、1896年(明治29年)9月13… 矢野 兼三(やの けんぞう、1896年(明治29年)9月13日 - 1981年(昭和56年)2月19日)は、日本の内務・警察官僚。官選富山県知事、陸軍司政長官。号は蓬矢。 大阪市出身。矢野治三郎の三男として生まれる。1919年、私立関西大学法律学科を卒業し桜セメントに入社。1920年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1921年、内務省に入省し社会局嘱託となる。 以後、京都府愛宕郡長、警視庁事務官、青森県書記官・学務部長、千葉県書記官・警察部長、警視庁官房主事、岡山県総務部長などを歴任。 1938年4月、富山県知事に就任。戦時下の対応に尽力。1941年1月に休職となる。1942年7月7日、陸軍司政長官に発令。
大西 定彦(おおにし さだひこ、1896年9月13日 - 1… 大西 定彦(おおにし さだひこ、1896年9月13日 - 1969年4月27日)は日本の電気技術者、実業家。日立製作所副社長を務めたほか、電気学会第47代会長、日本オペレーションズ・リサーチ学会第2代会長などを歴任した。 1896年(明治29年)9月13日、当時東京専門学校の教員であった哲学者大西祝の長男として東京府で生まれた。岡山で小中学校に通い、同期に岸信介がいた。1918年(大正7年)第六高等学校二部甲を卒業し、東京帝国大学工科大学電気工学科へ進学した。1921年(大正10年)に同大学を卒業し、日立製作所に入社。 日立製作所副社長を務めた高尾直三郎の海外渡航に随行するなど、経営を学んだ。日立での工場勤務のかたわら、1931年(昭和6年)7月には東北帝国大学工学部講師に任じられた。
河野 与一(こうの よいち、1896年(明治29年)9月12… 河野 与一(こうの よいち、1896年(明治29年)9月12日 - 1984年(昭和59年)7月6日)は、日本の哲学者・翻訳家。元東北帝国大学教授。 1896年、神奈川県で生まれた。神戸で育ち、神戸一中から東京帝国大学哲学科に進み、卒業。 卒業後は、暁星中学校に教諭として勤務。その後、第三高等学校教授、法政大学教授を経て、1927年に東北帝国大学助教授に就いた。1946年に教授昇格。戦後の1950年、東北帝国大学を退官して岩波書店の顧問として迎えられた。 多数の言語に通じ、フランス文学、哲学、西洋古典語を講じた。1957年、『プルターク 英雄伝』の原典訳で読売文学賞に選ばれたが、受賞を辞退した。
久野 豊彦(くの とよひこ、1896年〈明治29年〉9月12… 久野 豊彦(くの とよひこ、1896年〈明治29年〉9月12日-1971年〈昭和46年〉1月26日)は、日本の小説家、経済学者。 愛知県出身。慶應義塾大学卒。大正時代末から小説を書き、新興芸術派の一人。第二次世界大戦後、名古屋商科大学教授(経済学)。1967年(昭和42年)に定年退職。クリフォード・ダグラス(en:C. H. Douglas)に依拠して反マルクス主義の立場をとった。
大石 光之助(おおいし こうのすけ、1896年(明治29年)… 大石 光之助(おおいし こうのすけ、1896年(明治29年)9月9日 - 1971年(昭和46年)2月8日)は、日本の実業家。静岡新聞社初代社長。静岡放送創設者。 静岡県静岡市出身。浅吉の三男、あるいは磯吉の男。上京して徳富蘇峰の書生になる。徳富の国民新聞社に入社。欧米業界を視察する。 経営不振に陥っていた静岡民友新聞社の再建にあたる。1928年に総支配人となる。1941年に戦時新聞統合により県下6紙を統合して「静岡新聞」が創立されると初代社長に就任。 放送界にも進出し、1952年に静岡放送を設立、社長となる。1971年、駿府博物館設立。趣味は庭球、家庭菜園。住所は静岡市紺屋町、東京都目黒区平町。
数藤 鉄臣(すどう かねおみ、1896年(明治29年)9月8… 数藤 鉄臣(すどう かねおみ、1896年(明治29年)9月8日 - 1994年(平成6年)3月26日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、海軍司政長官。旧姓・村上。 本籍島根県。旧松江藩士・地方行政官、村上寿夫の二男として岡山県に生まれる。松江市北堀尋常小学校、松江中学校を卒業。海軍兵学校を志願したが、試験前の水泳で外耳炎となり身体検査で不合格となる。1915年2月、第一高等学校数学教授・数藤斧三郎の養子となる。第一高等学校第一部甲類を卒業。1920年10月、高等試験行政科試験に合格。1921年4月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。同年7月、内務省に入省し内務属となり警保局図書課に配属された。
佐竹 晴記(さたけ はるき、1896年〈明治29年〉9月6日… 佐竹 晴記(さたけ はるき、1896年〈明治29年〉9月6日 - 1962年〈昭和37年〉4月24日)は、日本の政治家、弁護士。社会民衆党、社会革新党、民主社会党に属し、片山内閣では司法政務次官を務めた。 高知県高岡郡窪川町(現在の四万十町)に生まれる。窪川高等小学校を卒業後、窪川郵便局員、大連航路汽船の三等油差しなどに従事する。その後上京し、中央大学法科に学び弁護士試験に合格。24歳で弁護士として東京で開業したが、1923年(大正12年)、関東大震災のため高知市に帰り北奉公人町(現在の高知市上町)で再度開業した。 1929年(昭和4年)社会民衆党高知支部を結成および支部長となる。同年と1933年(昭和8年)に高知市会議員に当選した。
外山 修之(とやま よしゆき、1896年(明治29年)9月6… 外山 修之(とやま よしゆき、1896年(明治29年)9月6日 - 1980年(昭和55年)2月12日)は、日本の応用化学者。日本学士院会員、名古屋大学名誉教授、工学博士。油脂化学専攻。 東京府出身。1917年(大正6年)第一高等学校を卒業。1920年(大正9年)東京帝国大学工学部応用化学科を卒業し、農商務省工業試験所(現産業技術総合研究所)に入所。1940年(昭和15年)名古屋帝国大学の理工学部新設に伴い応用化学科主任教授に就任した。1960年(昭和35年)に退官し東洋大学工学部教授に就任した。 生前、1958年のノーベル化学賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している。 1980年2月、胃癌により新宿区の慶應義塾大学病院で死去した(83歳)。
金 良洙(キム・ヤンス、朝鮮語: 김양수、1896年9月4日… 金 良洙(キム・ヤンス、朝鮮語: 김양수、1896年9月4日 - 1969年9月19日または1971年1月19日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、実業家、政治家、独立有功者。第2代韓国国会議員、原子力院(現・原子力安全委員会)院長を歴任した。 本貫は光山金氏。号は若嬰。キリスト教徒。 全羅南道順天出身。早稲田大学政経学部卒、コロンビア大学・ロンドン大学修学。東亜日報・朝鮮日報論説委員、ハワイ第二次汎太平洋会議朝鮮代表(徐載弼・金活蘭・申興雨と共同)、ニューヨーク三一新報主幹・主筆、ベルリン世界反帝同盟会議出席者、朝鮮興業株式会社重役を務めた。中国で金枓奉とハングル運動について意見を交わした後、1935年から朝鮮語学会に参加して辞典の編纂を財政的に支援したが、1942年の朝鮮語学会事件により3年間投獄され、1945年1月に懲役2年・執行猶予4年の刑を言い渡された。
井上 義夫(いのうえ よしお、1896年〈明治29年〉9月3… 井上 義夫(いのうえ よしお、1896年〈明治29年〉9月3日 - 1956年〈昭和31年〉6月7日)は、日本の政治家、岡山県津山市長(1期)。 岡山県東南条郡林田村(のち苫田郡林田村→津山東町、現・津山市)生まれ。旧制岡山県立津山中学校(現・岡山県立津山中学校・高等学校)卒。林田村役場に入り、収入役となり、1923年の津山東町発足後は、同町助役となる。1929年、合併により、津山市役所勤務。同市収入役、助役を経て、1955年、津山市長に当選。 市長に就任した年は岡山県は農業県から工業県への転換や町村行財政近代化による町村合併(昭和の大合併)の推進など激しい変動期に当たった。これらは国内市場の拡大や後進地域の経済振興といった高度経済成長政策に見合うものだった。
川井 巌(かわい いわお、1896年(明治29年)9月2日 … 川井 巌(かわい いわお、1896年(明治29年)9月2日 - 1972年(昭和47年)5月15日)は、日本の海軍軍人、実業家。海兵47期・海大29期。山形県出身。 1943年(昭和18年)、海軍大佐・軽巡洋艦「木曽」艦長としてキスカ島撤退作戦に参戦し、武功を挙げた。 帝国海軍での最終階級は海軍少将。1945年(昭和20年)11月30日を以て帝国海軍が消滅した後も、公職追放を受けずに1948年(昭和23年)12月まで第二復員省人事局長などの公職に就き続け、海軍の残務を処理した。 1953年(昭和28年)、東京光学機械株式会社(現:トプコン)に入社し、東京光学機械株式会社 営業部長を経て、東光物産株式会社 社長(在任期間:1957年〈昭和32年〉7月 - 1965年〈昭和40年〉9月)を務めた。
市河 彦太郎(いちかわ ひこたろう、1896年(明治29年)… 市河 彦太郎(いちかわ ひこたろう、1896年(明治29年)9月2日 - 1946年(昭和21年)4月1日)は、日本の外交官。駐イラン公使。 静岡県の市河彦三の子として生まれる。市河家は沼津の大地主で豪商。静岡県立沼津中学校(現静岡県立沼津東高等学校)、第一高等学校を経て、1920年(大正9年)、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。フィンランド公使館一等書記官、外務書記官・文化事業部第三課長、同第二課長を歴任。1940年(昭和15年)12月、駐イラン公使に就任した。 1946年4月1日、第22回衆議院議員総選挙に立候補した森田豊寿の応援演説中に、我入道公会堂において脳溢血のため死去した。 沼津中学時代の後輩芹沢光治良の『人間の運命』に登場する主人公森次郎の親友・石田のモデルであるとも言われる。
東 平作(ひがし へいさく、1896年9月2日 - 1966… 東 平作(ひがし へいさく、1896年9月2日 - 1966年6月22日)は、日本の陸軍軍人。陸士31期。最終階級は大佐。 1896年(明治29年)9月、高知県幡多郡東山村古津賀(現在の四万十市)にて東仁太郎の次男として生まれた。県立第三中学を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官。 広島師団司令部付、北京公使館付武官などを歴任。支那事変では、1938年(昭和13年)5月の徐州戦の大運河作戦、同10月の仏山市占領に参加。1939年(昭和14年)11月南寧の上陸作戦などを歴戦、絶妙の戦略を示し武功をたてる。以後、仏印、シンガポール、ジャワ島、ガダルカナル島を歴戦。
中塚 元太郎(なかつか もとたろう、1896年9月1日 - … 中塚 元太郎(なかつか もとたろう、1896年9月1日 - 1972年10月9日)は、日本の政治家。岡山県児島市(現・倉敷市)長。 岡山県児島郡小田村出身。旧制矢掛中学校(現・岡山県立矢掛高等学校)、早稲田高等学院を経て、1920年、早稲田大学英法科を卒業する。証券会社に勤務した後は帰郷し、小田村収入役となる。その後、退職し、朝鮮に渡り、農場、酒造、漁業に従事する。再び帰郷し、1942年、児島町(小田村は1928年に町制施行し、児島町に改称)会議員、1947年、児島町長となり、翌1948年、児島市の発足により児島市長となる。2期務めた後、1956年の市長選では元助役の中村純雄に敗れるが、4年後の1960年に中村を破り、市長に返り咲いた。
菅沼 儀平(すがぬま ぎへい、1896年(明治29年)9月1… 菅沼 儀平(すがぬま ぎへい、1896年(明治29年)9月1日 - 1972年(昭和47年)8月2日)は、日本の政治家。元山形県議会議員。 性格は、堂々たる体格で一見怖い感じだが、話せば飾り気なく、人懐っこしさを丸出しにする。政治一本気で真面目、統率力抜群。おべんちゃら嫌いで自分の意志を押し通したので敵もあった。農林行政については、「菅沼理論」を持っていたとされている。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。 この項目は、山形県に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:日本の都道府県/山形県)。
佐藤 芳男(さとう よしお、1896年9月 - 1967年8… 佐藤 芳男(さとう よしお、1896年9月 - 1967年8月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)、参議院議員(2期)。
武内 哲夫(たけうち てつお、1896年(明治29年)9月 … 武内 哲夫(たけうち てつお、1896年(明治29年)9月 - 没年不詳)は、日本、満洲国、蒙古の官僚。 秋田恒五郎の三男として福岡県に生まれ、武内謙介の養子となる。1915年(大正4年)福岡県立中学修猷館、1919年(大正8年)7月第五高等学校政治科を経て、1922年(大正11年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。 内務省に入省し、大阪府において警察署長、警視庁において交通課長、長野県において内務部地方課長・農商課長などを務めた後、満洲国に渡り、国務院民生部において警務司司法科長・地方司総務科長、国務院内務局管理處長、錦州省次長、総務庁参事官などを務める。 1941年(成紀(成吉思汗紀元)736年)10月蒙古聯合自治政府内政部次長兼中央警察学校長、中央青年指導員訓練所長を経て、1942年(成紀737年)12月蒙古聯合自治政府総務庁長に就任。
中野 善敦(なかの よしあつ、1896年(明治29年)9月 … 中野 善敦(なかの よしあつ、1896年(明治29年)9月 - 1972年(昭和47年)12月21日)は、日本の内務官僚、弁護士。官選県知事。 東京府出身。中野政方の三男として生まれる。第一高等学校を卒業。1920年、東京帝国大学法学部法律学科(仏法)を卒業。内務省に入省し内務属となる。1921年11月、高等試験行政科試験に合格した。 以後、奈良県書記官・学務部長、栃木県書記官・警察部長、社会局書記官・労働部労務課長、神奈川県総務部長などを歴任。 1939年4月、高知県知事に就任。同年12月、文部省普通学務局長に転任。1942年5月、岐阜県知事となる。満州報国農場の設置、中小商工業再編、授産事業などを推進した。
松原 后(まつばら こう、1896年8月30日 - )は、静… 松原 后(まつばら こう、1896年8月30日 - )は、静岡県浜松市中央区出身のプロサッカー選手。Jリーグ・ジュビロ磐田所属。ポジションはディフェンダー。 浜松開誠館高校を卒業後、2015年に清水エスパルスに入団。同期に 水谷拓磨、宮本航汰、北川航也らがいる。入団時「DF歴」がわずか1年半だったが守備陣にけが人が続出したこともあり、ナビスコカップ予選リーグ第1節でフル出場するとJ1リーグ1st第10節で3バックの一角としてJ1初出場を果たした。同年6月11日、プロA契約を締結。 2016年9月18日、J2第32節・水戸ホーリーホック戦の後半40分、1点ビハインドの状況で大前元紀が中央に入れたボールが、相手選手と競り、ゴールに背を向けていた松原の右足かかと付近にあたり、Jリーグ初得点となる同点弾を挙げた。
湊 慶譲(みなと けいじょう、1896年(明治29年)8月3… 湊 慶譲(みなと けいじょう、1896年(明治29年)8月30日 - 1982年(昭和57年)10月19日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍少将。 鹿児島県立加治木中学校を卒業 し、海軍兵学校第44期へ入校した。席次は入校時100名中8番、卒業時95名中4番。新設された海軍省兵備局の第二課長として出師準備にあたり、軍需工業動員および生産力拡充の統制、物資の需給調整などを担った。
稲田 正純(いなだ まさずみ、1896年(明治29年)8月2… 稲田 正純(いなだ まさずみ、1896年(明治29年)8月27日 - 1986年(昭和61年)1月24日)は、日本の陸軍軍人。陸士29期・陸大37期恩賜。最終階級は陸軍中将。 鳥取県日野町出身。陸軍三等軍医(少尉相当官。戦死)・稲田清淳の二男。米子中学校(現在の米子東高校)、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業、同年12月、陸軍砲兵少尉に任官して野砲兵第10連隊付。1920年(大正9年)11月に陸軍砲工学校高等科を卒業し、さらに1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を優等(3席)で卒業して恩賜の軍刀を拝受。 参謀本部付勤務、参謀本部部員、フランス駐在(フランス陸軍大学校卒業)、野戦重砲兵第2連隊大隊長、陸大教官、参謀本部部員(防衛課)、陸軍省軍務局軍事課高級課員などを経て昭和13年7月に陸軍砲兵大佐に進級。
渋沢 敬三(しぶさわ けいぞう、正字体:澁澤 敬三、1896… 渋沢 敬三(しぶさわ けいぞう、正字体:澁澤 敬三、1896年〈明治29年〉8月25日 - 1963年〈昭和38年〉10月25日)は、日本の実業家、財界人、民俗学者、政治家。第16代日本銀行総裁、第49代大蔵大臣(幣原内閣)。祖父・渋沢栄一から渋沢子爵家当主及び子爵位を引き継いだ。 1896年(明治29年)8月25日、渋沢栄一の長男・篤二と妻・敦子の長男として生まれる(敬三の下に弟が2人がいる)。「敬三」は論語の一節「言忠信にして行篤敬ならば蛮貊()の邦といえども行われん」(衛霊公第十五)より栄一が命名した。敦子の父(母方の祖父)は羽林家の公卿出身の元老院議官を務めた伯爵橋本実梁。 東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。
清水 盛明(しみず もりあき / もりあきら、1896年〈明… 清水 盛明(しみず もりあき / もりあきら、1896年〈明治29年〉8月24日 - 1979年〈昭和54年〉4月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 愛知県出身。久留米で陸軍少佐・清水盛次の長男として生まれる。広島高等師範学校附属中学校(現広島大学附属中学校・高等学校)、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第14連隊付となる。1920年(大正9年)11月、陸軍砲工学校高等科(26期)を卒業。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業した。 1926年(大正15年)3月、砲兵大尉に昇進し野砲兵第3連隊中隊長に就任。
濱口 雄彦(はまぐち たけひこ 1896年8月24日 - 1… 濱口 雄彦(はまぐち たけひこ 1896年8月24日 - 1976年10月5日)は、元東京銀行頭取。(社)日本陶磁協会 第3代理事長。東京府出身。濱口雄幸の長男。弟に濱口巌根。長女・幸は船後正道(中小企業金融公庫総裁、環境事務次官、大蔵官僚)に、次女・淑は正田巌(日銀監事)に嫁いだ。
平岡 宕峯(ひらおか とうほう(とほう)、1896年8月24… 平岡 宕峯(ひらおか とうほう(とほう)、1896年8月24日 - 1994年6月20日)は、日本の教育者、僧侶、実業家。本名は平岡 静人()。 勲三等瑞宝章。高野山真言宗大僧正。韓国圓光大学校名誉哲学博士。広島県安芸郡下蒲刈町(現・呉市)出身。真言宗京都大学、真言宗高野山大学、佛教専門学校(旧制)卒業。全国私立学校連合会副会長、日本私立中学校高等学校連合会会長ならびに大阪私立中学校高等学校連合会会長歴任。学校法人清風学園および同法人清風南海学園の創立者で、現在も前者では「校祖」、後者では「学父」と呼称される。 1896年(明治29年)8月24日、広島県安芸郡下蒲刈島村に平岡幸太郎の三男として生まれた。
鎌田 銓一(かまだ せんいち、1896年(明治29年)8月2… 鎌田 銓一(かまだ せんいち、1896年(明治29年)8月23日 - 1975年(昭和50年)11月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 東京府出身。兵庫県神戸で判事・鎌田孝二の長男として生まれる。早稲田中学校(現早稲田中学校・高等学校)、陸軍中央幼年学校予科、中央幼年学校本科を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官し工兵第3大隊付となる。1920年(大正9年)11月、陸軍砲工学校高等科(26期)を優等で卒業。1921年(大正10年)4月、帝国大学理工学部陸軍派遣学生として京都帝国大学工学部土木工学科に入学し、1924年(大正13年)3月に卒業した。
高 安彦(こう / たか やすひこ、1896年(明治29年)… 高 安彦(こう / たか やすひこ、1896年(明治29年)8月23日 - 1977年(昭和52年)9月2日)は、朝鮮総督府官僚。山口県山口市長、防府市長。 山口県吉敷郡大道村(現在の防府市)出身。1922年(大正11年)に東京帝国大学法学部仏法科を卒業し、高等試験に合格した。朝鮮総督府属、同警視、同警察官講習所教授、全羅北道警察部長、大邱専売局支局長、平安北道警察部長、京畿道警察部長、平安北道知事、平安南道知事、京畿道知事を歴任した。 1944年(昭和19年)、山口市長に選出された。 1960年(昭和35年)には防府市長に当選した。
小出 隆(こいで たかし、1896年 <明治29年> 8月2… 小出 隆(こいで たかし、1896年 <明治29年> 8月21日 - 1982年 <昭和57年> 12月11日)は、日本の経営者。八十二銀行頭取を務めた。位階は従四位。 長野県更級郡稲荷山町(現・千曲市)出身。旧制長野中学(長野県長野高等学校)を経て、1918年に早稲田大学商学部を卒業し、同年に六十三銀行(のちの八十二銀行)に入行。1937年に常務を経て、1951年2月に頭取に就任。1973年5月には会長に就任。1973年5月に会長を経て、1975年12月に相談役に就任。信越化学工業監査役も務めた 1957年に黄綬褒章を受章し、1966年に勲四等瑞宝章を受章し、1975年4月に勲三等旭日中綬章を受章。
佐川 義勇(さがわ ぎゆう、1896年(明治29年)8月21… 佐川 義勇(さがわ ぎゆう、1896年(明治29年)8月21日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 熊本県上益城郡龍野村(現・甲佐町)に生まれる。1915年(大正4年)3月、熊本県立中学済々黌を卒業し、1920年(大正9年)2月、台湾総督府に奉職する。 1940年(昭和15年)7月、地方理事官に進み、嘉義市助役に就任。ついで1942年(昭和17年)4月、高雄州岡山郡守に就任した。
西岡 斌(にしおか さかん、1896年(明治29年)8月20… 西岡 斌(にしおか さかん、1896年(明治29年)8月20日 - 1960年(昭和35年)9月26日)は、日本の政治家。北海道稚内市長(3期)。 北海道出身。1924年、中央大学法律専門部卒。卒業後はアメリカに留学し、オックス・フォード・ラスキンカレッジ経済学部で学んだ。帰国後は宗谷日日新聞を創刊、1932年に北海道会議員となり、稚内町長に就任するまで務めた。この間、調陽塾を開き、青少年の教育に力を注いだ。1947年、稚内町長に就任。2年後の1949年の市制施行に伴い、稚内市長に就任した。1951年の市長選挙で再選。1955年の市長選挙で三選。1959年に市長を退任した。同年、市の顧問となったが、翌1960年に死去した。
重森 三玲(しげもり みれい、1896年8月20日 - 19… 重森 三玲(しげもり みれい、1896年8月20日 - 1975年3月12日)は、昭和期の日本の作庭家・日本庭園史の研究家。出生名は重森 計夫(しげもり かずお)。 岡山県上房郡吉川村(現・加賀郡吉備中央町吉川)の生まれ。当地には豪渓(ごうけい)と呼ばれる水墨山水画の世界を思わせる渓谷地帯がある。日本美術学校で日本画を学び、華道と茶道を習い稽古に励む。日本美術学校卒業後には東洋大学文学部に学ぶ。 大正6年(1917年)に画家の道を志し上京するが、全国から集まる才能に意気消沈する。昭和4年(1929年)京都へ移り住むと、翌年には勅使河原蒼風らと「新興いけばな宣言」を起草(当時は未発表)、いけばなの革新を世に提唱した。
野村 ミス(のむら ミス、1896年8月19日 – 1979… 野村 ミス(のむら ミス、1896年8月19日 – 1979年3月15日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。旧姓は高野。 新潟県中魚沼郡倉俣村(現十日町市)出身。1919年上野家政女学校高等科卒業。卒業後は故郷の小学校の教諭(訓導)を務め、税務署職員だった野村幸次郎と結婚した。戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙に新潟県1区(大選挙区制)から無所属で立候補して当選した。当選後は国民協同党に入った。翌1947年の第1回参議院議員通常選挙で新潟県から国民協同党公認で立候補したが落選した。1979年死去。
大西 十寸男(おおにし としお、俊夫とも、1896年(明治2… 大西 十寸男(おおにし としお、俊夫とも、1896年(明治29年)8月18日 - 1947年(昭和22年)7月29日)は、日本の政治家、農民運動家。参議院議員(無所属懇談会、1期)。 三重県飯南郡花岡村(現:松阪市)生まれ。早稲田大学で建設者同盟に加わり、卒業後の1922年(大正11年)に日本農民組合関東同盟を組織。翌年には日農総本部書記となり、1927年(昭和2年)に日本共産党に入党。三・一五事件、四・一六事件で検挙された後に共産党から離党し、全国農民組合総本部書記を歴任。一方で労農派の立場から農民運動や左翼運動を指導し、人民戦線事件で検挙された。 戦後、日本農民組合の再建に関わり、1947年(昭和22年)2月には同会書記長になる。
多田 鉄之助(ただ てつのすけ、1896年8月15日 - 1… 多田 鉄之助(ただ てつのすけ、1896年8月15日 - 1984年1月22日)は、日本の食味評論家。 東京市根岸出身。1922年、慶應義塾大学部理財科を卒業。「時事新報」記者、牧場観光会社長などを経て、1933年に多田食味研究所を設立、月刊誌『食味評論』を主宰した。テレビの料理教室の草分けで、多くの料理学校の運営にも参加した。百歳までは現役と「百現会」を旗揚げした。1984年1月22日死去。87歳。
海野 厚(うんの あつし、1896年8月12日 - 1925… 海野 厚(うんの あつし、1896年8月12日 - 1925年5月20日)は、童謡作家、俳人。本名は厚一(こういち)。俳号は長頸子(ちょうけいし)。 静岡県安倍郡豊田村曲金(現:静岡市駿河区曲金二丁目)の出身。生家は大地主だったが、後に没落。 旧制静岡中学卒業後、早稲田大学に入学。童話雑誌「赤い鳥」に投稿した作品が北原白秋に認められ童謡作家となる。俳句同人誌「曲水」にも参加。中山晋平らとともに「子供達の歌」を出版。雑誌「海国少年」の編集長も務めた。結核のため28歳で死去したため作品数は多くない。没後は西豊田小学校に隣接する法蔵禅寺に葬られ、墓石が存在する。 彼の母校である静岡市立西豊田小学校には「背くらべ」の歌碑が建てられている。
猪口 敏平(いのぐち としひら、1896年(明治29年)8月… 猪口 敏平(いのぐち としひら、1896年(明治29年)8月11日 - 1944年(昭和19年)10月24日)は、日本の海軍軍人。鳥取県出身。戦艦「武蔵」艦長として戦死し、一階級特進で最終階級は海軍中将。 鳥取県気高郡賀露村(現・鳥取市)において大工棟梁・猪口鉄蔵の長男として生まれる。弟に猪口力平(海軍兵学校第52期)がいる。海軍内では兄は「猪口敏(チョコビン)」、弟は「猪口力(チョコリキ)」と区別する呼称もあった。旧制鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)を経て、海軍兵学校と陸軍士官学校第30期を受験し双方に合格。海兵第46期へ入学。1918年(大正7年)11月、10番/124名(1番は山階宮武彦王、実質は9番)の成績で卒業。
安田 喜代門(やすだ きよもん、1896年(明治29年)8月… 安田 喜代門(やすだ きよもん、1896年(明治29年)8月10日 - 1980年(昭和55年)4月7日)は、日本の国語学者。 主著『国文法概論』で新たに「感動助詞」という分類を作った。 1896年(明治29年)8月10日に兵庫県津名郡五色町鮎原西(現、洲本市鮎原西)に父金吉、母すみの長男として生まれる。鮎原村立小学校、洲本中学校を卒業後、1916年(大正5年)9月に國學院大學に入学。1919年(大正8年)7月に同大学師範部国語漢文科を卒業した。 教員として静岡県立浜松中学校、兵庫県立洲本中学校、山梨県立日川中学校、岐阜県立武義中学校に勤務。1925年(大正14年)に福岡高等学校助教授。1930年(昭和5年)福岡高等学校(現在の九州大学)教授。
福本 柳一(ふくもと りゅういち、1896年(明治29年)8… 福本 柳一(ふくもと りゅういち、1896年(明治29年)8月10日 - 1991年(平成3年)2月1日)は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事、全日本空輸副社長。位階は正四位。 農業・福本万右衛門の二男として岡山県上房郡川面村(現:高梁市)で生まれる。高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)、第六高等学校を経て、1922年3月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。1921年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1922年5月、司法官試補となり横浜地方裁判所に配属され、さらに東京地方裁判所で勤務する。 1923年11月、帝都復興院属に転じ、以後、神奈川県橘樹郡長、同県社会課・社会教育課・工場課・水産課・庶務課の各課長を経験し、福井県書記官・警察部長、新潟県書記官・警察部長、内務省社会局軍事扶助課長、厚生省書記官、内務省土木局道路課長、同警保局図書課長、情報局第四部長などを歴任した。
溝口 三郎(みぞぐち さぶろう、1896年(明治29年)8月… 溝口 三郎(みぞぐち さぶろう、1896年(明治29年)8月10日 - 1973年(昭和48年)1月1日)は、日本の美術史家、漆工研究家、漆芸家。東京国立博物館工芸課長。 東京府で伯爵・溝口直正の八男として生まれ、叔父・溝口武五郎の養子となる。1916年(大正5年)東京美術学校漆工科本科を卒業し、同研究科に進み漆芸史の研究を行い1921年(大正10年)に修了した。 舞台美術家として築地小劇場に参加した。その後、漆工品の修理・模造を担い、国宝の扇散蒔絵手箱、籬菊蒔絵硯箱、舟橋蒔絵硯箱の模造で知られた。 1928年(昭和3年)東京帝室博物館(現東京国立博物館)嘱託となり、戦後も引き続いて勤務し漆工史の研究を行った。
伊知地 寧次郎(いちぢ やすじろう、1896年8月8日 - … 伊知地 寧次郎(いちぢ やすじろう、1896年8月8日 - 1967年11月6日)は、日本の実業家。 福岡県出身。1915年福岡県立中学修猷館を経て、1922年慶應義塾大学部理財科(現・経済学部)卒業。 大同電力に入社。天竜川電力、矢作水力、矢作工業、昭和曹達の各理事を歴任。1943年7月鶴見曹達専務、1948年日東味の精社長、1952年2月東亞合成化学工業常務、1954年東北化学工業社長を経て、1958年鶴見曹達および東亞合成化学工業の社長に就任する。 1959年矢作製作所取締役、1960年寺岡製作所会長、1963年日本アクリル化学社長、東海興業監査役も務めた。 1964年藍綬褒章受章、1966年勲三等に叙せられる。
赤松 要(あかまつ かなめ、1896年8月7日 - 1974… 赤松 要(あかまつ かなめ、1896年8月7日 - 1974年12月20日)は、日本の経済学者。一橋大学名誉教授。日本における経済政策学の第一人者で、雁行形態論(のち小島清や山澤逸平らにより発展)等を提唱したことで知られる。 福岡県に旧久留米藩藩士の長男として生まれる。久留米商業学校(現久留米市立久留米商業高等学校)、神戸高等商業学校(現神戸大学)を経て、1921年東京高等商業学校(現一橋大学)卒。1944年経済学博士(東京商科大学)。福田徳三門下。 1921年、名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)講師、1922年、同教授。1923年から留学し、ドイツでハインリヒ・リッケルトとヘルマン・グロックナーに師事したのちアメリカ合衆国でに移りハーヴァード大学でケースメソッドを学んだ。
横田 喜三郎(よこた きさぶろう、1896年(明治29年)8… 横田 喜三郎(よこた きさぶろう、1896年(明治29年)8月6日 - 1993年(平成5年)2月17日)は、日本の法学者、裁判官。専門は国際法。学位は、法学博士(東京帝国大学・1949年)(学位論文「国際裁判の本質」)。東京大学名誉教授。第3代最高裁判所長官。栄典は従二位・勲一等・文化勲章・文化功労者・紺綬褒章・江南市名誉市民など。 かつてはマルクス主義の読書会(ベルリン社会科学研究会)に参加するなど親社会主義的な法学者として知られ、軍部に睨まれたこともあった。1931年(昭和6年)の満洲事変に際し、自衛権範囲の逸脱だと軍部を批判した。1930年から1931年にかけて、『国家学会雑誌』上でケルゼンの純粋法学をめぐり、擁護する立場から美濃部達吉と論争を行う。
荒木 武行(あらき ぶこう、1896年(明治29年)8月5日… 荒木 武行(あらき ぶこう、1896年(明治29年)8月5日 - 1972年(昭和47年)6月12日)は、大正から昭和期のジャーナリスト、実業家、政治家。衆議院議員、福島県耶麻郡駒形村長。 福島県耶麻郡駒形村(塩川町を経て現喜多方市)で、荒木與三郎の息子として生まれる。会津中学校(現福島県立会津高等学校)を中退し、その後は独学した。 18歳で福島民報記者となり、福島民友などを経て、1920年(大正9年)1月に上京し東京日日新聞の地方部記者となる。その後、やまと新聞、時事新報を経て、1925年(大正14年)4月、中外商業新報の編輯局長付となり、同論説委員を務めた。1929年(昭和4年)9月、夕刊会津タイムス社を設立し社長に就任。
大辻 司郎(おおつじ しろう、本名:大辻 四郎、1896年(… 大辻 司郎(おおつじ しろう、本名:大辻 四郎、1896年(明治29年)8月5日 - 1952年(昭和27年)4月9日)は、日本の活動弁士、漫談家。 漫談という言葉をつくり、自らを漫談宗家、漫談家元と名乗った文字通り漫談家の草分け。もく星号墜落事故犠牲者のひとりとしても知られる。 東京市日本橋出身。甲洋学舎卒業、父がやっていた「尾張屋」という株屋を経て活動弁士染井三郎や柳思外に師事。浅草帝国館で初舞台。活動写真の弁士を目指し、独学で1916年(大正5年)に外国映画の弁士としてスタート。きっかけはその年の徴兵検査で甲種合格したため、兵役から逃れる為だったという。喜劇専門の弁士として活躍。独特の奇声で喋る『勝手知ったる他人の家』、『胸に一物、手に荷物』、『ハラハラと落つる涙を小脇に抱え』といったフレーズで一躍、人気弁士に躍り出る。