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田丸 秀治(たまる ひではる、1914年4月20日 - 19… 田丸 秀治(たまる ひではる、1914年4月20日 - 1990年1月25日)は、日本の実業家。電通代表取締役社長、代表取締役相談役、日本広告業協会理事長等を歴任。マルさんの愛称で親しまれた。 鹿児島県鹿児島市生まれ、出身。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1935年第七高等学校造士館文科卒業。1938年東京帝国大学文学部を卒業。旧制中学校の教諭を経て、七高先輩の吉田秀雄に招かれて1948年に日本電報通信社に入社。部長、局長を経て、1967年に電通常務取締役に就任。その後、専務取締役を経て、1977年に代表取締役社長に就任。同時に吉田秀雄記念事業財団の理事長にもなる。
鈴木 正四(すずき まさし、1914年2月11日 - 200… 鈴木 正四(すずき まさし、1914年2月11日 - 2001年12月24日)は、日本の歴史学者。愛知大学名誉教授。 山形県出身。鹿児島県立第一鹿児島中学校 (旧制)を経て、1933年第七高等学校造士館 (旧制)卒業。1936年東京帝国大学西洋史学科卒業。外務省図書係嘱託、ナウカ社「社会評論」編集長を経て、1956年愛知大学教授、後に同大学国際問題研究所長。1985年定年退任。
金丸 三郎(かねまる さぶろう、1914年(大正3年)2月8… 金丸 三郎(かねまる さぶろう、1914年(大正3年)2月8日 - 2007年(平成19年)8月15日)は、日本の官僚、政治家。自治事務次官、鹿児島県知事、自由民主党参議院議員、総務庁長官、参議院協会会長、財団法人井上育英会顧問を務めた。 位階は従三位。勲等は勲一等瑞宝章。学位は法学士(東京大学)。称号は特定非営利活動法人日本居合道連盟名誉範士。 鹿児島県出水郡上出水村(後の出水町)生まれ、現在の出水市出身。鹿児島県立第一鹿児島中学校(のち鹿児島県立鶴丸高等学校)、第七高等学校造士館(のち鹿児島大学)を経て、東京帝国大学(のち東京大学)法学部卒業後の1938年(昭和13年)、内務省入省(地方局配属)。
山岡 大二(やまおか だいじ、1913年(大正2年)11月6… 山岡 大二(やまおか だいじ、1913年(大正2年)11月6日 - 1991年(平成3年)11月1日)は、東京都出身の日本の海軍軍人、海上自衛官。最終階級は、海軍少佐、海将補。 内務官僚・山岡国利の二男として東京で生れる。鹿児島一中を経て、1936年(昭和11年)3月、海軍兵学校(第63期)を卒業、遠洋航海終了後、戦艦「霧島」乗組となる。翌年4月、海軍少尉に任官し1937年(昭和12年)8月、新造の駆逐艦「涼風」乗組となり、以後、「伊号第五十七潜水艦」、「呂号第三十四潜水艦」乗組み、1938年(昭和13年)8月、呉鎮守府第四特別陸戦隊付となる。同年12月、重巡洋艦「三隈」乗組となり、重巡洋艦「筑摩」、水雷艇「鳩」乗組を経て、1940年(昭和15年)10月、駆逐艦「霞」砲術長となり太平洋戦争を迎えた。
益田 哲夫(ますだ てつお、1913年9月13日 - 196… 益田 哲夫(ますだ てつお、1913年9月13日 - 1964年7月10日)は日本の労働組合運動活動家。第二次大戦後、自動車産業の労働組合として結成された全日本自動車産業労働組合(略称全自:1948〜1954)およびその支部である日産自動車分会(略称日産分会)で指導者として活躍し、マステツの愛称で知られる。益田の指導で行われた職場闘争や、1952年に起草した全自の「賃金原則」は現在でも高い評価を受けている。著書に『明日の人たち』(五月書房, 1954年)がある。 鹿児島県徳之島出身。鹿児島県立第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)から第七高等学校造士館を経て、東京帝国大学法学部卒。在学中に高等文官試験(高文)に合格したとの伝説もある。
沼田 次郎(ぬまた じろう、1912年8月19日 - 199… 沼田 次郎(ぬまた じろう、1912年8月19日 - 1994年6月29日)は、日本の歴史学者、日本史学者。東京大学名誉教授(史料編纂所元所長)。洋学史、日蘭交渉史が専門で、日蘭学会理事長も務めた。 熊本県熊本市出身(出生地は和歌山県)。鹿児島県立第一鹿児島中学校 (旧制)を経て、1932年第五高等学校 (旧制)卒業、1935年東京帝国大学文学部国史学科卒業。東京大学史料編纂所に入り、1954年助教授、1965年教授に就任し、1971年から1973年に所長を務める。1973年から1983年まで東洋大学文学部教授。そのほか、1980年から1983年に日蘭学会理事長。勲三等旭日中綬章受章。
大室 孟(おおむろ つとむ、1912年(明治45年)1月15… 大室 孟(おおむろ つとむ、1912年(明治45年)1月15日 - 2001年(平成13年)2月14日)は、日本の陸軍軍人、航空自衛官。最終階級は日本陸軍では陸軍少佐、航空自衛隊では航空幕僚長たる空将。 陸軍大佐大室勝の息子として生まれる。鹿児島一中、東京陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、陸軍士官学校本科に入校。日本陸軍時代は司令部偵察機操縦者として活躍し、特に日中戦争時には九七式司令部偵察機をもって多大な功績を挙げ、偵察隊としては異例の功四級金鵄勲章および個人感状拝受の栄誉を受ける。太平洋戦争時代は主に一〇〇式司令部偵察機「新司偵」を愛機として、各司偵隊の隊長を務めた。 戦後は公職追放を経て、航空自衛隊に入隊し、創設時は教官としてパイロットの養成に尽力した。
野田 毅(のだ つよし、1912年 - 1948年1月28日… 野田 毅(のだ つよし、1912年 - 1948年1月28日)は、日本の陸軍軍人。敗戦時の階級は陸軍少佐。南京攻略戦の際に実施されたとされる「百人斬り競争」実行の容疑者として逮捕・処刑された。 鹿児島県南大隅郡田代村(現・肝属郡錦江町)出身。野田伊勢熊の4人兄妹の長男。鹿児島県立第一鹿児島中学校(現・鹿児島県立鶴丸高等学校)卒業、陸軍士官学校第49期。 1937年に起こった日中戦争には、第16師団第9連隊第3大隊の副官として参加(階級は陸軍少尉)。南京への進軍中に歩兵砲小隊長・向井敏明少尉との間で行われた「百人斬り競争」が『東京日日新聞』に報道される。その後、歩兵科から航空科に転科し、広東作戦に参加。
山元 一郎(やまもと いちろう、1910年9月14日 - 1… 山元 一郎(やまもと いちろう、1910年9月14日 - 1972年7月7日)は日本の哲学者、言語哲学者。立命館大学教授。 鹿児島県国分市(霧島市)出身。鹿児島県立第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1927年4月に第三高等学校文科へ入学し、6月に退学。1928年4月に第七高等学校造士館理科へ入学、1931年3月に卒業。1931年4月に京都大学文学部哲学科へ入学し、田邊元に師事。1934年3月に京都大学文学部哲学科を卒業して、同年4月から1936年3月まで大学院在学。 1936年4月~1938年3月、立命館大学専門部講師。1938年4月~1940年3月、京都帝国大学附属図書館嘱託。
岩元 達一(いわもと たついち、1909年(明治42年)9月… 岩元 達一(いわもと たついち、1909年(明治42年)9月1日 - 1982年(昭和57年)6月23日)は、日本の実業家、政治家。山形屋会長、貴族院多額納税者議員。 鹿児島県鹿児島市で、実業家・岩元善蔵(岩元信兵衛弟)の三男として生まれ、伯父・信兵衛の養嗣子となり、山形屋の6代目を継承した。第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1934年(昭和9年)慶應義塾大学法学部を卒業した。その後、東京銀座の松屋に入社し、デパート経営を経験した。 1935年(昭和10年)山形屋の取締役に就任し、1943年(昭和18年)会長となる。その他、田辺鉄工所監査役、新生工業副社長、日本瓦斯取締役、小牧組取締役などを務めた。
沢田 慶輔(さわだ けいすけ、1909年2月18日 - 19… 沢田 慶輔(さわだ けいすけ、1909年2月18日 - 1995年2月1日)は、日本の心理学者。東京大学名誉教授。生徒指導や学生相談の研究と普及に尽力した。 鹿児島県鹿児島市出身。鹿児島県立第一鹿児島中学校 (旧制)を経て、1928年第七高等学校造士館 (旧制)卒業、1931年東京帝国大学文学部心理学科卒業。 1933年から1939年、岩波書店嘱託として『教育学辞典』(全5巻)の編集にあたる。1938年から東京府大泉師範学校・東京第三師範学校に勤務。学制改革により、1949年東京学芸大学教授。 1950年東京大学教育学部助教授に転任し、1952年東京大学教育学部教授に昇任。東京大学学生相談所初代所長も務めた。
吉満 義彦(よしみつ よしひこ、1904年〈明治37年〉10… 吉満 義彦(よしみつ よしひこ、1904年〈明治37年〉10月13日 - 1945年〈昭和20年〉10月23日)は、日本の哲学者。日本における最初のキリスト教哲学者。 鹿児島県奄美群島徳之島の亀津(現大島郡徳之島町)出身。鹿児島一中、第一高等学校文科丙類(仏語)を経て、1928年東京帝国大学倫理学科卒。在学中、岩下壮一に出会いプロテスタントからカトリックに改宗。フランスでジャック・マリタンに師事。1931年上智大学講師、東京公教神学校講師。雑誌『創造』、『カトリック研究』などに寄稿。また、戦時中の「近代の超克」企画に参画した。
佐多 忠隆(さた ただたか、1904年6月4日 - 1980… 佐多 忠隆(さた ただたか、1904年6月4日 - 1980年4月23日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)。 鹿児島県鹿児島市生まれ。同市下荒田町出身。佐多直正の次男として生まれる。後の鹿児島市長平瀬實武は、地元の小学校と学舎の2年先輩。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校を経て、1925年旧制第七高等学校造士館文科を卒業。七高時代は佐野博らとともにサークル「鶴鳴会」(かくめいかい)に参加。東大に進学し、新人会で活動。1928年東京帝国大学経済学部卒業。大学卒業後は「中央公論」などの雑誌に評論を書いていたが、1935年内閣調査局(内閣企画院の前身)に入り、次いで第2次近衛内閣のもとで企画院調査官に就任し勝間田清一、和田博雄とともに同政権の「経済新体制」の策定に関与するが、企画院事件により治安維持法違反の嫌疑で検挙、投獄された。
山下 俊郎(やました としお、1903年12月4日 - 19… 山下 俊郎(やました としお、1903年12月4日 - 1982年3月19日)は、日本の教育心理学者。東京都立大学名誉教授。 鹿児島県鹿児島市下竜尾町出身。鹿児島一中 (旧制)、第一高等学校 (旧制)を経て、1928年東京帝国大学文学部心理学科卒。1962年「幼児における基本的習慣の研究」で東北大学より文学博士の学位を取得。大日本婦人連合会家庭教育相談所、愛育会・愛育研究所所員、同教養部長、愛育幼稚園長、東京家政大学教授をへて、旧・東京都立大学教授となる。1967年定年退官、名誉教授となり、再度東京家政大学教授、同付属みどりヶ丘幼稚園長、川村短期大学教授。日本保育学会会長を務めた。
村尾 薩男(むらお さつお、1902年(明治35年)8月25… 村尾 薩男(むらお さつお、1902年(明治35年)8月25日 - 1970年(昭和45年)1月5日)は、昭和期の社会運動家、政治家、実業家。衆議院議員。 鹿児島県薩摩郡、のちの川内町(川内市を経て現薩摩川内市)で、鹿児島市の山形屋呉服店常務取締役の息子として生まれる。鹿児島県立第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て第七高等学校造士館に入学。是枝恭二、喜入虎太郎らと文芸、哲学、社会問題の研究会を立上げ、ロシア飢饉救済運動にも加わった。1923年(大正12年)東京帝国大学文学部社会学科に進み、新人会に加入して活動したが、京都学連事件で検挙され、第1審で禁固1年の判決を受け、1926年(大正15年)1月に大学を中退した。
寺園 勝志(てらぞの かつし、1901年(明治34年)7月2… 寺園 勝志(てらぞの かつし、1901年(明治34年)7月25日 - 1998年(平成10年)2月11日)は日本の政治家、元官僚。鹿児島県知事や南日本放送会長を務めた。 1901年(明治34年)、姶良郡栗野村(のちの栗野町、現在の湧水町栗野地域)出身。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校を経て東京帝國大学(現・東京大学)を卒業。 内務官僚となり 、厚生省部長、鹿児島県経済部長、同県副知事などを経て、1955年(昭和30年)から鹿児島県知事を3期12年務めた。在任中、戦後の混乱で厳しい財政の中で農業振興や交通・通信の整備に尽力し、大隅半島の広大なシラス台地である笠野原台地に大規模灌漑で農業用水を提供する土地改良事業をおこなった。
古垣 鉄郎(ふるかき てつろう、1900年(明治33年)9月… 古垣 鉄郎(ふるかき てつろう、1900年(明治33年)9月20日 - 1987年(昭和62年)3月8日)は、日本のジャーナリスト、外交官。筆名は中馬 藤十郎。 1900年(明治33年)に鹿児島県日置郡日置村大字日置(現在の日置市日吉町日置)に生まれる。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校を経て、第一高等学校を卒業したのち、島津奨学資金の援助でフランス共和国のリヨン大学法学部へ留学し同校を卒業した。1923年(大正12年)からジュネーブに駐在し国際連盟事務局情報部に勤務した。同部ではロックフェラー3世(英語版)が連盟を学ぶために配属されており、古垣は彼と同室で過ごして面倒を見ている。1929年(昭和4年)に国際連盟事務局を退職し、同年に朝日新聞社に入社してロンドンとパリに在住し、論説委員としてロンドン支局長、欧米部長、ヨーロッパ支局長などを務めた。
中山 源夫(なかやま もとお、1899年(明治32年)5月2… 中山 源夫(なかやま もとお、1899年(明治32年)5月26日 - 1979年(昭和54年)12月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県出身。東京で陸軍大尉・中山左源二の長男として生まれる。鹿児島第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第7連隊付となる。1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業し歩兵第7連隊中隊長に就任した。 1931年(昭和6年)5月、東京警備参謀に就任し、参謀本部員を務め、1935年(昭和10年)8月、歩兵少佐に進級した。
山下 秀之助(やました ひでのすけ、1897年11月29日 … 山下 秀之助(やました ひでのすけ、1897年11月29日 - 1974年4月4日)は、日本の医師・歌人。短歌雑誌『創作』の若山牧水、『潮音』の太田水穂に師事し、吉植庄亮主宰の『橄欖』を経て、1946年『原始林』(第2次)を札幌市で創刊。北海道の歌壇の基礎を築いた一人と評価され、戦前・戦後の北海道文壇・歌壇の指導的な存在であった。 1897年(明治30年)11月29日、鹿児島県鹿児島市東千石町に生まれる。鹿児島第一中学校、第七高等学校造士館を経て、1922年(大正11年)東京帝国大学医学部を卒業。同年5月、北海道帝国大学医学部助手として北海道に移る。北大医学部講師、小樽病院を経て、移住四年後の1926年(大正15年)から国鉄傘下の札幌鉄道病院(現在のJR札幌病院)に勤務。
金倉 円照(金倉 圓照、かなくら えんしょう、1896年11… 金倉 円照(金倉 圓照、かなくら えんしょう、1896年11月17日 - 1987年1月24日)は、インド哲学者・仏教学者。位階は正三位。学位は、文学博士。東北大学名誉教授、宮城教育大学学長。龍厳寺住職(浄土真宗本願寺派)。特にジャイナ教と正当バラモン教の諸哲学体系の研究で知られる。 鹿児島県川辺郡坊津町(現・南さつま市)出身。鹿児島県立第一鹿児島中学校 (旧制)を経て、1917年第七高等学校造士館 (旧制)卒業、1920年東京帝国大学文学部印度哲学科卒業。大学卒業後、ヨーロッパへ留学。1923年東北帝国大学助教授、1926年東北帝国大学教授(戦後学制改革により東北大学教授)。1931年に論文「ブリハダーラヌヤコーパニシヤツドバーシユヤの研究」により東京帝国大学より文学博士を授与される。
中村 四郎(なかむら しろう、1895年(明治28年)11月… 中村 四郎(なかむら しろう、1895年(明治28年)11月12日 - 1989年(平成元年)2月3日)は、日本の内務・警察官僚。官選徳島県知事。 鹿児島県肝属郡新城村(現在の垂水市)新城で、中村思無邪の四男として生まれた。鹿児島県立第一鹿児島中学校を経て、1918年7月、第七高等学校造士館第一部甲類(英法)を卒業。1920年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1921年4月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年8月、内務省に入省し三重県属、内務部地方課勤務となる。同年12月、休職し一年志願兵として歩兵第23連隊に入隊。1922年11月に満期除隊。 1923年4月、三重県内務部学務課兼社寺兵事課兼農商課勤務となる。
有馬 正文(ありま まさふみ、1895年〈明治28年〉9月2… 有馬 正文(ありま まさふみ、1895年〈明治28年〉9月25日 - 1944年〈昭和19年〉10月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 1895年9月25日、鹿児島県日置郡中伊集院村(現日置市伊集院地域)に生まれる。1902年4月1日、鹿児島県立師範学校附属尋常小学校入学。1906年(明治39年)4月1日、伊集院村立伊集院尋常高等小学校入学。1908年(明治41年)4月1日、鹿児島県立第一鹿児島中学校入学。1912年(大正元年)8月31日、鹿児島県立第一鹿児島中学校の5年次に中途退学。9月9日、海軍兵学校第43期入校。入校時成績順位は100名中第51位。同期生の高木惣吉を終始兄のように慕い、有馬の長女百合子の結婚(相手は後に第9代海上幕僚長となる石田捨雄)では、高木夫妻を半ば強引に口説き落とし仲人を依頼した。
井之口 政雄(いのぐち まさお、明治28年(1895年)4月… 井之口 政雄(いのぐち まさお、明治28年(1895年)4月28日 - 昭和42年(1967年)6月30日)は、日本の政治運動家、革命家、ジャーナリスト、政治家。衆議院議員(1期)。 沖縄県那覇市出身。1912年(大正元年)鹿児島一中を卒業、1916年(大正5年)慶應義塾大学部予科に入学し、卒業。1918年(大正7年)同大学部理財科に進む(後に中退)。在学中に、「日本社会主義同盟」、山川均らが主宰していた水曜会で活躍。1921年(大正10年)12月より翌年11月まで一年志願兵として鹿児島歩兵連隊に入隊。24年春から秋頃まで大阪の『関西日報』の記者となる。 1923年(大正12年)に日本共産党に入党。
川越 守二(かわごえ もりじ、1895年(明治28年)1月2… 川越 守二(かわごえ もりじ、1895年(明治28年)1月25日 - 1976年(昭和51年)12月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県出身。農業・川越半之丞の五男として生まれた。鹿児島第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第1連隊付となる。1919年(大正8年)11月、陸軍砲工学校高等科(25期)を卒業。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業した。 1925年(大正14年)8月、野砲兵第1連隊中隊長に就任。1926年(大正15年)3月、参謀本部付勤務となり、関東軍幕僚付、第6師団参謀を務め、1931年(昭和6年)8月、砲兵少佐に進級し野砲兵第6連隊大隊長に就任。
益田 道三(ますだ みちぞう、1894年5月17日 - 19… 益田 道三(ますだ みちぞう、1894年5月17日 - 1965年10月12日)は、英文学者・比較文学者。 大阪市北区生まれ。1916年東京高等師範学校英語科卒、地方公務員の教師となり、鹿児島県立第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)教諭、1917年佐賀県立鹿島中学校(現佐賀県立鹿島高等学校)教諭、1925年京都帝国大学文学部英文科卒、1926年兵庫県立第一神戸高等女学校(現兵庫県立神戸高等学校)教授、1929年大阪商科大学教授、1940年勲六等瑞宝章受勲。1949年校名変更で大阪市立大学法文学部教授、57年定年退官、神戸山手女子短期大学教授。
勝目 清(かつめ きよし、1894年2月21日 - 1971… 勝目 清(かつめ きよし、1894年2月21日 - 1971年7月11日)は、日本の政治家。第14代鹿児島市長。鹿児島県出身。 鹿児島市下竜尾町生まれ。父覚衛は鉄道院職員。1898年鶴山学舎入舎。1900年鹿児島県師範学校附属幼稚園卒園。同年鹿児島市立大龍小学校入学。1904年鹿児島県師範学校附属小学校高等科入学。1907年鹿児島県立第一鹿児島中学校 (旧制)入学、1912年第七高等学校造士館 (旧制)入学。1915年東京帝国大学法学部法律学科入学。1916年病気休学。1917年鹿児島県学務課勤務。1920年東京帝国大学卒業。1921年東京市電気局工務課勤務。1924年、30歳で伊集院俊鹿児島市長に請われて鹿児島市助役に就任した。
牧野 四郎(まきの しろう、1893年4月18日 - 194… 牧野 四郎(まきの しろう、1893年4月18日 - 1945年8月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
山下 徳治(やました とくじ、1892年1月15日 - 19… 山下 徳治(やました とくじ、1892年1月15日 - 1965年7月10日、正字では「德治」)は、日本の教育学者。改姓後は「森 徳治」と称した。戦前の新自由教育運動の中で、欧州、ソビエト連邦への留学、視察を通じて獲得した労働教育を中心にした教育理論の移入を図った。また、生前のヴィゴツキーに会った唯一の日本人として知られている。筆名は「村上 純」。 1892年、鹿児島県徳之島生まれ。西南戦争敗戦後一家で徳之島に移住し、父は砂糖製造、販売業に従事。山下3歳のとき一家は鹿児島市に転居し、西田町に住む。西田小学校、鹿児島高等小学校を卒業。鹿児島第一中学校(旧制)入学後から教師を志し、同校2年生のとき鹿児島師範学校に転入学し、同校を1913年卒業。
羽生 操(はぶ みさお、男性、1891年5月20日 - 19… 羽生 操(はぶ みさお、男性、1891年5月20日 - 1976年8月21日)は、日本の作家、翻訳家。 鹿児島県種子島の西之表松畠出身。1905年3月榕城尋常高等小学校高等科3年修了。1910年3月第一鹿児島中学校卒業。同年5月から翌年7月まで国上小学校や榕城小学校の代用教員を務める。1911年9月には第七高等学校造士館に入るが、病気で中退し、郷里に戻って静養。 1918年上京し、同年博文館に入社して雑誌編集者を務め、1921年5月退社。1922年4月から1924年3月まで日本女子高等学院教授(国文学担当)。1928年10月から1933年7月まで萬朝報特派員として西欧を、1935年12月以降商工省貿易局編纂図書資料調査のため香港・東南アジア・ハワイ・北米を回る。
島津 久基(しまづ ひさもと、1891年(明治24年)4月1… 島津 久基(しまづ ひさもと、1891年(明治24年)4月16日 - 1949年(昭和24年)4月8日)は、国文学者。東洋大学教授、東京大学教授、文学博士。 生家は島津氏分家・花岡島津家。鹿児島県鹿児島市の天文館通りにあった花岡島津屋敷で生まれ育つ。鹿児島県立第一鹿児島中学校(旧制)を経て、第七高等学校造士館(旧制)に進み、1913年に卒業。1916年東京帝国大学文科大学を卒業。東大在学中、芳賀矢一の知遇を受ける。また、成績優秀のため、卒業時に恩賜銀時計を受ける。大学院に入り勉学を続ける。 1919年日本大学講師となり、同年第一高等学校(旧制)教授となった。1922年、母校の東京帝国大学助教授となったが、1924年に病気のため休職し1926年に退職。
竹内 可吉(たけうち かきち、1889年(明治22年)2月2… 竹内 可吉(たけうち かきち、1889年(明治22年)2月28日 - 1948年(昭和23年)12月29日)は、日本の商工官僚。商工次官、企画院総裁、貴族院勅選議員。鹿児島県出身。 鹿児島県鹿児島市出身。鹿児島県立鹿児島第一中学校、第三高等学校を経て、1915年(大正4年)に東京帝国大学法科大学経済科を卒業して、農商務属となり、翌年に高等文官試験に合格した。以後、事務官、書記官、商工省工務局長、特許局長官、燃料局長官を経て、1936年(昭和11年)に商工次官に就任した。その後、臨時物資調整局次長、物価局次長を歴任して1939年(昭和14年)に退官した。 1940年(昭和15年)に企画院総裁に就任。
岩切 重雄(いわきり しげお、1888年〈明治21年〉1月2… 岩切 重雄(いわきり しげお、1888年〈明治21年〉1月28日 - 1980年〈昭和55年〉1月27日)は、大正から昭和前期の政治家。衆議院議員(4期)、鹿児島市長(第13代)。号・五山。 鹿児島県鹿児島郡鹿児島城下平之馬場町(現・鹿児島市平之町)で、岩切仲二の長男として生まれた。鹿児島一中 (旧制)、第一高等学校 (旧制)を経て、1914年(大正3年)東京帝国大学法科大学政治学科卒業。 その後鳥取県属、同警視、鹿児島市助役、大蔵大臣秘書官を務め、1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙において鹿児島2区から立憲政友会で立候補して初当選。以後通算4期務めた。その後、同郷の床次竹二郎が政友会を離党し、政友本党を結成するとそれに従い、政友本党が憲政会と合流し、立憲民政党が結成されると同党に入党した。
牛島 満(うしじま みつる、旧字体: 牛島 滿、1887年(… 牛島 満(うしじま みつる、旧字体: 牛島 滿、1887年(明治20年)7月31日 - 1945年(昭和20年)6月23日)は、日本の陸軍軍人。陸士20期恩賜・陸大28期。最終階級は陸軍大将(自決直前の6月20日付で中将から昇進)。 日本陸軍の大将に昇進した最後の軍人。温厚な性格で知られ教育畑を歴任し、指揮官としても沖縄戦以前に歩兵第36旅団長として漢口及び南京攻略戦に参加。沖縄戦においては第32軍を指揮し、最期は自決した。これをもって日本軍の組織的戦闘が終結した6月23日は、沖縄県の慰霊の日に制定されている。 牛島満は1887年7月31日、薩摩藩士出身の陸軍中尉の父牛島実満と、同じく薩摩藩の武家の出である母牛島竹子との間に四男として生まれた。
野村 直邦(のむら なおくに、1885年〈明治18年〉5月1… 野村 直邦(のむら なおくに、1885年〈明治18年〉5月15日 - 1973年〈昭和48年〉12月12日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。東條英機内閣にて6日間だけ海軍大臣を務めた。これは戦前の閣僚在任期間の最短記録であった。旧名:仁蔵。 鹿児島県日置郡吉利村(現在の日置市日吉町吉利)出身。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校より海軍兵学校第35期入校。入校成績順位は183名中第125位、卒業成績順位は171名中第43位。 1920年(大正9年)海軍大学校(第18期)を次席で卒業。卒業後は第1潜水隊参謀を務め、1922年(大正11年)から1924年(大正13年)まで大使館付武官としてドイツに駐在し、潜水艦の研究に没頭する。
東 幸治(ひがし こうじ、1884年(明治17年)11月25… 東 幸治(ひがし こうじ、1884年(明治17年)11月25日 - 1925年(大正14年)6月21日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。ジャーナリスト。号は孤竹。 鹿児島県出水郡上出水村(現在の出水市)出身。鹿児島中学校を卒業後、『鹿児島新聞』の記者となった。その後の1917年(大正6年)に中央大学を卒業した。内務省・鉄道省の嘱託として、アメリカ合衆国・メキシコ・中華民国・フィリピン・ボルネオ島・ジャワ島・マレー半島・南洋諸島・シベリアなどを調査した。 1924年(大正13年)、衆議院補欠選挙に出馬し、当選。同年の第15回衆議院議員総選挙で再選を果たした。
安田 尚義(やすだ なおよし、 1884年4月19日 - 1… 安田 尚義(やすだ なおよし、 1884年4月19日 - 1974年12月24日 )は、日本の歌人・歴史学者。
南郷 武夫(なんごう たけお、1884年(明治17年)3月2… 南郷 武夫(なんごう たけお、1884年(明治17年)3月22日 - 1976年(昭和51年)1月26日)は、明治末から昭和期の林業家、政治家。衆議院議員、鹿児島県日置郡東市来村長、同郡東市来町長。 鹿児島県日置郡市来郷伊作田村(東市来村伊作田、東市来町伊作田を経て現日置市東市来町伊作田)で、鉱山業・南郷徳之助の長男として生まれる。1904年(明治37年)鹿児島県立第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を卒業。早稲田大学を中退。 帰郷して父の鉱山業に従事。1930年(昭和5年)家督を相続。政界を目ざし1931年(昭和6年)鹿児島県会議員に選出され3期在任。1932年(昭和7年)東市来村長に就任。
寺師 義信(てらし よしのぶ、1882年(明治15年)12月… 寺師 義信(てらし よしのぶ、1882年(明治15年)12月20日 - 1964年(昭和39年)8月13日)は、日本の医師。陸軍軍医中将。日本初の衛生飛行機を作成したことで知られる。 1882年(明治15年)、士族の漢方医伊東楽之助の次男として鹿児島県日置郡日置村(現日置市日吉町日置)に生まれる。満5歳の時に同じく士族である寺師清の養子となり寺師家を継いだ。寺師家では医師が多数いたため義信も医師に成ることを望まれたが、義信は漢詩や文筆を好み小説家を志向していた。鹿児島一中に進み、在学時に森鷗外の『水沫集』の影響を受け地方新聞に小説の連載を持っていた。実父の楽之助から何としても医者になるよう命じられたため義信は思い悩んでいたが、一中の岩崎行親校長から「鴎外先生は大文豪であると共に優れた医学者だ。
東郷 茂徳(とうごう しげのり、1882年〈明治15年〉12… 東郷 茂徳(とうごう しげのり、1882年〈明治15年〉12月10日 - 1950年〈昭和25年〉7月23日)は、日本の外交官、政治家。 東條内閣で外務大臣と拓務大臣、鈴木貫太郎内閣で外務大臣と大東亜大臣を務め、太平洋戦争開戦時および終戦時の外務大臣であった。この他、欧亜局長や駐ドイツ大使および駐ソ連大使を歴任。 萩原延壽『東郷茂徳 伝記と解説』によれば、茂徳は1882年12月10日に「朴茂徳」として鹿児島県日置郡苗代川村(現在の日置市東市来町美山)で生まれた。苗代川は、豊臣秀吉の文禄・慶長の役の際に捕虜になり島津義弘の帰国に同行させられた朝鮮人陶工の一部が、薩摩藩によって集められて形成された集落であった。
津崎 尚武(つざき なおたけ、1882年(明治15年)5月2… 津崎 尚武(つざき なおたけ、1882年(明治15年)5月24日 - 1962年(昭和37年)8月29日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲民政党→立憲政友会)、厚生政務次官。 鹿児島県大隅郡小根占村(現在の肝属郡南大隅町)に下村尚論の三男として生まれ津崎家の養子となった。鹿児島県立第一鹿児島中学校、第七高等学校を卒業し、東京帝国大学法科大学政治科に入学した。1909年(明治42年)に卒業し、高等文官試験に合格した。内務省に入省し、長野県警視、更級郡長、長野県理事官、長野県視学官を歴任した。1915年(大正4年)、官を辞して渡米し、ニューヨーク土地建物株式会社で勤務した。翌年帰国し、東亜産業株式会社などの取締役を務めた。
伊地知 四郎(いじち しろう、1879年(明治12年)11月… 伊地知 四郎(いじち しろう、1879年(明治12年)11月18日 - 1965年(昭和40年)5月19日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。第11代鹿児島市長、第3代谷山町長。 鹿児島県鹿児島郡谷山町(のちの谷山市、現在の鹿児島市)出身。旧制鹿児島一中卒業。1904年(明治37年)2月29日に海軍機関学校(12期)を卒業し、同年9月10日、海軍少機関士に任官した。以後、海軍機関学校教官・監事、佐世保海軍人事部員、矢矧機関長、海軍省艦政局局員、同軍需局局員、長門機関長などを務め、1923年(大正12年)12月1日、海軍機関大佐に昇進し第三戦隊機関長に就任。さらに呉鎮守府機関長・呉海軍艦船部部員、第一艦隊機関長・連合艦隊機関長、海軍燃料廠平壌鉱業部長などを歴任した。
木尾 虎之助(このお とらのすけ、1879年(明治12年)1… 木尾 虎之助(このお とらのすけ、1879年(明治12年)11月18日 – 1956年(昭和31年)12月23日)は、明治から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員(憲政会)。 鹿児島県薩摩郡入来村(入来町を経て現薩摩川内市)で、木尾善十郎の息子として生まれた。三州義塾、鹿児島県第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1902年(明治35年)日本法律学校(現在の日本大学)を卒業し、弁護士試験に合格した。東洋大学講師、警視庁警察官消防官練習所講師を経て、1907年(明治40年)に東京市に弁護士事務所を開いた。翌年、朝鮮半島に渡り、漢城府(のち京城府)に弁護士事務所を開き、朝鮮鉱業新報社社長などを務めた。
川原 侃(かわはら すなお、1878年(明治11年)11月1… 川原 侃(かわはら すなお、1878年(明治11年)11月16日 - 1953年(昭和28年)11月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県、のちの川内市(現薩摩川内市)で、川原甚左衛門の三男として生れる。鹿児島第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校(13期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第45連隊付となる。1904年(明治37年)6月から1906年(明治39年)3月まで日露戦争に出征した。 1906年5月、第6師団副官に就任。歩兵第45連隊中隊長、陸軍歩兵学校教官を経て、1917年(大正6年)8月、歩兵少佐に昇進し歩兵第10連隊付となる。
逆瀬川 尚文 は、日本のジャーナリスト、新聞経営者。南日本新… 逆瀬川 尚文 は、日本のジャーナリスト、新聞経営者。南日本新聞社社長を務めた。鹿児島県出身。
有川 貞広(ありかわ さだひろ)は日本の実業家である。鹿児島… 有川 貞広(ありかわ さだひろ)は日本の実業家である。鹿児島県出身。 上海理光伝真機有限公司副総経理、静岡リコー株式会社代表取締役社長、リコー九州株式会社代表取締役社長、コカ・コーラウエストジャパン株式会社社外取締役、株式会社リコー執行役員、リコーリース株式会社代表取締役社長執行役員・CEOなどを歴任した。 鹿児島県立鶴丸高校を経て、1971年鹿児島大学法文学部卒業、同年株式会社リコーに入社。 1994年上海理光伝真機有限公司副総経理、1998年静岡リコー株式会社代表取締役社長、 2001年リコー九州株式会社代表取締役社長、2003年コカ・コーラウエストジャパン株式会社社外取締役、 2004年株式会社リコー執行役員、2009年4月リコーリース株式会社常務執行役員、 2009年6月同社代表取締役社長執行役員、2010年同社代表取締役社長執行役員・CEOを歴任。
辛島 美登里 は日本のシンガーソングライター、作曲家。鹿児島… 辛島 美登里 は日本のシンガーソングライター、作曲家。鹿児島県鹿児島市生まれ。鹿児島大学教育学部附属中学校、鹿児島県立鶴丸高等学校、奈良女子大学家政学部卒業。愛称は「ミリちゃん」、「辛島先生」。
小村 充広(こむら みつひろ)は、日本の実業家。ジャパンネッ… 小村 充広(こむら みつひろ)は、日本の実業家。ジャパンネット銀行(現PayPay銀行)代表取締役社長、同社取締役会長を経て、フリー株式会社特別顧問、一般社団法人DIGITAL CAMP代表理事、株式会社エクレクト取締役会長。 鹿児島県出身。鹿児島県立鶴丸高等学校を経て、1982年一橋大学商学部卒業、三井銀行入行、幡ヶ谷支店配属。さくら銀行ネットバンク準備室長として日本初のインターネット専業銀行の設立にあたり、2000年にジャパンネット銀行が設立されると取締役企画部長に就任。2002年ジャパンネット銀行常務取締役。2006年ジャパンネット銀行代表取締役専務取締役。2012年からジャパンネット銀行代表取締役社長を務めた。
脇元 幸一(わきもと こういち)は、日本の理学療法士。医療法… 脇元 幸一(わきもと こういち)は、日本の理学療法士。医療法人社団SEISENの創業者。 東海大学 医学部基礎医学系分子生命科学 研究員 国立電機通信大学産学官プロジェクト人間工学共同研究員 信州大学医学部大学院医学研究科共同研究員 2018年1月16日、逝去。
町田 剛士(まちだ たけし、1982年 - ) は、日本の学… 町田 剛士(まちだ たけし、1982年 - ) は、日本の学芸員。鹿児島県歴史資料センター黎明館学芸専門員。 鹿児島県鹿児島市出身。鹿児島県立鶴丸高等学校、鹿児島大学卒業。原口泉門下。日本近現代史(幕末史)、特に幕末の薩摩藩の情報収集を専門とする。2016年、薩長同盟締結の地とされる近衛家別邸御花畑屋敷跡の絵図を発見。薩長同盟締結の地(京都府京都市上京区森之木町)を特定するきっかけを作った。また、論文「幕末薩摩外交 情報収集の点からみた薩長同盟」では薩長同盟の性格について、木戸孝允としては幕府との戦闘開始が目前と認識しており、薩摩藩による明確な「冤罪の赦免」という支援を小松帯刀、西郷隆盛から引き出すことができ、また長州再征に対して少なくとも薩摩は敵にならないということを確認できたことは大きな成果であった。