岸 良一(きし りょういち、1890年(明治23年)5月2日… 岸 良一(きし りょういち、1890年(明治23年)5月2日 - 1962年(昭和37年)1月21日)は、日本の農林官僚。参議院議員(緑風会)。 東京府出身。1915年(大正4年)、東京帝国大学農科大学を卒業し、一年志願兵として軍務についた。1917年(大正6年)に農商務省に入り、畜産試験場技手・農商務技手となり、1918年(大正7年)から緬羊研究のためにイギリス・アメリカ合衆国に留学した。帰国後、農商務技師、農林技師となり、畜産局で鶏卵増産奨励運動の事務にあたった。1932年(昭和7年)、関東軍特務部員となり、1934年(昭和9年)には満洲国実業部林務司長に就任した。その後、農林省で林野局長、畜産局長、農務局長を歴任し、1942年(昭和17年)に馬政局長官となった。
上塚 司(うえつか つかさ、1890年(明治23年)5月1日… 上塚 司(うえつか つかさ、1890年(明治23年)5月1日 - 1978年10月22日)は、日本の政治家。衆議院議員(7期)。
板谷 信一郎 (いたや のぶいちろう 1890年〈明治23年… 板谷 信一郎 (いたや のぶいちろう 1890年〈明治23年〉5月1日 - 1961年〈昭和36年〉12月28日)は、東京都立川市長(1期)。勲六等瑞宝章。 1890年、神奈川県北多摩郡立川村(立川町を経て、現在の東京都立川市)生まれ。1951年立川市長に就任。 市長就任後は、市内に市営競輪場を開設、市営塵芥焼却場の建設、浄水場の完成、市営野球場の開場、立川音頭の制定などがあった。 1955年に退任するまで市長を4年間務めた。 1961年に死去。71歳。死没日付をもって勲六等瑞宝章を追贈された。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
湯浅 八郎(ゆあさ はちろう、1890年(明治23年)4月2… 湯浅 八郎(ゆあさ はちろう、1890年(明治23年)4月29日 - 1981年(昭和56年)8月15日)は、日本の昆虫学者・教育者・キリスト者。第10・12・13代同志社総長および初代国際基督教大学学長を歴任した。湯浅治郎の五男。 1890年(明治23年)、東京市赤坂に生まれた。父は同志社理事・群馬県会議長・衆議院議員を務めた実業家・政治家である湯浅治郎、母は徳富蘇峰・徳富蘆花兄弟の姉である初子である。湯浅家は当時の日本ではまだ珍しい、クリスチャン・ホームであった(父方の叔父に聖書学者として知られる湯浅吉郎がいる)。少年期は主として京都で過ごした。 1902年(明治35年)に同志社普通学校に入学、1908年(明治41年)に卒業し、米国に渡った。
龍 粛(りょう すすむ、1890年4月29日 - 1964年… 龍 粛(りょう すすむ、1890年4月29日 - 1964年2月25日)は、大正・昭和期の歴史学者。専攻は中世史。元東京大学史料編纂所長。萩野由之は舅に当たる。
二代目 三遊亭 円歌(さんゆうてい えんか、1890年〈明治… 二代目 三遊亭 円歌(さんゆうてい えんか、1890年〈明治23年〉4月28日 - 1964年〈昭和39年〉8月25日)は、日本の落語家。本名∶田中 利助。出囃子は『踊り地』。新潟県新潟市出身。 新潟県立新潟中学校卒業。当時の落語家には珍しく旧制中学校卒業の高学歴で、家は洋館三階建ての裕福な両替屋であったが、祖母が米相場で失敗して破産し、神奈川県横浜市で貿易商館員として働くも、女性問題を起こしたことがきっかけで北海道札幌市に移り、京染屋を始める。花柳界相手の商売を通じて、元噺家の松廼家右喬と出会ったことで、落語に興味を抱き、素人演芸の集団に加わる。 北海道に移り住んだ後は旅回りの一座に入り、勝手に「東京落語の重鎮・三遊亭柳喬」と名乗っていたが、小樽市で巡業中の二代目三遊亭小圓朝に見つかり、それがきっかけとなり落語家の道に入る。
久保田 豊(くぼた ゆたか、1890年4月27日 - 198… 久保田 豊(くぼた ゆたか、1890年4月27日 - 1986年9月9日)は、日本の実業家。位階は正三位。日窒コンツェルンの野口遵と共に、当時世界最大級の水豊ダムをはじめ、朝鮮北部に大規模なダムを建設した。戦後は建設コンサルタント会社日本工営社長を務めた。 日窒コンツェルンの長津江水電、朝鮮送電の取締役を経て、朝鮮電業社長に就任。当時世界的な生産規模を有していた朝鮮窒素肥料興南工場などへ電力を供給する体制を整えた。また世界でも最大級のダムである鴨緑江の水豊ダムの建設を実現した。戦後、ビルマ(現ミャンマー)のバルーチャン発電計画を受注し、これは結果的にODAの原点となる戦後賠償の第1号案件につながった。
内海 安吉(うつみ やすきち、1890年4月27日 - 19… 内海 安吉(うつみ やすきち、1890年4月27日 - 1976年4月11日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員。宮城県桃生郡小野村(現在の東松島市)出身。自民党衆議院議員で建設大臣、国土庁長官を務めた内海英男は長男。 1890年(明治23年)桃生郡小野村の農家に生まれる。1910年(明治43年)日本大学法律科を卒業し、日本電報通信社に入社し政治記者となる。同社の京城支局員、大連支局長を経て、奉天公報社長、帝国新報社長を務めた他、内閣嘱託として、興亜院に入り、上海で勤務する。この間、帰国中に執筆した「産業立国策」が犬養毅に評価され、1930年(昭和5年)立憲政友会から第17回衆議院議員総選挙に立候補するが落選する。
堀田 くに(ほった くに、1890年4月26日 - 1985… 堀田 くに(ほった くに、1890年4月26日 - 1985年8月10日)は、日本の女性運動家。富山県高岡市出身。石川県立金沢第一高等女学校卒業。 廻船問屋堀田善右衛門の娘として生まれる。堀田家は、南北朝時代に後醍醐天皇第8皇子宗良親王を奉じて越中に落ち延びた朝臣の子孫で、親王を守り立てるために廻船問屋業を始めたという。 この廻船問屋は、くにの代で廃業となる。大正14年(1925年)、船荷を運ぶ女性労働者の子どもたちが浜辺に放置されるままであるのを見かねて、くには富山県初の託児所である伏木託児所(現在の伏木保育園)を開設した。1942年に厚生大臣表彰、1954年に藍綬褒章、1964年に勲五等宝冠章を受けた。
崔南善(チェ・ナムソン、1890年4月26日 - 1957年… 崔南善(チェ・ナムソン、1890年4月26日 - 1957年10月10日)は朝鮮の詩人、ジャーナリスト、歴史家である。号は六堂(ユクタン)。本貫は東州崔氏。
西村 弥三郎(にしむら やさぶろう、1890年(明治23年)… 西村 弥三郎(にしむら やさぶろう、1890年(明治23年)4月26日 - 1981年(昭和56年)4月23日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家。愛媛県八幡浜市長。愛媛県多額納税者。旧姓は本多、幼名は恭礼。 愛媛県東宇和郡宇和町久枝(現・西予市宇和町久枝)で本多好礼の三男として生まれ、1908年(明治41年)宇和島中学校(現・愛媛県立宇和島東高等学校)卒業とともに八幡浜の素封家・西村家(泉屋)の西村ヒサ方に養子入籍し、当主となる。第五高等学校(現・熊本大学)を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学法学部を卒業し、2年間銀行に勤めたのちに郷里に戻り、家業を継ぎ、名を弥三郎と改める。 第二十九銀行(伊予銀行の前身)取締役、八幡浜信用金庫理事長、西宇和郡社会事業協会理事長、壮年団長などを歴任したのち、1936年(昭和11年)3月に前八幡浜市長の酒井宗太郎が病没すると、第2代八幡浜市長に就任。
武田 正憲(たけだ まさのり、1890年4月25日 - 19… 武田 正憲(たけだ まさのり、1890年4月25日 - 1962年3月3日)は、日本の俳優である。本名同じ。 1890年(明治23年)4月25日、東京府東京市芝区(現在の東京都港区芝)に、和歌山県出身の海軍中尉だった武田武守の息子として生まれる。 1979年(昭和54年)10月23日に発行された『日本映画俳優全集 男優編』(キネマ旬報社)によれば、暁星中学校を経て早稲田大学専門部英文科に入学し、1909年(明治42年)5月、坪内逍遥らの文芸協会演劇研究所に1期生として入る。『讀賣新聞』によれば、1914年(大正3年)に早稲田大学英文科を卒業し、文芸協会演劇研究所に加入したという旨が記されている。
戸塚 道太郎(とづか みちたろう、1890年〈明治23年〉4… 戸塚 道太郎(とづか みちたろう、1890年〈明治23年〉4月21日 - 1966年〈昭和41年〉3月6日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 1890年(明治23年)4月21日東京府南豊島郡千駄ヶ谷村(現在の東京都渋谷区)に生まれる。旧制東京府立第4中学校を経て、1907年(明治40年)9月21日海軍兵学校38期に150名中12番の成績で入校、1910年(明治43年)7月18日149名中33番の成績で卒業、少尉候補生、装甲巡洋艦「浅間」乗組。10月16日- 練習艦隊遠洋航海出発(ホノルル-サンフランシスコ-サンピドロ-マサニーリョ-アカプルコ-パナマ-アカプルコ-ホノルル方面巡航)。1911年(明治44年)3月6日帰着。
田辺 孝次(たなべ たかつぐ、1890年4月21日 - 19… 田辺 孝次(たなべ たかつぐ、1890年4月21日 - 1945年4月16日)は、日本の美術史家。 石川県金沢市生まれ。息子は美術史家の田辺徹。室生犀星とは幼馴染。1913年東京美術学校彫刻科を卒業、18年同校美術史研究室の助手、19年教授となり、工芸史を講じた。1924年から25年工芸史研究のため欧米諸国に学び、1927年東京高等工芸学校講師を兼ねた。1937年再び欧洲各国に出張して38年帰国、1939年には石川県立工業学校長となり42年退職した。
尾崎 義春(おざき よしはる、1890年〈明治23年〉4月2… 尾崎 義春(おざき よしはる、1890年〈明治23年〉4月20日 - 1973年〈昭和48年〉9月19日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。北海道旭川市出身。 農家の尾崎次郎の二男として生まれる。北海道庁立旭川中学校を卒業したのち、日本軍に入隊。 陸軍士官学校23期・ 陸軍大学校31期。関東軍に出仕。1928年の張作霖爆殺事件の際には河本大作大佐の部下として実行部隊を指揮する。その後、日中戦争(支那事変)では独立混成第13旅団長として出動し、淮南で新四軍と激戦を繰り広げた。 日米開戦後は第19師団長に親補され、北朝鮮からフィリピンへと転戦。リンガエン湾・プロム山の戦闘では圧倒的兵力を誇る米軍相手に善戦敢闘した。
森本 甚兵衛(もりもと じんべい、旧姓・細井、前名・悦蔵、1… 森本 甚兵衛(もりもと じんべい、旧姓・細井、前名・悦蔵、1890年〈明治23年〉4月20日 - 1983年〈昭和58年〉9月12日)は、日本の地主、実業家。西宮酒造(現・日本盛)代表取締役。12代森本甚兵衛。 大阪府豊能郡北豊島村(現・池田市)に細井重右衛門の四男として生まれた。1914年(大正3年)に兵庫県人・森本甚兵衛の養子となり家督を相続、1915年(大正4年)1月に前名・悦蔵を改め、甚兵衛を襲名した。戊辰土地、南大阪田園都市各監査役をつとめた。 西宮銀行に入行し、取締役に就任、同行が1936年(昭和11年)に神戸銀行に合併のため退任した。1930年(昭和5年)2月に西宮酒造入社、取締役に就任、1943年(昭和18年)4月に監査役に就任した。
山宮 允(さんぐう まこと、1890年(明治23年)4月19… 山宮 允(さんぐう まこと、1890年(明治23年)4月19日 - 1967年(昭和42年)1月22日)は、日本の詩人、英文学者。日本詩人クラブ発起人の一人。 山形県山形市出身。山形県立荘内中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)から、第一高等学校に進む。一高時代からアララギの歌会に参加した。 1914年在学中に中心となって第三次『新思潮』を創刊、ほかに豊島与志雄、山本有三、井出説太郎(土屋文明)、柳川隆之介(芥川龍之介)、草田杜太郎(菊池寛)、成瀬正一、久米正雄、佐野文夫、松岡譲がいた。 1915年東京帝国大学英文科卒。 1917年、川路柳虹らと詩話会を結成、1918年から評論集『詩文研究』を上梓する。
中野 英光(なかの ひでみつ、1890年(明治23年)4月1… 中野 英光(なかの ひでみつ、1890年(明治23年)4月18日 - 1982年(昭和57年)3月19日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 旧佐賀藩士・中野竹九郎の長男として生まれる。佐賀中学を卒業。1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第23連隊付となる。1920年(大正9年)11月、陸軍大学校(32期)を卒業し、参謀本部支那班に配属された。 1926年(大正15年)5月、関東軍司令部付としてハルビン特務機関に配属。その後、歩兵第63連隊大隊長、参謀本部員、吉林特務機関長、満州国軍政部顧問などを歴任。 1936年(昭和11年)8月、歩兵大佐に昇進。
小野 猛(おの たけし、1890年(明治23年)4月18日 … 小野 猛(おの たけし、1890年(明治23年)4月18日 - 1962年(昭和37年)5月9日)は、日本の逓信官僚。 大分県に百津民次郎の二男として生まれ、小野薫の養子となった。1914年(大正3年)、高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。逓信書記・岡山郵便局長、逓信事務官、同書記官・管船局庶務課長、同海員課長、同監理課長、高等海員審判所審判官、熊本逓信局長、管船局長・高等海員審判所長、逓信次官を歴任した。 1939年(昭和14年)に退官した後は、日本発送電株式会社副総裁、樺太石炭鉱業株式会社取締役、北海道石炭株式会社相談役、電気協会などを務めた。その後、船舶運営会総裁に就任した。
岡田 資(おかだ たすく、1890年4月14日 - 1949… 岡田 資(おかだ たすく、1890年4月14日 - 1949年9月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。鳥取県鳥取市江崎町出身。 岡田資は中尉時代の1916年(大正5年)12月から約1年間半にわたって、第30期第3中隊第3区隊長を務めている。この第3区隊員の中には、後に、日中和平工作に尽力し、バターン戦線では兵団本部からの米比軍捕虜千余名の処刑命令に抗して釈放した陸軍少将今井武夫がいた。岡田は1930年(昭和5年)には秩父宮付武官を務めている。若者を愛した人で「青年将軍」の通称があった。 第十三方面軍司令官兼東海軍管区司令官を務めていた1945年(昭和20年)5月14日の名古屋空襲の際、撃墜され捕虜となった米軍のB-29爆撃機搭乗員27名を自らの命令で処刑した(11名は略式の軍律会議で死刑判決が出たとされ、処刑は6月28日、瀬戸市付近。
大門岩 嘉右エ門(おおといわ かえもん、1890年4月13日… 大門岩 嘉右エ門(おおといわ かえもん、1890年4月13日 - 1950年4月5日)は、現在の福岡県糸島市出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は吉村 嘉右衛門。最高位は東関脇(1922年1月場所)。現役時代の体格は175cm、101kg。得意技はもろ差し、右四つ、寄り、上手出し投げ。非力ながら出足は鋭かった。 福岡県志摩郡芥屋村(のち糸島郡芥屋村→同志摩村→同志摩町、現在の糸島市)出身。1909年1月山分部屋から初土俵を踏む。後に出羽海部屋に移籍する。四股名は故郷の名勝「芥屋の大門」に因んだ。順調に昇進し1914年1月十両、1917年1月入幕した。175cm、101kgの体でもろ差し、右四つを得意とし、上手出し投げも得意とするなど技巧派。
原 久一郎(はら ひさいちろう、1890年4月10日 - 1… 原 久一郎(はら ひさいちろう、1890年4月10日 - 1971年10月19日)は、ロシア文学者。
菊池 義郎(きくち よしろう、1890年4月10日 – 19… 菊池 義郎(きくち よしろう、1890年4月10日 – 1990年2月4日)は、日本の政治家、植民政策学者。自由民主党衆議院議員。日本商科大学(廃校)の学長も務めた。
細野 躋(ほその のぼる、1890年4月9日 - 1984年… 細野 躋(ほその のぼる、1890年4月9日 - 1984年3月30日)は昭和時代日本の官僚、実業家。 1890年(明治23年)、東京府豊多摩郡渋谷村(現在の東京都渋谷区)で細野順の長男として出生。1915年(大正4年)に東京帝国大学法学部を卒業し高等文官試験に合格、鉄道省に入省する。イギリス、次いでアメリカ合衆国へ留学し、帰国後に鉄道書記官を経て総務課長へ至る。官僚時代には各地の鉄道局職員が編成したチームの対抗戦「全国鉄道野球大会」への出場経験がある。 阪神電気鉄道へ出向後、取締役支配人に至るが読売新聞社の正力松太郎から甲子園球場を本拠地とする職業野球チーム創設を持ち掛けられ、今西与三郎社長、石井五郎専務らと1935年(昭和10年)12月に阪神タイガースの前身となる「大阪野球倶楽部」設立に尽力した。
原田 実(はらだ みのる、1890年4月8日 - 1975年… 原田 実(はらだ みのる、1890年4月8日 - 1975年1月6日)は、日本の教育学者、作家、翻訳家。早稲田大学名誉教授。 千葉県朝夷郡丸村に生まれる。千葉県立安房中学校(現・安房高等学校)を卒業。その後、早稲田大学高等師範部卒。 若山牧水と交流し、牧水が主宰する詩歌雑誌『創作』(1910年創刊)や太田水穂の『潮音』(1915年創刊)に短歌や歌論を精力的に発表。歌人として注目されたが、その後は学者の道で大成することとなった。 1918年、『青鞜』(1911 - 1916)や『潮音』などに「斎賀琴」あるいは「斎賀琴子」名義で短歌や小説を発表していた斎賀こと(1892 - 1973)と結婚。 雑誌『教育時論』編集長、1946年早大教授。
萩原 彦三(はぎわら ひこぞう、1890年(明治23年)4月… 萩原 彦三(はぎわら ひこぞう、1890年(明治23年)4月6日 - 1967年(昭和42年)10月15日)は、日本の拓務官僚。 埼玉県大里郡御正村(現在の熊谷市)出身。旧制熊谷中学、旧制第一高校を経て、1915年(大正4年)10月に文官高等試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学法律学科を卒業した。朝鮮総督府試補、同参事官、同事務官、学務局学務課長・宗教課長、殖産局水産課長、総督官房文書課長、殖産局土地改良課長、咸鏡南道知事などを歴任した。 その後、拓務省管理局長、同殖産局長を経て、1937年(昭和12年)5月14日に拓務次官に就任し、1939年(昭和14年)4月15日に次官を辞して退官した。
水沢 孝策(みずざわ こうさく、1890年(明治23年)4月… 水沢 孝策(みずざわ こうさく、1890年(明治23年)4月6日 - 1968年(昭和43年))は、日本の外交官。駐パナマ公使。 新潟県出身。1917年(大正6年)、東京帝国大学法学部政治科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。外務属、領事官補、スペイン公使館三等書記官、ドイツ大使館三等書記官、ポーランド領事館領事、ロサンゼルス領事、アメリカ合衆国大使館二等書記官、同一等書記官を歴任。1933年(昭和8年)、外務書記官・調査部第二課長となり、翌年には香港総領事に転じた。1937年(昭和12年)、ホノルル総領事に就任し、1939年(昭和14年)に駐パナマ公使に任命された。 1940年(昭和15年)に退官した後は、南洋拓殖株式会社顧問を務めた。
樋貝 詮三(ひがい せんぞう、1890年〈明治23年〉4月3… 樋貝 詮三(ひがい せんぞう、1890年〈明治23年〉4月3日 - 1953年〈昭和28年〉1月1日)は、日本の政治家、法学者。法学博士。位階は正三位。 保険院長官、衆議院議員、第37代衆議院議長、第3次吉田内閣国務大臣・賠償庁長官を歴任した。 山梨県東山梨郡勝沼町(現・甲州市)出身。日川中学、中央大学夜間法科在学中に文官高等試験に合格し、1918年に京都帝国大学法科大学を卒業。卒業後は法制官僚となり、法制局に勤務の傍ら中央大学講師を務め、内閣恩給局長・保険院長官などを歴任。1943年、『海の慣習法』で京都帝国大学法学博士。 1946年の戦後最初に行われた第22回衆議院議員総選挙では、郷里の山梨から日本自由党(鳩山自由党)の公認候補として擁立されて立候補し、当選する。
赤松 小寅(あかまつ ことら、1890年〈明治23年〉4月3… 赤松 小寅(あかまつ ことら、1890年〈明治23年〉4月3日 - 1944年〈昭和19年〉4月25日)は、日本の内務・警察官僚。官選府県知事。 東京府出身、静岡県磐田郡見付町で生まれる。旧幕臣、海軍中将・赤松則良の五男として生まれる。学習院中等学科、同高等学科を経て、1915年2月、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1916年2月、内務省に入り、長崎県工場監督官補として警察部保安課勤務となる。 1917年10月、長崎県属として内務部地方課勤務に転じた。以後、同地方課長心得、長崎県理事官、三重県農商課長、山梨県理事官、内務省社会局事務官・工場監督官などを歴任。
赤堀 鉄吉(あかほり てつきち、1890年(明治23年)4月… 赤堀 鉄吉(あかほり てつきち、1890年(明治23年)4月3日 - 1968年(昭和43年)1月1日)は、日本の外交官。台湾総督府官僚、弁護士。 大阪市此花区西島町出身。1918年(大正7年)、東京帝国大学法学部英法科を卒業。愛知県属、台南州警務課長・理蕃課長、台北州教育課長、高雄州警務部長、同内務部長、台中州警務部長、殖産局鉱務課長・商工課長、同山林課長・鉱務課長、文教局学務課長、内務局地方課長・地理課長、殖産局農務課長、専売局庶務課長、新竹州知事、高雄州知事などを歴任した。 退官後は台湾住宅営団理事長に就任した。 1942年(昭和17年)より中華民国大使館参事官・廈門総領事を務めた。戦後に弁護士を開業。
兼崎 地橙孫(かねざき ぢとうそん、1890年〈明治23年〉… 兼崎 地橙孫(かねざき ぢとうそん、1890年〈明治23年〉3月27日 - 1957年〈昭和32年〉9月3日)は、山口県出身の日本の俳人、書家、弁護士。本名は理蔵。 1890年(明治23年)に山口県山口市に生まれる。豊浦中学校(現:山口県立豊浦高等学校)時代に俳句を始め、河東碧梧桐が撰者をしていた新聞『日本』へ投句。私立興風中学(現:山口県立小野田高等学校)に転校し卒業、この頃遊行中の碧梧桐本人と出会い傾倒する。第五高等学校(現:熊本大学)へ進学する頃には荻原井泉水の『層雲』に投句を始め、若き新傾向俳人として注目される。碧梧桐が1915年(大正4年)に『海紅』を創刊すると海紅にも投句を始める。この頃ら層雲の句友、種田山頭火が度々地橙孫の元を訪れるようになり、山頭火の放浪や生活の面倒などを生涯に渡り手助けすることとなる。
水野 鼎蔵(みずの ていぞう、1890年(明治23年)3月2… 水野 鼎蔵(みずの ていぞう、1890年(明治23年)3月26日 - 1968年(昭和43年)8月17日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、教育者。長野県上田市長。位階は従六位。 長野県小県郡上田町房山(現上田市上房山)で、旧家・水野茂平の長男として生まれた。1910年(明治43年)旧制上田中学(現長野県上田高等学校)を卒業。国内外の玩具に興味を持ち、1922年(大正11年)地元に日本アルプス玩具水野工場を創業し、海外輸出を軌道に乗せ、日本貿易協会から表彰された。1941年(昭和16年)上田化工を設立し、専務取締役工場長となる。戦後はアルプス玩具を経営。その他、上田商工会議所議員、長野県商工経済会評議員、上田ガス取締役、上田信用金庫理事なども務めた。
荒勝 文策(あらかつ ぶんさく、1890年3月25日 - 1… 荒勝 文策(あらかつ ぶんさく、1890年3月25日 - 1973年6月25日)は、日本の物理学者。専門は原子核物理学。京都大学名誉教授。理化学研究所の仁科芳雄、大阪帝国大学の菊池正士と共に、日本を代表する原子核物理学者であった。戦時下には大日本帝国海軍のF研究の主要人物として日本の原子爆弾開発に関わった。紫綬褒章、従三位勲二等旭日重光章受章。兵庫県印南郡的形村(現姫路市的形町)出身。 御影師範学校(神戸大学国際人間科学部の前身)を経て東京高等師範学校を卒業し、いったん佐賀県で教職に就いたのちに京都帝国大学理科大学物理学科に入学。1918年に卒業した後はそのまま講師・助教授を務め、1926年に台北帝国大学教授に内定。
村本 福松(むらもと ふくまつ、1890年3月23日 - 1… 村本 福松(むらもと ふくまつ、1890年3月23日 - 1973年6月22日)は、日本の経営学者。 大阪府大阪市出身。1910年大阪高等商業学校卒、1919年に日本人で初めてハーバード大学経営学大学院でMBAを取得し、日本におけるアメリカ経営学の導入に先駆的役割を果たす。1962年「経営の論理」で大阪市立大学商学博士。1928年旧制大阪商科大学教授、1942年学長事務取扱。神戸商科大学教授、浪速大学教授、校名変更で大阪府立大学教授、大阪市立大学教授、大阪府立産業能率研究所、京都産業大学教授を務めた。研究は、経営学、商学、経営者論、中小企業論、広告論等幅広い。東亜大学の設立に参加したが設立以前に死去した。
武藤 常介(むとう つねすけ、1890年3月21日 - 19… 武藤 常介(むとう つねすけ、1890年3月21日 - 1963年8月6日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)。衆議院議員(1期)。位階は従四位。勲等は勲二等。旧姓は黒羽。 茨城県久慈郡誉田村(現常陸太田市)生まれ。茨城県立師範学校(現茨城大学)卒業後、久慈郡太田小学校訓導、太田実科高等女学校講師などを経て、1925年に太田町議会議員に当選。1932年(昭和7年)には太田町長に就任し、3期。この間、1942年には茨城県町村長会長を歴任した。 国政選挙では、1946年の総選挙で茨城選挙区に日本進歩党から出馬して初当選、だが公職追放に遭い1期限りで不出馬となる。追放解除後の1953年の参院選で茨城県選挙区に改進党から出馬して当選し、以後2期。
松生 義勝(まついけ よしかつ、1890年3月21日 - 1… 松生 義勝(まついけ よしかつ、1890年3月21日 - 1963年1月12日) は、日本の化学者。初代東京水産大学学長。 大阪府出身。1913年水産講習所(現東京海洋大学)製造科卒業。東北帝国大学理学部物理学科から転じ、1922年東北帝国大学理学部化学科卒業。東北帝国大学助手を経て、1927年助教授。1928年水産講習所教授、理学博士。1941年釜山高等水産学校教授。1946年水産講習所所長。1947年第二水産講習所(現水産大学校)所長事務取扱。1949年東京水産大学(現東京海洋大学)学長。1958年東京水産大学名誉教授、農林省水産講習所(現水産大学校)所長。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
白岩 亮治(しらいわ りょうじ、1890年3月21日 - 1… 白岩 亮治(しらいわ りょうじ、1890年3月21日 - 1971年11月17日)は、宮城県桃生郡矢本町(現・同県東松島市)出身で尾車部屋に所属した大相撲力士。本名は奥田 亮二。身長173cm、体重90kg。現役引退後は、年寄として後進の指導につとめた。 19歳の時に尾車部屋へ入門し、1910年1月場所で初土俵を踏んだ。「白岩」の四股名は、故郷に大きな白い岩があったことに因む。 昇進は順調で、1915年6月場所で新十両に昇進した。その直後、師匠が亡くなり、所属力士らは峰崎部屋に預けられる。その間、1919年1月場所で新入幕した。 もろはずにかかっての押しを得意としたが、地味な取り口であった。入幕後十両に落ちることもなく、39歳まで現役で取っていたこともあり、元々の老け顔もあって周囲からは「白岩老」と呼ばれることもしばしばだった。
伊奈 長三郎(いな ちょうざぶろう、1890年(明治23年)… 伊奈 長三郎(いな ちょうざぶろう、1890年(明治23年)3月20日 - 1980年(昭和55年)10月10日)は、日本の実業家、政治家。伊奈製陶(INAXを経て、現在のLIXIL)創業者で、同社代表取締役社長を務めた。政治家としては初代常滑市長(1期)、常滑町長(1期)などを歴任した。 愛知県知多郡常滑村(常滑町を経て、現在の常滑市)で第5代目窯元の伊奈初之丞の長男して生まれる。旧名は、伊奈長太郎。東京中学校(現在の東京高等学校)を経て、1912年に東京高等工業学校(東京工業大学を経て、現在の東京科学大学)窯業科を卒業した。1918年、帝国ホテル煉瓦製作所技術顧問に就任した。1924年に伊奈製陶を設立し、同社常務取締役に就任した。
別所 喜一郎(べっしょ きいちろう、1890年3月20日 -… 別所 喜一郎(べっしょ きいちろう、1890年3月20日 - 1974年11月28日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 1890年3月、滋賀県水口町に生まれる。1908年、滋賀県立八幡商業学校(現・滋賀県立八幡商業高等学校)を卒業。醤油醸造業を営む。1919年9月、甲賀郡会議員に当選。1926年7月、滋賀県会議員に当選、立憲民政党に所属する。1930年2月、水口町長に就任。1939年11月、滋賀県会議長に就任。このほか、水口町議会議員、滋賀県町村会長も務めた。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は無所属倶楽部を経て、1945年11月に日本進歩党に入り、党滋賀県支部の幹事長に就任したが、翼協推薦議員のため公職追放となった。
仲西 三良(なかにし さぶろう、1890年(明治23年)3月… 仲西 三良(なかにし さぶろう、1890年(明治23年)3月20日 - 1956年(昭和31年)12月6日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、矢吹町長。 福島県岩瀬郡鏡石村(現在の鏡石町)に滝田貫之の三男として生まれ、仲西勇吉の養子となった。1920年(大正9年)、東京帝国大学法科大学を卒業した。検事となり、東京地方裁判所予備検事、札幌区裁判所検事を務めた。退官後、矢吹銀行副頭取、矢吹町農会長、西白河郡農会長、福島県農会議員を歴任し、矢吹町長に就任した。 1936年(昭和11年)、第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第20回、第21回でも当選を果たした。 戦後、大政翼賛会の推薦議員だったため公職追放となり、1951年(昭和26年)追放解除となった。
鈴木 文史朗(すずき ぶんしろう、1890年3月19日 - … 鈴木 文史朗(すずき ぶんしろう、1890年3月19日 - 1951年2月23日)は、日本のジャーナリスト、新聞記者、政治家。 千葉県海上郡豊浦(現銚子市)出身。本名は文四郎。旧制銚子中学校(現千葉県立銚子商業高等学校)、東京外国語学校英語学科卒業。三菱合資会社地所部を経て1917年東京朝日新聞に入社。シベリア出兵の従軍記者や、パリ講和会議などの特派員として活躍する。社会部長、編集局総務、論説委員、整理部長、名古屋支社長、取締役を歴任し、1942年常務取締役となるが、朝日新聞社内の人事で冷遇されたことから反緒方竹虎の急先鋒となった。 敗戦直後退社し、1946年『リーダーズ・ダイジェスト』日本語版編集長となる。
澤 モリノ(沢-、さわ もりの、1890年3月19日 - 1… 澤 モリノ(沢-、さわ もりの、1890年3月19日 - 1933年5月14日)は、日本の舞踏家である。「浅草オペラ」の時代(1917年 - 1923年)に活躍、その後、日本統治時代の朝鮮(現在の朝鮮民主主義人民共和国)で客死した。本名は深澤 千代(ふかさわ ちよ)、旧芸名は澤 美千代(-みちよ)。 1890年(明治23年)3月19日、東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)出身の音楽家・深澤登代吉を父に、同じく東京音楽学校出身のたけ子を母に、深澤千代として生まれる。生地については公式に「アメリカ合衆国カリフォルニア州ニューヨーク」(一部資料ではサンフランシスコ)と書かれているが、遺族の証言では実際の生地は父の故郷、群馬県前橋市ではないかといわれている。
清水 泰次(しみず たいじ、1890年3月19日 - 196… 清水 泰次(しみず たいじ、1890年3月19日 - 1960年4月13日)は、日本の東洋史学者。 明治23年(1890年)、新潟県に生まれる。東京大学文学部東洋史学科卒業。早稲田大学教授、東京文理科大学教授をつとめる。中国明代の社会経済史を専攻し、「明代土地経済史の研究」「中国近世社会経済史」などをあらわす。昭和35年(1960年)4月13日死去。享年70。
澤 モリノ(沢-、さわ もりの、1890年3月19日 - 1… 澤 モリノ(沢-、さわ もりの、1890年3月19日 - 1933年5月14日)は、日本の舞踏家である。「浅草オペラ」の時代(1917年 - 1923年)に活躍、その後、日本統治時代の朝鮮(現在の朝鮮民主主義人民共和国)で客死した。本名は深澤 千代(ふかさわ ちよ)、旧芸名は澤 美千代(-みちよ)。
門脇 黙一(かどわき もくいち、1890年(明治23年)3月… 門脇 黙一(かどわき もくいち、1890年(明治23年)3月17日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。朝鮮総督府官僚。 広島県世羅郡三川村(現:府中市)出身。1911年(明治44年)、旧制修道中学校(現:修道中学校・高等学校)を卒業。広島県佐伯郡書記を経て、内務属として内務省に入省。1923年(大正12年)に高等試験行政科に合格し、岐阜県養老郡長、岐阜県社事兵事課長を務めた。1928年(昭和3年)より朝鮮総督府に転じ、忠清北道学務課長、同地方課長、馬山府尹、京畿道内務課長、平壌専売支局長、大邱府尹、全羅北道内務部長、京城地方専売局長などを歴任した。 1939年(昭和14年)に退官した後は、朝鮮海苔株式会社社長を務めた。
三宅 やす子(みやけ やすこ、1890年3月15日 - 19… 三宅 やす子(みやけ やすこ、1890年3月15日 - 1932年1月18日)は、日本の作家、評論家。 京都市生まれ。京都師範学校校長・加藤正矩の娘で、加藤弘之の姪に当たる。本名・安子、旧姓・加藤。 やす子は長女であるが父正矩の正妻の子ではない。正妻には子がなく、やす子と妹は正妻を「おかあさま」実母を「ばあや」とよんで、妻妾同居の家で育った。9歳で一家は東京へ移り、やす子は府立第二高女に進んだが、病気のため退学。ついでお茶の水高等女学校に入学し、19歳で卒業。1910年(明治43年)三宅雪嶺の甥にあたる理学士三宅恒方と結婚、大正元年にはのちに作家となった長女艶子が誕生した。この頃より雑誌に評論や随筆を書き始め、5年には夏目漱石のもとで創作を学び、漱石没後は小宮豊隆に師事した。
松下 芳三郎(まつした よしさぶろう、1890年(明治23年… 松下 芳三郎(まつした よしさぶろう、1890年(明治23年)3月15日 - 1945年(昭和20年)12月22日)は、台湾総督府官僚、朝鮮総督府官僚、満州国行政官。 鳥取県西伯郡法勝寺村落合(のち西伯町、現南部町)出身。松下澤次郎の長男。赤貧洗うがごとき家庭で、米子中学校への進学は、松下の英才を見抜いた精山校長などの強いすすめと励ましによって実現した。 1910年(明治43年)3月、鳥取県立米子中学校(現在の鳥取県立米子東高等学校)を卒業して東京高等師範学校に進んだが、高師を中退して京都帝国大学法科大学政治科に入る。1915年(大正4年)、大学卒業とともに高等文官試験に合格。 1916年(大正5年)、台湾総督府警部となり、警察官及司獄官練習所教官、澎湖庁警視・警務課長、専売局事務官、同参事・塩脳課長を歴任した。
上内 彦策(かみうち ひこさく、1890年〈明治23年〉3月… 上内 彦策(かみうち ひこさく、1890年〈明治23年〉3月15日 - 1962年(昭和37年)1月14日)は、朝鮮総督府官僚。実業家。弁護士。 大分県宇佐郡明治村(現宇佐市)出身。実兄上内恒三郎の養子となる。1915年(大正4年)に高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。久原鉱業に勤務したが、辞して1919年(大正8年)に朝鮮総督府試補となった。道事務官、専売局副事務官、同事務官、大邱府尹、忠清北道警察部長、全羅南道警察部長、警務局図書課長、内務局社会課長、京畿道警察部長、全羅北道内務部長、警務局警務課長、同保安課長、平安南道知事を歴任した。 1938年(昭和13年)に退官した後は、東洋拓殖株式会社理事、朝鮮鉱業振興株式会社監事、満州拓殖公社監事、朝鮮製鉄株式会社副社長、満州鴨緑江水力発電株式会社理事、西鮮合同電気株式会社取締役、朝鮮電力株式会社取締役、朝鮮電気冶金株式会社取締役、朝鮮有煙炭株式会社常務取締役、朝鮮鴨緑江水力発電株式会社取締役、江界水力電気株式会社取締役、朝鮮石油株式会社取締役、南鮮水力株式会社取締役、南鮮畜産株式会社取締役、朝鮮無煙炭株式会社監査役、朝鮮理研護謨工業株式会社監査役、朝鮮鉄道株式会社監査役、朝鮮送電株式会社監査役、富寧水力電気株式会社監査役、朝鮮米穀倉庫株式会社監査役などを務めた。
葛木 香一(かつらぎ こういち、1890年3月12日 - 1… 葛木 香一(かつらぎ こういち、1890年3月12日 - 1964年9月6日)は、日本の俳優である。出生名中澤 次良(なかざわ じろう)、本名根石 次郎(ねいし じろう)。 1890年(明治23年)3月12日、北海道函館市、現在の十字街交番 (同市豊川町7番13号)のあたりに生まれる。同地に仕立屋「丸高」を営む中澤喜三郎・マツ夫妻の次男として中澤家に生まれ、根石家を継ぐ。11歳下の弟に俳優光岡龍三郎(本名中澤喜一、1901年 - 1961年)がいる。叔父が山崎函館新聞(現在の北海道新聞)の支局長だったが、その縁で、道内亀田郡大野村(現在の北斗市大野地区)に移り、弟は同地で生まれている。 旧制・北海道庁立函館中学校(現在の北海道函館中部高等学校)に在学中から芝居に熱中し、同校を卒業した1905年(明治38年)ころ、函館新派革新劇団に参加して、函館地区を巡業する。
綱島 正興(つなしま せいこう、1890年3月12日 - 1… 綱島 正興(つなしま せいこう、1890年3月12日 - 1968年5月28日)は、日本の昭和時代の政治家。 長崎県北松浦郡南田平村(現・平戸市田平町)出身。長崎県立中学猶興館、第五高等学校を経て東京帝国大学独法科卒。在学中に弁護士試験に合格。 長く労働運動や農民運動に携わり、初代日本農民組合長等を務めた。 第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)、第23回衆議院議員総選挙で長崎2区より立候補し当選。以後、死没まで8回連続当選した。初当選時は農漁民協同党に属したが後に自由党を経て自由民主党に所属。衆議院において労働・農林・農林水産・内閣・懲罰の各常任委員長と離島振興特別委員長を歴任した。 1968年(昭和43年)、現職のまま死去。