佐々木精治郎(ささき せいじろう、1885年〈明治18年〉1… 佐々木精治郎(ささき せいじろう、1885年〈明治18年〉12月8日 - 1971年〈昭和46年〉11月28日)は、日本の画家。岩手県江刺郡黒石村出身。 ロサンゼルス美術学校、ニューヨーク美術学院を卒業し、帰国。それ以降も渡欧などを経て、多くの展覧会出品や個展を開催する。 パステル画を中心とした作品が特徴である。 1885年12月8日、岩手県江刺郡黒石村長根(現:奥州市水沢黒石町字長根)の農家に7人兄弟の次男として生まれる。実家はかつて庄屋を務めるほど豪農である。1892年ごろ黒石村立博文尋常小学校(のちの奥州市立黒石小学校)に入学し、熊野神社神主より漢学を学んだ。卒業後、当時村内には高等小学校が無いため、胆沢郡前沢町の前沢尋常高等小学校へ進み、のちに七光社同人となる村上隆一と自炊生活を始めた。
富田 愛次郎(とみた あいじろう、1885年(明治18年)1… 富田 愛次郎(とみた あいじろう、1885年(明治18年)12月5日 - 1954年(昭和29年)11月3日)は、日本の内務官僚、政治家。県知事、衆議院議員。 愛知県出身。富田治郎右衛門の三男として生まれる。第四高等学校を経て、1913年、京都帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1912年11月、文官高等試験行政科試験に合格。大学卒業後、内務省に入り京都府属となる。 以後、京都府警視、埼玉県理事官、同視学官、内務省警保局事務官兼内務書記官、社会局第一課長、同書記官、同労働部長、同社会部長、中央職業紹介事務局長などを歴任。 1935年1月、三重県知事に就任。1937年1月、広島県知事に転じた。
飛鳥井 雅四(あすかい まさし、1885年〈明治18年〉12… 飛鳥井 雅四(あすかい まさし、1885年〈明治18年〉12月4日 - 1974年〈昭和49年〉7月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1885年(明治18年)に東京府で生まれた。陸軍士官学校第18期、陸軍砲工学校高等科第16期(優等)卒業。1914年(大正3年)に、東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。 イギリス駐在を経て、1928年(昭和3年)8月に陸軍通信学校研究部主事に就任し、1930年(昭和5年)3月6日に陸軍工兵大佐に進級、8月1日に電信第2連隊長に転じた。1932年(昭和7年)4月に近衛師団司令部附となり、日本大学に配属された。 1933年(昭和8年)8月に陸軍砲工学校教官に転じ、1934年(昭和9年)8月1日に陸軍少将に進級と同時に津軽要塞司令官に着任。
坂口 康蔵(さかぐち こうぞう、1885年(明治18年)12… 坂口 康蔵(さかぐち こうぞう、1885年(明治18年)12月2日 - 1961年(昭和36年)7月28日)は、日本の医師・内科医学者・政治家。東京帝国大学教授や貴族院勅選議員を務めた。 東京府出身。1910年(明治43年)、東京帝国大学医科大学を卒業し、附属病院副手、伝染病研究所技手、東京帝国大学助手を経て、1919年(大正8年)に東京帝国大学講師となった。同年、医学博士号を受ける。1926年(大正15年)より欧米に留学し、1928年(昭和2年)に帰国したのち、東京帝国大学助教授、東京警察病院院長となった。その後、同大学教授、同医学部附属病院院長、同医学部長となり、1946年に定年退官した。1946年から1956年まで厚生技官となり、国立東京第一病院院長、国立東京第一病院附属高等看護学院長を務めた。
今井 博茂(いまい ひろしげ、1885年12月1日 - 19… 今井 博茂(いまい ひろしげ、1885年12月1日 - 1935年7月29日)は、日本の造兵技術者。海軍造兵少将。 福岡県出身。1905年福岡県立中学修猷館、1909年7月第五高等学校工科を経て、1912年7月東京帝国大学工科大学造兵学科を卒業。東大在学中の1911年2月、海軍造兵学生試験に合格。 1912年海軍造兵技士として呉海軍工廠に入り、呉海軍工廠砲熕部部員、舞鶴海軍工廠造兵部部員を務めた後、1918年造兵監督官として米国に出張。帰国後、佐世保海軍工廠造兵部部員、呉海軍工廠砲熕部部員などを務め、1929年11月海軍造兵大佐に累進し、横須賀海軍工廠造兵部部員となる。1932年10月呉海軍工廠砲熕部部員を経て、1934年11月佐世保海軍工廠造兵部長に就任する。
大藪 虎亮(おおやぶ こりょう、1885年12月1日 - 1… 大藪 虎亮(おおやぶ こりょう、1885年12月1日 - 1966年)は、日本の国文学者。号は紫牛。 福岡県出身。1905年福岡県立尋常中学修猷館、1909年第五高等学校英語文科を経て、1912年東京帝国大学文科大学国文学科を卒業。 1920年第四高等学校教授に就任し、国語を講じる。1935年旧制広島高等学校教授に転じて、国語を講じる。
平田 昇(ひらた のぼる、1885年12月1日 - 1958… 平田 昇(ひらた のぼる、1885年12月1日 - 1958年5月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
池田 蔵六(いけだ ぞうろく、1885年〈明治18年〉12月… 池田 蔵六(いけだ ぞうろく、1885年〈明治18年〉12月1日 - 1940年〈昭和15年〉4月12日)は、日本の大蔵・台湾総督府官僚。台湾総督府専売局長、同財務局長。 東京府東京市出身。1910年(明治43年)、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業し、高等文官試験に合格した。専売局書記、参事補、副参事、参事を務め、三田尻専売局長、徳島専売局長、岡山専売局長、専売局煙草課長を歴任した。その後、台湾総督府専売局参事に転じ、1929年(昭和4年)には専売局長となった。翌年には財務局長に就任した。 退官後は東洋葉煙草株式会社社長を務めた。
園部 マキ(そのべ まき、明治18年(1885年)12月1日… 園部 マキ(そのべ まき、明治18年(1885年)12月1日 - 昭和19年(1944年)1月)は、保育事業家。 大正3年(1914年)に、京都市最初の保育園を開設した。 明治18(1885)年12月1日、宮崎県高鍋で士族の家庭に生まれる。旧姓は、藤田。 明治33(1900)年に、同志社女学校(現在の同志社女子大学)入学し、明治38(1905)年、に卒業する。同年、京都看病婦学校1年に編入し、同年5月には渡米、フィラデルフィアの一致協会附属看護学校(Presbyteriam Hospital of Nursing)に留学する。 明治42(1909)年4月、卒業。その後、社会施設事業等を見学視察し、同年11月に帰国。
有村 慎之助(ありむら しんのすけ、1885年〈明治18年〉… 有村 慎之助(ありむら しんのすけ、1885年〈明治18年〉12月 - 1960年以降没)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の電気技術者、実業家。大同電力取締役兼営業部長・工務部長などを務めた。福井県出身。 有村慎之助は、1885年(明治18年)12月、福井県人・有村静江の次男として生まれた。1906年(明治39年)7月金沢の第四高等学校第二部工科を卒業、次いで1909年(明治42年)7月東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。 大学在学中の実習で、富士水電という静岡県東部の電力会社が行っていた発電所建設工事に関わったことから、富士水電に懇望されて卒業後はそのまま同社に技師として入社した。
藤山 竹一(ふじやま たけいち、1885年(明治18年)12… 藤山 竹一(ふじやま たけいち、1885年(明治18年)12月 - 1930年(昭和5年)2月12日)は、佐賀県出身の日本の内務・警察官僚。政友会系官選県知事。板垣退助伯爵彰徳会(日光板垣会)初代名誉会長。 佐賀県出身。大地主・藤山ミスの三男として生まれた。第五高等学校を卒業。1910年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し富山県属となる。 1911年4月、富山県試補となる。以後、同事務官補、同教育課長、同警視・警察部警務課長、和歌山県理事官・学務課長、同視学官などを経て、1918年1月、福島県警察部長に就任。1919年6月に休職。
近藤 民雄(こんどう たみお、1885年(明治18年)11月… 近藤 民雄(こんどう たみお、1885年(明治18年)11月30日 - 1967年(昭和42年)7月20日)は、日本の商法学者。
宇野 円空(宇野圓空、うの えんくう、1885年11月27日… 宇野 円空(宇野圓空、うの えんくう、1885年11月27日 - 1949年1月1日)は、日本の宗教学者・民族学者。 1885年、京都市にある西本願寺派の尊徳寺で生まれた。東京帝国大学文科大学哲学科で学び、1910年に卒業。大学では、マルセル・モースに師事した。同年、京都帝国大学大学院へ進んだ。 1912年より佛教大学教授となった。1920年から1923年にかけて欧州(フランス、ドイツ、オランダ)に研究留学し、宗教民族学の理論的研究に従事した。1922年、龍谷大学教授となった。1926年、東京帝国大学文学部専任講師となり、1927年に助教授昇格。1934年に学位論文『マライシアニ於ケル稲米儀礼』を東京帝国大学に提出して文学博士の学位を取得。
石坂 養平(いしざか ようへい、1885年(明治18年)11… 石坂 養平(いしざか ようへい、1885年(明治18年)11月26日 – 1969年(昭和44年)8月16日)は、日本の文芸評論家、政治家。衆議院議員、埼玉県議会議員(いずれも立憲政友会)。父の石坂金一郎も政治家で、郡会議員、県会議員を務めた。 埼玉県大里郡中奈良村(後の奈良村、現在の熊谷市)に大地主の家の長男として生まれる。幡羅尋常小学校、熊谷中学校を経て1902年(明治35年)に第二高等学校に進学。1906年(明治39年)に東京帝国大学理学部に進学したが中退して、1910年(明治43年)に同文科大学哲学科に再入学した。帝大在学時から文芸評論家として活動を始め、「新自然主義の誕生」や「鈴木三重吉論」などの文学論を発表して中央文壇に認められた。
高階 研一(たかしな けんいち、明治18年〈1885年〉11… 高階 研一(たかしな けんいち、明治18年〈1885年〉11月25日 - 昭和42年〈1967年〉10月4日)は、明治時代末期から昭和時代後期にかけて活躍した日本の神職。 丹生川上神社宮司、石上神宮宮司、廣田神社宮司、札幌神社宮司、諏訪神社宮司、橿原神宮宮司を歴任したほか、長野県神社協会理事、全国神職会理事、皇典講究所理事、奈良県神社庁初代庁長、神社本庁第3代事務総長、同理事、同顧問を務めた「神社界の重鎮」であった。 明治18年(1885年)11月25日、元豊岡藩士高階幸造を父に、兵庫県城崎郡田鶴野村に生まれた。 大学は國學院大學師範部国語漢文科に進んだ。同期には折口信夫がおり、研一と折口との交流は折口が亡くなるまで続いている。
青田 勝晴(あおた かつはる、1885年〈明治18年〉11月… 青田 勝晴(あおた かつはる、1885年〈明治18年〉11月24日 - 1944年〈昭和19年〉2月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 奈良県、現在の奈良市出身。布帛製品製造輸出業に従事し、メリヤス同業組合代議員、大阪輸出協会理事、大阪貿易同盟会理事を務めた。1919年(大正8年)9月25日に大阪府会議員に当選して、1931年(昭和6年)9月24日に退任するまで務めた。そのほか同参事会員、所得税調査委員、借地借家、小作、商事各調停委員となる。 1932年(昭和7年)の第18回衆議院議員総選挙において大阪府第3区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選した。1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員総選挙で落選した。
佐藤 博夫(さとう ひろお、1885年11月23日 - 19… 佐藤 博夫(さとう ひろお、1885年11月23日 - 1966年4月15日)は、日本の実業家。 熊本県阿蘇郡北小国村に生まれ、年少期に祖母に連れて、大阪に移住。1904年に岸和田中学を卒業。1907年に箕面有馬電気軌道に入社。 専務を経て、1936年から阪神急行電鉄社長を務め、1943年に陸上交通事業調整法による京阪電気鉄道との統合により、京阪神急行電鉄社長に就任した。 1946年11月に公職追放を受け、社長を辞任したが、1951年に会長として、阪急に復帰し、1951年に阪急不動産の社長に就任し1957年に東宝の会長に就任。1956年に交通文化賞を受賞し、1964年には勲三等旭日中綬章を受章した。
田中 正太郎(たなか しょうたろう、1885年(明治18年)… 田中 正太郎(たなか しょうたろう、1885年(明治18年)11月23日 - 1965年(昭和40年)1月17日)は、大正から昭和時代の政治家、教育者、実業家。北海道勇払郡苫小牧町長、初代苫小牧市長。 札幌県新冠郡(現・北海道新冠郡新冠町)にて生まれ、1893年(明治26年)苫小牧へ移り住む。苫小牧尋常高等小学校(現・苫小牧市立西小学校)を経て、1908年(明治41年)北海道師範学校第1部(現・北海道教育大学札幌校)卒業。卒業後、直ちに母校の苫小牧尋常高等小学校の訓導となり、その後、1918年(大正7年)苫小牧東尋常小学校(現・苫小牧市立東小学校)訓導兼校長を経て、1921年(大正10年)苫小牧東尋常高等小学校の校長に就任する。
兼常 清佐(かねつね きよすけ、1885年〈明治18年〉11… 兼常 清佐(かねつね きよすけ、1885年〈明治18年〉11月22日 - 1957年〈昭和32年〉4月25日)は、日本の音楽評論家、文芸評論家、音楽学者。 山口県萩町土原(現:萩市土原)に生まれる。旧制山口高等学校を経て、京都帝国大学哲学科に入学。同校を1910年(明治43年)7月に卒業。卒業後、同大学大学院に進学。音楽理論と音楽美術を研究するため、一時的に東京音楽学校ピアノ科に入学し、貫名美名彦に師事する。この間に『日本の音楽』を著した。 1922年(大正11年)3月、下中弥三郎らの教員が結成した教育団体「啓明会」の研究員としてドイツに留学、1924年(大正13年)4月に帰国。 1925年「日本ノ音楽ニ就テノ一観察」により、京都帝国大学文学博士の学位を受けた。
平井 喜久松(ひらい きくまつ、1885年(明治18年)11… 平井 喜久松(ひらい きくまつ、1885年(明治18年)11月22日 - 1971年(昭和46年)1月27日)は、大正から昭和時代の土木工学者、鉄道官僚。 平井晴二郎の三男として、北海道に生まれる。1910年(明治43年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、鉄道院に奉職し北海道建設事務所勤務ののち、1915年(大正4年)から2年間アメリカへ留学する。帰朝後は、1927年(昭和2年)鉄道省工務局改良課長、1932年(昭和7年)東京改良事務所長、1934年(昭和9年)工務局長を務めた。この間、東海道線の線増、新鶴見、吹田などの操車場の建設、小樽の石炭船積設備の考案などに尽瘁した。 1939年(昭和14年)退官後は、華北交通建設局長、1944年(昭和19年)南満州鉄道副総裁を歴任した。
桐淵 勘蔵(きりぶち かんぞう、1885年〈明治18年〉11… 桐淵 勘蔵(きりぶち かんぞう、1885年〈明治18年〉11月21日 - 1973年〈昭和48年〉6月30日)は、日本の経営工学者。 群馬県藤岡市出身。1914年(大正3年)東京高等工業学校教員養成所機械科卒業。福岡県立福岡工業学校教諭を経て、1916年(大正5年)東京高等工業学校助教授となる。1923年(大正12年)、東京高等工芸学校教授に就任。1926年(大正15年)から工業経営教育のためイギリス・ドイツ・アメリカへ2年間留学。その後、長岡高等工業学校教授、今宮職工学校(大阪府立今宮工科高等学校)校長、中島飛行機株式会社青年学校、千葉工業大学教授、武蔵工業大学教授、亜細亜大学教授を務めた。1964-1966年日本経営工学会会長。
服部 岩吉(はっとり いわきち、1885年 <明治18年> … 服部 岩吉(はっとり いわきち、1885年 <明治18年> 11月20日 - 1965年 <昭和40年> 11月24日)は、大正・昭和期の政治家。初名は清太郎。なお、「岩吉」は服部家の世襲の名乗りで、本項の岩吉は2代目にあたる。位階は正四位。 滋賀県栗太郡金勝村(現在の栗東市)の酒造業の家に生まれる。膳所中学校卒業後は家業に従事していたが、28歳の時に金勝村の依頼で同村の助役となり、その後村会議員を経て金勝村村長に就任して5期務める。更に県会議員を2期務めた後に1932年の第18回衆議院議員総選挙滋賀県全県区に立憲政友会から立候補して当選、1942年の第21回総選挙には立候補しなかったものの、次の第22回総選挙では日本自由党から当選を果たし、通算4期務めた。
尾上 茂樹(おのうえ しげき、1885年(明治18年)11月… 尾上 茂樹(おのうえ しげき、1885年(明治18年)11月20日 - 1922年(大正11年)10月27日)は、日本の発明家、実業家。 東京府南足立郡北千住町(現・東京都足立区)出身。1899年(明治32年)に小学校卒業と同時に石川島造船所に研究生として入所した。その後、海軍機関兵となった。除隊後の1909年(明治42年)に名古屋に鉄工場を設立し、発電機の製作に従事した。1910年(明治43年)に尾上商会(現在のOMC株式会社)を設立した。1911年(明治44年)に大豆粕粉砕機を発明した。大豆粕粉砕機は勧業博覧会にて金牌を受賞した。
松本 本松(まつもと もとまつ、1885年(明治18年)11… 松本 本松(まつもと もとまつ、1885年(明治18年)11月19日 - 1961年(昭和36年)4月14日)は、明治から昭和期の医学者、政治家、華族。貴族院男爵議員、医学博士。 陸軍軍医総監・松本順(良順)の八男として生まれる。父の死去に伴い、1907年(明治40年)4月19日、男爵を襲爵した。 1910年(明治43年)東京慈恵会医院医学専門学校を卒業した。1916年(大正5年)からアメリカ合衆国、イギリス、フランス、ドイツ帝国、スイスに留学した。1923年(大正12年)2月26日、東京帝国大学から医学博士の学位が授与された。 1911年(明治44年)東京帝国大学医学部嘱託となり、以後、順天堂医院耳鼻咽喉科長、東京医学専門学校教授兼同附属淀橋病院耳鼻咽喉科長、順天堂医学専門学校教授、同理事、女子美術専門学校評議員などを務めた。
杉山 元治郎(すぎやま もとじろう、1885年11月18日 … 杉山 元治郎(すぎやま もとじろう、1885年11月18日 - 1964年10月11日)は、大正・昭和期の政治家・農民運動家。牧師。 大阪府泉南郡北中通村(現・泉佐野市)出身。大阪府立天王寺農学校在学中にキリスト教徒となる。卒業後和歌山県庁に入庁し、県農会の書記を務める。また同地の日本基督教会に出入りするようになる。同教会の青年たちが非戦論の演説を行い県会で問題となったあおりを受け、杉山は県庁辞職を余儀なくされ、その後東北学院神学部に入学する。 1909年卒業後、仙台市の東六番丁教会の牧師に招聘される。さらに福島県小高町の小高教会に移り、ここで月給1円50銭で牧師を務める傍ら、種苗・農機具・肥料の取次販売を行ったり、近在の村々を巡回して土壌学や肥料学の出張講義を行ったりしていた。
萬 鉄五郎(よろず てつごろう、萬 鐵五郎、1885年11月… 萬 鉄五郎(よろず てつごろう、萬 鐵五郎、1885年11月17日 - 1927年5月1日)は、大正~昭和初期の洋画家。 岩手県和賀郡東和町(現在の花巻市)出身。1907年、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。1912年、岸田劉生や高村光太郎らの結成したフュウザン会に参加している。萬は、その頃日本に紹介されつつあったポスト印象派やフォーヴィスムの絵画にいち早く共鳴した。特にフィンセント・ファン・ゴッホやアンリ・マティスらの影響が顕著であった。黒田清輝らのアカデミックな画風が支配的であった日本洋画界に、当時の前衛絵画であったフォーヴィスムを導入した先駆者として萬の功績は大きい。晩年は日本画の制作や南画の研究も行った。
萬 鉄五郎(よろず てつごろう、萬 鐵五郎、1885年11月… 萬 鉄五郎(よろず てつごろう、萬 鐵五郎、1885年11月17日 - 1927年5月1日)は大正~昭和初期の画家。
櫛田 民蔵(くしだ たみぞう、1885年〈明治18年〉11月… 櫛田 民蔵(くしだ たみぞう、1885年〈明治18年〉11月16日 - 1934年〈昭和9年〉11月5日)は、日本の経済学者。妻は女性解放運動指導者の櫛田ふき。子の櫛田克巳は朝日新聞社の学芸記者。 福島県磐城郡上小川村(現在のいわき市小川町)生まれ。福島県立磐城中学校から錦城中学に編入し、1908年、東京外国語学校卒。1912年京都帝国大学卒。 同志社大学教授、同法学部長、大阪朝日新聞論説委員を歴任。その後東京帝国大学経済学部助手となるが、1919年に高野岩三郎の勧誘を受けて大原社会問題研究所の研究嘱託となる。1920年から2年間久留間鮫造と渡欧し、主にドイツで書籍の蒐集に当たる。1922年、立教大学商学部教授に就任し、経済政策を講じた。
野尻 抱影(のじり ほうえい、本名・正英(まさふさ)、188… 野尻 抱影(のじり ほうえい、本名・正英(まさふさ)、1885年〈明治18年〉11月15日 - 1977年〈昭和52年〉10月30日)は、日本の英文学者・随筆家・天文民俗学者。早稲田大学文学部英文学科卒業。準惑星である冥王星の和訳命名者。 古今東西の星座・星名を調べ上げたことから「和製アレン」とでも言うべき存在でもあった。とくに、星の和名の収集研究で知られる。日本各地の科学館やプラネタリウムで行われる、星座とその伝説の解説には、野尻の著作が引用されることが多い。若くして文学に興味を持ち、小泉八雲に傾倒した。星の和名の収集を始めたのは40歳を過ぎてからであった。 「抱影」という雅号は、早稲田大学文学部在学中、文芸誌「白百合」に作品を掲載するにあたり前田林外が金剛経の一節「夢幻泡影」から考案し、岩野泡鳴、相馬御風と相談して決めたものである。
梅原 真隆(梅原 眞隆、うめはら しんりゅう、1885年〈明… 梅原 真隆(梅原 眞隆、うめはら しんりゅう、1885年〈明治18年〉11月11日 - 1966年〈昭和41年〉7月7日)は、日本の仏教学者。富山県滑川市寺家町の浄土真宗本願寺派梅原山専長寺27代・29代住職。龍谷大学教授、本願寺派執行、本願寺派勧学寮頭(5期)、顕真学苑主幹、京都市会議員、参議院議員(1期)、富山大学第3代学長。 父・隆乗、母・ヨシイの長男として誕生。「真隆」という名は父・隆乗が「真宗興隆」の任を果たすような僧侶になるように願って名付けられた。 生家である専長寺は鎌倉時代からの血統を受け継ぐ浄土真宗の寺院。江戸時代の繁栄当時は広大な境内地や十数間もの巨大な伽藍を擁した寺院であったが、江戸末期から明治初期にかけて町を何度も舐め尽くした大火により類焼を重ね、真隆が生まれた頃は焼け跡に建てられた粗末な仮小屋住まいという貧しい暮らしであった。
村上 義一(むらかみ ぎいち、1885年(明治18年)11月… 村上 義一(むらかみ ぎいち、1885年(明治18年)11月10日 - 1974年(昭和49年)1月20日)は、日本の官僚、政治家、実業家。日本通運社長、近畿日本鉄道社長、日本民営鉄道協会顧問、日本交通公社会長。 滋賀県東浅井郡虎姫町(現長浜市)出身。旧制第三高等学校、東京帝国大学法科大学独法科卒業。1912年に鉄道院(のち鉄道省)に入り、1927年(昭和2年)神戸鉄道局長、1928年(昭和3年)大阪鉄道局長、その後1930年(昭和5年)には南満洲鉄道(満鉄)で理事となった。 1937年(昭和12年)には朝鮮運送社長、同年10月1日発足した鉄道省系の国営企業の日本通運の副社長に、1940年には社長に就任する(1943年まで)。
片倉 直人(かたくら なおと、1885年11月9日 - 19… 片倉 直人(かたくら なおと、1885年11月9日 - 1958年10月16日)は、日本の実業家、教育者。 片倉製絲紡績株式會社取締役、伊勢萬吳服店株式會社取締役、日東紡績株式會社取締役、東部電力株式會社取締役、富國火災海上保險株式會社取締役、諏訪生絲副產株式會社取締役、備作製絲株式會社監査役、郡山商工會議所副会頭(初代)、片倉生命保險株式會社社長、学校法人松本松南高等学校理事長(第3代)などを歴任した。 長野県出身の実業家である。製糸業や金融業などで活躍し、片倉製絲紡績など多くの企業の経営に参画した。富國火災海上保險では取締役となり、片倉生命保險では社長に就任している。そのほかにも郡山商工會議所の副会頭など公的団体の役職や、松本松南高等学校を運営する学校法人の理事長などを歴任した。
田波御白(たなみ みしろ、本名:庄蔵(しょうぞう)、明治18… 田波御白(たなみ みしろ、本名:庄蔵(しょうぞう)、明治18年(1885年)11月8日-大正2年(1913年)8月25日)は、栃木県小山市出身の歌人。初期の号は「水韻」。 1885年(明治18年)、栃木県下都賀郡南小林村(みなみおばやし:現・小山市南小林)に生まれる。栃木中学校(現・栃木高等学校)に入学、中学4年生のとき雑誌『帝国少年議会議事録』に投稿したのが最初の作品とみられている。10代のときに金子薫園の白菊会に参加し、土岐善麿、吉植庄亮、平井晩村らと知り合う。その後、第六高等学校、東京帝国大学英文科に進む。 26歳の時に和辻哲郎らとともに東京帝国大学の帝国文学会委員となる。『帝国文学』に短歌の他、翻訳、創作等も発表するなど歌人として活躍し始めるが、肺結核を患い平塚の杏雲堂病院での療養を経て、七里ヶ浜の療養所にて27歳で永眠。
山下 奉文(やました ともゆき、1885年(明治18年)11… 山下 奉文(やました ともゆき、1885年(明治18年)11月8日 - 1946年(昭和21年)2月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将、位階勲等は従三位勲一等功三級。 高知県出身。陸士18期・陸大28期恩賜。太平洋戦争の劈頭、第25軍司令官としてイギリス領マレーとシンガポールを攻略した武功、「マレーの虎」の異名で知られる。 1885年(明治18年)11月8日、開業医である父・佐吉、豪農だった森田家の長女である母・由宇の次男として高知県香美郡暁霞村(現香美市)に生まれる。2歳の時、父親の故郷である長岡郡大杉村(現大豊町)に移る。兄・奉表は海軍の軍医となり最終階級は海軍軍医少将。弟・奉守、妹・照猪、妹・久寿猪の五人兄妹。
藤江 恵輔(ふじえ けいすけ、1885年(明治18年)11月… 藤江 恵輔(ふじえ けいすけ、1885年(明治18年)11月8日 - 1969年(昭和44年)2月27日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。
裏松 友光(うらまつ ともみつ、1885年(明治18年)11… 裏松 友光(うらまつ ともみつ、1885年(明治18年)11月7日 - 1949年(昭和24年)11月24日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。 陸軍将校、子爵・裏松良光の二男として生まれる。父の死去に伴い、1915年(大正4年)10月30日、子爵を襲爵した。 1911年(明治44年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。その後、内閣調査局参与、商工省参与、土木会議議員、大蔵省委員、大東亜省委員、南方開発金庫監事、南鮮合同電気監査役、朝鮮電力監査役などを務めた。 1924年(大正13年)9月27日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1946年(昭和21年)3月26日まで四期在任した。
堀越 清六(ほりこし せいろく、旧姓:高田、1885年(明治… 堀越 清六(ほりこし せいろく、旧姓:高田、1885年(明治18年)11月6日 - 1975年(昭和50年)12月20日)は、日本の鉄道官僚であり、実業家でもある。鉄道省建設局長を務めた後、建設会社である間組(現:安藤・間)の社長代行となる。岡山県高梁市出身。 1885年(明治18年)、岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)の高田浦吉の四男として出生する。その後、地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、1904年(明治37年)、旧制第六高等学校理科甲類へ進学する。1908年(明治41年)6月、同校を卒業し、同年、東京帝国大学工科大学へ進学する。1911年(明治44年)同大学土木工学科を卒業する。
石川 一郎(いしかわ いちろう、1885年(明治18年)11… 石川 一郎(いしかわ いちろう、1885年(明治18年)11月5日 - 1970年(昭和45年)1月20日)は、日本の財界人、経営者。位階は正三位。 東京帝国大学助教授、日産化学工業社長を経て、旧経済団体連合会(現日本経済団体連合会)初代会長(在任1948年(昭和23年)~1956年(昭和31年))。日産化学工業元社長、元会長。昭和電工元社長、元会長。 1885年(明治18年)11月5日、東京に生まれる。関東酸曹常務・卯一郎の長男。父・卯一郎は大坂の出身で、石川家は江戸時代、「宇田屋」という屋号の商家であった。父は関東酸曹というカセイソーダ製造の化学会社を経営した。 旧制京華中学を出て、1903年(明治36年)旧制第一高等学校工科(二部)に入学。
高松 政雄 (たかまつまさお、1885年11月5日 - 19… 高松 政雄 (たかまつまさお、1885年11月5日 - 1934年3月11日)は、日本の建築家。 曾禰達蔵・中條精一郎の曾禰中條建築事務所に入所し、丸の内のオフィスビルなどの設計に従事する。また、東京海上ビルなどの設計を行った。特に病院建築の設計監督に從事する。病院建築は造詣が深く、慶應義塾大学病院などの設計を行った。 文筆にも優れており、多くの建築評論を執筆。中條精一郎が進める建築士法制定運動の中心となって論陣を張った。日本建築士会では、建築士法制定の促進に尽くした。 1885年(明治18年)、父親の転勤先である横浜に生まれる。父親は当時神奈川県庁職員。明治31年には父の転勤にともない大阪に赴く。
野生司 香雪(のーす こうせつ、明治18年(1885年)11… 野生司 香雪(のーす こうせつ、明治18年(1885年)11月5日 - 昭和48年(1973年)3月28日)は、日本の仏教画家、仏画家である。 「野生司」の読み方は「のーす」。香雪の残した資料等の紙の上にカタカナで「ノース」と書いてあり、本人もそれが正しいと言っていたとのこと。 香川県香川郡檀紙村(現・香川県高松市檀紙町)に僧侶の長男として生まれる。本名は述太(のぶた)。父・義問、母・シカ。その後、檀紙尋常小学校(現・高松市立檀紙小学校)、堂山高等小学校を経て、香川県工芸学校(現在の香川県立高松工芸高等学校)金属工芸科に入学。卒業後、東京美術学校(現在の東京藝術大学)予備課程の金属工芸科に入る。
酒井 鎬次(さかい こうじ、明治18年(1885年)11月4… 酒井 鎬次(さかい こうじ、明治18年(1885年)11月4日 - 昭和48年(1973年)3月2日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。鎬次を「たかつぐ」と読む文献もあり、注意を要する。 愛知県出身。農業・酒井鐘之助の二男として生れる。愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、明治38年(1905年)11月、陸軍士官学校(第18期、2番/920名)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第4連隊付となる。大正元年(1912年)11月、陸軍大学校(第24期)を優等で卒業した。 陸軍省軍務局付勤務(軍事課)、フランス駐在、参謀本部員、参謀本部付(平和条約実施委員・欧州駐在)、陸大教官、近衛歩兵第2連隊付、参謀本部員、参謀本部付(国際連盟陸軍代表随員)、歩兵第22連隊長、陸大教官などを歴任し、昭和9年(1934年)3月、陸軍少将に進級。
喜安 健次郎(きやす けんじろう、1885年(明治18年)1… 喜安 健次郎(きやす けんじろう、1885年(明治18年)11月4日 – 1947年(昭和22年)8月29日)は、日本の鉄道官僚。帝都高速度交通営団総裁。 愛媛県伊予郡岡田村(現在の松前町)出身。1912年(明治45年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。鉄道院副参事、同総裁秘書、同参事、鉄道省参事官、大臣官房文書課長、鉄道書記官、鉄道監察官、大臣官房法規課長、監督局長を歴任した。1934年(昭和9年)、鉄道次官に就任し、1940年(昭和15年)まで在任した。 退官後の1941年(昭和16年)に帝都高速度交通営団副総裁に就任し、1944年(昭和19年)に総裁に昇格した。
白木 正博(しらき まさひろ、1885年11月3日 - 19… 白木 正博(しらき まさひろ、1885年11月3日 - 1960年11月2日)は、日本の医学者(産科学・婦人科学)。日本の産婦人科学界の父と呼ばれ、子宮がん治療に初めて放射線を採用したことで知られる。白木博次は次男。
久保田 勉之助(くぼた べんのすけ、1885年11月3日 -… 久保田 勉之助(くぼた べんのすけ、1885年11月3日 - 1962年3月10日)は、大正から昭和時代の日本の化学者、教育者。東京帝国大学教授、立教理科専門学校(現・立教大学理学部)教授、東邦大学理学部教授、千葉商科大学教授 1885年(明治18年)11月3日生まれ。千葉県出身。千葉県士族、久松善の二男。後に先代、太郞吉の養子となる。 1910年(明治43年)、東京帝国大学理科大学化学科を卒業。第八高等学校(現・名古屋大学の前身の一つ)教授を経て、理化学研究所研究員を務める。 1919年(大正8年)から1922年(大正11年)までフランスに留学。ポール・サバティエ(ノーベル化学賞受賞者)のもとで有機化学の研究に従事。
渡辺 豊日子(わたなべ とよひこ、1885年(明治18年)1… 渡辺 豊日子(わたなべ とよひこ、1885年(明治18年)11月3日 - 1970年)は、朝鮮総督府官僚。男性。 熊本県阿蘇郡白水村(南阿蘇村)出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。同年、高等文官試験に合格し、東京府属となった。宮城県理事官・視学官、愛知県理事官・視学官を経て、1919年(大正8年)に朝鮮総督府事務官となった。内務局第一課長、監察官・地方課長、殖産局農務課長・土地改良課長、山林部長を歴任。1930年(昭和5年)、慶尚南道知事となり、さらに学務局長に就任した。 退官後は、鮮満拓殖株式会社理事・監事を務め、1939年(昭和14年)からは朝鮮林業開発株式会社社長を務めた。
白 南薫(ペク・ナムン、朝鮮語: 백남훈/白南薰、1885年… 白 南薫(ペク・ナムン、朝鮮語: 백남훈/白南薰、1885年11月3日 - 1967年6月28日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、政治家。第5代韓国国会議員。 本貫は水原白氏。号は解慍、初名は白南勛、児名は長孫。キリスト教徒。 黄海道殷栗郡出身。19歳の時に長連公立小学校を卒業。20歳でキリスト教に入信した。1905年、長連イエス教会が設立した光進学校の教員となり、金九、蔡元瑢と共に長連郡学務委員を務め、海西教育総会の結成にも関与した。その後は儆新学校と普成学校の聴講生を経て、1913年に明治学院、1917年に早稲田大学政経科をそれぞれ卒業した。在学中に学生運動、独立運動に参加し、特に1919年の二・八独立運動を幕後で実務を担当した。
河野 暁(こうの さとる、1885年(明治18年)11月1日… 河野 暁(こうの さとる、1885年(明治18年)11月1日 - 1927年(昭和2年)10月21日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)。 広島県佐伯郡水内村(現在の広島市佐伯区)出身。第四高等学校を経て、1909年(明治42年)、京都帝国大学法科大学を卒業した。大韓帝国司法部検事、統監府判事、公州地方裁判所判事、大邱地方裁判所判事を歴任した。1911年(明治44年)、退官して広島市に弁護士事務所を開業した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
大杉 繁(おおすぎ しげる、1885年11月1日 - 197… 大杉 繁(おおすぎ しげる、1885年11月1日 - 1971年12月18日)は、日本の農学者(土壌学)。学位は農学博士(1920年)。静岡女子短期大学名誉学長、京都大学名誉教授。 盛岡高等農林学校教授、財団法人大原奨農会農業研究所化学部部長(初代)、京都帝国大学農学部教授、京都帝国大学農学部学部長(初代)、岡山農業専門学校校長(初代)、静岡県立静岡農林専門学校校長(初代)、静岡県立静岡農科大学学長(初代)、静岡大学農学部教授、静岡大学農学部学部長(初代)、静岡大学学長(第2代)、静岡大学工業短期大学部学長(初代)、静岡大学法経短期大学部学長(初代)、静岡県教育委員会委員長、静岡女子短期大学学長(第2代)などを歴任した。
日野 武雄(ひの たけお、1885年〈明治18年〉11月1日… 日野 武雄(ひの たけお、1885年〈明治18年〉11月1日 - 1938年〈昭和13年〉9月28日)は、日本および満州国の軍人。陸軍騎兵大尉で予備役編入後、満洲国軍に参加して日系軍官最初の部隊長となり少将、死後中将特進。 大分県別府市出身。本籍は速見郡南由布村。6人兄弟の末っ子で、中学卒業後に現役志願し、騎兵上等兵として日露戦争に従軍。曹長だった1910年11月、陸軍騎兵実施学校を優等卒業し、銀時計を下賜される。 1917年(大正6年)10月26日、准尉候補者1期生として陸軍士官学校を卒業し、シベリア出兵に参加。少尉任官後も騎兵第12連隊に所属したが、1922年より軍馬補充部に出向し、北海道の川上支部や宮崎県の高鍋支部部員として各地で軍馬の供給・育成に取り組んだ。
小泉 秀雄(こいずみ ひでお、1885年11月1日 - 19… 小泉 秀雄(こいずみ ひでお、1885年11月1日 - 1945年1月18日)は、日本の植物学者・登山家。高山の植物、地衣類、蘚苔類の研究で知られる。 植物学者の小泉源一は実兄。 山形県米沢市にて、旧米沢藩士の家に生まれる。盛岡高等農林学校に学ぶが中退して中学教員となった。山形県内の中学校に勤務後、1911年、北海道庁立上川中学校の教員となった。この間大雪山に登り、地形・地質の調査と植物採集を行い、日本山岳会の機関紙『山岳』に記事を寄稿し、研究調査結果を、『大雪山 登山法及び登山案内』として1926年に刊行したことから、「大雪山の父」と呼ばれるようになった。その後高知県立第三中学校を経て、長野県立女子師範学校、松本高等学校の講師となり、長野県内、関東、近畿の山岳や名勝を調査した。