スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
坂田 晃一(さかた こういち、1942年2月10日 - )は… 坂田 晃一(さかた こういち、1942年2月10日 - )は、日本の作曲家、編曲家。尚美学園大学名誉教授。 東京生まれ。早稲田大学高等学院を卒業。東京芸術大学器楽科(チェロ専攻。中退)の後、1963年から1967年にかけて山本直純のアシスタントを務めると同時に作編曲を師事した。1965年に作曲家としてデビュー。 作品は幅広く、ビリーバンバンの「さよならをするために」、伝書鳩の「目覚めた時には晴れていた」、西田敏行の「もしもピアノが弾けたなら」、杉田かおるの「鳥の詩」、チェリッシュの「あの空へ帰ろう」の作曲・編曲を手がけている。 また、フジテレビの「世界名作劇場」の音楽を担当した他、数々のTVドラマや映画、アニメの音楽も手がけている。
澤部 肇(さわべ はじめ、1942年1月9日 - )は、日本… 澤部 肇(さわべ はじめ、1942年1月9日 - )は、日本の経営者。TDK社長、会長を務めた。 東京都出身。早稲田大学高等学院を経て、1964年に早稲田大学政治経済学部を卒業し、同年に東京電気化学工業(のちのTDK)に入社した。1996年6月に取締役に就任し、1998年6月に社長に就任。2006年6月から2011年6月までに会長を務めた。 2020年4月に旭日重光章を受章した。
島村 俊治(しまむら としはる、1941年6月25日 - )… 島村 俊治(しまむら としはる、1941年6月25日 - )は、スポーツジャーナリスト、フリーアナウンサー。 個人事務所である有限会社「ニューヴォイス嶋村プロ」所属で、代表取締役。元NHKエグゼクティブアナウンサー。 東京都出身。早稲田大学高等学院、早稲田大学政治経済学部卒業後、1964年にNHKにアナウンサーとして入局。 音楽好きであることや高校・大学時代に合唱をしていた経験もあって、NHK入局時にもアナウンサーではなくミュージカルを担当する音楽ディレクターを志望していたが、米子支局(現在は鳥取放送局のエリア)在籍時代に、高校野球秋季中国大会での岡山東商・平松政次と関西・森安敏明の投手戦の実況を務めて感動し、スポーツアナウンサーを目指すことになった。
難波田 史男(なんばた ふみお、1941年4月27日 - 1… 難波田 史男(なんばた ふみお、1941年4月27日 - 1974年1月29日)は、日本の洋画家。東京都世田谷区経堂出身。絵画作品のほか、没後に出版された日記集(「終着駅は宇宙ステーション」、結果的に唯一の自叙伝になった)もある。
露木 茂(つゆき しげる、1940年〈昭和15年〉12月6日… 露木 茂(つゆき しげる、1940年〈昭和15年〉12月6日 - )は、日本のフリーアナウンサー。 元フジテレビのエグゼクティブアナウンサー。東京国際大学特命教授・客員教授。日本記者クラブ企画委員。 TBSスパークル(旧キャスト・プラス)所属。妻は早稲田大学時代の同級生で同じ放送研究会に所属していた元NETテレビ(現在:テレビ朝日)アナウンサーの軽部和子。 東京府東京市麹町区(現在:東京都千代田区)出身。千代田区立麹町小学校、千代田区立麹町中学校、早稲田大学高等学院(早大学院)を経て早稲田大学政治経済学部経済学科に入学。高校・大学時代はボート部、大学途中でアナウンス研究会に所属(当時の会友には大沢悠里、鈴木史朗、枇杷阪明、石川顕らがいた)する。
小林 雅夫(こばやし まさお、1940年9月3日 - 201… 小林 雅夫(こばやし まさお、1940年9月3日 - 2016年1月23日)は、日本の西洋史学者。早稲田大学名誉教授。専門は古代ローマ史。 東京都中央区生まれ。1960年早稲田大学高等学院卒業。1964年早稲田大学第一文学部卒業。1971年同大学大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。1977年早稲田大学文学部専任講師、1980年同助教授、1985年同教授。2009年定年退職、名誉教授。
木村和巨(きむら かずお、1939年7月2日 - )は、日本… 木村和巨(きむら かずお、1939年7月2日 - )は、日本の実業家。元株式会社三貴(じゅわいよ・くちゅーるマキ/ジュエリーマキ)代表取締役社長。 東京都出身。早稲田大学高等学院を経て、早稲田大学商学部を卒業。その後、同大学院商学研究科に進学し、自宅の一間で宝石販売業を始め、1965年に株式会社三貴を設立し、代表取締役社長に就任。 同社は、木村の早大の後輩ら数名でスタートした。 宝飾品・貴金属業界では垂直統合をビジネスモデルとして考案、展開した。 その後、婦人服、子供服事業にも進出。最盛期には全国1,400店舗、物流センター、2ヶ所の海外工場を擁し、売上高は1,800億円を超え、従業員は8,000名を数えた。
秋草 直之(あきくさ なおゆき、1938年12月12日 - … 秋草 直之(あきくさ なおゆき、1938年12月12日 - 2016年6月18日)は、富士通株式会社取締役相談役(2008年6月-)、関西大学政策創造学部客員教授。 栃木県出身。父は日本電信電話公社(現NTTグループ)総裁を務めた秋草篤二。家族は夫人と子供2人。 早稲田大学高等学院を経て、1961年(昭和36年)に早稲田大学第一政治経済学部を卒業し、富士通入社。富士通初の文科系出身のシステムエンジニアとして、入社以来、一貫してシステム開発部門を歩んだ。公共システム事業に部長として携わった際にはオーストラリア統計局とのメインフレーム商談を成功に導いた。システム本部長代理、常務取締役(兼)システム本部長、専務取締役(兼)関西営業本部長、専務取締役(兼)ソフト・サービス部門担当、代表取締役社長、代表取締役会長等を歴任した。
久野 統一郎(くの とういちろう、1937年4月2日 - 2… 久野 統一郎(くの とういちろう、1937年4月2日 - 2020年1月8日)は、日本の政治家。位階は従四位。旭日重光章受章。 衆議院議員(3期)、国土政務次官、自治政務次官、自由民主党副幹事長。父は郵政大臣、衆議院議員を務めた久野忠治。 愛知県知多市に生まれる。東海中学校・高等学校から早稲田高等学院に転校。早稲田大学理工学部土木工学科卒業。 大学卒業後は日本鋪道(現NIPPO)、日本道路公団などに勤務し、高速道路などの道路工事の現場責任者として活躍する。竹下登の中部地区担当の私設秘書を務めた。 1990年2月18日に行われた第39回衆議院議員総選挙に、政界引退を表明した父忠冶の後継者として、自民党公認で旧愛知2区から立候補。
冨田 光彦(とみた てるひこ、1937年2月 - )は、滋賀… 冨田 光彦(とみた てるひこ、1937年2月 - )は、滋賀県伊香郡木之本町(現・長浜市木之本町)出身の経済学者・図書館長。専門は国際経営学。姓は富田と表記されることもある。 実家は長浜市木之本町にある冨田酒造であり、冨田酒造は室町時代の天文3年(1534年)頃まで遡ることができる酒蔵である。冨田酒造の建物は延享元年(1744年)建築とされ、2019年(令和元年)には登録有形文化財に登録された。 祖父は伊香郡木之本町長や伊香郡長や衆議院議員などを務めた冨田八郎。父は1952年(昭和27年)に『近江伊香郡志』を刊行した冨田八右衛門。冨田光彦は冨田家の14代目当主である。 1937年(昭和12年)2月に滋賀県伊香郡木之本町(現・長浜市木之本町)に生まれた。
河野 洋平(こうの ようへい、1937年〈昭和12年〉1月1… 河野 洋平(こうの ようへい、1937年〈昭和12年〉1月15日 - )は、日本の政治家。 衆議院議長(第71・72代)、副総理(村山内閣・村山改造内閣)、外務大臣(第118・123-125代)、内閣官房長官(第55代)、科学技術庁長官(第39代)、原子力委員会委員長(第39代)、衆議院議員(14期)、自由民主党総裁(第16代)、新自由クラブ代表(初代・第3代)を歴任。 2003年(平成15年)から2009年(平成21年)まで日本憲政史上最長(当時)の期間にわたって衆議院議長を務めた。 自由民主党では初となる、総裁に就任したものの内閣総理大臣(首相)を経験できなかった人物である。結党から2026年(令和8年)4月8日(水)現在にいたるまでこの事例となった人物は河野と谷垣禎一の2名のみである。
新村 鋭男(しんむら としお、1936年(昭和11年)8月8… 新村 鋭男(しんむら としお、1936年(昭和11年)8月8日 - 2024年11月22日)は、平成29年3月に株式会社モリタホールディングスの相談役退任。過去には山一證券副社長、山一情報システム社長を歴任した。
西大立目 永(にしおおたちめ ひさし、1936年7月10日 … 西大立目 永(にしおおたちめ ひさし、1936年7月10日 - 2002年12月16日)は、東京都武蔵野市出身のアマチュア野球選手、審判員、早稲田大学名誉教授。
山田 二郎(やまだ じろう、1936年5月7日 - )は、日… 山田 二郎(やまだ じろう、1936年5月7日 - )は、日本のアナウンサー。
森 徹(もり とおる、1935年11月3日 - 2014年2… 森 徹(もり とおる、1935年11月3日 - 2014年2月6日)は、北海道函館市出身(旧満州生まれ)の元プロ野球選手(外野手)・監督、解説者。
さねとう あきら(本名・實藤述。 1935年1月16日 -2… さねとう あきら(本名・實藤述。 1935年1月16日 -2016年3月7日)は日本の児童文学作家・劇作家。 東京出身。1972年に『地べたっこさま』で日本児童文学者協会新人賞・野間児童文芸推奨作品賞、1979年に『ジャンボコッコの伝記』で小学館文学賞、1986年に『東京石器人戦争』で産経児童出版文化賞をそれぞれ受賞。『なまけんぼの神さま』、『おこんじょうるり』、『かっぱのめだま』、『神がくしの八月』、『ゆきこんこん物語』などの創作・評論多数。 劇作の分野では、1973年、大阪の劇団2月で『ゆきと鬼んべ』を上演したのを皮切りに、泰西名作が幅をきかす関東圏と違い、創作劇の上演が比較的自由だった関西圏を活躍の場に選んだ。
折笠 美秋(おりがさ びしゅう、1934年〈昭和9年〉12月… 折笠 美秋(おりがさ びしゅう、1934年〈昭和9年〉12月23日 - 1990年〈平成2年〉3月17日)は、俳人、新聞記者。本名・美昭。 神奈川県横須賀市出身、早稲田大学高等学院・中学部国文学科卒。在学中に同人誌に文芸作品を発表するとともに早大俳句会に参加。1958年東京新聞社に入社。同年『俳句評論』が創刊されて同誌の編集同人となり高柳重信に師事、新聞記者として働く傍らで俳句作品や俳句評論を精力的に執筆する。1967年第3回俳句評論賞を受賞(評論の部)。「俳句評論」終刊のちに、有力同人10人限定の同人俳句誌「騎」創刊(1984年)に参加し、その志を継いだ。ほかの創刊同人は、坂戸淳夫、岩片仁次、安井浩司、寺田澄史、川名大、大岡頌司、阿部鬼九男、志摩聰、佐藤輝明。
鈴木 銀一郎(すずき ぎんいちろう、1934年11月24日 … 鈴木 銀一郎(すずき ぎんいちろう、1934年11月24日 - 2021年1月6日)は、日本の作家、ゲームデザイナー。有限会社翔企画取締役。愛称は「G大佐」「(ヒゲの)大佐」「銀爺」など。妻を将軍と称していたために、「大佐」を名のったという。 日本におけるカードゲーム・ブームの火付け役となった『モンスターメーカー』シリーズのデザイナーとして知られるほか、ボードゲーム(ウォー・シミュレーションゲーム)、テーブルトークRPG(モンスターメーカー関連など)のデザインも手がけている。同じゲームデザイナーである鈴木一也は実子である。 1934年(昭和9年)11月24日、東京生まれ。早稲田大学高等学院卒、早稲田大学政治経済学部中退。
福井 文雅(ふくい ふみまさ/ぶんが、1934年6月6日- … 福井 文雅(ふくい ふみまさ/ぶんが、1934年6月6日- 2017年5月4日)は、日本の仏教学者および中国学者、僧侶(天台宗勧学で権大僧正)。栃木県日光市、日光山輪王寺内にある唯心院住職、早稲田大学名誉教授。 父の福井康順と、弟の福井重雅も、共に東洋学者であり、天台宗僧侶。
海老沢 勝二(えびさわ・かつじ、1934年(昭和9年)5月5… 海老沢 勝二(えびさわ・かつじ、1934年(昭和9年)5月5日 - )は、日本の元ジャーナリスト。公益財団法人日本相撲協会評議員、一般財団法人世界少年野球推進財団理事、一般財団法人日本ウズベキスタン・シルクロード財団評議員長(会長)、一般社団法人日本外交協会理事、NPO法人日本グローバル・コミュニケーション・センター理事[3]。
谷 䚮(たに あつし、1933年11月19日 - )は、日本… 谷 䚮(たに あつし、1933年11月19日 - )は、日本の元競泳選手。愛知県海部郡弥富町前ヶ須出身。1956年メルボルンオリンピック日本代表。100m自由形の元日本記録保持者。 愛知県立津島高等学校併設中学校、早稲田大学高等学院、早稲田大学商学部卒業。 1954年8月8日、早稲田大学対愛知の100m自由形で19年ぶりに遊佐正憲の日本記録を更新した。1955年8月23日、日米対抗戦奈良大会において日本初となる100m自由形で56秒台となる56秒8の日本記録を樹立した。決勝ではさらに記録を更新する56秒4を出した。 1956年のオリンピック選考会で100m自由形で2位に入り、メルボルンオリンピック日本代表に選出された。
寺澤 芳男(てらさわ よしお、1931年10月3日 - )は… 寺澤 芳男(てらさわ よしお、1931年10月3日 - )は、日本の実業家、政治家。 野村證券副社長、ローンスタージャパン会長、東京スター銀行会長、多数国間投資保証機関長官(初代)、参議院議員(1期)、経済企画庁長官(第49代)、参議院外務委員長等を歴任した。 栃木県佐野市生まれ。早稲田大学高等学院、早稲田大学政治経済学部卒業。 大学卒業後、野村證券に入社。入社後、フルブライト奨学生としてアメリカ合衆国ペンシルベニア大学大学院に留学し、ウォートン・スクールで経営学修士(MBA)を取得した。帰国後、野村證券外国部次長を経て、1968年にニューヨーク支店長に就任。翌1969年、ニューヨーク支店は現地法人格を有する米国野村證券(Nomura Securities International Inc.)に再編され、寺澤は同社の初代代表取締役社長に就任した。
龍居 竹之介(たつい たけのすけ、1931年7月29日 - … 龍居 竹之介(たつい たけのすけ、1931年7月29日 - )は、日本の造園家。龍居庭園研究所所長。姓は「瀧居」の表記も使用している 。 建築資料研究社から雑誌『庭』や『庭 GARDEN VIEWS』シリーズ、『作法』シリーズ、『ガーデンライブラリー』シリーズなどを編集発行し、主に古庭園の修復整備とともに、庭園の啓蒙活動をおこなっている。 東京都に生まれる。新宿区の出身。父は龍居松之助。 早稲田高等学院から早稲田大学第一文学部史学科国史専修に進学し、1954年の卒業後は日刊スポーツ新聞社の文化部記者となる。1972年から1978年までは嘱託となり、映画と放送、演劇を主に担当した。 記者活動の傍ら、1956年から1年間東京農業大学第一高等学校で、社会科の非常勤講師を務めた。
二世 野村 万作(にせい のむらまんさく、旧字体:萬作、本名… 二世 野村 万作(にせい のむらまんさく、旧字体:萬作、本名・野村 二朗(のむら じろう)、1931年(昭和6年)6月22日 - )は、狂言方和泉流の能楽師。「万作の会」主宰。東京出身。東京都立小石川高等学校、早稲田大学文学部卒業。称号 (現学位)は文学士。紫綬褒章。人間国宝。練馬区名誉区民。
加藤 武(かとう たけし、1929年〈昭和4年〉5月24日 … 加藤 武(かとう たけし、1929年〈昭和4年〉5月24日 - 2015年〈平成27年〉7月31日)は、日本の男性俳優、声優。文学座前代表。東京市京橋区(現:東京都中央区)出身。早稲田大学英文科卒業。俳号は「阿吽」。 築地で仲卸業を営む家に生まれる。祖母は十五代目市村羽左衛門の贔屓、両親共に清元節を嗜み、姉は舞踊をやっていた。中央区立泰明小学校、麻布中学校、早稲田大学高等学院卒業。小沢昭一・フランキー堺・仲谷昇・大西信行・なだいなだ・内藤法美は麻布中学校の同級生だった。幼少期より歌舞伎を愛好し、学校を早退してまで歌舞伎座に通っており俳優に憧れていた。 早稲田大学では演劇研究会に入り、ここで映画監督の今村昌平・俳優の北村和夫らと知り合う。
池原 義郎(いけはら よしろう、1928年3月25日 - 2… 池原 義郎(いけはら よしろう、1928年3月25日 - 2017年5月20日)は、日本の建築家、早稲田大学名誉教授、日本芸術院会員。 東京都渋谷区生まれ。明治学院中学校、早稲田大学高等学院を経て1951年早稲田大学理工学部建築学科卒業、1953年同大学院工学研究科建設工学専攻建築計画専修修了、山下寿郎設計事務所勤務、1956年早大理工学部建築学科今井兼次研究室助手、1964年には、多摩美術大学美術学部で講師を務め、1965年早大理工学部建築学科専任講師、1966年助教授、1971年教授、1974年日本建築学会賞、1988年池原義郎・建築設計事務所設立、日本芸術院賞、1989年日本芸術院会員。1995年早大名誉教授。
田村 恵(たむら めぐむ、1927年1月10日 - 1986… 田村 恵(たむら めぐむ、1927年1月10日 - 1986年10月8日)は、神奈川県出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFB。 附属鎌倉小学校出身。旧制湘南中学時代からサッカーを始め、第一早稲田高等学院を経て早稲田大学に入学。ア式蹴球部に所属して大学リーグの優勝に貢献した。大学卒業後は日本油脂に入社。1951年2月11日の全関西戦で日本代表として初出場した。また、1951年アジア競技大会の日本代表にも選出されて3試合全てに出場。国際Aマッチ3試合出場を記録した。 現役引退後は社業に専念する傍ら、地元の鎌倉で少年サッカーのコーチを務めていた。1986年10月8日、国立がんセンターにおいて癌により死去した。
岡田 卓也(おかだ たくや、1925年〈大正14年〉9月19… 岡田 卓也(おかだ たくや、1925年〈大正14年〉9月19日 - )は、日本の実業家。イオングループ名誉会長。四日市岡田家の7代目当主である。イオングループを子会社約300社、連結売上高9兆5,535億円、従業員数約56万人(2016年2月期)という日本の小売業を代表する企業に育て上げた。 三重県四日市市の老舗呉服商・岡田屋6代目の岡田惣一郎の長男(1男4女の末子で4人の姉がいる)として、1925年(大正14年)9月19日に四日市市(中部地区)に生まれた。誕生後に卓也は捨て子の風習で三滝川の橋に捨てられた。占い師の姓名判断により、戦死しにくいという「卓也」と命名された。父親は2歳の時に病死した。
井上 和男(いのうえ かずお、1924年12月27日 - 2… 井上 和男(いのうえ かずお、1924年12月27日 - 2011年6月26日)は、神奈川県小田原市出身の日本の映画監督。 神奈川県小田原市出身。神奈川県立小田原中学校(現・神奈川県立小田原高等学校)をへて早稲田第一高等学院に入る、1944年3月学徒応召し海軍飛行少尉に任官。1945年8月復員、早稲田大学商学部に入る。在学中に小田原で劇団こゆるぎ座を創立し劇作家を目ざす。 1948年に大学を卒業し、松竹大船撮影所脚本部に入る。新藤兼人に師事し、その勧めで助監督試験を受け、12月に助監督となる(松山善三と同期)。渋谷実、川島雄三、小津安二郎『東京物語』で助監督を務める。 1955年、京都映画『父と子と母と』で監督を務め、1958年松竹大船の監督に昇進する。
今西 祐行(いまにし すけゆき、1923年10月28日 - … 今西 祐行(いまにし すけゆき、1923年10月28日 - 2004年12月21日)は、日本の児童文学作家。 大阪府中河内郡縄手村字六万寺(現東大阪市六万寺町)に生まれ、奈良県生駒市で育つ。1936年、旧制奈良県立奈良中学校(現・奈良県立奈良高等学校)に入学、5年間植物採集とテニスに熱中する。1940年、中学5年生の夏、病気になり大阪の病院に入院、この頃より文学書をむさぼり読む。1941年、第二早稲田高等学院入学。同年、大久保同胞教会(現在の日本基督教団新宿西教会)にて受洗。 1942年、早大童話会に入り、坪田譲治を知る。同年、童話会機関紙『童話界』に、最初の童話「ハコちゃん」を発表、好評を博す。
掛下 栄一郎(かけした えいいちろう、1923年〈大正12年… 掛下 栄一郎(かけした えいいちろう、1923年〈大正12年〉9月13日 - 2011年〈平成23年〉8月6日)は、日本の哲学者、早稲田大学名誉教授。専門は哲学及び美学。 佐賀県大牟田市に生まれ、数ヶ月後に和歌山県和歌山市に移る。和歌山県立和歌山中学校を経て、1942年4月に第二早稲田高等学院文科に入学する。1943年12月、学徒出陣により大阪の高射砲隊に入隊し、満州にて幹部候補生としての教育を受ける。1946年1月、早稲田大学文学部哲学科(西洋哲学専修)に復学する。1947年10月に卒業した後、大学院において樫山欽四郎の指導を受け、また、早稲田大学図書館書記に嘱託される。 1949年4月、早稲田大学高等学院の助手となる。
戸井 昌造(とい しょうぞう、1923年(大正12年)4月1… 戸井 昌造(とい しょうぞう、1923年(大正12年)4月16日 - 2000年(平成12年)4月17日)は、日本の画家、民俗研究家、作家。兵庫県生まれ。早稲田大学政治経済学部中退。息子は作家の戸井十月。 早稲田高等学院在学中に学徒出陣で中国に赴任。敗戦により捕虜となった後に復員し、早稲田大学に復学するが中退。1946年に共産党に入党し、1950年に脱党。 人形劇団プークでの民主主義的文化活動などを経て画家となる。それと並行して日本の民俗史や民衆史などを研究。特に秩父事件の研究では第一人者とされている。 人形劇団プークのリーダーだった、川尻東次・川尻泰司兄弟の妹・錦子と結婚。 2000年4月17日、胃がんにより死去。
高島 平蔵(たかしま へいぞう、1922年10月6日 - 2… 高島 平蔵(たかしま へいぞう、1922年10月6日 - 2009年8月21日)は、日本の法学者。専門は民法。学位は、法学博士(早稲田大学・論文博士・1970年)(学位論文『近代的物権制度の展開と構成』)。早稲田大学名誉教授。東京都生まれ。 物権法・担保物権法を中心に研究し、同分野では確固たる学問的地位を確立した。また、方法論としての民法解釈学についても大きな足跡を残し、早稲田大学法学部の最終講義では「民法解釈学について」というテーマで記念講義をした。法学教育にも熱心で、早稲田大学法学会傘下の学生研究サークル「民法研究会」を30年余りにわたって顧問として指導し、同会の主催する模擬裁判は早稲田大学法学部の伝統を築いた。
佐藤 巧(さとう たくみ、大正11年(1922年)9月20日… 佐藤 巧(さとう たくみ、大正11年(1922年)9月20日 - 平成30年(2018年)3月9日)は、日本の工学者、建築学者。東北大学名誉教授。 飯田須賀斯に師事する。専門は古建築学で、日本住宅および集落史、東北地方を中心とした中近世の古民家、社寺、城郭建築などの調査、保存研究で知られる。戦災で焼失した伊達政宗の霊廟瑞鳳殿の再建、仙台城復元計画なども業績の一部である。宮城県、山形県、岩手県、仙台市それぞれの文化財保護審議委員を長く務めた。
大竹 十一(おおたけ じゅういち、1921年 - 2005年… 大竹 十一(おおたけ じゅういち、1921年 - 2005年)は、日本の建築家。 宮城県生まれ。第一早稲田高等学院から、早稲田大学理工学部建築学科に進学。早稲田大学で会津八一に師事。卒業後、佐藤武夫の建築設計事務所(現・佐藤総合計画)を経て、梓建築事務所(現・梓設計)を共同で設立。 その後1952年から早稲田大学へ戻り武基雄の作品に尽力。1954年、吉阪隆正に請われて建築設計事務所の吉阪研究室(のちのU研究室)創設に参加。同研究室の番頭となる。ヴェネツィア・ビエンナーレ・日本館の設計など吉阪作品に携わるかたわら、メンバーを指導。1976年ごろ病を患いしばらく設計活動から遠ざかるがのち復職。1980年の吉阪亡き後もU研究室で設計活動を続けた。
菊池 渙治(きくち かんじ、1919年(大正8年)6月10日… 菊池 渙治(きくち かんじ、1919年(大正8年)6月10日 - 2003年(平成15年)6月16日)は、昭和時代後期から平成時代の政治家。青森県むつ市長。 青森県下北郡田名部町(現:むつ市)に生まれる。早稲田大学付属第二高等学院を経て、1943年(昭和18年)同大文学部を卒業する。一時東京府の私立佐藤高等女学校教諭を務めた後に帰郷し、田名部農業協同組合長・田名部町議会議員に。むつ市設置でむつ市議会議員になり、初代の市議会議長になると共に紅服装専門学校の設置者などを務める。 1967年(昭和42年)に青森県議会議員に転じ、2期目途中の1973年(昭和48年)に原子力船「むつ」の受け入れ阻止グループから請われる立場でむつ市長選に出馬。
鵜月 洋(うづき ひろし、1918年〈大正7年〉11月29日… 鵜月 洋(うづき ひろし、1918年〈大正7年〉11月29日 - 1965年〈昭和40年〉6月12日)は、日本の国文学者。専門は、近世日本文学及び宣伝・広告文。 1918年11月29日、千葉県銚子市に生まれる。 第二早稲田高等学院を経て、1939年4月1日、旧制早稲田大学文学部文学科国文学専攻に入学。学徒出陣のため、1941年12月25日に繰り上げ卒業となる。卒業論文は暉峻康隆の指導の下、江戸戯作(洒落本)をテーマとし、成績優秀だったため優等賞を受けた。 1942年4月1日に早稲田大学大学院に入学。同年9月27日には論文「近世後期写実小説の研究」に教職員賞が与えられた。同年9月の城右高等女学校教諭、1944年9月から日本文学報国会主事となる。
天野 太郎(あまの たろう、1918年7月27日 - 199… 天野 太郎(あまの たろう、1918年7月27日 - 1990年11月15日)は、日本の建築家。フランク・ロイド・ライトに学び、工学院大学助教授、東京芸術大学教授で教鞭を歴任する中、吉原正、武藤章らと設計活動を行った。1990年従四位勲三等瑞宝章。 1918年広島県呉市生れ。第一早稲田高等学院を経て、1942年早稲田大学理工学部建築学科入学。在学中会津八一に師事し、大竹十一、小堀鐸二、円堂政嘉らと親交を持つ。卒業後に鹿島建設設計部に入社し、目白ヶ丘教会の設計のため遠藤新建築創作所に樋口清、吉原正らと出向する。遠藤新の薫陶を受け、1952年に遠藤の師であるライトの下に遊学する。その他に、鹿島建設に顧問でいた吉田鉄郎の影響も受ける。
加茂 正五(かも しょうご、1916年12月12日 - 19… 加茂 正五(かも しょうご、1916年12月12日 - 1977年9月14日)は、静岡県浜松市出身のサッカー選手。ポジションはFW(左ウイング)。 静岡県立浜松第一中学校(現・静岡県立浜松北高等学校)の在学中より実兄の加茂健とともにサッカーを初め、早稲田大学に入学後はア式蹴球部に所属。在学中の1936年にベルリンオリンピックのサッカー日本代表に選出され、1回戦のスウェーデン代表戦に出場。0-2の状況から、49分に川本泰三、62分には右近徳太郎の得点をアシストして試合を振り出しに戻し、チームの逆転勝利に貢献した。 また、在学中の1938年6月に開催された全日本蹴球選手権大會(第18回天皇杯全日本サッカー選手権大会)でチームの優勝に貢献した。
加茂 健(かも たけし、1915年2月8日 - 2004年3… 加茂 健(かも たけし、1915年2月8日 - 2004年3月26日)は、静岡県出身のサッカー選手。ポジションはインナーレフト。加茂正五は弟。 静岡県浜松師範学校付属小学校4年時にサッカーを始める。浜松一中では5年時にキャプテンを務め、中部大会に優勝した。 早稲田大学入学後はア式蹴球部に所属。在学中の1936年に開催されたベルリンオリンピックのサッカー日本代表に選出され、背番号10を付けた。1回戦のスウェーデン代表戦に出場し、ベルリンの奇跡の立役者となった。また、2回戦のイタリア代表戦にも出場した。 また、1938 FIFAワールドカップ・予選および1940年東京オリンピック の日本代表にも選出されたが、試合会場となるベトナムへの渡航に難色を示した大日本蹴球協会(現:日本サッカー協会)によりW杯予選への不参加が決定された。
北原 安定(きたはら やすさだ、1914年11月5日 - 1… 北原 安定(きたはら やすさだ、1914年11月5日 - 1994年4月1日)は、日本の逓信官僚、元電電公社副総裁および元NTT副社長。工学博士。 長野県上伊那郡高遠町(現伊那市)出身。第一早稲田高等学院、早稲田大学理工学部電気科を卒業し、逓信省に入省。電気通信省を経て、日本電信電話公社で、九州電気通信局長、施設局長、総務理事、技師長を歴任し、1977年に副総裁に就任した。 当時、世界最高水準であった電電公社の技術陣をまとめただけでなく、経営観点においても高い先見性を持っており、いち早くデータ通信の重要性を見出していた。高度情報通信システムINS(Information Network System)を活用した将来的な、在宅勤務やオンラインショッピングなど、“電話”の次のネットビジネスを模索していた。
有倉 遼吉(ありくら りょうきち、1914年2月20日 - … 有倉 遼吉(ありくら りょうきち、1914年2月20日 - 1979年6月10日)は、日本の法学者。専門は、憲法学・教育法学。学位は、法学博士(1960年)(学位論文「公法における理念と現実」)。元早稲田大学法学部教授。 厳格な法実証主義による解釈を行った。閣議の議決方法については、多数決説を、憲法判断の回避の問題では、憲法判断先行説をとる。教育基本法の法的性格として、準憲法的法律説を提唱、日本教育法学会の初代会長を務めるなど、教育法学の理論形成に大きく貢献した。中国大連市(当時)生まれ。
石川 利光(いしかわ としみつ、1914年2月3日 - 20… 石川 利光(いしかわ としみつ、1914年2月3日 - 2001年7月14日)は、日本の作家。宮中研三名義の官能小説も発表した。 弁護士を父に持ち、三男として大分県日田市に生まれる。日田中学(現在の大分県立日田高等学校)を卒業し、1932年早稲田高等学院を経て早稲田大学に入るが、1937年近藤忠義に誘われて法政大学国文科に転学し、1940年に卒業。1941年に同人誌を統合した『文藝主潮』の編集委員となる。1944年に日本文学報国会会員となり、日本航空機工業に勤務。1946年に九州書院を興す。丹羽文雄を中心とした会合に参加し、『文学者』の刊行を引き受ける。 1951年に執筆活動に入り、第25回芥川賞を『春の草』で受賞した。
岡本 良雄(おかもと よしお、1913年6月10日 - 19… 岡本 良雄(おかもと よしお、1913年6月10日 - 1963年2月6日)は、日本の児童文学作家。 「あすもおかしいか」「生きているレントゲン」「三人の0点くん」などの作品がある。 大阪府大阪市北区(現:此花区)で生まれる。1931年に上京、第一早稲田高等学院を経て、早稲田大学文学部国文学科を卒業。大学在学中から早大童話会に入会し、口演童話や創作活動を行った。また卒業論文の題は「童話作家小川未明論」であった。 卒業後の1938年に大阪府に戻り、下畑卓や花岡大学らと同人「新児童文学集団」を結成。機関紙『新児童文学』に童話などを発表した。また、そこで発表した「八号館」が第1回日本新人童話賞を受賞、授賞式後すぐに上京、豊島区に下宿した。
森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日 - 200… 森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日 - 2009年11月10日)は、日本の俳優、歌手、コメディアン、元NHKアナウンサー。最終期はアクターズセブン所属。別表記に森繁久弥。
小谷 正一(こたに まさかず、1912年7月31日 - 19… 小谷 正一(こたに まさかず、1912年7月31日 - 1992年8月8日)は、日本のイベントプロデューサー。兵庫県姫路市竜野町出身。 旧制姫路中学校(現・兵庫県立姫路西高等学校)→早稲田第二高等学院を経て、1935年に早稲田大学卒業。その後1年ほど松竹大船撮影所付属の脚本研究所に入るが、結局松竹を退社して大阪毎日新聞社に入社する。ただ毎日新聞では事業部に配属されたため、第二次世界大戦末期の一時期を除いて新聞記者として働いた時期はほとんどない。毎日新聞社主催の音楽コンクールヴァイオリン部門で第1位となった辻久子のリサイタルを企画した。 1946年に毎日新聞が紙不足の状況下、自社のダミーとして『新大阪』を発行する新大阪新聞社を設立すると、毎日新聞から同社に派遣される形で同社編集局長に就任。
木村 宗男(きむら むねお、1911年9月6日 - 2005… 木村 宗男(きむら むねお、1911年9月6日 - 2005年)は、日本語教育の研究者、実践者。早稲田大学名誉教授。
小柳 胖(おやなぎ ゆたか、1911年〈明治44年〉3月6日… 小柳 胖(おやなぎ ゆたか、1911年〈明治44年〉3月6日 - 1986年〈昭和61年〉1月4日)は、日本の記者、新聞編集者、実業家。新潟日報社第4代社長、會津八一記念館初代館長。 新潟県新潟市に生まれ、早稲田大学政治経済学部経済学科を卒業後、同盟通信社(現 共同通信社)などを経て、新潟日報社編集局長の時に太平洋戦争に応召し、硫黄島でアメリカ軍の捕虜となると、ハワイの捕虜収容所に送られた。 そこで情報将校ドナルド・キーン海軍中尉と親しくなり、未来の日本について語り合った。 包容力があり、太っ腹で、日本人捕虜の仲間たちから、「おやじ」や「とっつぁん」などと呼ばれていたため、捕虜収容所所長の情報将校オーテス・ケーリ海軍中尉から、幡随院長兵衛の一字を採って「幡さん」と名付けられた。
伊達 正男(だて まさお、1911年2月25日 - 1992… 伊達 正男(だて まさお、1911年2月25日 - 1992年8月30日)は、東京六大学野球・社会人野球で活躍した野球選手である。右投右打。 旧制市岡中学(現大阪府立市岡高等学校)2年時から野球を始め、全国大会に4度出場。ポジションは捕手で、時にマウンドにも登った。神戸高等商業学校(現・神戸大学)を受ける予定だったが市岡中の大先輩だった佐伯達夫から薦められて第二早稲田高等学院に進学した(のち早稲田大学商学部に進む)。 入学早々1928年東京六大学野球春季リーグ戦で32打数15安打、打率.469の高率で首位打者を獲得した。1年生春の首位打者は伊達が初めてで、その後1992年の早大・大森篤まで現れなかった。
加藤 治郎(かとう じろう、1910年6月1日 - 1996… 加藤 治郎(かとう じろう、1910年6月1日 - 1996年11月3日)は昭和期の将棋棋士。名誉九段。棋士番号14。東京府東京市(現在の東京都港区)出身。山本樟郎八段門下。早稲田大学を卒業した、初の大学出身プロ棋士。