和田 一次(わだ かずつぐ、1884年(明治17年)5月27… 和田 一次(わだ かずつぐ、1884年(明治17年)5月27日 - 1949年(昭和24年)3月19日)は、宮崎市長。判事。 宮崎県宮崎郡清武町(現在の宮崎市)に吉田格太郎の二男として生まれ、和田重明の養子となった。1911年(明治44年)に東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、司法官試補となった。1913年(大正2年)、判事となり、水戸区裁判所判事、水戸地方裁判所判事、東京地方裁判所判事を歴任した。 1917年(大正6年)、台湾総督府法院判官となり、台北地方法院判官、覆審法院判官、高等法院覆審部判官を歴任した。1920年(大正9年)、台湾総督府事務官に転じ、法務部民刑課長・監獄課長、法務部長、総督官房文書課長・調査課長、台湾総督秘書官を務めた。
金沢 正雄(かなざわ まさお、1884年〈明治17年〉5月2… 金沢 正雄(かなざわ まさお、1884年〈明治17年〉5月26日 - 1945年〈昭和20年〉4月27日)は、日本の内務・警察官僚、政治家。政友会系官選県知事、衆議院議員。 大阪府交野郡倉治村(北河内郡交野村、交野町を経て現交野市倉治)で、金沢楢松の長男として生まれる。第三高等学校を卒業。1910年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し栃木県属となる。 以後、栃木県警視、同事務官、熊本県理事官、長崎県理事官、愛媛県警察部長、群馬県警察部長、沖縄県内務部長、岐阜県内務部長、長崎県書記官・内務部長、新潟県書記官・内務部長、神奈川県書記官・内務部長などを歴任。
跡見 泰(あとみ ゆたか、1884年〈明治17年〉5月23日… 跡見 泰(あとみ ゆたか、1884年〈明治17年〉5月23日 - 1953年〈昭和28年〉10月22日)は、東京府(現・東京都)出身の洋画家。浦和画家のひとり。 日本画家で跡見女学校(現・跡見学園女子大学)創設者の跡見花蹊の甥にあたる。東京美術学校卒業後は黒田清輝の指導を受ける。文展、帝展、日展と官展に出品し、無鑑査から委嘱へと次第に重きをなしていった。関東大震災後、浦和町(1934年に浦和市、現さいたま市浦和区)に移住し、浦和画家の一人として名を連ねる。高田誠を指導した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
岡崎 忠雄(おかざき ただお、1884年(明治17年)5月2… 岡崎 忠雄(おかざき ただお、1884年(明治17年)5月20日 - 1963年(昭和38年)5月1日)は、大正、昭和期の実業家、企業経営者。岡崎財閥の創業者で、神戸財界の雄と呼ばれた岡崎藤吉の婿養子。佐賀県出身。慶應義塾大学部理財科卒業。 岡崎財閥の創業者岡崎藤吉には男子がいなかったため、岡崎藤吉の兄である石丸忠英の息子・石丸忠雄を婿養子に迎えた。これが後の岡崎忠雄である。忠雄は大学卒業後、養父岡崎藤吉が設立した岡崎汽船で海運業に従事したが、一方で1913年(大正2年)7月、神戸財界の有力者によって内外ゴムが創業された際、出資者の一人として名を連ね、更には1917年(大正6年)5月、養父が神戸岡崎銀行を設立した際は、常務に就任するなど、若いうちから後継者として育てられた。
藤原 鉄太郎(ふじわら てつたろう、1884年(明治17年)… 藤原 鉄太郎(ふじわら てつたろう、1884年(明治17年)5月19日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。関東州官僚。 長崎県出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。警視庁警部となり、府中警察署長、太平警察署長、原庭警察署長を務めた。その後、関東都督府(のち関東庁)に転じ、警視、警務局衛生課長、奉天警察署長、警察講習所教官、旅順民政署長を歴任した。1929年(昭和4年)、退官。
小川 金之助(おがわ きんのすけ、1884年〈明治17年〉5… 小川 金之助(おがわ きんのすけ、1884年〈明治17年〉5月18日 - 1962年〈昭和37年〉3月30日)は、日本の剣道家。段位称号は範士十段。 愛知県丹羽郡岩倉村(現・岩倉市)に生まれる。名古屋へ出て北辰一刀流 加藤貫一(加藤七左衛門の養父)に入門。 愛知県警察部に勧誘されたが、小川は警察官になる気はなく、一旦断った。「制服は着なくてもよい、試験だけは形式的に受けろ」と説得され、1903年(明治36年)、愛知県警察部に奉職。京都の大日本武徳会出張修行を命じられ、3年半修行した。 愛知県巡査教習所剣道教師を経て、1914年(大正3年)に内藤高治の要請で武道専門学校助手に就任。 1919年(大正8年)、道場「弘道館」を開く。
宮原 庄助(みやはら しょうすけ、1884年(明治17年)5… 宮原 庄助(みやはら しょうすけ、1884年(明治17年)5月18日 - 1963年(昭和38年)5月8日)は、明治末から昭和期の漁業家、政治家。衆議院議員、茨城県会議長、茨城県那珂郡那珂湊町長、初代那珂湊市長。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。幼名・長松。 茨城県那珂郡湊村牛久保(湊町牛久保、那珂湊町、那珂湊市を経て現ひたちなか市牛久保)で、漁業家・宮原卯之松の長男として生まれる。湊尋常高等小学校を卒業。横須賀海兵団に入団し日露戦争に従軍して除隊した。 1908年(明治41年)12月に家業を継承した。漁業の全般の改良に務め、1920年(大正9年)2月、茨城製網常務取締役に就任。その他、湊漁業組合長、湊水難救済会長、那珂郡水産会長、茨城県漁業組合連合会長、同漁船保険組合長、同水産業会長、同信用漁業協同組合連合会長、水戸魚市場取締役、日本油脂販売監査役、宮庄漁業社長などを務めた。
江戸 千太郎(えど せんたろう、1884年5月17日 – 1… 江戸 千太郎(えど せんたろう、1884年5月17日 – 1938年4月7日)は、日本の外交官。 福井県三方郡三方町横渡、江戸勘四郎家の長男として出生。 1904年(明治37年)3月、旧制小浜中学校卒業、明治40年度に早稲田大学高等師範部歴史地理科を卒業し、さらにその翌年に東京帝国大学選科(国史)を卒業し、旧制志布志中学校、旧制水戸中学校に教諭として勤務する。 1918年(大正7年)、外交官補試験に合格、外務省入省。1919年(大正8年)領事館補。1925年(大正14年)より領事として青島、漢口(中国)、リバプール(イギリス)、バンクーバー(カナダ)等に勤務。1931年(昭和6年)より外務省文化事業部第二課長、第一課長兼文部書記官歴任。
岡村 寧次(おかむら やすじ、1884年〈明治17年〉5月1… 岡村 寧次(おかむら やすじ、1884年〈明治17年〉5月15日 - 1966年〈昭和41年〉9月2日)は、日本の陸軍軍人。官位は陸軍大将勲一等功一級に昇る。支那派遣軍総司令官、北支那方面軍司令官、第11軍司令官等を歴任。 父は江戸幕府に仕えた岡村寧永。元妻の星野理枝と死別した後、貴族院議員・加藤宇兵衛の娘と再婚する。陸軍三羽烏の一人。 1884年(明治17年)5月15日、岡村寧永の子として生まれる。早稲田中学校、東京陸軍地方幼年学校を経て1903年(明治36年)、陸軍中央幼年学校を卒業する。 1904年(明治37年)10月に陸軍士官学校を16期生として卒業し11月に歩兵少尉に任官、歩兵第1連隊補充隊付を命ぜられる。
片岡 弓八(かたおか ゆみはち、1884年(明治17年)5月… 片岡 弓八(かたおか ゆみはち、1884年(明治17年)5月15日 - 1958年(昭和33年)10月2日)は、日本の船員。船員から潜水業に転じ、海洋サルベージで名を成した。香川県綾歌郡陶村九十原(現・綾川町陶)出身。 細谷鈴吉を父として生まれる。1900年(明治33年)12月に上京し、1907年(明治40年)9月に東京高等商船学校を卒業。卒業後は東洋汽船に就職し、天洋丸に乗務した。4年後に東洋汽船を退社すると、トロール船による漁業を手がけた。 1913年(大正2年)、東京高等水産講習所の教官に招聘され、練習船の船長となる。同年、片岡家を相続し、片岡弓八となる。1914年(大正4年)、第一次世界大戦勃発に際してフランスの傭船となった帝国丸に船長として乗務。
水野 利八(みずの りはち 1884年(明治17年)5月15… 水野 利八(みずの りはち 1884年(明治17年)5月15日 - 1970年(昭和45年)3月9日)は、日本の実業家。ミズノ創業者。紺綬褒章、勲四等瑞宝章受章。二男は水野健次郎。水野正人、水野明人は孫。 岐阜県大垣市に生まれる。興文小高等科中退。9歳の時に棟梁をしていた父が死去したため、大阪・京都へ丁稚奉公へ出た。 1903年(明治36年)に京都・三高野球クラブの試合を見て、野球の魅力に惹かれ運動用品の商売を志す。1906年(明治39年)に弟の水野利三と大阪市北区で水野兄弟商会を創業。当初は運動服を扱っていたが、1913年(大正2年)からは野球用のグラブ、ボールの製造を始めた。 1916年(大正5年)に全国統一の標準球を完成。
西尾 忠方(にしお ただみち、1884年(明治17年)5月1… 西尾 忠方(にしお ただみち、1884年(明治17年)5月14日 - 1958年(昭和33年)6月17日)は、大正から昭和期の政治家、実業家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・加藤、旧名・泰吉。 旧大洲藩主・加藤泰秋の四男として生まれ、1909年(明治42年)12月、子爵・西尾忠篤の養子となり、同年同月、忠方と改名。養父の死去に伴い、1910年(明治43年)11月29日、子爵を襲爵した。 1913年(大正2年)東京帝国大学法科大学を卒業。馬政調査会委員、軍用保護馬鍛錬中央会副会頭、日本競馬会評議員、十五銀行監査役、蓬莱殖産監査役などを務めた。 1918年(大正7年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
平井 晩村(ひらい ばんそん、1884年(明治17年)5月1… 平井 晩村(ひらい ばんそん、1884年(明治17年)5月13日 - 1919年(大正8年)9月2日)は、明治・大正時代の日本の詩人・小説家・新聞記者。民謡詩人として多くの作品を残した。群馬県前橋市出身。本名は駒次郎。 1884年(明治17年)5月13日/15日/17日、群馬県前橋本町(現在の前橋市本町2丁目)に生まれる。実家は酒造業を営んでいた。祖父・與吉は近江国蒲生郡(現在の滋賀県東近江市)の出身で、武蔵国の造り酒屋「中村屋」に奉公した後前橋にのれん分けをした。與吉は現在の新潟県柏崎市出身のゆきを妻としたが夫婦には子がなかったため、晩村の父となる仙太郎を養子に迎え、とを(ゆきの妹)と結婚させた。
越川 彰(こしかわ あきら、1884年(明治17年)5月13… 越川 彰(こしかわ あきら、1884年(明治17年)5月13日 - 1970年(昭和45年)1月14日)は、大日本帝国陸軍軍人、医師。最終階級は陸軍軍医中将。位階勲等は正四位勲三等。 千葉県出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学医学部を卒業し、6月29日に陸軍二等軍医に任官された。1915年(大正4年)6月、陸軍一等軍医に進み、1919年(大正9年)9月時点で陸軍軍医学校副官の任にあった。1921年(大正10年)4月、陸軍三等軍医正に進級し、1923年(大正12年)9月時点で鉄道第2連隊附であり、1924年(大正13年)9月時点で善通寺衛戍病院附に転じた。1925年(大正14年)3月に陸軍二等軍医正に進級し、9月時点で佐倉衛戍病院長兼歩兵第57連隊附に就任し、1926年(大正15年)12月に龍山衛戍病院附に転じた。
細川 長平(ほそかわ ちょうへい、1884年(明治17年)5… 細川 長平(ほそかわ ちょうへい、1884年(明治17年)5月13日 - 1967年(昭和42年)1月13日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 愛媛県三木郡鹿伏村(香川県木田郡平井村大字鹿伏、平井町を経て現三木町鹿伏)出身。細川林造の三男として生まれる。第五高等学校を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し京都府属となる。 以後、岐阜県事務官、同理事官、徳島県警察部長、熊本県警察部長、長野県書記官・内務部長、宮城県書記官・内務部長、北海道庁部長・内務部長などを歴任。 1928年12月、沖縄県知事に就任。1929年2月、沖縄の社会科学研究会の関係者を検挙した。
上林 敬吉(かんばやし けいきち、1884年5月12日 - … 上林 敬吉(かんばやし けいきち、1884年5月12日 - 1960年3月9日)は、日本の建築家。米国聖公会の宣教建築家(Mission Architect)のもとで教会の建設に携わるとともに、設計事務所を立ち上げて独自の設計も行ったほか、聖路加国際病院の施設増改築や管理を行った。 1884年(明治17年)5月12日、京都市上京区で生まれる。京都の高等小学校を中退した7年後の1903年(明治36年)に茨城県土木課に務める。敬吉は、京都での少年時代に既にジェームズ・ガーディナーと出会ってその影響を受け、その後関東へ転じたものと考えられる。 1904年(明治37年)、横浜で下田菊太郎が営む下田建築合資会社に移り、2年間勤務する。
篠原 誠一郎(しのはら せいいちろう、1884年〈明治17年… 篠原 誠一郎(しのはら せいいちろう、1884年〈明治17年〉5月11日 - 1972年〈昭和47年〉7月8日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功二級。 1884年(明治17年)に群馬県碓氷郡松井田町松井田(現・安中市松井田町松井田)で生まれた。旧制高崎中学校、大阪陸軍地方幼年学校を経て、陸軍士官学校第17期卒業。 1931年(昭和6年)に陸軍歩兵大佐に進級。第16師団司令部附となり、大谷大学に配属された。1933年(昭和8年)に歩兵第40連隊長に就任し、満州事変に出動。討伐戦に当たった。 1936年(昭和11年)に陸軍少将に進級し、歩兵第15旅団長に転じる。1938年(昭和13年)に第1国境守備隊長を経て、1939年(昭和14年)3月に陸軍中将に進級し、関東軍司令部附となる。
鹿村 美久(しかむら よしひさ、1884年(明治17年)5月… 鹿村 美久(しかむら よしひさ、1884年(明治17年)5月11日 - 1939年(昭和14年)1月21日)は、日本の実業家。第2代富士瓦斯紡績社長。在任中死去した。 現在の愛媛県宇和島市に生まれる。1901年に東京府城北中学校(現・都立戸山高校)を卒業。1905年に東京高等商業学校(現・一橋大学)本科を首席総代で卒業し、岩崎久弥の知遇を得て三菱の海外研究生として、3年間欧米に遊学した。帰国後、三菱合資銀行部に入行した。豊川良平初代銀行部長の娘婿となった。 1909年に富士瓦斯紡績に入社。同社小山工場庶務主任、営業部次長を経て、1913年に川崎工場が設立されると、工場長に就任する。営業部長(1919年)。
前田 多門(まえだ たもん、1884年(明治17年)5月11… 前田 多門(まえだ たもん、1884年(明治17年)5月11日 - 1962年(昭和37年)6月4日)は、日本の政治家・実業家・文筆家。位階は正三位。 大阪府出身。喜兵衛の長男。立教中学、一高、東京帝国大学卒業後、内務省入省。1916年(大正5年)、後藤新平内務大臣の秘書官に起用され、後藤系の有力官僚となり、1920年(大正9年)、池田宏の後を継いで第2代の内務大臣官房都市計画課長となった。後藤新平が東京市長に就任すると第1助役は永田秀次郎、第2助役は池田、第3助役は前田という後藤のいわゆる「畳」であり、後藤自身および電気局長の長尾半平と合わせて「三田二平」と称された。 1925年(大正14年)3月、外務省の守屋栄夫とともに第7回国際労働会議の政府代表に選出。
何 盛三(が もりぞう、1884年5月8日 - 1948年1… 何 盛三(が もりぞう、1884年5月8日 - 1948年10月10日)は、日本の中国語学者、アジア主義者、社会活動家、エスペランティスト。 東京大学新聞研究所の所長であった何初彦は長男。 苗字の「何」をもじって、エスペラントで"S-ro Kio"、フランス語で"Monsieur Que"(いずれも英語でいえば"Mr. What"、後者は日本語の「無宿」にも掛けている)と名乗った。 東京府出身。日本の造船学の発展に寄与した海軍軍人の赤松則良の三男として生まれ、後に唐通詞の出身であった何礼之の養孫になっている。1930年には「財政整理ノタメ」何家を離れ、赤松家に復籍した。 学習院中等科・高等科で学ぶ。
丸山 芳良(まるやま よしまさ、 1884年(明治17年)5… 丸山 芳良(まるやま よしまさ、 1884年(明治17年)5月5日 - 1932年(昭和7年)3月23日)は、日本の歌人。 栃木県足利市通六丁目出身。足利の小学校高等科を経て、中学校時代に石川角次郎から洗礼を受け、1902年商工中学校(現日本大学第三高等学校)卒業。同年東京高等商業学校(現一橋大学)に進学するも、病気と実家の倒産のため2年で中退した。 中退後は日清製粉横浜工場主任や、日本統治時代の台湾の台北市の会社への勤務、名古屋市の製陶会社・旭陶器主事なども務めた。この間、1914年から窪田空穂に師事し、歌誌『国民文学』に参加。 1920年に喘息のため足利に帰郷し、1921年に足利印刷社を設立し、同社無限責任社員となった。
椎久年蔵(しいく としぞう、明治17年(1884年)5月5日… 椎久年蔵(しいく としぞう、明治17年(1884年)5月5日 - 昭和33年(1958年)3月27日)は、八雲のアイヌ、アイヌ文化伝承者。アイヌ語八雲方言の最後の話者。 北海道山越郡八雲町字遊楽部に生まれ、終生そこに住む。椎久家は首長(コタンコㇿクㇽ)の家系であり、年蔵は次男であった。父母ともに遊楽部(ゆうらっぷ)の人。姓は、先祖に弓の名人がいたことからsíku「大きな弓」の当て字である。「シク」と読まれることもある。アイヌ名はTóytareki、トイタレキ、トイタレケ、トヨタリケ。名前はアイヌ語でtóyta「畑仕事」、 rek「叫ぶ」で、母が畑仕事の最中に産気付き、家に戻る途中に畑野中の道で産み落としたことに由来する。
遠藤 所六(読み不明、1884年(明治17年)5月4日生)は… 遠藤 所六(読み不明、1884年(明治17年)5月4日生)は、日本統治下時代の台湾で台中市長などを歴任した。福井県坂井郡金津町(現あわら市)出身。 臺北州州協議会会員、基隆郡郡守を経た後、1925年~1928年に台中市長(臺中市尹)を、1928年からは台南市長を務めた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
加藤 紋右衛門(かとう もんうえもん、1884年5月2日 -… 加藤 紋右衛門(かとう もんうえもん、1884年5月2日 - 1958年10月4日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛知県出身。明倫中学校(現・愛知県立明和高等学校)卒。瀬戸町(現・瀬戸市)会議員、東春日井郡会議員、同議長、愛知県会議員を歴任する。また、瀬戸薪炭(株)取締役社長、権現土地(株)取締役となる。 1922年7月、愛知5区の補欠選挙において立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1958年に死去した。
池田 亀三郎(いけだ かめさぶろう、1884年(明治17年)… 池田 亀三郎(いけだ かめさぶろう、1884年(明治17年)5月2日 - 1977年(昭和52年)4月2日)は、日本の技術者、実業家。旭硝子(現AGC)社長や、石油化学工業協会会長を務めた。従三位勲一等瑞宝章。 山形県酒田市出身。荘内中学校、第三高等学校を経て、1909年東京帝国大学工科大学採鉱冶金科卒業、三菱合資入社。三菱鉱業技師長や、三菱鉱業取締役を経て、1939年に山田三次郎が死去すると後任の日本化成工業社長に就任。1943年からは旭硝子社長も務め、1944年には旭硝子と日本化成工業の合併による三菱化成工業の設立にあたった。1944年旭化学工業奨励会理事長。第二次世界大戦後は公職追放対象者となるが、1950年10月に解除。
田辺 加多丸(たなべ かたまる、1884年5月2日 - 19… 田辺 加多丸(たなべ かたまる、1884年5月2日 - 1951年3月13日)は、日本の経営者。東宝社長を務めた。 山梨県出身。1911年に東京帝国大学独法科を卒業し、日本勧業銀行に入行。1939年6月に理事、1941年に東京宝塚劇場(のちの東宝)取締役を経て、1947年に社長に就任し、1949年から1950年までに会長を務めた。 1951年3月13日、肝臓癌のために死去。66歳没。
長嶺 亀助(ながみね かめすけ、1884年(明治17年)5月… 長嶺 亀助(ながみね かめすけ、1884年(明治17年)5月1日 - 1975年(昭和50年)10月21日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。 沖縄県(旧小禄村當間)出身。農業・長嶺松助の孫として生れる。小禄尋常小学校、那覇尋常高等小学校、沖縄第一中学校(現沖縄県立首里高等学校)を経て、1905年(明治38年)11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第24連隊付となる。歩兵第24連隊大隊副官などを経て、1916年(大正5年)11月、陸軍大学校(第28期)を卒業し歩兵第24連隊中隊長に就任。 1917年(大正6年)12月、参謀本部付勤務となり、1918年(大正7年)2月、中国出張を命ぜられ、同年9月から1920年(大正9年)7月までイリに滞在し、同年12月、北京に到着した。
喜頭 兵一(きとう へいいち、1884年(明治17年)5月 … 喜頭 兵一(きとう へいいち、1884年(明治17年)5月 - 1955年(昭和30年)7月24日[要出典])は、日本の裁判官。 兵庫県出身。岩本モトの子として生まれ、喜頭時定の養子となった。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学を卒業。統監府判事を経て、朝鮮総督府判事となった。京城地方法院判事、釜山地方法院判事、京城地方法院部長、大邱地方法院部長、京城覆審法院部長、大邱覆審法院部長、高等法院判事を歴任した。1927年(昭和2年)、欧米諸国に留学し、帰国後に京城帝国大学法文学部講師を兼ねた。その後、高等法院部長、京城覆審法院長を経て、1943年(昭和18年)に高等法院長に就任した。墓所は多磨霊園。
木子 七郎(きご しちろう、1884年(明治17年)4月30… 木子 七郎(きご しちろう、1884年(明治17年)4月30日 - 1955年(昭和30年)8月24日)は、日本の建築家。 1884年(明治17年)、宮内省内匠寮技師の木子清敬の四男として京都に生まれる。木子幸三郎の弟である。1896年(明治29年)、高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)卒業。1901年(明治34年)、高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。 第四高等学校を経て、東京帝国大学工科大学建築科に入る。1911年(明治44年)、東京帝国大学工科大学建築学科を卒業。大林組設計部技師として来阪。1913年(大正2年)、大林組を退職し、木子七郎建築事務所を開設する。
矢田部 美佐保(やたべ みさほ、1884年(明治17年)4月… 矢田部 美佐保(やたべ みさほ、1884年(明治17年)4月30日 - 没年不明)は、昭和時代前期の官吏。東京市江戸川区長、牛込区長。 矢田部一実の四男として島根県に生まれる。日本大学法科を卒業し、1912年(明治45年)東京市に奉職する。麹町区勤務、市庶務課、財務課、地理課勤務、広尾病院事務長を経て、1934年(昭和9年)6月30日、江戸川区長に就任。1936年(昭和11年)10月10月まで務めた。 ついで豊島病院、駒込病院各事務長、社会局保護課長を経て、1938年(昭和13年)12月24日、牛込区長に就任し、1940年(昭和15年)8月17日まで務めた。
次田 潤(つぎた うるう、1884年(明治17年)4月26日… 次田 潤(つぎた うるう、1884年(明治17年)4月26日 - 1966年(昭和41年)4月9日)は、日本文学者。岡山県出身。田村剛の兄。
田村 俊子 (たむら としこ、1884年(明治17年)4月2… 田村 俊子 (たむら としこ、1884年(明治17年)4月25日 - 1945年(昭和20年)4月16日) は、日本の小説家。別名、佐藤露英、佐藤俊子、本名、佐藤とし。東京府東京市浅草区蔵前町(現在の東京都台東区蔵前)生れ。東京府立第一高等女学校卒業、日本女子大学校国文科中退。代表作は『木乃伊(みいら)の口紅』、『炮烙(ほうらく)の刑』など。官能的な退廃美の世界を描き、人気を得た。没後、田村俊子賞が創設された。
櫻澤千藏(さくらざわ せんぞう、1884年4月23日 - 1… 櫻澤千藏(さくらざわ せんぞう、1884年4月23日 - 1949年7月7日)は、日本の実業家。日東製粉(現・日東富士製粉)元社長。 埼玉県児玉郡東児玉村で生まれる。旧制埼玉県立熊谷中学校を経て、中央大学卒業。その後、北海タイムス記者となり活躍する。1908年、埼玉公論を主宰し埼玉公論社長となる。 1912年、松本米穀製粉会社に入社し支配人を経て、取締役となる。満州北支の治安回復とともに事業の大陸進出を進める中心人物となり日東製粉を、三大製粉会社といわれるまで成長させる。1948年、日東製粉社長となる。青柳製作所専務取締役。 郷里の埼玉県新井村に、農民武徳殿や農場を寄付し、熊谷市の小学校跡に児童公園をつくるなど篤行の紳士としても知られる。
牧野 信之助(まきの しんのすけ、1884年4月23日 – … 牧野 信之助(まきの しんのすけ、1884年4月23日 – 1939年9月25日 )は、日本の歴史家。専門は日本中世の社会経済史。 福井県に生れる。1903年、福井県立武生中学校を卒業する。尋常高等小学校の代用教員を務めたのち、1906年、広島高等師範学校雇となり図書館に勤務し、内田銀蔵に師事するようになる。内田が京都帝国大学に転じると、牧野も1908年4月に京都帝国大学文科大学雇として国史研究室勤務となり、同年9月には助手となる。 1909年に京都帝国大学史学科選科に入学し、1912年に修了。同年10月に石川県立師範学校教諭となり、1916年に福井県史編纂主任になる。以後、滋賀県史編纂主任、堺市史編纂長、北海道史編纂長、大津市史編纂監修、福井県今立郡岡本村の村史編纂顧問などを務め、また1933年から京都帝国大学文学部講師も務めた。
尾澤 虎雄(おざわ とらお、1884年4月22日 - ?)は… 尾澤 虎雄(おざわ とらお、1884年4月22日 - ?)は、日本の実業家。旧姓は倉澤(くらさわ)。姓の「澤」は「沢」の旧字体であるため、尾沢 虎雄(おざわ とらお)とも表記される。 株式会社尾澤組を経て片倉製糸紡績株式会社に勤務し、薩摩製糸株式会社専務取締役、松江片倉製糸株式会社監査役、尾澤組合名会社社員、長崎製糸株式会社専務取締役、佐賀県是蚕業株式会社専務取締役、株式会社富岡製糸所工場長、片倉製糸紡績株式会社片倉富岡製糸所工場長、朝鮮生糸株式会社取締役などを歴任した。 1884年4月22日、倉澤淸人の二男として長野県で生まれた。実業家である尾澤福太郞の長女と結婚することになり、それに伴い福太郞の養子となった。
山下 紅畝(やました こうほ、1884年〈明治17年〉4月2… 山下 紅畝(やました こうほ、1884年〈明治17年〉4月20日 - 1977年〈昭和52年〉10月25日)は、女流日本画家。日本画会会員。多くの日本画を描き残すと共に、多くの弟子を育成することで、郷里の香川県の日本画壇に貢献した人物である。本名は山下くら、または山下久良子。旧姓は中田。 香川県那珂郡丸亀葭町(現・丸亀市葭町)で誕生した。高松高等女学校(現・香川県立高松高等学校)を卒業後、女子高等教育への進学率が0.1%という時代にあって、東京女子高等師範学校へ進学。1906年(明治39年)に同校を卒業後に、奈良女子高等師範学校で教員として勤めた。 1907年(明治40年)、東京女子高等師範学校の研究課程技芸科に入学した。
志喜屋 孝信(しきや こうしん、1884年(明治17年)4月… 志喜屋 孝信(しきや こうしん、1884年(明治17年)4月19日 - 1955年1月26日)は、日本の教育者、政治家。太平洋戦争後、アメリカ統治下の沖縄で、沖縄諮詢会委員長や初代沖縄民政府知事のほか、沖縄最初の大学である琉球大学の初代学長を務めた。 沖縄県中頭郡具志川(現・うるま市宮里)出身。1904年(明治37年)、旧制沖縄県立中学校(現・沖縄県立首里高等学校)卒業。1908年(明治41年)に広島高等師範学校(現・広島大学)を卒業する。在学中、内村鑑三の著書に影響を受ける。 最初は私立金光中学校、熊本県立鹿本中学校に勤務した後、沖縄県立第二中学校に赴任する。そして1924年(大正13年)に同校の校長に就任する。
安田 尚義(やすだ なおよし、 1884年4月19日 - 1… 安田 尚義(やすだ なおよし、 1884年4月19日 - 1974年12月24日 )は、日本の歌人・歴史学者。
大本 貞太郎(おおもと さだたろう、1884年〈明治17年〉… 大本 貞太郎(おおもと さだたろう、1884年〈明治17年〉4月18日 - 1944年〈昭和19年〉4月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。伊予鉄道(現伊予鉄グループ)7代社長。 愛媛県温泉郡本町(現松山市本町)出身。松山商業会議所議員、愛媛県会議員、同参事会員、同副議長となる。伊予新報社社長、伊予鉄道社長、伊予銀行取締役、(資)弘文社代表社員、松山商工会議所顧問を務める。 1932年の第18回衆議院議員総選挙において愛媛1区(当時)から立憲政友会公認で立候補し当選。以来連続3回当選。1942年の第21回衆議院議員総選挙には立候補せず引退した。1944年死去。
亀井 茲常(かめい これつね、旧字体: 龜井茲常、明治17年… 亀井 茲常(かめい これつね、旧字体: 龜井茲常、明治17年(1884年)4月17日 - 昭和17年(1942年)5月2日)は、日本の華族、宮内官僚。亀井家第14代当主。爵位は伯爵。東京市渋谷区千駄谷町穏田に居住していた。衆議院議員亀井亜紀子は曾孫に当たる。 第13代当主亀井茲明の子として島根県鹿足郡津和野に生まれる。 1909年(明治42年)に東京帝国大学文科大学哲学科を卒業、式部官に任じられ皇室の式典及び語学研究のため欧米を歴遊。1912年に帰国後、主猟官を兼ねた。 後に東宮侍従に任じられ、1921年(大正10年)には皇太子裕仁親王の海外巡遊に際し随行を命じられた。1929年(昭和4年)、官を辞す。
十河 信二(そごう しんじ、1884年(明治17年)4月14… 十河 信二(そごう しんじ、1884年(明治17年)4月14日 - 1981年(昭和56年)10月3日)は、日本の鉄道官僚、政治家。愛媛県西条市長(在任1945年(昭和20年) - 1946年(昭和21年))、第4代日本国有鉄道(国鉄)総裁(在任1955年(昭和30年) - 1963年(昭和38年))を務めた。「新幹線の父」と呼ばれた。西条市名誉市民第1号。 1884年(明治17年)愛媛県新居郡中村(中萩村、中萩町を経て、現在の新居浜市)に十河鍋作・ソウの二男として生まれる。1897年(明治30年)愛媛県尋常中学校東予分校(現在の愛媛県立西条高等学校)に入学した。卒業後、上京し受験準備のために正則英語学校(現在の正則学園高等学校)に入学した。
瀧 正雄(たき まさお 1884年(明治17年)4月14日 … 瀧 正雄(たき まさお 1884年(明治17年)4月14日 - 1969年(昭和44年)8月12日)は、日本の政治家、法学者。衆議院議員、貴族院議員をつとめ、近衛文麿の家老格の側近として知られた。
立川 太郎(たちかわ たろう、1884年〈明治17年〉4月1… 立川 太郎(たちかわ たろう、1884年〈明治17年〉4月14日 – 1960年〈昭和35年〉7月31日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 広島県安佐郡三入村(現在の広島市安佐北区)に立川斧太郎の長男として生まれる。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、警視庁警部として警務課に勤務した。1915年(大正4年)に警視に昇進し、大塚警察署、牛込警察署、神楽坂警察署、京橋警察署の署長を歴任した。1818年(大正7年)、本庁に復帰して監察官に就任した。1920年(大正9年)、警視庁を退職して弁護士を開業した。 1922年(大正11年)に牛込区会議員に当選し、1926年(大正15年)には東京市会議員に選出された。
大野 政吉(おおの まさきち、1884年(明治17年)4月1… 大野 政吉(おおの まさきち、1884年(明治17年)4月14日 - 1970年(昭和45年)7月31日)は、日本の技術者、実業家。旭硝子(現AGC)社長や、窯業協会会長を務めた。 東京生まれ。1906年東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科卒業、農商務省入省。1907年島田硝子製造所入社。1908年に旭硝子入社後、尼崎工場長、鶴見工場長、牧山工場長、技術課長、支配人、取締役等を務め、日本初の窓ガラスの本格量産化を成功させた。 1927年大日本窯業協会理事長。旭硝子常務取締役を経て、山田三次郎会長が死去した1939年から旭硝子社長及び旭化学工業奨励会理事長を務めた。1940年緑綬褒章受章。 1941年日本光学工業取締役。
石崎 光瑤(いしざき こうよう、明治17年(1884年)4月… 石崎 光瑤(いしざき こうよう、明治17年(1884年)4月11日 - 昭和22年(1947年)3月25日)は、日本の大正時代から昭和の初めにかけて活躍した日本画家。文展・帝展を中心に活動し、写実に基づく鮮やかで装飾的な花鳥画を得意とした。 富山県西礪波郡福光町(現在の南砺市)で、素封家・石崎和善の五男として生まれる。本名は石崎猪四一。石崎家は和泉屋の屋号で本業は麻布業だったが、江戸時代から蔵宿業を営み、町役人も務めた豪商だった。幼少より画才があり、明治29年(1896年)12歳頃東京から金沢に移り住んだ琳派の絵師・山本光一に師事する。光瑤の「光」は師から貰っており、この頃の光瑤は福光や金沢近郊を写生して廻ったという。
宮永 スエキク(みやなが スエキク、1884年〈明治17年〉… 宮永 スエキク(みやなが スエキク、1884年〈明治17年〉4月7日 - 1998年〈平成10年〉6月20日)は、長寿日本一だった鹿児島県曽於郡大隅町(現・曽於市)の女性。 1884年(明治17年)4月7日、鹿児島県曽於郡大隅町の農家に生まれる。1908年(明治41年)に24歳で愛右衛門と結婚し、四男七女をもうけた。趣味は三味線、太鼓、歌、踊りだった。 1954年(昭和29年)、70歳のときに愛右衛門と死別。冗談好きの明るい性格で、おはら節など歌や踊りが得意。107歳ごろまで三味線を弾いていた。そばが好きで、100歳を超えた後も自分でそばを打っていた。109歳までは一人で歩いていた。風邪をこじらせて寝たきりになり、1993年(平成5年)からは特別養護老人ホームで生活していた。
時永 浦三(ときなが うらぞう、1884年(明治17年)4月… 時永 浦三(ときなが うらぞう、1884年(明治17年)4月6日 - 1929年(昭和4年)2月7日)は、日本の朝鮮総督府・内務官僚。官選県知事。 広島県甲奴郡上下村(現府中市)出身。時永清吉の三男として生まれる。第一高等学校を卒業。1909年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し大学院に進学。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1910年5月、統監府属として渡韓した。 1910年10月、朝鮮総督府取調局属となる。以後、同取調局事務官、同道事務官・平安南道在勤、京畿道在勤、同事務官・総務局総務課長、兼同参事官、同内務部第二課長、同済世院庶務課長事務嘱託、同警務官兼同警視、同警務総監部保安課長、同兼警務総監部高等警察課長事務取扱、同事務官、兼同参事官などを歴任し、1922年1月、朝鮮総督府監察官に就任。
矢吹 荘司(やぶき そうじ、1884年(明治17年)4月6日… 矢吹 荘司(やぶき そうじ、1884年(明治17年)4月6日 - 没年不明)は、福島県常磐市(現・いわき市)長(1期)。 福島県磐前郡湯本村(のち石城郡湯本村→石城郡湯本町→常磐市、現・いわき市)出身。福島県立磐城中学校(現・福島県立磐城高等学校)中退。地元で農業、運送業、土建業、旅館業などを営む。湯本町会議員、湯本町助役を経て、湯本町長を2期務める。1954年湯本町が市制施行し、「常磐市」が発足、これに伴い常磐市長となる。 1957年の常磐市長選挙に立候補したが、常磐炭鉱労働組合長の磯野清治に敗れた。1964年の常磐市制施行10周年の記念式典には「自治功労者」として矢吹が表彰されたが、冊子には「故矢吹荘司」と書かれていた。
山口 寒水(やまぐち かんすい、1884年〈明治17年〉4月… 山口 寒水(やまぐち かんすい、1884年〈明治17年〉4月5日 - 1904年〈明治37年〉6月28日)は、明治期の小説家。本名は清一郎。 1884年(明治17年)4月5日、群馬県群馬郡豊秋村大字石原字手川(現・渋川市石原)で、この地方では大きな一町五反の農家の次男として生れる。 1889年(明治23年)4月、渋川町長塚町の渋川町豊秋村学校組合立四明尋常小学校行幸田分校に入学。 小学校時代から雑誌『少年世界』を愛読し、友人と短篇小説を競作するなどする、文学好きの少年であった。1898年(明治31年)3月31日に尋常小学校高等科を卒業後、前橋の私塾集成学館に学ぶ。14歳から15歳の頃にかけては、度々『少年世界』などに詩、俳句、俳文、雑文などを投稿し採用もされた。
山本 五十六(やまもと いそろく、1884年〈明治17年〉4… 山本 五十六(やまもと いそろく、1884年〈明治17年〉4月4日 - 1943年〈昭和18年〉4月18日)は、日本の海軍軍人。最終階級は元帥海軍大将。栄典は正三位大勲位功一級。真珠湾攻撃を指揮した。 新潟県長岡出身。旧姓は高野(たかの)。海兵32期、海大甲種14期。第26、27代連合艦隊司令長官。前線視察の際、ブーゲンビル島の上空で戦死(海軍甲事件)。日本において皇族・華族以外で、国葬を受けた最初の人物である。 1884年(明治17年)4月4日、新潟県古志郡長岡本町玉蔵院町(現在の長岡市坂之上町3丁目付近)で、旧越後長岡藩士(120石)・高野貞吉の六男として誕生する。当時の父親の年齢から「五十六(いそろく)」と名付けられた。