志波 安一郎(しば やすいちろう、1873年(明治6年)9月… 志波 安一郎(しば やすいちろう、1873年(明治6年)9月20日 - 1932年(昭和7年)6月10日)は、日本の衆議院議員(政友本党→立憲民政党→立憲政友会)。 長崎県高来郡神代村(現在の雲仙市)出身。志波三九郎の長男。第三高等学校を中退後、京釜鉄道社員、神代郵便局長、数寄屋銀行神代支店長、長崎農工銀行監査役、肥前銀行顧問などを務めた。 長崎県会議員を3期務めた後、1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は4回を数えた。
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赤司 繁太郎(あかし しげたろう/はんたろう、1873年9月… 赤司 繁太郎(あかし しげたろう/はんたろう、1873年9月17日-1965年1月9日)は、日本のキリスト教伝道者。 福岡県久留米出身。号は嚼花。1887年上京、東京英語学校入学。1889年東京専門学校に入り、ドイツ普及福音教会のスピンナー・シュミーデルに接し、宗教家を志す。1890年普及福音教会の神学校入学、翌年ユニバーサリストの神学校に入り1894年卒業。1906年成美英語女学校の校長となった。1908年木下尚江と雑誌「新天地」を発行。1909年ユニバーサリスト教会を離脱、自由キリスト教会として東京・東郷坂に普及福音教会を設立した。
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荒井 建三(あらい けんぞう、1873年〈明治6年〉9月15… 荒井 建三(あらい けんぞう、1873年〈明治6年〉9月15日 - 1956年〈昭和31年〉7月22日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。旧姓・正村。 新川県射水郡高岡町源平町(現富山県高岡市)で、実業家・正村義平の三男として生まれ、1887年(明治20年)実業家・荒井荘蔵の養子となる。富山県尋常中学校(現富山県立富山高等学校)を経て、1897年(明治30年)専修大学卒。高岡市参事会員、富山県議、同議長、高岡商業会議所会頭、高岡紡績(株)常務取締役、高岡銀行、高岡商業銀行、高岡電燈、山又機業、オリエンタル写真工業各(株)取締役、北陸信託(株)、高岡信用組合各社長、日本米穀(株)高岡市場参与となる。
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吉丸 一昌(よしまる かずまさ、1873年(明治6年)9月1… 吉丸 一昌(よしまる かずまさ、1873年(明治6年)9月15日 - 1916年(大正5年)3月7日)は、日本の作詞家、文学者、教育者。代表作は「早春賦」など。東京府立第三中学校教諭、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授。大分県北海部郡海添村(現・臼杵市海添)出身。 日本基督教団の牧師で讃美歌第二編の委員長の藤田昌直の実父。 大分県の旧臼杵藩下級武士・吉丸角内の長男として生まれる。小学校尋常科から小学校高等科卒業までの成績は非常に優秀で、県から度々表彰を受けるほどだった。1889年、大分県立大分中学校(のち大分県立大分上野丘高等学校)を経て1894年、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)に進学する。
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小松 倍一(こまつ ばいいち、1873年(明治6年)9月15… 小松 倍一(こまつ ばいいち、1873年(明治6年)9月15日 - 没年不詳)は、日本の教育者。 長野県東筑摩郡片丘村(現在の塩尻市)出身。1899年(明治32年)、東京帝国大学文科大学史学科を卒業。岐阜県大垣中学校教諭、山口県立豊浦中学校教諭、静岡県立掛川中学校校長、石川県立金沢第一中学校校長、福岡県立中学校修猷館校長、第五高等学校教授、松江高等学校校長、第六高等学校校長、水戸高等学校校長を歴任。1931年(昭和6年)に第四高等学校校長に就任した。 1937年(昭和12年)に退官した後は、東洋高等女学校校長を務めた。
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鶴見 左吉雄(つるみ さきお、1873年(明治6年)9月13… 鶴見 左吉雄(つるみ さきお、1873年(明治6年)9月13日 - 1946年(昭和21年)12月17日)は日本の農商務官僚、実業家。 士族・鶴見有成の子として富山県に生まれる。1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。内務省に入省(配属先は地方局)。岩手県参事官、兵庫県参事官、三重県内務部長を歴任した。1908年(明治41年)、農商務書記官に転じ、外務書記官・製鉄所参事を兼ね、1917年(大正6年)に水産局長に就任。その後、山林局長、商務局長を経て、農商務次官に就任している。1918年(大正7年)には友人である三鬼鑑太郎の息子・隆に釜石の田中製鉄所を紹介し入社させる。
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岡 實(おか みのる、1873年〈明治6年〉9月12日 - … 岡 實(おか みのる、1873年〈明治6年〉9月12日 - 1939年〈昭和14年〉11月20日)は、日本の農商務官僚、大阪毎日新聞社会長。 若州小濱出身、岡義抄の長男として生まれる。奈良県出身。奈良英和学校出身。東京中学校、第一高等学校を経て、1898年7月東京帝国大学法科大学政治学科卒業、同月内務属、同年12月文官高等試験合格、同月法制局参事官。 1901年11月農商務省参事官となり、窪田静太郎工務課長のもとで同省の工業行政に関わった。工場法制定のため農務省商工局内の臨時工場調査掛によって実施された各地の工場労働者の実態調査(1903年刊行された『職工事情』はその報告書である)の中心となり、1910年6月には窪田の後を継いで工務局長に就任、翌1911年3月の工場法制定に尽力し同年その制定過程をまとめた『工場法論』を刊行した。
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児玉 右二(こだま ゆうじ、1873年(明治6年)9月10日… 児玉 右二(こだま ゆうじ、1873年(明治6年)9月10日 - 1940年(昭和15年)1月23日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→昭和会)、ジャーナリスト。号は篁南。 山口県美祢郡綾木村(現在の美祢市)出身。東京帝国大学法科大学を卒業後、サミュエル・サミュエル商会に入社。やがて新聞記者を志し、東京朝日新聞記者となり、さらに議会春秋、新聞の新聞などで主筆を務めた。その後、二六新報社長を経て、大陸通信と哈爾浜日日新聞社の社長を務めた。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に群馬選挙区から出馬し、当選。秋田清・小川郷太郎らと院内会派「新政会」を結成したが、普通選挙論者であった児玉は他と意見が合わず、脱会した。
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羽仁 もと子(はに もとこ、1873年9月8日 - 1957… 羽仁 もと子(はに もとこ、1873年9月8日 - 1957年4月7日)は、日本で女性初のジャーナリスト。また、自由学園の創立者。また家計簿の考案者としても知られている。
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諸戸 北郎(もろと きたお、1873年(明治6年)9月6日 … 諸戸 北郎(もろと きたお、1873年(明治6年)9月6日 - 1951年(昭和26年)11月1日)は、日本の砂防工学者、林学博士。東京帝国大学農学部林学科林学第四講座初代の砂防担当教授、東京帝国大学農学部長、東京帝国大学名誉教授。尚、人物事典等のフリガナに「きたろう」と記されているが、正式名は「きたお」である。 日本の近代砂防および後の森林水文学の第一人者として、研究、教育、技術指導に尽力し、その礎を築き、砂防の発展に多くの業績を残した。 三重県桑名郡桑名町(現桑名市)で、父・諸戸清三、母・むらの長男として生まれた。親族に実業家、林業家の諸戸清六がいる。 1898年(明治31年)東京帝国大学農科大学林学科卒業後、大学院に進み、我国深山の利用法並びに治水事業と森林の関係について研究した。
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北野 うし(きたの うし、1873年(明治6年)9月 - 1… 北野 うし(きたの うし、1873年(明治6年)9月 - 1963年(昭和38年))は、女義太夫の太夫(語り手)。ビートたけしら有名人を輩出した北野家の祖である。 1873年9月、徳島城下の通町で粉問屋を営む北野鶴藏の娘として生まれた。実家は裕福な商家であったと伝えられる。その後、女義太夫の太夫となり、芸名竹本八重子を名乗る。日本では明治20年代から30年代にかけて娘義太夫が大流行し、うしも花形の一人であったという。 折からの不況で家計を助けるために1892年に上京。以後は東京各地の寄席に出演していた。明治後期に娘義太夫を引退し、息子の徳次郎をもうける。 大正後期、成人した徳次郎は明治大学を卒業後セメント会社に勤務し、北野家はある程度裕福であったとされる。
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志保田 鉎吉(しほた しょうきち、1873年(明治6年)9月… 志保田 鉎吉(しほた しょうきち、1873年(明治6年)9月 - 1959年(昭和34年)2月1日[要出典])は、日本の教育者。 京都府天田郡福知山町(現在の福知山市)出身。清水道勝の三男として生まれ、志保田六兵衛の養子となった。1895年(明治28年)、京都尋常師範学校を卒業し、天田郡中部の高等小学校訓導を務めた。1900年(明治33年)、東京高等師範学校文科を卒業し、沖縄県師範学校教諭となった。1901年(明治34年)、台湾総督府国語学校教授に就任。その後、台南高等女学校校長、台南師範学校校長、台北師範学校校長、台北第一師範学校校長を歴任した。 後に帰国、1959年(昭和34年)2月1日に京都市で死去[要出典]。
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山縣 初男(やまがた はつお、1873年〈明治6年〉8月31… 山縣 初男(やまがた はつお、1873年〈明治6年〉8月31日 - 1971年〈昭和46年〉1月11日)は、日本陸軍の軍人・著述家・中国文学研究者・翻訳家。別号は三志園、海城。最終階級は陸軍大佐。陸軍の中国通(支那通)の一人として知られ、繆斌工作に関与していた。娘婿は自由民主党の政治家である三原朝雄。新潟県村上本町表新町(現・村上市)に生まれる。 旧士族・山縣正升の長男として生まれる。村上私学校を中退して陸軍教導団歩兵科に入り、1894年(明治27年)3月に卒業。歩兵二等軍曹として日清戦争に参戦した。1898年(明治31年)12月、士官候補生となり、陸軍士官学校(12期)に入学(同期に小磯國昭らがいる)。
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佐野 善作(さの ぜんさく、1873年(明治6年)8月29日… 佐野 善作(さの ぜんさく、1873年(明治6年)8月29日 - 1952年(昭和27年)5月1日)は、日本の会計学者、経済学者、教育家。商業教育に大きな功績があるとして、1952年に勲一等瑞宝章を受章した。 1873年、現在の静岡県富士市中島に生まれる。1895年高等商業学校(現・一橋大学)卒業。同期に石井健吾(元第一銀行頭取)、岡崎久次郎(日米富士自転車創業者)などがいた。 卒業後はコロンビア大学、ロンドン大学に留学し、研究を深める。帰国後は母校の高等商業学校助手となり、1896年より同助教授、1900年より同教授。1903年より附属商業教員養成所主事。1911年、法学博士号を取得。1914年、東京高等商業学校校長、1920年に同校が大学へ昇格すると東京商科大学(現・一橋大学)初代学長を務めた。
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新城 新蔵(しんじょう しんぞう、1873年(明治6年)8月… 新城 新蔵(しんじょう しんぞう、1873年(明治6年)8月20日 - 1938年(昭和13年)8月1日)は、日本の天文学者・中国学者、理学博士、京都帝国大学第8代総長・名誉教授。専門は宇宙物理学および中国古代暦術。戦前の中国天文学研究の権威であった。 福島県会津若松の造り酒屋に六男として生まれる。若松中学校(現福島県立安積高等学校)、第二高等中学校を経て帝国大学理科大学物理学科を1895年に卒業。大学院に進学し、1897年陸軍砲工学校教授に就任。 1900年京都帝国大学理工科助教授となる。その後ドイツのゲッティンゲン大学に留学し天文学を学び、帰国後に教授となる。留学中の1906年(明治39年)9月、万国測地学協会総会中央局から案内を受け、ハンガリー国ブダペストにて開催された第15回万国測地学協会総会に陪席。
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福島 文右衛門(ふくしま ぶんうえもん、1873年(明治6年… 福島 文右衛門(ふくしま ぶんうえもん、1873年(明治6年)8月20日 - 1937年(昭和12年)1月2日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 素封家・福島文衛の長男として敦賀県今立郡鯖江清水町(福井県今立郡鯖江町を経て現鯖江市)に生まれ、1905年(明治38年)3月、家督を相続し、前名文治を改める。生家は醤油醸造業を営んだ。1908年(明治41年)越前電気を設立し、同社長に就任。福井県農工銀行頭取を務めたのち、1911年(明治44年)福井県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1918年(大正7年)9月28日まで在任した。鯖浦電気鉄道や福井県鯖江女子師範学校の創設にも関与した。
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七沢 清助(ななさわ せいすけ、旧字体: 七澤 淸助、187… 七沢 清助(ななさわ せいすけ、旧字体: 七澤 淸助、1873年〈明治6年〉8月17日 - 1967年〈昭和42年〉2月28日)は、大正・昭和期に活動した日本の政治家、実業家である。長野県出身。旧姓は井口。 井口家から長野で菓子商「凮月堂」を営む七沢家に養子入り家業を継ぐ。長野市会議員(当選3回)や信濃電気支配人を務めたのち1934年(昭和9年)には第6代長野市長に選ばれた。晩年は長野信用金庫役員を長く務めた。 七沢清助は、1873年(明治6年)8月、長野県人・井口常治郎の次男として生まれた。出身地は長野県更級郡原村(後の中津村、現・長野市)。長野中学校を経て上京し東京物理学校で学んだのち、長野県に戻り北佐久郡志賀小学校で教諭となった。
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蒲生 保郷(がもう やすさと、1873年〈明治6年〉8月17… 蒲生 保郷(がもう やすさと、1873年〈明治6年〉8月17日 - 1928年〈昭和3年〉9月11日)は、日本の教育者。福島高等商業学校初代校長。 旧平戸藩士の蒲生林作の子として生まれる。高等商業学校(現一橋大学)卒業。山口高等商業学校の教授を勤めていた。1909年から1910年にかけて、文部相派遣外国留学生(文部省督学官)としてイギリスに留学しロンドンに滞在する。その際にボーイスカウトの整然たる活動に興味を持ち、ボーイスカウト運動に関する書籍類などを収集。日本に持ち帰る。 帰国後、収集した英国ボーイスカウトに関する書籍を桂太郎首相と小松原英太郎文部大臣に贈呈し、政府に「日本でも少年団活動を検討すべし」との建白書を提出する。
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紫安 新九郎(むらやす しんくろう、1873年(明治6年)8… 紫安 新九郎(むらやす しんくろう、1873年(明治6年)8月17日 – 1952年(昭和27年)7月8日)は、衆議院議員(立憲国民党→公友倶楽部→憲政会→立憲民政党→翼賛議員同盟→翼賛政治会→無所属→日本自由党)、ジャーナリスト。号は蘇山。 兵庫県城崎郡田鶴野村(現在の豊岡市)出身。1897年(明治30年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学し、在学中に雑誌『二十世紀』を発刊した。1900年(明治33年)に卒業した後は博文館の編集局に入った。1901年(明治34年)から鎮西日報の主筆となり、1903年(明治36年)からは萬朝報で筆を執った。1907年(明治40年)、大阪市役所に入って商工課長となり、後に南区長に転じた。
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池松 時和(いけまつ ときかず、1873年(明治6年)8月1… 池松 時和(いけまつ ときかず、1873年(明治6年)8月16日 - 1953年(昭和28年)4月17日)は、日本の内務官僚、官選府県知事。 鹿児島県出水郡武本村向江平良馬場(現在の出水市向江町)にて鹿児島県士族(元薩摩藩士)・池松静蔵の長男として生まれる。幼名・与一郎。父静蔵は西南戦争で戦死。1878年3月、家督を相続する。1893年7月鹿児島高等中学造士館予科卒業、1895年7月鹿児島高等中学造士館本科卒業。1898年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り警視庁警部となる。 以後、佐賀県参事官、群馬県警部長、岩手県警部長、栃木県事務官・第四部長、愛知県事務官・第四部長、福井県内務部長などを歴任。
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2代 永田 吉右衛門(ながた きちうえもん、1873年(明治… 2代 永田 吉右衛門(ながた きちうえもん、1873年(明治6年)8月15日 - 1918年(大正7年)2月26日)は、明治から大正時代の政治家。銀行家。実業家。衆議院議員。岐阜県大野郡高山町(現在の高山市)長。幼名は尚次。 初代永田吉右衛門の長男として、高山町(現在の高山市)に生まれる。1897年(明治30年)10月、家督を相続し襲名する。東京商業学校を卒業後、郷里に戻り長らく高山町長を務めた。ほか、高山町会議員、学務委員を歴任した。 財界では飛騨電灯、濃飛自動車、飛騨林業、濃飛農工銀行各取締役、飛騨銀行取締役、同頭取、富山電気、大垣銀行、十二銀行各監査役を歴任した。また、五松庵不及と号して俳句を能くした。
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松本 重威(まつもと しげたけ、1873年(明治6年)8月1… 松本 重威(まつもと しげたけ、1873年(明治6年)8月12日 - 1947年(昭和22年)1月30日[要出典])は、日本の大蔵官僚。錦鶏間祗候。 旧相馬藩士の松本威重の長男として福島県に生まれる。1898年(明治31年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、高等文官試験に合格した。司税官、大蔵書記官・専売局事業部長、大蔵省主税局長を歴任した。 1923年(大正12年)4月6日に退官し日本興業銀行副総裁に就任。その後、1924年(大正13年)1月24日に錦鶏間祗候を仰せ付けられた。墓所は護国寺共葬墓地。 宗教は神道、趣味は能楽。
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野村 嘉六(のむら かろく、1873年〈明治6年〉8月10日… 野村 嘉六(のむら かろく、1873年〈明治6年〉8月10日 - 1952年〈昭和27年〉1月17日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会→憲政会→立憲民政党→翼賛議員同盟)、富山市長、貴族院勅選議員などを務めた。幼名は安次郎。 富山県婦負郡鵜坂村(現在の富山市)生まれ。1893年(明治26年)東京法学院(現在の中央大学)卒業。1898年(明治31年)に弁護士試験に合格し、1902年(明治35年)から判事として、富山・敦賀・大津の裁判所で勤務した。1906年(明治39年)に退官して富山市で弁護士を開業した。富山弁護士会長も務めた。 1911年(明治44年)3月、富山県会議員補欠選挙に婦負郡選挙区から立候補して当選した。
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竹尾 年助(たけお としすけ、1873年8月10日 - 19… 竹尾 年助(たけお としすけ、1873年8月10日 - 1956年)は、明治時代の実業家、エンジニア。 1873年、愛知県八名郡賀茂村(現、豊橋市)の竹尾彦九郎の二男として生まれた。 1894年(明治27年)、東京高等工業学校を卒業。アメリカ・ニューヨークに渡り、高峰譲吉の研究所に入る。1896年、スティーブンス工科大学機械科に編入学、1898年に卒業。卒業後も、同大学でディーゼルエンジン開発研究などに10年間従事した。1908年、アメリカ機械学会(ASME, The American Society of Mechanical Engineers)会員に推挙される。 1903年に帰国。幸袋製作所と大阪鉄工所に勤務した。
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丸山 環(まるやま たまき、1873年(明治6年)8月8日 … 丸山 環(まるやま たまき、1873年(明治6年)8月8日 - 1952年(昭和27年)11月20日)は、日本の教育者、文部官僚。 滋賀県伊香郡北富永村(現在の長浜市)出身。1900年(明治33年)、東京帝国大学文科大学独文科を卒業。第六高等学校教授、第八高等学校教授を経て、1913年(大正2年)、文部省督学官となった。第六高等学校校長を務めた後、1924年(大正13年)から甲南高等学校(現在の甲南大学)校長兼教授となった。その後さらに九段精華高等女学校校長を務めた。
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三宅 徳業(みやけ のりなり、1873年8月3日 - 196… 三宅 徳業(みやけ のりなり、1873年8月3日 - 1966年7月12日)は、日本の裁判官。行政裁判所長官。岡山県岡山市出身。 岡山城下の友野家に生まれ、のち、下道郡岡田村(のち吉備郡岡田村→同大備村→同真備町、現・倉敷市)の三宅家の養子となる。旧制岡山中学、第三高等中学校を経て、1896年東京帝国大学法科卒。司法官試補として京橋区裁判所に勤務し、東京区裁判所判事となり、東京地方裁判所、東京控訴院などの判事となる。1907年行政裁判所評定官、同部長兼務、1939年行政裁判所長官に就任し、1942年まで務めた。墓所は多磨霊園。
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河上 清(かわかみ きよし、1873年〈明治6年〉8月2日 … 河上 清(かわかみ きよし、1873年〈明治6年〉8月2日 - 1949年〈昭和24年〉10月12日)は、米国で活躍した日本人ジャーナリスト。日本におけるキリスト教社会主義の活動家の1人である。山形県出身。筆名は翠陵、陵山。 1873年(明治6年)8月2日、旧米沢藩士宮下忠茂・きみの四男として誕生。宮下雄七と名づけられる。1892年(明治25年)に河上清と改姓改名。 米沢中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)卒業後、上京して篤志家(曽根俊虎、上杉茂憲ら)の援助を受けつつ慶應義塾、東京法学院、青山学院などで学び文筆で身を立てることを志す。 万朝報記者となり社会主義とキリスト教に関心を抱き、足尾銅山鉱毒事件などの追及を行った。
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京極 高備(きょうごく たかよし、1873年(明治6年)7月… 京極 高備(きょうごく たかよし、1873年(明治6年)7月30日 - 1933年(昭和8年)10月25日)は、明治から大正期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧名・於菟吉。 旧讃岐多度津藩主・京極高典の二男として生まれる。父の死去に伴い、1906年(明治39年)1月27日、子爵を襲爵した。 1898年(明治31年)学習院高等科を卒業し、さらに同大学部を修了した。1897年(明治30年)陸軍騎兵少尉に任官し、騎兵中尉に進んだ。退役後に司法属となる。 1910年(明治43年)10月29日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1925年(大正14年)7月9日まで3期在任した。
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若尾 璋八(わかお しょうはち、明治6年(1873年)7月2… 若尾 璋八(わかお しょうはち、明治6年(1873年)7月27日 - 昭和18年(1943年)1月10日)は、山梨県出身の実業家、貴族院議員、衆議院議員。 山梨県山梨郡下於曽村(現在の甲州市)に広瀬久光の四男として生まれる。東京法学院(現在の中央大学)を卒業後、明治29年(1896年)に甲州財閥をリードした若尾民造の二女「きよの」と結婚し同人の養子となった。 大正6年(1917年)4月23日の第13回衆議院議員総選挙、大正9年(1920年)5月10日の第14回衆議院議員総選挙、大正13年(1924年)5月12日の第15回衆議院議員総選挙に山梨選挙区から立候補して衆議院議員に当選。昭和元年(1926年)12月28日に辞任するまで9年4か月在任し、その間、立憲政友会総務、大正13年(1924年)6月30日には全院委員長となった。
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野口 遵(のぐち したがう、1873年7月26日 - 194… 野口 遵(のぐち したがう、1873年7月26日 - 1944年1月15日)は、日本の実業家。日本窒素肥料(現・チッソ)を中核とする日窒コンツェルンを一代で築いた。「電気化学工業の父」や「朝鮮半島の事業王」などと称された。チッソの他にも、旭化成、積水化学工業、積水ハウス、信越化学工業の実質的な創業者でもある。
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姉崎 正治(あねさき まさはる、1873年〈明治6年〉7月2… 姉崎 正治(あねさき まさはる、1873年〈明治6年〉7月25日 - 1949年〈昭和24年〉7月23日)は、日本の宗教学者、著作家。日本における宗教学の祖とされる。 『帝国文学』共同創刊者、東京帝国大学宗教学講座初代教授、日本宗教学会初代会長、無所属倶楽部所属の貴族院帝国学士院会員議員。号は「嘲風」(ちょうふう)。 1873年、京都府で生まれた。父は桂宮家に仕える士族であった。少年期に仏教活動家平井金三の仏教系英学塾オリエンタルホールで英語を学ぶ。第三高等中学校を経て、1893年、東京帝国大学哲学科に入学。井上哲次郎、ケーベルについて学ぶ。1896年、同大学同学科を卒業した。 1897年には哲学館(東洋大学)で「比較宗教学」を担当、講義し、前後して、浄土高等学院(大正大学)、東京専門学校(早稲田大学)でも講義を開始した。
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中島 久万吉(なかじま くまきち、1873年7月24日 - … 中島 久万吉(なかじま くまきち、1873年7月24日 - 1960年4月25日)は、財界人であり、政治家、実業家、男爵。
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久邇宮邦彦王(くにのみや くによしおう、1873年〈明治6年… 久邇宮邦彦王(くにのみや くによしおう、1873年〈明治6年〉7月23日 - 1929年〈昭和4年〉1月27日)は、日本の皇族、陸軍軍人。階級および位階勲等は軍事参議官、元帥陸軍大将、大勲位、功四級。久邇宮朝彦親王の第3王子。久邇宮第2代当主。香淳皇后(昭和天皇后)の父。上皇の外祖父、今上天皇の曽祖父にあたる。 1887年(明治20年)、父・朝彦親王の継嗣と定められ、京都府立中学(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)、学習院を経て東京の成城学校(現:成城中学校・高等学校)に入学する。1891年(明治24年)、朝彦親王薨去を受けて久邇宮を継承する。 1896年(明治29年)、陸軍士官学校を卒業し陸軍士官として勤務し、1902年(明治35年)に陸軍大学校卒業。
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五島 盛光(ごとう もりみつ、1873年〈明治6年〉7月23… 五島 盛光(ごとう もりみつ、1873年〈明治6年〉7月23日 - 1923年〈大正12年〉5月30日)は、明治時代から大正時代の華族(子爵)。五島家第33代当主。位階は従三位。旧名は溝口歓十郎。 旧越後国新発田藩主・溝口直溥の十六男として生まれる。1893年(明治26年)旧福江藩主五島家当主の五島盛主が嗣子無くして卒去したため、翌1894年(明治27年)に養嗣子として五島家を継いだ。同年1月25日、盛光と改名した。1902年(明治35年)、自ら巨費を投じて旧制五島中学校を創設した。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1921年(大正10年)5月14日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、死去するまで在任した。
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山本 信哉(やまもと のぶき、明治6年〈1873年〉7月19… 山本 信哉(やまもと のぶき、明治6年〈1873年〉7月19日 - 昭和19年〈1944年〉12月18日)は、日本の歴史学者、神道学者。東京帝国大学史料編纂所史料編纂官。 元奈良国立博物館館長・山本信吉の父。
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南条 金雄(なんじょう かねお、1873年〈明治6年〉7月1… 南条 金雄(なんじょう かねお、1873年〈明治6年〉7月18日 - 1948年〈昭和23年〉12月30日)は、日本の実業家。大正海上火災保険会長や、三井物産会長、三井合名筆頭常務理事を務めた。 群馬県邑楽郡館林町(現館林市)出身。前橋中学校(現群馬県立前橋高等学校)を経て、1892年に高等商業学校(現一橋大学)卒業後、横浜外国商館に入り、海外貿易に従事し海陸保険の事務につき英国と東京を往来する。 1901年三井物産入社。大阪支店保険掛主任等を経て、1910年大阪支店長。1913年ロンドン支店長。1918年取締役ロンドン支店長。同年安川雄之助、武村貞一郎とともに常務取締役に昇格。大正海上火災保険設立前に小田柿捨次郎の家で飯田義一、馬越恭平、岩原謙三、平生釟三郎、磯村豊太郎らと保険会社設立懇談会に参加し、1924年には大正海上火災保険会長に就任。
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永地 秀太(ながとち ひでた、旧姓:有吉 秀太(ありよし ひ… 永地 秀太(ながとち ひでた、旧姓:有吉 秀太(ありよし ひでた)、1873年(明治6年)7月15日 - 1942年(昭和17年)12月14日)は、明治-昭和前期の洋画家。太平洋画会 創立メンバー、陸軍嘱託画家、文展(旧帝展)審査員、旧東京高等工芸学校(現・千葉大学工学部)教授。1944年、レジオンドヌール勲章(シュバリエ)受賞。贈従四位。山口県出身。
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柴田 顕正(しばた けんせい、1873年7月15日 - 19… 柴田 顕正(しばた けんせい、1873年7月15日 - 1940年4月20日)は、日本の郷土史家、教育者、神官。 『岡崎市史』全8巻(1926年~1930年)とその別巻である『徳川家康と其周囲』全3巻(1934年~1935年)を半生を傾けて完成させた。正式には「柴田顯正」と表記。 愛知県額田郡伊賀村(現・岡崎市伊賀町)に伊賀八幡宮社司の柴田顯光の長男として生まれる。額田郡第十六番小学八幡学校(現・岡崎市立広幡小学校)を出たのち上京。1893年(明治26年)7月、國學院大學第一回生として同校を卒業後、史学者の三上参次のもとで教科書編集の仕事に携わった。 その後、1895年(明治28年) 石川県尋常中学校七尾分校(現・石川県立金沢泉丘高等学校)の教諭を経て、1897年(明治30年)9月から1901年(明治34年)8月まで、愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)に勤務。
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佐々木 駒之助(ささき こまのすけ、1873年(明治6年)7… 佐々木 駒之助(ささき こまのすけ、1873年(明治6年)7月6日 - 1954年(昭和29年)6月2日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。東洋拓殖総裁、貴族院勅選議員。 秋田県仙北郡花館村(大曲市花館を経て現大仙市)で、佐々木多右衛門の三男として生まれ、1885年(明治18年)6月、叔父・佐々木福蔵の養子となる。秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)を経て、1899年(明治32年)慶應義塾大学部理財科を卒業した。 福澤諭吉の紹介で堺市の会社に就職。その後、1900年(明治33年)山口銀行に入行し、理事兼営業部長、常務取締役などを歴任。三和銀行の創設に尽力した。その他、山口合資会社理事長、日本生命保険会長、共同火災保険会長、トヨタ自動車工業監査役、財団法人東亜研究所評議員、南洋協会評議員などを務めた。
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田原 淳(たわら すなお、たはら すなお、1873年7月5日… 田原 淳(たわら すなお、たはら すなお、1873年7月5日 - 1952年1月19日)は、日本の病理学者。 大分県東国東郡瀬戸田村(国東市安岐町)の中嶋家の長男として生まれる。1889年に上京して東京英語学校と独逸学教会学校で学ぶ。1892年、伯父の中津藩医・田原春塘の養子となる。 1898年第一高等学校卒業、1901年東京帝国大学医学部卒業。1903年に私費でドイツに留学し、小久保恵作の勧めにより、マールブルク大学の病理学教室でルードヴィッヒ・アショフ(Ludwig Aschoff)に師事した。 ここで田原は心筋について研究を行い、1905年刺激伝導系の存在を明らかにし、刺激伝導系において重要な役割を持つ「房室結節(田原結節、田原・アショフ結節)」を発見した。
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手塚 敏郎(てづか としろう、1873年(明治6年)7月1日… 手塚 敏郎(てづか としろう、1873年(明治6年)7月1日 - 1933年(昭和8年)10月26日)は、内務官僚、南洋庁長官。 宮崎県児湯郡高鍋町出身。1901年(明治34年)、東京帝国大学法科大学を卒業し司法官試補となった。1903年(明治36年)に検事となり、函館区裁判所、函館地方裁判所、札幌地方裁判所、沼津区裁判所を歴任した。1908年(明治41年)、内務省に転じ、福井県事務官・警察部長、長崎県事務官・警察部長、島根県内務部長を歴任した。 1918年(大正7年)、海軍事務官長・臨時南洋群島防備隊民政部長に任命され、南洋諸島の統治にあたった。 1922年(大正11年)、臨時南洋群島防備隊が廃止され、南洋庁が発足すると、初代長官に就任した。
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山崎 延吉(やまざき のぶきち、1873年(明治6年)6月2… 山崎 延吉(やまざき のぶきち、1873年(明治6年)6月26日 - 1954年(昭和29年)7月19日)は、日本の農政家・教育者。衆議院議員(1期)、貴族院勅選議員。愛知県立農林学校初代校長。帝国農会幹事。安城市一帯が「日本デンマーク」と呼ばれるほどの農業先進地になったのは、農業改善に力を尽くした山崎の力が大きい。我農生との雅号をもつ。 石川県金沢区(現・金沢市長町1丁目14番地)に生まれる。父親は農業改革指導者二宮尊徳の弟子だった。1894年(明治27年)、第四高等学校卒業。1897年(明治30年)、東京帝国大学農科大学農芸化学科卒業。福島県蚕業学校の教諭に採用される。1899年(明治32年) 5月、大阪府立農学校の教諭に転ずる。
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小沼 敬三郎(こぬま けいざぶろう、1873年(明治6年)6… 小沼 敬三郎(こぬま けいざぶろう、1873年(明治6年)6月26日 - 1957年(昭和32年)12月24日)は、日本の政治家、大蔵官僚。津山市長。 1873年6月、現在の岡山県津山市南新座に生まれる。法政大学卒業後、1902年、大蔵省(現財務省)へ入省する。 その後、平沼騏一郎の推薦で、岡山県赤磐、小田郡長となる。1923年には、苫田郡長となる。 1926年11月、苫田郡津山町長となる。津山町、津山東町、西苫田村、二宮村、院庄村、久米郡福岡村との6町村の合併を推進し、1929年2月、津山市が発足した際、市長へ就任した。 就任後、3期にわたり市長を務め、上水道整備、新市庁舎建設など、津山市の礎を築き上げた。
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加藤 玄智(かとう げんち、1873年6月17日 - 196… 加藤 玄智(かとう げんち、1873年6月17日 - 1965年5月8日)は、日本の宗教学者。学位は、文学博士。正四位、勲三等、瑞宝章。紫綬褒章。 浄土真宗の僧侶の長男として東京府の浅草に生まれた。1896年に東京帝国大学文科大学哲学科に入学、井上哲次郎らの指導を受け1899年に卒業。その後大学院に進学。学業のほかに、仏教改革を目指し、「仏教清徒同志会」(のち新仏教同志会)に参加した。この「仏教清徒同士会」は高島米峰や境野黄洋らによって作られ、健全な仏教信仰などを掲げた若い在家仏教徒らによる会であった。さらに、仏教を中心に宗教の普及を目指す「宗教研究会」も運営する。 1906年陸軍教授(英語学)に嘱託(士官学校付き、1933年まで)、同年、東京帝国大学文科大学講師嘱託(宗教学)。
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井上 治兵衛(いのうえ じへえ、1873年(明治6年)6月1… 井上 治兵衛(いのうえ じへえ、1873年(明治6年)6月13日 - 1956年(昭和31年)1月28日)は、日本の実業家。三井物産代表取締役会長を務めた。 1891年京都市立商業学校(現:京都市立西京高等学校・附属中学校)卒業。1892年三井物産入社。取締役兼横浜支店長兼生糸部長として、バブコック・アンド・ウィルコックスとの合弁での東洋バブコック(のちのバブコック日立)の設立にあたり、同社監査役等を経て、1935年から三井物産会長を務めた。墓所は多磨霊園。
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林 鶴一(はやし つるいち、1873年(明治6年)6月13日… 林 鶴一(はやし つるいち、1873年(明治6年)6月13日 - 1935年(昭和10年)10月4日)は、日本の数学者、数学史家。京都帝国大学理工科大学助教授、東北帝国大学理科大学教授を務めた。 徳島県生まれ。旧制徳島中学校(現徳島県立城南高等学校)、第三高等学校を経て、1897年(明治30年)に東京帝国大学理科大学数学科を卒業。東京帝国大学では高木貞治・吉江琢児と同期であり、藤沢利喜太郎による「藤澤セミナリー」に参加して、「e及びπの超越に就て」という課題の報告を提出した。 東京帝国大学卒業後に京都帝国大学理工科大学助教授を務めたが、その職を辞し、松山中学校教師や東京高等師範学校講師に就いた。
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松永 和一郎(まつなが わいちろう、1873年(明治6年)6… 松永 和一郎(まつなが わいちろう、1873年(明治6年)6月10日 - 1953年(昭和28年))は、日本の政治家。栃木県宇都宮市長を務めた。 栃木県下都賀郡小野寺村(現在の栃木市)出身。1898年(明治31年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。1900年(明治33年)に東京市事務員となり市区改正課に勤務していたが、市区改正委員長であった星亨の目に留まり星の法律事務所に移った。その後新聞記者を経て、1903年(明治36年)に再び東京市に入り、市区改正係長となり、主事補に任命された。 1919年(大正8年)9月から1927年(昭和2年)9月まで下都賀郡選出の栃木県会議員を務めた。この間、1919年10月から1920年(大正9年)10月まで県会副議長を、1920年10月から1923年(大正12年)9月まで県会議長を務めた。
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戸沢 正保(とざわ まさやす、1873年(明治6年)6月9日… 戸沢 正保(とざわ まさやす、1873年(明治6年)6月9日 - 1955年(昭和30年)3月12日)は、イギリス文学者。東京外国語学校校長。姑射の号でウィリアム・シェイクスピア作品の翻訳を行った。 茨城県に元水戸藩士・菊池庸の二男として生まれ、戸沢正之の養子となった。1899年(明治32年)に東京帝国大学文科大学英文科を卒業し、大学院に進学した。1902年(明治35年)に山口高等学校教授となり、1907年(明治40年)からは第五高等学校教授を務めた。イギリス留学を経て、再び山口高等学校教授となり、1929年(昭和4年)に弘前高等学校校長に就任した。1932年(昭和7年)、東京外国語学校校長に転じ、1938年(昭和13年)に退官した。
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大山 幸太郎(おおやま こうたろう、1873年6月8日 - … 大山 幸太郎(おおやま こうたろう、1873年6月8日 - 1967年7月28日)は、日本の教育者、哲学者。 秋田県弁天村(現在の湯沢市)出身。1895年に秋田県尋常師範学校を卒業し、横堀尋常高等小学校訓導となる。横堀小学校時代に全国初の父兄会を開いている。その後上京し、巣鴨の東福寺で4年間独学し、この間に新井奥邃と出逢った。 1914年から文部省に勤務し、1915年からドイツに9年間留学した。 帰国後に母校の秋田師範学校で哲学を講義した。 「真人」の語を造り、没後に教え子たちにより真人学会が結成された。
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品田 俊平(しなだ しゅんぺい、1873年(明治6年)6月7… 品田 俊平(しなだ しゅんぺい、1873年(明治6年)6月7日 - 1935年(昭和10年)4月14日)は、日本の宗教家。1905年(明治38年)に心教を開教した。心教では「扇下」と呼ばれた。 1873年(明治6年)6月7日、新潟県刈羽郡柏崎町比角2061番にて、父・富八と母・ハステの間に生れる。家は呉服屋であった。両親は熱心な仏教信仰者であり、俊平自身も常に経文を読誦し、礼拝を怠らず、常に学究心と道心とを忘れなかった。 柏崎町比角尋常小学校を卒業後、星野漢学塾で漢学を学び、大道長安や平井天海に就き仏教を修めると同時に、町の道場で剣道の修業を積んだ。その後上京し山口三之助や福来友吉と交わり、その後もしばしば上京しては仏教、儒教、キリスト教、哲学、剣道など各分野の大家のもとを訪れ研究したとされる。
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