音羽 正彦(おとわ ただひこ、1914年〈大正3年〉1月5日… 音羽 正彦(おとわ ただひこ、1914年〈大正3年〉1月5日 - 1944年〈昭和19年〉2月6日)は、日本の皇族(朝香宮家)、華族、海軍軍人。クェゼリンの戦いにて戦死。最終階級は海軍少佐。栄典は正四位勲一等功四級侯爵。臣籍降下以前の皇族としての名と身位は正彦王(ただひこおう)、敬称は殿下。 1914年(大正3年)1月5日、朝香宮鳩彦王の第2王子として誕生。1934年(昭和9年)1月4日、貴族院皇族議員に就任。 学習院中等科卒業後、海軍兵学校入校。海軍兵学校生徒時代に宿営した広島県西条で、保存用の畳の上に寝てくれと地元民に頼まれた際には「ぼくは国民のデコレーションではないよ」と述べたという。 1936年(昭和11年)4月1日、海軍兵学校第62期卒業。
川上 保雄(かわかみやすお、1914年1月4日 - 2015… 川上 保雄(かわかみやすお、1914年1月4日 - 2015年7月28日)は、日本の医学者。昭和大学(現・昭和医科大学)学長を務めた。 長野県南佐久郡川上村生まれ。旧制野沢中学(長野県野沢北高等学校)、旧制松本高等学校理科を経て、昭和14年(1939年)東京帝国大学医学部医学科卒業。同年海軍中尉、同16年(1941年)大尉、同19年(1944年)少佐。同21年(1946年)復員除隊。 同22年(1947年)東京大学医学部助手、同30年(1955年)講師、同34年(1959年)昭和医科大学教授、同47年(1972年)医学部長、同53年(1978年)理事長、同58年(1983年)学長を歴任した。同61年(1986年)退任、名誉教授。
藤田 一郎(ふじた いちろう、旧姓・藪原、前名・榮、1914… 藤田 一郎(ふじた いちろう、旧姓・藪原、前名・榮、1914年〈大正3年〉1月4日 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(広島県第一区選出)。 福岡県、藪原武彦の三男。1936年3月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。鉄道省に勤務する。1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に無所属で出馬し、衆議院議員に当選。同年11月、藤田組(現フジタ)取締役副社長に就任。 藤田組副社長、広島バス会長、藤栄工業、藤栄林業各社長などをつとめる。1947年4月、第23回衆議院議員総選挙に日本社会党から出馬し、衆議院議員に当選。社会革新党に所属。1948年5月、竹中工務店に関する融資問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。
亀谷 長榮(かめや ちょうえい、1914年(大正3年)1月4… 亀谷 長榮(かめや ちょうえい、1914年(大正3年)1月4日 - 1999年(平成11年))は、日本の政治家。福岡県筑紫郡春日村(現、春日市)村議会議員(2期)、同町議会議員(2期)。同議長(2期)。 春日市長(3期。第2・3・4代)を務めた。 1914年(大正3年)1月に、第一尚氏の末裔とされる亀谷家(福山英治著、大神二郎発行『波濤を越えて 亀谷長栄伝記』葦書房有限会社、初版昭和61年9月15日、8頁。以下特に脚注・出典の記載がないかぎり記述は全て同書からの引用である。また名の表記については同書に基づき「長栄」とする。)の亀谷長睦と、その妻であるツルとの間に沖縄県島尻郡玉城村字屋嘉部(現、南城市字玉城屋嘉部)に生まれる。
植村 謙二郎(うえむら けんじろう、1914年(大正3年)1… 植村 謙二郎(うえむら けんじろう、1914年(大正3年)1月3日 - 1979年(昭和54年)4月3日)は、日本の俳優。東京府豊多摩郡内藤新宿町(現在の東京都新宿区)出身。 1932年(昭和7年)に東京府立第六中学校を卒業後、日本俳優学校に二期生として入学。尾上菊五郎の下で演技の修行を積み、新興キネマに入所。1936年(昭和11年)6月公開の『街の姫君』で俳優の仲間入りを果たす。以降、新興キネマが大日本映画に合併される1942年(昭和17年)までの間に70本以上の作品に出演した。 合併後は大日本映画専属となるが、当時の日本が戦火の渦中にあったことから、間もなく南方戦線に召集される。 1945年(昭和20年)、終戦によって植村は大映(大日本映画)に復帰、ここでは戦争の爪痕を引きずった役や、当時の大映の基本路線であった多数のサスペンス作品で活躍した。
小松 勇作(こまつ ゆうさく、1914年1月2日 - 200… 小松 勇作(こまつ ゆうさく、1914年1月2日 - 2004年7月30日)は、日本の数学者。 石川県金沢市出身。旧制金沢医科大学、東京帝国大学理学部数学科卒業。東京工業大学教授、のち名誉教授。医学博士、理学博士。 はじめ旧制金沢医大にて学び、のち東大数学科に転じる。数学では等角写像論などの研究が名高い。 多くの優れた数学書を執筆し、百科事典の数学項目においても、小松による執筆のものが数多く見られる。 小松は数学者の矢野健太郎の義弟にあたる。 この項目は、数学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
瀬谷 義彦(せや よしひこ、1914年(大正3年)1月2日 … 瀬谷 義彦(せや よしひこ、1914年(大正3年)1月2日 - 2015年(平成27年)11月20日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学文学部国史学科卒業。学位は文学士(東京帝国大学)。称号は日立市名誉市民、茨城大学名誉教授。栄典は従四位勲三等旭日中綬章。 茨城県多賀郡鮎川村(現在の日立市)生まれ。 茨城県立日立中学校(現在の茨城県立日立第一高等学校)教諭、水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)教諭を経て、1943年(昭和18年)茨城師範学校教授、多賀工業専門学校教授を経て茨城大学教授となる。定年退官後、茨城キリスト教大学短期大学部教授、茨城キリスト教大学教授を務めた。 共同で執筆、監修した「日立市史」は1959年(昭和34年)に発行されて茨城県内初の自治体史となったほか、水戸市史や県史など自治体史の編集にも関わるなど茨城県に関する歴史学研究において多数の業績がある地方史研究の第一人者であった。
宮崎 勝次(みやざき かつじ、1914年(大正3年)1月2日… 宮崎 勝次(みやざき かつじ、1914年(大正3年)1月2日 - 没年不明)は、日本の実業家。東洋ラジエーター(現:ティラド)元常務取締役。宮崎航空工業元専務取締役。アニメ監督の宮崎駿は次男。版画家の宮崎敬介とアニメ監督の宮崎吾朗は孫。 東京府東京市本所区(現:東京都墨田区)出身。初代宮崎富次郎の次男として生まれる。兄は東洋ラジエーター(現:ティラド)元社長の2代目宮崎富次郎。 1934年(昭和9年)早稲田大学専門部商科卒業。1957年(昭和32年)松菱金属工業(現:日鉄プロセッシング)取締役、1961年(昭和36年)東洋ラジエーター(現:ティラド)監査役に就任。 宗教は天台宗。趣味は囲碁(三段)、小唄。
小山田 二郎(おやまだ じろう、1914年(大正3年)1月1… 小山田 二郎(おやまだ じろう、1914年(大正3年)1月1日 - 1991年(平成3年)7月26日)は、日本の洋画家。世相を皮肉的に風刺するシュールな油彩画や水彩画を多く描き、特に油彩ではペインティングナイフでキャンバスを傷つけるほど大胆な手法で描くことで知られる。曽祖父に黒羽藩士の小山田廣徳(辨助)、遠縁に日本画家の小堀鞆音がいる。 1914年(大正3年)、小山田廣志と妻まつの子として父の出張先である中華民国の満洲地域にある奉天省 安東県(現在の中華人民共和国遼寧省丹東市の東港市)で生まれる。翌年に両親から離れて祖父母の住む日本に引き取られ東京で暮らし始めるが、2歳の時スタージ・ウェーバー症候群を発症。
植村 光雄(うえむら みつお、1914年1月1日- 2006… 植村 光雄(うえむら みつお、1914年1月1日- 2006年1月21日)は、日本の経営者。住友商事社長、会長を務めた。 兵庫県出身。旧制姫路中学、旧制姫路高等学校文科乙類を経て、1936年京都帝国大学法学部を卒業。住友合資入社、住友商事に転じ、1961年5月に取締役に就任。常務、専務を経て、1971年11月に副社長に就任し、1977年6月に社長に昇格し、1983年6月に会長に就任し、1987年6月から相談役を務めた。。 1978年11月に藍綬褒章を受章し、1984年6月には貿易功労者に選ばれ、1989年11月に勲二等旭日重光章を受章した。 2006年1月21日、肺炎のために死去。92歳没。
畑中 武夫(はたなか たけお、1914年(大正3年)1月1日… 畑中 武夫(はたなか たけお、1914年(大正3年)1月1日 - 1963年(昭和38年)11月10日)は、日本の天文学者。日本の電波天文学の開拓者として知られている。 和歌山県田辺市に生まれたが、少年時代に新宮市に引っ越したので、同市を出身地とした。旧制新宮中学校(現・和歌山県立新宮高等学校)時代から科学雑誌を読み、天文学を志す。旧制第一高等学校を経て、1937年東京帝国大学理学部天文学科卒業。はじめは理論天体物理学を専攻し、東京大学助手を経て、1945年講師となる。萩原雄祐の下で惑星状星雲の放射機構を研究し、同年9月、学位論文「惑星状星雲に於ける電離ヘリウム、二重電離酸素及び二重電離窒素原子間の光学的交互作用理論(英文)」により、理学博士の学位を取得。
河野 正(かわの ただし、1914年(大正3年)1月1日 -… 河野 正(かわの ただし、1914年(大正3年)1月1日 - 2007年(平成19年)9月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(8期)。 福岡県出身。1931年(昭和6年)旧制福岡県立福岡中学校(現福岡県立福岡高等学校)卒業。九州医専(現久留米大学医学部)卒業。 九州大学解剖学助教授を経て1946年(昭和21年)福岡県篠栗町で診療所開業。1951年(昭和26年)医療法人済世会設立。 福岡県議会議員となった後、1953年(昭和28年)から1955年(昭和30年) まで左派社会党、同年第27回衆議院議員総選挙に旧福岡1区で初当選。1990年(平成2年)に政界を引退、計8期(22年間)。同年春の叙勲で勲二等旭日重光章受章(勲五等からの昇叙)。
小針 暦二(こばり れきじ、1914年1月1日 - 1993… 小針 暦二(こばり れきじ、1914年1月1日 - 1993年11月7日)は、日本の実業家。
平川 正輝(ひらかわ まさてる、1914年1月1日 - 没年… 平川 正輝(ひらかわ まさてる、1914年1月1日 - 没年不詳)は日本の歯学者。九州歯科大学名誉教授。専門は口腔外科学。 平川和太郎とトマの長男として福岡市に生まれる。母のトマは明治維新期に興志塾を開いた高場乱の孫。1932年福岡県中学修猷館を経て、1936年九州歯科医学専門学校を卒業。その後、同校が福岡県に移管され改称された、福岡県立医学歯学専門学校(現・九州歯科大学)医学科を1945年に卒業。 1946年福岡県立医学歯学専門学校の口腔外科教授となり、同部長を兼ね、兎唇口蓋裂の手術および顎欠損に対する骨移植の研究に従事。1954年学位を受ける。1972年3月、同校が改称した九州歯科大学の学長に就任する。
岡村 誠三(おかむら せいぞう、1914年1月1日 - 20… 岡村 誠三(おかむら せいぞう、1914年1月1日 - 2001年5月2日)は、日本の化学者。専門は、高分子化学。工学博士。京都大学名誉教授。元京都大学原子炉実験所(現・京都大学複合原子力科学研究所)長。元日本学士院会員。勲二等旭日重光章受章。 放射線重合の研究を推進し、放射線高分子化学という新しい分野を開拓した。1970年に「放射線重合に関する研究」により恩賜賞・日本学士院賞を受賞。
市原 晃(いちはら あきら、1914年1月1日 - 2004… 市原 晃(いちはら あきら、1914年1月1日 - 2004年7月22日 )は、日本の経営者。三越社長、会長を務めた。 東京都出身。1937年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に三越に入社。1965年4月に取締役に就任し、常務を経て、1982年9月に社長に就任。社長在任時には、三越事件で混乱していた三越の経営を立て直し、経営理念に「商いと始末」を掲げ、「仕入れの神様」とも呼ばれていた。1986年5月に会長に就任し、1995年5月から相談役を務めた。 1986年5月から1990年5月までに日本百貨店協会会長を務めた。 1991年4月に勲二等瑞宝章を受章。 2004年7月22日肺炎により、死去。90歳没。
内野 吾郎(うちの ごろう、1914年1月1日 - 1985… 内野 吾郎(うちの ごろう、1914年1月1日 - 1985年12月15日)は、日本の国文学者、國學院大學名誉教授。 神奈川県高座郡御所見村(現・藤沢市)に生まれる。 昭和7年(1932年)に芝中学校を卒業、昭和12年(1937年)に國學院大學国文学科を卒業。 昭和22年(1947年)に北海道第二師範学校教授、昭和25年(1950年)に北海道学芸大学(現・北海道教育大学)教授。昭和36年(1961年)に「日本文芸史の方法序説:その学史的展望と諸学派の批判」で國學院大學より文学博士の学位を取得。昭和38年(1963年)に國學院大學教授。 昭和43年(1968年)に西ドイツのボン大学客員教授として招聘される。
門田 正三(かどだ まさみ、1914年(大正3年)1月1日 … 門田 正三(かどだ まさみ、1914年(大正3年)1月1日 - 2000年(平成12年)5月25日)は、昭和から平成時代の実業家。電源開発総裁。原子力委員会、海外電力調査会会長、日本電力調査委員会委員長。 熊本県出身。1938年(昭和13年)東京帝国大学法学部法律学科卒業。1951年(昭和26年)東京電力に入社し、江戸川支社長、営業部次長、同部長代理、群馬支店長を経て、1968年(昭和43年)5月に取締役営業部長となる。ついで常務、副社長を経て、1983年(昭和58年)6月には電源開発総裁に就任した。1986年(昭和61年)10月、同社顧問に転じた。 ほか、原子力委員会、海外電力調査会会長、日本電力調査委員会委員長、日本原子力産業会議顧問、同常任理事などを歴任した。
佐治 賢使(さじ ただし、1914年〈大正3年〉1月1日 -… 佐治 賢使(さじ ただし、1914年〈大正3年〉1月1日 - 1999年〈平成11年〉6月14日)は、漆芸家。岐阜県多治見市出身。本名は正。市川市名誉市民。位階は従三位。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
久保村 隆祐(くぼむら りゅうすけ、1914年1月1日 - … 久保村 隆祐(くぼむら りゅうすけ、1914年1月1日 - 2006年2月26日)は、日本の経営学者。専門はマーケティング論等。第7代横浜国立大学学長、横浜国立大学名誉教授。元日本商業学会会長。 長野県生まれ。1946年東京産業大学(現一橋大学)卒業。1951年横浜国立大学講師。1954年横浜国立大学助教授。1965年中小企業診断員。横浜国立大学教授を経て、1967年横浜国立大学経営学部学部長。1970年横浜国立大学経営学部長。1976年から1979年まで第7代横浜国立大学学長を務め、横浜国立大学より名誉教授の称号を受けた。1980年から1985年まで日本商業学会会長。1985年勲二等瑞宝章受章。
金子 徳衛(かねこ とくえ、1914年 - 1998年)は、… 金子 徳衛(かねこ とくえ、1914年 - 1998年)は、埼玉県出身の洋画家。浦和画家の一人。 兄は元蕨市市長の金子吉衛。浦和中学校(現:埼玉県立浦和高等学校)卒業後、東京美術学校油画科に入学。同級生には藤本東一良、柳宗理、1年先輩に渡辺武夫がいた。1947年の第三回日展では、審査員であり師の寺内萬治郎(同じく浦和画家)の肖像画「T先生の像」を出品し、特選を受賞した。また、萬治郎も弟子の金子の肖像画「画家K君の像」を展示し、師弟が互いの肖像画を展示するというのは文展以来の歴史の中でも無く、話題となった。作品の一部は埼玉県立近代美術館に収蔵されている。
浜田 倫三(はまだ りんぞう、1914年(大正3年) - 2… 浜田 倫三(はまだ りんぞう、1914年(大正3年) - 2005年(平成17年))は、日本の政治家。元高浜町長。関西電力(関電)子会社の環境総合テクノス顧問。森山栄治助役と共に高浜原子力発電所誘致に尽力した。 1914年、福井県大飯郡高浜町三明生まれ。呉服商や町議を経て1962年から5期20年、高浜町長を務めた。1974年から1975年、運転を始めた高浜原発1、2号機の誘致に尽力。1982年、町長を退任。1983年から亡くなる2005年まで関西電力の子会社・関西総合環境センター(現環境総合テクノス)の顧問を務めた。 町長在任中の1976年-1977年、町民や町議会に報告のないまま、関電からの協力金9億円を浜田個人名の普通預金口座に受け入れ、うち3億3000万円が町内の5つの漁業協同組合に配分された。
笹野 積次(ささの せきじ、1914年頃 - 2004年以前… 笹野 積次(ささの せきじ、1914年頃 - 2004年以前)は、静岡県出身のサッカー選手。 静岡県立志太中学校(現・静岡県立藤枝東高等学校)の4期生にあたり、同中学5期生の松永行は1年後輩に当たる 志太中を卒業後は早稲田大学に入学して、ア式蹴球部に入部した。在学中の1936年に開催されたベルリンオリンピックの日本代表に選出されたが出場機会は無かった。 また、在学中の1938年6月に開催された全日本蹴球選手権大會(第18回天皇杯全日本サッカー選手権大会)の優勝メンバーとなった。現役引退後は静岡県の職員を務めた。 なお、詳細な没年は不明であるが、2004年3月時点で故人となっている
上田 恒次(うえだ つねじ、1914年 - 1987年)は、… 上田 恒次(うえだ つねじ、1914年 - 1987年)は、日本の陶芸家。日本民芸館新作展委員。 1914年、京都で呉服商「松屋」に次男として生まれる。富本憲吉の『窯遍雑記』(文化生活研究会、1925年)を読み陶芸家を志す。 1927年(昭和2年)、京都市立第二工業学校陶磁器科に入学する。1931年(昭和6年)、同校を卒業。以後、河井寛次郎、柳宗悦、浜田庄司、富本憲吉に師事する。1937年(昭和12年)、木野皿山窯を開く。1955年(昭和30年)、河井寛次郎の助手を務め、技法を次ぐことを許される。1962年(昭和37年)、日本橋三越本店美術部で個展を開催する。以降各地で開催。1963年(昭和38年)、東京国立近代美術館主催「現代国際陶芸展」に招待出品する。
鎌倉 悦子(かまくら えつこ、1914年(大正3年) - )… 鎌倉 悦子(かまくら えつこ、1914年(大正3年) - )とは、日本の飛込競技選手。1932年ロサンゼルスオリンピックに出場した。 1914年、大阪府に生まれる。大阪府立清水谷高等女学校(現在の大阪府立清水谷高等学校)在学中の1932年、全日本水上選手権の女子飛板飛込・高飛込で優勝し、ロサンゼルスオリンピックの飛込競技の日本代表となり、女子飛板飛込・女子高飛込に出場した。日本人の女子がオリンピックの飛込競技に出場するのは初めてのことであった。予選を通過した後の決勝では、前飛込・後飛込で好成績を残した一方、前半捻りや選択飛込の得点が伸び悩んだため、入賞を逃した。結果は飛板飛込が60.78点で7位、高飛込が31.36点で6位であった。
横山 重之(よこやま しげゆき、大正3年(1914年) - … 横山 重之(よこやま しげゆき、大正3年(1914年) - 昭和52年(1977年))は、日本の実業家。能義醤油株式会社(現・ヤマノ株式会社)元取締役会長。横山家第10代当主。
長崎 重芳(ながさき しげよし、1914年 - 1997年)… 長崎 重芳(ながさき しげよし、1914年 - 1997年)は、日本のバレーボール選手、バレーボール指導者。元バレーボール全日本選手、元バレーボール日本男子代表監督。元日本バレーボール協会理事。 “重砲“と呼ばれた猛スパイクで、戦前最高の選手と謳われたバレーボーラー。“球神“とも“日本バレーの父“とも呼ばれた。広島県広島市出身。5寸9尺(約180センチ)、21貫(約80キロ)(中学4年時)。 広陵中学(現広陵高校)で野球をするつもりだったが、親の反対に遭い1927年、広島二中(現広島観音高校)に進学。陸上競技で大活躍したことで、排球部(バレーボール部)に勧誘された。多田徳雄下で黄金期を創った神戸高商(現神戸大学)の中心選手・高橋哲雄と鎔米二の指導を受け、中学上級生並みの体格と人並み外れた運動神経で、すぐに当時の9人制バレー、エースポジションである中衛左に入ると、2年時・14歳で早くも全日本候補となる。
宮崎 宣久(みやざき のぶひさ、1914年(大正3年) - … 宮崎 宣久(みやざき のぶひさ、1914年(大正3年) - 1992年(平成4年))は、日本の出版人、編集者である。1914年(大正3年)、福岡市博多区須崎の生まれ。1932年(昭和7年)3月、福岡中学卒業。1936年(昭和11年)3月、福岡高等学校文科甲類を卒業。中学・高校時代の同級生には大西巨人がいる。 その後、東京帝国大学経済学部経済科に進学し、在学中は帝大新聞の編集に参画。卒業後は朝日新聞社の記者を務める。 1946年(昭和21年)4月、福岡で三帆書房を設立し、総合文化誌「文化展望」を創刊。編集には宮崎宣久・高田康治・大西巨人・牟田口宗一郎があたった。創刊号には太宰治の「十五年間」が掲載され、他にも織田作之助は「都市展望 大阪」を、坂口安吾は「ぐうたら戦記」、野間宏は「兄弟」などの作品が掲載された。
木村 儀三郎(きむら ぎさぶろう、1914年 - 1978年… 木村 儀三郎(きむら ぎさぶろう、1914年 - 1978年)は、日本の画家。旧姓は川村。
三森 秀夫(さんもり ひでお、1914年 - 没年不明)は、… 三森 秀夫(さんもり ひでお、1914年 - 没年不明)は、愛媛県出身の社会人野球の選手(投手、内野手)。
佐々木 宗雄(ささき むねお、1914年-?)は、日本の物理… 佐々木 宗雄(ささき むねお、1914年-?)は、日本の物理学者。 熊本県生まれ。1941年京都帝国大学理学部物理学科卒業。1954年「高エネルギーにおける重水素核の光分解」で東京教育大学理学博士。東京文理科大学助手、東京都立大学 (1949-2011)助教授をへて教授、78年定年退官、名誉教授。
志村 道夫(しむら みちお、1914年(大正3年) - 没年… 志村 道夫(しむら みちお、1914年(大正3年) - 没年不詳)は昭和期の歌手。『南から南から』の作曲者で知られる吉田信(加賀谷信)の実弟。本名は吉田義八郎。 兵庫県神戸市元町出身。関西学院中学部、国立音楽学校、日本高等音楽学校に在籍した。学生時代は、テニス選手として活躍。上京後、当時ビクターで作曲活動をしていた兄・吉田信(別名:加賀谷伸、塙六郎)の紹介で、声楽家徳山璉の門下となる。 1935年(昭和10年)ニットーのジャズ用レーベルだったクリスタルレコードからデビュー。初期の服部良一作品「流線型ジャズ」など、主にジャズ調の曲をレコーディングした。ニットーがタイヘイに吸収合併された後は、一時、マイナーレーベルからもレコードを出していた。
高階 成章(たかしな なりあき、大正3年〈1914年〉 - … 高階 成章(たかしな なりあき、大正3年〈1914年〉 - 昭和54年〈1979年〉9月24日)は、日本の神職、神道学者。橿原神宮権宮司。奈良芸術短期大学教授。 大正3年(1914年)、高階研一を父として、兵庫県に生まれた。昭和2年(1927年)、父が諏訪神社の宮司を拝命すると、共に長野県に移ったようであり、このころには#論文に見えるように諏訪信仰に関する論考を著している。昭和12年(1937年)3月、國學院大學史学科卒業。このときの卒業論文題目は「足利氏の郷土に於ける信仰」であった。内務省考証官補、神祇院考証官補、文部省国宝調査嘱託となった。 昭和24年(1949年)6月30日、父が宮司を務める橿原神宮の権宮司に就任した。
金井 利彦(かない としひこ、1914年 - 没年不詳)は、… 金井 利彦(かない としひこ、1914年 - 没年不詳)は、日本の造園・都市計画系官僚で、武蔵野美術大学非常勤講師も務めていた。東京都出身。 1937年に千葉高等園芸学校(現・千葉大学園芸学部・大学院園芸学研究科)を卒業後、東京市役所(1943年の東京都制実施により東京都庁)に勤務した。 1951年から1958年まで、戦災復興にも携わる。 その後厚生省公園局、青森県庁、長崎県庁を経て、1971年発足の環境庁に移る。これらの勤務先で長く公園行政に携わり、皇居外苑管理事務所長、新宿御苑管理事務所長を歴任した。 環境庁退職後は社団法人道路緑化保全協会を経て、株式会社新環境設計に勤める。 公園緑地折下功労賞を受賞している。
芦田淳 (あしだ きよし、1914年 - 2001年)は、日… 芦田淳 (あしだ きよし、1914年 - 2001年)は、日本の栄養学者、農芸化学者。専門は実験動物栄養学、栄養化学、食生活論。名古屋大学名誉教授、第6代名古屋大学総長、元椙山女学園大学学長。日本農芸化学会名誉会員・元会長。 兵庫県芦屋市(当時の武庫郡精道村)生まれ。1938年に東京帝国大学農学部農芸化学科を卒業後、同大学院で研究を継続した。1944年に大阪帝国大学講師、戦後まもなく助教授に昇進した。 1953年に名古屋大学農学部農芸化学科栄養化学講座教授に就任した。以降、長年にわたり同大学で教育・研究に従事し、世界に先駆けて栄養学に生化学的方法を導入した業績で知られる。1963年に日本栄養・食糧学会武田賞、1964年に日本農学賞および読売農学賞を受賞した。
北村 信正(きたむら のぶまさ、1914年 - 2010年)… 北村 信正(きたむら のぶまさ、1914年 - 2010年)は、日本の造園家。長く東京都職員として、都の造園事業に従事。日本梅の会会長。造園業の東洋造園土木株式会社の会長もつとめた。 茨城県水戸市生まれ。水戸高等学校 (旧制)理科乙種を経て、東京帝国大学農学部林学科卒業後、1938年東京市に入り現場監督助手を務める。その後軍の幹部候補生部隊に入隊し、工兵となって大陸に渡る。終戦後はシベリア抑留を3年間の後に帰国し、東京都に奉職。1957年に「遊び場研究会」を発足。1961年公園緑地部技術課長。東京都は公園緑地部長を最後に退職後、日本造園学会副会長、初代東京都造園緑化業協会副会長、国際造園家協会IFLA日本代表国際会議副会長、財団法人東京慰霊堂協会理事長、日本庭園協会理事など、各種緑地関係の団体役員を歴任。
平島 達司(ひらしま たつし、1914年 - 1986年)は… 平島 達司(ひらしま たつし、1914年 - 1986年)は神戸松蔭女子学院大学名誉教授、音楽理論家、鍵盤奏者。ラモー音律を発表したことで知られる。クラシック音楽の調律法において古典調律を奨め、自らオルガンの調律選定者となり、その有意義性を説いた。同大学の前身・松蔭女子専門学校初代校長・浅野勇の娘婿。 1914年生1934年東京大学理学部卒(化学専攻)1960年から神戸松蔭女子学院大学教授、同短期大学教授 1983年神戸松蔭女子学院大学チャペルのオルガンの調律法を選定1986年没 この項目は、クラシック音楽に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル クラシック音楽/ウィキプロジェクト クラシック音楽)。
香取 みほ子(かとり みほこ、1914年(大正3年) - 2… 香取 みほ子(かとり みほこ、1914年(大正3年) - 2001年(平成13年))は、昭和期の歌手。本名は小島チエ(旧姓:大蔵)。 東京出身。東洋英和女学校卒業後に東京音楽学校に入学。荻野綾子とヘルマン・ヴーハープフェニッヒに声楽を師事し、1937年(昭和12年)3月に同校本科声楽部(ソプラノ)を卒業。その後、コロムビアレコードから歌手デビューした。「愛国行進曲」や「紀元二千六百年」の吹き込みに参加する。 2001年、88歳で死去した。命日は明らかになっていない。 この項目は、歌手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ芸能人)。
淺枝 敏夫(あさえだ としお、1914年 - 1990年)は… 淺枝 敏夫(あさえだ としお、1914年 - 1990年)は、日本の機械工学者、東京工業大学名誉教授。第3代職業訓練大学校校長。初代実践教育研究会会長。 1940年東京工業大学卒業。1943年東京工業大学精密機械研究所助教授。1951年東京工業大学工学博士。1959年東京工業大学精密工学研究所教授退任。ともにアメリカの工作機械の調査を行うなど本田宗一郎と親交があり、1980年から第3代職業訓練大学校校長を務めた。1981年日本機械学会名誉員。1986年初代実践教育研究会会長。東京工業大学名誉教授。
西巻 正郎(にしまき まさお、1914年 - 1996年) … 西巻 正郎(にしまき まさお、1914年 - 1996年) は、日本の電気工学者。東京工業大学名誉教授。元電子通信学会編集長。 1939年東京工業大学電気工学科卒業、東京工業大学助手。1945年東京工業大学助教授。1954年東京工業大学工学博士。1955年東京工業大学教授。1974年電子通信学会編集長、電子通信学会副会長。1975年千葉大学教授、東京工業大学名誉教授。1980年幾徳工業大学教授。指導学生に大見忠弘など。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
中島 健(なかじま けん、1914年 - 2000年)は、日… 中島 健(なかじま けん、1914年 - 2000年)は、日本の造園家、作庭家。国内では法人から吉田茂をはじめ、田中角栄、河野一郎らの邸宅の庭園など、政財界の要人の邸宅の庭を設計施工のほか、世界各国で日本庭園を作庭。国内650ヶ所以上、海外20ヶ所以上の庭園を設計・施工管理したという。 暁星中学校(旧制)から早稲田大学附属第二早稲田高等学院を経て、1934年に東京高等造園学校(現・東京農業大学地域環境科学部造園科学科)に入学する。卒業後は京都にある歴史的庭園の実測調査に従事した後、東京・仙川の地で庭園設計事務所を設立、作家活動に入る。
畔上 道雄(あぜがみ みちお、1914年 - 1983年)は… 畔上 道雄(あぜがみ みちお、1914年 - 1983年)は、日本の工学者。専門は電子工学・大脳生理学・心理学などの学際領域である生体情報科学。工学博士。群馬大学名誉教授。「電磁球関数」の研究で国際的にも高く評価される一方で、作家としての一面もあった。 千葉県生まれ。父は内村鑑三の門下生でキリスト教独立伝道者の畔上賢造。早稲田大学工学部電気工学科卒業。日本電信電話公社を経て、群馬大学教授を務めた。自身の著書を教科書として木訥とした独特の講義は、学生達の人気を呼んだ[要出典]。趣味のゴルフや推理小説にも造詣が深く、「思想の科学」「大衆文学研究会」会員として評論活動を展開した。 『ゴルフの科学』(講談社・ブルーバックス)は、この種の本としてはめずらしいロングセラーとなった[要出典]。
菊茂 琴昇(きくしげ きんしょう、1914年 - 2007年… 菊茂 琴昇(きくしげ きんしょう、1914年 - 2007年)は、日本の検校。 徳島県阿南市生まれ。建設業藤代宇一・あさ夫婦の長男として出生。本名藤代一市。生後間もなく眼病罹り失明。2歳で神戸に移り、5歳で菊西繁樹に師事。大阪系生田流(菊筋)箏曲、野川流三味線の免許皆伝、大検校となる。 妹弟弟子に菊端園子、菊艶操山の他、師匠菊西繁樹の四女菊西正子(大勾当)がいる。CDに「最後の大検校菊茂琴昇の芸」「米寿記念大検校菊茂琴昇」「三下り八段~菊茂琴昇の三弦」がある。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
川崎 寅雄(かわさき とらお、1914年 - 1976年)は… 川崎 寅雄(かわさき とらお、1914年 - 1976年)は、日本のアラビストの草分けとされる人物。第二次世界大戦中は外務省職員、海軍司政官の職務に就き、戦後は石油関連の通訳などを経て、創価大学でアラビア語を教えた。アラビア語・日本語の言語辞典(英語版)としては初となる『アラブ語辞典』を完成させ、1963年自費出版により出版した。 川崎寅雄は1914年に茨城県久慈郡久慈町(現 日立市)の漁師の網元の家に生まれた。名古屋高等商業学校(学制改革後は名古屋大学に統合)に進学し、すべての学費を免除される優秀な成績で卒業した。外務省留学生試験に合格し、21歳でエジプトの国立カイロ大学に留学した。カイロ大学卒業後はエジプト、レバノン、バグダードなどアラビア語圏の公使館に勤務した。
徳永 春穂(とくなが しゅんすい、1914年 - 2005年… 徳永 春穂(とくなが しゅんすい、1914年 - 2005年)は岡山県を代表する日本画家である。得意は人物画であり、師匠は美人画で有名な伊東深水である。 また、岡山県和気郡和気町に本社を置く、生産数日本一を誇るこいのぼりメーカー徳永こいのぼりの創業者。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
佐川 直行(さがわ なおゆき、1914年 - 1970年5月… 佐川 直行(さがわ なおゆき、1914年 - 1970年5月4日)は、日本のプロ野球選手スカウト。大阪タイガース・阪神タイガースで大物選手の入団を担当した、1950年代後半から1960年代を代表する敏腕スカウトとして知られる。 1914年、北海道生まれ。旧制札幌商業学校(現・北海学園札幌高等学校)から旧制立教大学へ進学。札幌商業時代は、1931年の夏の甲子園に出場した経験がある。ポジションは捕手。立教大学卒業後は、富士銀行で銀行員として働いていた。1945年11月には、同行数寄屋橋支店で勤務しており、同支店に口座を持っていた日本野球連盟が、同年に行われた東西対抗野球の入場料金を収納した際に窓口で応対している。
石崎 達(いしざき たつし、1914年 - 2005年3月2… 石崎 達(いしざき たつし、1914年 - 2005年3月27日)は、日本の医学者。喘息日記、アレルゲンによる皮膚反応、減感作療法などの普及に貢献した。栃木県出身。
横尾 義貫(よこお よしつら、1914年 - 2007年1月… 横尾 義貫(よこお よしつら、1914年 - 2007年1月28日)は、日本の建築学者。建築教育者。京都大学名誉教授。専門分野は建築構造学。 神奈川県生まれ。佐賀県出身。江藤新平の曾孫。旧制逗子開成中学校から1932年に旧制静岡高校を経て1939年、京都帝国大学工学部建築学科卒業後、佐世保海軍建築部に勤務。1942年京都帝国大学 助教授、1949年京都大学工学部教授に就任。1977年4月豊橋技術科学大学へ転出。同大学では副学長を歴任。その後名古屋大学教授、日本建築総合試験所理事長など。1975年日本建築学会会長(1975年 - 1977年)。著書に『東三河の戦国時代』、『建築学小事典 建築の美と技術』(監訳)、『構造力学〈第1-2巻〉 (1951年)』(共著)など。
戸枝 弘(とえだ ひろし、1914年 - 1992年1月25… 戸枝 弘(とえだ ひろし、1914年 - 1992年1月25日)は、昭和時代日本の詩人、歌人、作詞家。長野県出身。別名義に戸枝 ひろしや並木 ひろし、野中 ゆきみがある。 1914年(大正3年)、長野県上伊那郡南向村(現在の中川村)に生まれる。旧制伊那中学校在学中は万葉集やアララギ叢書を愛読していた。横浜専門学校を卒業、帰郷した後は会社嘱託の傍ら著述業に入り1951年(昭和26年)の歌会始で入選を果たす。 1960年(昭和35年)より、中川村から伊那市へ転居した。 1963年(昭和38年)1月、同年の歌会始で岡山県から応募のあった入選作が前年に「野中ゆきみ」名義で雑誌に掲載された短歌の盗作であると主張し、宮内庁が入選者に事情を聴いたところ応募者は盗作の嫌疑を否定したものの賞を辞退することとなった(昭和38年歌会始盗作事件)。
川瀨 健治(かわせ けんじ、1914年 - 1974年2月6… 川瀨 健治(かわせ けんじ、1914年 - 1974年2月6日)は、日本の商工、通産官僚。 旧制静岡中学、旧制静岡高校を経て、1937年、東京帝国大学法学部政治学科卒業。商工省入省。終戦直後、1945年8月27日、日本政府の対GHQ渉外機関として外務省に終戦連絡事務局が設立され、商工事務官を務めていた川瀬が出向。通商産業省に変わってからも様々な役職を経て、福岡通産局長に就任。1956年、熊本県で水俣病が発生し深刻となり、1959年11月、不知火海漁業紛争調停委員会が発足、寺本広作熊本県知事は通産省の意向を取り入れるために川瀬をオブザーバーに加えている。その後、東京通産局長に就任した。正四位。墓所は多磨霊園。