河岡 潮風(かわおか ちょうふう、1887年(明治20年)3… 河岡 潮風(かわおか ちょうふう、1887年(明治20年)3月8日 - 1912年(明治45年)7月13日)は日本の作家。押川春浪の弟子筋として雑誌『冒険世界』などで小説、エッセイなどを発表したが、若くして病死した。本名は英男。 横浜野毛町(現・横浜市中区)出身。神戸、京都などを転々とした後、1905年(明治38年)早稲田大学文学部に入学。 早稲田大学卒業後、中央新聞を経て博文館に入社。押川春浪が主筆を務めていた『冒険世界』の編集助手となり、同誌に小説、エッセイなどを発表する。押川が体調を崩していた時には口述筆記を行うこともあった。また、押川が中心人物であった社交団体「天狗倶楽部」にも入り、メンバーと交友を深めた。
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戸田 貞三(とだ ていぞう、1887年3月6日 - 1955… 戸田 貞三(とだ ていぞう、1887年3月6日 - 1955年7月31日)は、日本の社会学者、東京帝国大学名誉教授。家族社会学専門。 1887年、兵庫県朝来市(兵庫県朝来郡中川村立脇)で生まれた。1909年、東京帝国大学文科大学哲学科社会学専攻に入学。建部遯吾に師事しながらも外山正一に影響を受けて、卒業論文の題目は「日本に於ける家の制度発達の研究」であった。1912年に卒業。 1920年、母校である東京帝国大学文学部講師に着任し、同年より欧米に留学し、シカゴ大学などで在外研究に従事。シカゴ大学ではロバート・E・パークの講義を受けて、その影響を受けた。1922年10月に帰国。東京帝国大学文学部助教授に昇進。
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梶原 貫五(かじわら かんご、1887年3月6日 - 195… 梶原 貫五(かじわら かんご、1887年3月6日 - 1958年12月14日)は、日本の洋画家である。 福岡市出身。福岡県立中学修猷館を中退。1910年上京して東京美術学校西洋画科に入学し、黒田清輝や藤島武二に師事する。在学中の1914年には東京大正博覧会に「化粧の後」を出品し受賞。同年の第3回光風会展に「女」を出品、1916年第4回光風会展では初入選を果たす。1916年3月東京美術学校を卒業。 1917年光風会第5回展に「裸体」で今村奨励賞を受賞、1928年光風会々友、1931年第18回展で光風会会員となる。 官展には、1916年第10回文部省美術展覧会(文展)に「縁陰」「窓際」が初入選となり、第11回文展「想韻」、文展の後身である帝国美術院展覧会(帝展)は、1922年第4回展「九月の日」を出品以来毎年出品し、第5回帝展「芽立ち頃」、第7回展「赤い日傘」などが主な作品である。
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田村 幸策(たむら こうさく、1887年(明治20年)3月5… 田村 幸策(たむら こうさく、1887年(明治20年)3月5日 - 1985年(昭和60年)2月21日)は、大正・昭和前期の日本の外交官。 山口県大島郡に生まれる。1906年、山口高等商業学校(現・山口大学経済学部の前身)を卒業。1907年、高等文官試験に合格し「書記生」で外務省に入省する。 1914年に外交官領事官試験に合格して、キャリア組に昇格する。安東総領事館、奉天総領事館、在英国日本国大使館に勤務した。チェコスロバキア代理公使/広東領事館・総領事を最後に1925年に退官し、日本生命保険東京支店長を務めた。 1941年に東京帝国大学法学博士の学位を取得。戦後は、1949年から中央大学法学部教授(国際法担当)、1963年から国士館大学教授をそれぞれ務めた。
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伊藤 武夫(いとう たけお、1887年〈明治20年〉3月4日… 伊藤 武夫(いとう たけお、1887年〈明治20年〉3月4日 - 1968年〈昭和43年〉3月4日)は、日本の砂防工学者、農林技師。林学博士。東京帝国大学農学部林学科林学第四講座 第3代教授、新潟県立農林専門学校 第2代校長。新潟大学名誉教授。位階は正三位。 1887年(明治20年)3月4日に新潟県古志郡長岡東神田町2丁目(現 長岡市東神田2丁目)の旧越後長岡藩藩士・伊藤亀之助の次男として出生。 1906年(明治39年)3月に新潟中学校を卒業、1907年(明治40年)9月に第一高等学校に入学、1910年(明治43年)7月に卒業、1913年(大正2年)7月に東京帝国大学農科大学林学科を卒業、9月に東京帝国大学農科大学大学院に入学。
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宮坂 英弌(みやさか ふさかず、1887年3月4日 - 19… 宮坂 英弌(みやさか ふさかず、1887年3月4日 - 1975年6月11日)は、日本の考古学者、茅野市尖石縄文考古館初代館長。 長野県考古学会初代会長。茅野市名誉市民。 長野県諏訪郡豊平村(現茅野市)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業。 1922年に泉野尋常高等小学校(現在の茅野市立泉野小学校)の代用教員となる。このころ俳人、小平雪人が主宰する句会「牧馬会(まきばかい)」に入会。以後小学校教員、中学校教員を務め、1929年、伏見宮博英王の八ヶ岳西側山麓の茅野市の尖石・与助尾根遺跡の発掘を、小平雪人とともに手伝う。その事から考古学の魅力に目覚め、研究を続ける。1930年宮坂が独力で尖石・与助尾根遺跡を発掘、縄文時代中期の集落(ムラ)研究の基礎を築いた。
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大塚 節治(おおつか せつじ、1887年3月3日 - 197… 大塚 節治(おおつか せつじ、1887年3月3日 - 1977年11月18日)は、大正・昭和期のキリスト教神学者。文学博士(1949年)。旧姓は沖田。同志社第13代総長。 1887年(明治20年)広島県高宮郡飯室村(現在の広島市安佐北区安佐町)で沖田惣左衛門の六男に生まれる。1912年(明治45年)に愛媛県伊予郡中山村(現在の伊予市中山町)の大塚家の養子となる。 広島県師範学校講習部から1903年同志社普通学校に入学。1905年日野真澄から受洗。1909年同志社普通学校を卒業して同志社神学校に入学。1912年に渡米し、ユニオン神学校、コロンビア大学で学び、マスター・オブ・アーツの学位を受ける。帰国後の1919年に専門学校令による同志社大学神学部教授、翌年大学令による同志社大学文学部神学科教授となり、多くの著書、論文を発表、キリスト教倫理学および組織神学を講じた。
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長田 幹彦(ながた みきひこ、1887年3月1日 - 196… 長田 幹彦(ながた みきひこ、1887年3月1日 - 1964年5月6日)は、日本の小説家、作詞家。
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曾禰 武(曽祢 武、そね たけ、1887年(明治20年)3月… 曾禰 武(曽祢 武、そね たけ、1887年(明治20年)3月1日 - 1988年(昭和63年)9月23日)は、日本の物理学者。東京生まれ。最初の弟子として本多光太郎に師事し、日本の黎明期における近代的な実験物理学に功績を残す。曾禰は胸の疾患により研究が困難になったため後世で忘れ去られていたが、第17代東京大学総長茅誠司が幾度も言及したことにより彼の業績が注目されるに至った。立教大学で教授を務め、理学部の礎を築き、開成中学校・高等学校では校長を務めた。父は建築家・曽禰達蔵、弟は政治家・曾禰益。母は高橋是清の義理の妹。 開成中学を経て、1904年に一高へ入学。1907年4月21日、一高の最終学年3学期にキリスト教へ入信。
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鳴海 周次郎(なるみ しゅうじろう、旧姓・平山、1887年(… 鳴海 周次郎(なるみ しゅうじろう、旧姓・平山、1887年(明治20年)3月1日 - 1969年(昭和44年)7月25日)は、日本の政治家、実業家、青森県多額納税者。青森県西津軽郡会議員。貴族院議員。鳴海銀行頭取。陸奥銀行、松木屋呉服店、津軽酒造各取締役。青森貯蓄銀行、第五十九銀行、金木銀行各監査役。立誠銀行、金兵衛銀行各頭取・鳴海廉之助の養孫。 青森県北津軽郡栄村(現・五所川原市)出身。平山雄太郎の二男、或いは三男。平山為之助の弟。古川和三郎の養子となり1920年、祖父・鳴海廉之助の後を承け家督を相続した。農業を営み、会社重役を務めた。 また、西津軽郡会議員、車力村会議員、青森県山林会評議員、同県産馬畜産組合連合会評議員、西北産馬組合副組長などを歴任し、1925年9月29日、貴族院多額納税者議員に選出され、交友倶楽部に所属、1932年9月28日まで一期務めた。
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松本 良一 (まつもと りょういち、1887年3月 - 没年… 松本 良一 (まつもと りょういち、1887年3月 - 没年不詳)は、日本の船舶工学者。 東京帝国大学第二工学部教授。東京大学工学部教授。 修猷館教諭を務めた松本豊太郎の長男として、福岡市に生まれる。1905年福岡県立中学修猷館、1910年7月第七高等学校造士館工科を経て、1913年7月東京帝国大学工科大学造船学科を卒業。 1913年三菱重工業に入社。1919年英国に留学し、神戸造船所参事、造船設計課長、造船設計部長を経て、1940年3月神戸造船所副長に就任。 1942年4月東京帝国大学に、第二次世界大戦が激化する当時の情勢下において、軍事産業を支える工学者や技術者を養成するために、第二工学部が設置されると、その教授に招聘され就任する。
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三神 八四郎(みかみ はちしろう、1887年〈明治20年〉2… 三神 八四郎(みかみ はちしろう、1887年〈明治20年〉2月28日 - 1919年〈大正8年〉12月7日)は、山梨県中巨摩郡大鎌田村(現・甲府市)出身の男子テニス選手。日本における硬式テニスの導入を最も早く提言した人物であり、早稲田大学の「三神記念コート」にその名を残している。 豪族で甲府電灯会社(後に東京電力が吸収合併)の創業者である父・三神有長、母・三神とよの間に生まれる。上に姉4人、兄3人がいたため、8番目の子どもで四男、という意味で「八四郎」と名付けられた。アメリカのプロ野球チーム「オール・ネイションズ」でプレーした三神吾朗は、彼の弟である。 早稲田中学(現・早稲田高等学校)を経て早稲田大学に入学。
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正木 不如丘(まさき ふじょきゅう、1887年2月26日 -… 正木 不如丘(まさき ふじょきゅう、1887年2月26日 - 1962年7月30日)は、日本の作家・医師。本名・俊二(不如丘は俳号または筆名)。医学博士。結核専門の高原サナトリウム富士見高原療養所初代院長として知られる。 長野県上水内郡長野村(現長野市)に旧上田藩士・正木直太郎の次男として生まれる。父は長野県師範学校、埼玉県師範学校 香川県師範学校の各校長を歴任。母は旧岩村田藩士の娘。小学校時代に派遣教員の島木赤彦より俳句の影響を受け、その後文筆にも親しむ。 埼玉県師範学校附属小学校、旧制獨逸学協会中学、第一高等学校を経て、1913年東京帝国大学医学部卒、恩賜の銀時計を賜る。福島市の福島共立病院副院長を経て、1920年パリのパスツール研究所に学ぶ。
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山田 順策(やまだ じゅんさく、1887年(明治20年)2月… 山田 順策(やまだ じゅんさく、1887年(明治20年)2月23日 - 1961年(昭和36年)6月19日)は、日本の政治家、実業家、歯科医師。衆議院議員(2期)、旧静岡市長(1期)。 歯科医、自動車業、金融関係など、多種の業績に貢献した。 1887年(明治20年)、静岡県庵原郡瀬名村(現・静岡市葵区)で生まれる。1906年(明治39年)、静岡県立静岡中学校を卒業し東京歯科医学専門学校(現・東京歯科大学)に進学する。1911年(明治44年)、東京歯科医学専門学校を卒業し歯科医となる。1912年(大正元年)、静岡市に歯科医院を開業。 1921年(大正10年)、静岡市会議員となり政治家として活動を開始する。
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松本 泰(まつもと たい、1887年2月22日 - 1939… 松本 泰(まつもと たい、1887年2月22日 - 1939年4月19日)は、日本の小説家、推理作家、翻訳家。本名は松本 泰三(まつもと たいぞう)。 妻の松本恵子も作家で、北海道庁初代水産課課長伊藤一隆の二女。 東京府芝区に生まれる。慶應義塾大学部文学科卒業。学生時代の1911年に、少年を主人公にした自伝的小説「樹陰」を『三田文学』に発表し、『スバル』や『雄弁』などにも同傾向の作品を執筆した。これらはのちに最初の作品集『天鵞絨』(籾山書店、1913年3月)にまとめられた。同書刊行の1913年にイギリスへ遊学、1919年に帰国した。帰国後は、髙島屋に勤務しながら、『三田文学』などを舞台に、英国での経験を材料にした創作を発表した。
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北沢 新次郎(きたざわ しんじろう、1887年2月21日 -… 北沢 新次郎(きたざわ しんじろう、1887年2月21日 - 1980年1月3日)は、日本の経済学者、社会運動家、早稲田大学名誉教授。労働問題、社会政策を専門とし、東京経済大学学長なども務めた。 東京出身。府立三中(現東京都立両国高等学校)を経て早稲田大学に学び、アメリカ合衆国へ5年間留学して、1911年に「Industrial Revolution of England and Japan」でノースカロライナ大学からM.A.を、1914年には「Japanese Finance during Russo-Japanese War」でジョンズ・ホプキンス大学からPh.D.を取得した。1915年に商学部講師として教職に就き、1916年には教授となって、「工業経済」、「社会政策」といった科目を担当しながら、実質的に労働問題についての研究教育を行なうとともに、1919年には早稲田大学の学生を中心とした学生運動団体であった建設者同盟の顧問となった。
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阿南 惟幾(あなみ これちか、1887年〈明治20年〉2月2… 阿南 惟幾(あなみ これちか、1887年〈明治20年〉2月21日 - 1945年〈昭和20年〉8月15日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功三級。1945年(昭和20年)4月に鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣に就任。大東亜戦争(太平洋戦争)末期に降伏への賛否を巡り混乱する政府で本土決戦への戦争継続を主張したが、昭和天皇の聖断によるポツダム宣言受諾が決定され、同年8月15日に割腹自決。日本の内閣制度発足後、現職閣僚が自殺したのはこれが初めてであった。 侍従武官、陸軍省兵務局長、人事局長、第109師団長、陸軍次官、第11軍司令官、第2方面軍司令官、陸軍航空総監部兼航空本部長、陸軍大臣を歴任。その人柄・人格には定評があり、昭和天皇からは信頼され、陸軍大学校同期の石原莞爾も認めるほどであった。
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高橋 統閭(たかはし のりさと、1887年(明治20年)2月… 高橋 統閭(たかはし のりさと、1887年(明治20年)2月21日 - 没年不明)は、日本の政治家。千葉県市川市長。医学博士、内科医。 山梨県出身。1911年(明治44年)岡山医学専門学校(のち岡山医科大学、現在の岡山大学医学部)卒業。卒業後は佐々木杏雲堂病院医長、岡山医学専門学校、岡山医科大学各講師となる。1923年(大正12年)千葉県東葛飾郡市川町で開業する。翌年学位を受ける。 その後、市川市医師会長を経て、1944年(昭和19年)3月市川市長に就任。市長に就任してから戦況は悪化の一途をたどり、終戦を迎えた。終戦後は市長として戦後の処理に当たっていたが、1946年(昭和21年)に市長を辞職した。
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土田 誠一(つちだ せいいち、1887年〈明治20年〉2月2… 土田 誠一(つちだ せいいち、1887年〈明治20年〉2月21日 - 1945年〈昭和20年〉10月2日)は、日本の論理学者、古神道学者、郷土史家。東京帝国大学助教授、神宮皇学館教授、旧制成蹊高等学校校長。 1887年(明治20年)、秋田県由利郡矢島町(現・由利本荘市矢島町)に生まれる。秋田師範学校では田村徳治・菊地寅七とともにクラスの三羽烏に数えられた。1907年(明治40年)、同校を卒業し、東京高等師範学校英語科を経て、1915年(大正4年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業した。井上哲次郎の門下生であった。東京帝国大学大学院へと進み、1919年(大正8年)、東京帝国大学文科大学助教授となる。
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渡辺 仁(わたなべ じん、1887年(明治20年)2月16日… 渡辺 仁(わたなべ じん、1887年(明治20年)2月16日 - 1973年(昭和48年)9月5日)は、近代日本の建築家。作品のスタイルは歴史主義様式のほか、表現派、帝冠様式、初期モダニズムと多岐にわたっている。主要作品には服部時計店、東京帝室博物館(原案)、第一生命館などがある。記念碑的な建築物を設計した。 1887年(明治20年)2月16日 新潟県佐渡生まれ。東京育ち。父は渡辺渡(後に東京帝国大学工科大学校長)。 1912年(明治45年)7月 東京帝国大学工科大学建築学科を卒業。卒業後、鉄道院に務めた。 1917年(大正6年)12月 逓信省入省。大臣官房経理局営繕係勤務。1920年退職。 1920年(大正9年)4月 独立し、渡辺仁建築工務所開設。
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新見 政一(にいみ まさいち、1887年〈明治20年〉2月1… 新見 政一(にいみ まさいち、1887年〈明治20年〉2月14日 - 1993年〈平成5年〉4月2日)は、日本の海軍軍人、戦史研究家。最終階級は海軍中将。 広島県広島市安佐北区出身。農業・醤油製造業の新見千五郎の二男として誕生。妻の澄子は小林躋造海軍大将の妹。旧制広島県立忠海中学校より海軍兵学校第36期入校。席次は入校時200名中35番、卒業時191名中14番。同期生の水戸春造海軍中将は中学同窓でもある。新見は海軍砲術学校高等科を修了し、同校教官を務めた砲術専攻士官であり、またオックスフォード大学で国際法を学んだ日本海軍有数の知英派である。 駐英武官補佐官在任中に第一次世界大戦の戦史研究を行い、帰国後『海軍中央軍令機関整備ノ意見書』および『持久戦ニ関スル意見書』を当局に提出した。
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青木 正児(あおき まさる、旧字体: 靑木 正兒、1887年… 青木 正児(あおき まさる、旧字体: 靑木 正兒、1887年(明治20年)2月14日 - 1964年(昭和39年)12月2日)は、大正から昭和中期の中国学者・中国文学者。日本学士院会員。山口県下関市出身。字は「君雅」。号に「迷陽」があり、「迷陽先生」とも呼ばれた。 年譜は『青木正児全集』最終10巻末ほかに収録されている。 1887年(明治20年)2月14日、山口県下関市で漢方医・青木坦平の次男として生まれた。父・坦平には支那趣味があり、南画家を自宅に招いたり、妻や娘に琵琶など中国の楽器を習わせるなどしており、青木正児も幼少期より文学や美術を好んだ。1905年、山口県立豊浦中学校を卒業し、同年9月に第五高等学校第一部(現:熊本大学)に入学。
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折口 信夫(おりくち しのぶ〈のぶを〉、1887年〈明治20… 折口 信夫(おりくち しのぶ〈のぶを〉、1887年〈明治20年〉2月11日 - 1953年〈昭和28年〉9月3日)は、日本の民俗学者、国文学者、国語学者であり、釈迢空(しゃく ちょうくう)と号した詩人・歌人でもあった。 折口の成し遂げた研究は、「折口学」と総称されている。柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築いた。みずからの顔の青痣(あざ)をもじって、靄遠渓(あい・えんけい=青インク、「靄煙渓」とも)と名乗ったこともある。 1887年2月11日、大阪府西成郡木津村(現:大阪市浪速区敷津西1丁目・鷗町公園)に父秀太郎、母こうの四男として生まれた。信夫の祖父の造酒之介が、飛鳥坐神社の社家の出身ということもあり、終生、折口はそれを自慢していた(養子なので直接血縁はないと言われている)。
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高橋 泰雄(たかはし やすお、1887年(明治20年)2月1… 高橋 泰雄(たかはし やすお、1887年(明治20年)2月10日 - 1967年(昭和42年)9月6日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→日本自由党)、浦和市長(初代・第5代)。弁護士。 埼玉県北足立郡浦和町(現在のさいたま市)に衆議院議員高橋安爾の子として生まれる。1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。1919年(大正8年)、浦和に弁護士事務所を開業し、後には浦和地方裁判所所属弁護士会長を務めた。1925年(大正14年)、浦和町会議員に選ばれ、1931年(昭和6年)には浦和町長に選ばれた。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。1934年(昭和9年)、浦和町が市制を施行すると初代市長に就任した。
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菅野 力夫(すがの りきお、1887年(明治20年)2月9日… 菅野 力夫(すがの りきお、1887年(明治20年)2月9日 - 1963年(昭和38年)3月12日)は、明治末期から昭和初期にかけて活動した日本の探検家。 8回に及ぶ探検を行い、多くの国々の観光地やその他の土地を訪れ、現地人や日系人と交わった。自身の写真も同時に撮影し、一部は絵葉書としている。講演を多数おこない、旅費を稼いだ。 巨漢で身長5尺8寸(176センチメートル)、1932年に髭を剃るまでは、髭ぼうぼうで顔面を埋め、眼光炯々、三軍を叱咤する風貌であるが、幼児もなつくという性格であった。日本人で菅野をかんのと読む人は多いが、3編の新聞記事ですがのりきおとしている。 福島県安積郡喜久田村(現:郡山市)出身。
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土田 麦僊う(つちだ ばくせん、 1887年(明治20年)2… 土田 麦僊う(つちだ ばくせん、 1887年(明治20年)2月9日 - 1936年(昭和11年)6月10日)は大正~昭和期の日本画家である。 明治20年(1887年)、新潟県佐渡郡新穂村(現佐渡市新穂)の農家の三男として生まれる。本名は金二。哲学者の土田杏村(茂)は弟である。明治37年(1904年)、竹内栖鳳に弟子入り。明治44年(1911年)、京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)を卒業している。同年には小野竹喬らとともに前衛的な絵画運動の会である仮面会(ル・マスク)を結成。黒猫会に参加。文展には在学中の明治41年(1908年)から出品していた。この頃の作品にはゴーギャンの影響が見られる。
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鳥養 利三郎(とりがい りさぶろう、1887年2月8日 - … 鳥養 利三郎(とりがい りさぶろう、1887年2月8日 - 1976年9月24日 )は、日本の電気工学者。工学博士(1925年)。京都大学名誉教授。元京都大学総長。従二位勲一等、元日本学士院会員、文化功労者。京都市名誉市民。徳島県生まれ。 黎明期の日本の電気工学界を支えた重鎮。高電圧過渡現象の測定や高周波焼入に関する研究で業績を上げた。また、教育行政においても手腕を発揮し、京都大学総長・電気学会会長・大学基準協会副会長などを務めた。特に、京都大学総長としては、戦後の混乱期を支えた名総長として知られている。
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中谷 貞頼(なかたに さだより、1887年2月8日 - 19… 中谷 貞頼(なかたに さだより、1887年2月8日 - 1954年11月21日)は、日本の実業家、映画製作者、弁護士、政治家である。大正から昭和初年にかけて衆議院議員であり、日本活動写真(日活)の専務取締役、代表取締役社長として映画を製作した。衆議院議員の中谷元は孫。 1887年(明治20年)、茨城県真壁郡下妻町(現・下妻市)に元下妻藩士・中ノ内昌為の四男として生まれる。 1901年(明治34年)母の兄弟であった、もと土佐藩士で大審院判事や樺太地方裁判所長などを務めた中谷速水の養子となった。 1913年(大正2年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業した。三井物産に入社して香港支店勤務となるが辞職して台湾に移り、弁護士を開業。
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中西 伊之助(なかにし いのすけ、1887年2月8日 - 1… 中西 伊之助(なかにし いのすけ、1887年2月8日 - 1958年9月1日)は、日本の作家、労働運動家、政治家。衆議院議員を2期務めた。 1887年2月8日、京都府久世郡槇島村(現・宇治市)の農家に出生し私生児として届け出された。旧制大成中学校(5年級編入学)を経て海軍兵学校に志願するも、出自を理由に入校はならなかった。その後、中央大学、早稲田大学に入るがいずれも中退。 少年・青年時代から機関車掃除夫や陸軍宇治火薬造所職工、新聞配達、南満州鉄道社員など、多種多様な職に就く傍ら無産運動にも尽力。朝鮮で新聞記者を務めていた時代には、藤田組による鉱山労働者虐待の実態を報じ、投獄されたこともある。 帰国後の1919年に日本交通労働組合へ入り、同組合理事長として東京市電争議を主導するが、治安警察法違反により検挙投獄となる。
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石射 猪太郎(いしい いたろう、1887年2月6日 - 19… 石射 猪太郎(いしい いたろう、1887年2月6日 - 1954年2月8日)は、日本の外交官。 日中戦争初期に外務省東亜局長を務めた。戦争拡大に走る軍部に抵抗し、日中和平を試みたことで知られる。外務省東亜局長(海外の外務省では、次官補クラス、のち大東亜省)、駐タイ特命全権大使、駐ブラジル特命全権大使、駐ビルマ特命全権大使を歴任。 1887年、福島県西白河郡川崎村に石射文五郎の長男として生まれた。福島中学(現:福島県立福島高等学校)を経て、1908年、東亜同文書院を卒業し満鉄に入社。その後父の仕事を手伝うべく退社したが、父が事業に失敗し失業。岳父(福島県山白石村の農家で多額納税者)から生活援助を受けながら外交官及領事官試験の勉強に励み、2回目の挑戦で合格した。
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井上 三郎(いのうえ さぶろう、1887年(明治20年)2月… 井上 三郎(いのうえ さぶろう、1887年(明治20年)2月6日 - 1959年(昭和34年)6月4日)は、日本陸軍の軍人、最終階級は陸軍少将。貴族院議員。侯爵。桂太郎の次男。井上馨は義理の祖父に当たる。
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斎藤 勇(さいとう たけし、1887年2月3日 - 1982… 斎藤 勇(さいとう たけし、1887年2月3日 - 1982年7月4日)は、日本の英文学者。位階は正三位。 文化功労者、日本学士院会員。日本英文学会第3代会長(1938年 - 1941年)。東京女子大学学長(1948年 - 1954年)。東京帝国大学名誉教授、国際基督教大学名誉教授。文学博士。孫に惨殺された(斎藤勇東大名誉教授惨殺事件)。 福島県伊達郡富野村(現伊達市梁川町)に農家の長男として生まれる。旧制福島中学校(現福島県立福島高等学校)を経て、1905年、旧制第二高等学校(現東北大学)に入学。1908年、第二高等学校卒業後、東京帝国大学文科大学(英吉利文学専修)に入学。 1911年、東京帝国大学卒業、恩賜の銀時計を受ける。
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村田 武(むらた たけし、1887年(明治20年)2月3日 … 村田 武(むらた たけし、1887年(明治20年)2月3日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。 静岡県に堀慎作の長男として生まれ、村田熊三郎の養子となった。錦城中学校、第二高等学校を経て、1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、高等文官試験に合格。和歌山県属、同警視、同理事官、同日高郡長、京都府理事官、兵庫県理事官、福岡県書記官・学務部長、和歌山県警察部長、岐阜県警察部長、山形県警察部長を歴任した。 1929年(昭和4年)に退官した後は、京都市助役を務めた。
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東家 楽燕(あずまや らくえん、本名:岡部 六弥、1887年… 東家 楽燕(あずまや らくえん、本名:岡部 六弥、1887年2月3日 - 1950年3月8日)は明治から昭和にかけて活躍した浪曲師。東京出身。
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嶋中 雄作(しまなか ゆうさく、1887年2月2日 - 19… 嶋中 雄作(しまなか ゆうさく、1887年2月2日 - 1949年1月17日)は、昭和期の出版人・編集者。中央公論社社長。奈良県生まれ。兄は社会運動家の島中雄三。 奈良県磯城郡三輪町(現在の桜井市)出身。島中雄碩の四男。社会主義運動家で文筆家だった兄雄三と混同されることが多かったため、姓を先祖の「嶋家」に因み「嶋中」に変えた。 奈良県畝傍中学(現奈良県立畝傍高等学校)を経て1912年10月に早稲田大学文学部哲学科を卒業後、恩師の島村抱月、金子筑水両教授の推薦で中央公論社に入社した。1913年、『中央公論』の婦人問題特集号を企画、これが成功したことを追い風にして1916年、『婦人公論』の創刊にこぎつけ編集長となる。
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竹下 豊次(たけした とよじ、1887年(明治20年)2月2… 竹下 豊次(たけした とよじ、1887年(明治20年)2月2日 – 1978年(昭和53年)4月25日)は、大正から昭和期の官僚、政治家。貴族院多額納税者議員、参議院議員(緑風会)。 宮崎県南那珂郡西方村(福島村大字西方、福島町を経て現串間市)出身。1904年(明治37年)旧制宮崎県立宮崎中学校(現 宮崎県立宮崎大宮高等学校)卒業。1907年(明治40年)旧制第七高等学校造士館卒業。1911年(明治44年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、大学院に学んだ。1912年(大正元年)高等試験行政科に合格し、翌年に福岡県属警部となった。以後、同県警視、製鉄所副参事、同参事、農商務省工場監督官、同書記官・工場課長を歴任した。
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酒匂 秀一(さかわ しゅういち、1887年(明治20年)2月… 酒匂 秀一(さかわ しゅういち、1887年(明治20年)2月2日 - 1949年(昭和24年)7月23日)は、日本の外交官。ロシア通として知られ、南洋協会理事長等を務めた。 1909年に東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後、同校専攻部に進学。同期の大島堅造(のちに住友本社取締役)や1期上の熊崎恭(のちにニューヨーク総領事)とは英語教師のフレデリック・イーストレイクや、高商時代のドイツ語教師だったリヒャルト・ハイゼの家に遊びに行くなど親しかった。 駐ポーランド特命全権大使在任中、ナチス・ドイツによるポーランド侵攻を前に、1939年(昭和14年)1月ナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラー総統とポーランド外務大臣ユゼフ・ベック大佐の直接会談を実現。
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中野 友禮(なかの とものり/ゆうれい、1887年2月1日 … 中野 友禮(なかの とものり/ゆうれい、1887年2月1日 - 1965年12月10日)は、日本の実業家。中野 友礼または中野 有礼としている場合もあり、読みも「とものり」ではなく「ゆうれい」としている場合もある。中野式食塩電解法の開発を契機に日曹コンツェルンを築く。 福島県大沼郡川西村(現:三島町)西方の旧会津藩士の家に生まれる。神尾彦之進の二男で、幼児に中野家の養子になった。旧制会津中学校(現:福島県立会津高等学校)を卒業後、一高の臨時中学校養成所に進んだ。その後、1908年(明治41年)、京都帝国大学理学部化学教室助手となり、中野式食塩電解法(電解ソーダ法)を開発し特許を得た。 中野はこの技術を基にして、1920年(大正9年)に日本曹達を設立し、苛性ソーダ、さらし粉の生産を開始した。
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金井 滋直(かない しげなお、1887年〈明治20年〉2月1… 金井 滋直(かない しげなお、1887年〈明治20年〉2月1日 - 1979年〈昭和54年〉12月3日)は、日本の実業家。興国人絹パルプ社長を務めた。 埼玉県大里郡大寄村(のちの深谷市)生まれ。旧制群馬県立前橋中学校(のちの群馬県立前橋高等学校)を経て、1911年東京高等商業学校(のちの一橋大学)卒業、東洋生命保険入社。同社業務部長、同社総務部長を経て、1931年同社常務。1936年日本曹達常務。1937年日曹人絹パルプ常務。1941年興国人絹パルプ(のちの興人)社長。1946年山陽パルプ発起人。同年同社取締役。1949年マードック賞受賞。1953年矢野恒太記念会理事。1955年経済審議会委員。
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長田 新(おさだ あらた、1887年(明治20年)2月1日 … 長田 新(おさだ あらた、1887年(明治20年)2月1日 - 1961年(昭和36年)4月18日)は、日本の教育学者。広島大学名誉教授。専門は教育思想史。現在の長野県茅野市出身。 長野県諏訪郡豊平村(現:茅野市)出身。古田小学校下古田分校では、歌人島木赤彦の父、塚原浅茅教諭の教えを受ける。長野県立諏訪中学校(現:長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)、広島高等師範学校英語科を卒業後、大分師範学校の教諭を3年務めた後、1915年(大正4年)京都帝国大学文学部卒業。澤柳政太郎のもとで新教育運動に参加し、教育の実証的実験研究を行う。旧制広島文理科大学(広島大学の前身)教授在任中の1945年(昭和20年)8月6日広島に投下された原爆に被爆し重傷を負ったが、家族や教え子の看護で九死に一生を得た。
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井上 長一(いのうえ ちょういち、1887年2月1日 - 1… 井上 長一(いのうえ ちょういち、1887年2月1日 - 1972年5月30日)は、日本の航空実業家。徳島県出身。 徳島県板野郡西条村(現阿波市吉野町西条)出身。タクシー会社経営の傍ら、1922年6月4日に大阪府堺市大浜海岸に日本航空輸送研究所を設立し、11月15日より日本最初の民間航空路線となる不定期の水上機による航空輸送路線を開設した。その後、大浜に堺水上飛行学校を設立した。日本航空輸送研究所は、国策による大日本航空株式会社の設立とともに、1939年10月31日に業務を停止した。堺水上飛行学校は1942年まで、操縦士、整備士を養成した。1952年に現在の全日本空輸の前身の一つである極東航空の設立に参加した。
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馬越 喜七(まこし きしち、1887年〈明治20年〉2月1日… 馬越 喜七(まこし きしち、1887年〈明治20年〉2月1日 - 1930年〈昭和5年〉9月20日)は、日本の海軍軍人。海軍航空草創期の搭乗員の一人であり、海軍初期国産機の製作に携わった。最終階級は海軍中佐。 愛媛県に生まれる。大洲中学校を経て1909年(明治42年)11月19日海軍兵学校(37期)を卒業、1911年(明治44年)2月27日海軍少尉任官。1912年(大正元年)中尉任官、1914年(大正3年)3月海軍航空術研究委員会練習将校(3期生)。同年の青島攻囲戦では水上機母艦若宮飛行隊に所属した。 帰国後は飛行高度・滞空時間の記録を樹て、海軍初期の国産機開発・生産に携わった。1916年(大正5年)12月1日大尉、1922年(大正11年)少佐、1927年(昭和2年)11月29日中佐に昇任したが、病を得て1930年(昭和5年)1月15日に予備役に編入され、同年9月20日に没した。
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今見 昇(いまみ のぼる、1887年2月 - 没年不詳)は、… 今見 昇(いまみ のぼる、1887年2月 - 没年不詳)は、日本の林業技術者、実業家。 士族前田実穂の二男として福岡県に生まれ、1897年今見義勇の養子となる。1907年福岡県立中学修猷館を経て、1916年東北帝国大学農科大学林学科を卒業。 1916年朝鮮総督府営林廠技手となるが、フィリピンのマニラ麻会社の支配人に迎えられる。ここで、後に南洋興発を設立する松江春次が南洋視察に訪れ、今見が南洋諸島を案内したことで親交を深めた。その後、このマニラ麻会社が倒産したため、南洋庁産業試験場技師を経て、1930年樺太庁技師となり、農林部林業課長を務めた。 1937年7月退官し、松江に迎えられ南洋興発技師となり、1941年12月取締役に就任。
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村山 勇三(むらやま ゆうぞう、1887年2月 - 1958… 村山 勇三(むらやま ゆうぞう、1887年2月 - 1958年)は、日本の英文学者、翻訳家。 佐賀県佐賀郡嘉瀬村(現・佐賀市)生まれ。長崎のキリスト教学校を出て、1913年早稲田大学英文科卒。片上天絃に師事し、『ドン・キホーテ』の下訳をした(木村毅『私の文学回顧録』)。「蠢動」などの小説を書く。海軍軍令部嘱託。のちエドワード・ギボン『ローマ帝国衰亡史』など多くの英文学の翻訳をおこなう。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
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加藤 勝康(かとう まさやす、1887年2月 - 1956年… 加藤 勝康(かとう まさやす、1887年2月 - 1956年8月30日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 福井県出身。福井県立武生中学校(現・福井県立武生高等学校)で学ぶ。製糸業を営み、武生町実業会会頭、同町政調査委員、福井県会議員となる。 1924年1月、福井4区から高島七郎右衛門の死去による補欠選挙で立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1956年に死去した。
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河端 作兵衛(かわばた さくべえ、1887年(明治20年)2… 河端 作兵衛(かわばた さくべえ、1887年(明治20年)2月 - 1955年(昭和30年)11月19日)は、大正から昭和期の実業家。河端製作所創立者、貴族院勅選議員。正五位。 東京出身。1912年(明治45年)慶應義塾大学法学部卒業後、1936年(昭和11年)に電気通信機部品等を製造する河端製作所を設立。戦時下で軍需会社を中心に、高周波用セラミックコンデンサを唯一扱う会社となった。以後、精密分野に従事し、現在の村田製作所に繋がる、森安静太や佐藤彦八(佐藤航空無線器材製作所 (現・太陽誘電)創設者)など数多くの技術者を河端製作所で育てた。 1946年(昭和21年)8月21日に貴族院議員に勅選され、交友倶楽部に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
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岡空 林太郎(おかそら りんたろう、明治20年(1887年)… 岡空 林太郎(おかそら りんたろう、明治20年(1887年)2月 - 没年不明)は日本の実業家。岡空家三代目。岡空商店代表者。酒造業並金物商。鳥取県多額納税者。 千代むすび酒造社長岡空晴夫の祖父。 現在の鳥取県境港市出身。先代・林太郎の二男。酒造業並金物商を営み鳥取県多額納税者に列す。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
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小川 孝喜(おがわ たかよし、1887年(明治20年)1月3… 小川 孝喜(おがわ たかよし、1887年(明治20年)1月30日 - 1950年(昭和25年)11月18日)は、日本の政治家。立川町(現:立川市)の初代町長、立川市の初代市長である。
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高堂 国典(、1887年(明治20年)1月29日 - 196… 高堂 国典(、1887年(明治20年)1月29日 - 1960年(昭和35年)1月22日)は、日本の俳優。本名は谷川 佐市郎()。一時は高堂 黒天の芸名で活動していた。通り名は「こくてん」。 戦前は帝国キネマと市川右太衛門プロダクションで活躍し、戦中から戦後にかけて東宝に出演した。老け役として個性を発揮し、様々な作品に脇役で活躍。黒澤明作品の常連の一人でもある。 兵庫県高砂市に生まれる。 関西学院中学部中退後の1901年(明治34年)新派の村田正雄の門下に入り、大阪横井座で初舞台を踏んだ後地方巡業で各地を回る。 1923年(大正12年)帝国キネマ小阪撮影所現代劇部に入社後本格的に映画俳優として活動を始め、『呪いの船』『復讐鬼』『星は乱れ飛ぶ』といった作品に出演する。
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緒方 規雄(おがた のりお、1887年1月28日 - 197… 緒方 規雄(おがた のりお、1887年1月28日 - 1970年2月6日)は、日本の医学者、細菌学者。 東京府出身。父は衛生学者、細菌学者である緒方正規。1916年に東京帝国大学医科大学を卒業。その後、父のもとで細菌学を学び、東大副手、助手を務め、1919年に千葉医学専門学校の教授となった。1922年にドイツに留学した。帰国後の1924年に千葉医科大学の教授となった。その後は、帝国女子医学専門学校教授、東邦大学医学部教授、日本歯科大学教授を歴任した。 1927年にウサギの睾丸にツツガムシ病患者の血液を接種し、睾丸から睾丸へ継代することにより、ツツガムシ病の病原を患者から研究室に確実に持ち込むことに初めて成功した。
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