スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
秋篠宮文仁親王(あきしののみや ふみひとしんのう、1965年… 秋篠宮文仁親王(あきしののみや ふみひとしんのう、1965年〈昭和40年〉11月30日 - )は、日本の皇族。秋篠宮家当主。御称号は礼宮(あやのみや)、お印は栂(ツガ)。身位は親王。敬称は殿下。勲等は大勲位。皇室会議議員。 文仁親王は、上皇(第125代・平成時代の天皇)明仁と上皇后美智子の第2皇男子(2男1女のうち第2子)、第126代・今上天皇(徳仁)の弟宮。現在、皇位継承順位第1位の皇嗣(2019年〈令和元年〉5月1日 - )である。現年齢60歳は世界の法定推定相続人の中では最年長である。 黒田清子(清子内親王)の次兄。皇位継承順位第2位の皇族である悠仁親王の父宮、小室眞子(眞子内親王) 、佳子内親王の父でもある。
皇太子徳仁親王(こうたいし なるひとしんのう、1960年(昭… 皇太子徳仁親王(こうたいし なるひとしんのう、1960年(昭和35年)2月23日 - )は、日本の皇族。今上天皇の第一皇男子。母は皇后美智子。御称号は浩宮(ひろのみや)。身位は皇太子(法定推定相続人)、親王。皇室典範に定める敬称は殿下。お印は梓(あずさ)。勲等は大勲位。学位は人文科学修士(学習院大学)1988年(昭和63年)。その他、名誉学位・称号として名誉法学博士(ケンブリッジ大学)などがある。皇位継承順位第1位。
高円宮 憲仁親王(たかまどのみや のりひとしんのう、1954… 高円宮 憲仁親王(たかまどのみや のりひとしんのう、1954年〈昭和29年〉12月29日 - 2002年〈平成14年〉11月21日)は、日本の皇族。高円宮家初代当主。身位は親王。お印は柊(ひいらぎ)。勲等は大勲位。学位は法学士(学習院大学)。大正天皇の皇孫(四男の三男である。皇室典範では薨去時の皇位継承順位は第7位である。生涯最下位の皇位継承者であった)。三笠宮崇仁親王と同妃百合子の第3男子(3男2女のうち第5子)。明仁(上皇)は従兄、徳仁(第126代天皇)は従甥にあたる。兄に寬仁親王、桂宮宜仁親王、姉に近衞甯子(甯子内親王)、千容子(容子内親王)がいる。高円宮の宮号は昭和天皇から賜ったものである。
桂宮宜仁親王(かつらのみや よしひとしんのう、1948年〈昭… 桂宮宜仁親王(かつらのみや よしひとしんのう、1948年〈昭和23年〉2月11日 - 2014年〈平成26年〉6月8日)は、日本の皇族。身位は親王。敬称は殿下。お印は桂(かつら)。勲等は大勲位。宮号は桂宮。大正天皇の皇孫(四男の次男)。三笠宮崇仁親王と同妃百合子の第2男子(3男2女のうち第3子)。明仁(上皇)は従兄、徳仁(第126代天皇)は従甥にあたる。姉に近衞甯子(甯子内親王)、兄に寬仁親王、妹に千容子(容子内親王)、弟に高円宮憲仁親王がいる。学位は政治学士(学習院大学)。現皇室典範の下、独身で宮家を創設した最初の皇族である。住居(正式には「御仮寓」)は東京都千代田区三番町6番地18宮内庁分室。
寬仁親王(ともひとしんのう、1946年(昭和21年)1月5日… 寬仁親王(ともひとしんのう、1946年(昭和21年)1月5日 - 2012年(平成24年)6月6日)は、日本の皇族。三笠宮崇仁親王と同妃百合子の第一男子。今上天皇の従弟、麻生太郎元内閣総理大臣の義弟にあたる。身位は親王。皇室典範における敬称は殿下。お印は柏(かしわ)。勲等は大勲位。称号 (現学位)は政治学士(学習院大学)、鈴鹿国際大学名誉客員教授。そのほか名誉学位として名誉博士(アンカラ大学)の称号を有する。
北白川 道久(きたしらかわ みちひさ、1937年〈昭和12年… 北白川 道久(きたしらかわ みちひさ、1937年〈昭和12年〉5月2日 - 2018年〈平成30年〉10月20日)は、日本の旧皇族。北白川宮永久王と同妃祥子の第1王子。北白川宮第5代当主。皇籍離脱前の身位は王で、皇室典範における敬称は殿下。皇族時代の名は、北白川宮道久王(きたしらかわのみや みちひさおう)であった。男系では崇光天皇の19世子孫、女系では明治天皇の曾孫にあたる。 1937年(昭和12年)5月2日午前9時53分、北白川宮永久王と同妃祥子の第1王子として、東京市芝区高輪の北白川宮邸で誕生。1940年(昭和15年)9月4日、父宮・永久王が事故により薨去。わずか3歳で北白川宮家を継承。未成年のため終戦時の宮家の当主の中で唯一の非軍人だった。
常陸宮正仁親王(ひたちのみや まさひとしんのう、1935年〈… 常陸宮正仁親王(ひたちのみや まさひとしんのう、1935年〈昭和10年〉11月28日 - )は、日本の皇族。常陸宮家当主。御称号は義宮(よしのみや)、お印は黄心樹(おがたま)。身位は親王。敬称は殿下。勲等は大勲位。昭和天皇と香淳皇后の第2皇男子(第6子)。第125代天皇で現上皇(明仁)の弟。第126代天皇(徳仁)、皇嗣秋篠宮文仁親王の叔父。2019年(令和元年)5月1日時点の皇位継承順位は第3位。 1935年(昭和10年)11月28日午前7時57分、宮城(皇居)の明治宮殿奥宮殿内御産殿にて昭和天皇と香淳皇后の第2皇男子として誕生。御七夜の12月4日午前9時に浴湯の儀が、同日午前11時に命名の儀が執り行われ、「義宮」「正仁」と命名された。
久邇 邦昭(くに くにあき、1929年〈昭和4年〉3月25日… 久邇 邦昭(くに くにあき、1929年〈昭和4年〉3月25日 - )は、日本の旧皇族。久邇宮第4代当主。元実業家(川崎汽船役員)、元神職(伊勢神宮大宮司)。皇籍離脱前の名と身位は邦昭王(くにあきおう)。香淳皇后 (昭和天皇后) の甥であり、第125代天皇・明仁(上皇)の従兄にあたる。日本国憲法・現行皇室典範施行後も皇族であったが、GHQの指令により昭和22年 (1947年) 10月14日皇籍離脱した。北朝3代崇光天皇男系19世孫(伏見宮邦家親王男系4世孫)。 1929年(昭和4年)3月25日午後3時35分、東京帝国大学医学部付属病院にて、久邇宮朝融王と同妃知子女王の第1王子として誕生。御七夜の3月31日に「邦昭」と命名された。
三笠宮崇仁親王(みかさのみやたかひとしんのう、1915年〈大… 三笠宮崇仁親王(みかさのみやたかひとしんのう、1915年〈大正4年〉12月2日 - 2016年〈平成28年〉10月27日)は、日本の皇族、陸軍軍人、歴史学者(古代オリエント史)。三笠宮家初代当主。御称号は澄宮(すみのみや)、お印は若杉(わかすぎ)。身位は親王。敬称は殿下。勲等は大勲位。最終階級は陸軍少佐。第126代・今上天皇(徳仁)の大叔父。大正天皇と貞明皇后の第4皇子。昭和天皇は兄(長兄)、第125代天皇・現上皇の明仁は甥。現在の皇族には彼の孫が3人おり3人共女子である(息子3人は死去。娘2人と孫2人は皇籍離脱)。 1915年(大正4年)12月2日、大正天皇と貞明皇后の第四男子として誕生。3人の兄(昭和天皇、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王)は明治生まれ即ち父である大正天皇がまだ皇太子であった時にその男子として生まれ、早くから「皇孫御殿」に引き取られて養育された。
音羽 正彦(おとわ ただひこ、1914年〈大正3年〉1月5日… 音羽 正彦(おとわ ただひこ、1914年〈大正3年〉1月5日 - 1944年〈昭和19年〉2月6日)は、日本の皇族(朝香宮家)、華族、海軍軍人。クェゼリンの戦いにて戦死。最終階級は海軍少佐。栄典は正四位勲一等功四級侯爵。臣籍降下以前の皇族としての名と身位は正彦王(ただひこおう)、敬称は殿下。 1914年(大正3年)1月5日、朝香宮鳩彦王の第2王子として誕生。1934年(昭和9年)1月4日、貴族院皇族議員に就任。 学習院中等科卒業後、海軍兵学校入校。海軍兵学校生徒時代に宿営した広島県西条で、保存用の畳の上に寝てくれと地元民に頼まれた際には「ぼくは国民のデコレーションではないよ」と述べたという。 1936年(昭和11年)4月1日、海軍兵学校第62期卒業。
德川 慶光(とくがわ よしみつ、1913年(大正2年)2月6… 德川 慶光(とくがわ よしみつ、1913年(大正2年)2月6日 - 1993年(平成5年)2月6日)は、日本の官僚、政治家、陸軍軍人、華族(公爵)。江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜の孫。通称は「けいこう」。新字体で徳川 慶光とも表記される。 1913年(大正2年)2月6日、公爵徳川慶久と有栖川宮威仁親王の第二王女・實枝子の長男として東京府東京市小石川区第六天町(現:東京都文京区小日向)の屋敷で生まれた。お印は雁。赤ん坊の頃、祖父・慶喜の膝に抱かれ、おもらしをしたことがある。 1922年(大正11年)に父が急死したため、10歳で襲爵。伯父の侯爵・池田仲博が後見人となった。学習院から東京帝国大学文学部支那哲学科に進んで中国哲学を専攻し、卒業後は宮内省図書寮に勤務した。
伏見 博英(ふしみ ひろひで、1912年〈大正元年〉10月4… 伏見 博英(ふしみ ひろひで、1912年〈大正元年〉10月4日 - 1943年〈昭和18年〉8月21日)は、日本の皇族、華族、海軍軍人。第二次世界大戦時に太平洋戦線で戦死。最終階級は海軍少佐。爵位は伯爵。臣籍降下以前の名は博英王(ひろひでおう)。 1912年10月4日に誕生。伏見宮博恭王の第4王子。香淳皇后(昭和天皇后)の再従弟にあたる。 海軍兵学校(第62期)卒業。同期に同じく戦死した皇族軍人の音羽正彦少佐など。 最上級生のときは、ノーブルな雰囲気ながらも下級生が何かヘマをやろうものなら「待て! 貴様!」と鉄拳をふるう、やや御気性の荒っぽい宮様だったという。 1932年(昭和7年)10月3日、貴族院皇族議員に就任。
鍋島 直泰(なべしま なおやす、1907年〈明治40年〉10… 鍋島 直泰(なべしま なおやす、1907年〈明治40年〉10月3日 - 1981年〈昭和56年〉4月1日)は、日本の宮内官僚、政治家、華族(侯爵)。旧佐賀藩鍋島家第13代当主。貴族院議員。 12代当主・直映の嫡男で、母は黒田長知の次女・禎子。学習院を経て、1931年(昭和6年)東京帝国大学文学部を卒業。1933年(昭和8年)宮内省に入省し、式部官兼主猟官に就任。 父の死去に伴い、1943年(昭和18年)12月28日に家督を相続し侯爵を襲爵。同日、貴族院侯爵議員に就任し、火曜会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院の廃止まで在任した。 式部官を務めていたこともあり、1949年(昭和24年)、昭和天皇の戦後巡幸が佐賀市内で行われた際には、御泊所となった楊柳亭で拝謁する機会を得ている。
西郷 吉之助(さいごう きちのすけ、1906年〈明治39年〉… 西郷 吉之助(さいごう きちのすけ、1906年〈明治39年〉7月20日 - 1997年〈平成9年〉10月12日)は、日本の政治家、華族。位階は正三位。 法務大臣、参議院議員、貴族院議員。侯爵。西郷隆盛の嫡男である西郷寅太郎の三男。 鹿児島県で生まれ、東京で育つ。学習院を経て、東北帝国大学経済学科卒業。学習院時代の同期には日中戦争で戦死した南郷茂章などがいた。祖父隆盛と同じく、堂々とした体躯で知られた。 興銀に入り、その後は南方開発金庫の参事、ジャワ支金庫業務課長を経て、貴族院議員(1936年(昭和11年) - 1947年(昭和22年))、1947年鹿児島県選挙区より参議院議員に当選。以後当選4回。
高松宮宣仁親王(たかまつのみや のぶひとしんのう、1905年… 高松宮宣仁親王(たかまつのみや のぶひとしんのう、1905年〈明治38年〉1月3日 - 1987年〈昭和62年〉2月3日)は、日本の皇族、海軍軍人。有栖川宮の祭祀を継承。御称号は光宮(てるのみや)。身位は親王。お印は若梅(わかうめ)。栄典は大勲位功四級。 大正天皇と貞明皇后の第三皇子。皇長兄に昭和天皇、皇次兄に秩父宮雍仁親王、皇弟に三笠宮崇仁親王がいる。第125代天皇明仁は甥、第126代天皇徳仁と秋篠宮文仁親王は大甥にあたる。妃は公爵・徳川慶久の次女・喜久子。 当時の皇太子嘉仁親王(後に践祚して大正天皇)の第3皇男子として青山東宮御所で誕生。幼称(御称号)を光宮(てるのみや)といった。 高松宮は四親王家の一つ、有栖川宮の旧宮号であるが、宣仁親王が有栖川宮の祭祀を継承したのには故がある。
蜂須賀 正氏(はちすか まさうじ、1903年〈明治36年〉2… 蜂須賀 正氏(はちすか まさうじ、1903年〈明治36年〉2月15日 - 1953年〈昭和28年〉5月14日)は、日本の鳥類学者、華族(侯爵)、貴族院議員、探検家、飛行家。絶滅鳥ドードー研究の権威として知られた他、沖縄本島と宮古島との間に引かれた生物地理学上の線である蜂須賀線に名をとどめている。徳川家斉の玄孫。 旧徳島藩藩主・蜂須賀家の当主。蜂須賀小六から数えて第18代目にあたる。 1903年(明治36年)2月15日、東京で誕生した。父・蜂須賀正韶は侯爵、貴族院副議長。母・筆子は徳川慶喜の四女。長姉・年子はデザイナー。 学習院初等科に入った頃から生物に著しい関心を示し、先輩の黒田長禮に出会ってから鳥類学に志す。
秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう、1902年〈… 秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう、1902年〈明治35年〉6月25日 - 1953年〈昭和28年〉1月4日)は、日本の皇族。大正天皇と貞明皇后の第二皇子。明治天皇の皇孫にあたる。兄に昭和天皇、長弟に高松宮宣仁親王、次弟に三笠宮崇仁親王がいる。第125代天皇明仁は甥、第126代天皇徳仁と秋篠宮文仁親王は大甥にあたる。妃は勢津子(旧会津藩主・松平容保の四男で外交官を務めた松平恆雄の長女)。 宮家の一つである秩父宮の家祖。御称号は淳宮(あつのみや)。身位は親王。お印は若松(わかまつ)。大日本帝国陸軍の軍人でもあり、階級は少将。勲等功級は大勲位功三級。勢津子妃との間に子女はいない。 東京・赤坂の青山御所(東宮御所)で誕生し、兄の迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)とともに、生後4カ月で皇孫御養育掛・枢密顧問官の川村純義(海軍中将伯爵)邸に預けられた。
久邇 邦久(くに くにひさ、1902年〈明治35年〉3月10… 久邇 邦久(くに くにひさ、1902年〈明治35年〉3月10日 - 1935年〈昭和10年〉3月4日)は、日本の華族、陸軍軍人。陸軍歩兵大尉。侯爵。久邇宮邦彦王の第二王子。香淳皇后の兄(次兄)、第125代天皇・明仁(上皇)の伯父、第126代天皇・徳仁(今上天皇)の大伯父にあたる。 学習院初等科を経て学習院中等科在学途中の1918年(大正7年)4月の17歳のとき、東京府立一中2年次に入学。1920年(大正9年)12月1日の府立一中4年次だったとき、当時の皇族の慣例に従って士官候補生として近衛歩兵第4連隊に入隊した。1921年(大正10年)10月1日の20歳のとき、陸軍士官学校に入学。1922年(大正11年)3月10日、貴族院皇族議員に就任。
華頂宮博忠王(かちょうのみや ひろただおう、1902年(明治… 華頂宮博忠王(かちょうのみや ひろただおう、1902年(明治35年)1月26日 - 1924年(大正13年)3月19日)は、日本の皇族、海軍軍人。 博恭王が華頂宮当主であった時の王子。1902年(明治35年)1月26日に誕生した第2王子。2月1日、博忠と命名される。博恭王が実系である伏見宮を継承するにあたり、博忠王は僅か2歳(明治37年1月15日附)で華頂宮の家督を継承する。学習院初等科時代は、裕仁親王(後の昭和天皇)と同級だった。中等学科4年より海軍兵学校予科へ進む。博忠王の海軍兵学校時代初期、校長は鈴木貫太郎海軍中将であった。 海軍兵学校を卒業(49期)した博忠王は1921年(大正10年)7月16日附で海軍少尉候補生となり、装甲巡洋艦八雲乗組を命じられる(同級の朝融王は出雲乗組)。
久邇宮朝融王(くにのみや あさあきらおう、1901年〈明治3… 久邇宮朝融王(くにのみや あさあきらおう、1901年〈明治34年〉2月2日 - 1959年〈昭和34年〉12月7日)、または久邇 朝融(くに あさあきら)は、日本の旧皇族、海軍軍人。久邇宮第3代当主。官位は海軍中将大勲位功三級。香淳皇后の兄、第125代天皇・明仁の母方の伯父にあたる。 1901年(明治34年)2月2日、久邇宮邦彦王と同妃俔子の第1王子として誕生し、2月9日に朝融と命名された。 1921年(大正10年)2月2日に20歳を迎え、貴族院議員となった。4月19日に成年式が執り行われた。同年7月16日に海軍兵学校(49期)を卒業し、皇族軍人の一員として海軍軍人としてのキャリアを歩む。兵学校では、華頂宮博忠王と同期生だった。
山階 芳麿(やましな よしまろ、1900年〈明治33年〉7月… 山階 芳麿(やましな よしまろ、1900年〈明治33年〉7月5日 - 1989年〈平成元年〉1月28日)は、日本の旧皇族。日本の鳥類学者。山階宮菊麿王と同妃範子(先妃)の第2王子。旧名:芳麿王。山階鳥類研究所の創設者。階級は陸軍中尉。位階勲等は正三位勲一等。爵位は侯爵。学位は理学博士(北海道帝国大学)。生前に受けた栄誉及び表彰歴としては第1級ゴールデンアーク勲章受勲及びジャン・デラクール賞受賞などがある。 1900年(明治33年)7月5日、皇族・山階宮菊麿王の第2子として東京市麹町区に誕生した。昭和天皇とは実母(範子妃)を、香淳皇后とは継母(常子妃)を通じての従兄にあたる。山階宮邸は敷地が約5500坪。
大久保 利謙(おおくぼ としあき、1900年〈明治33年〉1… 大久保 利謙(おおくぼ としあき、1900年〈明治33年〉1月25日 - 1995年〈平成7年〉12月31日)は、日本の歴史学者、華族(侯爵)。維新の三傑の一人・大久保利通の孫で、大久保家第3代当主。父は利通の三男・大久保利武。母は近藤廉平の長女・栄。妻は子爵米田国臣の長女・八重子。長男は大久保利泰。 東京帝国大学卒業の際の論文は、近世史をテーマにしたものであった。理由は、当時の歴史学界においては、維新以後の歴史については、歴史家は触れてはいけないという空気が強かったからである。 戦時下では皇国史観に対して批判的立場を採り、東京帝国大学を中心とした官学アカデミズム歴史学や、戦後流行したマルクス主義歴史学とも異なる、実証主義を本領とした独自の近代史研究を構築した。
山階宮武彦王(やましなのみや たけひこおう、1898年〈明治… 山階宮武彦王(やましなのみや たけひこおう、1898年〈明治31年〉2月13日 - 1987年〈昭和62年〉8月10日)は、日本の旧皇族。山階宮菊麿王と同妃範子(先妃)の第一王子。海軍軍人で、最終階級は海軍少佐。皇族で初めて海軍航空隊に所属し、空の宮様と呼ばれた。 実母の範子は、貞明皇后の実姉であるため、武彦王は昭和天皇といとこ同士にあたる。 1898年(明治31年)2月13日、山階宮菊麿王と同妃範子の第1男子として誕生。誕生間もなく2月17日に、祖父山階宮晃親王が薨去しており、御七夜を待たず2月16日に「武彦」と命名された。 1908年(明治41年)5月、父菊麿王の薨去を受け、葬儀では喪主を務めた。
上野 正雄(うえの まさお、1890年〈明治23年〉7月16… 上野 正雄(うえの まさお、1890年〈明治23年〉7月16日 - 1965年〈昭和40年〉2月16日)は、日本の華族、海軍軍人。北白川宮能久親王の六男。爵位は伯爵、最終階級は海軍少将。旧姓は永田。 → 詳細は「北白川宮能久親王」項の「落胤」節を参照 東京府出身。母は福井県士族前波某の娘の栄。北白川宮能久親王の第六男であると判明したため、1897年(明治30年)7月1日、伯爵を授けられ華族に列した。 1912年(明治45年)7月17日、海軍兵学校を卒業(40期)。翌年12月、海軍少尉任官し「金剛」乗組となる。1918年(大正7年)12月から1年間、海軍水雷学校高等科で学んだ。 1919年(大正8年)12月、「扶桑」分隊長となり、「龍田」分隊長、「浦風」水雷長兼水雷学校教官、「汐風」水雷長などを経て、1923年(大正12年)3月、海軍大学校選科学生となった。
木戸 幸一(きど こういち、1889年〈明治22年〉7月18… 木戸 幸一(きど こういち、1889年〈明治22年〉7月18日 - 1977年〈昭和52年〉4月6日)は、日本の華族・官僚・政治家。 昭和天皇の側近の一人として東條英機を内閣総理大臣に推薦するなど、太平洋戦争前後の政治に関与した。敗戦後にGHQによって戦争犯罪容疑で逮捕され、極東国際軍事裁判において終身刑のA級戦犯となったが後に仮釈放された。 1889年(明治22年)7月18日に東京府赤坂区新坂町六二において侯爵木戸孝正の長男として生まれた。父の木戸孝正は、明治の元勲である木戸孝允の妹治子と長州藩士来原良蔵の長男である。 学習院高等科では原田熊雄、織田信恒などと同級だった。近衛文麿は1学年下に当たる。
尚 昌(しょう しょう、1888年〈明治21年〉9月17日 … 尚 昌(しょう しょう、1888年〈明治21年〉9月17日 - 1923年〈大正12年〉6月19日)は、日本の華族、宮内官。爵位は侯爵。貴族院侯爵議員。第二尚氏第21代当主。 1888年(明治21年)9月11日、尚典の長男として首里で誕生。1896年(明治29年)に上京し、学習院初等科に入学する。1909年(明治42年)に旧制学習院高等科を中退し、1911年(明治44年)に父の薦めでオックスフォード大学に留学した。随行員として沖縄県出身の大蔵官僚である神山政良を伴う。 1915年(大正4年)に帰国し、宮内省式部官となる。1918年(大正7年)9月18日に長男誕生。東恩納寛惇に名前(尚裕)をつけてもらっている。
小松 輝久(こまつ てるひさ、1888年〈明治21年〉8月1… 小松 輝久(こまつ てるひさ、1888年〈明治21年〉8月12日 - 1970年〈昭和45年〉11月5日)は、日本の皇族、華族、海軍軍人。海軍中将従二位勲一等侯爵。北白川宮家出身。皇族時代の名と身位は輝久王(てるひさおう)。 伊勢神宮大宮司の小松揮世久は孫にあたる。 北白川宮能久親王第4王子。長兄恒久王は特に竹田宮家を創設し、次兄延久王は夭折し、北白川宮家は三兄成久王が相続した。 1906年(明治39年)、一般受験を経て海軍兵学校第37期入校。入学時の席次は180人中122番(または166番)。同期生に井上成美大将、岩村清一・小沢治三郎・草鹿任一・桑原虎雄各中将など。 当時の皇族は天皇の許可により無試験で陸軍士官学校(及び陸軍幼年学校)や海軍兵学校に入校可能であったが、以前から海兵入学を希望していた輝久王は特別扱いを拒否し、能久親王妃富子の強い要請によって海軍の難色を押し切り、一般試験を経て合格・入校した。
原田 熊雄(はらだ くまお、1888年〈明治21年〉1月7日… 原田 熊雄(はらだ くまお、1888年〈明治21年〉1月7日 - 1946年〈昭和21年〉2月26日)は、大正・昭和期の華族・政治家。栄典は従三位勲三等男爵。 最後の元老・西園寺公望の晩年の私設秘書として政界の情報収集にあたり、また興津にこもりがちの西園寺の意思を各方面に伝達する役割を担い、文字通りその手足として八面六臂の活躍をした。各方面に奔走する「原田男」の名は、政変があるたびに紙面を賑わすほどだった。彼の口述回顧をまとめて出版された『西園寺公と政局(原田熊雄日記)』は、戦前昭和の激動の政局を知る上での貴重な史料となっている。 1888年(明治21年)1月7日、地質学者・原田豊吉と妻・照子の長男として東京裏猿楽町に生まれる。
東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう、1887年〈… 東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう、1887年〈明治20年〉12月3日 - 1990年〈平成2年〉1月20日)、のち東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)は、日本の旧皇族、政治家、陸軍軍人。東久邇宮初代当主。陸士20期・陸大26期。最終階級は陸軍大将。位階勲等功級は従二位大勲位功一級。第二次世界大戦後、終戦処理内閣として内閣総理大臣(在職1945年8月17日-1945年10月9日)に就任し、憲政史上唯一の皇族内閣を組閣した。 内閣総理大臣として、連合国に対する降伏文書の調印、軍の解体と復員、行政機構の平時化、占領軍受け入れなどを実施したが、自由化政策を巡るGHQと内務省による対立やGHQによる内政干渉に対し、抵抗の意志を示すため総辞職した。
朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう、1887年〈明治2… 朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう、1887年〈明治20年〉10月2日 - 1981年〈昭和56年〉4月12日)、または朝香 鳩彦(あさか やすひこ)は、日本の旧皇族。旧陸軍軍人。久邇宮朝彦親王の第8王子。明治39年3月、朝香宮家を創設。妃は明治天皇第8皇女允子内親王。兄に久邇宮邦彦王、梨本宮守正王、弟に東久邇宮稔彦王。長男孚彦王、二男音羽正彦。1947年(昭和22年)10月14日に皇籍離脱した。最終階級は陸軍大将。勲等は大勲位功一級。「ゴルフの宮様」と呼ばれた。第125代天皇明仁の大叔父にあたる。陸軍大将であったため、朝香大将宮殿下(あさかたいしょうのみやでんか)とも呼ばれた。 1887年(明治20年)10月、久邇宮朝彦親王の第8王子として生まれ、1906年(明治39年)3月に朝香宮家を創設。
栽仁王(たねひとおう、1887年(明治20年)9月22日 -… 栽仁王(たねひとおう、1887年(明治20年)9月22日 - 1908年(明治41年)4月7日)は、明治期の日本の皇族。勲等は大勲位、階級は海軍少尉。有栖川宮家の嗣子であったが、継承することなく薨去した。 有栖川宮威仁親王の第一王子(第2子)で、 母は加賀金沢藩主前田慶寧の四女・慰子。徳川實枝子(徳川慶久公爵夫人)は実妹で、その次女高松宮妃喜久子は姪。 1887年(明治20年)9月22日午後11時30分、有栖川宮威仁親王と同妃慰子の第1男子として誕生し、同月28日の御七夜で「栽仁」と命名される。 1901年(明治34年)6月、威仁親王とともに参内した栽仁王に、明治天皇は父宮と同じく帝国海軍士官を志すよう命じた。
栽仁王(たねひとおう、1887年(明治20年)9月22日 -… 栽仁王(たねひとおう、1887年(明治20年)9月22日 - 1908年(明治41年)4月3日)は、明治期の日本の皇族。勲等は大勲位、階級は海軍少尉。
北白川宮成久王(きたしらかわのみや なるひさおう、1887年… 北白川宮成久王(きたしらかわのみや なるひさおう、1887年〈明治20年〉4月18日 - 1923年〈大正12年〉4月1日)は、日本の皇族。階級は陸軍大佐。北白川宮能久親王の第3王子。北白川宮第3代当主。 1887年〈明治20年〉4月18日、北白川宮能久親王と正妃富子(伊達宗徳侯爵の次女)の唯一の子として誕生。1895年(明治28年)10月28日、父宮の薨去により8歳で北白川宮を継承。 1901年(明治34年)9月、久邇宮家の鳩彦王・稔彦王兄弟とともに、東京陸軍地方幼年学校に第5期生として入校。美少年であった成久王は一部の上級生から人気を集めた。陸軍では、その後、陸軍士官学校(20期)、陸軍大学校(27期)を卒業し陸軍砲兵大佐まで至る。
竹田宮恒久王(たけだのみや つねひさおう、1882年〈明治1… 竹田宮恒久王(たけだのみや つねひさおう、1882年〈明治15年〉9月22日 - 1919年〈大正8年〉4月23日)は、日本の皇族・陸軍軍人。竹田宮初代当主。 北白川宮能久親王の第1王子(庶長子)。妃は明治天皇の第6皇女昌子内親王。官位は陸軍少将大勲位功五級に昇る。 1906年(明治39年)、竹田宮の称号を賜り、宮家を創設。近衛騎兵連隊に属し、日露戦争に従軍した。井口嶺の戦いですぐ隣を進んでいた伯爵南部利祥騎兵中尉(奥州南部家第42代当主)が敵弾に当たり戦死したという挿話を伝えているが、実際には南部中尉が戦死した3月4日には王は日本に帰国しており、ありえない話である。1919年(大正8年)4月23日、当時全世界で大流行していたスペインかぜのため薨去。
正親町 公和(おおぎまち きんかず、1881年(明治14年)… 正親町 公和(おおぎまち きんかず、1881年(明治14年)10月14日 - 1960年(昭和35年)12月7日)は、日本の華族、実業家、『白樺』初期の文学者。その文業は『明治文学全集 初期白樺派文学集』に収められている。 伯爵正親町実正の長男として東京に生まれた。弟の実慶も『白樺』の作家で、日下諗(くさか しん)の筆名を持った。学習院初等科に入り、高等科の時に志賀直哉、武者小路実篤、木下利玄と知り合う。『学習院輔仁会雑誌』の編輯委員となり小品を発表。1906年に高等科を卒業して東京帝国大学英文科に入るが中退。1908年、志賀らと回覧雑誌『望野』を始め、1910年には『白樺』創刊に参画、ほかに里見弴・園池公致・児島喜久雄らと交わる。
甘露寺 受長(かんろじ おさなが、1880年〈明治23年〉1… 甘露寺 受長(かんろじ おさなが、1880年〈明治23年〉10月5日 - 1977年〈昭和52年〉6月20日)は、日本の華族(伯爵)。甘露寺家第35代当主。東宮侍従、侍従、侍従次長、明治神宮宮司を歴任した。官位は従二位勲一等。 1880年(明治23年)、甘露寺義長の長男として生まれる。母は子爵勘解由小路資生の四女・立子(たつこ)。 学習院初等科、中等科、高等科を経て東京帝国大学法科卒業。法学博士。学習院初等科在学中より皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の御学友として、宮中出仕した。 1910年(明治43年)12月、東宮侍従に任じられ、大正天皇践祚の後も東宮侍従として裕仁親王(のちの昭和天皇)に仕えた。
東久世 秀雄(ひがしくぜ ひでお、1878年(明治11年)7… 東久世 秀雄(ひがしくぜ ひでお、1878年(明治11年)7月19日 - 1951年(昭和26年)11月18日)は、日本の農商務・宮内官僚、政治家、華族。貴族院男爵議員。 東京府出身。伯爵・東久世通禧の四男として生まれる。1897年(明治30年)12月6日、分家に際し父・通禧の功により男爵を叙爵した。 第一高等学校を経て、1905年(明治38年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年、農商務省に入省し農商務属となる。 以後、農商務省山林局書記、山林局事務官、宮内事務官、帝室林野局事務官、貴族院書記官、同書記官長代理、農商務書記官兼同参事官、皇后宮主事、内匠頭などを歴任。
梨本宮守正王(なしもとのみや もりまさおう、1874年〈明治… 梨本宮守正王(なしもとのみや もりまさおう、1874年〈明治7年〉3月9日 - 1951年〈昭和26年〉1月1日)、または梨本 守正(なしもと もりまさ)は、日本の旧皇族、陸軍軍人。梨本宮家第3代当主。官位は元帥陸軍大将。栄典は大勲位功四級。明仁上皇の大叔父にあたる。また、娘の方子は、大韓帝国最後の皇太子で日本の王公族だった李王垠に嫁いでいる。 久邇宮朝彦親王の第4王子として1874年に誕生。当初は多田と名付けられたが、梨本宮家相続にあたり、守正と改名した。梨本宮家は初代守脩親王のあと、山階宮家出身の菊麿王が後継者となったが、のちに実家を継ぐことになったため梨本宮家を離れ、代わって守正王が相続したものである。
久邇宮邦彦王(くにのみや くによしおう、1873年〈明治6年… 久邇宮邦彦王(くにのみや くによしおう、1873年〈明治6年〉7月23日 - 1929年〈昭和4年〉1月27日)は、日本の皇族、陸軍軍人。階級および位階勲等は軍事参議官、元帥陸軍大将、大勲位、功四級。久邇宮朝彦親王の第3王子。久邇宮第2代当主。香淳皇后(昭和天皇后)の父。上皇の外祖父、今上天皇の曽祖父にあたる。 1887年(明治20年)、父・朝彦親王の継嗣と定められ、京都府立中学(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)、学習院を経て東京の成城学校(現:成城中学校・高等学校)に入学する。1891年(明治24年)、朝彦親王薨去を受けて久邇宮を継承する。 1896年(明治29年)、陸軍士官学校を卒業し陸軍士官として勤務し、1902年(明治35年)に陸軍大学校卒業。
竹田 恒徳 、または竹田宮恒徳王 は、日本の旧皇族(竹田宮第… 竹田 恒徳 、または竹田宮恒徳王 は、日本の旧皇族(竹田宮第2代当主)、陸軍軍人。竹田宮恒久王の第1男子。母は常宮昌子内親王。最終階級は陸軍中佐。勲等は大勲位。1947年(昭和22年)10月に皇籍離脱し、株式会社竹田編織(埼玉県飯能市)の社長。