今里 準太郎(凖太郎、いまざと じゅんたろう、1886年(明… 今里 準太郎(凖太郎、いまざと じゅんたろう、1886年(明治19年)11月15日 - 1976年(昭和51年)12月28日)は、明治末から昭和期の右翼活動家、実業家、政治家。衆議院議員。 長崎県東彼杵郡萱瀬村(現大村市)で、今里和平の三男として生まれ、1907年(明治40年)6月、家督を相続した。大村中学校(現長崎県立大村高等学校)を経て、1907年、早稲田大学大学部政治経済学科を卒業した。兵役に就き陸軍三等主計となる。 北海道に渡り小樽新聞の記者となる。養狐業、鉄工機械商・今里商会の経営などを行い、その後、樺太で木材売買業を営み成功した。 1924年(大正13年)5月、第15回衆議院議員総選挙に長崎県第3区から無所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
蘆谷蘆村(あしや ろそん、1886年11月14日 - 194… 蘆谷蘆村(あしや ろそん、1886年11月14日 - 1946年10月15日)は日本の口演童話の研究家、児童文学の作家である。キリスト教精神と欧米の童話を基盤に、伝承童話の研究の基礎を築いた。また近代詩の詩人として、北原白秋、三木露風の同時代に活躍した詩人でもある。 蘆谷ろそんとも表記される。本名は重常 1886年(明治19年)島根県松江市に生まれ、栃木県で育つ。国民英学会で中等教育を受ける。 1904年頃、17歳頃栃木県宇都宮市の栃木県立宇都宮農学校(現、栃木県立宇都宮白楊高等学校)の学生時代に、東洋宣教会の宣教師アーネスト・キルボルンの宇都宮の福音伝道館で求道を始める。同級生の森五郎を福音伝道館に誘う。
太田 正孝(おおた まさたか、1886年〈明治19年〉11月… 太田 正孝(おおた まさたか、1886年〈明治19年〉11月13日 - 1982年〈昭和57年〉7月10日)は、日本の大蔵官僚、政治家。衆議院議員(7期)、参議院議員(1期)。 静岡県出身。静岡商業学校、七高を経て、1912年に東京帝国大学法科大学経済学科(現・東京大学経済学部)を卒業し、大蔵省に入省(東京税務監督局兼主税局)。後に主計官となる。 1919年退官。政界入りするまでに報知新聞社副社長、中央大学教授等を務める。1924年には経済学博士号を取得。 1930年の第17回衆議院議員総選挙に立憲政友会公認で立候補し初当選。その後大蔵参与官、大蔵政務次官などを歴任。1939年の政友会分裂に際し金光庸夫、犬養健らとともに中立派に属す。
窪田 治輔(くぼた じすけ、1886年〈明治19年〉11月1… 窪田 治輔(くぼた じすけ、1886年〈明治19年〉11月11日 - 没年不詳)は、日本の内務・文部官僚。官選県知事。 山口県出身。窪田幾蔵の二男として生まれる。第五高等学校を首席で卒業。1912年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1913年、東京帝国大学法科大学を卒業。内務省に入省し静岡県属となる。 以後、静岡県賀茂郡長、同小笠郡長、文部省督学官兼同参事官、同書記官、同大臣官房文書課長、同実業学務局長などを歴任。 1929年10月9日、山形県知事に就任。小作争議の対策に尽力。また、1931年に小田島村地主襲撃事件(小田島事件)が発生し臨時県会で不況対策を検討した。同年10月24日、昭和天皇行幸が予定されていた鹿児島県の山口安憲知事が腸チフスとなり急遽知事を交代。
大島 文彦(おおしま ふみひこ、1886年〈明治19年〉11… 大島 文彦(おおしま ふみひこ、1886年〈明治19年〉11月10日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の政治家。宮崎県延岡市長。 大分県大分郡竹中村(現・大分市竹中)出身。1909年(明治42年)10月、裁判所書記試験及第。1911年(明治44年)3月、大分県属となる。 1920年(大正9年)7月に宮崎県属に転じ、1923年(大正12年)3月に同県宮崎郡長、1924年(大正13年)8月に同県児湯郡長を経て、1926年(大正15年)7月、地方事務官に任官する。同年10月より大分市助役を3期務め、1937年(昭和12年)4月、延岡市助役に転じ、同年9月に同市市長に就任した。
上月 良夫(こうづき よしお、1886年11月7日 - 19… 上月 良夫(こうづき よしお、1886年11月7日 - 1971年4月3日)は、日本の陸軍軍人、陸軍中将。熊本県出身。陸士21期、陸大29期。
小田 観螢(おだ かんけい、1886年〈明治19年〉11月7… 小田 観螢(おだ かんけい、1886年〈明治19年〉11月7日 - 1973年〈昭和48年〉1月1日)は、日本の歌人。本名は小田哲弥。北海道歌壇の草分け、北海道歌壇の功労者とされる。二度にわたって妻を喪いながらも歌を詠み続けたことから、「逆境の歌人」とも呼ばれる。 岩手県九戸郡宇部村(後の久慈市)で誕生した。伯父である小田為綱の教育の賜物で、13歳のとき中国の歴史書『一八史略』を読み、周囲を驚かせた。 1900年(明治33年)、家が破産したために学業を断念、母方の叔母を頼って一家で北海道小樽にわたり、観螢は奥沢小学校の代用教員として勤めた。その後も北海道各地に転任し、開拓民の子供たちに教えつつ、自らも農業に携わる、半農半教の生活を送った。
木下 敏(きのした はやし、1886年(明治19年)11月5… 木下 敏(きのした はやし、1886年(明治19年)11月5日 - 1969年(昭和44年)10月26日)は、日本陸軍の軍人。陸士20期、陸大29期(優等)。栄典は従三位勲一等。最終階級は陸軍中将。 旧和歌山藩士・木下文次郎の長男として生まれる。和歌山中学、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1908年(明治41年)5月、陸軍士官学校(20期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第8連隊附となる。1917年(大正6年)11月、陸軍大学校(29期)を優等で卒業した。 1918年(大正7年)7月、陸士附となり、陸士教官、フランス駐在、陸軍歩兵学校教官を歴任。1923年(大正12年)8月、歩兵少佐に昇進。
井上 貞衛(いのうえ さだえ、1886年(明治19年)11月… 井上 貞衛(いのうえ さだえ、1886年(明治19年)11月5日 - 1961年(昭和36年)10月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 熊本県出身、本籍は高知県。熊本県警部・井上作郎の三男として生れる。中学済々黌を中退、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1908年5月、陸軍士官学校(20期)を卒業、同年12月、歩兵少尉に任官し、歩兵第53連隊付となった。 歩兵第44連隊中隊長としてシベリア出兵に参加。同連隊大隊副官、第11師団司令部付、同師団副官、歩兵第12連隊大隊長、歩兵第10旅団副官、横浜高等工業学校配属将校、独立守備歩兵第3大隊長、歩兵第5連隊長などを経て、1939年3月、陸軍少将に進級。
柏田 忠一(かしわだ ただかず、1886年(明治19年)11… 柏田 忠一(かしわだ ただかず、1886年(明治19年)11月5日 - 1958年(昭和33年)10月3日)は、日本の衆議院議員(政友本党→立憲民政党)、弁護士。 岩手県二戸郡金田一村(現在の二戸市)出身。1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、オックスフォード大学に留学した。その後、上海日日新聞社主筆を経て、1916年(大正5年)に弁護士を開業。また財団法人東亜攻究会理事を務めた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その後は、拓殖大学教授やハルビン市公署顧問を務めた。 またその他に、東北桐材株式会社取締役、アマゾン興業株式会社監査役、馬淵電気株式会社顧問などを務めている。
山本 冬郷(やまもと とうごう、1886年11月4日 - 1… 山本 冬郷(やまもと とうごう、1886年11月4日 - 1952年3月24日)は、日本の元俳優である。本名:山本 鎌藏(やまもと けんぞう)。ハリウッド映画からスタートした日本人俳優で、帰国後は松竹蒲田撮影所、日活太秦撮影所、新興キネマ東京撮影所などで活躍した名脇役として知られる。 1886年(明治19年)11月4日、神奈川県横浜市根岸(現在の同県同市中区根岸町)に生まれる。旧制錦城中学校(現在の錦城学園高等学校)を卒業後、早稲田大学政治経済科に進学する。 1904年(明治37年)2月、早稲田大学を中退して渡米。種々の職業に従事していたが、日本から来た在留邦人相手の新派劇団に急遽加入し、各地を巡業する。
前田 利男(まえだ としお、1886年〈明治19年〉11月4… 前田 利男(まえだ としお、1886年〈明治19年〉11月4日 - 1966年〈昭和41年〉12月29日)は、大正・昭和期の宮内官、政治家、華族。貴族院伯爵議員。旧名・溝口 正男。 旧新発田藩主家当主・溝口直正の五男として生まれ、1911年(明治44年)4月、伯爵・前田利同の養子となる。養父の死去に伴い利男と改名し、1922年(大正11年)1月20日に伯爵を襲爵した。 学習院を経て、1913年(大正2年)6月、東京帝国大学農科大学を卒業。1915年(大正4年)以降、内閣総理大臣秘書官、皇子傅育官(秩父宮附)、宮内事務官兼式部官などを務めた。 1946年(昭和21年)5月9日、貴族院伯爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
関 亀治(せき かめはる、1886年(明治19年)11月3日… 関 亀治(せき かめはる、1886年(明治19年)11月3日 - 1969年(昭和44年)4月5日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 兵庫県出身。柏原中学校を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第20連隊付となる。陸士生徒隊付などを経て、1918年(大正7年)11月、陸軍大学校(30期)を卒業した。 参謀本部付勤務、参謀本部員(兵站班)、陸軍兵器本廠付、アメリカ駐在、兵器本廠付、陸軍省整備局課員などを歴任し、1927年(昭和2年)7月、歩兵中佐に進級。1929年(昭和4年)12月、兵器本廠付に発令され陸大専攻学生となった。
鳴門洋 利之助(なるとなだ としのすけ、1886年11月2日… 鳴門洋 利之助(なるとなだ としのすけ、1886年11月2日 - 1922年10月4日)は、徳島県吉野川市鴨島町出身で中川部屋に所属した力士。本名は藤井 利助。171cm、100kg。最高位は西前頭5枚目。 同郷の7代中川(元幕内鬼鹿毛)のもとに入門、1905年1月初土俵。初め鬼見嵜と名乗ったが、幕下時代の1910年6月に鳴門洋と改名している。1913年1月新十両昇進。1915年1月新入幕を果たした。左四つからの寄り・押しを得意としていた。幕内での勝ち越しは1915年6月の4勝2敗1預3休のみであったが、東西制の恩恵を受け、最高位は前頭5枚目で、幕内に10場所在位した。1918年1月から師匠の四股名の鬼鹿毛を襲名したが、その頃から病気に罹り振るわず、1920年1月十両に転落してその場所限りで廃業、2年後に没した。
萩原 朔太郎(はぎわら さくたろう、1886年(明治19年)… 萩原 朔太郎(はぎわら さくたろう、1886年(明治19年)11月1日 - 1942年(昭和17年)5月11日)は、日本の詩人、評論家。大正時代に近代詩の新しい地平を拓き「日本近代詩の父」と称される。 群馬県東群馬郡北曲輪町(のちの前橋市北曲輪町(現・千代田町一丁目))に、開業医の父・密蔵と母・ケイの長子として生まれた。名前の朔太郎は、長男で朔日(ついたち)生まれであることから、命名された。1893年(明治26年)に群馬県師範学校附属小学校に入学。この頃から神経質かつ病弱であり、「学校では一人だけ除け者にされて、いつも周囲から冷たい敵意で憎まれている。」 と孤独を好み、一人でハーモニカや手風琴などを楽しんだ。
岩井 誠四郎(いわい せいしろう、1886年11月 - 19… 岩井 誠四郎(いわい せいしろう、1886年11月 - 1963年7月)は、日本の医学者、京城帝国大学教授、朝鮮総督府医院医官、学位は医学博士。専攻は内科学。旧姓・木内。 旧制第七高等学校造士館を経て、1916年、九州帝国大学医科大学医学科卒業、同大助手。1921年、慶應義塾大学医学部助教授を経て、京城帝国大学教授に就任。 この項目は、医療関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:医学と医療、PJ:医学、PJ:歯学)。
根岸 耕一(ねぎし こういち、1886年11月 - 1933… 根岸 耕一(ねぎし こういち、1886年11月 - 1933年11月2日)は、日本の実業家、映画製作者である。日本活動写真(現在の日活)で本社支配人、向島撮影所長、常務取締役を歴任した。日活向島撮影所で初めて「監督制度」を敷いた人物である。 1886年(明治19年)11月、埼玉県に生まれる。 旧制埼玉県立熊谷中学校を卒業後、東京に出て、旧制・明治大学商科を卒業する。 1919年(大正8年)、ヨーロッパ諸国、アメリカ合衆国の映画産業を視察する。もともと羊毛事業に関わり、3年間をアメリカで過ごした。 帰国後間もない1923年(大正12年)2月、日本活動写真社長の藤田謙一の推挙により、満36歳で取締役支配人に就任する。
河盛 安之介(かわもり やすのすけ、1886年〈明治19年〉… 河盛 安之介(かわもり やすのすけ、1886年〈明治19年〉10月29日 - 1976年〈昭和51年〉7月24日)は、昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。大阪府堺市長(第9代〈官選〉、第13代〈公選〉)。堺市「100万都市(政令指定都市)」生みの親。 竹内権兵衛の三男として茨城県に生まれ、のち河盛又三郎の養子となる。1909年(明治42年)東京高等商業学校本科を卒業し、のち専攻部を修業する。1921年(大正10年)広島県呉市に合資会社河盛商店を創業し業務執行社員を務める。翌年の1922年(大正11年)には有限責任堺興業信用組合を創立し組合長理事となった。ほか、堺醤油製造合資会社業務担当社員などを経て、河又醤油社長、南海土地建物取締役、河盛商店監査役、大醤(河又醤油とイヅミイチ(大阪府貝塚市)が合同で設立)初代社長などを歴任した。
阿部 みどり女(あべ みどりじょ、1886年10月26日 -… 阿部 みどり女(あべ みどりじょ、1886年10月26日 - 1980年9月10日)は、日本の俳人。本名はミツ。北海道札幌区(現・札幌市)生まれ。父は第2代北海道庁長官・永山武四郎。 北星女学校(現北星学園女子中学高等学校)修了。 1910年、阿部卓爾と結婚して東京に住むが、結核のため鎌倉で療養。この頃から俳句を始める。1915年、高浜虚子に師事、以後「ホトトギス」を中心に作品を発表。始めは主情的な俳風だったが、後に虚子が客観写生を説くと彼女もそれに従い、更に写生を極めるために洋画家森田恒友に素描を学んだ。長谷川かな女・杉田久女とともに、女流俳句草創期を代表する一人。金子兜太はかな女・久女を感情型、みどり女を想念型と指摘している。
後藤 末雄(ごとう すえお、1886年10月25日 - 19… 後藤 末雄(ごとう すえお、1886年10月25日 - 1967年11月10日)は、作家、フランス文学者、比較文学・比較思想史研究者。 東京にて後藤五郎の六男に生まれる。「金座の後藤」と称された工芸の旧家に生まれ、幼くして母を失う。浅草橋の小学校に通い、同級生には木村荘太や桜間弓川がいた。府立三中、一高を経て、東京帝国大学英文科在学中、和辻哲郎、谷崎潤一郎、木村荘太らと第2次『新思潮』の創刊に参加し、小説家として出発する。1913年、東大仏文科を卒業し、陸軍士官学校の教師となる。華々しくデビューした谷崎に対し、他の同人が創作から脱落していく中で、森鷗外らの愛顧を得て創作を続けるが、大正5年(1916年)、「女の哀話」もの小説を「遊蕩文学」として赤木桁平に攻撃され、なおも創作を続けた。
佐藤 正四郎(さとう せいしろう、1886年(明治19年)1… 佐藤 正四郎(さとう せいしろう、1886年(明治19年)10月25日 - 1958年(昭和33年)7月7日)は、日本の海軍軍人。二・二六事件において、東京に出動した海軍陸戦隊の指揮官を務めた。最終階級は海軍少将である。 新潟県出身。長岡中学から海軍兵学校に進む。病気のため留年し、37期生として卒業した。席次は179人中172番。同期生に井上成美、草鹿任一、小澤治三郎らがいる。 尉官時代は「三笠」、「日進」、「春風」、「明石」、「朝日」、「榛名」乗組。大尉進級後「生駒」分隊長、「伊勢」艤装員、「陸奥」副砲長、「大井」砲術長の艦船勤務の他、海軍砲術学校及び海軍水雷学校普通科学生を修了した。 少佐に昇進後、「長良」、「日向」及び「長門」の各砲術長、「榛名」及び「赤城」の各副長。
山本 祥吉(やまもと しょうきち、1886年(明治19年)1… 山本 祥吉(やまもと しょうきち、1886年(明治19年)10月25日 - 1976年(昭和51年)10月28日)は、日本の調味学者。農林省水産講習所教授、水産試験場技師、南興水産取締役、東海大学教授、東京水産大学講師。 鰹節の研究を専門とし、味の素等の商品開発や南洋群島での水産事業に関わった。 1886年(明治19年)10月25日広島県安芸郡牛田村椎ノ木44番地(広島市東区牛田南一丁目)に小学訓導山本象六とタニの長男として生まれた。牛田村立尋常小学校を経て、1897年(明治30年)4月安佐郡立沼田高等小学校に入学したが、1899年(明治32年)3月中退、4月広島市立第二高等小学校に転じ、1901年(明治34年)3月卒業した。
砂山 角野(すなやま かくや、1886年10月21日 - 1… 砂山 角野(すなやま かくや、1886年10月21日 - 1937年8月15日)は、日本光学工業(現ニコン)のレンズ設計者。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
島津 忠重(しまづ ただしげ、1886年〈明治19年〉10月… 島津 忠重(しまづ ただしげ、1886年〈明治19年〉10月20日 - 1968年〈昭和43年〉4月9日)は、日本の海軍軍人、貴族院議員。 島津氏第30代当主。島津忠義の四男であるが、兄たちの早世によりその嫡男(跡取り)となる。海軍少将正二位勲一等公爵。神号は「島津忠重命」。幼名は秀丸。 姉は邦彦王妃俔子で、香淳皇后の叔父にあたり、第125代天皇明仁の大叔父にあたる。 仙巌園で生まれ、幼少時代を過ごし、島津家庭尋常小学校(忠重とその兄弟が通うための学校)に通う。1898年(明治31年)2月1日、父・忠義の薨去により家督を相続し、公爵を襲爵する。叔父の島津珍彦が後見人となる。ほどなく鹿児島より上京し、学習院に編入学する。
鈴木悦(すずき えつ、1886年10月17日 - 1933年… 鈴木悦(すずき えつ、1886年10月17日 - 1933年9月11日)は、著作家・記者・労働運動の指導者・大学講師。 レフ・トルストイの『戦争と平和』の全訳やカナダでの労働組合運動で知られる(後述)。 鈴木と田村の文学碑が、豊橋市高師緑地の駐車場の西側にある。二人の顔のレリーフと瀬戸内寂聴の撰文が組み合わされており、高さは約5メートルである。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
黒田 徳米(くろだ とくべい、1886年10月17日 - 1… 黒田 徳米(くろだ とくべい、1886年10月17日 - 1987年5月15日)は、日本の博物学者・貝類学者。日本の貝類研究の第一人者。日本で初めての貝類総目録を完成させ、日本貝類学会の創設者の一人でもある。発見した貝の新種は650種に及ぶ。 兵庫県三原郡福良浦(現:南あわじ市福良向谷)出身。学歴は小学校卒業のみである。1901年(明治34年)、京都の平瀬與一郎の丁稚奉公をしながら、彼の貝類の研究を手伝う。1919年(大正8年)、平瀬貝類博物館閉鎖に伴い、2年間にわたって残務処理を行う。1921年京都帝国大学助手。1928年(昭和3年)、日本貝類学会の創設にかかわり、のち会長となる。日本産貝類の分布や種類をあきらかにし、「日本産海棲貝類目録」などを刊行した。
古田 俊之助(ふるた しゅんのすけ、1886年(明治19年)… 古田 俊之助(ふるた しゅんのすけ、1886年(明治19年)10月15日 - 1953年(昭和28年)3月23日)は、日本の実業家で、第七代住友総理事である。第2次大戦の敗戦により、住友財閥が解体され、住友最後の総理事となる。 京都府葛野郡衣笠村字等持院(現・京都市北区等持院北町)の寺侍井上数馬・エンの五男として生まれる。1899年(明治32年)14歳の時、大阪製鎖所を経営する古田敬徳の養子となり、大阪府一中(現・大阪府立北野高等学校)に進んだ。六高を経て、1910年(明治43年)東京帝国大学工科大学を卒業し、住友総本店に入社する。 入社以来、ほとんど住友伸銅所の技術畑を歩き、1935年(昭和10年)の住友金属工業誕生とともに、専務取締役に任ぜられ、翌1936年(昭和11年)には合資理事として住友の大幹部の1人となった。
石川 節子(いしかわ せつこ、旧姓 堀合、1886年〈明治1… 石川 節子(いしかわ せつこ、旧姓 堀合、1886年〈明治19年〉10月14日 - 1913年〈大正2年〉5月5日)は日本の女性歌人。石川啄木の妻。 1886年(明治19年)に岩手県南岩手郡上田村(現・盛岡市)上田新小路11番地(現在の岩手大学農業資料館付近)に生まれる。堀合家は南部家臣の家系であり、父・忠操は岩手郡役所に勤めていた。節子が生まれて3年半後の1890年(明治23年)4月に一家は新山小路に転居している。9人兄弟(男子3・女子6)の長姉で、末の弟とは22歳の年齢差があった。すぐ下の妹であるふき子は後述するように、宮崎郁雨の妻となった。 1892年(明治25年)に盛岡第一尋常小学校を、1899年(明治32年)3月に盛岡高等小学校を卒業する。
秋田 重季(あきた しげすえ、1886年(明治19年)10月… 秋田 重季(あきた しげすえ、1886年(明治19年)10月12日 - 1958年(昭和33年)2月13日)は、明治から昭和時代の技術者、政治家、華族。貴族院子爵議員、秋田家第14代当主。旧名・重光。 旧公家出身の伯爵大原重朝の二男であったが、元三春藩主で子爵の秋田映季に嫡男が居なかったため、その娘の芳子と結婚して秋田家を継いだ。養父の死去に伴い1907年(明治40年)3月6日、子爵を襲爵。 1910年(明治43年)に東京帝国大学工科大学を卒業。同年、逓信省臨時発電水力調査局雇となり、鉄道院技手、同技師などを務める。また、歌会始講頌となる。 1919年(大正8年)5月17日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に属し貴族院が廃止された1947年(昭和22年)5月2日まで在任。
本間 久雄(ほんま ひさお、明治19年(1886年)10月1… 本間 久雄(ほんま ひさお、明治19年(1886年)10月11日 - 昭和56年(1981年)6月11日)は、日本の英文学者・国文学者。文学博士。早稲田大学名誉教授、実践女子大学名誉教授。弟に日本画家の本間国生がいる。米沢市出身。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
菅 隆俊(かん たかとし、1886年10月9日 - 1961… 菅 隆俊(かん たかとし、1886年10月9日 - 1961年7月16日)は、日本の自動車技術者。トヨタ自動車工業取締役設計部長を経て、豊田工機社長を務めた。紫綬褒章受章。 香川県三豊郡財田村(現・三豊市)出身。1914年東京高等工業学校(のちの東京科学大学)機械科卒業。1916年住友私立職工養成所(のちの住友工業高等学校)仕上・旋工・鍛工場主任。1920年に豊田佐吉の豊田式織機株式会社(のちの豊和工業)に転じる。 1933年に豊田喜一郎により豊田自動織機製作所に招聘される。1934年には自動車量産化のためアメリカ合衆国で調査を行い、挙母工場(のちのトヨタ自動車本社工場)の設計責任者を務め、岩岡次郎、豊田英二、齋藤尚一と建設構想にあたった。
吉井 勇(よしい いさむ、1886年(明治19年)10月8日… 吉井 勇(よしい いさむ、1886年(明治19年)10月8日 - 1960年(昭和35年)11月19日)は、明治末期から昭和中期の日本の歌人、劇作家、小説家である。元伯爵(華族)。宮中歌会始選者、日本芸術院会員。本名の読み仮名は「よしい いさみ」。 “いのち短し、戀(こひ)せよ、少女(をとめ)”の歌詞で知られる『ゴンドラの唄』の作詞者。北原白秋らと「パンの会」を結成。石川啄木らとは雑誌「スバル」を発行して耽美派の拠点とした。京都の祇園を愛し、「祇園歌人」の異名で呼ばれた。人生享楽の世界を歌った代表作『酒ほがひ』(明治43年)のほか、『祇園歌集』(大正4年)、『人間経』(昭和9年)、『天彦』(昭和14年)などがある。
草野 豹一郎(くさの ひょういちろう 1886年10月7日 … 草野 豹一郎(くさの ひょういちろう 1886年10月7日 - 1951年9月12日)は、日本の裁判官、法学者、弁護士。
栗山 茂(くりやま しげる 1886年〈明治19年〉10月6… 栗山 茂(くりやま しげる 1886年〈明治19年〉10月6日 - 1971年〈昭和46年〉2月3日)は、日本の外交官、最高裁判所判事(任期は1947年8月4日 - 1956年10月5日)。 福井中学、東京府立一中、第一高等学校(旧制)を経て、1913年(大正2年)東京帝国大学卒業。 1913年(大正2年)外交官領事官試験に合格し、1914年(大正3年)外務省入省。在フランス日本国大使館一等書記官としてフランス駐在。フランス語が堪能で、鋭い国際的視野を持っていたが、辛口の論客として知られていた。1919年(大正8年)パリ講和会議と1921年(大正10年)ワシントン会議で全権委員随員を務める。 1933年(昭和8年)に外務省条約局長、1937年(昭和12年)に駐スウェーデン大使、1939年(昭和14年)に駐ベルギー大使兼ルクセンブルク公使に就任。
大久保 繁雄(おおくぼ しげお、1886年(明治19年)10… 大久保 繁雄(おおくぼ しげお、1886年(明治19年)10月6日 - 1958年(昭和33年)3月17日)は、昭和の日本の実業家。三菱石油社長や千代田化工建設初代社長・会長を歴任した。 大久保為昭の四男として長崎県に生まれる。1912年7月東京帝国大学政治科卒業後、三菱合資会社に入社。1918年三菱鉱業(現三菱マテリアル)、翌年三菱商事に入社し、香港・大阪・シンガポールなどで支店長を務めた。1944年6月三菱石油(現 JXTGエネルギー)に移ると、同年11月より同社社長を務める。1948年に同社工事部が分離独立して千代田化工建設が発足すると初代社長に就任。1957年11月、同社会長となり、玉置明善が次代社長となった。
佐々木 喜善(ささき きぜん、1886年〈明治19年〉10月… 佐々木 喜善(ささき きぜん、1886年〈明治19年〉10月5日 - 1933年〈昭和8年〉9月29日)は、日本の民俗学者、作家、文学者、文学研究者、民話・伝説・習俗・口承文学の収集家、研究家。一般には学者として扱われるが、佐々木自身は資料収集者であり学者ではないと称している。 オシラサマやザシキワラシなどの研究と、400編以上に上る昔話の収集は、日本の民俗学、口承文学研究の大きな功績で、「日本のグリム」と称される。 岩手県土淵村(現在の岩手県遠野市土淵)の裕福な農家に育つ。母方の祖父である万蔵は近所でも名うての語り部で、喜善はその祖父から様々な民話や妖怪譚を吸収して育つ。その後、祖父の医者になる期待を背負い、明治35年、岩手県医科学校(現在の岩手医科大学)に入学するも、医師としての将来を思い描くことができず、2年後に中退する。
田中 壽一(たなか じゅいち、1886年(明治19年)10月… 田中 壽一(たなか じゅいち、1886年(明治19年)10月5日 - 1960年(昭和35年)11月11日)は、日本の物理学者。学校法人名城大学創設者。福岡県山門郡柳河町(現・福岡県柳川市)出身。 柳河尋常小学校、柳河高等小学校、福岡県立中学伝習館(現・福岡県立伝習館高等学校)、東京高等工業学校(現東京工業大学)電気科電気機械分科を卒業(明治42年)。卒業後逓信省(現総務省)に入り、電気事業者届出落成電気工作物の検査・監査に当たった。その当時の部下が後に東海大学を創立した松前重義である。明治45年(1912年)4月、明治専門学校(現九州工業大学)助教授となったが、大正4年(1915年)8月東北帝国大学理科大学物理学科(現東北大学理学部)に入学して勉学に励んだ。
徳川 義親(とくがわ よしちか/ぎしん、1886年(明治19… 徳川 義親(とくがわ よしちか/ぎしん、1886年(明治19年)10月5日 - 1976年(昭和51年)9月6日)は、日本の政治家、植物学者、狩猟家。尾張徳川家第19代当主。位階・勲等・爵位は従二位勲二等侯爵。戦前の貴族院議員で、第25軍軍政顧問。戦後は社会党を支援して党顧問となるが、公職追放を受けた。日ソ交流協会会長。戦前マレー半島で虎狩りをしたことから、虎狩りの殿様として親しまれた。自伝に『最後の殿様』がある。 父は越前松平家・松平慶永(春嶽)で、1908年に尾張徳川家の婿養子となり、家督を相続した。同家の東京移転に際し、愛知県下の土地等の財産の処分を指揮し、1931年に財団法人徳川黎明会を設立して、同家伝来の什宝・書籍を同財団付属の徳川美術館・蓬左文庫で保存・公開した。
阿野 季忠(あの すえただ、1886年(明治19年)10月4… 阿野 季忠(あの すえただ、1886年(明治19年)10月4日 - 1944年(昭和19年)12月3日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員、陸軍主計少尉。旧公家の阿野家。 子爵・阿野実允の三男として生まれ、父の死去に伴い、1887年(明治20年)10月20日、子爵を襲爵した。 1912年(明治45年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1913年(大正2年)十五銀行に入行し、秘書業務部副長、監理課長、大阪支店長、取締役、副頭取などを歴任。その他、藤永田造船所取締役、第一信託取締役、園池製作所会長、蓬莱殖産専務取締役、帝国倉庫運輸監査役などを務めた。 1944年3月24日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動したが、出征し同年12月に戦死した。
中村 武羅夫(なかむら むらお、1886年(明治19年)10… 中村 武羅夫(なかむら むらお、1886年(明治19年)10月4日 - 1949年(昭和24年)5月13日)は、日本の編集者、小説家、評論家。 北海道岩見沢村生まれ。家は鳥取県からの開拓移民で旧士族の家系。岩見沢村立東小学校卒。岩見沢尋常高等小学校卒業後、進学を望むも家のりんご園経営が没落したため断念。小学校の代用教員を経て、博文館の「文章世界」で小説が次点佳作となったのをきっかけに1907年に上京。大町桂月、徳田秋声と親しくなり彼らの紹介で、小栗風葉門下に入る。 後に真山青果の紹介で『新潮』記者となり、明治末から大正期にかけて同誌の中心的編集者として活躍した。『中央公論』の滝田樗陰と並んで大正期の名編集者と称された。
小林 與次右ヱ門(与次右衛門、こばやし よじえもん、1886… 小林 與次右ヱ門(与次右衛門、こばやし よじえもん、1886年〈明治19年〉10月4日 - 1962年〈昭和37年〉11月9日)は、昭和時代の政治家。神奈川県高座郡相模原町長、相模原市長。 神奈川県高座郡上溝村(溝村、上溝町を経て、現相模原市中央区)に生まれる。上溝小学校高等科、津久井郡湘南村葉山島東林教校修業、溝村立上溝実業補習学校を経て、早稲田大学講義録中学科、文学科、法律科などに取り組む。家業の農業に従事する傍ら1911年(明治44年)から1916年(大正5年)まで鳩川農業学校教諭嘱託、助教諭を務め、鎌倉郡立農事講習所講師を歴任した。1932年(昭和7年)神奈川県会議員に当選し、2期務め、1941年(昭和16年)上溝町助役、同年相模原町会議員に転じ、1947年(昭和22年)には相模原町長に就任した。
長谷川 赳夫(はせがわ たけお、1886年(明治19年)10… 長谷川 赳夫(はせがわ たけお、1886年(明治19年)10月3日 - 1980年(昭和55年)6月25日)は、大正から昭和時代戦前の政治家。官僚。貴族院多額納税者議員。錦鶏間祗候。 長谷川市郎左衛門の長男。新潟県出身。1896年(明治29年)家督を相続し前名の亀一郎を改める。1913年(大正2年)東京帝国大学法科大学を卒業し、同大学院を修学する。文官高等試験に合格する。 1915年(大正4年)貴族院試補となって以降、衆議院、貴族院、内閣(内閣官房総務課長)各書記官、帝都復興院、臨時震災救護事務局各兼任書記官、臨時営繕局事務官、法制局勅任参事官、内閣統計局長などを歴任した。ほか、資源局、社会局各参与、新潟県農業会長、国際統計協会正会員などを務めた。
遠藤 卓治(えんどう たくじ、1886年〈明治19年〉10月… 遠藤 卓治(えんどう たくじ、1886年〈明治19年〉10月3日 - 没年不明)は、日本の農民、埼玉県多額納税者。有限責任行幸村信用販売購買組合理事。 埼玉県北葛飾郡行幸村(現・幸手市)出身。遠藤鎛吉の二男。1925年、家督を相続する。農業を営む。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。 趣味は園芸、盆栽、読書。宗教は禅宗。住所は埼玉県北葛飾郡行幸村大字千塚。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
石崎 伝蔵(いしざき でんぞう、旧字体: 石崎 傳藏、188… 石崎 伝蔵(いしざき でんぞう、旧字体: 石崎 傳藏、1886年(明治19年)10月2日 - 1999年(平成11年)4月29日)は、日本の教育者で同国最高齢だった男性。 旧制・茨城縣立太田中學校(現在の茨城県立太田第一高等学校)を卒業後、大里尋常小学校の教員となり、、茨城県内の旧制高等小学校の校長などを務めた。1912年に結婚し、2男2女の子がいた。1928年3月に退職後青年会長、村会議員等に就いた。第二次世界大戦後の1946年に妻は死去した。生前、健康の秘訣は「1日5000回の足踏み、風呂はぬるめ、肉ならば牛」と語っていた。1日最低5時間は読書にあてるという活字好きで、長女と2人暮らしだったが、1997年6月頃より歩行が不自由となり、1999年3月頃より体調を崩して自宅療養していた。
小沢 治三郎(旧字体: 小澤 治三郞、おざわ じさぶろう、1… 小沢 治三郎(旧字体: 小澤 治三郞、おざわ じさぶろう、1886年(明治19年)10月2日 - 1966年(昭和41年)11月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海兵37期。第31代となる最後の連合艦隊司令長官を務めた。 1886年(明治19年)10月2日、宮崎県児湯郡高鍋町24で元高鍋藩士の小沢寅太郎とヤツの次男として生まれる。宮崎中学(現・県立宮崎大宮高校)に在学中、不良青年と争いになり柔道の投げ技で撃退したが、暴力沙汰として退学処分となる。陸軍軍人だった兄・宇一郎の上官・牛島貞雄から日露戦争の戦場満州より「過ちを改むるに憚ること勿れ」(論語 学而第一 8からの引用)の手紙を送られた事をきっかけに上京し、1905年に成城中学校へ転入した。
横井 礼以(よこい れいじ、1886年〈明治19年〉10月1… 横井 礼以(よこい れいじ、1886年〈明治19年〉10月1日 - 1980年〈昭和55年〉6月22日)は、日本の画家。勲等は勲四等。名古屋造形芸術短期大学名誉教授、社団法人二紀会名誉会員。本名は横井 禮一(よこい れいいち)。当初は横井 禮市(よこい れいいち)との筆名を用いた。なお、本名の「禮一」、および、かつての筆名の「禮市」の「禮」は「礼」の旧字体であるため、横井 礼一(よこい れいいち)、横井 礼市(よこい れいいち)とも表記される。なお、筆名の「礼以」については新字体を用いている。 緑ヶ丘洋画研究所主宰、二科会参与、第二紀会委員、名古屋造形芸術短期大学造形芸術科教授などを歴任した。 愛知県海部郡弥富村(現弥富市)出身の洋画家である。
池田 水藻(いけだ みずも、1886年(明治19年)10月1… 池田 水藻(いけだ みずも、1886年(明治19年)10月1日 - 1967年(昭和46年)12月27日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県川辺郡平山村(川辺村平山、川辺町平山を経て、現在の南九州市川辺町平山)出身。陸軍士官学校第19期、陸軍大学校第30期卒業。1923年(大正12年)8月、陸軍歩兵少佐に進級し、同年9月時点で歩兵第30連隊大隊長の任にあった。1925年(大正14年)12月に第14師団参謀に転じ、1928年(昭和3年)3月8日に歩兵第63連隊附となり、松江高等学校に配属された。同年3月24日には陸軍歩兵中佐に進級し、1931年(昭和6年)3月には学校配属を解かれ、歩兵第63連隊附となり、1932年(昭和7年)5月に高崎連隊区司令官に着任し、6月には陸軍歩兵大佐に進級した。
片岡 平八郎(かたおか へいはちろう、前名・郁三、1886年… 片岡 平八郎(かたおか へいはちろう、前名・郁三、1886年〈明治19年〉10月 - 没年不明)は、日本の政治家(兵庫県会議員、兵庫県城崎郡城崎町長)、旅館業者、銀行家。弟に終戦時の第一師団長を務めた片岡董中将が居る。 兵庫県出身。先代・平八郎の二男。1921年(大正10年)、家督を相続、前名・郁三を改め襲名した。豊岡中学校(現・兵庫県立豊岡高等学校)を卒業した。「三木屋」と称し、温泉旅館業を営み、傍ら銀行重役であった。但馬貯蓄銀行取締役、三共銀行監査役などをつとめた。 1894年(明治27年)2月から1896年(明治29年)10月、同年12月から1899年(明治32年)7月、同年9月から1903年(明治36年)9月、1937年(昭和12年)3月から1939年(昭和14年)9月まで城崎郡選出の兵庫県会議員を務めた。
井上 清(いのうえ きよし、1886年(明治19年)10月 … 井上 清(いのうえ きよし、1886年(明治19年)10月 - 不明 )は、日本の実業家である。朝鮮商業銀行取締役。岡山県総社市出身。 1886年(明治19年)、岡山県吉備郡岡田村(現:総社市)の井上徳之助の長男として出生。地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学する。同期には、後に台湾銀行本店支配人代理や岡山県議会議員をつとめる小山美登四がいる。1906年(明治39年)に同校を卒業し、東京高等商業学校予科を経て、翌年、正式に東京高等商業学校(現:一橋大学)へ入学する。1910年(明治43年)に同校の本科を卒業。 卒業後、直ぐに1年志願兵として第17師団へ入隊し、陸軍経理部三等主計となる。
山高 五郎(やまたか ごろう、1886年10月 - 1981… 山高 五郎(やまたか ごろう、1886年10月 - 1981年8月2日)は、日本の造船技師。妻は須知源次郎(常陸丸事件)中佐の娘。息子は新潮社の編集者・版画家の山高登(1926年 - 2020年[要出典])。 山高信離の子として東京に[要出典]生まれる。1909年に東京帝国大学工科大学造船工学科を卒業[要出典]。三菱造船所の[要出典]造船技師として軍艦土佐、客船氷川丸などの多くの船の電気艤装設計に携わる。 船の科学館に展示されていた多くの船舶の油彩画を残した。