阿部 良夫(あべ よしお、1888年〈明治21年〉1月6日 … 阿部 良夫(あべ よしお、1888年〈明治21年〉1月6日 - 1945年〈昭和20年〉4月15日)は日本の物理学者、新聞社社長。 阿部宇之八の長男として北海道札幌区に生まれる。北海道庁立札幌中学校から第一高等学校を経て、1912年(明治45年)7月東京帝国大学理科大学理論物理学科を卒業。1913年(大正2年)4月から8月までシーメンス・シュッケルト社(現・シーメンス)技師、1916年(大正5年)4月から早稲田大学高等師範部講師、1920年(大正9年)4月から早稲田大学高等学院教授となり、科学哲学と科学史の研究に精励する。1923年(大正11年)10月辞職。父の死去に伴い、1925年(大正14年)に北海タイムス社理事、1927年(昭和2年)に同社社長となる。
中野 正三(なかの しょうぞう、1888年1月6日 - 19… 中野 正三(なかの しょうぞう、1888年1月6日 - 1977年12月22日)は、日本の柔道家(十段)。内股の名人として有名である。 新潟県五泉町(現:五泉市)で出生。17歳で上京し講道館に入門。また東京正規英語学校(現:正則学園高等学校)を経て日本大学殖民科で学ぶ。 自然体から左右の内股・跳腰等は後の柔道発展に大きな影響を与えた。 伝説と呼ばれるほどの中野の内股は柔道形にある後ろに崩して投げる技とは違い、腰で跳ね上げるタイプの内股であった。相手が左極端でも右極端でも、押していても引いていても投げられたという。 「新しく内股をやり始めたと言っても、その基礎は跳腰でやっていたから、そんなに苦労はなかった」、「内股は、胸と腰さえ取れば、それほど足を突っ込まなくてもかかる。
安座上 真(あざがみ まこと、1888年1月5日 - 195… 安座上 真(あざがみ まこと、1888年1月5日 - 1957年8月11日)は、日本の経営者。日本通運社長を務めた。 福岡県宗像郡河東村(現在の宗像市)出身。1907年に東筑中学校を卒業。吉田組、(出光商会)、内国通運での勤務を経て、1937年に日本通運理事および台湾支社長に就任し、1946年に副社長に就任した。1954年には社長に昇格した。それまでの社長はいずれも鉄道出身者であったが安座上は初の社員出身の社長となった。 日本経営者団体連盟常任理事も務めた。
井内 彦四郎(いうち ひこしろう、1888年(明治21年)1… 井内 彦四郎(いうち ひこしろう、1888年(明治21年)1月4日 - 1969年(昭和44年)11月6日)は、日本の実業家。近畿日本鉄道(近鉄)の前身である大阪電気軌道(大軌)に入社し、その子会社の参宮急行電鉄(参急)専務取締役を務め、同社の路線規模拡大の先導役となった。高知県出身。 高知県安芸市(当時は安芸郡安芸町)、三菱財閥創始者である岩崎弥太郎を輩出した街で生まれた井内は、明治39年に県立第三中学校(後の安芸高校)を卒業、東京高等商業学校(後の一橋大学)に進学後、岩崎弥太郎の従弟である豊川良平から三菱系列へ入社することを推薦された。しかし、「三菱は既に組織が整っており、私のような鈍才がいってもやる事はない。
両角 業作(もろずみ ぎょうさく、1888年(明治21年)1… 両角 業作(もろずみ ぎょうさく、1888年(明治21年)1月4日 - 1963年(昭和38年)9月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 長野県諏訪郡湖東村[要出典](現茅野市)出身。諏訪中学校を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第58連隊付となる。同連隊中隊長などを経て、陸軍歩兵学校で甲種学生として学んだ。 以後、陸士生徒隊中隊長、教育総監部付勤務、豊橋陸軍教導学校学生隊中隊長、同校副官、歩兵第59連隊大隊長、歩兵第59連隊付、歩兵第1連隊付(東京慈恵会医科大学配属将校)、歩兵第29連隊留守隊長、歩兵第65連隊長、本郷連隊区司令官などを歴任し、1939年(昭和14年)8月、陸軍少将に進級。
古坂 嵓城(こさか がんじょう、1888年1月2日 - 19… 古坂 嵓城(こさか がんじょう、1888年1月2日 - 1974年11月16日)は、日本の教育者。青山学院大学学長、青山学院院長・理事長。
大橋 良一(おおはし りょういち、1888年1月2日 - 1… 大橋 良一(おおはし りょういち、1888年1月2日 - 1983年6月29日)は、日本の地球科学者。専門は地質学・鉱床学など。東京市生まれ。 私立開成中学校を経て、1911年東京帝国大学理科大学地質学科専科を修了。1912年、創立2年目の秋田鉱山専門学校に講師として赴任。1956年に停年退職するまで、44年間の長きにわたり秋田鉱専・秋田大学鉱山学部で教育・研究に励む。 研究対象は地質・鉱物・鉱床・火山・温泉・地震などと広範囲にわたり、多くの分野で業績を残したが、特に男鹿半島の新第三紀層の研究は、その後のグリーンタフ研究の先駆として高く評価されている。また、特筆に値するのは黒鉱鉱床の成因についての見解で、1920年前後の早い時期から海底爆裂口温泉沈殿説を打ち出し、数十年にわたり四面楚歌の状態で学界から無視され続けたが、1970年前後に至って、初めてその正当性が評価された。
藤原 喜蔵(ふじわら きぞう、1888年〈明治21年〉1月2… 藤原 喜蔵(ふじわら きぞう、1888年〈明治21年〉1月2日 - 1956年〈昭和31年〉4月29日)は、朝鮮総督府官僚。岩手県水沢市長。 岩手県胆沢郡水沢町(現・奥州市)生まれ。1914年(大正3年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。青森県属、同警視、同東津軽郡長、同理事官を経て、1919年(大正8年)に朝鮮総督府に転じた。咸鏡南道警察部長、平安南道警察部長、京畿道警察部長、朝鮮総督府官房秘書課長、平安南道内務部長、同知事を歴任した。その間、1927年(昭和2年)にはジュネーブ海軍軍縮会議に随員として参加した。 1935年(昭和10年)に退官した後は朝鮮洋紙株式会社社長、北鮮製紙化学工業専務取締役などを務めた。
津島 壽一(つしま じゅいち、新字体:寿一、1888年〈明治… 津島 壽一(つしま じゅいち、新字体:寿一、1888年〈明治21年〉1月1日 - 1967年〈昭和42年〉2月7日)は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。 第二次世界大戦後の外債処理や賠償交渉に道筋をつけたことで知られる。 愛媛県阿野郡坂出村(現・香川県坂出市)生まれ。旧制丸亀中学、旧制一高、1912年に東京帝国大学法科大学政治学科卒業。大蔵省に入省。理財局属 昭和戦前期の代表的な国際金融官僚であり、金解禁から昭和恐慌を経て高橋財政に至るまでの期間、海外駐在財務官(英、仏、米駐在)などの職にあって、一貫して第一線で実務に関わった。理財局長、大蔵次官、日本銀行副総裁、北支那開発総裁などを経て、1945年(昭和20年)2月、内閣書記官長に転じた蔵相石渡荘太郎の後任として小磯内閣の大蔵大臣に就任。
三浦 篤(みうら あつし、1888年(明治21年)1月 - … 三浦 篤(みうら あつし、1888年(明治21年)1月 - 1973年(昭和48年)5月29日)は、宮内官僚。宮城県古川市長。位階は正三位。 宮城県出身。旧制宮城県立古川中学校(現在の宮城県古川高等学校)を経て、1913年(大正2年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業。帝室林野局事務官、内蔵寮主計課長・財務課長、大臣官房大膳課長、内蔵頭、帝室林野局長官を歴任した。 のち古川市長を務めた。
関 俊吉(せき しゅんきち、1888年(明治21年)1月 -… 関 俊吉(せき しゅんきち、1888年(明治21年)1月 - 1961年(昭和36年)5月8日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(奈良県第一区選出、当選1回)。岡合名会社、大和毎日新聞社各社長。関藤商店取締役。族籍は奈良県平民。 奈良市生まれ。呉服商、実業家関藤次郎の二男。実業家関信太郎の弟。専修大学経済科卒業。東洋拓殖、豊国火災保険各会社員となる。1915年、分家して一家を創立する。 1924年、第15回衆議院議員総選挙に立候補し、当選。立憲民政党に所属。関は新思想の所有者として普通選挙の即行を高唱していた。奈良県在籍で、住所は奈良市紀寺町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
坂根 準三(さかね じゅんぞう、1888年〈明治21年〉1月… 坂根 準三(さかね じゅんぞう、1888年〈明治21年〉1月 - 1945年〈昭和20年〉10月10日)は、日本の外交官。駐コロンビア公使。 東京府出身。1913年(大正2年)、高等文官試験に合格し、1915年(大正4年)に東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業した。1917年(大正6年)、外交官及領事官試験に合格し、イギリスに領事官補として赴任した。リヴァプール領事、外務事務官・通商局監理課勤務兼特許局事務官、通商局第二課長兼農林書記官、アントウェルペン領事などを歴任。1927年(昭和2年)、漢口総領事となり、のち青島総領事に転じた。1935年(昭和10年)休職となるが、1937年(昭和12年)に復職し、サンパウロ総領事となった。
岡見 義男(おかみよしお、1888年(明治21年) - 19… 岡見 義男(おかみよしお、1888年(明治21年) - 1963年(昭和38年))は、日本の造園家。園芸家。ラン栽培家、花卉装飾家。フラワーデザイナー。宮内省の宮廷造園や花卉装飾で活躍。この他恵泉女学園にて後進育成にもまい進する。東京生まれ。 園芸文化協会評議員、日本蘭協会顧問、全日本蘭協会顧問、浜松蘭友会顧問などを歴任。ラン栽培界に多大な功績をのこす。 1907年(明治40年)芝の旧制正則尋常中学校(現・正則高等学校)を卒業するが、病を患う。その後、宮内省内匠寮に入省し、新宿御苑に配属。 これは病気静養の後について、医師の勧めにより園芸を志したからで、当時上級の園芸学校がなく、やむを得ず新宿御苑を管理運営する宮内省に奉職したもの。
小塚 義一郎(こづか ぎいちろう、1888年(明治21年) … 小塚 義一郎(こづか ぎいちろう、1888年(明治21年) - 1973年(昭和48年))は、日本の大正・昭和期の洋画家、版画家。師範学校、高等女学校で図画教師を務めた。洋画グループ「毒地社」を結成し山形の近代美術界を牽引した。 1888年(明治21年)、静岡県に生まれる。1907年(明治40年)、静岡県立静岡中学校卒業。1912年(明治45年)、東京美術学校図画師範科卒業。1916年、文部省図画講習会修了。 群馬県立高等女学校教諭を経て、1922年(大正11年)に山形県師範学校の図画教師となる。同時期に山形県立山形工業学校の図画教師となった為本自治雄と出会い、二人で山形に初めての公募洋画展を開催するため、旧制山形高等学校で文芸活動をしていた今泉篤男、山形県師範学校生の奈良村正史・逸見誠一・石澤健吉に呼びかけ、6名で洋画グループ「毒地社」を結成。
荻原 巖(おぎわら いわお、1888年 - 1975年)は、… 荻原 巖(おぎわら いわお、1888年 - 1975年)は、日本の医師、開業医、栄典は勲五等瑞宝章。
長崎 敏音(ながさき としお、1888年 - 不詳)は、日本… 長崎 敏音(ながさき としお、1888年 - 不詳)は、日本の土木技術者、都市計画家。 福井県に生まれる。1898年、工手学校土木科卒業後、福井県、つづいて千葉県に勤務した。1906年、東京市に移籍。月島や芝浦などの埋立事業と河川の改修工事に従事。また、工手学校の教授を務める。 1918年、内務省に都市計画課が設置された際、招請されて六大都市の都市計画に参画。1919年、都市計画実行に移すため、名古屋市土木課長に転出、第一期街路築造事業として六大幹線の計画を樹立し実施する。これは同市の新都市としての計画の噂失となった。 その後、呉市土木課長に転じ、呉港海陸連絡工事などにあたる。1923年には、豊橋市土木課長に招かれ、その後技師長、工務課長、水道部長を兼任、同市の土木、都市計画、営繕事業の推進に尽くした。
須藤 兼吉(すどう けんきち、1888年 - 1980年)は… 須藤 兼吉(すどう けんきち、1888年 - 1980年)は、日本の英語学者、東京高等商船学校(現・東京海洋大学)教授、元神奈川大学外国語学部教授。旺文社顧問。J・A・サージェント、J・B・ハリスと共著の『Systematic English & American Conversation系統的英米会話』が有名[要出典]。 長野県西筑摩郡福島町(現木曽町)に生まれる。1911年(明治44年)、東京外国語学校英語科(現・東京外国語大学)を卒業する。 東京高等商船学校(現・東京海洋大学)を経て、神奈川大学外国語学部教授となる。
堀内 貞(ほりうち さだ、1888年(明治21年) - 没年… 堀内 貞(ほりうち さだ、1888年(明治21年) - 没年不詳)は、日本の建築技師。 1910年(明治43年)、東京高等工業学校卒業後、三越呉服店意匠係となる。のち、工手学校に入学、1913年(大正2年)に卒業する。 その後の1915年(大正4年)に宮内省内匠寮匠生を拝命。1919年(大正8年)には宮内技手となった。 1931年(昭和6年)には宮内技師と帝室林野局技師を兼任している。同年退官。
根岸 栄隆(ねぎし ひでたか、1888年-1977年)は、日… 根岸 栄隆(ねぎし ひでたか、1888年-1977年)は、日本の川柳名人、文筆家、著述家、作家。 十四世川柳名人を号し、東京川柳会を主宰。鳥居の研究者としても知られる。都市計画家石川栄耀の実兄。東京都出身。 青山学院旧中等科をへて、1915年、日本大学法学部法学科卒業。その後小説の指導を村上浪六に師事し採掘場の管理人などを務めながら著述活動を展開。しばらくして下野新報や日刊ラジオ新聞などの記者を歴任する。 1937年、弟栄耀と商業都市美協会を立ち上げて常任幹事に就任すると同時に機関紙「商業都市美」編集主幹、また人形町通商店街商業組合で指導委員を務める。その他東京府商店街商業組合連盟会の活動にも関与する。
市川政司(いちかわ まさし、1888年 - 1961年)は、… 市川政司(いちかわ まさし、1888年 - 1961年)は、日本の造園家。長く東京市役所に奉職し、造園技師として活躍した。新潟県高田市生まれ。 1906年(明治39年)、新潟県立高田農学校を卒業。1907年、東京市役所道路課に入所する。1910年に技手となった。1924年(大正13年)に東京市技師、1928年(昭和3年)、保健局公園課技術掛長、1942年、東京都発足と職制改正によって、公園部技術課長に就任するが同年に定年退職する。 首都東京の公園、また街路樹と墓地(霊園)など市の公園緑化事業に関して、上司の公園課長井下清を支え、都内の街路樹整備と関東大震災後の東京の公園復興事業、老樹保護方法の研究、公園事業としての社会人園芸趣味普及等の業績をつむ。
千野 光茂(ちの みつしげ、1888年 - 1957年)は、… 千野 光茂(ちの みつしげ、1888年 - 1957年)は、日本の遺伝学者。 長野県諏訪市出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業。女学校などでの教鞭の傍ら、遺伝学研究に没頭した。その実績が認められ、京都帝国大学に招かれ、京都帝国大学理学部助教授を務める。1940年日本遺伝学会賞受賞。 戦後、母校である旧制諏訪中学が新制諏訪清陵高校になるのに伴い、郷土出身の著名な学者を呼ぼうということになり、初代校長(旧制諏訪中学を含め第13代校長)を務めた。校長当時、生徒だった人物に、1996年に第5回相澤忠洋賞を受賞した考古学者武居幸重がいる。1937年京都帝国大学理学博士。論文の題は「黒猩々蝿の遺傳學的研究 」。
池野 勇(いけの いさみ、1888年(明治21年) - 19… 池野 勇(いけの いさみ、1888年(明治21年) - 1978年(昭和53年)3月)は、日本の医師、社会福祉家、動物愛護者、羽黒町名誉町民(現・鶴岡市名誉市民)。 開業医を務める傍ら、羽黒町の社会福祉と動物愛護のために多額の私費を投じて奉仕活動を行った。
大城 朝恕(おおしろ ちょうじょ、1888年 - 1939年… 大城 朝恕(おおしろ ちょうじょ、1888年 - 1939年)は、沖縄県出身の空手家。 県立工業高校の教職の傍ら同校生徒に空手を指導する。 沖縄第一の棒者知念親雲上三良の直弟子で、その棒術は沖縄県下一品であった。 金城が多くの影響を受けたのは、少年時代(中学二年以降)からの師だった大城朝恕である。大城は学校系統の唐手家(工業学校教師)ながら、平安を教えず、首里手の格闘技法の研究に熱心だった。大城の友人だった道場系統の喜屋武にもこの傾向があり、徳田安文らの学校教師は別として、首里手回帰の傾向が強かった。 1925年、吉田安昌から「各流派合同で道場を設け、総合的研究を含めて教える」ことの提案があり、10月、沖縄で初めての空手道場「唐手研究会」が「沖縄空手研究倶楽部」に改組設立。
貝澤 藤蔵(かいざわ とうぞう、1888年〈明治21年〉- … 貝澤 藤蔵(かいざわ とうぞう、1888年〈明治21年〉- 1966年〈昭和41年〉)は、アイヌ民族の社会活動家。小冊子『アイヌの叫び』の著者。藤蔵の妻・コヨは旭川、近文アイヌの長・川村カ子トと才登の妹であり、砂沢クラの親友。門別薫は、藤蔵の子。 カリワウクの子として北海道日高の二風谷で生まれる。宣教師ジョン・バチェラーが団長となって設立された「アイヌ伝導団」の第1回総会(1921年)で二風谷委員として出席しているので、34歳までは二風谷で生活していたとみられる。二風谷時代は平取村役場に勤務。この時期にコヨと結婚し、1922年に長男が生まれた。 1926年(大正15年・昭和元年)頃に、熊坂シタッピレにならって木彫を試み、木彫り熊とクワ(アイヌ語で杖の意)を残す。
飯島 幡司(いいじま まんじ、1888年 - 1987年)は… 飯島 幡司(いいじま まんじ、1888年 - 1987年)は日本の経済学者、実業家。神戸高等商業学校(現神戸大学)教授、 大阪鐵工所専務、朝日放送社長、関西経済連合会会長を歴任。ローマ法王庁聖グレゴリオ勲章、イタリア共和国グランデウフィチアレ勲章受章。
石井 五郎(いしい ごろう、1888年 - 1951年)は、… 石井 五郎(いしい ごろう、1888年 - 1951年)は、日本の実業家。阪神電鉄副社長、草創期の大阪野球倶楽部監査役などを務めた。 1904年(明治37年)東京府立第一中学校を卒業。以後、第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学卒業。1912年(大正元年)、高文合格。近江銀行入行。1934年(昭和9年)朝日海上火災保険(現在のあいおいニッセイ同和損害保険)専務取締役就任。 1935年(昭和10年)4月25日、阪神電鉄の堀啓次郎社長、山口覚二常務が辞任し、今西与三郎専務が社長に就任すると、その後任専務として石井が朝日海上火災専務取締役から阪神電鉄専務取締役に就任した。山口の後任常務には岡喜太郎が就いた。
石本 暁曠(いしもと ぎょうこう、1888年 - 1935年… 石本 暁曠(いしもと ぎょうこう、1888年 - 1935年8月23日)は、日本の彫刻家。別号は暁海。本名は石本 恒介。 島根県能義郡広瀬町(現・安来市)出身。1905年、京都市立美術工芸学校卒。米原雲海に師事。第6回文展に出展し入選。1931年、帝展無鑑査。1933年、京都市立美術工芸学校の教員となる。1935年、死去。享年48。
佐野 勝也(さの かつや、1888年 - 1946年8月19… 佐野 勝也(さの かつや、1888年 - 1946年8月19日)は、日本の宗教学者。 熊本県出身。鎮西学院卒、1917年東京帝国大学文学部宗教学科卒、1935年「使徒パウロの神秘主義」で文学博士。ハーバード大学に学び、1925年九州帝国大学法文学部宗教学科助教授、1926年初代教授。在任中58歳で死去した。
下元 連(しももと むらじ、1888年 - 1984年10月… 下元 連(しももと むらじ、1888年 - 1984年10月2日)は、日本の大蔵官僚、建築家、工学者(建築学)。 日本建築学会副会長、戦災復興院技監、戦災復興院営繕部部長、工学院大学工学部教授などを歴任した。 大蔵省(のちの財務省)に所属する技師として、総理大臣官邸(のちに総理大臣公邸に転用)をはじめとする多数の官公庁を設計した。退官後は、下元設計事務所の代表として活動すると同時に、工学院大学工学部の教授として後進を育成した。 1888年、福岡県小倉市(のちの福岡県北九州市)にて生まれた。大志を抱いて上京し、旧制第一高等学校を経て東京帝国大学に入学し建築学を学んだ。1914年、東京帝国大学工科大学の建築学科(のちの東京大学工学部建築学科)を卒業し、学士号を得た。
今岡 十一郎(いまおか じゅういちろう、1888年 - 19… 今岡 十一郎(いまおか じゅういちろう、1888年 - 1973年9月2日)は日本のハンガリー語学者。専門のハンガリー語の他、フィンランド語辞典の著もある。また叢書『フィン・ウゴル研究』を編集刊行し、日本におけるウラル学の先駆者やハンガリーにおける日本文化紹介者として知られる。島根県出身。 松江市生まれ。1914年、東京外国語学校ドイツ語科卒業。同年、来日中のハンガリーの民俗学者バラートシ・バログ・ベネデク(ハンガリー語版)のアイヌ・ギリヤーク・オロッコ研究旅行に通訳として同行し、北海道や樺太を巡る。これが縁で、バラートシからツラニズムの日本普及に協力するよう求められる。 東京帝国大学経済統計研究室などに勤務した後、アメリカを経てドイツに留学し、程なくしてバラートシ=バログの招きで1922年にハンガリーへ移り、ブダペスト大学哲学科を卒業。
岡登 貞治(おかのぼり ていじ / さだはる、1888年 -… 岡登 貞治(おかのぼり ていじ / さだはる、1888年 - 1976年5月9日)は、美術教育家、手工芸家。長崎県出身。東京美術学校卒。長崎で小学校の図工教師をしながら文様の研究を続ける。
金光 家邦(こんこう いえくに、明治21年(1888年) -… 金光 家邦(こんこう いえくに、明治21年(1888年) - 昭和63年(1988年))は、金光教の二代管長、金光教内では二世管長と呼ばれた。 明治21年10月21日、今の岡山県浅口市金光町大谷に生まれる。金光萩雄の三男。母は赤沢古満(こま)。明治44年嫡系の次男で、管長の後継者とされていた兄金光之照の死去に伴い、父萩雄の死後家督を継ぎ二代目管長となる。 若年のためと、従兄で、金光宅吉の死後四十年以上結界奉仕をし、既に三代金光様と呼ばれていた金光攝胤や、父金光萩雄に比べ、多くの金光教信奉者からの人望も得られず、教団自覚運動とも呼ばれる昭和九年十年事件の結果。昭和16年、管長が世襲から選挙制に変わり、金光攝胤が三代目管長に任命された。
佐藤 耕方(さとう こうほう、1888年〈明治21年〉‐19… 佐藤 耕方(さとう こうほう、1888年〈明治21年〉‐1937年〈昭和12年〉5月28日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本画家。本名は藤太郎。水野年方および尾形月耕の門人であった。 1888年、岩手県水沢(現・奥州市)に、文化年間から繁栄してきた太物商の5代目当主として生まれる。藤太郎の出生直後に母ハツは19歳で死去、一関から来た父は実家に戻ってしまい、戸籍上で祖父弥一と祖母ミノの子となった。しかし、祖父は小学校在学中に死去。小学校卒業後は呉服修業のため上京、奉公先の子守をしながら近所に住む水野年方宅の庭先において年方が絵を描くのを見ることが日課となり、その熱心さを買われて年方に入門する。
塚原 葦穂(つかはら あしほ、1888年(明治21年) - … 塚原 葦穂(つかはら あしほ、1888年(明治21年) - 1965年(昭和40年)2月21日)は、日本の政治家、教育者。長野県諏訪市長。勲五等瑞宝章。 長野県諏訪郡豊平村(現茅野市)生まれ。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を経て、長野師範学校卒業。諏訪郡高島小学校訓導、同郡宮川小学校長、上高井郡視学、長野県視学を経て、1933年(昭和8年)高島小学校長兼高島裁縫専修学校長となる。また諏訪教育会長として二・四事件の事後処理に奔走した。また郷土史研究に力を入れ、『諏訪史』の編集刊行に尽力し、1937年(昭和12年)第2巻後編の刊行代表者を務めた。また同年から『諏訪史料叢書』の刊行に当たった。
信時 潔(のぶとき きよし、1887年〈明治20年〉12月2… 信時 潔(のぶとき きよし、1887年〈明治20年〉12月29日 - 1965年〈昭和40年〉8月1日)は、大正・昭和時代の日本の作曲家・音楽学者・チェロ奏者。大阪市出身。 牧師・吉岡弘毅(元津山藩士の外交官で明治初期の日朝外交を担当)の子として大阪市北区中之島に生まれ、幼少より賛美歌に親しんだ。大阪の市岡中学を経て、東京音楽学校器楽部および研究科器楽部でチェロを学んだ後、同科作曲部に移り、アウグスト・ユンケルに指揮法、ハインリヒ・ヴェルクマイスターにチェロと作曲、ルドルフ・ロイテルに対位法と和声学を師事する。東京音楽学校助教授を務めたのち、留学先のドイツでゲオルク・シューマンに師事、帰国後に東京音楽学校教授となる。
佐々田 三郎(ささだ さぶろう、1887年〈明治20年〉12… 佐々田 三郎(ささだ さぶろう、1887年〈明治20年〉12月29日 - 1970年〈昭和45年〉3月)は日本の実業家。旧姓錦織。 元貴族院議員佐々田懋の養子。 島根県簸川郡斐川村出身。錦織栄次郎の三男。 大正2年(1913年)東大法学部卒。安田保善社に入社。翌年安田銀行に転じる。 同12年(1923年)監理課長、同13年(1924年)海外視察、同15年(1926年)以降兵庫支店長、続いて神戸、京都、大阪各支店長を歴任。 昭和26年(1951年)第三信用組合長。 その間安田保善社取締役、アマゾニヤ産業、大垣共立銀行、大多喜天然ガス、富国繊維各取締役、佐々田奉公会理事等をつとめた。 のち、東京都信用組合協会長を務めた。
真保 一輔(しんぼ いっぽ、1887年〈明治20年〉12月2… 真保 一輔(しんぼ いっぽ、1887年〈明治20年〉12月25日 - 1964年〈昭和39年〉7月17日)は、日本の植物学者。新潟大学名誉教授。 新潟県中蒲原郡庄瀬村大字牛崎(現 新潟市南区牛崎)出身。1906年(明治39年)3月に新潟中学校を卒業、1909年(明治42年)7月に第一高等学校を卒業、1912年(明治45年)7月に東京帝国大学理科大学植物学科を卒業。 東京帝国大学理科大学大学院で3年間、植物生理学を研究、東京帝国大学理科大学植物学教室副手に就任、1919年(大正8年)6月に新潟高等学校教授に就任、植物学と動物学と生物学を担当。 1928年(昭和3年)3月に文部省在外研究員として植物学の研究のため、ドイツ、オーストリア、イタリア、アメリカへの留学に出発、1930年(昭和5年)4月に帰国。
斎藤 巌(さいとう いわお、1887年(明治20年)12月2… 斎藤 巌(さいとう いわお、1887年(明治20年)12月22日 - 1934年(昭和9年)2月5日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 熊本県合志郡合志村(現在の合志市)出身。1909年(明治42年)に明治大学法科を卒業した後、長崎市で九州日の出新聞記者となり、1911年(明治45年)に弁護士を開業した。 長崎県会議員、同副議長を経て、1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。また長崎市会議員も兼ねた。
大島 駿(おおしま はやし、1887年(明治20年)12月1… 大島 駿(おおしま はやし、1887年(明治20年)12月19日 - 1970年(昭和45年)9月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。毒ガス兵器の研究者。 佐賀県出身。農業・大島幸三郎の三男として生まれる。佐賀中学校(現佐賀県立佐賀西高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し近衛野砲兵連隊付となる。1913年(大正2年)11月、陸軍砲工学校高等科(19期)を優等で卒業した。陸軍派遣学生として東京帝国大学工科大学応用科学科で学び、1917年(大正6年)7月に卒業した。 1917年12月、近衛野砲兵連隊大隊副官に就任。
渋谷 雄太郎(澁谷、しぶや ゆうたろう、1887年(明治20… 渋谷 雄太郎(澁谷、しぶや ゆうたろう、1887年(明治20年)12月19日 - 1961年(昭和36年)12月11日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、東京府南葛飾郡寺島町長。 千葉県東葛飾郡、現在の市川市で、渋谷金蔵の長男として生まれる。1912年(明治45年)慶應義塾大学理財科を卒業した。 渋谷ゴム製作所を経営。その他、東京ゴム同業組合長、同ゴム製品工業組合理事長、日本再生ゴム材料卸商業組合連合会理事長、東京商工会議所議員、日本ゴム工業協同組合連合会副理事長、日本車輛ゴム社長、昭和実業社長、渋谷ゴム工業社長、渋谷商事社長、東部ゴム工業会理事長、日本ゴム工業会常任理事、市川商工会議所会頭などを務めた。
木村 健児(きむら けんじ、1887年12月18日 - 19… 木村 健児(きむら けんじ、1887年12月18日 - 1936年10月24日)は、日本の俳優である。木村 健兒と表記されることもある。本名は木村 米太郎(きむら よねたろう)。木村 健二、木村 健次、木村 建治と表記に揺れがある。新派を経て映画界に転向、昭和初期まで大きな体格を生かして松竹蒲田撮影所、不二映画社などに出演した名脇役として知られる。 1887年(明治20年)12月18日、京都府京都市に生まれる。旧制京都府第一中學校(現在の京都府立洛北高等学校)卒業。 天然色活動写真の連鎖劇を経て、1919年(大正8年)2月、本郷座に拠点を持つ岡本五郎、石川新水、栗島狭衣、梅島昇らの新生劇団に加入し、新派悲劇『浅草物語』で初舞台を踏む。
徳永 庸(とくなが いさお、1887年12月18日 - 19… 徳永 庸(とくなが いさお、1887年12月18日 - 1965年3月20日)は、日本の建築家。福岡県出身で、九州地方を中心に数多くの設計監理を手掛けるとともに、早稲田大学や関東学院大学の教授として製図の指導に当たった。 1887年(明治20年)12月18日、福岡県糟屋郡青柳村(現 古賀市)に生まれる。1907年4月より1年間、辰野金吾・葛西萬司建築事務所に入所。1908年3月、福岡県立福岡工業学校建築科卒業。1909年3月、早稲田大学高等予科理工科卒業。1913年(大正2年)7月、早稲田大学理工科建築学科を卒業し、同年10月から1917年8月まで辰野金吾・片岡安建築事務所に勤める1917年より、早稲田大学で助教授、教授、講師を務める。
竹内 京治(たけうち きょうじ、1887年(明治20年)12… 竹内 京治(たけうち きょうじ、1887年(明治20年)12月17日 - 1966年(昭和41年)12月11日)は、日本の政治家、新聞記者。第10-12代岡崎市長(3期)、愛知県会議員(1期)、岡崎市会議員(2期)、東海市長会長、愛知県市長会長などを歴任した。 愛知県宝飯郡赤根村(現・豊川市御津町赤根)生まれ。トヨタ自動車工業会長を務めた花井正八は甥。幼少時代を男川村大字大平(現・岡崎市大平町)の薮田家で過ごした。1905年(明治38年)3月、東京中学校(現・東京高等学校)卒業。一年志願兵として騎兵第25連隊に入隊。除隊後、日刊新聞『岡崎朝報』初代社長の竹内竹五郎の娘と結婚、それとともに竹内家の養子となる。
佐藤 重遠(さとう じゅうえん、1887年12月17日 - … 佐藤 重遠(さとう じゅうえん、1887年12月17日 - 1964年1月5日)は、日本の政治家、教育者、事業家。衆議院議員(4期)。研心学園(現・目白研心中学校・高等学校)設立。政治家として、また教育者として近代日本における私学教育の振興に大きく寄与。 父・米四郎、母・カクの長男として宮崎県東臼杵郡南方村(現・延岡市中三輪町)で生まれ、傳次郎と名付けられる。父は渡し守を生業としており、赤貧の中で苦学をして延岡中学校から一高、東京帝大と進学した。1910年に家督を相続し、重遠と改名。妻は内務大臣などを歴任した床次竹二郎の二女・フユ。
万 富次郎(よろず とみじろう、1887年(明治20年)12… 万 富次郎(よろず とみじろう、1887年(明治20年)12月16日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。東京市本所区長。 岩手県和賀郡十二鏑村(現在の花巻市)出身。岩手県立遠野中学校、第一高等学校を経て、1916年(大正5年)に東京帝国大学法科大学を卒業した。長崎県警部、同工場課長、保安課長、商工水産課長、農林課長、長野県蚕糸課長、地方課長、庶務課長、宮崎県学務部長、愛媛県警察部長、宮城県警察部長、佐賀県内務部長を歴任した。 退官後は東京市本所区長、東京市社会局庶務課長、同職業課長、日本米穀株式会社名古屋支店長を務めた。
大西 斎(おおにし いつき(ひとし、さい)、1887年12月… 大西 斎(おおにし いつき(ひとし、さい)、1887年12月16日 - 1947年12月20日)は、日本のジャーナリスト。朝日新聞副主筆。 福岡市鳥飼の大西百之の子として、福岡県柳川に生まれる。母方の叔父には、京都帝国大学総長を務めた松井元興、鐘紡社長、日本合成化学工業社長、民生産業(現・UDトラックス(旧:日産ディーゼル))社長を務めた城戸季吉がいる。1908年、福岡県立中学修猷館を卒業。修猷館在学中には、玄洋社の柔道道場「明道館」で柔道を学んでいる。1911年、東亜同文書院を卒業し(第8期生)、同年大阪朝日新聞に入社する。同期入社には、修猷館の2年上級である緒方竹虎がいる。 1917年、上海特派員、1919年、北京特派員となり、1924年に帰国後、東京朝日新聞に転じる。
池村 平太郎(いけむら へいたろう、1887年(明治20年)… 池村 平太郎(いけむら へいたろう、1887年(明治20年)12月16日 - 1954年(昭和29年)12月17日)は、明治末から昭和前期の教育者、政治家。衆議院議員、旧制中学校長。 三重県安濃郡野田村(神戸村を経て現津市野田)で、池村浅次郎の長男として生まれる。1908年(明治41年)3月、三重県師範学校を卒業。小学校訓導を務め、1909年(明治42年)12月、文部省教員検定試験で博物科に合格した。 1912年(明治45年)3月、三重県の伊賀実科高等女学校教諭に就任。以後、福岡県立柳河高等女学校教諭、福岡県立若松中学校教諭、福岡県師範学校教諭、和歌山県立海南中学校教諭を歴任。 1925年(大正14年)3月、和歌山県立日高高等女学校長に就任した。
宮沢 胤勇(宮澤 胤勇、みやざわ たねお、1887年〈明治2… 宮沢 胤勇(宮澤 胤勇、みやざわ たねお、1887年〈明治20年〉12月15日 - 1966年〈昭和41年〉6月2日)は、日本の政治家、実業家。位階は従三位。 長野県諏訪郡川岸村駒沢(現・岡谷市)に台湾総督府官吏・宮沢長吉の長男として生まれる。幼少期は母と駒沢の生家で生活し、1900年(明治33年)に台湾に移った。 日本中学校(現・日本学園中学校・高等学校)を経て早稲田大学に進み雄弁会に所属した。同大卒業後、実業界を経て政界入りした。衆議院議員選挙に通算6回当選した。 戦前は立憲民政党に所属、戦後は旧民政党出身の大麻唯男・野田武夫・小泉純也・浜野清吾・真鍋儀十・山本粂吉らと行動をともにし、改進党、日本民主党、自由民主党に所属した。
徳 三宝(とく さんぽう、1887年12月12日 - 194… 徳 三宝(とく さんぽう、1887年12月12日 - 1945年3月10日)は、日本の柔道家。講道館柔道九段。大日本武徳会柔道教士。 鹿児島県の徳之島(大島郡天城町兼久)出身。亀津小学校から鹿児島県立第二鹿児島中学校(現在の鹿児島県立甲南高等学校)へ進学。剣道・柔道に励み、全九州の中学柔道大会を制しその名を知られる。師事した七校の佐村嘉一郎三段(後の十段)の勧めで上京し、東京高等師範学校体育科へ入学後、1906年に講道館へ入門。 一日に100本超える程の猛稽古を積み上達すると、当時の講道館でも最強を誇り、稽古中に姿勢が崩れる事のない強さ故に野中の一本杉とあだ名され、また、“膝つき一本(徳に膝をつかせただけでも、通常の一本に値するという意)”という言葉が生まれた。
安達 潮花(あだち ちょうか、明治20年(1887年)12月… 安達 潮花(あだち ちょうか、明治20年(1887年)12月11日 - 昭和44年(1969年)6月5日)は、華道家。いけばな安達式挿花創流者、いけばな近代化の先駆者。広島県豊田郡内海村跡(現在の呉市安浦町安登)生まれ。本名:良雄。 安浦町浄念寺に生まれる。7歳から池坊のいけばなを習いはじめ、忠海中学(現・広島県立忠海高等学校)から早稲田大学政経学部に進むが中退し花の道に進む。形式美だけを追う当時の華道界をきらい、「一切の因習、定型を捨てて模倣をなさず」と飾花を提唱、生花を傷花として退け、大正6年(1917年)安達式挿花を興した。西洋花弁装飾に触発された家庭いけばなを創案、洋風化し始めた生活様式に合う近代花として人気を博し、上流の婦人たちの大きな支持を得た。