丸山 千代(まるやま ちよ、1887年5月28日 - 196… 丸山 千代(まるやま ちよ、1887年5月28日 - 1967年4月11日)は、日本の聾唖教育者、社会事業家、ソーシャルワークの実践者。丸山ちよと表記されることがある。 山形県米沢市で、丸山孝一郎の四女として生まれる。姉と妹が聾唖者であったことから聾唖教育を志し、山形県立米沢女学校(現在の山形県立米沢東高等学校)を経て日本女子大学校に進学した。1909年3月に同校を卒業した後は、教職に就くも病気のため郷里に戻った。その後、父親の死を契機に上京する。日本女子大学校の同窓会組織である桜楓会が運営を模索していた託児所経営に、1913年から主任保母として参加し、貧しい婦人の労働機会を確保するとともにその子弟が教育を受ける機会を広げた。
新井 京太(あらい きょうた、1887年〈明治20年〉5月2… 新井 京太(あらい きょうた、1887年〈明治20年〉5月26日 - 1969年〈昭和44年〉5月19日)は、大正・昭和期の実業家・政治家。衆議院議員(3期)。位階は正五位。 群馬県多野郡保美濃山村(現・藤岡市保美濃山)出身。17歳のとき医学を志して上京、建築業に従事しながら苦学する。1920年(大正9年)協調会社会政策学院を卒業。土木建築請負業を営む。田島応用加工(株)顧問を務めた。 千住町会議員、足立区会議員、東京市会議員、同参事会員、東京府会議員、同参事会員、同社会委員長、東京都議会議員、同参事会員を務めた。 第24回衆議院議員総選挙(1949年(昭和24年)1月執行)東京都第6区から選出された聴濤克巳の公職追放、中島守利の死去に伴い1952年(昭和27年)3月に実施された補欠選挙で初当選。
飯塚 国五郎(國五郎、いいづか くにごろう、1887年〈明治… 飯塚 国五郎(國五郎、いいづか くにごろう、1887年〈明治20年〉5月25日 - 1938年〈昭和13年〉9月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 群馬県北甘楽郡富岡町(現・富岡市)出身。農業・飯塚理八の長男として生まれる。富岡中学校(現群馬県立富岡高等学校)を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第66連隊付となる。 1919年(大正8年)11月から1920年(大正9年)11月までシベリア出兵に従軍し、ニコリスク・ウスリースキー(現・ウスリースク)付近の戦闘で戦功を挙げ、功五級金鵄勲章を受章した。1920年8月、歩兵大尉に昇進し歩兵第66連隊中隊長に就任。
仲吉良光(なかよし りょうこう、1887年(明治20年)5月… 仲吉良光(なかよし りょうこう、1887年(明治20年)5月23日 - 1974年(昭和49年)3月1日)は、沖縄県出身のジャーナリスト、政治家。後半生を沖縄の日本復帰運動に挺身し、「復帰男」「沖縄復帰の父」と呼ばれた。 首里儀保村に生まれる。1908年、沖縄県中学校を卒業し、早稲田大学英文科に入学する。大学在学中はキリスト教と文学に傾倒した。1912年、早稲田大学を卒業し、『琉球新報』記者となり、のちに『沖縄朝日新聞』を創設した。1919年に上京し、『東京日日新聞』記者となる。1921年にはアメリカ合衆国に移住し、1923年、ロサンゼルスの羅府新報社に入社し、1925年には帰国し、東京日日新聞社に再入社する。
長尾 優(ながお まさる、1887年(明治20年)5月22日… 長尾 優(ながお まさる、1887年(明治20年)5月22日 - 1975年(昭和50年)10月21日)は、日本の大正・昭和期における歯科医大学教授・医学博士。位階は正三位。東京医科歯科大学初代学長。香川県出身。 1887年(明治20年)5月22日、長尾優は現在の香川県丸亀市に生まれる。丸亀中学校(現・香川県立丸亀高等学校)、第一高等学校を経て1913年(大正2年)12月東京帝国大学医科大学を卒業し、病理学教室を経験した後石原久が教授を務める東京帝国大学医科大学歯科学教室に入局した。1916年(大正5年)9月にはペンシルベニア大学歯学部へ自費留学し、歯科医療技術を学び、また歯科器材の重要性に注目し機材製造会社を積極的に見学し、1918年(大正7年)5月に帰国した。
鈴木 忠治郎(すずき ちゅうじろう、1887年(明治20年)… 鈴木 忠治郎(すずき ちゅうじろう、1887年(明治20年)5月21日 - 1964年(昭和39年)7月14日)は、大正・昭和期の実業家、発明家。裾野市名誉市民第一号。生涯で470件余の特許を得ており、代表例として1913年(大正2年)の加熱麦圧搾機が挙げられる。全国油糧機器製造協議会会長を務めた。 1887年(明治20年)、静岡県駿東郡小泉村(現・裾野市佐野)出身。1905年(明治38年)、独立して生糸繭の売買業を開始する。その後、商売も順調に進み、沼津に店を持つに至ったが、胃腸疾患・風邪から肺・胸の病気を併発し、3年間に及ぶ闘病生活を余儀なくされた。また、1913年(大正2年)の沼津大火の際には、店だけでなく穀物などの商品を保管してあった倉庫も焼失してしまう。
坂田 道男(さかた みちお、1887年(明治20年)5月18… 坂田 道男(さかた みちお、1887年(明治20年)5月18日 - 1973年(昭和48年)1月4日)は、日本の政治家(元衆議院議員)、教育者で八代市長、名誉市民。長男は防衛庁長官、衆議院議長を務めた坂田道太。 熊本県八代郡植柳村(現在の八代市)に生まれる。父は明治新田製造の功労者たる坂田貞である。 八代中学校(現・熊本県立八代中学校・高等学校)時代から秀才の誉れが高かった。1905年(明治38年)9月、第五高等学校第一部独法科に入学する。 1908年(明治41年)7月、同科を卒業し、ただちに東京帝国大学法科大学独逸法科に入学する。 1912年(明治45年)7月、同大学を卒業する。 1913年(大正2年)9月、第五高等学校教授(法制経済・独逸語担当)に任ぜられる。
権田 保之助(ごんだ やすのすけ、1887年(明治20年)5… 権田 保之助(ごんだ やすのすけ、1887年(明治20年)5月17日 - 1951年(昭和26年)1月5日)は、日本の社会学者。 東京生まれ。明治32年、早稲田中学に入学。東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。1921年大原社会問題研究所に入る。1924年にヨーロッパに渡る。のちに日本大学講師、文部省の委託を受けて各地の都市研究に従事する。 1919年(大正8年)に実施した、小額俸給生活者の家計調査は有名。また同時期、京都の映画監督で、「日本映画の父」として知られる牧野省三が設立した「教育映画」の製作会社「ミカド商会」、ならびに「牧野教育映画製作所」に対し、同社の顧問となった文部省の星野辰男(保篠龍緒)とともに協力する。
野口 正義(のぐち まさよし、1887年(明治20年)5月1… 野口 正義(のぐち まさよし、1887年(明治20年)5月17日 - 1968年(昭和43年)4月8日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 茨城県出身。1908年(明治41年)5月27日に陸軍士官学校(20期)を卒業し、同年12月25日に工兵少尉に任ぜられ、工兵第七大隊付となる。1911年(明治44年)12月26日に工兵中尉に昇進し、1912年(明治44年)11月27日に陸軍砲工学校(18期)高等科を卒業。更に員外学生として在学し、1916年(大正5年)7月10日には東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業した。 1918年(大正7年)7月29日に工兵大尉に昇進し陸軍技術審査部付となる。その後、長らく陸軍技術本部部員に在籍し、在任中の1924年(大正13年)3月15日工兵少佐に、1928年(昭和3年)3月24日工兵中佐に、1932年(昭和7年)8月8日に工兵大佐に昇進。
保坂 玉泉(ほさか ぎょくせん、1887年5月15日 - 1… 保坂 玉泉(ほさか ぎょくせん、1887年5月15日 - 1964年8月28日)は、日本の仏教学者・博士。駒澤大学総長・学長。曹洞宗の僧侶。 新潟県出身。明治35年、新潟県観音寺で得度。大正2年、曹洞宗大学(現∶駒澤大学)卒業。同年、曹洞宗研究生となり法隆寺佐伯定胤に倶舎、唯識、因明を学ぶ。5年に曹洞宗大講師、第1中学林校長を経て、14年に駒澤大教授。中国仏教視察後、1972年から9年間、新潟県観音寺住職。この間、曹洞宗宗会議員、宗務院人事部長、教学部長を歴任。1935年、駒澤大教授に再任。世田谷中学校長、栃木県祥雲寺住職。1957年、駒澤大総長に就任。同年、大教師。 1958年『唯識三類境の研究』で博士号(文学、駒澤大学)を取得。
作田 高太郎(さくた たかたろう、1887年(明治20年)5… 作田 高太郎(さくた たかたろう、1887年(明治20年)5月15日 – 1970年(昭和45年)3月15日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。文部政務次官、文部参与官。弁護士。 広島県沼隈郡藤江村(現在の福山市)出身。1915年(大正4年)、中央大学を卒業。1917年(大正6年)、弁護士試験に合格し、開業した。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第21回に至るまで6回連続当選を果たした。その間、廣田内閣で文部参与官を、阿部内閣で文部政務次官を務めた。 戦後、日本進歩党に加入するが、大政翼賛会の推薦議員のため公職追放となった。 その他、常磐採炭株式会社取締役、日英醸造株式会社取締役、大日本醸造株式会社監査役、千代田毛織株式会社監査役、関東航空計器株式会社社長、和田製本工業株式会社社長などを務めた。
大久保 留次郎(おおくぼ とめじろう、1887年(明治20年… 大久保 留次郎(おおくぼ とめじろう、1887年(明治20年)5月12日 - 1966年(昭和41年)11月19日)は、日本の内務及び台湾総督府官僚、政治家。第18代東京市長。衆議院議員(4期)。 茨城県行方郡吉川村(津澄村、北浦村、北浦町を経て現行方市吉川)で大久保佐吉の次男として生まれる。生家は農家。1913年(大正2年)東京高等師範学校(筑波大学の前身)地歴科卒業。高等文官試験に合格し、内務省に入省、警察畑を歩む。新橋、牛込、神楽坂各警察署長、警視庁特高課長、刑事部長、官房主事、台湾総督府警務局長を歴任。この間、堺利彦、徳田球一らが検挙された第1次共産党事件(1923年)、約1600人が検挙された三・一五事件(1928年)など、共産党員の大量検挙事件の指揮にあたる。
高柳 賢三(たかやなぎ けんぞう、1887年(明治20年)5… 高柳 賢三(たかやなぎ けんぞう、1887年(明治20年)5月11日 - 1967年(昭和42年)6月11日)は、日本の法学者。専門は英米法。位階は正三位。東京大学名誉教授。成蹊大学名誉教授。貴族院勅選議員。大正・昭和期の代表的英米法学者として知られる。弟子に末延三次、田中和夫、守屋善輝など。 埼玉県熊谷市に生まれる。正則英語学校、府立四中、一高を経て、1912年東京帝国大学法科大学卒業。 1913年東京帝国大学大学院(旧制)中退し、東京帝国大学法科大学助教授。1921年東京帝国大学法学部教授(後に附属図書館館長兼務)を歴任した。イギリス法研究が主流であった時代に、1915年~1920年ハーバード大学ロースクールなどに留学し、違憲立法審査権などアメリカ法研究に本格的に取組んだ。
岡田 偆一(おかだ しゅんいち、1887年(明治20年)5月… 岡田 偆一(おかだ しゅんいち、1887年(明治20年)5月10日〈1886年生とも〉- 1943年(昭和18年)12月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。位階および勲等は従四位・勲三等。 平民出身で初めて宮家(高松宮)付の武官となった人物。 広島県芦品郡駅家町大字服部本郷(現在の福山市)の屋号観音堂の、岡田馳次郎・アサの次男として生まれる。品治高等小学校2年を修了後、広島県第二中学校(後の誠之館)に入学する。1904年(明治37年)、19歳の時に広島県立福山中学校(誠之館)を卒業する。1907年(明治40年)、22歳の時に海軍兵学校を第35期生として卒業する。1909年(明治42年)、24歳の時に海軍大学を第16期生として卒業。
鈴木 重次(すずき しげじ、1887年〈明治20年〉5月10… 鈴木 重次(すずき しげじ、1887年〈明治20年〉5月10日 - 1951年〈昭和26年〉11月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 長崎県北松浦郡、のちの江迎村(江迎町を経て現佐世保市江迎町)出身。1905年長崎県立平戸中学校猶興館(現・長崎県立猶興館高等学校)卒。小学校訓導兼校長、江迎村長、長崎県議、同議長、大政翼賛会長崎県支部顧問、同中央協力会議員となる。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では長崎2区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は日本進歩党に入ったが、推薦議員のため公職追放となった。1951年追放解除。追放解除後に死去した。
伊澤 平馬(いさわ / いざわ へいま、1887年(明治20… 伊澤 平馬(いさわ / いざわ へいま、1887年(明治20年)5月10日 - 1940年(昭和15年)4月1日)は、明治から昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 宮城県仙台区(現仙台市)で実業家・伊澤平左衛門の三男として生まれる。1907年(明治40年)宮城県立仙台第二中学校(現宮城県仙台第二高等学校)を卒業。また、醸造試験所(現酒類総合研究所)講習所を修了した。 1907年以降、家業の酒造業に従事。また、仙台平機業社長、仙台染織製綿社長、東北貯蓄銀行取締役、七十七銀行取締役、宮城銀行取締役、仙台瓦斯取締役、仙北鉄道取締役、宮城電気鉄道取締役などを務めた。その他、宮城県連合保護会理事、吉田高等女学校(現聖和学園高等学校)理事長、第二中学校奨学会監事、日本赤十字社宮城県支部商議員、仙台市社会事業協会委員、仙台育英会評議員、仙台市政振興会委員、警防団長なども務めた。
伊藤 皆次郎(いとう みなじろう、1887年(明治20年)5… 伊藤 皆次郎(いとう みなじろう、1887年(明治20年)5月10日 - 1960年(昭和35年)9月24日)は、日本の政治家、実業家。徳島県鳴門市出身。 伊藤縫吉の長男として板野郡里浦村(現在の鳴門市里浦町里浦花面)で生まれる。1908年(明治41年)徳島県師範学校を卒業。長く教職に就いていたが、退職後は実業家となり、和布製造の里浦商事会社を起した。 1919年(大正8年)より里浦村長に就任し、以来、12年間務める。1927年(昭和2年)、徳島県会議員に当選。1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙で当選。 1960年(昭和35年)9月24日、74歳で没する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
真鍋 頼一(まなべ よりいち、1887年5月7日 - 197… 真鍋 頼一(まなべ よりいち、1887年5月7日 - 1971年11月19日)は、日本基督教団の牧師である。 1887年に現在の愛媛県西条市に生まれる。1903年に洗礼を受ける。1913年に青山学院神学部を卒業し、日本メソジスト教会の牧師になる。日本メソジスト牛込教会牧師、日本メソジスト教会社会局長などを経て、1941年の日本基督教団の成立時に日本基督教団の第2部の牧師になる。そして阿部義宗の後をついで、1946年まで日本基督教団第2代議長になる。同年、日本基督教団池の上教会の牧師に就任する。空襲で会堂を失った日本基督教団牛込教会の会員が参集する。 牛込教会と池の上教会は真鍋の元で合同礼拝持ち、1948年3月に牛込教会と池の上教会が合併して日本基督教団美以教会が誕生、同年7月教団の指導により頌栄教会と改称され、真鍋が頌栄教会初代牧師になる。
吉丸 末吉(よしまる すえきち、1887年5月6日 - 19… 吉丸 末吉(よしまる すえきち、1887年5月6日 - 1973年)は、日本の薬剤師。 ふりかけ食品の元になる製品を考案したことで知られる。 熊本県で生まれる。1908年9月に当時の熊本薬学校(熊本大学薬学部の前身)を卒業した。 当時日本では食料が不足しており、特にカルシウムが足りていなかった。それを補うために「魚を骨ごと細かくし、美味しく味付けをしてご飯にかけて食べる」という方法を考案した。このアイディアを事業化し、「御飯の友」の商品名で販売した。吉丸が「御飯の友」を考案したのは1913年(大正2年)年頃とされている。「御飯の友」の製造元は後にフタバとなった。 2013年に熊本で結成された国際ふりかけ協議会が、2015年に吉丸の誕生日にちなんで5月6日を「ふりかけの日」に制定した。
久保 孚(くぼ とおる、1887年5月5日 - 1948年4… 久保 孚(くぼ とおる、1887年5月5日 - 1948年4月19日)は、日本の鉱山技術者(工学博士)、経営者。撫順炭鉱など満洲における鉱物資源採掘、経営に携わった。中華民国(国民政府)によって平頂山事件の責任を問われ銃殺刑に処されたが、日本では冤罪と考えられている。 1887年(明治20年)5月5日、父・義道と母・久米の長男として高知県土佐郡大川筋で生まれた。幼名は東洋士。1905年(明治38年)に高知県立第一中学校を卒業、第三高等学校を経て東京帝国大学に進学。1912年(明治45年)7月に同大学工科大学採鉱冶金学科を卒業すると、すぐに南満洲鉄道に就職、撫順炭鉱の鉱務課に勤務した。 順調に昇進を続け、1932年(昭和7年)には撫順炭鉱長に着任。
高橋 正雄(たかはし まさお、1887年5月5日 - 196… 高橋 正雄(たかはし まさお、1887年5月5日 - 1965年5月25日)は宗教家、哲学者、教育者。 金光教第二世代の代表的人物。金光教学院長として数多くの若者を育てるとともに、金光教教監(現在の教務総長に相当する役職)として現在の金光教団の基礎を確立し、現在の金光教に続く結界取次を中心とする人間の生き方や、ゆるやかで自己内省的な教義を広めた。
梅島 昇(うめじま のぼる、1887年5月5日 - 1943… 梅島 昇(うめじま のぼる、1887年5月5日 - 1943年9月24日)は明治から昭和初期に活躍した、新派劇の二枚目俳優。本名、福島 卯三郎(ふくしま うさぶろう)。代表的な当たり役として「婦系図」早瀬主税、「金色夜叉」間貫一、「不如帰」川島武男、「滝の白糸」村越欣弥がある。 1887年、東京市日本橋区本船町に生まれる。慶応義塾普通部3年を経て東京薬学専門学校に入学するも中退。1910年、菊池武成門下で新派俳優となる。翌1911年、川上音二郎に師事し御伽芝居「浮かれ胡弓」で初舞台。同年、川上が死去し、最後の弟子となる。1912年に高田実の門下となる。さらに水野好美一座に移り、梅島昇を名のり二枚目として認められる。
斎村 五郎(さいむら ごろう、1887年(明治20年)5月4… 斎村 五郎(さいむら ごろう、1887年(明治20年)5月4日 - 1969年(昭和44年)3月13日)は、日本の剣道家。段位は範士十段。昭和の剣聖の一人に挙げられ「剣聖十段」といわれた。また、その気性の激しさから、“雷五郎”、“ケンカ五郎”とも呼ばれた。
横江 嘉純(よこえ よしずみ、1887年(明治20年)5月3… 横江 嘉純(よこえ よしずみ、1887年(明治20年)5月3日 - 1962年(昭和37年)2月14日)は、日本の彫刻家。塑像を得意とし、木彫、大理石像、洋画も遺した。 富山県婦負郡保内村(現・富山市)に出生。祖父も父も、同村の村長だった。小学校高等科を卒業後、絵画家を志すも挫折し、彫刻家に憧れる。京都の常楽寺で書生をしながら京都市立美術工芸学校に学んだ。学校を特待生として1906年(明治39年)3月に卒業。 その後、徴兵のため3年間入隊。兵役終了後東京美術学校(現東京芸術大学)へ入学し、1914年(大正3年)に彫刻科を卒業。結婚して一男一女をもうけたが、長女が夭逝し、続いて母、長兄、妻をも亡くした(長男も1941年(昭和16年)に死去)。
湯沢 幸吉郎(ゆざわ こうきちろう、1887年(明治20年)… 湯沢 幸吉郎(ゆざわ こうきちろう、1887年(明治20年)5月2日 - 1963年(昭和38年)4月9日)は、日本の国語学者。 1887年(明治20年)、秋田県広山田村(現・秋田市広面)に農家の三男として生まれる。広山田村立楢山尋常小学校卒。 秋田県立秋田中学校を経て1905年(明治38年)東京高等師範学校国語国文学科に入学、卒業後は富山県立薬学専門学校、東京府立第四高等女学校の教員となるが、府立第四高女に勤めながら東京帝国大学国文学選科に進み、これを修了、1915年(大正4年)文部省嘱託となる。 1933年(昭和8年)東洋大学教授に就任。以後、文部省図書監修官(1942年(昭和17年)就任)、早稲田大学教授(1949年(昭和24年)就任)、上智大学教授(1959年(昭和34年)就任)を歴任した。
山本 發次郎(やまもと はつじろう、1887年(明治20年)… 山本 發次郎(やまもと はつじろう、1887年(明治20年)5月1日 - 1951年(昭和26年)9月30日)は、日本の実業家であり、美術蒐集家でもある。本記事に記載するのは2代目發次郎である。 山発商店第2代社長、日本絹綿紡織(現:日本毛織)取締役。発次郎の美術コレクションがきっかけとなり、大阪中之島美術館建設計画が発足。2022年に開館となった。如水会会員。 岡山県上房郡北房町(現:真庭市)に生まれる。 戸田嘉平の三男で出生名は清、生家は水田村の庄屋の家柄だった。地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学、同期には、東京競馬場長・日本競馬会(現:日本中央競馬会)常務理事の横屋潤、総合商社兼松の社長になる林荘太郎、大阪無線電気学校(現:大阪電気通信大学)の初代校長となる長野新十郎がいた。
岡本 保三(おかもと やすぞう、1887年(明治20年)5月… 岡本 保三(おかもと やすぞう、1887年(明治20年)5月1日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。 兵庫県出身。1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業して、同年に高等文官試験に合格した。大阪府属・西成郡書記、同府工場監督官補、大分県西国東郡長、同県理事官、宮崎県理事官、北海道庁事務官、群馬県書記官・学務部長を歴任。1930年(昭和5年)に樺太庁農林部長に就任した。 退官後、横須賀市助役を務めた。
片岡 長正(かたおか ちょうせい、1887年4月28日 - … 片岡 長正(かたおか ちょうせい、1887年4月28日 - 没年不詳)は、日本の俳優、元歌舞伎役者、元女形である。芸名の読みは「かたおか ちょうしょう」と表記されることもある。芸名を片岡 長生とするのは誤りである。本名は桑島 莊一郎(くわじま そういちろう)とされるが、桑島 長生(くわじま ちょうせい、くわじま ちょうしょう)、桑島 長正(読み同じ)、桑島 藏一郎(くわじま ぞういちろう)、幸島 喜一郎(こうじま きいちろう)の説もある。幼名は澤村 鶴松(さわむら つるまつ)。旧芸名は桑島 壯一郎(くわじま そういちろう)、久和島 壯一(くわじま そういち)、久和島 莊一(読み同じ)。旧劇を経て横田商会、日活京都撮影所に所属し、尾上松之助の相手役として活躍した名女形として知られる。
新村 忠雄(にいむら ただお、1887年(明治20年)4月2… 新村 忠雄(にいむら ただお、1887年(明治20年)4月26日 - 1911年(明治44年)1月24日)は、日本の社会主義者、アナキスト。 幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人で、計画の首謀者とも言われる。号は秋峰。 長野県埴科郡屋代町(現:長野県千曲市)の出身で生家は豪農だった。1897年(明治30年)に屋代小学校尋常科を卒業し、高等科に4年、補習科に1年ほど在学した。 郷里で信仰に疑問を持って無神論者となり、1903年(明治36年)に上京して幸徳秋水・堺利彦らが製作した平民新聞を愛読し、同年には日本メソジスト教会で受洗する。 1906年(明治39年)、新村はピョートル・クロポトキンの「無政府主義の哲学」を読んでアナキズムを知る。
武井 大助(たけい だいすけ、1887年(明治20年)4月2… 武井 大助(たけい だいすけ、1887年(明治20年)4月25日 - 1972年(昭和47年)3月30日)は、日本の海軍軍人、実業家。最終階級は海軍主計中将。昭和産業・安田銀行・文化放送の社長を務めた。1940年勲一等旭日大綬章受章。 現在の茨城県土浦市田村町で、武井松太郎の三男として生まれる。旧制土浦中学校(茨城県立土浦第一高等学校の前身)卒業後、明治37年(1904年)7月、東京高等商業学校予科(一橋大学の前身)に入学し、翌月、海軍主計学生となる。一橋では福田徳三に師事し千駄ヶ谷の福田邸での読書会にも参加した。しかし、緒方竹虎らとともに申酉事件のリーダーとしての責任をとり専攻部へは進まず、明治42年(1909年)に本科卒業後、海軍少主計に任官し海軍経理学校乙種で学ぶ。
今西 与三郎(いまにし よさぶろう、1887年4月25日 -… 今西 与三郎(いまにし よさぶろう、1887年4月25日 - 1962年9月23日)は、日本の経営者。 現在の大阪府大阪市出身。1912年7月に京都帝国大学法学科を卒業し、山下汽船に入社。外遊と大阪商船での勤務を経て、1918年に山下汽船に復帰した。 1917年に今西林三郎の次女と結婚し、養嗣子となる。 阪神電鉄では、堀啓次郎社長の下で、1924年10月に監査役に就任し、取締役を経て専務取締役を務め、山口覚二常務取締役らと実務を担った。1935年4月25日、堀社長、山口常務が辞任。今西が社長になり、石井五郎が専務取締役に、岡喜太郎が常務取締役に就任した。 同35年4月から1946年10月までの社長在任時には、阪神国道自動車を阪神傘下に収め、神戸乗り入れの地下線開業と梅田駅の地下化と三宮阪神ビルと梅田阪神ビルの竣工などを行った。
白城 定一(しらき さだいち、1887年〈明治20年〉4月2… 白城 定一(しらき さだいち、1887年〈明治20年〉4月25日 - 1978年〈昭和53年〉11月4日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 愛媛県北宇和郡、のちの喜佐方村(吉田町を経て現宇和島市)で、白城清太郎の二男として生まれた。同郷の山下亀三郎を頼り、横浜石炭商会(のちの山下汽船)に入る。山下汽船(株)取締役、山下(名)理事、尼ヶ崎築港(株)監査役、阪神築港(株)取締役、白城(名)社長、日満鉱業(株)取締役、同社長、同会長、満州鉛鉱(株)副社長、満州鉱山(株)取締役、日満石膏(株)会長となる。 1930年の第17回衆議院議員総選挙において愛媛3区(当時)から立憲政友会公認で立候補したが落選。
田原 和男(たはら / たわら[要出典] かずお、1887年… 田原 和男(たはら / たわら[要出典] かずお、1887年(明治20年)4月22日 - 1955年(昭和30年)1月27日)は、大蔵官僚、南洋庁長官。 東京府出身。1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。大蔵省に入り、東京税務監督局関税部長、臨時議院建築局書記官・会計課長、銀行局事務官・北海道拓殖銀行監理官を歴任。1925年(大正14年)、京都市助役に就任した。1926年(大正15年)、第1次若槻内閣が成立すると内閣総理大臣秘書官に任じられた。1929年(昭和4年)より拓務書記官・内閣書記官、外務書記官を歴任し、ロンドン海軍軍縮会議では全権委員随員を務めた。 1931年(昭和6年)、拓務省殖産局長に就任し、さらに南洋庁長官に転じた。
北白川宮成久王(きたしらかわのみや なるひさおう、1887年… 北白川宮成久王(きたしらかわのみや なるひさおう、1887年〈明治20年〉4月18日 - 1923年〈大正12年〉4月1日)は、日本の皇族。階級は陸軍大佐。北白川宮能久親王の第3王子。北白川宮第3代当主。 1887年〈明治20年〉4月18日、北白川宮能久親王と正妃富子(伊達宗徳侯爵の次女)の唯一の子として誕生。1895年(明治28年)10月28日、父宮の薨去により8歳で北白川宮を継承。 1901年(明治34年)9月、久邇宮家の鳩彦王・稔彦王兄弟とともに、東京陸軍地方幼年学校に第5期生として入校。美少年であった成久王は一部の上級生から人気を集めた。陸軍では、その後、陸軍士官学校(20期)、陸軍大学校(27期)を卒業し陸軍砲兵大佐まで至る。
宮川 竹馬(みやがわ たけま、1887年4月18日 - 19… 宮川 竹馬(みやがわ たけま、1887年4月18日 - 1964年8月27日)は、昭和時代に活動した日本の実業家。高知県幡多郡入野村早咲(現・幡多郡黒潮町)出身。 旧制中村中学校(現・高知県立中村高等学校)を経て、東京高等工業学校(現・東京工業大学)電気科電気機械分科を1912年(明治45年)に卒業後、九州電灯鉄道(後の東邦電力)に入社。以後電力業界を歩み、1951年電気事業再編成により発足した四国電力株式会社の初代社長となる。また、その再編成案を松永安左エ門と協力してつくったことでも知られる。孫の坂間英気は、電力業界を経て、現在はサイバーセキュリティ企業の株式会社 AppGuardに勤務する。
中野 栄三郎(なかの えいざぶろう、旧姓・茂木、1887年(… 中野 栄三郎(なかの えいざぶろう、旧姓・茂木、1887年(明治20年)4月18日 - 1988年(昭和63年)7月9日)は、日本の実業家。野田醤油(現・キッコーマン)社長。小網商店無限責任社員。 千葉県東葛飾郡野田町(現・千葉県野田市)出身。茂木七郎右衛門の二男。茂木順三郎の弟。叔父・中野長兵衛の養子となった。1912年、慶應義塾大学部法律科卒業。1936年、養父退隠により家督を相続した。 野田醤油社長、同社常務取締役、柏屋商事、銚子醤油(現・ヒゲタ醤油)、満州野田醤油、野田運輸、総武鉄道各取締役、野田商誘銀行各監査役等をつとめた。 趣味は柔道。宗教は真言宗。住所は千葉県東葛飾郡野田町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
林 弥輔(はやし やすけ、1887年(明治20年)4月17日… 林 弥輔(はやし やすけ、1887年(明治20年)4月17日 - 没年不明)は、明治時代後期から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 千葉県海上郡椎柴村字塚本(現・銚子市塚本町)に生まれる。1907年(明治40年)6月、正則英語学校を卒業後に渡台し、嘉義庁庶務課勤務を振り出しに、台南州文書課秘書係長、台南州文書課長、台北州文書課長を経て、1936年(昭和11年)10月、地方理事官に進み、台北州新荘郡守に就任した。ついで1939年(昭和14年)1月、台南州北港郡守に転じた。 この間、1927年(昭和2年)から1930年(昭和5年)に掛けて樺太庁に出向し、長官官房秘書課および文書課にて勤務した。
庄司 廉(しょうじ れん、1887年(明治27年)4月17日… 庄司 廉(しょうじ れん、1887年(明治27年)4月17日 - 1960年(昭和35年)8月10日)は、日本の豪農、実業家、政治家。世人をして“庄司の殿様”といわしめた。女優の司葉子は姪にあたる。 鳥取県西伯郡渡村(現在の境港市渡町)に生まれる。父・昇造の死により8歳で豪農「本庄司家」を継ぎ、杉山永真(のちの郡会議長)を養育係として成長した。 山陰日日新聞社、米子銀行、米子博愛病院等の取締役、渡村村長(第5代)、同村会議員・学務委員。鳥取県多額納税者。大地主にも名を連ね、奥出雲の山林大地主・23代田部長右衛門(元島根県知事)はいとこにあたる。 木下二介や門脇春翠に絵の修行をさせたり、私財を投じて山陰地方初の繭市場を開設する等、非凡にして識見高く、先見の明があって、事に臨んでは果断と実行の人だった。
君島 一郎(きみじま いちろう、1887年〈明治20年〉4月… 君島 一郎(きみじま いちろう、1887年〈明治20年〉4月16日 - 1975年〈昭和50年〉4月25日)は、日本の銀行家、野球研究者。元朝鮮銀行副総裁。叔父に九州帝国大学(現・九州大学)元教授である君島武男がいる。 1887年4月16日、栃木県生まれ。栃木県塩谷郡塩原町(現・那須塩原市)の君島五郎の長男。君島家は塩原温泉草分けの旧家で、代々「明賀屋」と称し、温泉宿業を営んでいる。 1905年3月、栃木中学校(現・栃木県立宇都宮高等学校)卒業。旧制第一高等学校へと進学する。第一高等学校では野球部に所属し、2年先輩であった中野武二の後継者として、1907年から1908年までの2年間二塁手を務めた。
君島 一郎(きみじま いちろう、1887年(明治20年)4月… 君島 一郎(きみじま いちろう、1887年(明治20年)4月16日 - 1975年(昭和50年)4月25日)は、日本の銀行家、野球研究者。元朝鮮銀行副総裁。
浅田 長平(あさだ ちょうへい、1887年4月15日 - 1… 浅田 長平(あさだ ちょうへい、1887年4月15日 - 1970年10月21日)は、日本の実業家。神戸製鋼所社長を務め、「神鋼中興の祖」と呼ばれた。 大阪府堺市出身。1911年に京都帝国大学理工科大学採鉱冶金科を卒業し、神戸製鋼所に入社した。取締役、製鉄部長、常務、専務を経て、1945年9月に社長に就任した。しかし、1946年12月に公職追放により辞任。1952年11月に社長として復帰し、1958年1月から1965年3月までに会長を務めた。 神戸商工会議所会頭、関西経済連合会副会長なども歴任した。1964年11月に勲二等瑞宝章を受章した。 1970年10月21日急性心不全のために神戸市の自宅で死去。
勝田 重太朗(かつた じゅうたろう、1887年4月15日 -… 勝田 重太朗(かつた じゅうたろう、1887年4月15日 - 1967年11月16日)は、日本の経営者。産業経済新聞社社長、信越放送社長を務めた。 長野県長野市出身。1913年に日本大学法学部を卒業。 京城日報社、新愛知新聞社、中部日本新聞社などを経て、1950年1月に信濃毎日新聞社副社長に就任し、1951年に信越放送社長に就任。1955年2月に産業経済新聞東京本社社長に就任。 1961年に藍綬褒章を受章し、1965年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1967年11月16日、心不全のために死去。80歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
森本 一雄(もりもと かずお、1887年〈明治20年〉4月1… 森本 一雄(もりもと かずお、1887年〈明治20年〉4月15日 - 1938年〈昭和13年〉11月7日)は、日本の衆議院議員(国民同志会)。初代敦賀市長。 兵庫県で森本高太郎の長男として生まれる。1915年(大正4年)、早稲田大学政治経済科を卒業。翌年より衆議院議員尾崎行雄の秘書となった。1923年(大正12年)、鐘淵紡績社長武藤山治が実業同志会を結成すると、理事兼会長秘書役を務めた。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に実業同志会の後身の国民同志会から出馬し、当選を果たした。 その後、福井県敦賀郡敦賀町の町長を務め、1937年(昭和12年)に敦賀町が市制を施行すると、初代敦賀市長に就任した。
灰野 庄平(はいの しょうへい、1887年4月14日 - 1… 灰野 庄平(はいの しょうへい、1887年4月14日 - 1931年4月26日)は、日本の劇作家、演劇研究家。 新潟県刈羽郡中通村生まれ。1908年第二高等学校卒業、1912年東京帝国大学文学部哲学科卒業。在学中から演劇・詩・翻訳を発表。小山内薫の自由劇場に参加、卒業後丸見屋商店に入社、演劇研究を行う。1914年三木露風・増野三良・柳沢健と雑誌『未來』を創刊。1931年、急性肺炎のため死去。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
伴 東(ばん あずま、1887年(明治20年)4月14日 -… 伴 東(ばん あずま、1887年(明治20年)4月14日 - 没年不明)は、日本の内務官僚。関東州官僚。 島根県海士郡海士村(現在の隠岐郡海士町)出身。大阪府立農学校獣医学科を経て、1910年(明治43年)に盛岡高等農林学校獣医学科を卒業した。のち法科に転じ法政大学に学んで1916年(大正5年)に高等文官試験に合格した。警視庁警視、愛知県額田郡長、同知多郡長、長崎県商工課長、同水産課長、同農林課長、福井県学務部長、岩手県警察部長、滋賀県警察部長、愛知県警察部長、大分県内務部長、関東局旅順民政署長を歴任した。 退官後、興中公司嘱託、天津電業公司総務科長、大連機械製作株式会社支配人・総務部長を経て、東亜生果株式会社社長を務めた。
石川 義一(いしかわ よしかず、1887年4月13日 - 1… 石川 義一(いしかわ よしかず、1887年4月13日 - 1962年1月17日)は、日本の作曲家。日本にレオ・オーンスタインのピアノ曲を紹介した。 福島県相馬郡長塚村(現在の双葉町)出身。1906年、19歳のとき相馬中学を卒業後、半年ほど代用教員を勤めた。その年の9月にアメリカに渡った。カリフォルニア州サクラメントで女性音楽家のベリングスにピアノと英語を学び、サンノゼ市のパシフィック大学音楽部に入学、ピアノと作曲を学んで1918年卒業。 1920年帰国後、朝鮮総督府社会課長として平安南道に赴任。この時李王家から依頼されて朝鮮雅楽の研究も行い、15年をかけて五線譜に書き写し、計283曲、五千ページに及ぶ業績を遺す。
伊藤 孝一(いとう こういち、1887年4月12日 - 19… 伊藤 孝一(いとう こういち、1887年4月12日 - 1954年4月17日)は、日本の実業家、登山家、映画監督もしくはドキュメンタリー映像作家。 人生の前半は、豊富な私財を背景に多彩な趣味を昇華させた一方、実績は素封家の道楽として見做されることが多く、生前に業績に見合った評価を受けることは少なかった。 長野県大町市に拠点を構えていた百瀬慎太郎(歌人、大町山案内人組合設立者)、赤沼千尋(燕山荘経営者)らと親交を深め、1923年(大正12年)から翌年にかけて積雪期の北アルプス行を次々と成功させた。しかしながら、その登山は、後述する映画を撮影しつつ行われたこと。単一峰を目指す登山スタイルが主流であった当時、複数の峰を縦走するスタイルを採ったこと、さらには事前準備の段階で3軒の山小屋を多額の費用で建設し、多くの有名案内人を雇用して登山隊を編成していたことなど当時の登山の常識を覆すものばかりであり、多くの人達から反感を買う余地は多分にあった。
板野 新夫(いたの あらお、1887年(明治20年)4月11… 板野 新夫(いたの あらお、1887年(明治20年)4月11日 - 1972年(昭和47年)4月12日)は、日本の農業研究者・教育者であり、日本の農業研究の第一人者である。岡山県総社市出身。 1887年(明治20年)に岡山県下道郡秦村(現・総社市)の農家の家庭に生まれる。その後、1900年(明治33年)旧制岡山県立高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)に入学した。 高梁中在学中に米国に留学した新島襄に憧れ、また、新渡戸稲造の農業経営の理念に感化され、卒業後、1905年(明治38年)すぐに単身で渡米し農学の専攻を志した。 渡米後の板野は、最初に飲食店やホテルで働いて、学費を稼ぎながらドイツ語とラテン語を勉強した。
岸本 彦衛(きしもと ひこえ、1887年(明治20年)4月1… 岸本 彦衛(きしもと ひこえ、1887年(明治20年)4月11日 - 1977年(昭和52年)1月1日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。貴族院勅選議員。旧姓・岡村。 山口県で岡村米吉の六男として生まれる。1907年(明治40年)大阪市立高等商業学校を卒業した。鉄鋼問屋岸本商店店主・4代岸本吉右衛門の養子となり、1929年(昭和4年)に分家した。 1918年(大正7年)岸本商店常務取締役に就任。以後、岸本商店副社長、大建産業副社長、日印通商取締役、函館船渠(現函館どつく)取締役、日本曹達監査役、大阪鋼材監査役、呉羽紡績監査役、日本繊維工業社長、大阪ロータリー倶楽部会長などを務めた。 1946年(昭和21年)3月22日、貴族院勅選議員に任じられ、同和会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
橋元 正輝(はしもと まさてる、1887年(明治20年)4月… 橋元 正輝(はしもと まさてる、1887年(明治20年)4月11日 - 1939年(昭和14年)4月17日)は、大正から昭和期の政治家・華族。貴族院男爵議員。 海軍士官・橋元正明の二男として生まれる。父の死去に伴い、1929年(昭和4年)5月2日、男爵を襲爵した。 1911年(明治44年)慶應義塾大学部理財科を卒業し、さらに、1920年(大正9年)早稲田大学政治経済科を卒業した。1911年、三菱合資会社に入社し、さらに同信託社員となる。 1932年(昭和7年)7月10日、貴族院男爵議員に選出された。公正会に所属して活動し1期在任した。 1939年4月17日、千葉で魚釣り中に心臓麻痺のため、議員在職中のまま死去した。