山本 定蔵(やまもと さだぞう、1912年11月29日 - … 山本 定蔵(やまもと さだぞう、1912年11月29日 - 1991年1月17日)は、日本の経営者。トヨタ自動車販売社長を務めた。静岡県湖西市出身。 旧制姫路高等学校を経て、1937年に京都帝国大学法学部を卒業し、1940年にトヨタ自動車工業に入社。 1950年にトヨタ自動車販売に転じ、1953年に取締役に就任し、1960年に常務、1967年に専務、1971年に副社長を歴任し、1979年6月に社長に就任し、1981年6月までに務めた。千代田火災海上保険会長も務めた。 1976年4月に藍綬褒章を受章し、1984年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1991年1月17日肺炎のために死去。78歳没。
中村 元(なかむら はじめ、1912年(大正元年)11月28… 中村 元(なかむら はじめ、1912年(大正元年)11月28日 - 1999年(平成11年)10月10日)は、日本のインド哲学者、仏教学者、比較思想学者。東京大学名誉教授、日本学士院会員。勲一等瑞宝章、文化勲章、紫綬褒章受章。 1912年 (大正元年) 11月28日、島根県松江市殿町にて生まれる。元年生まれだったことから、元と名付けられた。 1925年 (大正14年)、東京市立誠之小学校(現・文京区立誠之小学校)を卒業。1930年 (昭和5年)、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を腎臓病により1年間休学後、4年で修了。1933年 (昭和8年)旧制第一高等学校を卒業。在学中、須藤新吉と亀井高孝から学問の基本を学び、ブルーノ・ペツォルトから仏教の話を聞く。
中村 直(なかむら ただし、1912年11月27日 - 19… 中村 直(なかむら ただし、1912年11月27日 - 1996年8月3日)は日本の政治家。衆議院議員(1976年~)、岩手県知事(1979年~1991年)を務めた。身長180センチ、体重80キロ(1984年の記録)と大柄だった。 1912年、岩手県紫波郡紫波町で生まれる。岩手県農学校、産業組合学校を卒業後、産業組合職員などを経て1938年に岩手県職員となる。岩手県副知事や岩手銀行専務を経て、1976年の第34回衆議院議員総選挙で岩手県第1区から出馬し当選。2年3ヶ月の代議士生活の後、1979年に岩手県知事となって3期12年間を務めた。 鈴木善幸を政治の師と仰ぎ、知事在任中は三陸鉄道を鉄道としては全国で初の第三セクターにしているほか、岩手めんこいテレビの開局に尽力した。
清川 虹子(きよかわ にじこ、1912年11月24日 - 2… 清川 虹子(きよかわ にじこ、1912年11月24日 - 2002年5月24日)は、日本の女優。本名:関口 はな。千葉県東葛飾郡松戸町(現:松戸市)出身。淡路尋常小學校卒業、神田高等女學校中退。 1924年、東京府東京市神田区の尋常小學校を卒業。神田高等女學校を中退。1928年、川上貞奴主宰の児童劇団へ入団し、貞奴最後の弟子となる。1929年、市民座へ入り、座員の中条金之助と結婚(1男を儲けるが、のちに離婚)。同年、山村聡主宰の新劇へ移籍。1933年、笑の王国に参加。1934年、東宝製作の『只野凡児・人生勉強』でスクリーンデビュー。1942年、東宝社長の大沢善夫の弟である大沢清治と結婚して芸能界を引退したが、1947年に夫と死別。
仲 新(なか あらた、1912年11月24日 - 1985年… 仲 新(なか あらた、1912年11月24日 - 1985年8月7日)は、日本の教育学者。三重県出身。旧姓・矢口。1937年、東京帝国大学文学部教育学科卒。名古屋大学助教授、教授を経て、1962年に東京大学教育学部教授。1973年、定年退官、青山学院大学教授、のち日本大学教授。学校教育史、地方教育史を研究。地方教育史研究会会長。
佐野 周二(さの しゅうじ、1912年11月21日 - 19… 佐野 周二(さの しゅうじ、1912年11月21日 - 1978年12月21日)は、日本の俳優。本名は関口 正三郎(せきぐち しょうざぶろう)。 昭和初期から後期(1930年代後半〜1970年代)に活躍した二枚目スターの一人である。関口宏、佐野守の父で、関口知宏の祖父に当たる。上原謙、佐分利信とともに「松竹三羽烏」といわれ、松竹大船の第一号スターとされた。 東京市神田区東紺屋町(現在の東京都千代田区神田東紺屋町)に鳶職の父·亀次郎と母·マサの四男六女の6番目にあたる三男として生まれた。1925年に今川尋常小学校、1930年に成立商業、1933年に立教大学経済学部予科を卒業。大学時代は水泳部で、オリンピックの候補だった。
大久保 石松(おおくぼ いしまつ、1912年11月21日 -… 大久保 石松(おおくぼ いしまつ、1912年11月21日 - 2001年2月24日)は、日本の騎手、競走馬調教師。青森県八戸市出身。 騎手時代の1935年にキンチャンで阪神帝室御賞典(春)に優勝。1941年より調教師に転じ、第二次世界大戦を経て国営競馬、日本中央競馬会(JRA)で活動、1971年のビクトリアカップを制したタイヨウコトブキや、重賞4勝を挙げたエリモローラなどを管理した。1991年2月定年引退。 息子の大久保哲男は元JRA騎手。娘婿にそれぞれ門下生の高橋隆と沖芳夫。孫に高橋亮がいる。なお、名前が一文字違いの騎手・調教師に大久保福松と大久保房松がおり、後者とは同郷であるが、それぞれに近親関係はない。
関 嘉彦(せき よしひこ、1912年11月19日 - 200… 関 嘉彦(せき よしひこ、1912年11月19日 - 2006年5月4日)は、社会思想史家。政治家。東京都立大学名誉教授。法学博士(京都大学、1962年)。元参議院議員(1期)。イギリス労働党の日本における紹介者として知られる。福岡県福岡市生まれ。
本間 俊一(ほんま しゅんいち、1912年11月18日 - … 本間 俊一(ほんま しゅんいち、1912年11月18日 - 1958年8月20日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員。中新田町長、宮城県知事を務めた本間俊太郎は長男。 宮城県加美郡中新田町(現・加美町)出身。古川中学校(現・宮城県古川高等学校)、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。大学卒業後、1935年に中外商業新報社、1939年に読売新聞社に入社し社会部記者となる。その後、郷里に戻り、1945年8月に中新田町(現在の加美町)長となる。 1946年(昭和21年)第22回衆議院議員総選挙に日本進歩党から立候補し当選する。当選回数通算6回。第1次吉田内閣の農林参与官、第2次吉田内閣の通産政務次官、自由党副幹事長、衆議院決算委員長などを歴任した。
栗山 茂(くりやま しげる、1912年11月18日 - 20… 栗山 茂(くりやま しげる、1912年11月18日 - 2010年9月9日)は、日本の版画家。紐版画や紙版画など多彩で自在な試みを展開した。日本版画協会名誉会員。静岡県版画協会名誉会長。 静岡市鷹匠町に生まれる。雑誌『若草』で竹久夢二の絵にふれて憧れ、 同じ頃木版画を試作。のち青木四郎を介して知った浦田儀一の父(摺師)から版画の手ほどきを受ける。平塚運一や永瀬義郎の技法書にも学ぶ。1929年秋、小川龍彦、中村岳(仲蔵)、杉山正義、青木四郎とともに童土社結成。同年10月、童土社創作版画展第1回展開催。 1930年、中学卒業記念に同人誌『艸笛』を創刊、友人とともに版画や童謡、詩を寄せる。同年末、それぞれ個々に 版画誌を主催していた小川の『まるめろ』と中村の『有加利樹』に『艸笛』を統合、新たに『ゆうかり』を創刊。
板倉光馬(いたくら みつま、1912年(大正元年)11月18… 板倉光馬(いたくら みつま、1912年(大正元年)11月18日 - 2005年(平成17年)10月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少佐。福岡県小倉市(現、北九州市)出身。 3人兄弟の次男。当初は画家を志していたが、関門海峡を通過する聯合艦隊の美しさに魅せられ、海軍兵学校に志望を変更したという。旧制福岡県立小倉中学校より海軍兵学校の第61期に入校した。卒業席次は116名中7位。少尉候補生時代には問題児として名を馳せ、遠洋航海時には始末書を8枚という記録を作った。一方では、誰もが調査を諦めた訓練時のトラブルの原因を、根気よく調べ続けてついにつきとめるといった功績も残している。 1935年(昭和10年)少尉任官。
大野 元美(おおの もとよし、1912年〈大正元年〉11月1… 大野 元美(おおの もとよし、1912年〈大正元年〉11月17日 - 1982年〈昭和57年〉4月19日)は、日本の政治家、実業家。埼玉県川口市長(第8・9・10・11・13・14代)。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 長男はライオンズクラブ国際理事やゼネラル・サービス代表取締役社長を務めた大野元昭。孫は第61代埼玉県知事の大野元裕。 埼玉県北足立郡川口町(現・川口市)出身。父は元川口市会議員の大野元次郎。1933年(昭和8年)3月、明治大学専門部商科を卒業。大野電機鋳造所社長に就任。 埼玉県水泳連盟会長、県教育委員、川口市議会議員などの公職を経て、1957年(昭和32年)2月から1972年(昭和47年)4月までの4期、1976年(昭和51年)5月から1981年(昭和56年)4月までの2期、通算6期22年の長きにわたり川口市長を務めた。
大佐古 一郎(おおさこ いちろう、1912年(大正元年)11… 大佐古 一郎(おおさこ いちろう、1912年(大正元年)11月15日 - 1995年(平成7年))は、昭和時代のジャーナリスト・著作家。広島市での原爆被災をはさむ長い時期にわたって、在広島の地方紙である中国新聞の記者を務めた。 広島県山県郡壬生町(現・北広島町)生まれ。1933年に(旧制)山陽中学を卒業したのち日本大学予科に入学。同大学文学部に学んだのち、標準教科書出版協会・哈爾濱日日新聞社を経て、1939年中国新聞社に入社。この間、中国大陸で兵役に就く。県政(広島県庁・中国総監府)担当記者であった33歳時、1945年8月6日に原爆に被災した。同社が壊滅して幹部・同僚記者が多数被爆死し、また敗戦後の枕崎台風によって疎開先の印刷工場も機能停止に陥るなか、辛くも生き延びて戦後の再建に参加した。
滝田 菊江(たきた きくえ、1912年11月15日 - 19… 滝田 菊江(たきた きくえ、1912年11月15日 - 1949年8月6日)は、昭和時代の声楽家。 東京府立第二高等女学校を経て、東洋音楽学校(本科声楽科)卒。ソプラノを専攻。日本ビクター入社後、同社合唱団の一員となり、1936年(昭和11年)からビクター専属歌手としての経歴が始まる。藤原歌劇団のプリマドンナとして活躍したが、三十代で病没した。 父は総合雑誌『中央公論』の名編集者として知られる滝田樗陰で、その三女。滝田菊江の「デビューのときは、かつて樗陰の庇護を受けた文壇大家が、こぞって後援したので、舞台より客席のほうが豪華版だと評判になった」という。 1943年の東宝映画「音楽大進軍」(渡辺邦男監督)に藤原義江(本人役)の妻という設定で出演していて、藤原義江とともに「愛国行進曲」とプッチーニ「トスカ」二重唱を歌唱する姿を見ることができる。
北楯 修哉(きただて しゅうや、1912年11月15日 - … 北楯 修哉(きただて しゅうや、1912年11月15日 - 1997年1月31日)は、将棋棋士、九段。木村義雄十四世名人門下。棋士番号は24。山形県鶴岡市出身。 (棋士番号の割り当てがない棋士 → 「template:日本将棋連盟引退棋士」参照) この項目は、将棋の棋士(女流棋士・アマチュアを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:ボードゲーム/プロジェクト:人物伝)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
今福 祝(いまふく はじめ、1912年〈大正元年〉11月14… 今福 祝(いまふく はじめ、1912年〈大正元年〉11月14日 - 1978年〈昭和53年〉6月8日)はNHKの元アナウンサー。 東京都生まれ。神奈川県育ち。1934年に早稲田大学専門部政治経済学科を卒業後、損害保険会社勤務を経て日本放送協会の仙台局へ入局。アナウンサーとしての最初の仕事は、宝塚歌劇団の紹介だった。 その後は東京アナウンス室へ移り、戦前は東部軍管区情報、東京大空襲を含む空襲警報、各所の玉砕のニュース、広島への原爆投下。戦後はスターリン死去、安保闘争、新潟地震、連続航空機事故(全日空羽田沖墜落事故、カナダ太平洋航空402便着陸失敗事故、英国海外航空機空中分解事故)等、後年に語られるニュースを伝える。
村山 又芳(むらやま またよし、1912年11月13日 - … 村山 又芳(むらやま またよし、1912年11月13日 - 1945年5月)は、日本の競泳・ボート競技選手。1932年ロサンゼルスオリンピックにボート競技の代表選手として出場した。 埼玉県秩父郡野上村(現・長瀞町)に生まれる。旧制野上小学、旧制熊谷中学を経て、慶應義塾大学に進学した。1929年、第5回明治神宮競技大会の水泳大会に出場した。慶應義塾大学ではボート部に所属し、数多の大会で優勝する。また、1932年ロサンゼルスオリンピックでは、ボートかじ付きフォアの日本代表に選ばれる。かじ付きフォア日本代表は、敗者復活戦で敗退する。 1936年3月に慶應義塾大学経済学部を卒業した。 1945年5月に死去した。
久美 京子(くみ きょうこ、1912年11月13日 - 19… 久美 京子(くみ きょうこ、1912年11月13日 - 1980年2月12日)は、日本の女優、昭和期の宝塚歌劇団花組主演娘役のタカラジェンヌで宝塚歌劇団卒業生である。大阪府大阪市西区出身。 以前の芸名は、万葉集で大伴家持が詠んだ久邇京讃歌に因んだ久邇 京子(くに きょうこ)であったが、当時「久邇」の文字が皇族の久邇宮家と同じであるという指摘があり、「幾久しく美しくあれ」の意味をこめた「久美」に改名した経緯があった。 本名は萩原 貞子(はぎわら さだこ、旧姓:中村)。愛称はサァちゃん(本名の貞子から)。 1930年、大阪府立市岡高等女学校(現・大阪府立港高等学校)卒業後に、宝塚音楽歌劇学校(現在の宝塚音楽学校)に入学して、宝塚少女歌劇団(現在の宝塚歌劇団)に入団。
岡崎 正春(おかざき まさはる、1912年11月12日 - … 岡崎 正春(おかざき まさはる、1912年11月12日 - 2006年6月30日)は、日本の経営者。東洋ゴム工業(現在のTOYO TIRE)社長・会長を務めた。福井県坂井郡芦原町(現在のあわら市)出身。 1934年に大阪外国語学校英語部を卒業し、東洋紡での勤務を経て、東洋ゴム工業に入社した。1959年に取締役に就任し、1961年5月に常務、1962年11月に専務を経て、1965年5月に副社長に就任し、1977年6月には社長に昇格した。1983年6月に会長に就任し、1986年6月には相談役に就任した。 1979年11月に藍綬褒章を受章し、1985年4月に勲二等旭日重光章を受章した。 2006年6月30日、呼吸不全によって死去した。
小林 康治(こばやし こうじ 1912年11月12日 - 1… 小林 康治(こばやし こうじ 1912年11月12日 - 1992年2月3日)は、東京出身の俳人。 渋谷生まれ。青山学院中等部卒。1938年、根岸麦寸の「燈影会」で俳句を学ぶ。1940年、「鶴」に入会し石田波郷に師事。1943年応召、1945年傷病兵として帰還。1953年、「鶴」復刊号発表の「四季貧窮」48句にて注目を浴びる。同年「鶴」同人、第1回鶴俳句賞受賞。1963年、『玄霜』にて第3回俳人協会賞受賞。1974年、「泉」を創刊・主宰。1980年、「泉」を辞し「林」を創刊・主宰。代表句「たかんなの光りて竹となりにけり」他。波郷の唱導する韻文精神を尊重し骨格のたしかな句を詠んだ。句集に『四季貧窮』『玄霜』『華髪』『叢林』『存念』『虚実』など。
佐々木 猛(ささき たけし、1912年11月11日 - 没年… 佐々木 猛(ささき たけし、1912年11月11日 - 没年不明)は、日本の競馬騎手、調教師。 1931年に騎手デビュー。1939年に騎乗馬ホシホマレで阪神優駿牝馬(オークス)を制した。1957年より調教師に転じ、1974年の桜花賞優勝馬タカエノカオリなどを管理し、1990年に引退。日本中央競馬会(JRA)調教師の佐々木亜良(つぐよし)は長男。 1912年、北海道函館市の農家に生まれる。3人いた叔父がそれぞれ高等馬車の御者を務めており、その姿に憧れて馬に関わる仕事を志した。1928年、叔父の紹介で札幌競馬倶楽部(札幌競馬場)の稗田虎伊厩舎に入門し、1931年7月に騎手としてデビュー。8月7日に騎乗馬エベツで初勝利を挙げた。
菊池 謙一(きくち けんいち、1912年11月10日 - 1… 菊池 謙一(きくち けんいち、1912年11月10日 - 1970年2月12日)は、日本の農村運動家、日本共産党員。 和歌山市出身。1938年東京帝国大学文学部西洋史科卒業。都新聞記者から世界経済調査会米国経済研究所に転じた。戦争で長野県に疎開。戦後、長野県で日本共産党に入党し、農村運動に従事する。ソ連のヤロビ農法を広め、日本ミチューリン会創設に尽力。その影響は全国に及び26年、ミチューリン会誕生時には約3000人の会員がいた。
曺 在千(チョ・ジェチョン、朝鮮語: 조재천、1912年11… 曺 在千(チョ・ジェチョン、朝鮮語: 조재천、1912年11月9日または11月19日 - 1970年7月5日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、裁判官、検察官、警察官、政治家。慶尚北道知事、法務部長官、内務部長官、第3~6代韓国国会議員を歴任した。 本貫は昌寧曺氏(朝鮮語版)、号は逸雲(イルン、일운)。カトリック教徒。政治家の曺国鉉は親戚。 全羅南道光陽郡津月面またはソウルまたは慶尚北道達城郡出身。1933年大邱師範学校講習科卒。全羅北道青蝦公立普通学校教師、全羅北道南原公立普通学校訓導、全羅北道産業部農務科嘱託を経て、1940年中央大学法学科卒業または中退。在学中の1940年8月朝鮮弁護士試験合格、同年10月日本高等文官試験司法科合格。
陣内 傳之助(じんない でんのすけ、 1912年11月8日 … 陣内 傳之助(じんない でんのすけ、 1912年11月8日 - 1987年8月30日)は、日本の外科医。大阪大学医学部名誉教授、近畿大学医学部名誉教授、近畿大学医学部附属病院初代院長。
島崎 敏樹(しまざき としき、1912年11月8日 - 19… 島崎 敏樹(しまざき としき、1912年11月8日 - 1975年3月17日)は、日本の医学者、精神科医。専門は精神病理学。東京医科歯科大学名誉教授。医学博士。 東京医科歯科大学医学部精神医学教室初代教授となり、日本における精神病理学の礎を築いた。西丸四方、村上仁らと共に、日本の精神病理学第一世代を代表する人物である。 村上仁、西丸四方らと共に、日本の精神病理学第一世代を代表する人物である。精神医学の基礎領域である精神病理学を広く精神科臨床に根付かせるなど、日本の精神医学の発展に大きく貢献した。島崎は人間を「個々の症状の寄せ木細工としてでなく、人格の深みから孤立化していく人間像としてとらえなおそう」とする学風で知られており、主論文『精神分裂病における人格の自律性の意識の障碍』は日本における精神病理学の嚆矢となった。
鈴木 二郎(すずき じろう、1912年11月8日 - 没年不… 鈴木 二郎(すずき じろう、1912年11月8日 - 没年不明)は、日本の経営者、工学博士。古河電気工業社長を務めた。東京都出身。 1935年に東京工業大学電気工学科を卒業し、同年に古河電気工業に入社。1962年11月に取締役に就任し、1964年6月に常務を経て、1968年11月には社長に就任。1974年11月から1975年5月までに会長を務めた。 1974年9月に藍綬褒章を受章し、1983年4月に勲二等瑞宝章を受章。
大西 正道(おおにし せいどう、1912年(大正元年)11月… 大西 正道(おおにし せいどう、1912年(大正元年)11月7日 - 1960年(昭和35年)7月15日)は、大正から昭和期の教育者、労働運動家、政治家。衆議院議員(3期)。 兵庫県飾磨郡花田村(現姫路市花田町)で生まれる。姫路師範学校をへて、1939年(昭和14年)日本大学高等師範部を卒業した。 1939年から兵庫県、東京都、青森県の小学校訓導を務め、青森県立弘前高等女学校(現青森県立弘前中央高等学校)教諭に就任。戦後、労働組合運動に加わり、日本教職員組合が結成されると同中央執行委員、その後、同副委員長に就任した。その他、中央教育復興会議幹事長、ユネスコ全国連盟常任委員、世界連邦建設同盟常任理事、文部省教科書検定委員、全日本仏教会参与などを務めた。
太田 博太郎(おおた ひろたろう、1912年11月5日 - … 太田 博太郎(おおた ひろたろう、1912年11月5日 - 2007年1月19日)は、日本の建築史家。東京大学名誉教授。日本学士院会員。九州芸術工科大学学長等をつとめた。 1912年、東京生まれ。誠之小学校を経て、1932年旧制武蔵高等学校を卒業。この頃から建築史に関心を深め、奈良・京都の古建築に親しんだ。1935年、卒業論文「東大寺南大門の研究」を提出して、東京帝国大学工学部建築学科を卒業した。 1937年、妙成寺国宝建造物修理事務所助手となり、1939年、法隆寺国宝保存工事事務所助手となる。1943年、東京帝国大学助教授に就任。1960年、東京大学教授。1957年、学位論文『中世建築の基礎的研究』を東京大学に提出して工学博士の学位を取得。
山本 登(やまもと のぼる、1912年〈大正元年〉11月5日… 山本 登(やまもと のぼる、1912年〈大正元年〉11月5日 - 1991年〈平成3年〉7月2日 )は、日本の経済学者、慶應義塾大学名誉教授。専門は植民政策学と国際経済学。 1912年、現在の東京都大田区大森で生まれる。1919年に入新井尋常高等小学校に入学、1921年に慶應義塾幼稚舎に編入。慶應義塾普通部を経て、1929年に慶應義塾大学経済学部予科入学。統計学者の寺尾琢磨に師事。 1935年同大学卒業、慶應義塾大学経済学部助手に就任、東南アジア学及び植民政策学、世界経済論を講義を担当する。ジャワ軍政監部調査部調査室主査となり、第二次世界大戦中は南洋経済・南方経済の研究に着手。大日本拓殖学会などに頻繁に論文を掲載し、開発経済学を研究した。
佐藤 儀一郎(さとう ぎいちろう、1912年11月5日 - … 佐藤 儀一郎(さとう ぎいちろう、1912年11月5日 - 1997年6月13日)は日本の柔道家(講道館9段)、政治家。 宮城県角田市坂津田出身。1928年に旧制東北中学校(現・東北高等学校)を卒業。病弱な体を克服するために柔道を始めて恩師・佐久間弥太郎より厳しい指導を受け、後には高橋喜三郎、高橋勇蔵らにも師事した。記録上の講道館入門は1930年12月8日付だが、関東・東北・北海道柔道大会では同年と翌31年に個人戦・団体戦とも連覇を達成。身長180cm・体重95kgの恵まれた体躯と、得意技である固技や横捨身技が武器であった。 1934年より5年間は仙台鉄道局に籍を置き、1940年より6年間は旧制第二高校(現・東北大学)の柔道師範を務めた。
山崎 正一(やまざき まさかず、1912年11月4日 - 1… 山崎 正一(やまざき まさかず、1912年11月4日 - 1997年8月17日)は、日本の哲学者。東大名誉教授。臨済宗の僧侶。谷中・興禅寺先住職。
勝田 正之(しょうだ まさゆき、1912年11月2日 - 1… 勝田 正之(しょうだ まさゆき、1912年11月2日 - 1991年10月20日)は、日本の実業家である。東京府で生まれ、日本電子計算で社長を務めた。 父の久貫(ひさつら)は陸軍大佐で、1982年3月13日に103歳で他界した。弟の恭行は、東大工学部機械工学科卒業後三菱商事で勤務し、安倍源基の三女と結婚した。 大蔵大臣勝田主計は、父の兄で伯父である。日本債券信用銀行頭取勝田龍夫は、主計の四男で正之の従兄である。テレビ朝日アナウンサー勝田和宏は、主計の曾孫で龍夫の甥である。 正之の配偶者寿々子は、三菱財閥岩崎弥太郎の三男である岩崎康弥と、慶應義塾医学所初代校長松山棟庵の四女である松山とし夫妻の四女である。
藤田 若雄(ふじた わかお、1912年11月2日 - 197… 藤田 若雄(ふじた わかお、1912年11月2日 - 1977年1月2日)は、日本の法学者。専門は労働法。東京大学名誉教授。 北海道出身。東京帝国大学法学部卒。 住友鉱業に入社、1946年職員組合委員長。西南学院専門学校講師、1949年東京大学社会科学研究所助手、1950年講師、1968年教授。1973年定年退官、名誉教授、国際基督教大学教授。労働組合を誓約集団ととらえる理論を展開した。矢内原忠雄に学んだキリスト教徒。旧蔵資料は専修大学図書館に「藤田若雄文庫」として遺る。
小沢 正夫(おざわ まさお、1912年11月 - 2005年… 小沢 正夫(おざわ まさお、1912年11月 - 2005年)は、日本の国文学者、愛知県立大学名誉教授。 1912年、東京で生まれた。本籍・茨城県古河市。暁星中学校、浦和高等学校を卒業し、東京帝国大学国文科に進んだ。1935年に同大学を卒業。 1936年より愛知淑徳高等女学校教諭として勤務。1938年からは愛知県第一高等女学校教諭として勤務した。 太平洋戦争後の1947年、愛知県立女子専門学校教授に就いた。1950年に同専門学校が愛知県立女子短期大学となると、同大学助教授となった。1957年に教授昇格。1961年、学位論文『古代歌学の形成についての研究』を東京大学に提出して文学博士号を取得。1966年、愛知県立大学教授に転じた。
大形 太郎(おおがた たろう、1912年(大正元年)11月 … 大形 太郎(おおがた たろう、1912年(大正元年)11月 - 1948年(昭和23年)11月16日)は日本の政治活動家、経済学者。 1912年(大正元年)11月に三重県鵜方村(現・志摩市)に生まれる。立命館大学予科をへて、1938年(昭和13年)に法政大学経済学部を卒業する。同年、都新聞に入社し、1942年(昭和17年)に退社、法政大学大学院に入り広域経済理論を専攻する。法政大学助手、東急電鉄調査課などで勤務し、応召され日本海軍に入隊する。 戦後、日本共産党に入党し、「アカハタ」編集部員、茨城県地区責任者、地方委員、党本部出版部書籍編集委員などを務める。 1948年(昭和23年)11月16日、国鉄池袋駅貨物列車引き込み路線上で轢死体で発見された。
紀藤 信義(きとう のぶよし、1912年〈大正元年〉10月3… 紀藤 信義(きとう のぶよし、1912年〈大正元年〉10月31日 - 没年不明)は、日本の政治家、文学博士。広島大学名誉教授。広島修道大学法学部教授。 山口県厚狭郡船木町(現・宇部市)出身。紀藤常助の二男。1937年、広島文理科大学文学部史学科を卒業。同年4月、北海道旭川師範学校教授。1943年6月、海軍教授となり海兵教官にて終戦。 1947年4月、山口県厚狭郡船木町町長に当選する。1948年7月、広島高等師範学校教授。1957年、琉球大学臨時講師。1964年、学位を受く。1976年、広島大学文学部教授の職を停年退任する。 著書は『近代化概念の展開と民主主義思想の発展』、『イギリス初期独占の研究』などがある。
吉田 新吾(よしだ しんご、1912年10月30日 - 19… 吉田 新吾(よしだ しんご、1912年10月30日 - 1966年10月28日)は、日本の英文学者。 広島高等師範学校卒。旅順の中学校で英語教師を務めたのち、1942年京都帝国大学文学部英文科入学、46年卒業。64年「チョーサー研究」で京都大学文学博士。大阪市立大学文学部助教授、英文科主任教授。専門はチョーサー。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
松井 誠(まつい まこと、1912年(大正元年)10月29日… 松井 誠(まつい まこと、1912年(大正元年)10月29日 - 1972年(昭和47年)11月10日)は、昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員、参議院議員。 新潟県佐渡郡真野村(真野町を経て現佐渡市)で生まれる。両親は父の勤務地の朝鮮在住のため祖父母の元で成長した。佐渡中学校(現新潟県立佐渡高等学校)、第四高等学校(首席卒業)を経て、東京帝国大学法学部法律学科に進学。1935年(昭和10年)高等試験行政科試験、同司法科試験に合格。1936年(昭和11年)同大学を卒業し、満州国国務院司法部の司法官となるが、病のため1940年(昭和15年)に退官した。義兄が勤務していた京城医学専門学校附属医院で療養後、東京帝国大学医学部附属病院に転院し、退院して1944年(昭和19年)東京の前野法律事務所で弁護士として勤めた。
奈良 武衛(なら たけえ、1912年10月28日 - 201… 奈良 武衛(なら たけえ、1912年10月28日 - 2011年4月13日)は日本の大蔵官僚、税理士。東京国税局調査第二部長、高松国税局長を務める。東京都小金井市東町在住。 山梨県大月市出身。山梨県立都留中学校卒業。1931年4月 都留税務署臨時雇用。1932年4月 大蔵省主税局。1935年3月 日本大学専門部法律科本科卒業。1936年7月 日本橋税務署。1942年10月 大臣官房秘書課。1950年5月 大宮税務署長。1954年7月 淀橋税務署長。1960年7月 東京国税局総務部人事課長。1962年7月 京橋税務署長。1964年7月 東京国税局調査第一部次長。1966年7月 東京国税局協議団本部長。
原 敬吾(はら けいご、1912年10月28日 - 1975… 原 敬吾(はら けいご、1912年10月28日 - 1975年3月24日)は、日本史学者。 東京生まれ。1936年東京帝国大学文学部国史学科卒。東京大学史料編纂所所員を経て、学習院女子短期大学教授。日本宗教史が専門。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
吉澤 洸(よしざわ たけし、1912年10月26日 - 19… 吉澤 洸(よしざわ たけし、1912年10月26日 - 1997年12月8日)は、日本の経営者。NTN社長、会長を務めた。 東京都出身。1936年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年4月に日本銀行に入行。1967年4月に理事に就任し、同年5月に大阪支店長を経て、1971年4月から1977年4月までに東京銀行顧問を務めた。1975年5月にエヌ・テー・エヌ東洋ベアリング(のちのNTN)監査役に就任し、1977年6月に会長を経て、1978年6月には社長に就任。1987年1月には再び会長に就任し、1989年6月には相談役に就任。 1987年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1997年12月8日急性心筋梗塞のために死去。
塙 英夫(はなわ ひでお、1912年10月25日 - 198… 塙 英夫(はなわ ひでお、1912年10月25日 - 1988年2月20日)は、日本の作家、翻訳家、左翼活動家。 東京生まれ。本名・正。千葉県立旧制匝嵯中学校を経て第一高等学校に進学するが、伊藤律らと非合法政治活動に加わり、1931年に校友会雑誌に発表したものが問題となり検挙され中退。満州に渡り農村工作に当たる。 1941年、「アルカリ地帯」が『中央公論』懸賞小説に当選し掲載。一方で検挙され奉天の監獄に入る。 敗戦後、引き揚げの手助けをして1947年帰国。1953年、引き揚げの経験を描いた『背教徒』で芥川賞候補、同年「すべて世はこともなし」で再度候補。 日本教職員組合関係の仕事に就いて翻訳を行った。
川端 喜久治(かわばた きくじ、1912年10月25日 - … 川端 喜久治(かわばた きくじ、1912年10月25日 - 1982年9月18日)は、香川県三豊郡観音寺町大字伊吹(現・観音寺市伊吹町、伊吹島)出身の政治家。伊吹村議会議員、観音寺市議会議員、観音寺市議会議長。 1912年(大正元年)10月25日、香川県三豊郡観音寺町大字伊吹(後の三豊郡伊吹村、現在の観音寺市伊吹町)に篠原三吉の五男として生まれ、川端虎吉の養子となった。1925年(大正14年)3月に観音寺町立伊吹尋常高等小学校を卒業した。 1932年(昭和7年)12月には応召されて佐世保海兵団に入隊し、支那事変や大東亜戦争に参加した。1945年(昭和20年)9月に召集解除されて帰郷した。 川端家の家業である漁業を継ぐと、鯛さわら縛網漁、いわし巾着網漁、いわしパッチ網漁、伊吹いりこの製造等を行い、また漁具や漁法の改良に努めた。
孝橋 正一(こうはし しょういち、1912年10月24日 -… 孝橋 正一(こうはし しょういち、1912年10月24日 - 1999年)は、日本の社会福祉学者。 兵庫県出身。1935年京都帝国大学経済学部卒。1938年治安維持法違反で逮捕される。戦後、大阪社会事業短期大学助教授、教授、1965年「救貧史の研究 特に救貧政策の歴史的実証的研究」で東洋大学より文学博士の学位を取得。1968年龍谷大学教授、1973年東洋大学教授。1979年佛教大学教授。83年定年退任。社会事業を社会科学的方法論に基づいて研究した。社会主義、仏教にも関心があった。
杉山 正一(すぎやま まさかず、1912年10月23日 - … 杉山 正一(すぎやま まさかず、1912年10月23日 - 1976年12月17日)は、日本の実業家。荏原製作所社長を務めた。 和歌山県出身。1935年に大阪帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に荏原製作所に入社。 1962年12月に取締役に就任し、1970年12月に常務、1973年3月に専務を経て、1976年4月には社長に就任。 1976年12月17日、急性肝不全のために死去。64歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
安田 貴六(やすだ きろく、1912年(大正元年)10月21… 安田 貴六(やすだ きろく、1912年(大正元年)10月21日 - 1984年(昭和59年)10月9日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員(当選4回)。 福島県須賀川市出身。1932年福島県立安積中学校(現・福島県立安積高等学校)卒。北海道庁に入り、十勝、日高各支庁長、農務部長、副知事を歴任する。1969年の第32回衆議院議員総選挙で北海道5区から自民党公認で立候補して当選した。その後、経済企画、北海道開発、自治の各政務次官を務めた。1983年の第37回衆議院議員総選挙で落選。 翌1984年10月9日、死去。71歳没。同月12日、特旨を以て位記を追賜され、死没日付で従四位勲二等に叙され、瑞宝章を追贈された。
榛葉 英治(しんば えいじ、1912年〈大正元年〉10月21… 榛葉 英治(しんば えいじ、1912年〈大正元年〉10月21日 - 1999年〈平成11年〉2月20日)は、日本の小説家である。 静岡県掛川市生まれ。静岡県立掛川中学校(現在の静岡県立掛川西高等学校)を経て、早稲田大学英文科卒業。満洲国外交部に勤める。敗戦後引き揚げ、仙台市の東北連絡調整事務局に勤務したが、1948年、辞職、上京して創作活動に専念、多くの通俗小説を書く。初期作品に『渦』『淵』『流れ』三部作がある。1958年の『赤い雪』は敗戦時の満洲の混乱を描き、直木賞受賞。 外祖父の村岡素一郎は民間史論家で、徳川家康の出自に関して独自の研究を行った。
道上 伯(みちがみ はく、1912年10月21日 - 200… 道上 伯(みちがみ はく、1912年10月21日 - 2002年8月4日)は、日本の柔道家である。講道館七段、フランス柔道連盟九段。 愛媛県八幡浜市出身。1926年、愛媛県立八幡浜商業学校(のちの県立八幡浜高校)入学を機に柔道を始める。1927年に大日本武徳会柔道初段を取得。しかし実際は1926年の時点で既に昇段審査を通過しており、13歳という当時としては異例の若さでの合格だった為、試験官の一存によりこの時点での昇段は見送られていた。その後、15歳の誕生日を迎えた時に改めて正式に初段の段位を与えられている。 1929年、武徳会二段を取得。1930年、アメリカ渡航の夢を抱き、誰にも告げずに八幡浜から出奔。
吉田 善彦(よしだ よしひこ、1912年(大正元年)10月2… 吉田 善彦(よしだ よしひこ、1912年(大正元年)10月21日 - 2001年(平成13年)11月29日)は、東京都出身の日本の日本画家、教育者。本名誠二郎。
田鍋 健(たなべ まさる 1912年 <大正元年> 10月2… 田鍋 健(たなべ まさる 1912年 <大正元年> 10月21日 - 1993年 <平成5年> 8月2日)は、日本の実業家。積水ハウス元会長・社長。 大阪府大阪市出身。東京帝国大学卒業後、1936年に日本窒素肥料株式会社入社。1950年、新日本窒素肥料株式会社(現・チッソ株式会社)熊本営業所長。戦後、積水化学工業株式会社に入社。1955年に同取締役、1957年に同専務取締役就任。1963年に積水ハウス代表取締役社長に就任。累積赤字のふくらんだ同社を合理化と近代化で再建、プレハブ業界トップに育て上げた。1992年同会長就任。1977年 藍綬褒章受章。1984年勲二等瑞宝章 (現 瑞宝重光章)受章。