高須 四郎(たかす しろう、1884年10月27日 - 19… 高須 四郎(たかす しろう、1884年10月27日 - 1944年9月2日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校35期。最終階級は海軍大将。 1884年10月27日、茨城県稲敷郡桜川村(現・稲敷市)に生まれる。旧制土浦中学校(現・土浦第一高等学校)を経て、1907年(明治40年)11月20日、海軍兵学校35期を172名中10位で卒業。1917年(大正6年)12月1日、海軍大学校甲種学生(17期)。 1923年(大正12年)6月1日、在イギリス大使館付武官補佐官。 1932年(昭和7年)5月15日、五・一五事件発生。高須は軍令部出仕兼海軍省出仕として、この事件の海軍側関係者を裁く軍法会議の判士長を務めた。
松山 基範(まつやま もとのり、1884年10月25日 - … 松山 基範(まつやま もとのり、1884年10月25日 - 1958年1月27日)は、日本の地球物理学者・古地磁気学者。山口大学初代学長。能楽師。京都大学名誉教授。理学博士(1918年)取得。1929年に世界で初めて「地球の磁場逆転現象」説を提唱したことで知られ、258万~77万年前の逆磁極期は「松山逆磁極期」と名付けられている。 大分県宇佐郡駅館村大字上田(駅川町を経て現宇佐市)の曹洞宗の寺院雲栖寺の住職であった墨江天外と末原コウの間に出生。当時は、僧職の妻帯は認められていなかったため母の姓を名乗り、1896年に父が山口県豊浦郡清末村(現下関市)の高林寺の住持になると、姓を父方に改めた。少年期を過ごし両親の墓も存在する同地には現在顕彰碑が建てられている。
中野 邦一(なかの ほういち、1884年(明治17年)10月… 中野 邦一(なかの ほういち、1884年(明治17年)10月25日 - 1965年(昭和40年)4月13日)は、日本の内務官僚、政治家、弁護士。官選県知事、衆議院議員。位階は正四位。 旧佐賀藩士・木村清の長男として佐賀県佐賀郡西与賀村(現:佐賀市)で生まれる。母が中野方蔵の姪という関係から中野家の養嗣子となった。佐賀中学校、山口高等学校を経て、1909年、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格し、内務省に入り警視庁警部となる。 以後、警視庁警視、芝西久保警察署・本郷駒込警察署・浅草南元町警察署の各署長、高知県・愛知県の各理事官、香川県警察部長、岡山県警察部長、宮城県警察部長、京都府警察部長、愛媛県内務部長、秋田県書記官・内務部長などを歴任。
白梅 文治郎(しらうめ ぶんじろう、1884年10月25日 … 白梅 文治郎(しらうめ ぶんじろう、1884年10月25日 - 1936年1月31日)は、群馬県山田郡(現在の桐生市)出身で峰崎部屋(入門時は白玉部屋)に所属した大相撲力士。最高位は西張出前頭18枚目。現役時代の体格は身長164cm、体重86kg。得意手は右四つ、投げ。 7代白玉(最高位:幕下二段目、現役名:淀川)の弟子となり、初め小枩谷の四股名で取り進んだ。序二段の1903年1月場所で白梅と改名。1907年5月場所で新十両となったが、病気がちで幕下に陥落した場所もあったものの、1912年1月場所で5勝2敗1分2休の成績を挙げると、翌5月場所に入幕して幕尻格(前頭18枚目格)の張出前頭となるが、2勝8敗と大負けして1場所限りで十両陥落。
高橋 直行(たかはし なおゆき、1884年10月24日 - … 高橋 直行(たかはし なおゆき、1884年10月24日 - 1969年2月17日)は、日本の経営者。日本酸素社長を務めた。 東京都出身。1935年に大倉高等商業学校を卒業。1924年に日本酸素支配人に就任し、取締役、常務を経て、1943年から1963年までに社長を務めた。 1955年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲三等瑞宝章を受章。 1969年2月17日老衰のために死去。84歳没。
原 孝吉(はら こうきち、1884年(明治17年)10月24… 原 孝吉(はら こうきち、1884年(明治17年)10月24日 - 1968年(昭和43年)9月22日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 福島県安積郡小原田村(小原田村大字小原田を経て現郡山市)で、原五郎八の三男として生まれる。実家が貧しかったため、幾多の困難を乗り越えて畳製造販売業を営んだ。 実業界では、東北木工社長、福島県土木建築職種別組合協議会長、同畳商工業協同組合理事長、郡山商工会議所常議員などを務め、1947年(昭和22年)全国畳商工会長に就任した。 政界では、郡山市会議員(5期)、同第5代議長(1945年6月8日から1947年4月30日まで)、福島県会議員(3期)を務めた。1947年4月、第23回衆議院議員総選挙で福島県第1区から民主党公認で出馬して当選した。
松平 穆堂(まつだいら ぼくどう、1884年(明治17年)1… 松平 穆堂(まつだいら ぼくどう、1884年(明治17年)10月22日 - 1962年(昭和37年)10月15日)は、日本の書家。以文会(現・致道博物館)理事、松平武右衛門家10代当主。黒崎研堂門下では吉田苞竹と双璧をなした。 1884年(明治17年)10月22日、塚原権平の子として、山形県東田川郡松ヶ岡(現・鶴岡市羽黒町)に生まれる。松平武右衛門家9代当主・松平久彰の養子となる。その後、黒崎研堂の門下生となり、書と詩を学ぶ。 1907年(明治40年)山形師範学校を卒業し、最上郡鮭川村小学校に勤務。1908年(明治41年)教員試験に合格し中等教員習字科の免許を取得する。1912年(明治45年)酒田高等女学校(現・山形県立酒田西高等学校)教諭。
森 矗昶(もり のぶてる、1884年〈明治17年〉10月21… 森 矗昶(もり のぶてる、1884年〈明治17年〉10月21日 - 1941年〈昭和16年〉3月1日)は、日本の実業家、森コンツェルンの創業者、衆議院議員(3期)。位階は従五位勲四等。 弟は元衆議院議員の岩瀬亮。息子に政治家の森曉(長男)、森清(四男)、森美秀(五男)、娘婿に安西正夫(長女・満江の夫)、三木武夫(次女・睦子の夫)、田中覚(三女・三重子の夫)がいる。孫に森英介(五男・美秀の息子)、安西孝之(長女・満江の息子)、高橋紀世子(次女・睦子の娘)、松崎哲久(三女・三重子の息子)がいる。 少年時代から実学で知識と技術を体得し、時にヤマカンとよばれる事業に対する嗅覚によって化学工業の先達となった叩き上げの実業家であった。
武石 浩玻(たけいし こうは、1884年(明治17年)10月… 武石 浩玻(たけいし こうは、1884年(明治17年)10月20日 - 1913年(大正2年)5月4日)は日本の飛行家。日本の民間飛行家として最初の航空事故による犠牲者でもある。本名は道之介。 茨城県那珂郡勝田村大字勝倉(現在のひたちなか市勝倉)出身。武石家は水戸佐竹藩の家老職を務めた家柄であったが、水戸徳川家では庄屋に任じられていた。 1902年(明治35年)3月、茨城県尋常中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)の卒業試験を終えるなり卒業式には出ずに、横浜港から海外へ飛び出し、商船のボーイを務めながらヨーロッパへ渡り、更に翌1903年(明治36年)には郷土の代議士・根本正からの紹介状を得て渡米した。
薬師寺 主計(やくしじ かずえ、1884年(明治17年)10… 薬師寺 主計(やくしじ かずえ、1884年(明治17年)10月20日 - 1965年(昭和40年)3月11日)は日本の建築家。 岡山県出身。1909年東京帝国大学工科建築科を卒業後、陸軍省の技師として勤務する一方で、郷里の有力者であった大原孫三郎の依頼により第一合同銀行倉敷支店(現:中国銀行倉敷本町出張所)の設計に携わった。 1926年の陸軍省退職後、大原孫三郎に招かれ倉敷絹織(現:クラレ)の取締役に就任し、その経営に参画しながら大原美術館本館や倉紡中央病院(現:倉敷中央病院)、第一合同銀行本店(現:中国銀行)などの大原家の関わる施設を中心に多くの建築を手がけた。 1884年(明治17年)、岡山県賀陽郡刑部村(現:総社市刑部)に生まれる。
西 済(西 濟、にし いつき、1884年 <明治17年> 1… 西 済(西 濟、にし いつき、1884年 <明治17年> 10月18日 - 1981年 <昭和56年> 4月27日)は、日本の経営者。十條製紙社長を務めた。位階は従四位。 長崎県平戸市出身。1906年に東京高等工業学校機械科を卒業し、同年に鈴木機械製作所に入社。 1910年に王子製紙に転じ、1941年に取締役を経て、1949年8月には十條製紙社長に就任。1957年11月に会長を経て、1968年5月には相談役に就任。 1960年に藍綬褒章を受章し、1965年11月には勲三等瑞宝章を受章。 1981年4月27日、心不全のために死去。96歳没。死没日付をもって従四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
結城 安次(ゆうき やすじ、1884年(明治17年)10月1… 結城 安次(ゆうき やすじ、1884年(明治17年)10月17日 - 1977年(昭和52年)3月4日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。参議院議員。 結城萬蔵の二男、結城堅の弟として茨城県取手町(現取手市)に生まれる。1911年(明治44年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、三井物産に入り、本店、上海、大阪各支店にて勤務する。1924年(大正13年)清浦内閣の時、逓信大臣秘書官に任ぜられた。実業界では早川電力、東京電力、大井川鐵道などの重役、自動車鋳物、大井川電力各社長、三河水力電気、伊豆水力電気、上毛電力、東京湾電気、寸又川水力電気各取締役などを歴任した。
沢田 権左エ門(さわだ ごんざえもん、1884年〈明治17年… 沢田 権左エ門(さわだ ごんざえもん、1884年〈明治17年〉10月16日 - 1959年〈昭和34年〉1月9日)は、日本の政治家。釜石市長(2期)。 岩手県南閉伊郡釜石村(のち釜石町、現・釜石市)に生まれる。早稲田大学法科卒。電友社を経て、東京朝日新聞社に入る。その後、帰郷し、1911年(明治44年)釜石電気会社を設立する。ほか、運送倉庫会社や製氷会社などを興し、その経営に当たる。 政治面では1917年(大正6年)から1925年(大正14年)まで釜石町会議員を2期務めた。1931年(昭和6年)12月20日、岩手県会議員補欠選挙に上閉伊郡選挙区から立憲政友会公認で立候補して、初当選を果たした。同月22日に就任した。
霜山 精一(しもやま せいいち、1884年(明治17年)10… 霜山 精一(しもやま せいいち、1884年(明治17年)10月15日 - 1975年(昭和50年)3月12日)は、日本の司法官僚、弁護士。大審院長、最高裁判所判事、貴族院議員。従二位勲一等。 1910年(明治43年)に東京帝国大学を卒業。1912年(大正元年)12月に判事に任官。司法省参事官も務め、1924年(大正13年)1月に大審院判事、1934年(昭和9年)5月に札幌控訴院院長になった時は51歳で全国控訴院長のうち最年少であった。この後、広島控訴院長を経て、1939年(昭和14年)に東京控訴院長と昇進。1942年(昭和17年)に控訴院判事人事は部長会議(分科会)の合議で決めることになっていたが、霜山院長の独断で代理部長の人事を決めた際に、法律違反だとして若手判事らが徒党を組んで抗議して撤回を迫られるという控訴院分科会事件が発生した。
中村 星湖(なかむら せいこ、1884年(明治17年)10月… 中村 星湖(なかむら せいこ、1884年(明治17年)10月14日 - 1974年(昭和49年)4月13日)は、日本の文学者。星湖は筆名で、本名は中村 将為(なかむら まさため)。 山梨県南都留郡河口村(後の旧同郡河口湖町、現富士河口湖町)に生まれる。8人兄弟の長男。河口村は河口湖に面し、江戸時代から富士参詣者への宿坊を提供する御師の町で、中村家も御師業を営みつつ農業や養蚕を行っていた。 1890年(明治23年)に村立河口小学校へ入学する。両親の影響で幼少時から文学に親しみ、回覧雑誌などを製作している。1897年(明治30年)中学進学のため一時上京するが、翌年に甲府の山梨県立尋常中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)に入学。
小山 鞆絵(おやま ともえ、1884年(明治17年)10月1… 小山 鞆絵(おやま ともえ、1884年(明治17年)10月14日 - 1976年(昭和51年)12月3日)は、大正・昭和時代の哲学者。ヘーゲル哲学の研究者。東北大学名誉教授。 1884年(明治17年)10月14日、埼玉県北足立郡鴻巣宿で生まれた。東京帝国大学文科大学哲学科で、ドイツ哲学を中心とした西洋哲学をラファエル・フォン・ケーベルについて学んだ。同期生には、安倍能成、伊藤吉之助、宮本和吉らがいた。1909年(明治42年)、同大学を卒業。 卒業後は、海軍大学校、慶應大学、東北帝国大学理学部などで講師を務めた。1915年(大正4年)3月5日、板垣退助伯爵の五女、良子と結婚。1921年(大正10年)、ヨーロッパへ留学。
宮島 綱男(みやじま つなお、1884年(明治17年)10月… 宮島 綱男(みやじま つなお、1884年(明治17年)10月13日 - 1965年(昭和40年)3月26日)は、日本の経済学者・大学経営者。日仏交流にも長年尽力した。 1884年、愛知県丹羽郡池野村(現・犬山市)の素封家の家に生まれる。 1904年、名古屋英和学校を卒業。1908年、早稲田大学商科の外交部を首席で卒業。1911年、早大在外研究員としてヨーロッパに留学、シャルル・ジイド(ノーベル賞作家アンドレ・ジイドの叔父)の下で金融経済学を学ぶ。1913年、早大教授となるも、1917年早稲田騒動で早大を去る。その後、山岡順太郎(大阪商工会議所会頭)の個人秘書となる。 1921年、関西大学教授となる。
町永 三郎(まちなが さぶろう、1884年10月13日 - … 町永 三郎(まちなが さぶろう、1884年10月13日 - 1966年9月1日)は、日本の実業家。神戸製鋼所社長と尼崎製鉄社長を務めた。 新潟県出身。1913年に大阪高等工業学校機械部機械科を卒業し、神戸製鋼所に入社した。1944年に取締役に就任し、1946年に公職追放を受けた浅田長平に代わり、社長に就任した。浅田長平が復帰した1952年を機に副社長に就任し、1955年には尼崎製鋼所社長も兼任し、1958年に尼崎製鉄社長に就任した。 1965年11月には勲三等旭日中綬章を受章した。 1966年9月1日敗血症のために死去。81歳没。
毛内 效(もうない いさお、1884年10月12日 - 19… 毛内 效(もうない いさお、1884年10月12日 - 1936年5月16日)は日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 青森県青森市出身。弘前藩士毛内嘉胤の三男として生まれる。兄は陸軍少将毛内靖胤。弘前中学(現・青森県立弘前高等学校)、海軍兵学校(33期)、海軍大学校を経て、海軍大学校教官を務めた。佐世保海軍艦船部長、武蔵特務艦長、天龍、那珂、陸奥、尻矢、大泊艦長などを歴任した。航海術の権威で昭和7年(1932年)侍命となった。退役後は太平洋漁業会社顧問として、北洋漁業に関わった。 1936年(昭和11年)5月16日死去。同月18日に行われた葬送の際には、勅使が邸宅に訪れ幣帛が下賜された。
石田 信次(いしだ のぶじ、旧姓:高野、1884年10月11… 石田 信次(いしだ のぶじ、旧姓:高野、1884年10月11日 - 1960年10月31日)は、明治・大正・昭和時代の日本の教育者。 新潟県三島郡与板町岩方(現長岡市)出身。三島郡立与板高等小学校(現長岡市立与板小学校)を経て1906年新潟師範学校卒業後、小学校教諭となり新潟県内各校に赴任した。 1922年、開校して間もない新潟市立万代尋常小学校(現新潟市立万代長嶺小学校)校長に就任した。学習以前の問題が根深く存在していた当時の同校に於いて、7年間にわたって能力別編成による授業などの「万代教育」といわれる教育活動に取り組み、大正期の新教育実践者として知られた。その後は現在の新潟市立沼垂小学校、新潟市立白山小学校校長を務めた。
今村 正美(いまむら まさみ / まさよし、1884年(明治… 今村 正美(いまむら まさみ / まさよし、1884年(明治17年)10月11日 - 1945年(昭和20年)2月22日)は、日本の検察官、内務・警察官僚、弁護士。官選滋賀県知事。 香川県丸亀市出身。今村信美の二男として出生。明治大学、日本大学の各法科を卒業。1905年11月、判事検事登用第1回試験に合格。1906年7月、司法官試補・和歌山区裁判所及同検事局事務修習となる。以後、大阪、岡山地方の各検事、山口県理事官、富山県警察部長、北海道庁警察部長、高知県書記官・内務部長、熊本県書記官・内務部長などを歴任。1927年5月、熊本県内務部長から滋賀県知事に就任(在任期間:昭和2年5月17日~昭和3年6月29日)。
小杉 繁安(こすぎ しげやす、1884年(明治17年)10月… 小杉 繁安(こすぎ しげやす、1884年(明治17年)10月7日 - 1963年(昭和38年)4月29日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 山形県東村山郡天童町(現天童市)で小杉繁治の長男として生まれる。1919年(大正8年)東京帝国大学経済学部経済学科を卒業した。 日本鉱業開発取締役、沢藤電機取締役、東北振興精密機械専務取締役、北日本産業社長、日生鉱業社長、東北農機社長、協栄興業社長、大船産業監査役などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に山形県地方区から無所属で出馬して当選し、自由党に所属して参議院議員に1期在任した。その間、参議院両院法規委員長などを務めた。
田中 義麿(たなか よしまろ、1884年10月6日 - 19… 田中 義麿(たなか よしまろ、1884年10月6日 - 1972年7月1日)は、日本の遺伝学者、育種学者。九州大学名誉教授。 長野県東筑摩郡片丘村(現塩尻市)生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て、東北帝国大学農科大学(現・北海道大学農学部)在学中、動物学教室でウィリアム・ベイトソンの『メンデルの遺伝の法則』をに感銘を受け遺伝学を志す。1911年に同大助教授となり、1913年、日本で初めて遺伝学を講義する。1917年、「蚕の遺伝学的研究」で農学博士号を得る。欧米留学後の1924年には九州帝国大学農学部教授となる。 安藤広太郎らと7名で1915年、日本育種学会(1920年に日本遺伝学会に改組)を創設、1939年日本遺伝学会会長、1949年には国立遺伝学研究所の第一部長に就任した。
秋山 孝之輔(あきやま こうのすけ、1884年10月5日 -… 秋山 孝之輔(あきやま こうのすけ、1884年10月5日 - 1970年10月23日)は、日本の経営者。栃木県栃木市出身。 1905年に慶應義塾大学法学部政治科を卒業し、1910年に大日本製糖に入社。常務、専務、副社長を経て、1949年6月には日本専売公社総裁に就任し、1953年5月までに務めた。慶應義塾大学理事も務めた。 1964年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1970年10月23日心不全のために死去。86歳没。
村田 正太(むらた まさたか、1884年10月5日 - 19… 村田 正太(むらた まさたか、1884年10月5日 - 1974年12月20日)は、日本の医師、医学研究者。梅毒血清反応「村田法」の創始者。ハンセン病研究者。エスペランティスト。1926年から1933年まで大阪府外島保養院院長を務めたが、外島事件で辞任した。患者を一人の人間として対等に「キミ」と呼び、遇したのは当時としてはたいへん珍しい。その後職に就かず、神奈川県二宮町で個人的研究生活に入る。 法律を勉強していた時に知った女性がらいに罹患し、生涯らいに尽そうと決意した。光田健輔を紹介され、同氏の指示をうけ、医学の道に進む。東京伝染病研究所では、梅毒血清反応を研究。村田反応を創設した。大阪府外島保養院院長席が空席をなり、村田が起用された。
辻 潤(つじ じゅん、1884年10月4日 - 1944年1… 辻 潤(つじ じゅん、1884年10月4日 - 1944年11月24日?)は、日本の翻訳家、思想家である。日本におけるダダイスムの中心的人物の一人とされる。画家、詩人の辻まことは長男である。
上條 信(かみじょう しん、1884年(明治17年)10月3… 上條 信(かみじょう しん、1884年(明治17年)10月3日 - 1950年(昭和25年)10月8日)は、日本の実業家、政治家。筑摩鉄道(現・アルピコ交通上高地線)やバス事業を始め、多くの事業経営に携わった他、戦前・戦後に新村村長・長野県会議員・衆議院議員をも務めた。 長野県東筑摩郡新村(現松本市)で元衆議院議員の上條謹一郎の長男として生まれる。 松本中学校から早稲田大学に進み、のち帰郷して家を継いだ。1913年に新村村長になる。上条を中心とする有志が、1915年(大正4年)に 安筑軽便鉄道として、松本 - 稲核間の鉄道敷設免許を出願するも却下された。次いで、1918年に安曇鉄道が、松本 - 稲核間の鉄道敷設免許を出願するも却下される。
下村 湖人(、1884年(明治17年)10月3日 - 195… 下村 湖人(、1884年(明治17年)10月3日 - 1955年(昭和30年)4月20日)は、日本の小説家、および社会教育家。本名は下村 虎六郎()、旧姓は内田()。 佐賀県神埼郡崎村(現神埼市千代田町崎村)出身。東京帝国大学英文科卒。大学卒業後に母校佐賀中学校教師や鹿島中学校校長等を歴任。教職辞任後は、同郷で高校・大学同窓の田澤義鋪に従い、講演や文筆活動で社会教育に尽力。青少年に影響を与えた『次郎物語』の著者として知られる。 生まれて間もなく里子に出されるが、4歳の時に実家に戻る。佐賀中学校時代から、雑誌に詩歌を内田 夕闇(うちだ ゆうあん)の筆名で投稿。このころから、高田保馬、中島哀浪、山口亮一らと親交があった。
日高 重孝(ひだか しげたか/じゅうこう、1884年10月3… 日高 重孝(ひだか しげたか/じゅうこう、1884年10月3日 - 1980年3月5日)は、日本の歴史学者、郷土史家、教育者、宮崎県立博物館初代館長。その他、旧制中学校の校長、宮崎県立宮崎図書館長、上代日向研究所長を歴任。 宮崎県宮崎市中村町生まれ、同市福島町出身。田村弥太郎、きさの二男奈太郎として生まれ、6歳の時に伯父日高健助の養嗣子となる。高等小学校を終えて、1897年(明治30年)に旧制宮崎県立宮崎中学校(現 宮崎県立宮崎大宮高等学校)へ入学し、1902年(明治35年)卒業。1905年(明治38年)旧制第七高等学校造士館卒業。1910年(明治43年)東京帝国大学文科大学史学科国史学専修卒業。
進藤 甲兵(しんどう こうへい、1884年(明治17年)10… 進藤 甲兵(しんどう こうへい、1884年(明治17年)10月2日 - 1942年(昭和17年)1月25日)は、大正から昭和初期にかけて活動した日本の実業家。東邦電力常務や九州鉄道(現・西日本鉄道)社長などを務めた。山梨県出身。 進藤甲兵は1884年(明治17年)10月2日、山梨県北巨摩郡小淵沢村(現・北杜市)にて進藤利貞の次男として生まれた。はじめ「広平」と名乗っていたが、1913年(大正2年)分家とともに「甲兵」に改めている。生家の進藤家は土地の名家で、甲兵が生まれた当時はアメリカの商社の特約店として肥料商を営んでおり、裕福な家であった。兄の長重は陸軍士官学校を卒業して陸軍軍人となったが、日露戦争中の1904年(明治37年)に南山の戦いで戦死した。
粟山 博(もみやま ひろし 1884年〈明治17年〉10月2… 粟山 博(もみやま ひろし 1884年〈明治17年〉10月2日 - 1959年〈昭和34年〉9月20日)は日本の政治家。衆議院議員(10期)。位階は正四位。勲等は勲二等。 戦前は憲政会・立憲民政党に所属したが、戦後に公職追放された。追放の解除後は、旧民政党左派の松村謙三・鶴見祐輔・小山邦太郎・中村三之丞・松浦周太郎・川崎末五郎らと行動を共にした。政界復帰(1952年)の後は、改進党・日本民主党に所属した。日本民主党が保守合同した後は、自由民主党にて松村・三木派に所属した。 1884年(明治17年)、福島県安積郡(現在の郡山市富久山町)に生まれる。 1911年(明治44年)、第10回衆議院議員総選挙補欠選挙に出馬していた古島一雄の選挙を手伝う。
5代目 三遊亭 圓生(さんゆうてい えんしょう、1884年1… 5代目 三遊亭 圓生(さんゆうてい えんしょう、1884年10月1日 - 1940年1月23日)は、東京の落語家。本名∶村田 源治。弟は5代目三遊亭圓窓。また一時兵役逃れで三遊亭桃生の養子になっていた。 下総国八街(現・千葉県八街市)の宿屋「梅屋」の家に生まれ、父は入婿で東京市の芝愛宕下で大工をしていた。6歳で実父は出奔、親戚に預けられ14歳で日本橋蛎殻町の足袋店に奉公するなど、波瀾に満ちた少年時代を送る。 1902年、19歳で奉公先を飛び出す。剣舞の日比野雷風一座(日比野雷風正吉)に1、2年程加わったり、旅回りの一座に加わるなどの苦労を重ねる、1905年に旅回りの一座で知り合った4代目橘家圓蔵一門に入り、橘家二三蔵となる。
久埜 茂(くの しげる、1884年(明治17年)10月 - … 久埜 茂(くの しげる、1884年(明治17年)10月 - 1970年(昭和45年))は、日本の逓信官僚、弁護士。元逓信省郵務局長。 鳥取県会見郡西福原村(現米子市西福原)出身。久埜龜吉の長男。 米子中学(現米子東高校)、岡山の第六高等学校を卒業。次いで上京し東京帝国大学法科大学法律学科(獨法)へ入り1911年(明治44年)卒業。文官高等試験に合格し逓信省に入る。以来、通信事務官補、逓信局事務官補、逓信局副事務官兼戦時船舶管理局事務官、管船局書記官、逓信書記官兼高等海員審判所審判官、台湾総督府交通局参事、逓信大臣官房秘書課長同監察課長、広島逓信局長、逓信省郵務局長兼逓信官吏練習所長などを歴任した。
天野 貞祐(あまの ていゆう、1884年〈明治17年〉9月3… 天野 貞祐(あまの ていゆう、1884年〈明治17年〉9月30日 - 1980年〈昭和55年〉3月6日)は、大正・昭和期の日本の哲学者・教育者・文学博士。京都帝国大学名誉教授。甲南高等学校校長。 第二次世界大戦後は第一高等学校校長・文部大臣(第3次吉田内閣)を務めた後に獨逸学協会学校を母体として創立された獨協大学の初代学長を務めた。文化功労者。武蔵野市名誉市民。 1884年、神奈川県津久井郡鳥屋村(現在の相模原市)の豪農の出身。父・天野藤三は自由民権運動に参加して後に村長・衆議院議員を務めた。父は教育熱心な人物であり、天野も将来医師になることを嘱望されて13歳の時に獨逸学協会学校中学校(旧制中学、獨協学園の前身)に入学した。
山根 真治郎(やまね しんじろう、1884年〈明治17年〉9… 山根 真治郎(やまね しんじろう、1884年〈明治17年〉9月30日 - 1952年〈昭和27年〉7月10日)は、日本のジャーナリスト。『国民新聞』、『東京新聞』などで、記者、編集者として活動し、日本最初の本学的なジャーナリスト教育組織としての新聞学院(1932年 - 1942年)を創設して学院長を務めた。 山口県玖珂郡玖珂町(後の岩国市の一部)に生まれる。商人の家の長男であったが、父親の投資の失敗で家は没落したという。 郷里にいた頃から、下関の新聞社に寄稿するなどしていたが、1901年に単身で大阪へ移り住み、泰西学館に学びながら、大阪万朝報社の校閲の仕事などを経験した。 山根は、泰西学館卒業後に徒歩で上京し、皿洗いなどしながら学資を確保1907年に中央大学法学部を1期生として卒業、奥田義人の推薦を得て『時事新報』記者となり、1910年に『中央新聞』へ移って、程なくして社会部長を務め、1914年には『国民新聞』へと転じた。
森田 政義(もりた まさよし、明治17年(1884年)9月2… 森田 政義(もりた まさよし、明治17年(1884年)9月29日 - 昭和14年(1939年)3月21日)は、日本の弁護士、政治家。元衆議院議員(立憲政友会)。大阪府平民。実業家・タレント大屋政子の父。 熊本県の森田實政の弟。 大正3年(1914年)明治大学法科を卒業。弁護士試験合格。大正9年(1920年)分家する。大正13年(1924年)から衆議院議員を6期務め、立憲政友会総務となった。昭和4年(1929年)12月、選挙法違反により衆議院議員を退職。翌昭和5年(1930年)の第17回総選挙で復帰。昭和12年(1937年)の第20回総選挙で落選するが、翌昭和13年(1938年)同じ選挙区の西尾末広が議会から除名されたため、繰り上げ当選となる。
尾高 亀蔵(すえたか かめぞう、1884年(明治17年)9月… 尾高 亀蔵(すえたか かめぞう、1884年(明治17年)9月28日 - 1953年(昭和28年)8月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・大谷。 佐賀県出身。農業・大谷平治の二男として生まれ、尾高家の養子となる。唐津中学校を経て、1904年(明治37年)10月、陸軍士官学校(16期)を卒業する。同期には岡村寧次・土肥原賢二・板垣征四郎・安藤利吉ら陸軍大将がいる。同年11月、歩兵少尉に任官し歩兵第13連隊付となる。日露戦争に出征後、陸士生徒隊付、歩兵第13連隊中隊長などを経て、1916年(大正5年)11月、陸軍大学校(28期)を卒業した。 陸軍歩兵学校教官、関東兵站参謀、教育総監部付、教育総監部課員などを歴任し、1923年(大正12年)8月、第14師団参謀となる。
杉村 陽太郎(すぎむらようたろう 1884年(明治17年)9… 杉村 陽太郎(すぎむらようたろう 1884年(明治17年)9月28日 - 1939年(昭和14年)3月24日)は、大正、昭和の外交官、IOC委員。
宮地 茂秋(みやじ しげあき、1884年(明治17年)9月2… 宮地 茂秋(みやじ しげあき、1884年(明治17年)9月28日 - 1977年(昭和52年))は、明治・大正・昭和の実業家。日本セメント株式会社常務取締役、京阪電気鉄道株式会社監査役、呉軍港土地株式会社取締役、セメント連合会会長。自由民権活動家・宮地茂春の長男。坂本龍馬・板垣退助両家の血統を引く人物。妻は福岡孝弟の孫娘。 明治17年(1884年)9月28日、自由民権活動家・宮地茂春の長男として高知県土佐郡潮江村(現・高知市)に生まれる。母は、板垣退助の二女・軍子。 宮地家は、土佐藩白札郷士の家柄で、宮地茂秋は、板垣退助の孫であり、また坂本龍馬の曾祖父・山本伴蔵信敬の血縁子孫にあたる。祖父・宮地茂樹(甚蔵・自然)は、北越戦争に従軍して功を上げた。
細江 逸記(ほそえ いっき、1884年9月28日 - 194… 細江 逸記(ほそえ いっき、1884年9月28日 - 1947年3月11日)は、日本の英語学者。 三重県出身。東京外国語学校英語科卒。東京外国語学校講師、大阪高等商業学校教授、1931年大阪商科大学教授。1936年「ヂヨーヂエリオツトの作品に用いられたる英国中部地方言の研究」で京都帝国大学文学博士。
石橋 湛山(いしばし たんざん、1884年〈明治17年〉9月… 石橋 湛山(いしばし たんざん、1884年〈明治17年〉9月25日 - 1973年〈昭和48年〉4月25日)は、日本のジャーナリスト、政治家、教育者(立正大学学長)。階級は陸軍少尉(陸軍在籍時)。位階は従二位。勲等は勲一等。 大蔵大臣(第50代)、通商産業大臣(第10・11・12代)、内閣総理大臣(第55代)、郵政大臣(第9代)などを歴任した。総理大臣在任期間は65日であり、日本国憲法下では羽田孜の64日に次いで2番目に短く、日本の憲政史上でも3番目の短さである。 早稲田大学から法学の名誉博士(Doctor of Laws)を贈られた(1957年10月20日授与)。 「明治国家のミリタリズム、インペリアリズムは世界の趨勢であったとしても、見落とされてはならないのがデモクラシーの醸成である。
石橋 正彦(いしばし まさひこ、1884年〈明治17年〉9月… 石橋 正彦(いしばし まさひこ、1884年〈明治17年〉9月22日 - 没年不明)は、日本の政治家、会社役員、島根県多額納税者。島根県簸川郡平田町長。島根県会議員。 島根県楯縫郡平田町(のちの簸川郡平田町、平田市、現・出雲市)の人・石橋孫八の四男。1907年、第五高等学校第一部英法科を卒業。1911年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。農業を営み、会社重役である。 1914年、農会長に推される。1915年、家督を相続する。1919年、簸川郡会議員に当選する。1921年、平田町会議員となる。1922年、島根県会議員に当選する。一畑電気鉄道監査役、産業組合中央会島根県支部長、島根県農会副会長をつとめる。
有田 八郎(ありた はちろう、旧字体: 有田 八郞、 188… 有田 八郎(ありた はちろう、旧字体: 有田 八郞、 1884年〈明治17年〉9月21日 - 1965年〈昭和40年〉3月4日)は、日本の外交官、政治家。貴族院議員(勅選)、衆議院議員(1期)。号は澤農。旧姓山本。新潟県平民。 新潟県佐渡郡真野村(現佐渡市真野)出身。山本家に生まれ、有田家の養子となった。早稲田中学校、第一高等学校を経て、1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学独法科卒業、外務省入省。 外務省ではアジア局長、オーストリア公使、外務次官、ベルギー大使、中華民国大使などを務める。1936年(昭和11年)、廣田内閣の外務大臣として初入閣。1938年(昭和13年)2月10日に貴族院議員に勅撰。
千葉 胤成(ちば たねなり、1884年〈明治17年〉9月21… 千葉 胤成(ちば たねなり、1884年〈明治17年〉9月21日 - 1972年〈昭和47年〉3月18日)は、日本の心理学者。東北大学名誉教授。 1884年、宮城県生まれ。1909年、京都帝国大学文科大学心理学科を卒業。 1917年より京都帝国大学の助教授となり、ドイツのライプツィヒ大学に留学し、ヴィルヘルム・ヴントの心理学を研究。母校の京都帝国大学西田幾多郎のもとで1922年に文学博士号を取得。1923年より東北帝国大学文学部教授となり、心理学講座を開設した。大学では、佐武安太郎と同僚で、後の「ヴント文庫」を購入。雑誌Tohoku Psychologica Foliaの刊行も開始。1940年に建国大学教授を命じられ、満州国に渡った。
福元 岩吉(ふくもと いわきち、1884年(明治17年)9月… 福元 岩吉(ふくもと いわきち、1884年(明治17年)9月20日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。澎湖庁長。通称は康行。 鹿児島県鹿児島郡川上村(現・鹿児島市川上町)に生まれる。第七高等学校造士館を経て、1914年(大正3年)東京帝国大学経済学部を卒業し、翌年10月文官高等試験行政科試験に合格。直ちに官界に入り、茨城県工場官補、同県結城郡・真壁郡長、同県理事官を経て、1924年(大正13年)栃木県属に転じ、さらに翌年長野県書記官を経て、1927年(昭和2年)和歌山県書記官を拝命する。 ついで渡台し、1932年(昭和7年)台北州内務部長、1935年(昭和10年)澎湖庁長を経て、1936年(昭和11年)府事務官に転じ退官。
星野 あい(ほしの あい、明治17年(1884年)9月19日… 星野 あい(ほしの あい、明治17年(1884年)9月19日 - 昭和47年(1972年)12月5日)は、日本の教育者。女子英学塾(現:津田塾大学)卒業。ブリンマー大学B.A.。コロンビア大学M.A.(教育学)。 女子英学塾を創設した津田梅子の後継者として女子英学塾塾長(第2代)に就任し、津田英学塾塾長、津田塾専門学校校長、津田塾大学学長(初代)を務め、約30年間に渡って津田塾の運営を担った。 星野光多は兄。星野直樹(光多の子)は甥。 横浜に生まれた。父・母・兄弟は全てクリスチャンであり、あい本人もクリスチャンであった(あいの受洗は明治30年〈1897年〉)。群馬県沼田出身の父は、生糸の貿易を志して横浜に移住しており、その間にあいが生まれたが、事業がうまく行かずに一家で沼田に戻り、あいは沼田で育った。
村岡 典嗣(むらおか つねつぐ、1884年(明治17年)9月… 村岡 典嗣(むらおか つねつぐ、1884年(明治17年)9月18日 - 1946年(昭和21年)4月13日)は、日本の歴史学者。
久保 より江(くぼ よりえ、1884年(明治17年)9月17… 久保 より江(くぼ よりえ、1884年(明治17年)9月17日 - 1941年(昭和16年)5月11日)は、日本の俳人。 1884年(明治17年)、鉱山技師の父・宮本正良と母ヤスの長女として、愛媛県松山市に生まれる。1895年(明治28年)、松山時代の夏目漱石が下宿し、正岡子規が寄宿していた「愚陀仏庵」の持ち主がより江の母方の祖父・上野義方であったことから、当時12歳の少女であったより江は、若くして漱石や子規と面識を持ち、可愛がられたという。漱石の『吾輩は猫である』に登場する女学生・雪江は、より江をモデルにしたとされる。 1899年(明治32年)、上京。東京府立第二高等女学校を卒業後、医学博士の久保猪之吉と結婚し、福岡市に転居。
三代目 柳家つばめ(やなぎや つばめ、1884年〈明治17年… 三代目 柳家つばめ(やなぎや つばめ、1884年〈明治17年〉9月17日 - 1942年〈昭和17年〉2月15日)は落語家。本名∶宮尾 正造。息子は漫談家の宮尾たか志(宮尾すすむの師匠)。 生まれは群馬県伊勢崎の機織業「宮商」の若旦那。 30歳の時に一念発起で上京し、1913年1月に三代目柳家小さんに入門、前座名「小三太」。同年に人形町末広亭で初高座。さん三から1916年ころに歌太郎を名乗り旅回りに行く。1918年に「睦会」発足と共に帰京し五代目柳亭左楽門下に移籍。同年11月に東橋亭で柳家さくらで真打昇進披露を行った。 1928年7月に研成会で三代目柳家つばめ襲名。1940年に中風にかかり、2年後死去。
竹久 夢二(たけひさ ゆめじ、1884年〈明治17年〉9月1… 竹久 夢二(たけひさ ゆめじ、1884年〈明治17年〉9月16日 - 1934年〈昭和9年〉9月1日)は、日本の画家・詩人。本名は竹久 茂次郎(たけひさ もじろう)。 数多くの美人画を残しており、その抒情的な作品は「夢二式美人」と呼ばれた。大正ロマンを代表する画家で、「大正の浮世絵師」などと呼ばれたこともある。また、児童雑誌や詩文の挿絵も描いた。文筆の分野でも、詩、歌謡、童話など創作しており、中でも、詩『宵待草』には曲が付けられて大衆歌として受け、全国的な愛唱曲となった。また、多くの書籍の装幀、広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけており、日本の近代グラフィック・デザインの草分けの一人ともいえる。