橋川 文三(はしかわ ぶんそう/ぶんぞう、1922年1月1日… 橋川 文三(はしかわ ぶんそう/ぶんぞう、1922年1月1日 - 1983年12月17日)は、日本の政治学者、評論家。弘文堂社員などを経て、明治大学政治経済学部教授。在任中に没した。 長崎県上県郡峰村(現・対馬市)の生まれ。父祖の地は広島県。橋川家は、代々対馬の海産物や木炭などを広島まで運ぶ商いをしていた。 文三3歳の時、父親の故郷・広島県安芸郡仁保村(現・広島市南区仁保)に一家で帰郷。安芸郡海田町などで育つ。青崎尋常小学校(現・広島市立青崎小学校)、広島高等師範学校附属中学校(現・広島大学附属高等学校)を経て上京、第一高等学校文科乙類に入学。文芸部に所属。1942年卒業。 同年、東京帝国大学法学部入学。
白井 美則(しらい よしのり、1922年1月1日 - 201… 白井 美則(しらい よしのり、1922年1月1日 - 2015年4月19日)は、日本の裁判官、弁護士。元高松高等裁判所長官。元四天王寺大学学長。 香川県三豊郡上高瀬村(現 三豊市高瀬町)出身。旧制香川県立三豊中学校、東京帝国大学法学部法律学科卒業。 1947年(昭和22年)高等文官試験司法科合格。1949年(昭和24年)高松地方裁判所判事補。1959年(昭和34年)大阪地方裁判所判事に任官。1974年(昭和49年)徳島地方裁判所・家庭裁判所所長、1976年(昭和51年)大阪高等裁判所総括判事、1978年(昭和53年)京都家庭裁判所所長、1980年(昭和55年)大阪家庭裁判所所長を歴任。 1977年(昭和52年)7月20日、大阪高等裁判所総括判事時に「固定資産価格決定取消等及び固定資産審査決定取消請求控訴事件」では、固定資産課税標準価格についての審査の申出に対してされた固定資産評価審査委員会の審査決定の取消しを求める訴えを、既に係属中の右価格について市長の決定の取消しを求める訴えに併合して提起したときは、前者の訴えの出訴期間の遵守につき、行政事件訴訟法20条を類推適用すべきであるとした。
進藤 純孝(しんどう じゅんこう、1922年(大正11年)1… 進藤 純孝(しんどう じゅんこう、1922年(大正11年)1月1日 - 1999年(平成11年)5月9日)は、東京出身の文芸評論家、随筆家、小説家。本名は若倉 雅郎(わかくら まさお)、旧姓は進藤(しんどう)。 川端康成・志賀直哉・芥川龍之介などの論考や、同時代の第三の新人を含む昭和文学の評伝で知られるほか、随筆・回想や小説も書いた。長男は眼科医・作家の若倉雅登。
野崎 一(のざき ひとし、1922年〈大正11年〉1月1日 … 野崎 一(のざき ひとし、1922年〈大正11年〉1月1日 - 2019年〈令和元年〉9月25日)は、日本の化学者(有機合成化学・有機金属化学)。勲等は勲二等。学位は工学博士(京都大学・1949年)。京都大学名誉教授、日本学士院会員。 京都大学工学部教授、岡山理科大学教授などを歴任した。 有機合成化学、有機金属化学を専攻する有機化学者である。1922年〈大正11年〉1月1日生まれ、岡山県出身。太平洋戦争後の日本の有機化学研究を牽引した。京都大学名誉教授。2019年〈令和元年〉9月25日に死去。 三女は東京大学大学院工学系研究科で初の女性教授の野崎京子。 カルボカチオンを基盤としたテルペン類の合成、カルベノイドを利用した新規反応の開発などに取り組み、戦後復興期にあった日本有機化学界を牽引する業績を上げた。
森島 健男(もりしま たてお、1922年 (大正11年) 1… 森島 健男(もりしま たてお、1922年 (大正11年) 1月1日 - 2020年 (令和2年) 8月16日)は、日本の剣道家、元警視庁警察官。称号は剣道範士、警視庁剣道名誉師範。段位は元九段(2000年 (平成12年) 返上)。 熊本県上益城郡益城町出身。旧制中学校で武道専門学校(4期)出身の水野尾清から剣道を学び始める。水野は、試合ばかりやっていると将来伸びないとして基本稽古を重視したため、試合は1回戦で負けていたという。 1939年(昭和14年)、国士舘専門学校国語漢文剣道科に入学し、斎村五郎、小川忠太郎に師事する。1943年(昭和18年)に卒業。 1945年(昭和20年)、陸軍に召集される。
卜部 政巳(うらべ まさみ、1922年(大正11年)1月1日… 卜部 政巳(うらべ まさみ、1922年(大正11年)1月1日 - 1999年(平成11年)12月14日)は、日本の労働運動家、政治家。衆議院議員(2期)。 島根県出身。平壌で生まれる。1942年(昭和17年)専修大学専門部商科を修了。召集され陸軍軍曹となる。 郵政省に入省し松江地方貯金局(現貯金事務センター)勤務となる。その後、全逓(のちの日本郵政公社労働組合)島根地区書記長、全逓中央本部執行委員、同執行委員長、島根県労働組合総評議会議長、島根県物価対策協議会議長などを務めた。 1963年(昭和38年)11月の第30回衆議院議員総選挙に島根県全県区から日本社会党公認で出馬して初当選。第31回総選挙、また1968年(昭和43年)7月の第8回参議院議員通常選挙に島根県地方区から出馬したがいずれも落選。
縫田 曄子(ぬいた ようこ、1922年1月1日 - 2024… 縫田 曄子(ぬいた ようこ、1922年1月1日 - 2024年9月9日)は、日本のジャーナリスト。女性初のNHK解説委員、東京都民生局長、国立婦人教育会館初代館長、市川房枝記念会理事長などをつとめた。 1922年(大正11年)1月1日、中国の上海で生まれた。上海は、中国問題専門家のジャーナリストだった父、太田宇之助の赴任先だった。名前の「曄」には「日本と中華の懸け橋になるように」という願いがこめられた。 1939年(昭和14年)、立教高等女学校を卒業し、津田英学塾に入学した。1942年(昭和17年)9月、津田英学塾を繰り上げ卒業した。卒業後、半年ほど国際文化振興会調査部に勤務した。同期に堀田善衛がいた。
田代 一正(たしろ かずまさ、1922年(大正11年)1月1… 田代 一正(たしろ かずまさ、1922年(大正11年)1月1日 - 2000年(平成12年)5月25日)は日本の大蔵官僚。防衛庁経理局長、防衛庁長官官房長、防衛事務次官、日本銀行理事、日本証券金融取締役副社長、平和相互銀行代表取締役会長兼社長などを歴任。 兵庫県出身。東京帝国大学経済学部経済学科卒業。東京帝大経済学部経済学科在学中に高等試験行政科を合格。1943年9月 大蔵省入省。外資局属。1945年1月 名古屋財務局。1946年2月 浜松税務署長。1959年8月 主計局主計官(外務、通商産業担当)。1963年5月 主計局主計官兼主計局総務課(企画担当)。1965年6月 銀行局総務課長。1966年7月 国税庁調査査察部長。
小林 清志(こばやし きよし、1922年〈大正11年〉1月1… 小林 清志(こばやし きよし、1922年〈大正11年〉1月1日 - 2013年〈平成25年〉10月28日)は、日本の機械工学者。東北大学教授を経て、豊田工業大学学長や、日本伝熱学会会長、日本熱物性研究会会長等を歴任した。 長野県長野市生まれ。旧制長野商業学校(長野県長野商業高等学校)、旧制横浜高等工業学校、東北帝国大学工学部を経て、1949年同大学院修了。1959年文部省の在外研究員としてアルゴンヌ国立研究所留学。1960年東北大学教授。1970年静岡大学教授。1981年日本伝熱学会会長。1983年日本熱物性研究会会長。1984年 豊田工業大学教授、豊田工業大学副学長。1990年豊田工業大学第3代学長就任。
須崎 勝彌 (すさき かつや、1922年1月1日 - 201… 須崎 勝彌 (すさき かつや、1922年1月1日 - 2015年1月9日)は、日本の脚本家・小説家。日本統治時代の朝鮮京城府生まれ。鹿児島県いちき串木野市串木野地域出身。別名義に須崎 勝弥。 父が三菱鉱業に勤め、京城支社にいる頃に生まれる。市来尋常高等小学校(現いちき串木野市立市来小学校)在学を経て、1939年(昭和14年)旧制京城中学校卒業。1942年(昭和17年)旧制第一高等学校卒業。東北帝国大学法学部在学中の1943年(昭和18年)に学徒出陣となり、1944年(昭和19年)に卒業扱い。学徒出陣では出水海軍航空隊に少尉で任官され、沖縄戦線に出撃するなどをして茨城県百里海軍航空隊で終戦を迎えた。
長谷川 房雄(はせがわ ふさお、1922年(大正11年)1月… 長谷川 房雄(はせがわ ふさお、1922年(大正11年)1月 - 2020年(令和2年)12月29日)は、日本の建築学者。専門は建築環境工学、建築計画学。東北大学名誉教授。工学博士。 1922年(大正11年)、静岡市生まれ。1934年(昭和9年)3月、静岡市立安西小学校卒業。1939年(昭和14年)3月、静岡県立静岡中学校卒業。1942年(昭和17年)9月、静岡高等学校 (旧制)理科一類卒業。1945年(昭和20年)9月、東京帝国大学第二工学部建築学科卒業。同年11月、財団法人建設技術研究所に就職。1951年(昭和26年)3月、同退職。4月、東北大学工学部建築学科助教授、1961年(昭和36年)9月、『建築壁体の熱伝導計算法に関する研究』により工学博士(東京大学)。
石原 光男(いしはら みつお、1922年 - )は、神奈川県… 石原 光男(いしはら みつお、1922年 - )は、神奈川県出身のプロ野球選手。 浅野中学校から1946年にセネタースへ入団。同年退団。
韮沢 忠雄(にらさわ ただお、1922年 - 2007年)は… 韮沢 忠雄(にらさわ ただお、1922年 - 2007年)は、日本のジャーナリスト。日本共産党で赤旗編集局長等を歴任し、既存マスコミの報道におけるタブーへの批判などを展開した。 長野県小諸町生まれ。実家は洋服屋。小諸商業学校(現長野県小諸商業高等学校)を経て、旧制東京商科大学(現一橋大学)に進学。大学在学中金沢で陸軍に勤務。高島善哉ゼミ出身。 大学に復学後、共産党シンパの学生らで組織された民主主義科学研究会(民研)に本間要一郎(のちに横浜国立大学名誉教授)、岡稔(のちに一橋大学教授)、佐藤定幸(のちに一橋大学名誉教授)らとともに参加し、主要メンバーとして活動した。民研はのちに、学生自治会委員長となった弓削達(のちに東京大学名誉教授)から批判を受けるなどし解散して社会科学研究会に改組した。
桶川 隆(おけかわ たかし、1922年 - )は、大阪府出身… 桶川 隆(おけかわ たかし、1922年 - )は、大阪府出身のプロ野球選手。
合力 栄(ごうりき さかえ、1922年 ‐ 2012年)は、… 合力 栄(ごうりき さかえ、1922年 ‐ 2012年)は、日本の商学者、(商学総論)。元 八幡大学 (現 九州国際大学)学長。佐賀県出身。 その後熊本学園大学教授、日本経営診断学会顧問、日本中小企業学会理事副会長などを勤める。 アララギ会に所属した事があり斎藤茂吉と九州の関係性を研究した書がある。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
浅野 芳(あさの かおる、1922年 - )は、気象予報士。… 浅野 芳(あさの かおる、1922年 - )は、気象予報士。群馬県出身。気象大学校卒業。 気象庁天気相談所長や日本気象協会主任技師などを務め、TBSの夕方の番組のJNNニュースコープ(50分時代)に出演していた時は、お天気コーナーを担当していた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
浅野 二郎(あさの じろう、1922年 - )は、園芸学者。… 浅野 二郎(あさの じろう、1922年 - )は、園芸学者。千葉大学名誉教授。日本庭園学会会長などを歴任。農学博士。 福島県生まれ。京都大学農学部卒業。京都大学講師、香川大学助教授を経て1964年香川大学農学部教授就任。1977年千葉大学園芸学部教授。 主な庭園設計に徳島県徳島市の料亭「渭水苑」(旧和田吉郎邸)庭園がある。他、梁川城本丸の庭園遺跡調査など、多数。 1987年度日本造園学会上原敬二賞受賞。
葛西 善三郎(かさい ぜんざぶろう、1922年 - 2017… 葛西 善三郎(かさい ぜんざぶろう、1922年 - 2017年)は、日本の農学者。 旧制滝川中学校卒業鳥取高等農業学校卒業、鳥取大学農学部同窓会京都支部設立に参画し初代支部長を務める。京都大学農学部農林化学科卒業。1947年京都大学助教授、1957年京都大学食糧科学研究所教授。1985年京都大学を定年退官、同年京都大学名誉教授となる。京都大学を定年退官後は近畿大学農学部教授となる。 1956年日本土壌肥料学会賞受賞。
吉井巌(よしい いわお、1922年 -1995年 )は、国文… 吉井巌(よしい いわお、1922年 -1995年 )は、国文学者。大阪に生まれる。京都大学文学部を卒業。国文学を専攻。帝塚山学院大学教授。 『古事記』を中心とした『記紀』系譜の研究が有名で、特に『上宮記』一伝にいう、継体天皇の父系の祖であるホムタワケが通常応神天皇とされるところを、垂仁天皇の子・誉津別命と解釈したことはよく知られる(『天皇の系譜と神話 二』)。また王朝交代説において応神天皇が始祖的な大王とされたのに対し、いち早く応神天皇の始祖性を否定する見解を示した(『天皇の系譜と神話 一』)。『ヤマトタケル』においては、ヤマトタケルの伝承のそれぞれがヤマトタケルの別名と密接に結びついていることに注目し、その名前に関連して述べられた伝承を1人の英雄像として統合する形で生まれたのが『記紀』におけるヤマトタケルであると論じた。
羽鳥 卓也(はとり たくや、1922年 - 2012年[要出… 羽鳥 卓也(はとり たくや、1922年 - 2012年[要出典])は、日本の経済学者、岡山大学名誉教授。アダム・スミス、デヴィッド・リカードなどの古典派経済学を研究した。 岐阜県生まれ。1947年、慶應義塾大学経済学部卒業。専修大学経済学部助教授、福島大学経済学部助教授、1962年、「古典経済学の研究」で名古屋大学経済学博士。福島大教授、岡山大学法文学部教授。1985年経済学史学会代表幹事。1988年、定年退官、熊本学園大学教授。
久留島 陽三(くるしま ようぞう、1922年 - )は、マル… 久留島 陽三(くるしま ようぞう、1922年 - )は、マルクス経済学者。岡山大学名誉教授、福山平成大学名誉学長。 広島県生まれ。東京帝国大学在学中の1943年12月に学徒出陣で軍に入隊。1945年12月復学。1947年東京帝国大学経済学部卒業。学部で大河内一男のゼミに所属し、職工農家の調査を実施。ゼミ生の田添京二、大塚斌とともに学生労働問題研究会をつくり、労働組合の実態調査を実施。前者は「「職工農家」に関する研究――N工場における調査を中心として」、後者は「戦後日本労働組合の動向」として大河内一男編『戦後社会の実態分析』(日本評論社、1950年)にまとめられた。1949年東京帝国大学特別研究生(前期)修了。
今野 博(こんの ひろし、1922年(大正11年)- )は、… 今野 博(こんの ひろし、1922年(大正11年)- )は、日本の都市計画家。工学博士(東京大学)。岩手県生まれ。前田環境美術(株)会長。財団法人 都市づくりパブリックデザインセンター顧問。 1945年東京帝国大学第二工学部土木工学科卒。日本住宅公団首都圏宅地開発本部長から同首都圏宅地開発本部長を経て、建設省都市局区画整理課長、1970年1月に街路課長を歴任し、1971年同省都市局技術参事官。また1967年より兼務にて東京大学工学部都市工学科講師。1974年日本住宅公団理事、衆議院建設委員会調査員。1981年(株)都市開発技術サービス代表取締役社長を経て、同社取締役会長。都市計画コンサルタント協会の会長と都市づくりパブリックデザインセンター理事長、日本都市計画学会会長も歴任。
谷 昌恒(たに まさつね、1922年 - 没年不明)は、日本… 谷 昌恒(たに まさつね、1922年 - 没年不明)は、日本の教育者。北海道家庭学校の第5代校長を務めた。 1922年、東京府に生まれる。母が植村正久に洗礼を受け、熱心なキリスト者の家庭に育つ。戦時下の学生時代は地質学の研究に当たる。理科学生であったために兵役は免れたが、同年輩の友人の多くは戦場に赴き戦死した。 1945年、東京大学理学部地質学科を卒業する。戦後、戦災孤児たちの姿を見て志を与えられ、福島県に堀川愛生園(養護施設)を創設、戦災孤児たちとの生活を始める。1965年、堀川愛生園を辞し、社会保障研究所主任研究員として、主に各国制度の比較研究に従事する。 1969年、北海道家庭学校の第5代校長として招かれ、いわゆる非行少年の教育、指導にあたる。
村尾 清一(むらお きよかず、1922年 - )は、日本のジ… 村尾 清一(むらお きよかず、1922年 - )は、日本のジャーナリスト、文筆家。 香川県香川郡直島町生まれ。京都三高から、東京大学法学部政治学科卒業。 二代目・週刊新潮編集長の野平健一は旧三高時代の同級生。仏文学者の河盛好蔵は、京都三高の同じフランス文学のクラスの先輩だった。 終戦3年目の1948年に読売新聞社に入社し、社会部記者となる。 1953年 中東特派員で英国エリザベス女王の戴冠式を取材。1954年3月には第五福竜丸事件のスクープ報道に関わり、放射性降下物について「死の灰」という造語で伝えた。同年1月に、辻本芳雄(社会部次長)のもとで原子物理学に関する解説連載記事「ついに太陽をとらえた」に関わっていたことが早い初動につながったという。
山本 平弥(やまもと へいや、1922年(大正11年)- 2… 山本 平弥(やまもと へいや、1922年(大正11年)- 2012年(平成24年))は、日本の学者、海上保安官、海軍軍人(予備将校)である。最終階級は海軍大尉。工学博士。 新潟県長岡市において生まれる。1943年(昭和18年)東京高等商船学校機関科(現・東京海洋大学)卒業。 大阪商船に入社するも、海軍に応召。重巡洋艦「足柄」、防空駆逐艦「秋月」に乗り組み、機関科分隊士として軍務につく。1944年に乗艦「秋月」が沈没し、九死に一生を得る。その後、横須賀海軍砲術学校教官に転任し、海軍予備生徒の教育に従事。終戦時は海軍大尉。 戦後は、大阪商船に復帰するが、間もなく海上保安庁に入庁し、巡視船機関長等を歴任し、海上保安大学校教授(現・名誉教授)、第七管区海上保安部長、海上保安学校長を歴任。
宮下 章(みやした あきら、1922年 - 2002年)は、… 宮下 章(みやした あきら、1922年 - 2002年)は、食文化研究者。 長野県伊那谷生まれ。旧制大倉高等商業学校(現・東京経済大学)卒業。長年にわたり和紙、凍豆腐、海藻、鰹節、海苔などの研究をつづけ、全国を調査旅行。晩年は食物文化史の研究に専念。文学的な表現で書かれた著書の数々が有名[要出典]。古文書や海外の類似する伝統食にも着目した内容となっている。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、食品・食文化に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:食)。
金子 篤司(かねこ あつし、1922年- 2002年)は、日… 金子 篤司(かねこ あつし、1922年- 2002年)は、日本の彫刻家。 1922年(大正11年)、山口県下関市に生まれる。神奈川一中(現県立希望ヶ丘高校)卒業後、日本刀鍛錬伝習所に入門。修業途中で兵役に召集されたが、兄弟子の人間国宝宮入行平とは、終生の交流を持ち続けた。 1949年、東京芸術大学美術学部木彫科入学。平櫛田中に師事。1953年同卒業。主に日展、日彫展などで活躍した。日展初入選以後、15回入選。日展会友。日彫展会員。1965年女子美術大学講師(以後18年間)。 1982年横浜美術協会会長。横浜美術協会理事・相談役。2002年、神奈川県相模原市にて心不全のため死去。(「ART MIND 2006秋季号」P.1」 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
三尾 彰藍(みお しょうらん、1922年 - 2011年)は… 三尾 彰藍(みお しょうらん、1922年 - 2011年)は、埼玉県北足立郡浦和町(現・さいたま市浦和区)出身の日本画家。本名、三尾雄治。浦和画家のひとり。 浦和画家、三尾呉石の二男。1歳の時に関東大震災に被災し、父と共に埼玉県浦和町(のち浦和市)に転居、生涯浦和に居住。東京美術学校卒業。山口蓬春、髙山辰雄に師事した。院展で活躍し、風景画や静物画を得意とした。1979年までは本名(三尾雄治)で発表していた。2013年3月には埼玉県立近代美術館で回顧展が行われた。県展運営委員。
荒木 繁(あらき しげる、1922年 - )は、日本の国文学… 荒木 繁(あらき しげる、1922年 - )は、日本の国文学者。和光大学名誉教授。 茨城県生まれ。1947年東北帝国大学法文学部国文科卒。同大学副手。東京都立西高等学校教諭在職中の1952年、「血のメーデー」事件で逮捕され、長く裁判で戦う(都立高校は休職扱いで給与は据え置かれたままだったという)。その後、和光大学人文学部教授。93年定年退任、名誉教授。語り物文芸、国語教育を専門とする。
富田 昭平(とみた しょうへい、1922年 - )は日本の実… 富田 昭平(とみた しょうへい、1922年 - )は日本の実業家。日本ケンタッキー・フライド・チキン設立の日本側責任者を務め、同社社長・会長、ジェフグルメカード初代社長、日本フードサービス協会会長等を歴任した。 1943年9月旧制東京商科大学付属商学専門部(のちの一橋大学)を繰り上げ卒業。1944年旧日本軍に入隊し、中国で従軍。 1946年5月に復員するも、職がなく、1946年9月に、父の友人であった神田啓三郎が主宰する大成水産に入社。その後事業が失敗。神田社長の世話で三陸油脂入社。専務を務めていた二村謙三(のちに三菱商事副社長)との知遇を得て、油脂の仕事の指導を受ける。 明光商事、不二商事、三菱商事を経て、日本ケンタッキー・フライド・チキン設立の三菱商事側の責任者を務め、1970年の会社設立時に常務取締役に就任。
林 善茂(はやし よししげ、1922年 - 2013年)は日… 林 善茂(はやし よししげ、1922年 - 2013年)は日本の経済学者、北海道大学名誉教授。専門は、農業経済学・アイヌ民族文化研究。北海道小樽市生まれ。 1938年に北海道帝国大学予科農類に入学し、1943年に北海道帝国大学農学部農業経済学科を卒業した。卒業後、農学部で研究生や助手となり、1948年8月に助教授に就任している。 1953年、新設された北海道大学経済学部に転じた。1962年に北海道大学で農学博士号を取得した。翌年、教授に昇格した。 1972年、北海道大学の評議員に選出される。1976年に北海道大学経済学部長に就任した。部長在職中の1977年に講義で「北海道経済史は辺境における開発の歴史として見ていくことであり、主体は日本人であってアイヌではない」「アイヌの歴史は切り捨てる」、また和人男性が蝦夷地に来た頃に彼らと結婚したアイヌ女性を「占領軍時代のパンパンと同じ」などの発言をおこなったことが学生やアイヌの反発を招き、糾弾として教室に封鎖される事態となった(機動隊により救出)。
春原 千秋(はるはら ちあき、1922年-2017年)は、日… 春原 千秋(はるはら ちあき、1922年-2017年)は、日本の精神科医、病跡学者。 横浜市生まれ。1947年北海道帝国大学医学部卒。1947年東京帝国大学医学部精神医学教室に入局。1956年「狂犬病予防注射による脳炎の精神神経障害について」で東京大学医学博士。同大助手、順天堂大学講師、1959年中央鉄道病院精神神経科主任医長。82年退職、高円寺クリニック医師。1992年将棋世界誌上での「将棋を愛した文豪たち」の連載で将棋ペンクラブ大賞特別賞受賞。将棋ペンクラブ監査役。
三木 慶介(みき けいすけ、1922年 - 2016年)は、… 三木 慶介(みき けいすけ、1922年 - 2016年)は、日本の山岳写真家。 写真雑誌の月例応募からスタートし、またたく間に「三木時代」なる言葉まで生み、山岳写真界に一時代を築いた。 1954年からアサヒカメラの月例に応募しはじめ、1956年にアサヒカメラ優秀作家賞、1959年にイタリアで開催された、世界国際山岳写真ビエンナーレ展で、「滑降」が日本人として初めて最優秀賞を受賞した。 1964年にも「友を気遣う」が、世界国際山岳写真ビエンナーレで2度目の最優秀賞を受賞した。 全日本山岳写真協会の理事長を務め会長に就任。東京野歩路会代表を経て顧問に就任、後進の指導にあたった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
関根鎮彦(せきね しずひこ、1922年- )は、日本の地理学… 関根鎮彦(せきね しずひこ、1922年- )は、日本の地理学者。 東京市深川生まれ。兵役ののち、1949年早稲田大学文学部人文地理専攻卒。同助手をへて、各大学非常勤講師を務めた。
富安 俊助(とみやす しゅんすけ、1922年 - 1945年… 富安 俊助(とみやす しゅんすけ、1922年 - 1945年)は、大日本帝国海軍軍人。太平洋戦争末期に神風特別攻撃隊の一員として特攻した将校(中尉)である。 映画「永遠の0」のモデルとなっており、 空母エンタープライズを一撃で戦闘不能に追い込んだ。 長崎県で生まれ、幼少期を東京府で過ごした。1942年に早稲田大学政治経済学部を卒業後、南満洲鉄道に就職するも、戦争の激化を前に志願し、1943年に飛行予備士官として大日本帝國海軍に入隊。筑波海軍航空隊にて短期間の訓練を受けた後、鹿屋基地に配属され、特攻隊・第6筑波隊の一員となった。 富安は、周囲の証言によれば「陽気で人なつっこく、音楽やスポーツを愛する」人物であったという。
長谷川 昇(はせがわ のぼる、1922年 -2002年 )は… 長谷川 昇(はせがわ のぼる、1922年 -2002年 )は、日本の歴史学者。専門は自由民権運動。横浜市生まれ、早稲田大学文学部卒業。東海学園女子短期大学教授を経て、名誉教授。専攻は日本近代史。 松岡正剛は『博徒と自由民権』を「名古屋事件を詳細に再現した一書。目を洗われた。」と評している。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
板倉 文雄(いたくら ふみお、1922年〈大正11年〉- 1… 板倉 文雄(いたくら ふみお、1922年〈大正11年〉- 1989年〈平成元年〉)は、日本の作詞家。茨城県稲敷郡岡田村(現在の牛久市)出身。 茨城県稲敷郡岡田村(現在の牛久市)大字東大和田町(現在の東大和田町)出身。 昭和25年、26年、27年ごろに板倉が書いた「泪の夜汽車・泣くな片妻」を作曲平川浪竜(後に岸壁の母を作曲した)が手掛け、大ヒットを記録した。昭和57年には牛久市立下根中学校の開校に伴い、校歌の作詞を手掛けた。 門下に小樽のひとよを作詞した池田充男やうしくかっぱ祭りの河童ばやしを作詞した中島清治などがいる。作詞家として活躍した石本美由起(2009年逝去)は、若き日に同じく作詞家である板倉文雄を「胸中ひそかに生涯のライバルとしていた」という。
栗原 克実(くりはら かつみ、1922年 - 2003年)は… 栗原 克実(くりはら かつみ、1922年 - 2003年)は、日本の水墨画家。千葉県生まれ。 内閣総理大臣賞、国際文化交流功労特別賞などを受賞。国画水墨院名誉顧問。水墨画の世界的巨匠である。 「水墨画は東洋美術の主流であったが、明治の文明開化以降、欧米化に波のまれ影が薄くなっていた。私は洋画家を志したが、伝統芸術に関心を寄せ、水墨画家へと転身することとなった。東洋と西洋の思想、絵画理論を融和させ、西洋の影響を受けながらもなお、東洋的気質を貫く、水墨画の世界を創造確立することこそ、今日的課題だと考える。」 栗原克実の次男、栗原志保見も絵画活動を行い、フランス・パリのサロン・ドートンヌ展や公的国際現代アートフェアなどに選抜されるなど、活躍を重ねている。
伊藤 啓介(いとう けいすけ、1922年(大正11年)- 没… 伊藤 啓介(いとう けいすけ、1922年(大正11年)- 没年不詳)は、日本の外交官、軍属、スパイ。 タイのシンゴラ領事館に外交官として赴任、現地で諜報活動を行う。太平洋戦争においてF機関に参加。インド国民軍の編成や戦後のインド独立に影響を与えた藤原岩市を補佐した。戦後、日本バングラデシュ協会事務局長。2008年時点で在命。 山形県酒田市生まれ。1938年、東亜経済調査局付属研究所こと大川塾の一期生として入学。1940年、同研究所卒業後、助手として採用。1941年8月、タイのシンゴラ領事館に赴任。開戦に備えるためスパイとなり、タイの田舎を回り兵要地理の視察を行う。伊藤の調査対象は飛行場の立地、滑走路の長さ、井戸の位置や道路の状況、シャム湾の気候、風の方角であった。
福持通(ふくもちとおる、1922年 - 2014年)は日本の… 福持通(ふくもちとおる、1922年 - 2014年)は日本の実業家。元都ホテル(現ウェスティン都ホテル京都)社長。伊勢本街道保存会相談役。三重県名張市出身。祖父・善之丞は立憲憲政会員、名賀郡会議員。
吉原 正(よしわら ただし、1922年 - 2014年)は、… 吉原 正(よしわら ただし、1922年 - 2014年)は、日本の建築家。中村順平のボザール教育を受け、同級の松本陽一と親交をもつ。鹿島建設時代に、天野太郎や樋口清と親交をもち、天野がフランク・ロイド・ライトのもとから帰国した後、共に設計活動を行う。天野がパーキンソン病で死去するまで設計活動を支え続けた。
永井 正(ながい ただし、1922年 - 2002年)は日本… 永井 正(ながい ただし、1922年 - 2002年)は日本の実業家。元三井ホーム社長。
町田 旭(まちだ あきら、1922年 - 1995年10月1… 町田 旭(まちだ あきら、1922年 - 1995年10月15日)は、昭和時代後期に活動した日本の作曲家。茨城県出身。 茨城県西茨城郡岩間町(現在の笠間市)出身。旧制水戸中学校では野球部に所属していた。卒業後は水戸保線事務所(現在のJR東日本水戸支社)に入り、主として線路の保守点検業務に従事する。 国鉄平保線区工事助役を務めていた時期に茨城県が一般公募した県民歌の作曲部門で応募作が入選し、平井康三郎の編曲で「茨城県民の歌」として制定される。当時のインタビューではクラシックのレコード収集が趣味だが作曲を専門的に習ったことは無く、20年余り独学を重ねて試しに作った曲を応募したら入選したと述べている。
牛玖 健治(うしく けんじ、1922年 - 2012年)は、… 牛玖 健治(うしく けんじ、1922年 - 2012年)は、日本の版画家、洋画家。千葉県出身。 1922年(大正11年)、千葉県に生まれる。旧制佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)を経て、東京美術学校(現在の東京芸術大学)を卒業。東京版画国際展をはじめ、毎日国際展、毎日現代展、朝日秀作美術展、JAA国際展などで活躍する。河童絵の牛玖博は実弟。
藤崎 武男(ふじさき たけお、1922年(大正11年) - … 藤崎 武男(ふじさき たけお、1922年(大正11年) - )は、日本の作家、ルポライター。元・旧日本陸軍大尉。旧姓・太田。 千葉県に生まれる。1939年(昭和14年)3月、旧制千葉県立佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)卒業、1941年(昭和16年)7月、陸軍士官学校(55期)を卒業し、見習士官として華北に派遣される。 1944年(昭和19年)には、第37師団・歩兵第227連隊の第1中隊長として大陸打通作戦に参戦し、中国大陸から仏印・英領マレーを転戦してマレーで終戦を迎えた。第二次世界大戦終戦時、陸軍大尉。著書の『歴戦1万5000キロ―大陸縦断一号作戦従軍記』は、大陸打通作戦開始から、終戦後日本に帰還するまでの記録である。
中村 太郎(なかむら たろう、1922年〈大正11年〉 - … 中村 太郎(なかむら たろう、1922年〈大正11年〉 - 1969年〈昭和44年〉8月18日)は、日本の剣道家(範士七段)、警察官。 父は剣道道場「大義塾」塾長で、戦前にアメリカに渡り剣道を教えていた中村藤吉。神奈川県の実業家で現・大義塾塾長の中村藤雄は弟。 神奈川県警察に奉職し、全日本剣道選手権大会優勝2回・準優勝2回、全国警察官剣道大会優勝、全日本東西対抗剣道大会出場など全国大会で活躍した。栄典は従七位、警察功績章。 大義塾の弟子に林家木久扇、柳家小団治がいる。また、世代は異なるが神奈川県警察の後輩に宮崎正裕がいる。
山桝 忠恕(やまます ただひろ、1922年 - 1984年1… 山桝 忠恕(やまます ただひろ、1922年 - 1984年11月13日)は、日本の会計学者。学位は、経済学博士(慶應義塾大学・1960年)(学位論文「監査制度の展開」)。慶應義塾大学教授を歴任。 愛知県名古屋市生まれ。愛知県立明倫中学校(現愛知県立明和高等学校)を経て、1942年に彦根高等商業学校(現滋賀大学経済学部)卒業。1945年神戸経済大学(現神戸大学)卒業。平井泰太郎門下。神戸大学講師、松山商科大学助教授、神戸商科大学助教授等を経て、1960年に慶應義塾大学教授。同年「監査制度の展開」で慶應義塾大学より経済学博士の学位を取得。三邊金蔵、小高泰雄を財務会計論において後継した研究者の一人とされる。
黒木 正憲(くろき まさのり、1922年 - 2008年5月… 黒木 正憲(くろき まさのり、1922年 - 2008年5月4日)は東京出版創業者。 宮崎県西都市出身。広島高等師範学校を経て東京大学法学部卒業。予備校で数学講師をしていたが、母校である妻中学の数学授業の内容に危機感を覚えたことがきっかけで、都市圏以外に在住する学生が受験関連の情報にアクセスしやすくなることを目的に出版界に入った。1957年、東京出版を創業し、受験雑誌「大学への数学」を創刊。日本数学オリンピックにも携わった。 2008年5月4日、肺炎のため死去。 弟は工業デザイナーの黒木靖夫。「大学への数学」の表紙デザインを担当した。 20世紀日本の実業家
山崎 諭(やまざき さとる、1922年 - 2000年4月1… 山崎 諭(やまざき さとる、1922年 - 2000年4月19日)は、日本のアマチュア野球選手、アマチュア野球指導者。
池端 忠夫(いけはた ただお、1922年 - )は愛知県知多… 池端 忠夫(いけはた ただお、1922年 - )は愛知県知多市出身の元プロ野球選手。