橋本 善吉(はしもと ぜんきち、1881年〈明治14年〉 -… 橋本 善吉(はしもと ぜんきち、1881年〈明治14年〉 - 1943年〈昭和18年〉)は、朝鮮九龍浦に居住した日本人実業家。橋本善吉商店店主。 香川県大川郡小田村(のち志度町、現・さぬき市)出身。九龍浦に移住し、妹婿植村倉太郎と共同で鮮魚運搬業を経営する。所有船は海興丸、鷹丸、千代丸、平安丸で、九龍浦を根拠地に朝鮮・関東州方面を活動舞台にする。その他大敷・巾着網漁業、イワシ加工など手広く経営する。 有志と協力して小学校創設に努力して、これを実現する。1938年7月に朝鮮慶尚北道九龍浦公立尋常高等小学校増築費金1322円を寄付したため、1939年12月に褒状を下賜される。学校組合管理者に挙げられる。
植田 末蔵(うえだ すえぞう、1881年〈明治14年〉 - … 植田 末蔵(うえだ すえぞう、1881年〈明治14年〉 - 1943年〈昭和18年〉)は、日本の政治家、実業家。山口県豊浦郡彦島町長。山口県会議員。植田商事常務取締役。植田合名会社員。植田商店代表。山口県参事会員。 山口県豊浦郡彦島町(現・下関市)出身。長い間町村会議員、郵便局長、郡会議員をつとめた。1923年、満場の推選で町長となった。また会社の重役であった。 彦島で海運業、運送業、貸地貸家業、労力請負業などを営んでいた植田惣五郎の二男。性格は純で、正直な事で有名であった。趣味は釣り。宗教は真宗。住所は山口県下関市江ノ浦町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
井上 紅梅(いのうえ こうばい、1881年(明治14年) -… 井上 紅梅(いのうえ こうばい、1881年(明治14年) - 1949年(昭和24年)?)は、大正・昭和戦前期の中国文学・中国文化研究者。当時の言葉で「シナ通 (支那通)」と呼ばれる在野の中国愛好家であり、中国風俗や中国事情を紹介する多くの著作を送り出した。同時代の新文学の紹介も旺盛に行い、魯迅のまとまった翻訳を初めて手がけたことで知られている。また、日本に麻雀を紹介した初期の人物の一人でもある。本名は井上 進(いのうえ すすむ)。 井上紅梅の生涯については不明な点が多く、生没年すら確定されない状況が長く続いた。中国史学者の三石善吉は、1970年代に「シナ通」研究の一環として紅梅についての調査を行ったが、「その生涯については謎ばかり」、「謎の人物」と評した。
野沢竹朝(のざわ ちくちょう、1881年(明治14年) - … 野沢竹朝(のざわ ちくちょう、1881年(明治14年) - 1931年(昭和6年)1月)は、囲碁の棋士。島根県生まれ、本因坊秀栄門下、七段。「常勝将軍」の異名をとる。毒舌で知られ、本因坊家から破門、日本棋院と棋正社の院社対抗戦では棋正社として出場した。 元出雲藩士野沢助之進の三男として島根県松江市に生まれる。6歳から碁石を手にし、10歳頃には囲碁の神童と謳われ、独学ながら1892年に方円社に入塾し、大阪に移っては田淵米蔵に師事。1896年に父と名古屋に移ってからは二段格の本多七兵衛と交流し、この頃には高崎泰策に三子の力があった。1903年に本因坊秀栄に入門し、飛付き二段となる。同年に三段、1907年には四段となる。
信田 一風(のぶた いっぷう、明治14年(1881年) - … 信田 一風(のぶた いっぷう、明治14年(1881年) - 昭和18年(1943年)、本名:信田直四郎)は、明治〜昭和時代の日本画家。 明治14年、栃木県根本(真岡市)の漢方医者の二男として生まれる。漢学を東台村の随光寺の覚菩姉に師事するも、塾内にては専ら絵筆を振り破門(当時13歳)。その後、画工矢橋夫箔の門に入り、花、鳥、山水、人物、と師法を学び、明治29年の秋、東京の鳥越に住する。その後、容斎派の松本楓湖に師事。帝展(現日展)等にも出品。特に人物画を得意とし、歴史画、仏画の百観音なども得意とする。明治39年と43年に福島地方にて画会を開く。昭和に入り、南千住の石浜神社に「天照大神」「猿田彦大神天孫降臨の画」を奉納。
永倉 江村人(ながくら こうそんじん、1881年(明治14年… 永倉 江村人(ながくら こうそんじん、1881年(明治14年) - 1951年(昭和26年))は、日本の画家。京都帝国大学福岡医科大学(後の九州帝国大学医学部、現在の九州大学医学部)解剖教室標本描画嘱託。本名は永倉茂。初号は江村人。 1881年(明治14年1月14日)千葉県印旛郡臼井町(現在の佐倉市臼井)に旧佐倉藩士の永倉良輔の長男として生まれる。旧制佐倉尋常中学(現在の千葉県立佐倉高等学校)を経て、1898(明治31)年東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科本科に入学、当時日本画助教授『横山大観』に師事、日本画を習う、学生時代、考古学研究における先駆者として、「東京人類学会(現日本人類学会)」に寄稿したという。
塩田 武雄(しおた たけお、1881年 - 1943年12月… 塩田 武雄(しおた たけお、1881年 - 1943年12月3日)は、ブルックリン植物園内日本庭園、日本式ヒル・アンド・池庭(Japanese Hill & Pond Garden)の作庭で知られる日系アメリカ人造園家。おもにアメリカ東海岸各地で日本庭園を手がけた。ニューヨーク州の近郊に残る大多数の日本庭園は塩田によるもので、彼が生涯に手がけたと知られている庭のうち約半数は未だに残っているというが、その多くは手入れをされずに放置されている。 千葉県夷隅郡大多喜町の裕福な農家に生まれ、地元の大多喜中学校、現在の千葉県立大多喜高等学校を卒業後、造園業に就き造園技術を習得。1907年新天地を求め26歳で当時日本庭園を造ることが一種のブームであったアメリカに来る。
川口 為之助(かわぐち ためのすけ、川口爲之助、1881年 … 川口 為之助(かわぐち ためのすけ、川口爲之助、1881年 - 1962年2月23日)は、大正・昭和期の日本の政治家。千葉県印旛郡志津村(現在の佐倉市上志津)出身。日本国憲法制定後の初代民選千葉県知事(通算では36代目)。後に参議院議員。
南 能衛(みなみ よしえ、1881年(明治14年) - 19… 南 能衛(みなみ よしえ、1881年(明治14年) - 1952年(昭和27年)5月17日)は、日本の音楽教育者・作曲家。『横浜市歌』などの作曲者として知られる。専門・担当はオルガン、楽理、和声論、音楽教授法、音楽通論。当時でいう唱歌編纂掛、楽語調査掛も務めた。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。 この項目は、クラシック音楽に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル クラシック音楽/ウィキプロジェクト クラシック音楽)。
金 始顕(キム・シヒョン、朝鮮語: 김시현/金始顯、1881… 金 始顕(キム・シヒョン、朝鮮語: 김시현/金始顯、1881年または1882年または1883年 - 1966年1月3日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の政治家。大韓民国臨時政府委員、東洋工科大学学長、第2・5代韓国国会議員。 本貫は安東金氏。字は九和(クファ、구화)、号は何求(ハグ、하구)、鶴右(ハグ、학우)。独立運動家の権愛羅(朝鮮語版)は妻。 慶尚道安東大都護府(現・慶尚北道安東市豊山面)出身。明治大学法学部卒。三・一運動に参加後、満州の吉林省に亡命し、義烈団に入団した。1922年、モスクワに開催された極東革命団体代表大会に金奎植・呂運亨らとともに韓国代表として参加した。1923年、義烈団の密命を受けて朝鮮に潜入し、日本の朝鮮統治機関の破壊や大日本帝国の要人の暗殺などを計画したが、京畿道警察部の黄鈺(朝鮮語版)と連携して爆弾を朝鮮に輸入し挙事しようとして逮捕され、懲役10年の刑を言い渡された。
丹波 恒夫(たんば つねお、 1881年 - 1971年11… 丹波 恒夫(たんば つねお、 1881年 - 1971年11月15日)は、日本の実業家、浮世絵収集家。横浜で貿易商を営み、丹波商会を創設して日本の貿易振興に貢献したほか、浮世絵収集家として国際的に知られ、寄贈した作品は「丹波コレクション」として神奈川県立歴史博物館に所蔵されている。連合軍総司令部(GHQ)繊維部顧問、日本浮世絵協会理事、横浜文化賞受賞。 山形県新片町(現・酒田市幸町)に生まれる。 1901年(明治34年)立教学院東京英語専修学校(現・立教大学)に入学。その後中退し、日露戦争に出兵。 その後、郷里の山形に戻り、酒田郵便局や新庄中学校などに勤務する。 1907年(明治40年)に米国に留学し、英語や経済学などを学び、後に百貨店に勤めて、欧米の絹布・雑貨などの研究を進め、日本の絹織物市場調査を行う。
山口 春吉(やまぐち はるきち、1881年〈明治14年〉 -… 山口 春吉(やまぐち はるきち、1881年〈明治14年〉 - 1938年〈昭和13年〉1月17日)は、日本のヤクザ、山口組創設者・初代組長。 兵庫県津名郡仮屋浦(町村制後:来馬村、現:淡路市仮屋)出身。日露戦争から復員後、1910年ごろまで地元で漁師をしていたが、これに見切りを付け、神戸港に労務者として移住した。 当初は神戸市生田区栄町にあった海運業の倉橋組で働き、持ち前の体力と統率力で小者頭にのし上がった。その後1912年ごろ、神戸港で人夫供給業や造船所の用心棒等を請け負い勢力を持っていた「運河ノ親分」こと大嶋秀吉率いる大嶋組に現場監督として入った。大嶋は吉田磯吉門下で、筑豊から神戸に流れた富永組の富永亀吉の子分である。
赤阪 音七(あかさか おとしち、1881年~1953年8月1… 赤阪 音七(あかさか おとしち、1881年~1953年8月17日)は船舶用エンジンの開発者。兵庫県淡路島洲本町(現洲本市)出身。享年72. 舶用動力機関の始動原理の発見。漁船の動力化に努める。また、船舶用ディーゼル機関の改良、普及にも努める。 【参考資料】 『赤阪翁追悼録』(発行・編纂:株式会社 赤阪鐵工所) 「決して、船主や乗組員に迷惑をかけるような機械をつくってはならない。」 それが彼の口癖だったという。豪快な人柄と確かな技術で、焼津の漁師の心をつかんだ。
荒川 敬(あらかわ けい、1881年 - 1964年)は茨城… 荒川 敬(あらかわ けい、1881年 - 1964年)は茨城県出身の海事実業家。中大型船の入港実績の無かった東京港に最初の汽船を入港させ、受け入れ態勢の整備に尽力した。位階は正六位。勲五等旭日章、瑞宝章受章。 旧水戸藩士・荒川信敬の長男。水戸市下市仲之町にて1881年(明治14年)7月29日に生まれる。地元の小学校を卒業後に数え年17歳で志を持って上京。同郷の西野元のもとに身を寄せ英数漢の学科を勉強した。1904年(明治37年)勃発した日露戦争では徴兵を受け近衛歩兵第1連隊所属の軍曹として満州へ渡り、その働きをもって金鵄勲章を授与される。復員翌年の1906年(明治39年)商船会社に入り海運業に携わった。
林田 操(はやしだ みさお、1880年12月28日 - 19… 林田 操(はやしだ みさお、1880年12月28日 - 1972年1月11日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県出身。1906年、東京帝国大学独法科卒。富士瓦斯紡績(株)に入り、工場長、調査部長から、中津絹糸紡績(株)専務取締役を経て、富士瓦斯紡績専務取締役となり、富士電力(株)取締役、(株)伊勢丹常務取締役を務めた。 1934年1月の福岡4区での補欠選挙に立憲政友会公認で立候補して初当選した。衆議院議員を1期務め、1936年の第19回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1972年死去。
川崎 克(かわさき かつ、本名:かわさき こく(漢字は同じ)… 川崎 克(かわさき かつ、本名:かわさき こく(漢字は同じ)、1880年(明治13年)12月28日 - 1949年(昭和24年)2月3日)は、日本の政治家。長男に実業家の川崎勉、次男に元厚生大臣の川崎秀二がいる。元厚生労働大臣の川崎二郎は孫、川崎秀人は曾孫にあたる。 三重県伊賀上野(現・伊賀市)出身。生家は油屋である。1898年(明治31年)に、政治家を志して同じ郷土三重県出身の尾崎行雄を頼って上京した。日本法律学校(現在の日本大学)で法律を学び、東京外語学校(現在の東京外国語大学)でフランス語を学んだ。1903年(明治36年)に東京市長であった尾崎の下で東京市の書記を務めた後、日本新聞社記者となり日本の統治下であった朝鮮半島に渡り元山時事新報の記者、元山民団の団長を務める。
伊波 月城(いは げつじょう)として知られた、伊波 普成(い… 伊波 月城(いは げつじょう)として知られた、伊波 普成(いは ふせい、1880年(明治13年)12月27日 - 1945年(昭和20年)5月30日)は、沖縄県のジャーナリスト、琉歌の歌人。「沖縄学の父」と称される伊波普猷の弟。 1880年(明治13年)12月27日に、当時の那覇西村(後の那覇市西)で、父・伊波普済、母・マツルの間に生まれた。 兄・普猷とともに、沖縄県尋常中学校(後の沖縄県立第一中学校などを経て、沖縄県立首里高等学校に系譜が繋がる)に学び、1895年(明治28年)から1896年(明治29年)にかけて、普猷ら上級生が主導した尋常中学校ストライキ事件の際には、下級生としてこれに加わったが、最終的に学校に残り、1899年(明治32年)に卒業した。
志村 清右衛門(しむら せいえもん、1880年12月27日 … 志村 清右衛門(しむら せいえもん、1880年12月27日 - 1930年4月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 千葉県出身。1907年、東京高等商業学校卒。大阪住友銀行社員となる。その後、千葉郡議、同副議長、千葉県議、同参事会員、幕張町長、漁業組合長を務めた。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において千葉1区から政友本党公認で立候補して当選。1928年の第16回衆議院議員総選挙では千葉1区から立憲民政党公認で立候補して再選した。衆議院議員を2期務めた。1930年の第17回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。同年4月に死去した。
苫米地 義三(とまべち ぎぞう、1880年〈明治13年〉12… 苫米地 義三(とまべち ぎぞう、1880年〈明治13年〉12月25日 - 1959年〈昭和34年〉6月29日)は、日本の実業家、政治家。位階は正三位。運輸大臣(第8代)、内閣官房長官(第3代)、衆議院議員(3期)、参議院議員(1期)、サンフランシスコ講和会議全権委員。 1880年(明治13年)12月25日、青森県上北郡相坂村(藤坂村を経て現在の十和田市)に生まれる。父の金次郎は村の評議員で、明治22年の市町村制施行時は、藤坂村の第1期村会議員にも選ばれた地域の有力者だった。一方で北海道開拓に並々ならぬ関心を抱いており、翌1890年(明治23年)には全財産を担保にして土地を買い、後志国磯谷郡南尻別村大谷地(現在の北海道蘭越町大谷地)に移り住んだ。
沖 直道(おき なおみち、1880年12月25日 - 193… 沖 直道(おき なおみち、1880年12月25日 - 1932年10月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1880年(明治13年)、高知県土佐郡小高坂村(現在の高知市)に生まれた。海南中学校を経て、1902年(明治35年)11月、陸軍士官学校(14期)を卒業。1903年(明治36年)6月、歩兵少尉に任官。1912年(大正元年)11月、陸軍大学校(24期)を卒業した。 平和条約実施委員、陸軍大学校兵学教官などを経て、1923年(大正12年)8月、歩兵大佐に昇進し参謀本部運輸課長に就任。1924年(大正13年)7月、歩兵第68連隊長となり、参謀本部運輸課長、陸軍省人事局補任課長を歴任。
青木 才次郎(あおき さいじろう、1880年(明治13年)1… 青木 才次郎(あおき さいじろう、1880年(明治13年)12月21日 - 1954年(昭和29年)12月6日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・龍間。 茨城県西葛飾郡、のちの猿島郡五霞村(現五霞町)で、先代・青木才次郎の長男として生まれる。私立錦城中学校(現錦城学園高等学校)を経て、明治法律学校を修了した。1919年(大正8年)家督を相続し才次郎を襲名した。 青木組を組織して土木建築請負業を営み、茨城土木工業社長、水戸商工会議所議員などを務めた。 また、水戸市会議員、同参事会員、茨城県小作調停委員、同治水委員会委員、同耕地整理組合長などを歴任した。 1924年(大正13年)補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、同年5月3日に就任し1925年(大正14年)9月28日まで在任。
山川 均(やまかわ ひとし、1880年(明治13年)12月2… 山川 均(やまかわ ひとし、1880年(明治13年)12月20日 - 1958年(昭和33年)3月23日)は、日本の社会主義者、社会運動家、思想家、評論家。労農派マルクス主義の指導的理論家であった。山川菊栄は2番目の妻。 岡山県窪屋郡倉敷村字城ノ内に生まれる。小学校時代の友人に大原孫三郎がいた。同志社尋常中学部に学び、柏木義円らから影響を受ける。在学中に教育勅語や教会のキリスト教に対して反感と不信を抱き、同志社教師森田久萬人としばしば論争した。 同志社を中退して上京。1900年(明治33年)、守田有秋らの友人と語らって発行していた雑誌『青年の福音』に掲載した皇太子の結婚事情について書いた論説「人生の大惨劇」が不敬罪に問われ、重禁固刑を受ける。
平ノ石 辰治郎(ひらのいし たつじろう、1880年12月20… 平ノ石 辰治郎(ひらのいし たつじろう、1880年12月20日 - 1925年11月9日)は、現在の福島県いわき市出身で玉垣部屋、尾車部屋、峰崎部屋に所属した元大相撲力士。12代玉垣。本名は緑川 辰次郎。167cm、94kg。最高位は西前頭4枚目。 磐城炭坑で石炭運搬に従事していたが、相撲の強さを見出した上司から勧められて入門。1900年1月、初土俵・序ノ口。三段目に在位していた1905年に、師匠の死によって玉垣部屋が消滅し、それに伴い尾車部屋に移籍し、横綱大砲、大関荒岩の指導を受け、1908年5月十両昇進した。1911年2月新入幕。新入幕までには序ノ口から11年(22場所)かかっており、このうち三段目は4年半(9場所)に及んだ。
八角 三郎(やすみ さぶろう、1880年〈明治13年〉12月… 八角 三郎(やすみ さぶろう、1880年〈明治13年〉12月19日 - 1965年〈昭和40年〉1月20日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍中将、衆議院議員。 岩手県盛岡市出身。栃内曽次郎海軍大将は叔父。八角が海軍兵学校を志願するきっかけは原敬の激励だったという。 岩手県立盛岡尋常中学校より海軍兵学校(29期)へ進んだ。席次は入校時137名中119番。卒業時は125名中75番。第一駆逐隊所属の駆逐艦「吹雪」乗組み中尉として日本海海戦に参戦。大尉時代に『敵艦進路及び速力の誤測に対する命中限界算法、魚雷動的発射に於ける誤差』と題する論文を発表 し、海軍水雷術の発展に貢献している。海軍水雷学校校長、第二水雷戦隊司令官を務めた水雷の権威である。
盛島 明長(もりしま めいちょう、1880年(明治13年)1… 盛島 明長(もりしま めいちょう、1880年(明治13年)12月19日 – 1941年(昭和16年)3月24日)は、衆議院議員(立憲政友会)、医師。 沖縄県宮古郡下地村(現在の宮古島市)出身。1902年(明治35年)に沖縄県師範学校を卒業し、小学校訓導を務めた。その後、長崎医学専門学校に入学し、1908年(明治41年)に卒業。翌年、郷里に医院を開業した。 医業のかたわら、1917年(大正6年)より県会議員となり、副議長、議長を歴任した。 1936年(昭和11年)、第19回衆議院議員総選挙に出馬し当選。翌年の第20回衆議院議員総選挙でも再選されたが、1938年(昭和13年)4月7日、衆議院議員選挙法違反事件で大審院で上告棄却となり長崎控訴院判決が確定して退職した。
小原 光雲 (おはら こううん、1880年(明治13年)12… 小原 光雲 (おはら こううん、1880年(明治13年)12月19日 – 1938年(昭和13年)8月13日)は 大正-昭和時代前期の華道家。いけばな小原流二世家元。島根県松江市出身。本名は光一郎。 1880年(明治13年)、島根県松江市に生まれる。1890年(明治23年)、父(小原雲心)に呼ばれ大阪に転居する。父の勧めで商人を目指していたが、小原流興隆のため1904年(明治37年)、25歳で華道家に転身。1916年(大正5年)、父の死を受けて小原流家元を継承。以来、積極的に花展を開催し、ラジオや新聞・雑誌などで講座を受け持つなど、小原流いけばなの大衆化を図る。盛花に「型」を定め家元制度を確立させ、盛花をいける人を急増させる。
藤原 喜一(ふじわら きいち、1880年〈明治13年〉12月… 藤原 喜一(ふじわら きいち、1880年〈明治13年〉12月17日 - 1990年〈平成2年〉3月6日)は、編集者、東洋美術史・中国書道史研究者。号は楚水(そすい)。書や漢詩に関する著書多数。男性長寿日本一だった(109歳)。 大分県西国東郡呉崎村(現:豊後高田市)生まれ。呉崎小学校教師を経て、1901年、関西法律学校を卒業後、明治法律学校で法律・経済学を学び、1904年、実業之日本社に入社。編集長、理事を務める。1928年、退社後は三省堂出版部顧問に。 戦後は東洋美術史、中国書道史の著述をする傍ら、駒澤大学、東京学芸大学、横浜国立大学で東洋美術史、中国書道史を講義。1961年、論文『中国書道史』で博士号(文学、駒澤大学)を取得。
天岡 直嘉(あまおか なおよし、1880年〈明治13年〉12… 天岡 直嘉(あまおか なおよし、1880年〈明治13年〉12月17日 - 1957年〈昭和32年〉1月8日)は、明治・大正・昭和初期の内務・逓信官僚。売勲事件で知られる。 内閣総理大臣桂太郎の娘・輝子の夫。逓信省為替貯金局長、逓信省貯金局長、賞勲局総裁を歴任。位階勲等は従三位勲二等、後に失位・褫奪。岐阜県出身。 岐阜県安八郡大垣町(現大垣市)で、旧大垣藩士・天岡通剣の長男として生まれた。1906年東京帝国大学法科大学卒業、内務省入省。 1907年、内閣書記官。1912年、内閣会計課長。1917年に逓信省に移って逓信省為替貯金局長となり、1920年に貯金局が分離すると逓信省貯金局初代局長になった。
中山 寿彦(中山 壽彦、なかやま としひこ、1880年12月… 中山 寿彦(中山 壽彦、なかやま としひこ、1880年12月16日 - 1957年11月26日)は、日本の医師、政治家。日本医師会4代会長、貴族院議員、参議院議員、国務大臣。位階は従三位。勲等は勲二等。 兵庫県生まれ。1907年、東京帝国大学医学部を卒業。同年、東京医科大学附属病院助手となった。1920年、東京府豊多摩病院長に就任。東京府医師会長、同医師会附属下谷病院長、東京市理事、日本医療団東京支部事務局長、母子愛育会理事、公衆衛生院顧問、医師国家試験審議会委員などを歴任。 1946年(昭和21年)2月に日本医師会会長に就任した。戦後の新体制を準備していたが、GHQから戦争協力者に対する公職追放を医師会役員にも適用するという通告を受けて会長職を辞任した。
秦 逸三(はた いつぞう、1880年12月14日 - 194… 秦 逸三(はた いつぞう、1880年12月14日 - 1944年5月25日)は、日本で初めて人造絹糸(レーヨン)製造に成功した科学者・実業家。帝国人造絹糸(現・帝人)共同設立者。今の広島県安芸郡海田町出身。 広島県立広島第一中学校(現広島県立国泰寺高校)、第一高等学校を経て、東京帝国大学医科大学薬学部に入学したが、同大学工科大学応用科学科に転入学した。1908年に卒業後、樟脳事務局に就職。のち神戸税関を経て、米沢市にある旧制米沢高等工業学校(現山形大学工学部)教授となり、研究室でビスコース人造絹糸(レーヨン)製造に専念する。 1884年にフランス人イレール・ド・シャルドネ(フランス語版、英語版)によって発明されたレーヨンは、1892年に工業化に成功し、日本にも紹介され、1905年から本格的な輸入が始まり、日本市場にも徐々に普及していった。
富永 鴻(とみなが こう、1880年(明治13年)12月13… 富永 鴻(とみなが こう、1880年(明治13年)12月13日 - 1937年(昭和12年)5月15日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、長崎市長。 静岡県城東郡、のちの大須賀村(小笠郡横須賀町、大須賀町を経て現掛川市)出身。衆議院議員・富永発叔の二男として生まれ、富永ひでの養子となる。第三高等学校を卒業。1905年、東京帝国大学法科大学を卒業。1906年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し台湾課属となる。 以後、鹿児島県事務官、兵庫県事務官、神奈川県事務官、同県港務部長、徳島県警察部長、宮城県警察部長、石川県内務部長、山梨県内務部長などを歴任。 1921年6月、佐賀県知事に就任。
辛島 知己(からしま ともき、1880年(明治13年)12月… 辛島 知己(からしま ともき、1880年(明治13年)12月12日 – 1967年(昭和42年)10月15日)は、日本の内務官僚。熊本市長。 熊本県熊本市に辛島格の長男として生まれる。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、高等文官試験に合格した。衆議院試補、同書記官を経て、岩手県理事官、山梨県警察部長、静岡県警察部長、静岡県内務部長を歴任した。 1925年(大正14年)に退官した後は、熊本市長に選出された。 1930年(昭和5年)より関東庁事務官となり、大連民政署長、専売局長事務取扱を務めた。 その後は帝国発明協会専務理事・研究所総務部長となり、1943年(昭和18年)には関東州住宅営団理事長に就任した。
松田 月嶺(まつだ げつれい、1880年12月10日 - 1… 松田 月嶺(まつだ げつれい、1880年12月10日 - 1919年1月22日)は、日本の俳人。 山形県谷地町生まれ。1907年曹洞宗大学(現 駒澤大学)、1911年京都帝大文学部卒業。別名・通称、湛堂。山形県谷地町の定林寺巨勢寂湛によって得度。1911年、母校曹洞宗大学講師となる。俳句は大須賀乙字に学び、作家として特異な地歩を占めていた。著書に名和三幹竹編「月嶺句集」がある。大正8年1月22日逝去、39歳。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
土屋 寛(つちや ゆたか、1880年(明治13年)12月10… 土屋 寛(つちや ゆたか、1880年(明治13年)12月10日 - 1950年(昭和25年)11月12日)は、衆議院議員(立憲民政党)、尾道市長。 広島県御調郡栗原村(のち栗原町、現尾道市)出身。御調郡書記を務めた後、1909年(明治42年)に栗原村の村長に選出され、町制施行後も町長を務めた。また、広島県会議員に選出され、県会の郡部会議長にも就任した。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し当選。当選回数は合計で4回を数えた。その間、1940年(昭和15年)から1942年(昭和17年)にかけて尾道市長を務めた。 戦後、日本進歩党の結成に参加するが、大政翼賛会の推薦議員だったため、間もなく公職追放となった。
浜田 精蔵(濱田 精藏、はまだ せいぞう、1880年(明治1… 浜田 精蔵(濱田 精藏、はまだ せいぞう、1880年(明治13年)12月9日 - 1926年(大正15年)9月8日)は、明治末から大正期のジャーナリスト、実業家、政治家。衆議院議員、福岡市会議長。清蔵の表記有り。 鹿児島県 姶良郡、のちの加治木村(加治木町を経て現姶良市)で、浜田清四郎の二男として生まれた。1905年(明治38年)慶應義塾大学政治科を卒業した。 時事新報記者となりロンドン特派員、経済部長などを務めた。千代田生命保険に転じ、福岡支部長などを務めた。その後、博多商業会議所副会頭、諏訪炭礦専務取締役、西部合同瓦斯会社(現西部ガスホールディングス)社長、日本水電取締役などを務めた。 政界では、福岡市会議員に選出され、同議長にも在任した。
お鯉(おこい、1880年12月8日 - 1948年8月14日… お鯉(おこい、1880年12月8日 - 1948年8月14日)は、芸妓から、のちに政治家桂太郎の愛妾になり、晩年に尼僧となった女性。本名は小久江(のち安藤)照。 東京・四谷見附の漆問屋に生まれ(貰い子とも)、6歳で新宿の引手茶屋主人・安藤兼作の養女となるも養家の家産が傾き、14歳で新橋「照近江」の芸者となり花柳界に入る。のち市村羽左衛門と結婚したが、間もなく離婚して花柳界に戻った。24歳ころ、山縣有朋の紹介で60歳近い桂太郎の愛妾となり、赤坂榎坂町に暮らし、病気がちな本妻可那子に代わって桂の世話をした。日比谷焼討事件では「桂とともにお鯉を殺せ」の声が上がり、榎坂町の自邸が焼かれた。 1913年、桂の死後は待合や銀座カフェー・ナショナルを経営した。
近藤 寿一郎(こんどう じゅいちろう、1880年〈明治13年… 近藤 寿一郎(こんどう じゅいちろう、1880年〈明治13年〉12月8日 - 1958年〈昭和33年〉11月7日)は、日本の実業家、林業並びに製薬業鋼商。近藤家第7代。 鳥取県日野郡根雨宿(のち日野郡根雨町、現日野町)出身。近藤喜兵衛の長男。近藤家は製鉄業を営み、大山林地主である。大阪工業学校(現大阪大学工学部)に学んだが、中退する。 1912年、根雨銀行監査役に就任する。1913年、日野郡根雨町に木材乾溜工場を設立する。1914年、日野郡是製糸取締役となる(後に社長)。1916年、酢酸精製工場として大阪府堺市に近藤製薬工場を建設する。1920年、日野郡教育会長に就任する。 1921年、日野郡木炭同業組合副会長に就任する。
内田 信也(うちだ のぶや、本名:のぶなり、1880年(明治… 内田 信也(うちだ のぶや、本名:のぶなり、1880年(明治13年)12月6日 - 1971年(昭和46年)1月7日)は日本の実業家、政治家。
松本 彦次郎(まつもと ひこじろう、1880年12月5日 -… 松本 彦次郎(まつもと ひこじろう、1880年12月5日 - 1958年1月14日)は、日本の歴史学者、俳人。東京文理科大学名誉教授、野辺地町名誉町民。「金鶏城」と号した。 青森県上北郡野辺地村(後の野辺地町)に生まれる。1903年、第一高等学校を卒業し、京都帝国大学法科に進んだが、1904年に東京帝国大学文科大学史学科に入学。1908年に卒業 卒業後は慶應義塾普通部の教員となり、1919年に第六高等学校教授となった。1915年にはシカゴ大学への留学を経験する。1930年、東京文理科大学助教授となる。1931年に教授に昇進し、国史学教室主任として後進を指導した。1943年に東京文理科大学を定年退職し、1944年に同大学名誉教授となった。
今村 信次郎(いまむら のぶじろう、1880年(明治13年)… 今村 信次郎(いまむら のぶじろう、1880年(明治13年)12月4日 - 1969年(昭和44年)9月1日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 旧米沢藩江戸家老同心(下士階級)で農業を営む今村滝次郎の二男として生れる。米沢中学校を経て、1902年(明治35年)12月、海軍兵学校(30期)を次席で卒業し、翌年12月、海軍少尉任官。この時席次は百武源吾と入れ替わり首席となった。日露戦争では「韓崎丸」乗組として、百武、溝部洋六らと海兵32期の指導にあたり、日本海海戦には「三笠」乗組で砲術長安保清種付として参戦した。「須磨」乗組、「鹿島」回航委員、同分隊長などを経て、海軍砲術学校特修科を首席で修了。
島本 信二(しまもと しんじ、1880年12月2日 - 19… 島本 信二(しまもと しんじ、1880年12月2日 - 1927年12月31日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 熊本県出身。慶應義塾大学で学び、アメリカへ留学する。帰国後、熊本県会議員となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において熊本6区から立憲政友会公認で立候補して当選する。1924年の第15回衆議院議員総選挙では政友本党公認で立候補して再選した。のち政友会に戻り、衆議院議員を2期務めた。1927年在職中に死去した。
梅谷 光貞(うめたに みつさだ、1880年〈明治13年〉12… 梅谷 光貞(うめたに みつさだ、1880年〈明治13年〉12月2日 - 1936年〈昭和11年〉9月27日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 兵庫県養父郡畑村(現・養父市)で、梅谷伊平の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1908年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1909年1月、内務省に入省し警視庁警部となる。 1910年(明治43年)11月、警視庁警視に昇進。以後、岩手県警察部長、栃木県警察部長等、警察畑の要職を歴任した。1916年6月、台湾総督府に転出し、警視・民政部警察本署保安課長に就任。その後、警察官及司獄官練習所長事務取扱、台北庁長、総督府事務官、兼参事官、新竹州知事などを歴任。
渡辺 三郎(渡邊 三郎、わたなべ さぶろう、1880年(明治… 渡辺 三郎(渡邊 三郎、わたなべ さぶろう、1880年(明治13年)12月2日 - 1951年(昭和26年)1月8日)は、日本の工学者、実業家、政治家。工学博士、貴族院勅選議員。旧姓・大河原。「特殊鋼」の命名者。 群馬県碓氷郡松井田駅(現安中市)で、商業・大河原新七、野恵夫妻の三男として生まれる。松井田町尋常高等小学校、群馬尋常中学校、第一高等学校工科を経て、1907年(明治40年)6月、東京帝国大学工科大学採鉱冶金学科を卒業。 大学卒業後、古河鉱業所 (株)(現古河機械金属)に入社し足尾鉱業所精錬課溶鋼係長に就任。1908年(明治41年)6月、実業家・渡辺福三郎、多満子夫妻の五女で従姉妹の那べと入夫縁組して渡辺と改姓。
中野 太三郎(なかの たさぶろう、1880年(明治13年)1… 中野 太三郎(なかの たさぶろう、1880年(明治13年)12月 - 1941年(昭和16年)11月10日)は、朝鮮総督府官僚、実業家。玄洋社員。
前田 松韻(まえだ まつおと、1880年(明治13年)12月… 前田 松韻(まえだ まつおと、1880年(明治13年)12月 - 1944年(昭和19年)4月11日)は、日本の建築家。大連民政署の設計や、寝殿造の研究で知られる。 京都市生まれ。父は福井県士族前田松閣。1904年(明治37年)7月、東京帝国大学工科大学建築学科卒業。 日露戦争下の1904年に軍倉庫の建設に携わり、1905年2月、大連軍政署の嘱託技師、同年10月、関東都督府技師となる。在職中に大連民政署(現・遼寧省対外貿易経済合作庁)、大連の日本橋(現・勝利橋)を設計。 1907年(明治40年)10月、東京高等工業学校(現・東京工業大学)建築科教授に就任。日英博覧会の装飾を担当し、1909年12月よりロンドンに出張。
岡崎 憲(おかざき けん、1880年〈明治13年〉11月30… 岡崎 憲(おかざき けん、1880年〈明治13年〉11月30日 - 1942年〈昭和17年〉7月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 宮城県仙台市生まれ。1907年(明治40年)東京高等商船学校(現東京海洋大学)卒。東洋汽船に入り、外国航路の船長になる。同時に海軍予備員となり、少佐となる。1920年(大正9年)にイタリアのジェノバで開かれた第2回ILO総会に出席。帰国後は海員組合の創立委員となり、顧問に就任。その後社会民衆党の結成に参加し、中央委員となる。1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員総選挙で当時の神奈川1区から社会大衆党公認で立候補して当選した。翌年の総選挙でも再選。いずれもトップで当選した。
佐々木 秀司(ささき ひでじ、1880年(明治13年)11月… 佐々木 秀司(ささき ひでじ、1880年(明治13年)11月29日 - 1934年(昭和9年)11月14日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。政友会系官選香川県知事。 福島県田村郡守山町(現・郡山市)出身。佐々木一二の二男として生まれる。第二高等学校を卒業。1907年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し、警視庁警部となる。 以後、警視庁警視、四谷警察署長、栃木県事務官、石川県警察部長、群馬県警察部長、新潟県警察部長、山形県内務部長、神奈川県内務部長などを歴任。 1922年6月、香川県知事に就任。政友会の政党色の強い県政を行った。1923年10月、知事を休職となる。
尾崎 洵盛(おざき のぶもり、1880年〈明治13年〉11月… 尾崎 洵盛(おざき のぶもり、1880年〈明治13年〉11月29日 - 1966年〈昭和41年〉1月31日)は、日本の陶磁器研究家、外交官、男爵。中国の陶磁器の権威として知られた。元文化財専門審議会専門委員。 東京生まれ。慶應義塾幼稚舎を経て、1903年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。1905年同専攻部卒業。1906年外交官及領事官試験に合格し、外務省に入省。在上海日本国総領事館総領事事務代理、在アメリカ合衆国日本国大使館三等書記官、外務省参事官、在ベルギー公使館二等書記官等を経て、1918年退官。陶磁器研究を行い、中国の陶磁器の権威として知られた。元文化財保護委員会文化財専門審議会専門委員。
太田 秋之助(おおた あきのすけ、1880年(明治13年)1… 太田 秋之助(おおた あきのすけ、1880年(明治13年)11月27日 - 1957年(昭和32年)6月21日)は、大正から昭和期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、福島県会議長、福島県相馬郡石神村長。子に参議院議員を務めた太田豊秋。ひ孫はお笑いコンビ「天明ブラウン」の 太田成秋。 福島県行方郡信田沢村(石神村、相馬郡石神村信田沢、原町市を経て現南相馬市原町区信田沢)で、太田亥之助の長男として生まれる。高等小学校を卒業。1916年(大正5年)家督を相続した。 農業、家業の土木建築請負業(東北建設)を営む。福島電灯取締役、東北電気取締役、植田水力電気取締役、福電興業取締役、信用組合理事、福島県地方木材会社社長、福島県煙草耕作組合連合会副会長などを務めた。
羽島 金三郎(はしま きんざぶろう、1880年11月25日 … 羽島 金三郎(はしま きんざぶろう、1880年11月25日 - 1962年3月22日)は、日本の鉄道技術者。現在の山形県上山市出身。次男には国鉄浜松工場・大宮工場長、川崎電機製造常務取締役を務めた羽島進。 山形県南村山郡上山裏町(現・上山市裏町)にて羽島栄造・はなの長男として生まれ、明新学校・上山尋常高等小学校(現・上山市立上山小学校)、山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)、第二高等学校(現・東北大学)、帝国大学工科大学(現・東京大学大学院工学系研究科・工学部)機械工学科を経て1905年に川崎造船所に就職した。同年には松平信安の長女・賀満(かま)と結婚した。 1907年12月に帝国鉄道庁へ移り大宮工場で勤務、1910年に鉄道院技技師、1919年に盛岡工場長、1922年に札幌鉄道局工作課車両係長を経て、その後工作課長となる。