水野 久一郎(みずの きゅういちろう、kyuichiro m… 水野 久一郎(みずの きゅういちろう、kyuichiro mizuno、1917年〈大正6年〉9月6日 - 2012年〈平成24年〉12月15日[要出典])は愛知学芸大学・愛知教育大学の音楽科教授および名誉教授。愛知県下の小中学校の校歌を作曲した。 名古屋市に生まれ、1941年(昭和16年)に東京音楽大学を卒業した。 愛知教育大学附属名古屋中学校の校歌の作曲もしており、同窓会誌にその時の様子が記載されている。 2017年の愛知教育大学の未来基金(教育研究基金)の記事では「故水野久一郎名誉教授の音楽に対する熱い思いでこの基金がある」と紹介されている。
鳴海 四郎(なるみ しろう、1917年9月3日 - 2004… 鳴海 四郎(なるみ しろう、1917年9月3日 - 2004年10月7日)は、日本の英文学者、英米演劇研究家、翻訳家。本名は鳴海 弘。 テネシー・ウィリアムズ、エドワード・オールビー、ニール・サイモンの戯曲やアガサ・クリスティなどの小説を翻訳した。文学座座友。 1919年新潟県長岡市に、1922年に東京市に移り関東大震災に遭う。東京府立第五中学校、東京商科大学予科を経て、1940年に東京商科大学(現・一橋大学)卒業。会社員となるがアマチュア演劇団体に所属。 1944年弘前市歩兵連隊に応召。敗戦後、田舎にこもる。1949年帰京。1951年慶應義塾高校教諭、コロンビア大学に留学。1952年帰国、文学座の文芸演出部員となる。
新間 進一(しんま しんいち、1917年9月3日 - 200… 新間 進一(しんま しんいち、1917年9月3日 - 2005年12月11日)は、日本の国文学者。北海道大学助教授・青山学院大学教授を経て、青山学院大学名誉教授。 兵庫県神戸市出身。東京芝生まれ。父は神戸市日蓮宗妙法華院住職・新間智啓。神戸一中、六高を経て、1940年東京帝国大学文学部国文学科卒、同大副手。佐佐木信綱に師事した歌人でもある。1946年白百合女子専門学校教授、1950年北海道大学文学部助教授、1957年文部省教科書調査官、1966年青山学院大学教授、1986年定年、名誉教授。中古・中世和歌と近代短歌を研究、特に「梁塵秘抄」と与謝野晶子研究で知られる。2005年、呼吸不全のため88歳で死去。
阿部 重四郎(あべ じゅうしろう、1917年9月2日 - 没… 阿部 重四郎(あべ じゅうしろう、1917年9月2日 - 没年不明)は、東京府出身のプロ野球選手。 東京工業学校から1936年に大東京軍へ入団。代走で1試合に出場したのみで、1937年秋に退団した。
江川 友治(えがわ ともじ、1917年9月2日 - 2012… 江川 友治(えがわ ともじ、1917年9月2日 - 2012年8月8日)は、日本の土壌学者。元農林水産省農業技術研究所長・明治大学教授。日本の畑土壌の改善に関わる研究に従事した。 現在の静岡市清水区に生まれる。静岡県立静岡中学校に学ぶ。1941年、東京帝国大学農学部農芸科学科卒業。同年4月、農林水産省農事試験場助手、三井進午研究室に配属。1942年2月、農事試験場技手となった後、同年4月、臨時召集された。福知山連隊、中国保定、武昌、鹿児島の知覧・万世特攻隊基地、東京の立川、大阪府の貝塚飛行場と転戦・移動し、1945年8月、敗戦、復員した。 1946年4月、復職。同年9月、農事試験場勤務、1947年、農事試験場土壌肥料部、1950年4月、農業技術研究所化学部土壌第1科土壌化学第2研究室長、1964年8月、農林水産省北海道農業試験場農芸化学部長、1973年、農林水産省農業技術研究所長。
山室 勇臣(やまむろ ゆうしん、1917年(大正6年)8月3… 山室 勇臣(やまむろ ゆうしん、1917年(大正6年)8月31日 - 2016年(平成28年)2月27日)は、日本の銀行家、教育者。三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)副頭取を務めた後、財団法人国際教育振興会理事長、ダイヤモンドリース(現・三菱HCキャピタル)社長・会長・相談役、国際大学第4代理事長。 東京府生まれ。陸軍中将・山室宗武の次男。 大東亜戦争の勃発した前年の1940年(昭和15年)7月、第七回日米学生会議では、宮澤喜一(東京帝国大学)、山崎秀之(神戸商科大学)、苫米地俊博(東京商科大学)の3名と共に日本側学生として参加。総務委員長を務めたが、特高警察が「この国家非常時に、毛唐と一緒に騒ぎ立てるとは何事か」と叱責を受ける。
持田 信夫(もちだ のぶお、1917年(大正6年)8月30日… 持田 信夫(もちだ のぶお、1917年(大正6年)8月30日 - 1986年(昭和61年)6月19日)は日本の実業家、元持田製薬社長・会長。東京都出身。同社創業者でもある持田良吉は父、3代目社長を務めた持田英は弟。写真通としても知られ、数々の作品を残した。
西元 文平(にしもと ぶんぺい、1917年8月28日 - 2… 西元 文平(にしもと ぶんぺい、1917年8月28日 - 2008年2月29日)は、日本の経営者。日立建機社長、会長、相談役、名誉相談役を歴任。 鹿児島県鹿児島市下竜尾町出身。兵庫県神戸市で生まれ、小学2年生の時に故郷鹿児島へ移る。鹿児島市立大龍小学校、鹿児島商業学校(現鹿児島商業高等学校)を経て、1935年に長崎高等商業学校(現長崎大学経済学部)へ進学し、1938年に卒業。 1938年、日立製作所に入社し、日立工場勤務。経理部長を経て、1969年に日立建機取締役となる。1970年11月に日立建機常務に就任し、1979年6月に専務を経て、1981年6月に社長に就任。1987年6月に会長に就任し、1991年6月に相談役を経て、1997年6月から名誉相談役を務めた。
中根 金作(なかね きんさく、1917年8月28日 - 19… 中根 金作(なかね きんさく、1917年8月28日 - 1995年3月1日)は、「昭和の小堀遠州」と称えられた日本の造園家、作庭家。
原 正市(はら しょういち、1917年8月28日 - 200… 原 正市(はら しょういち、1917年8月28日 - 2002年10月19日)は、日本の水稲専門家で、中国での水稲栽培の改善・収量増加を指導し、北海道日中友好協会顧問を務めた。 1917年、北海道岩見沢市の農家出身。北海道帝国大学農学部卒業。1952年から1974年まで北海道庁に勤務、その後、北海道農業協同組合中央会に1982年まで勤務した。1979年6月、農業視察団の副団長として中国を訪問した原は、現地の農家が種籾を直接田に撒いていたので農業の指導を行い、「畑苗移植法」の栽培技術を伝えた。黒竜江省を皮切りに中国25省151県を21年間で63回訪問、水稲の栽培技術を教え続けた。1982年から2002年までの21年間に中国に滞在した日数は、1522日に及ぶ。
斎藤 襄治(さいとう じょうじ、1917年8月26日 - 2… 斎藤 襄治(さいとう じょうじ、1917年8月26日 - 2007年6月12日)は、日本のイギリス文学者、翻訳家、著作家。 東京高等商船学校助教授・茨城キリスト教大学教授・同学長・立正大学教授を歴任。 東京都生まれ。静岡県浜松市育ち。1943年京都帝国大学言語学科卒。東京高等商船学校助教授。 敗戦後、連合国軍総司令部(GHQ)民間情報教育局顧問。その後外務省勤務。日本の小説を英訳するなど文化の国際交流に尽くす。 1969年茨城キリスト教大学教授、1975年から1978年学長。1980年立正大学教授、1988年定年退任。ダートマス大学客員教授。
加藤 敏夫(かとう としお、1917年8月25日 - 199… 加藤 敏夫(かとう としお、1917年8月25日 - 1999年10月2日)は、日本の数学者。専門は、偏微分方程式・数理物理学・関数解析学。 1917年、栃木県鹿沼市に生まれた。1941年東京帝国大学理学部物理学科を卒業。太平洋戦争による学業の中断を経て、1951年東京大学助教授、1958年に東京大学教授となる。1962年よりカリフォルニア大学バークレー校教授。1988年に定年退職し、カリフォルニア大学バークレー校名誉教授となった。1999年、カリフォルニア州オークランドの自宅にて病没。 数理物理学に関する業績が多く、1951年には量子力学において現実的な(特異性のある)ポテンシャルでのシュレーディンガー作用素の自己共役性を示した。
山之口 安秀(やまのくち やすひで、1917年 <大正6年>… 山之口 安秀(やまのくち やすひで、1917年 <大正6年> 8月25日 - 2001年 <平成13年> 10月18日)は、日本の政治家。第18代鹿児島市長。位階は正五位。勲三等旭日中綬章受章。 鹿児島県日置郡東市来村(後に東市来町、日置市)出身。鹿児島県伊佐農林学校(現鹿児島県立伊佐農林高等学校)、宮崎高等農林学校(現宮崎大学農学部)を経て、1942年九州帝国大学農学部(現九州大学農学部)卒業。南満洲鉄道勤務、福岡県職員を経て、1949年鹿児島県庁に入職。鹿児島県の農業経済、農政などの各課長、農政部次長(1966年)、企画部長(1967年)などを歴任し、1971年県出納長に就任した。1975年の鹿児島市長選で保守系の候補として出馬、現職の末吉利雄を破り、初当選した。
歌上艶子(うたがみ つやこ、1917年(大正6年)8月25日… 歌上艶子(うたがみ つやこ、1917年(大正6年)8月25日 - )は、日本の歌手。灰田勝彦とのデュエット曲「マニラの街角で」で知られる。本名は横枕三佐子(よこまくら みさこ)。父は帝国海軍軍楽隊隊長の横枕文四郎。 1917年(大正6年)、長崎県佐世保市出身。 松竹少女歌劇団に入団し、1936年(昭和11年)コロムビアから「ピーターパン」でデビュー。1942年(昭和17年)、ビクターから歌謡曲歌手として再デビュー。同年、灰田勝彦とのデュエットで「マニラの街角で」が大ヒットする。 その後は戦時歌謡などを吹き込む。 この項目は、歌手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ芸能人)。
松島 栄一(まつしま えいいち、1917年8月24日 - … 松島 栄一(まつしま えいいち、1917年8月24日 - 2002年12月12日 )は、日本の歴史学者。元大東文化大学教授。歴研・民科・歴教協等で活躍。 大阪府大阪市天王寺区に生まれる。1924年に大阪市立天王寺第五尋常小学校(現在の大阪市立五条小学校)、1930年に灘中学校、1935年に早稲田高等学院、1937年に早稲田大学文学部史学科にそれぞれ進学。大学在学中、教えを受けた津田左右吉に大きく傾倒する。 大学卒業の1940年、花見朔巳の勧めで東京帝国大学史料編纂所に勤務。当時の東京帝国大学国史研究室は平泉澄によって支配されていたが、その影響が及ばず実証主義をかたく守っていた史料編纂所に就職し、そこで家永三郎や遠山茂樹と同僚となったことは、その後に大きな影響を与えた。
伊藤 桂一(いとう けいいち、1917年8月23日 - 20… 伊藤 桂一(いとう けいいち、1917年8月23日 - 2016年10月29日)は、日本の小説家、詩人。『静かなノモンハン』などの戦場小説や、時代小説、私小説風な身辺小説などがある。日本芸術院会員。
森山 幸雄(もりやま ゆきお、1917年(大正6年)8月23… 森山 幸雄(もりやま ゆきお、1917年(大正6年)8月23日 - 2011年(平成23年)4月16日)は、日本の政治家。福岡県大野城市長(4期)。 福岡県出身。1939年、熊本高等工業学校(熊本大学工学部)卒。同年、日立製作所に入る。1948年、森山セメント工業を創立する。同年、大野村農業調整委員となる。その後、大野町農業委員、同町議会議員、同監査委員などを経て、1965年、大野町長に就任する。1972年、大野町の市制施行により大野城市となる。市長を1989年まで務めた。このほか、全国市長会理事、福岡県市長会副会長なども務めた。 2011年(平成23年)4月16日、心筋梗塞のため死去、93歳。
有馬 洪(ありま こう、1917年8月22日 - )は、日本… 有馬 洪(ありま こう、1917年8月22日 - )は、日本の薬学研究者、経営者である。また、サッカー選手としてもプレーし、日本代表として1951年アジア競技大会など国際Aマッチ3試合に出場した。名前の読みを「ひろし」とする資料もある。 1941年3月、東京帝国大学医学部薬学科を卒業。 1947年3月、三共(現:第一三共)に入社。1969年12月に同社醗酵研究所の所長に就任。 1972年5月より同社取締役、1978年6月より同社常務取締役、1982年6月より同社監査役 をそれぞれ歴任した。なお、1990年を以て同社監査役を退任した。 東京帝国大学在学中はア式蹴球部に所属し、ハーフバックとしてプレー。
宮谷 重雄(みやたに しげお、1917年(大正6年)8月22… 宮谷 重雄(みやたに しげお、1917年(大正6年)8月22日 - 1991年(平成3年)3月6日)は日本の建築家、建築積算士。建築積算設計事務所の二葉積算を創設。元日本積算協会会長。旧満州・大連生まれ。昭和30年代から積算業を日本に根付かせ、また英国の積算士(QS:w:Quantity surveyor)の業務を日本に広く紹介した人物。 父親は南満州鉄道大連駅助役。この関係で、内地(日本本土)に渡るまで旧満州で暮らす。 1935年(昭和10年)、早稲田大学理工学部建築学科に入学。同級生には吉阪隆正がいる。 1941年(昭和16年)、大学卒業。満州拓殖公社建築技師補になるが、程なくして応召して騎兵集団隷下の工兵中隊に配属される。
堤 重久(つつみ しげひさ、1917年8月21日 - 199… 堤 重久(つつみ しげひさ、1917年8月21日 - 1999年1月31日)は、日本の文芸評論家、京都産業大学名誉教授。 太宰治の一番弟子で、著書に『太宰治との七年間』がある。 東京新宿の開業医の息子。旧制東京府立高等学校(後の東京都立大学)3年在学時、18歳のとき、『晩年』を読んで衝撃を受け、太宰治に心酔する。府立高の1級上で友人だった小田切秀雄の紹介で清水幾太郎の門人となる。 東京帝国大学(現・東京大学)文学部独文科で木村謹治や相良守峯、中島健蔵、辰野隆に師事。大学在学中、平田次三郎、山下肇、小島輝正たちと共に「新思潮」に参加。 1940年初冬に太宰の門人となる。1942年大学卒業後は東大図書館に勤務しつつ、作家を志して長篇小説を執筆。
中村 英勝(なかむら ひでかつ、1917年〈大正6年〉8月2… 中村 英勝(なかむら ひでかつ、1917年〈大正6年〉8月21日 - 2011年〈平成23年〉4月1日)は、日本の西洋史学者。専門はイギリス議会史・政党史。お茶の水女子大学名誉教授。 東京府東京市麴町区三番町(現・東京都千代田区九段南または九段北)生まれ。 父親の中村勝麻呂は史料編纂官(東京帝国大学文科大学史学科卒)。母方の祖父は大槻文彦、姉は中野好夫の二番目の妻・静。妻は翻訳家の中村妙子(1947年10月に結婚)。 1941年東京帝国大学史学科卒業、同学史料編纂所嘱託。1943年10月同学大学院進学とともに特別研究生、1945年9月大学院修了、同学文学部副手、1946年3月同助手。1947年12月東京女子高等師範学校講師、1949年6月新制大学発足とともにお茶の水女子大学文学部(1950年より文教育学部)史学科専任講師となり1950年助教授、1965年教授を歴任(この間に附属幼稚園長にも就任)、1983年4月1日定年退官、名誉教授。
世良 晃志郎(せら てるしろう、1917年8月19日 - 1… 世良 晃志郎(せら てるしろう、1917年8月19日 - 1989年4月16日)は、日本の法学者(中世西洋法制史)。東北大学名誉教授。元宇都宮大学学長。 現在の広島県庄原市(旧制)に生まれる。1934年に廣島高等学校に入学し、1937年に同校を卒業。同年、東京帝国大学法学部に首席で入学して久保正幡に学び、1940年に首席で卒業する。在学中の1939年に高文司法科試験(現在の司法試験)に首席で合格する。卒業後は母校の助手となる。短期現役海軍主計科士官(4期)を志願し、同年5月、海軍経理学校に入学して海軍主計中尉に任官。同年9月に卒業。1942年3月、主計大尉に進む。1945年5月、海軍主計少佐に昇進して終戦を迎えた。
岩下 光男(いわした みつお、1917年(大正6年)8月19… 岩下 光男(いわした みつお、1917年(大正6年)8月19日 - 2002年(平成14年)4月13日)は、日本の工学者(海洋工学)。魚群探知機の改良型の開発者。元北海道東海大学学長補佐。北海道山越郡長万部町出身。 1936年(昭和11年)東京電機学校電気科卒業。同年、東北帝国大学電気通信研究所助手。1946年(昭和21年)電波科学専門学校助教授。1950年(昭和25年)4月東海大学工学部助教授。1959年(昭和34年)同工学部教授。1962年同海洋学部教授。1974年(昭和49年)同海洋学部長。1976年(昭和51年)同海洋研究所長。後に同海洋科学博物館長。1985年(昭和60年)北海道東海大学工学部教授。
森 重敏(もり しげとし、1917年8月18日 - 2012… 森 重敏(もり しげとし、1917年8月18日 - 2012年3月14日)は、日本の教育心理学者、東京都立大学名誉教授。 大分県出身。1938年第五高等学校中退、小学校の代用教員、日中戦争(日華事変)で召集、ノモンハンへ行き、帰国後高校再入学、卒業。1942年東京帝国大学入学、1945年心理学科卒業、大学院進学、1954年鹿児島の八幡幼稚園園長、島根大学助教授、東京家政大学助教授、東京都立大学教授、1972年「わが国における優秀児の心理学的研究」で立教大学文学博士。1981年定年退官、名誉教授、創価大学教育学部教授。特任教授、1993年満期退任。同年、勲三等瑞宝章を受章。2012年3月14日、肺炎のため死去。
山下 勝(やました まさる、1917年8月17日 - 194… 山下 勝(やました まさる、1917年8月17日 - 1942年)は、日本の陸上競技選手。日中戦争の影響で中止となった1940年東京オリンピックの選手団に選出されていた。 福島県立白河高等学校で陸上競技を始め、1935年にインターハイの1500mで3位に入賞するなど活躍。 1936年に専修大学に進学。1939年に箱根駅伝(第20回大会)に出場し、当時のエース区間であった3区で区間賞を獲得し、同校の箱根駅伝初優勝に貢献した。 1940年の東亜競技大会の5000mにおいて、1936年ベルリンオリンピックで4位入賞を果たした村社講平を破り優勝。また、同年、日本陸上競技選手権大会の5000mと10000mで優勝。
佐藤 剛彦(さとう たけひこ、1917年8月17日 - 20… 佐藤 剛彦(さとう たけひこ、1917年8月17日 - 2013年1月29日)は、日本の実業家。河北新報社代表取締役を務めた。 宮城県仙台市出身。1941年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に富士電機製造に入社。仙台営業所長を務めた。 1969年に河北新報社に転職。総務局長、販売局長、取締役、常務、専務を経て、1981年から2003年までに代表取締役を務めた。 東北放送取締役、河北ビル会長なども歴任した。 1991年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 2013年1月29日、肺炎のために死去。95歳没。
安藤 仁子(あんどう まさこ、1917年〈大正6年〉8月16… 安藤 仁子(あんどう まさこ、1917年〈大正6年〉8月16日 - 2010年〈平成22年〉3月17日)は、日本の実業家にして日清食品創業者である安藤百福の3人目の妻。百福と結婚後、夫の投獄、事業の失敗、財産喪失など、度重なる不運を乗り越えて、世紀の発明と呼ばれるインスタントラーメン「チキンラーメン」が完成するまで夫を支え、その生涯を共に生き続けた。2018年(平成30年)のNHK連続テレビ小説『まんぷく』の主人公の1人、立花福子のモデル。 1917年に、大阪市北区富田町で、3人姉妹の三女として誕生した。実家の安藤家は、福島県の二本松神社の神主を務める名門であり、父の安藤重信は大阪で事業に乗り出す資産家であった。
川俣 晃自(かわまた こうじ、1917年8月16日 - 19… 川俣 晃自(かわまた こうじ、1917年8月16日 - 1999年7月5日)は、日本の劇作家、小説家、フランス文学者。東京都立大学名誉教授。 栃木県足利市出身。第一高等学校を経て、東京帝国大学仏文科卒。一高時代から小説を書き、戦後は都立大学助教授、教授、1957年小説「般若心経」が中央公論新人賞佳作として掲載される。66年戯曲「関東平野」で第12回岸田國士戯曲賞受賞。82年都立大を定年退官、名誉教授、獨協大学教授。
津田 幸男(つだ ゆきお、1917年8月15日 - 1979… 津田 幸男(つだ ゆきお、1917年8月15日 - 1979年4月17日)は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはGK。兵庫県神戸市出身。 第一神戸中学校時代に二宮洋一、直木和らと共に1933年に全国中等学校蹴球選手権大会(後の全国高等学校サッカー選手権大会)で優勝。卒業後には二宮と共に慶應義塾大学へ進学し、体育会ソッカー部へ入部。レギュラーの座を掴むと関東大学サッカーリーグ戦4連覇(1937年、1938年、1939年、1940年)、1937年の全日本総合蹴球選手権大会 (後の天皇杯全日本サッカー選手権大会)優勝、慶應BRB(現役選手とOBからなる混成チーム)の一員として1936年、1939年、1940年の全日本総合蹴球選手権大会 優勝に貢献した。
岸田 寿夫(きしだ としお、1917年8月15日 - 200… 岸田 寿夫(きしだ としお、1917年8月15日 - 2007年12月8日)は、日本の経営者。大同特殊鋼社長を務めた。 滋賀県出身。1945年に東京帝国大学第二工学部冶金学科を卒業し、1946年に大同製鋼(のちの大同特殊鋼)に入社。1975年2月に取締役に就任し、1980年9月に常務、1982年9月に専務を経て、1984年9月に副社長に就任し、1988年6月には社長に昇格。1992年6月に取締役相談役に就任し、1994年6月に相談役に就任。 1993年4月に勲二等瑞宝章を受章。 2007年12月8日に心不全のために死去。90歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
上田 トシコ(うえだ としこ、1917年8月14日 - 20… 上田 トシコ(うえだ としこ、1917年8月14日 - 2008年3月7日)は、日本の漫画家。東京市生まれ、旧満州ハルピン出身、頌栄高等女学校(現 頌栄女子学院)卒業。本名・上田俊子。 少女漫画の黎明期に活躍した女性漫画家の一人であり、代表作にハルピンを舞台にした『フイチンさん』などがある。少女誌執筆の頃は上田としこ、新聞の執筆の頃は上田とし子、その後に上田トシコ、と3度ペンネームを変えている。 東京市麻布区笄町(現在の東京都港区西麻布から南青山)に生まれる。父・熊生は南満州鉄道(満鉄)の職員だった。生後40日で満州ハルビンで銀行に勤めていた父のもとへ渡り、幼年期を同地のロシア人街で過ごす。父は妾宅から本宅に通うような生活だった。
関口 武(せきぐち たけし、大正6年(1917年)8月13日… 関口 武(せきぐち たけし、大正6年(1917年)8月13日 - 平成9年(1997年)2月20日)は、日本の地理学者。理学博士(東京大学)。 長野県大町市出身。旧制東京府立第九中学を経て、昭和16年(1941年)に東京文理科大学を卒業する。1942年東亜研究所、1943年中央気象台職員となり、1953年東京教育大学助教授、1952年から翌年までアメリカのジョンズ・ホプキンズ大学の客員教授。昭和48年(1973年)にポーランドからコペルニクス勲章を受賞する。のち法政大学教授となる。 日本各地の気候要素について地点間の相関係数を求め、総合的な気候区分を導き出し、地理学の中の気候学を専門に広範囲な研究を進めた。
加崎 英男(かさき ひでお、1917年8月13日 - 200… 加崎 英男(かさき ひでお、1917年8月13日 - 2007年3月27日)は日本の生物学者、理学博士。東京都立大学 (1949-2011)名誉教授。専門は藻類学。 東京帝国大学理学部を卒業後、1947年に都立高等学校講師となる。1949年に再編により東京都立大学講師、1951年に理学部助教授となり、1972年に教授に昇格した。1977年に東京都立大学附属高等学校校長を兼務する。1981年に東京都立大学を退職後、東邦大学生物学科教授となる。1983年から東邦大学大学院理学研究科生物学専攻専任教授を経て、1987年に退職した。主に車軸藻類の分類学的研究や生態学的研究を行い、1967年には『日本湖沼産車軸藻類の研究』で理学博士(東京大学)を授与された。
石水 幸安(いしみず ゆきやす、1917年8月12日 - 1… 石水 幸安(いしみず ゆきやす、1917年8月12日 - 1985年2月16日)は、日本の実業家。石屋製菓創業者。父の石水亀一の三男。祖父は石水八郎。八郎は1899年(明治32年)愛媛県宇摩郡関川村(現四国中央市)から、屯田兵として先に移住していた兄の石水七之助を頼って移住。 北海道雨竜郡一已村(現深川市一已町)生まれ。東亜商業学校(現東亜学園高等学校)卒業。戦前は南満州鉄道株式会社に勤務した。戦後、妻の郷里の広島を経て、北海道に引き揚げる。1947年澱粉加工業を始め、後に駄菓子・生菓子の製造に従事。 1967年より高級菓子製造に路線を転換し、長男・勲の協力も得て1971年最初のヒット作「シェルター」を世に出す。
島田 虔次(しまだ けんじ、1917年(大正6年)8月12日… 島田 虔次(しまだ けんじ、1917年(大正6年)8月12日 - 2000年(平成12年)3月21日)は、日本の東洋史学者。京都大学名誉教授。1940年代から中国近世・近代思想史の研究を続け、その後の日本の研究を牽引した。 1917年、広島県三次市で生まれた。広島高等師範学校附属中学校(現:広島大学附属中学校・高等学校)、広島県立三次中学校(現:広島県立三次高等学校)、中華民国青島日本中学校を経て、1938年に第三高等学校文科丙類を卒業した。京都帝国大学文学部史学科で学び、1941年に卒業。 卒業後は長野県立野沢高等女学校(現:長野県野沢南高等学校)に勤務。1943年、東方文化研究所(現:京都大学人文科学研究所)助手に採用された。
菊池 武雄(きくち たけお、1917年8月11日 – 197… 菊池 武雄(きくち たけお、1917年8月11日 – 1974年10月24日 )は、日本の歴史学者。専門は日本中世史。 東京都出身。1938年に國學院大學に入学し、1939年度には西岡虎之助が担当した科目「国史学」を履修。1941年3月に卒業。卒業論文は「吉野朝時代公家社会世相と洞院公賢」。同年6月東京帝国大学史料編纂所に入所。その後、兵役に就き、シベリア抑留を経て、1947年11月復員。1948年1月に史料編纂所に復帰し、1956年に助手、1968年に助教授、1974年に教授となる。古文書部に属し、東大寺文書の編纂を担当した。 1953年発表の論文『戦国大名の権力構造-遠州蒲御厨を中心として-』は、永原慶二によって「戦後新たに出発した戦国大名研究の起点に位置付けられる労作」と評価されている。
青木 正一(あおき しょういち、1917年8月10日 - 2… 青木 正一(あおき しょういち、1917年8月10日 - 2004年9月9日)は、栃木県足利郡葉鹿町(現:足利市)出身のプロ野球選手(投手)。 群馬県立桐生中学校(現:群馬県立桐生高等学校)では、エースで4番として1936年の選抜中等学校野球大会で準優勝。チームメイトに阪神タイガースでもチームメイトになる皆川定之がいた。 中学野球での実績から、タイガースは迅速に獲得交渉を進め、甲子園前の6月に翌年の契約を済ませている。当時は桐生監督の稲川東一郎と阪神の早川渉外の間に血縁関係があったことから交渉は円滑に進み、青木の入団の翌年に皆川もタイガースに入団した。 阪神では、リリーフの登板が多かったが、1938年秋には開幕投手を務めた。
一条 実文(いちじょう さねふみ、1917年(大正6年)8月… 一条 実文(いちじょう さねふみ、1917年(大正6年)8月10日 - 1985年(昭和60年)8月25日)は一条実孝の長男。妻は子爵松平頼庸の長女の好子。祖父、父に続き海軍に入り、主計大尉になった。子は長男の一条実昭(第28代当主)、次男の一条頼実(松平頼庸養子)。孫は一条実綱。 1938年(昭和13年)3月、学習院高等科を卒業。1941年(昭和16年)京都帝国大学法学部を卒業し三井鉱山に入社。短期現役海軍主計科士官(7期)を志願し、同年8月、海軍経理学校に入校し海軍主計中尉に任官。同年12月、経理学校を卒業し第3軍需部(のちの102軍需部)に配属されタバオに着任。セレベス、メナド、マカッサル、ジャワ、スラバヤ、バリ、ロンボックなどで勤務。
西野 順治郎(にしの じゅんじろう、1917年(大正6年)8… 西野 順治郎(にしの じゅんじろう、1917年(大正6年)8月9日 - 2001年(平成13年)3月5日)は、日本の外交官、実業家、教育者。初代在泰日協会学校理事長、タイ・トーメン社長・会長。 大阪府泉南市で生まれる。 6歳の頃に姉を亡くしたが、1937年(昭和12年)、横浜専門学校(現・神奈川大学)に進学。刑法担当の林頼三郎をはじめ、国際法の横田喜三郎、経済学の中山伊知郎、 会計学の太田哲三、商工経営の美濃部亮吉、産業能率の上野陽一、商業数学の久武雅夫、英語のジョン・オーエン・ガントレット、 学監米田吉盛、倫理学の朝比奈宗源、英語の江本茂夫らの指導を受ける。 在学中に外務省留学生試験に合格し、タマサート大学法学部に国費で留学した。
高橋 達男(たかはし たつお、1917年8月9日 - 197… 高橋 達男(たかはし たつお、1917年8月9日 - 1976年7月9日)は、日本の経営学者。 大阪府出身。浪速高等学校を経て、1942年東京帝国大学法学部卒。短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、1942年9月に海軍経理学校に入校。1943年(昭和18年)1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業。神戸監督官事務所監査官付となる。1944年(昭和19年)5月に海軍主計大尉に進み、富山監督官事務所北陸軍需管理部勤務で終戦を迎えた。 日本電信電話公社に入り、経営調査室長。日本生産性本部経営アカデミー参与、産業能率短期大学教授などを務め多数の著作、翻訳をなした。
名島 弘三(大正6年(1917年)8月9日 - 没年不明)は… 名島 弘三(大正6年(1917年)8月9日 - 没年不明)は日本の実業家。名島(名)代表社員、全国肥料商連合会鳥取県部会支部長、日本肥料商業協同組合中国ブロック理事、米子商工会議所建設業部会常任委員。元中国興業銀行頭取名島嘉吉郎の甥。 名島善の長男。早大商科卒。日産化学工業入社。木津川工場勤務、課長補佐。昭和30年(1955年)、帰郷して家業を継承。 趣味は音楽、写真。宗教は浄土宗。住所は鳥取県米子市明治町。 大正5年(1916年)刊の『陰陽八郡一覧』によって、国税二十円以上の納税者をみると、米子駅前通りと考えられる成実村では、 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
長谷川 毬子(はせがわ まりこ、1917年(大正6年)8月8… 長谷川 毬子(はせがわ まりこ、1917年(大正6年)8月8日 - 2012年(平成24年)1月29日)は、日本の画家、イラストレーター、実業家。元姉妹社社長で、長谷川町子美術館では理事長、二代目館長を歴任。 漫画家の長谷川町子は実妹。町子のマネジメントや外部との折衝を一手に担い、町子の死後も『サザエさん』の版権管理に大きな影響力を持ち続けた。 佐賀県小城郡東多久村(現在の多久市東多久町)生まれ。その後福岡市に移り、筑紫女学園を卒業する。卒業後の1934年(昭和9年)、父の死に伴い、家族とともに福岡から東京へ移住。洋画家の藤島武二に弟子入り、川端画塾に通う。 家計を支えるために出版社へ挿絵を持ち込んでいたところ、その絵が菊池寛の目に留まったことで、婦人倶楽部に連載された小説「女性の戦い」(1938年(昭和13年)1月 - 1939年(昭和14年)5月連載)の挿絵を担当。
野口 明(のぐち あきら、1917年8月6日 - 1996年… 野口 明(のぐち あきら、1917年8月6日 - 1996年10月5日)は、日本の野球選手。プロ野球・中日ドラゴンズの監督も務めた。明、二郎、昇、渉とプロ野球選手を輩出した野口四兄弟の長兄。
多々良 純(たたら じゅん、1917年8月4日 - 2006… 多々良 純(たたら じゅん、1917年8月4日 - 2006年9月30日)は、日本の俳優。本名:田足井 重二〈たたらい しげじ〉。 宮城県牡鹿郡石巻町(現在の石巻市)出身。東京府立第九中学校卒業。新倉事務所に所属していた。 新築地劇団研究生、苦楽座、劇団民藝など舞台俳優として活動し、数多くの映画・テレビドラマに出演。頑固ながら根は優しい役などに定評があり、軽妙な役もこなせる貴重なバイプレーヤーとして活躍した。 1917年(大正6年)8月4日、宮城県牡鹿郡石巻町(現在の石巻市)に、父・重一と母・利の次男として生まれる。幼少時代は家業の都合で石巻、仙台、東京と居を移す。西巣鴨第二小学校を経て、1935年(昭和10年)に東京府立第九中学校を卒業後、国際ホテル学校に入学し、5カ月で中退、帝国ホテル食堂部に就職する。
小山 昇(こやま のぼる、1917年8月1日 - 2015年… 小山 昇(こやま のぼる、1917年8月1日 - 2015年10月22日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。学位は法学博士(東京大学・論文博士・1962年)(学位論文「訴訟物論」)。北海道大学名誉教授及び北海学園大学名誉教授。北京生まれ。兼子一門下。弟子に池田粂男、柏木邦良、本間靖規など。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
冨士 信夫(ふじ のぶお、1917年(大正6年)8月 - 2… 冨士 信夫(ふじ のぶお、1917年(大正6年)8月 - 2005年(平成17年)1月24日)は、日本の歴史家、海軍軍人。東京裁判(極東国際軍事裁判)研究家。 富山県生まれ。府立八中(現東京都立小山台高等学校)を経て、1938年海軍兵学校(第65期)卒業。戦艦「金剛」、重巡洋艦「熊野」、「利根」乗組。1939年海軍練習航空隊飛行学生。航空母艦「飛龍」乗組を経て、1941年霞ヶ浦海軍航空隊司令承命服務。1944年海軍少佐。1945年台湾第29航空戦隊(新竹)参謀、1946年第2復員省臨時調査部勤務。以後、法廷係として極東国際軍事裁判(東京裁判)のほとんどを傍聴。この間、「海軍少佐」の経歴のため公職追放となる。
三木 睦子(みき むつこ、1917年〈大正6年〉7月31日 … 三木 睦子(みき むつこ、1917年〈大正6年〉7月31日 - 2012年〈平成24年〉7月31日)は、日本の政治運動家、社会活動家。第66代内閣総理大臣三木武夫の妻。三木事務所代表。全国発明婦人協会、アジア婦人友好会、国連婦人会の各会長、社団法人中央政策研究所理事、国際教育交流協会理事長など役職多数。旧姓は森。 千葉県出身。森コンツェルン総帥で昭和電工の創業者・森矗昶の次女。この父をはじめ、兄の森曉と森清、弟の森美秀、甥の森英介はいずれも衆議院議員に、また長女の高橋紀世子は参議院議員になっている政治家一族の出身である。また、姉は元昭和電工社長の安西正夫に嫁いでいる。 東京府立第一高等女学校(現東京都立白鷗高等学校)卒業。
井上 孝(いのうえ たかし、1917年7月30日 - 200… 井上 孝(いのうえ たかし、1917年7月30日 - 2001年2月21日)は、日本の都市計画家。技術者。都市工学者、都市研究者。建設官僚。東京大学名誉教授。東京大学工学部、横浜国立大学工学部教授を歴任し、全国各地の都市計画に関する審議会や委員会委員をつとめて全国各地や海外の計画に関与、また長きにわたり都市計画の研究と人材の育成につとめる。戦後結成された国際住宅都市計画連合IFHPでは初代理事で後に会長。米国生まれ。 1917年、アメリカ合衆国ニュージャージー州ウェストフィールド生まれ。生まれたころ父親は三井物産ニューヨーク支店に勤務していた。 東京府立第一中学校 (旧制:後の東京都立日比谷高等学校)をへて、第一高等学校に入学。
川又 英雄(かわまた ひでお、1917年7月29日 - 19… 川又 英雄(かわまた ひでお、1917年7月29日 - 1993年3月3日)は、日本の経営者。相模鉄道社長を務めた。東京都出身。 1940年に慶應義塾大学経済学部を卒業。日立製作所、京浜急行電鉄での勤務を経て、1952年12月に神奈川トヨペットタクシー常務に就任。1955年5月に相模鉄道に転じ、1958年5月に常務を経て、1959年11月に副社長に就任し、1976年6月に社長に昇格。1988年1月に会長に就任。 1981年11月に藍綬褒章を受章。 1993年3月3日呼吸不全のために死去。75歳没。
磯部 俶 (いそべ とし、1917年〈大正6年〉7月24日 … 磯部 俶 (いそべ とし、1917年〈大正6年〉7月24日 - 1998年〈平成10年〉11月25日)は、日本の合唱指揮者、作曲家である。東京都大田区大森生まれ。NHK交響楽団で長く首席クラリネット奏者を務めた磯部周平は子息。元学習院長の磯部忠正は兄。 早稲田大学文学部芸術学科を卒業。在学中から平尾貴四男に作曲を学び、15年間早稲田大学グリークラブの専任指揮者を務め、共立女子大学合唱団・いそべとし男声合唱団・フレーベル少年合唱団など、多くの合唱団の指導に当たった。1955年、新しい子供の歌の創作活動「ろばの会」を大中恩、中田喜直らと結成し、数々の賞を受賞した。 後半生は神奈川県藤沢市鵠沼に住み、「湘南コールグリューン」を指導し、福永陽一郎に協力して藤沢市民オペラを発足させるなど、地域文化の向上に努めた。