水島 三一郎(みずしま さんいちろう、1899年3月21日 … 水島 三一郎(みずしま さんいちろう、1899年3月21日 - 1983年8月3日)は、日本の化学者。東京大学名誉教授。専門は構造化学・分子構造・分子科学。分子構造論の世界的先駆者。日本学士院会員。
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水島 三一郎(みずしま さんいちろう、1899年3月21日 … 水島 三一郎(みずしま さんいちろう、1899年3月21日 - 1983年8月3日)は、日本の化学者。東京大学名誉教授。専門は構造化学・分子構造・分子科学。分子構造論の世界的先駆者。日本学士院会員。
高木 幹夫(たかぎ みきお、1899年3月21日 - 196… 高木 幹夫(たかぎ みきお、1899年3月21日 - 1966年8月14日)は、日本の実業家。元東京海上火災保険社長。
高木 幹夫(たかぎ みきお、1899年3月21日 - 196… 高木 幹夫(たかぎ みきお、1899年3月21日 - 1966年8月14日)は、日本の実業家。元東京海上火災保険社長。 高木磯太郎の長男として、福岡県筑紫郡大野村牛頸(現・大野城市牛頸)に生まれる。1917年、福岡県立中学修猷館、1920年、第一高等学校英法科を経て、1923年、東京帝国大学法学部英法科を卒業し、東京海上火災保険に入社する。なお、東京帝国大学在学中の1922年には、高等文官試験行政科に合格している。 1924年から5年間、海上保険研究のため英国に留学し、将来の最高幹部の基礎を作った。1939年、大阪支店長に抜擢され、その後海上営業部長となる。1944年の明治火災保険、三菱海上火災保険との合併後も、海上部長、総務部長、取締役と進み、1947年1月、常務取締役となり、1957年6月、社長に就任する。
織田 智(おだ さとる、1899年(明治32年)3月20日 … 織田 智(おだ さとる、1899年(明治32年)3月20日 - 1981年(昭和56年)7月19日)は、昭和期の内務官僚。戦後山形県知事(官選最後)を経て、市川市長となる。 福井市出身。東京帝国大学を経て内務省に入省し、1940年から3年間、千葉県書記官・経済部長を務める。その後、朝鮮総督府物価課長となるが、戦後帰国して本省に戻り、1947年3月14日に山形県知事に任命される。 ところが、就任直後に千葉県知事選挙に出馬すべく県知事の辞表を出して無所属での立候補を表明した。折しも日本自由党と日本進歩党(3月31日に民主党となる)の間で統一候補の合意に失敗し、候補を欠いた進歩党は3月17日になって織田を推薦した。
時雨 音羽(しぐれ おとは、1899年(明治32年)3月19… 時雨 音羽(しぐれ おとは、1899年(明治32年)3月19日 - 1980年(昭和55年)7月25日)は、昭和期の作詞家。出生時の戸籍上の名前は池野 音吉(いけの おときち)であるが、1961年(昭和36年)に筆名を本名に改名したため、没年時の本名も時雨音羽である。 北海道利尻島沓形村番外地出身。5人兄弟の末っ子として生まれる。父邦蔵は、新潟県佐渡郡の出身。 新湊小学校、沓形小学校高等科卒業。1916年(大正5年)沓形村役場に附属員として勤めていたが、1918年(大正7年)秋頃上京する。日本大学法科に検定で合格し、1923年(大正12年)卒業後、大蔵省主税局織物課に勤めた。 1925年(大正14年)、新大衆誌『キング』9月号に講談社の依頼で民謡詩「朝日をあびて(後の出船の港)」を掲載。
恒松 安夫(つねまつ やすお、1899年(明治32年)3月1… 恒松 安夫(つねまつ やすお、1899年(明治32年)3月18日 - 1963年(昭和38年)5月20日)は、日本の政治家・歴史学者。島根県知事(2期)、大田市名誉市民。政治家・恒松隆慶の孫。位階は従四位。勲三等瑞宝章。 島根県安濃郡長久村(現大田市長久町)で、恒松嘉吉・ケン夫妻の二男として生まれる。杵築中学校(現島根県立大社高等学校)在学中は剣道に励んだ。祖父隆慶と岡本かの子の父・大貫寅吉が親しかったことから、慶應義塾大学予科に進学後、岡本一平・かの子の家に寄宿していた。岡本夫妻はともに家事家計が苦手であり、見るに見かねて手伝っているうちに家事一切や幼い息子太郎の世話、夫妻の給金や原稿料の貯蓄、かの子の執筆のための資料集めや原稿の清書までやる羽目になったという。
小池 厚之助(こいけ こうのすけ、1899年(明治32年)3… 小池 厚之助(こいけ こうのすけ、1899年(明治32年)3月16日 - 1985年(昭和60年)1月2日)は、日本の実業家。元山一証券社長、元同社会長、元小池銀行頭取、元小池証券社長、元高千穂商科大学(現高千穂大学)理事長。 小池国三の子として1899年(明治32年)山梨県で生まれ、旧制高千穂中学校(第3回卒業)を経て東京帝国大学政治学科を卒業。1943年(昭和18年)9月、厚之助が社長を務めていた小池証券が山一証券に吸収合併。新体制となった山一証券では厚之助が社長となり、山一の社長だった木下茂が会長に就いた。厚之助は小田急電鉄株式会社監査役、東京商工会議所議員、国際商業会議所日本国内委員会財務委員、経済同友会幹事なども務めた。
佐々木 丙二(ささき へいじ、1899年(明治32年)3月1… 佐々木 丙二(ささき へいじ、1899年(明治32年)3月15日 - 1945年(昭和20年)9月1日)は、日本海軍の軍人。海軍兵学校48期。太平洋戦争末期のミンダナオ島防衛戦において、第32特別根拠地隊ザンボアンガ派遣隊長兼第33警備隊副長として戦死。最終階級は海軍中佐。五・一五事件を契機に予備役に編入され、満州国軍政部に籍を置いた時期もあった。 広島県広島市出身。代々広島藩の上士の家系。広島高等師範学校附属中学校(現:広島大学附属中学校・高等学校)を卒業し、1917年(大正6年)江田島の海軍兵学校(48期)に進んだ。卒業直前に、宮中御内儀として明治天皇の皇后(昭憲皇太后)に仕えた叔母マチと養子縁組した。
川田 熊太郎(かわだ くまたろう、1899年3月15日 - … 川田 熊太郎(かわだ くまたろう、1899年3月15日 - 1981年3月31日)は、日本の仏教学・比較思想学者。 1899年、香川県(旧:大川郡長尾村前山来栖。現:さぬき市前山)生まれ。1922年に東京帝国大学法学部を卒業したが、同じ頃に哲学を研究したいとの希求が高まり、同年、東京帝国大学文学部に入学し、1925年同文学部哲学科を卒業し、直ちに同大学大学院に入る。1927年日本女子大学教授に就任し、西洋哲学、特にプラトンの研究に傾注した。 1941年、『プラトン弁証法の研究』(河出書房、1940年刊)によって東京帝国大学から文学博士の学位が授与された。同年、東京文理科大学助教授に、1943年には同大学教授に任ぜられて、戦後にも及び、1950年には東京大学教養学部教授に就任して、比較哲学の講義や東西思想の比較研究を行った。
岡 延右衛門(延右エ門、おか のぶえもん、1899年(明治3… 岡 延右衛門(延右エ門、おか のぶえもん、1899年(明治32年)3月15日 - 1970年(昭和45年)12月1日)は、大正末から昭和期のジャーナリスト、政治家。衆議院議員(1期)。カトリック教徒。 長崎県北松浦郡黒島村(現佐世保市黒島町)でカトリックの家に生まれる。1924年(大正13年)早稲田大学専門部政治経済科を卒業した。同年、母校にカトリック研究会を設立し、公教青年会のメンバーとしても活躍した。 大学卒業後、『萬朝報』の記者となり、社会部長、政治部長、整理部長、編集局長を歴任。戦時下に内閣情報部嘱託、情報局嘱託、内閣嘱託となり、情報局から日・満・支のカトリック統合の使命を帯びて北京に派遣された。
大坪 保雄(おおつぼ やすお、1899年3月14日 - 19… 大坪 保雄(おおつぼ やすお、1899年3月14日 - 1974年1月29日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員(5期)。 佐賀県生まれ。東京帝国大学法学部卒。内務省入省、警保局出身。1935年、満洲国総務庁法制処長。1940年、第37代島根県知事。大阪府警察局長。1944年、第28代長野県知事。長野県知事として終戦を迎え、玉音放送を受けて、県民に終戦を告諭した。1945年10月27日、知事を依願免本官となり退官。公職追放となる。 追放解除後の1952年の第25回衆議院議員総選挙と1953年の第25回衆議院議員総選挙に佐賀選挙区から自由党で出馬するが、落選。1955年の第27回衆議院議員総選挙で初当選。
佐藤 義夫(さとう よしお、1899年〈明治32年〉3月13… 佐藤 義夫(さとう よしお、1899年〈明治32年〉3月13日 - 1961年〈昭和36年〉7月29日)は、日本の実業家。中部日本放送社長を務めた。現在の岩手県奥州市(旧江刺市域)出身。 1922年に慶應義塾大学を卒業し、星製薬、時事新報社での勤務を経て、1935年に岩手日報社専務に就任する。その後、1942年に中日新聞社の前身である新愛知新聞社に入社し、取締役と常務を歴任した。 1950年に中部日本放送の専務に就任し、副社長を経て、1959年11月から社長に就任した。 1961年7月29日社長在職中に心筋梗塞で死去。62歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
野津 謙(のづ ゆずる、1899年(明治32年)3月12日 … 野津 謙(のづ ゆずる、1899年(明治32年)3月12日 - 1983年(昭和58年)8月27日)は、広島県広島市出身の医師(医学博士・小児科医)、サッカー選手(日本代表)。 サッカー指導者でもあり、第4代日本サッカー協会会長、アジアサッカー連盟副会長、国際サッカー連盟理事を歴任した。柔和でおだやかな人柄で、回りから敬意と親しみをこめて「のづけん」さんと呼ばれた。元日本損害保険協会会長の河野俊二は甥に当たる。 1899年(明治32年)、広島県広島市生まれ。父親も開業医だった。虚弱児童であったが、1911年(明治44年)4月、広島県立広島第一中学校(現・広島県立広島国泰寺高校)に進学すると在学中に蹴球部(サッカー部)が創部されサッカーを始めた。
守随 憲治(しゅずい けんじ、1899年3月10日 - 19… 守随 憲治(しゅずい けんじ、1899年3月10日 - 1983年2月7日)は、近世日本文学研究者、東京大学教養学部・実践女子大学名誉教授。
篠原 昌三(しのはら しょうぞう、1899年3月9日 - 1… 篠原 昌三(しのはら しょうぞう、1899年3月9日 - 1986年)は、日本の通信技術者、実業家。 篠原多一郎の三男として福岡市に生まれる。1918年福岡県立中学修猷館を経て、1922年7月東京高等工業学校(現・東京工業大学)電気科を卒業。 卒業後、朝鮮総督府逓信局の技手となる。同局において放送用無線電話(ラジオ放送)の調査研究と知識普及のために、官営の実験用無線電話局を開設することが計画され、篠原にその任務が命ぜられる。1924年1月に東京に赴き、技術修得と共に、通信機器を調達、京城に戻り、通信設備工事と機器調整を行い、同年11月、朝鮮半島最初の放送電波を発射した。1926年11月京城放送局(コールサイン「JODK」)が設立され、篠原はその技術責任者として通信設備を構築し、1927年2月16日、1kw放送設備での本放送が開始された。
宮原 禎次(みやはら ていじ、1899年3月8日 - 197… 宮原 禎次(みやはら ていじ、1899年3月8日 - 1976年1月21日)は、日本の作曲家。岡山県出身。 岡山師範学校、東京音楽学校師範科卒業し、岡山師範学校に勤務。山田耕筰、エルウィン・クリストフ、アドルフ・シュルツに師事する。 1934年国立音楽学校作曲科教授、1937年より神戸女学院教授、1954年から1976年まで武庫川女子大学音楽学部教授を歴任。 実弟・宮原康郎と共に、「国民歌謡」(1936年 - 1941年)の作曲にも寄与した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
石川 淳(いしかわ じゅん、1899年(明治32年)3月7日… 石川 淳(いしかわ じゅん、1899年(明治32年)3月7日 - 1987年(昭和62年)12月29日)は、日本の小説家・文芸評論家・翻訳家。東京府浅草区生まれ。無頼派、独自孤高の作家とも呼ばれ、エッセイでは夷斎と号し親しまれた。本名:淳(きよし)。日本芸術院会員。 祖父から論語の素読を受け、森鷗外に熱中して文学を志す。東京外国語学校仏語科卒。『普賢』(1936年)で芥川賞受賞。『マルスの歌』(1938年)は反軍国調の廉で発禁処分を受けた。 寓意的作品が多く、戦後は『焼跡のイエス』(1946年)を書き、太宰治・坂口安吾とともに新戯作派・無頼派として人気を集めたが、次第に東洋的境地で健筆を振るった。
宮澤 俊義(みやざわ としよし、1899年〈明治32年〉3月… 宮澤 俊義(みやざわ としよし、1899年〈明治32年〉3月6日 - 1976年〈昭和51年〉9月4日)は、日本の法学者。専攻は憲法。東京大学名誉教授。立教大学法学部元教授。貴族院議員。日本野球機構(プロ野球)コミッショナー。位階は従二位。日本国憲法の制定に寄与し、憲法学の権威と謳われた。美濃部達吉門下。弟子に佐藤功、高柳信一、小嶋和司、芦部信喜、深瀬忠一など。 1899年(明治32年)3月6日、長野県長野市に生まれる。旧制長野中学、東京府立四中、第一高等学校を卒業。 1923年、東京帝国大学法学部卒業後、美濃部達吉の助手(弟子)となり、1925年、同大学法学部助教授となる。1930年から1932年にかけて、フランス、ドイツ、アメリカへ留学。
宮澤 俊義(みやざわ としよし、1899年(明治32年)3月… 宮澤 俊義(みやざわ としよし、1899年(明治32年)3月6日 - 1976年(昭和51年)9月4日)は、日本の法学者。専攻は憲法。東京大学名誉教授。貴族院議員。長野県長野市出身。
関口 林五郎(せきぐち りんごろう、1899年〈明治32年〉… 関口 林五郎(せきぐち りんごろう、1899年〈明治32年〉3月5日 - 1973年〈昭和48年〉6月26日)は、日本の医師(関口整形外科病院院長、群馬県医師会会長)、柔道家(講道館八段)。父は接骨師で柔道八段・関口孝五郎、弟は医師で柔道八段・関口恒五郎。群馬県体育協会会長、群馬県公安委員長、群馬県立前橋高等学校同窓会長。正五位、藍綬褒章、紺綬褒章、勲三等瑞宝章受章。 1899年(明治32年)3月5日、柔道家・関口孝五郎の長男として、群馬県群馬郡白郷井村(北群馬郡子持村を経て現在渋川市)に生まれる。2歳の時父が柔道場「弘道館」を開いたため前橋市に移住。旧制・群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒業後、旧制・日本医学専門学校(現・日本医科大学)に進み1923年(大正12年)卒業。
酒井 協(さかい きょう、1899年3月4日 - 1982年… 酒井 協(さかい きょう、1899年3月4日 - 1982年2月24日)は、日本の作曲家。宝塚歌劇団名誉理事。福井県出身。 1899年(明治32年)、福井市で理髪店を営む家庭に生まれる。少年時代より音楽を志望するも自宅が火災に遭って全焼する不運に見舞われ、家計を助けるため京都市電に就職した。後に病気の母を看護するため帰郷して越前電気鉄道に移り、夜間にヴァイオリンのレッスンへ通う生活を送った。ヴァイオリンの師に薦められて兵庫県川辺郡小浜村(現在の宝塚市)で阪急電鉄が発足させた宝塚歌劇団の管弦楽部へ入部する。 宝塚ではエマヌエル・メッテルから演奏と指揮を学び、劇団の専属作曲家として劇伴曲の作曲や編曲に当たった。
北川 桃雄(きたがわ ももお、1899年3月3日-1969年… 北川 桃雄(きたがわ ももお、1899年3月3日-1969年5月19日)は、日本の美術史家。 1899年、東京都港区で生まれた。旧制芝中学を経て、旧制第二高等学校で学んだ。1921年に卒業し、京都帝国大学経済学部に進学。1924年に卒業。 卒業後は、奈良県立五條中学校(現奈良県立五條高等学校)の英語科教諭として勤務。同年8月に笠井ふぢと結婚。その後京都市立第一工業学校教師に転じた。同校での同僚には下村寅太郎、田中忠雄らがいた。 1937年8月13日、北川の参加する文芸雑誌『リアル』がコミンテルンと通じているとの嫌疑で、工業学校の同僚・田中忠雄らとともに治安維持法違反で検挙された。 翌1938年東京に転居し、志賀直哉の勧めで東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学。
丹下 郁太郎(たんげ いくたろう、1899年〈明治32年〉3… 丹下 郁太郎(たんげ いくたろう、1899年〈明治32年〉3月2日 - 没年不明)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。咸鏡南道知事、京畿道知事。朝鮮総督府警務局長。建築家の丹下健三は弟(異母)。 丹下辰世の長男として愛媛県越智郡今治町(現今治市)に生まれる。1921年(大正10年)11月、高等試験行政科に合格。1922年(大正11年)東京帝国大学経済学部を卒業し、旭石油を経て、朝鮮総督府に奉職。京畿道、忠清北道各勤務、全羅北道警務課長、咸鏡南道、平安北道各警察部長、朝鮮総督府警務局保安課長、総督官房資源課長、企画部第一課長兼総督官房資源課長を経て、1941年(昭和16年)6月、咸鏡南道知事に就任した。
新田 義美(にった よしとみ、1899年3月2日 - 196… 新田 義美(にった よしとみ、1899年3月2日 - 1969年11月20日)は、昭和時代の華族、男爵。 岩松新田氏・新田忠純の子。兄弟は俊子(今村繁三室)、てい(桂与一室)、幸子(四女、松平慶民室)、義郎(北畠克通養子)、義之(岩松純行養子)ら。妻は高浜虚子の娘宵子。男子はなく、娘に武子、恭子、汪子(山田栄作妻)、公子(宇佐美承妻)、容子(国井文扶妻)、矩子(小谷野晃一妻)。 1926年(大正15年)に明治大学政治経済学部を卒業し、第一生命保険相互会社に勤務する。1966年(昭和41年)、自身が所蔵していた古文書や絵画など約9,000点を群馬大学に寄贈し、現在新田文庫として公開されている。婿の山田栄作と娘汪子の間の陽子(孫娘)が跡を継いだ。
林 興一郎(はやし こういちろう、1899年3月1日 - 1… 林 興一郎(はやし こういちろう、1899年3月1日 - 1965年1月4日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 広島県出身。1919年広島県立忠海中学校(現・広島県立忠海高等学校)卒。漁業を営み、広島県水産会長、同漁業組合連合会長、瀬戸内海水産連合会理事長、中央水産業会理事、中国五県水産連合理事長、倉橋島漁業会長を務め、広島県会議員、同県議会議員、同議長を務めた。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で広島県から諸派で立候補したが次点で落選する。しかし、6月に同じ選挙区から当選した田中貢の辞職により、繰り上げ当選となった。当選後は協同民主党に入った。翌1947年3月には国民協同党と変わり、国民協同党代議士会副会長となった。
石井 頼三(いしい らいぞう、1899年(明治32年)3月1… 石井 頼三(いしい らいぞう、1899年(明治32年)3月1日 - 1974年(昭和49年)5月12日)は日本の商品学者。理化学研究所所員、一橋大学小平分校教授を経て、千葉商科大学学長(第3代)。京都大学理学博士。商品学の研究者として著名である。 弟子に中野紘一(日本大学商学部元教授)等がいる。 1899年(明治32年)3月1日、鳥取県八頭郡若桜村(現・若桜町)に生まれた。 鳥取県師範学校卒業後、地元の鳥取県八頭郡若桜小学校訓導に就任。 その後東京高等師範学校理科を卒業し和歌山県立海南中学校教諭に就任。 1932年(昭和7年)に東京文理科大学化学科を第一回卒業生として卒業し理化学研究所入所。 1944年京都大学で理学博士の学位を取得した。
上田 精一(うえだ せいいち、1899年3月1日 - 没年不… 上田 精一(うえだ せいいち、1899年3月1日 - 没年不明)は、日本の陸上競技選手。 現在の島根県出雲市出身。島根師範学校から東京高等師範学校に進む。 東京高等師範学校在学中、1922年・1923年の日本陸上競技選手権大会のやり投種目を連覇。1923年には第6回極東選手権競技大会(大阪)に五種競技で出場して優勝した。 東京高等師範学校在学中に、1924年パリオリンピックで男子五種競技に出場した。 1925年には第7回極東選手権競技大会(マニラ)に五種競技で出場した。 この項目は、陸上選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:陸上競技/PJ陸上競技)。
広瀬 永造(ひろせ えいぞう、1899年(明治32年)3月 … 広瀬 永造(ひろせ えいぞう、1899年(明治32年)3月 - 1951年(昭和26年)1月7日)は、日本の内務・警察官僚。官選和歌山県知事。 兵庫県出身。第三高等学校を卒業。1922年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1923年、京都帝国大学法学部法律学科を卒業。内務省に入省し静岡県属となる。 以後、静岡県警視、神奈川県勤務、福岡県勤務、兵庫県勤務、宮崎県書記官・警察部長、高知県書記官・警察部長、岡山県書記官・警察部長、福岡県書記官・警察部長、兵庫県書記官・警察部長、大阪府書記官・警察部長、警視庁警務部長を歴任した。 1941年10月、和歌山県知事に就任。戦時下の対応に尽力。1944年8月1日、知事を依願免本官となり退官した。
藤原 啓(ふじわら けい、1899年2月28日 - 1983… 藤原 啓(ふじわら けい、1899年2月28日 - 1983年11月12日)は、日本の陶芸家。本名は敬二。同じく陶芸家の藤原雄は長男、藤原敬介は次男。岡山県名誉県民。1970年に人間国宝に認定。 岡山県備前市穂浪(当時の和気郡伊里村穂浪)出身。農業藤原伊三郎、世為の三男として生まれる。 少年期から俳句や小説の才能を発揮しており、1915年に博文館が手がける『文章世界』に応募した短編が1等を獲得する。これを機に1919年に上京し博文館編集部に勤務、『文章世界』の編集を担当する。同郷の正宗白鳥、徳富蘆花の影響を強く受け詩の執筆も始める。そのかたわら早稲田大学英文科の聴講生となり、ロシア・ドイツ文学やシェイクスピアを学ぶが1年あまりで中退。
石濱 金作(いしはま きんさく、1899年(明治32年)2月… 石濱 金作(いしはま きんさく、1899年(明治32年)2月28日 - 1968年(昭和43年)11月21日)は、日本の小説家、推理作家。 東京市京橋木挽町出身。父は時事新報記者の石浜鉄郎、兄は経済学者の石浜知行。子ども時代は大阪府で育ち、第一高等学校を経て、1924年に東京帝国大学英文学科を卒業。 1921年、22歳のとき川端康成らと第6次『新思潮』を創刊。その後『文藝春秋』の編集同人となる。1924年に『文藝時代』の創刊に携わり、新感覚派の新人作家として活躍。戦後の作品に、旧友である川端康成との交友について書いた「青春修業記―無常迅速」(『文芸読物』1950年5月号)などがある。多くの作品を文芸誌に発表したが、単行本化されておらず、現在多くの作品は初出誌にあたる他ない。
森 岩雄(、1899年〈明治32年〉2月27日 - 1979… 森 岩雄(、1899年〈明治32年〉2月27日 - 1979年〈昭和54年〉5月14日)は、日本の映画プロデューサー、脚本家、映画評論家。神奈川県横浜市出身。 40年以上に渡り東宝の役員を務め、同社映画の近代的な方向性を確立し、日本映画界に大きく貢献した。 1917年(大正6年)、京華商業高等学校卒業後、成蹊実業専門学校に学ぶ(一期生)。在学中、結核を患ったことをきっかけに、活動写真に興味を持つ。 1919年(大正8年)東京日日新聞が募集した乙種活動写真シナリオに二等第一席(一等なし)で入選。1921年(大正10年)、『活動倶楽部』に日本初の映画論文となる「活動写真芸術の過去・現在・未来」を発表。
嶋田 清次郎(しまだ せいじろう、1899年(明治32年)2… 嶋田 清次郎(しまだ せいじろう、1899年(明治32年)2月26日 - 1930年(昭和5年)4月29日)は、日本の小説家。文壇で有名であった時代には「島清」という略称でも呼ばれた。
高木 寿一(たかぎ としかず、1899年2月26日 - 19… 高木 寿一(たかぎ としかず、1899年2月26日 - 1976年6月30日)は、日本の経済学者・財政学者。慶應義塾大学名誉教授。 東京府東京市浅草区(現台東区)浅草生まれ。1921年慶應義塾大学部理財科卒、大学院に進む。1924年慶應義塾高等部教員、1927年よりヨーロッパに学ぶ。1949年慶應義塾大学経済学部教授となり、1953年「近代資本主義国家財政の経済的機能の発展」で経済学博士の学位を取得。1969年定年となり、名誉教授、流通経済大学教授を務めた。
薄井 己亥(うすい きがい、1899年(明治32年)2月25… 薄井 己亥(うすい きがい、1899年(明治32年)2月25日(旧暦) - 没年不明)は、昭和時代後期にかけて活動した郷土史家、歴史研究家、水戸史学会顧問。 茨城県那珂郡木崎村(のち那珂町、現那珂市)に生まれる。高等小学校卒業後、寺子屋で学ぶ。1918年(大正7年)頃上京し、正則英語学校で学ぶ。1919年(大正8年)仙台第一中学校(現宮城県仙台第一高等学校)の検定試験に合格する。合格後は開校したばかりの水戸高等学校に入学し、1年留年するが、1924年(大正13年)に卒業する。同年東京帝国大学法学部に入学。東大では上杉慎吉と美濃部達吉から憲法学を学ぶ。1927年(昭和2年)に卒業する。卒業後は大阪商船の内定を受けるが辞退する。
熱海 景良(あつみ けいりょう、1899年(明治32年)2月… 熱海 景良(あつみ けいりょう、1899年(明治32年)2月23日 - 1944年(昭和19年)2月27日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中佐。日本のジオイドを初めて計算した人物として知られる。 1899年(明治32年)、宮城県桃生郡野蒜村(現東松島市)に熱海安吉、ひさよの長男として出生。大阪陸軍地方幼年学校を経て、1919年(大正8年)5月28日に陸軍士官学校(31期)を卒業し、同年12月25日に工兵少尉に任官、工兵第19大隊付となる。陸軍砲工学校(28期)普通科を卒業後、1922年(大正11年)12月15日に工兵中尉に昇進し、1923年(大正12年)12月28日、陸地測量部班員に補される。
山田 勇助(やまだ ゆうすけ、1899年(明治32年)2月2… 山田 勇助(やまだ ゆうすけ、1899年(明治32年)2月22日 - 1942年(昭和17年)11月13日)は、日本の海軍軍人。水雷艇「千鳥」艇長として友鶴事件に際会。太平洋戦争において第六駆逐隊司令として第三次ソロモン海戦で戦死した。最終階級は海軍少将。 現在の山形県米沢市出身。米沢中学を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第32期)を受験し、双方に合格している。また、第一師団重砲兵第二連隊への配属も予定されていた。海軍兵学校へ進む。山田は海兵48期で、同期生171名中、中位の成績で卒業した。近野信雄は中学、海兵の同期生で、ともに米沢海軍武官会会員である。 1921年(大正10年)6月少尉任官。
佐治 孝徳(さじ たかのり、1899年(明治32年)2月20… 佐治 孝徳(さじ たかのり、1899年(明治32年)2月20日 - 1953年(昭和28年)4月1日)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。台東庁長。 高知県安芸郡奈半利町に生まれる。第四高等学校を経て、1920年(大正9年)東京帝国大学法学部政治科に入学。1923年(大正12年)同大を卒業。在学中の1922年(大正11年)11月に高等試験に合格し、台湾総督府に奉職し台北州属となった。 高雄州警務課長、台北州七星郡守、新竹州内務部地方課長、台湾総督官房審議室勤務、台湾総督府事務官、台湾総督府営林所庶務課長、台北州内務部長、台中州内務部長、台東庁長、台湾総督府専売局参事・専売局庶務課長兼樟脳課長を経て、1942年(昭和17年)7月、台湾総督府専売局長に就任した。
山沢 栄子(やまざわ えいこ、1899年2月19日 - 19… 山沢 栄子(やまざわ えいこ、1899年2月19日 - 1995年7月16日)は、大阪市出身の写真家。 女性写真家のパイオニアであり、関西を拠点にポートレートや広告写真の分野で活躍した。1960年以降は抽象的な形態のモティーフを組み合わせた「What I'm doing」のシリーズを制作した。「What I'm doing」のシリーズは大阪市中之島美術館に収蔵されている。 14歳から写真を始め、1918年女子美術学校(現・女子美術大学)日本画科選科卒業。1926年カリフォルニア・スクール・オブ・ファイン・アーツ(後のサンフランシスコ芸術大学(英語版))に留学し油絵を学ぶ。その間、写真家コンソエロ・カネガの助手として、本格的に写真を学ぶ。
菊井 維大(きくい つなひろ、旧姓田中、1899年(明治32… 菊井 維大(きくい つなひろ、旧姓田中、1899年(明治32年)2月19日 - 1991年(平成3年)11月15日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。東京大学名誉教授。日本学士院会員。長崎県長崎市出身。学習院大学教授の水野謙は長女の子(外孫)。加藤正治門下。弟子に三ケ月章、斎藤秀夫、大須賀虔、木澤克之など。 1923年(大正12年)東京帝国大学法学部卒業。 その後、東京帝国大学法学部助教授を経て、1932年(昭和7年)東京帝国大学法学部教授。1947年(昭和22年)東京大学法学部教授。 1959年(昭和34年)4月、立教大学法学部法学科教授に就任。1967年(昭和42年)立教大学総長事務取扱。
小林 中(こばやし あたる、1899年〈明治32年〉2月17… 小林 中(こばやし あたる、1899年〈明治32年〉2月17日 - 1981年〈昭和56年〉10月28日)は、日本の実業家。初代日本開発銀行(現・日本政策投資銀行)総裁、日本航空会長、東急電鉄社長、富国生命保険社長などを歴任。戦後の財界において影の財界総理と称されるほどの実力者であった。愛称はコバチュー。初代石和町名誉町民。位階は正三位。勲等は勲一等旭日大綬章。 1899年(明治32年)2月17日、山梨県中巨摩郡源村(現・南アルプス市)の村長を務めた矢崎貢と、小林伝右衛門の三女ふくの間に、次男として出生。伝右衛門の要請で両親とともに石和町に移り、同年12月に伝右衛門の養子となった。1901年(明治34年)9月には小林家の家督を相続した。
栗原 嘉名芽(くりはら かなめ、1899年2月16日 - 1… 栗原 嘉名芽(くりはら かなめ、1899年2月16日 - 1990年5月1日)は、日本の音響学者。 東京出身。東京帝国大学理学部物理学科卒業。東京高等商船学校教授。日本大学教授。東京学芸大学教授。日本女子大学文学部国文科教授。聖徳学園短期大学教授、同名誉教授。歌人として『青影』同人。日本科学協会顧問。
江角 ヤス(えすみ ヤス、1899年〈明治32年〉2月15日… 江角 ヤス(えすみ ヤス、1899年〈明治32年〉2月15日 - 1980年〈昭和55年〉11月30日)は、日本の教育者、修道女、社会事業家。 島根県簸川郡久木村(現在の出雲市)で、誕生した。父・文之助と母・ユウの3女で、9人きょうだいの6番目の子供だった。家の宗教は浄土真宗であった。 1905年(明治38年)、久木村尋常高等小学校に入学し、1911年(明治44年)に卒業する。同年4月には、簸川群直江村外5ヶ村の組合立直江高等小学校に入学し、1914年(大正3年)に卒業する。同年4月、島根県女子師範学校(二部)に入学し、1916年(大正5年)に卒業する。同年4月、東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)理科に入学する。
谷村 敬介(たにむら けいすけ、1899年 <明治32年> … 谷村 敬介(たにむら けいすけ、1899年 <明治32年> 2月15日 - 1993年 <平成5年> 1月30日)は、日本の経営者。大東京火災海上保険社長、会長を務めた。位階は従五位。 富山県出身。1922年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に鴻池銀行に入行。1926年に鴻池信託を経て、1939年に大東京火災海上保険に転じ、1944年に取締役に就任し、1945年に常務、1956年に専務を経て、1957年には社長に就任。1962年6月に会長を経て、1966年には相談役に退いた。 1963年に藍綬褒章を受章し、1966年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1993年1月30日心不全のために死去。93歳没。
猪谷 善一(いたに ぜんいち、1899年2月15日 - 19… 猪谷 善一(いたに ぜんいち、1899年2月15日 - 1980年1月16日)は、日本の経済学者。 富山県出身。1923年東京商科大学卒、同年助手、パリ留学をへて1927年助教授、1937年教授。1938年「最近日本貿易の伸展に関する実証的研究」で経済学博士。1939年退職、大阪商工会議所理事。亜細亜大学教授。1971年定年、駒澤大学教授。上田貞次郎に師事した。 妻の妙子は、幼女の頃より中勘助に愛された人として知られる(『中勘助の恋』富岡多恵子、創元社、1993)。中の学友・江木定男(江木鰐水の孫)とその妻・万世(関新平の娘で、定男の継母・悦子の妹でもあり、鏑木清方の代表作「築地明石町」のモデル)との娘で、お茶の水女学校を出て猪谷と結婚し出産もしたが、35歳で早世した。
金沢 治(かなざわ おさめ、1899年(明治32年)2月14… 金沢 治(かなざわ おさめ、1899年(明治32年)2月14日 - 1981年(昭和56年)5月12日)は日本の歌人、郷土史家、方言研究家。飯田義資(1894-1973)・一宮松次(1897-1972)と共に徳島県郷土史研究の三大長老の1人とされる。徳島県郷土資料専門調査員を務めた。 1899年2月14日、徳島県美馬郡半田町(現:つるぎ町)に金沢与平の長男として生まれる。 1918年3月、徳島県師範学校本科第一部を卒業する。 1923年4月、上京し国学院大学高等師範部に入学する。在学中は折口信夫に師事する。 1926年、国学院大学高等師範部を卒業し、神奈川県立商工高等学校に就職する。 1927年、帰郷し徳島県立徳島中学校に転任する。
大池 晴嵐(おおいけ せいらん、1899年〈明治32年〉2月… 大池 晴嵐(おおいけ せいらん、1899年〈明治32年〉2月14日 - 1977年〈昭和52年〉9月29日)は、日本の書家。愛知県丹羽郡古知野村(現・江南市)生まれ。号は晴嵐、別号に一魯、田翁、魯翁。本名は一良(かずよし)。正六位勲五等双光旭日章受章。 大正時代から昭和初期に活躍した中部地方(尾張地方)の漢字書家。行草書を得意とした。父に伴い名古屋で書を、親戚に画を習った。書を志し上京、豊道春海に師事する。泰東書道院で活躍するも、戦災により帰郷する。帰郷後は中部書壇の高揚に努め会派の違いを結集した中部日本書道会の育成に貢献した。自会派平心社(後の東海書道芸術院)を創立した。日展・中部日本書道会脱退後はかえって中部日本書道会の方が全国展出品者が増え、主流となっていった。
宮本 百合子(みやもと ゆりこ、1899年(明治32年)2月… 宮本 百合子(みやもと ゆりこ、1899年(明治32年)2月13日 - 1951年(昭和26年)1月21日)は、日本の昭和期の小説家・評論家。旧姓は中條(ちゅうじょう)、本名はユリ。日本女子大学英文科中退。 18歳で『貧しき人々の群』を発表し天才少女と注目された。米留学後結婚したが離婚、その経緯をまとめた『伸子』を発表。その後ソ連を訪れ日本共産党に入党。宮本顕治と結婚。再三検挙されながらも執筆活動を続けた。戦後は『歌声よ、おこれ』を書いて民主主義文学運動の出発を宣言、『播州平野』『風知草』『二つの庭』『道標』などを書いた。日本の左翼文学・民主主義文学、さらには日本の近代女流文学を代表する作家の一人である。
大久保 太三郎(おおくぼ たさぶろう、1899年 <明治32… 大久保 太三郎(おおくぼ たさぶろう、1899年 <明治32年> 2月13日 - 1974年 <昭和49年> 10月10日)は、日本の銀行家。位階は従四位。 兵庫県出身。1923年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本銀行に入行。1949年4月に理事を経て、1952年8月には監事に就任。 1958年5月から1963年4月までに千葉銀行頭取を務め、1961年に千葉商工会議所会頭に就任し、1963年5月には日本銀行政策委員会委員に就任。 1970年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1974年10月10日急性肺炎のために死去。75歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
堀田 吉雄(ほった よしお、1899年2月13日 - 200… 堀田 吉雄(ほった よしお、1899年2月13日 - 2001年7月28日)は、日本の民俗学者。 三重県津市生まれ。1924年文部省の検定試験に合格、朝鮮の高等女学校で教え、戦後は四日市市の新制中学校教諭、1950年三重県立桑名高等学校教諭、1956年退職。柳田国男に師事して、1966年『山の神信仰の研究』で柳田賞受賞。三重県文化財専門委員、伊勢民俗学会主宰。 2001年7月28日、老衰のため死去。
小山 栄三(こやま えいぞう、1899年2月12日 - 19… 小山 栄三(こやま えいぞう、1899年2月12日 - 1983年8月16日)は、日本の社会学者、新聞学者。立教大学名誉教授、立教大学社会学部長、国立世論調査所初代所長、日本世論調査協会会長、日本広報協会理事長。世論調査を日本で初めて行った第一人者として知られるとともに、日本の新聞学の基礎も築いた。 1899年2月12日、北海道小樽市に生まれる。 1924年、東京帝国大学文学部社会学科卒業。翌1925年、東京帝国大学法学部政治学科卒業。東京帝国大学新聞研究室の第1回生であり、研究室の助手などを務めた。1935年には、三省堂から「新聞学」を出版。 1938年、立教大学教授に就任する。翌1939年、厚生省人口問題研究所研究官、1943年には、文部省民族研究所員兼企画院調査官を歴任する。