若松 栄一(わかまつ えいいち、1914年〈大正3年〉11月… 若松 栄一(わかまつ えいいち、1914年〈大正3年〉11月22日 - 1987年〈昭和62年〉9月13日)は、日本の厚生技官、医師。医学博士。元厚生省医務局長、国立身体障害者リハビリテーションセンター初代総長。日本公衆衛生学会名誉会員。 新潟県新潟市東堀通13番町(現 新潟市中央区東堀通13番町)の新潟県農工銀行職員・若松重太郎の次男として出生。 1931年(昭和6年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1934年(昭和9年)3月に新潟高等学校を卒業、1938年(昭和13年)3月に新潟医科大学を卒業。 1938年(昭和13年)4月に新潟医科大学病理学教室(教授:赤崎兼義)副手に就任、1940年(昭和15年)7月に助手に就任。
内藤 知周(ないとう ともちか、1914年11月20日 - … 内藤 知周(ないとう ともちか、1914年11月20日 - 1974年5月16日)は、社会運動家で、政治運動家。 出典は『内藤知周著作集』。 神奈川県横須賀市生まれ。1932年神奈川県立横須賀中学校(現・神奈川県立横須賀高等学校)卒業。1937年中央大学専門部法学科卒業。1941年東北帝国大学法文学部経済学科卒業。在学中に学生運動に加わり、1938年に検挙され無期停学。卒業後、繊維需給調整協議会に就職。大日本帝国陸軍自動車第31連隊に召集を受け、中国河北へ。 1946年に復員し、日本共産党に入る。同党山口県委員として徳山市で活躍。1948年同党地方委員・常任委員。1952年同党労対書記・政策委員会書記。
見坊 豪紀(けんぼう ひでとし、1914年11月20日 - … 見坊 豪紀(けんぼう ひでとし、1914年11月20日 - 1992年10月21日)は、日本の日本語学者・辞書編纂者。『明解国語辞典』『三省堂国語辞典』の編纂者として知られ、「ケンボー先生」と親しまれる。 東京府出身(本籍は岩手県盛岡市)。青森県、福島県、当時の南満州を経て、1932年、旧制山口高校入学。1年の病気休学期間を経て卒業。 1936年、上京して東京帝国大学文学部国文科に入学。同期には後に『明解国語辞典』に補助的な立場で関わる山田忠雄がいる。1939年、卒業。その後、同大学大学院に進学。 大学院在学中、金田一京助の紹介で『明解国語辞典』(三省堂)の編纂に当たる。この辞書は、基本的な項目は当時の『小辞林』に基づいているものの、ほぼ見坊の独力により編纂され、「金田一京助編」と冠して1943年に刊行された(1952年に改訂版)。
武邑 尚邦(たけむら しょうほう、1914年11月20日 -… 武邑 尚邦(たけむら しょうほう、1914年11月20日 - 2004年8月19日)は、日本の仏教学者・僧侶。東京大学仏教文化研究所で高楠順次郎に師事、龍谷大学に奉職、因明学と真宗学を中心に研究、龍谷大学学長・浄土真宗本願寺派勧学寮頭を務めた。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。
若狭 得治(わかさ とくじ、1914年〈大正3年〉11月19… 若狭 得治(わかさ とくじ、1914年〈大正3年〉11月19日 - 2005年〈平成17年〉12月27日)は、日本の運輸官僚、実業家。運輸事務次官、全日本空輸社長・会長・名誉会長を歴任した。親族に若狭和朋(甥)がいる。 富山県出身。富山県立砺波中学校、旧制富山高校を経て、東京帝国大学に入学した。 1937年(昭和12年)9月、東京帝大法学部政治学科在学中に高等試験行政科に3500人中の32番目で合格した。官庁訪問に際し、若狭は同郷で内務省地方局に所属していた片岡清一に尋ねていた。片岡は若狭に対し、「内務省は、警保局(警察行政全般を指揮していた警察庁の前身)の連中が日ごとに軍人気取りで威張り出してきた。
郷倉 和子(ごうくら かずこ、1914年11月16日 - 2… 郷倉 和子(ごうくら かずこ、1914年11月16日 - 2016年4月12日)は、日本の画家、日本芸術院会員。 日本画家郷倉千靭(ごうくら せんじん)の長女として東京に生まれる。1935年女子美術専門学校日本画科卒業、1937年安田靫彦に師事、院展に出品を続け、1957年日本美術院賞、1960年院展同人、1970年院展文部大臣賞、1984年院展内閣総理大臣賞、1989年日本芸術院賞・恩賜賞受賞、1992年勲四等宝冠章、1997年日本芸術院会員、2002年文化功労者。花鳥画が多い。 2013年11月、99歳(白寿)の誕生日を祝って企画された「白寿記念 郷倉和子展 心の調べ」が富山県立近代美術館で開催された。
野口 三千三(のぐち みちぞう、1914年〈大正3年〉11月… 野口 三千三(のぐち みちぞう、1914年〈大正3年〉11月16日 - 1998年〈平成10年〉3月29日)は、野口体操の創始者。東京芸術大学名誉教授。群馬県北群馬郡駒寄村(現・吉岡町)出身。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:スポーツ/PJ:スポーツ人物伝)。
幾瀬 マサ(いくせ マサ、1914年11月13日 - 201… 幾瀬 マサ(いくせ マサ、1914年11月13日 - 2011年2月22日)は、日本の植物学者。専門分野は花粉学、形態学。東邦大学名誉教授。 埼玉県出身。埼玉県立熊谷高等女学校(現在の埼玉県立熊谷女子高等学校)を卒業後の1931年、帝国女子医学薬学専門学校(現在の東邦大学)薬学科に入学した。1935年、卒業と同時に薬用植物学教室の助手に採用され、久内清孝の指導をうけた。 1940年、同校薬学科の講師、1944年に助教授となった。 1949年より花粉粒の研究に専念し、190科2300種の花粉粒を著書「日本植物の花粉」にまとめ刊行。本研究を主論文として、1957年に東京大学より薬学博士号を取得した。
三淵 嘉子(みぶち よしこ、1914年〈大正3年〉11月13… 三淵 嘉子(みぶち よしこ、1914年〈大正3年〉11月13日 - 1984年〈昭和59年〉5月28日)は、日本初の女性弁護士の1人であり、初の女性判事および家庭裁判所長。旧姓:和田()、旧々姓:武藤()。従三位。 台湾銀行勤務の武藤貞雄とノブの長女として、シンガポールにて生まれる。シンガポールの漢字表記のひとつである「新嘉坡」から「嘉子」と名付けられた。 東京府青山師範学校附属小学校(現在の東京学芸大学附属世田谷小学校)を経て東京女子高等師範学校附属高等女学校(現在のお茶の水女子大学附属高等学校)を卒業した際に、進歩的な考えを持つ父に影響を受け法律を学ぶことを決意し、当時女子に唯一法学の門戸を開いていた明治大学専門部女子部法科に入学した。
丸木 清美(まるき せいみ、1914年(大正3年)11月12… 丸木 清美(まるき せいみ、1914年(大正3年)11月12日 - 1994年(平成6年)8月27日)は、日本の医師、精神科医、政治家、教育者。 埼玉医科大学創立者。日本医科大学卒業、医学博士(東京大学)。 埼玉県入間郡毛呂村(現毛呂山町)生まれ。旧制埼玉県立川越中学校から、1939年(昭和14年)3月に日本医科大学を卒業後、東京帝国大学(現東京大学)精神科教室に入局。教授は内村祐之。医学博士(東京大学)、同年10月海軍軍医(中尉)。1944年(昭和19年)少佐。1947年(昭和22年)に祖父の丸木清太郎が創設した毛呂病院の院長となった。1949年(昭和24年)精神薄弱児施設(現障害児入所施設)育心寮を、1950年(昭和25年)救護施設育心寮を開設。
大塚 徳郎(おおつか とくろう、1914年11月12日 - … 大塚 徳郎(おおつか とくろう、1914年11月12日 - 2002年9月16日)は、日本史学者。宮城教育大学名誉教授。平安時代政治史が専門。 東京府東京市(現・東京都渋谷区)出身。1939年東京文理科大学卒、1965年「平安初期政治史研究」で東京教育大学文学博士。 東北大学教養部助教授、宮城教育大学教授、1978年学長となり、のち名誉教授。1987年勲二等旭日重光章受勲。
白 南檍(ペク・ナモク、朝鮮語: 백남억、1914年11月1… 白 南檍(ペク・ナモク、朝鮮語: 백남억、1914年11月11日 - 2001年1月15日)は、日本統治時代の朝鮮の鉄道官僚、大韓民国の教育者、政治家。初代大邱大学(現・嶺南大学校)大学院長、参議員・第6・7・8・9代韓国国会議員を歴任した。 本貫は水原白氏。漢字表記は白南憶とも。国民大学校経商大学学長の白種玹は息子、元国会議長の朴浚圭は妻の兄弟。実業家の李秉喆の妻の朴杜乙(朝鮮語版)は妻の従おば(岳父の従姉妹)。 日本統治時代の慶尚北道金泉郡(現・金泉市)出身。九州帝国大学(現・九州大学)法文学部、ミシガン大学大学院修了。解放前は鉄道系統で官吏を務めたが、解放後は教育界に転身し、大邱大学(現・嶺南大学校)教授、同校初代大学院長(1958年3月 - 1960年11月)、東国大学校・建国大学校大学院講師を務めた。
滝沢 一(たきざわ おさむ、1914年11月10日 - 19… 滝沢 一(たきざわ おさむ、1914年11月10日 - 1993年7月11日)は、日本の映画評論家、ジャーナリスト、脚本家である。株式会社通信合同社代表。中川信夫との共同のペンネームは猿沢 丈介(さるさわ じょうすけ)。リアルタイムで作品を追い続けた、伊藤大輔、山中貞雄研究の第一人者である。 1914年(大正3年)、大阪市に生まれる。大阪府立市岡中学校(現・大阪府立市岡高等学校)卒業。 1933年(昭和8年)、マキノ・プロダクションの元宣伝部長・都村健らとともに、京都に合同通信社を興す。同社がのちに株式会社通信合同社となる。 1935年(昭和10年)、前年に市川右太衛門プロダクションに入社した、9歳上の友人・中川信夫と共同で脚本を執筆、『恥を知る者』『御用唄鼠小僧』を中川が監督した。
加藤 衛(かとう まもる、1914年11月9日 - 1992… 加藤 衛(かとう まもる、1914年11月9日 - 1992年3月19日)は、ドイツ文学者、演劇評論家、劇作家。神奈川県立横浜第一中学校(現在の神奈川県立希望ヶ丘高等学校)、1939年上智大学卒業。ドイツ文学専攻、東京水産大学助教授、横浜市立大学教授を務め、演劇評論のほか劇作・上演も行い、横浜演劇研究所所長を務めた。ほか、1948年に湘南工業短期大学の前身とされる湘南工業専門学校の教員にも就任している。 (秋 現代日本戯曲大系 第3巻 三一書房 1971)
矢崎 博信(やざき ひろのぶ、1914年〈大正3年〉11月9… 矢崎 博信(やざき ひろのぶ、1914年〈大正3年〉11月9日 - 1944年〈昭和19年〉2月17日)は、長野県茅野市出身の洋画家。 「日本のシュルレアリスムの先駆者」とも評される画家。代表作に「高原の幻影」等がある。 長野県諏訪郡永明村(現・茅野市)出身。父源蔵と母とらの の長男として生まれる。実家は「信厚館」という生糸の製糸工業を経営していたが博信が子供の頃に倒産している。父矢崎源蔵は郷土史研究家、河合曾良研究者として知られていた(「信州文壇」1932年(昭和7年) - 1941年(昭和16年)という信州文壇社発行の雑誌に記事を連載していた)。 1921年(大正10年)永明村立永明尋常高等小学校(現・茅野市立永明小学校・茅野市立永明中学校)入学、この頃矢崎家に下宿していた担任の絵画教師、清澤の影響を受ける。
三宅 洋一郎(みやけ よういちろう、1914年11月8日 -… 三宅 洋一郎(みやけ よういちろう、1914年11月8日 - 1994年8月1日)は、日本の音楽家、ピアニスト、合唱指揮者、フェリス女学院短期大学名誉教授。 長年にわたり日本女声合唱団の指導にあたるとともに、フェリス女学院短期大学学長などを務めた。 熊本県に生まれたが、間もなく神奈川県横浜市へ移った。東京音楽学校に学び、ケルン音楽大学へ留学した。1941年からフェリス女学院(戦時下では「横浜山手女学院」)で教鞭を執り、専門学校音楽科を開設する際には團伊玖磨とともに中心的な役割を果たし、戦後における短期大学音楽科への昇格でも中心となって、後の大学音楽学部への発展の基礎を築いた。 1969年には第18回横浜文化賞を受賞し、1978年には第27回神奈川文化賞を妻である三宅春恵とともに受賞した。
金田 秀夫(かねだ ひでお、1914年〈大正3年〉11月7日… 金田 秀夫(かねだ ひでお、1914年〈大正3年〉11月7日 - 1992年〈平成4年〉)は、日本の政治家、実業家。鳥取県議会議員。日ノ丸自動車常務。日本海測量社長。 鳥取県東伯郡倉吉町大字西仲町(現・倉吉市西仲町)出身。雑貨商・金田秀平の長男。1936年、松江高等学校文科甲類卒業。1939年、京都帝国大学法学部卒業。神戸製鋼所に勤務、終戦により帰県し家業に従事する。傍ら県立倉吉中学校教官として勤務する。 1947年、鳥取県会議員に当選。革新連盟に所属。1951年、鳥取県会議員に当選。新政会、中正会に所属。 日ノ丸自動車取締役倉吉支店長、日ノ丸自動車常務、倉吉石油取締役、山陰日日新聞社取締役、倉吉商工会議所会頭、鳥取県公安委員をつとめる。
市川 久夫(いちかわ ひさお、1914年11月7日 - 20… 市川 久夫(いちかわ ひさお、1914年11月7日 - 2002年3月25日)は、日本の劇映画・テレビドラマのプロデューサー。生涯で映画約100作品、テレビドラマ約600話の制作に携わった。 東京都本所区(現:墨田区)生まれ。東京外語大学卒業。逓信省の職員を経て、1939年に新興キネマ(後に大映へ戦時統合)に入社し、宣伝部を経て同社系列の記録映画会社である東京文化映画製作所にて「病院船」の制作を担当。その後、企画担当作品「風雪の春」の撮影中に応召により、ソ満国境へ赴くが、1945年11月の帰国と共に大映に復帰、企画部長として、「赤線地帯」、「静かなる決闘」等の企画・製作にあたり、大映の黄金期を担う。
船川 幡夫(ふなかわ はたお、1914年11月7日 - 19… 船川 幡夫(ふなかわ はたお、1914年11月7日 - 1996年3月27日)は、公衆衛生学者。 東京都出身。1940年北海道帝国大学医学部卒業、同助手、44年助教授、1945年「超短波生理作用の心臓電気図学的研究」で北海道帝国大学医学博士。1946年国立公衆衛生院勤務、1968年東京大学教育学部教授、75年定年退官、日本女子大学教授、83年二葉栄養専門学校校長、92年退職。1991年勲三等瑞宝章受勲。
阿部 青鞋(あべ せいあい、1914年11月7日 - 198… 阿部 青鞋(あべ せいあい、1914年11月7日 - 1989年2月5日)は、俳人。本名は麗正(よしまさ)。 現在の東京都渋谷区に生まれる。1933年高輪学園卒業。1936年、新興俳句系の「句帖」に参加。1937年渡辺白泉らの同人誌「風」に参加。「螺旋」「動線」を創刊。1940年住谷栄子と結婚。1941年8月に召集を受けるが、大陸で戦病となり11月に解除。1945年岡山県英田郡巨勢村(現・美作市)に疎開、以後33年間同地に居住した。1957年「花実」参加。1958年「俳句評論」参加。1959年受洗。1963年「瓶」(のち「壜」)創刊。「八幡船」参加。同年公務を退き林野協会牧師となる。1969年永田耕衣の初期句集『真風』を編集発行。
上田 克郎(うえだ かつろう、1914年11月6日 - 20… 上田 克郎(うえだ かつろう、1914年11月6日 - 2004年9月20日)は、日本の官僚、経営者。昭和石油(後の昭和シェル石油)社長を務めた。熊本県出身。 1939年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に大蔵省に入省。 1956年に参事官、1959年に国税庁名古屋国税局長、1960年に関税部長、1962年に防衛庁経理局長を歴任。1964年5月に昭和石油副社長に就任し、同年11月から1968年2月までに社長を務め、在任時には、新潟地震の影響により、経営不振に陥っていた同社の再建に尽力し、経営基盤も確立させた。 2004年9月20日肝不全のために死去。89歳没。
北原 安定(きたはら やすさだ、1914年11月5日 - 1… 北原 安定(きたはら やすさだ、1914年11月5日 - 1994年4月1日)は、日本の逓信官僚、元電電公社副総裁および元NTT副社長。工学博士。 長野県上伊那郡高遠町(現伊那市)出身。第一早稲田高等学院、早稲田大学理工学部電気科を卒業し、逓信省に入省。電気通信省を経て、日本電信電話公社で、九州電気通信局長、施設局長、総務理事、技師長を歴任し、1977年に副総裁に就任した。 当時、世界最高水準であった電電公社の技術陣をまとめただけでなく、経営観点においても高い先見性を持っており、いち早くデータ通信の重要性を見出していた。高度情報通信システムINS(Information Network System)を活用した将来的な、在宅勤務やオンラインショッピングなど、“電話”の次のネットビジネスを模索していた。
猪木 正道(いのき まさみち、1914年(大正3年)11月5… 猪木 正道(いのき まさみち、1914年(大正3年)11月5日 - 2012年(平成24年)11月5日)は、日本の政治学者。京都大学名誉教授。第3代防衛大学校校長、財団法人平和・安全保障研究所顧問を歴任。「日本政治学界の大御所的存在で、安全保障問題の論客」として知られた。専門は、政治思想。学位は、法学博士(京都大学・1962年)。 1914年、京都府京都市で生まれた。6歳から16歳までを三重県上野(現在の伊賀市)で過ごした。1931年に旧制三重県立上野中学校を卒業し、旧制第三高等学校文科乙類に進学。1934年に同校を卒業。 東京帝国大学経済学部に進学し、在学中は河合栄治郎の演習に参加。自由主義と社会主義の双方に立脚した自らの思想を育んでいった。
佐川 明(さがわ あきら、旧姓:森本〈もりもと〉、1914年… 佐川 明(さがわ あきら、旧姓:森本〈もりもと〉、1914年〈大正3年〉11月5日 - 2005年〈平成17年〉1月4日)は、日本の実業家。栗田工業社長。 兵庫県出身。森本茂の次男として生まれる。7歳のときに父親が死去、幼い頃から本の行商をさせられるなど、祖母に厳しく育てられる。 1940年(昭和15年)東京商科大学(現・一橋大学)を卒業。学生時代はラグビー部員。卒業後神戸に戻り、伊藤忠商事大阪本社に入社。その後徴兵されて満洲に渡り、一時帰国の際に神戸の貿易商(佐川商店社長)の佐川与一の長女・登美子と結婚して佐川家に婿入りする。 敗戦後、シベリアに抑留される。そのさなか、長女が産まれて十日で死ぬ。
大来 佐武郎(おおきた さぶろう、1914年〈大正3年〉11… 大来 佐武郎(おおきた さぶろう、1914年〈大正3年〉11月3日 - 1993年〈平成5年〉2月9日)は、日本の逓信・経済企画官僚、外交官、政治家、経済学者。位階は正三位。 第二次世界大戦後の日本を代表する国際派のエコノミストであり、外務大臣(第108代)や総合研究開発機構研究評議会議長を務めた。 東京帝国大学工学部電気工学科卒業後、逓信省に入省した。工務局、興亜院出向を経て大東亜省に移籍した。第二次世界大戦終戦後に外務省調査局に勤務した。その後、芦田内閣の下に設置された経済安定本部で、池田勇人首相の肝煎りである所得倍増計画の策定に中心的に関わった。 大来は終戦直後から日本国内のみならず国外にも豊富な人脈を築き、また分け隔てなく留学を希望する者の紹介状を書いていた。
小山 一平(こやま いっぺい、1914年〈大正3年〉11月3… 小山 一平(こやま いっぺい、1914年〈大正3年〉11月3日 - 2011年〈平成23年〉4月2日)は、日本の政治家。 日本社会党参議院議員(3期)。参議院副議長。位階は従三位。 長野県埴科郡南条村(現・坂城町)出身。旧制上田中学校(現・長野県上田高等学校)卒業。1932年(昭和17年)から養魚業に従事し、1951年(昭和26年)上田市議会議員に当選。1955年(昭和30年)から長野県議会議員を2期務め、社会党長野県本部委員長、同県議団長を兼任する。1963年(昭和38年)から上田市長を3期務め、任期途中で辞職し、1974年(昭和49年)の第10回参議院議員通常選挙に長野県選挙区から日本社会党公認で出馬し初当選。
伊東 一夫(いとう かずお、1914年11月3日 - 200… 伊東 一夫(いとう かずお、1914年11月3日 - 2004年9月17日)は、日本近代文学研究者。主として島崎藤村や島木赤彦を研究し、島崎藤村学会会長、同名誉会長、島木赤彦研究会長を務めた。 長野県諏訪郡下諏訪町生まれ。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1940年、東洋大学文学部国文学科卒業、東洋大学文学部研究科に入学する。1941年、同文学部研究科を退学し、東洋大学文学部副手、冨山房の事務手伝い、日本文化協会研究員、旧制松本高等女学校(現・長野県松本蟻ヶ崎高等学校)教諭を兼職する。 1945年、長野県立諏訪中学校に転任。1956年、東洋大学文学部専任講師、1959年助教授、1969年教授。
戸倉 勝城(とくら かつき、1914年11月3日 - 199… 戸倉 勝城(とくら かつき、1914年11月3日 - 1997年6月6日)は、山口県出身のプロ野球選手(外野手)・監督。 豊浦中学を経て、法政大学を卒業。卒業後は、大連満倶・林兼商店でプレーイングマネージャーを務めた。1950年に社会人野球大洋漁業から河内卓司らと引き抜かれ、この年創立された毎日に入団。 35歳という高齢でのプロ入りながら、同年3月11日のパ・リーグ開幕戦(西鉄戦)で4番を打ち、初打席で木下勇から本塁打を放って初打席初本塁打とパ・リーグ第1号本塁打を記録した。この年の7月5日の大映戦(後楽園球場)では、ナイターでの第1号本塁打を記録する。最終的には21本塁打、96打点でチームの初優勝に貢献した。
井村 二郎(いむら じろう、1914年11月3日 - 201… 井村 二郎(いむら じろう、1914年11月3日 - 2011年5月6日)は、日本の実業家。井村屋グループの創業者。三重県松阪市出身[1]。井村正勝は長男[1]。
山川 篤(やまかわ あつし、1914年(大正3年)11月3日… 山川 篤(やまかわ あつし、1914年(大正3年)11月3日 - 1997年(平成9年)5月29日)は、日本のフランス文学者。名古屋大学名誉教授。 愛知県(現:岩倉市)出身。東京で育ち、麻布中学校、旧制浦和高等学校卒、1938年東京帝国大学文学部仏文科卒。外務省嘱託として仏印に渡る。1948年第八高等学校教授、49年名古屋大学教養部助教授、56年文学部助教授、70年教授、71年「フローベール研究 作品批評史 1850~1870」で東大文学博士。78年名大定年退官、名誉教授。南山大学教授、83年退職。
酒井 弘(さかい ひろむ、1914年(大正3年)11月3日 … 酒井 弘(さかい ひろむ、1914年(大正3年)11月3日 - 1996年(平成8年)12月9日)は、昭和期の歌手。 兵庫県丹波篠山市出身。大阪音楽学校、武蔵野音楽学校中退後、1935年(昭和10年)に東京音楽学校に入学する。同校卒業後、テノール歌手として活躍。1937年(昭和12年)3月、ポリドールから「春の感傷」でレコードデビュー。その際は三村博という変名であった。その後、コロムビアレコードに移籍し、代表曲は「戦友の遺骨を抱いて」(この曲は各社競作)、「比島決戦の歌」、「あゝ紅の血は燃ゆる」、「僕は空へ君は海へ」など戦時歌謡中心である。戦後は東京芸術大学で助教授を務める。1982年(昭和57年)まで同校に勤務し、「発声の技巧とその活用法」などの著書のほか「日本歌曲の歌い方と日本語の発音」などの著書も発表した。
植木 幸明(うえき こうめい、1914年11月3日 - 19… 植木 幸明(うえき こうめい、1914年11月3日 - 1986年11月24日)は、日本の医学者、新潟大学名誉教授。新潟県における第二水俣病を確認したことなどで知られる。 新潟県北蒲原郡堀越村大字里に生まれ、新潟医科大学を卒業した。 1951年(昭和26年)に東京帝国大学助手となり、1956年(昭和31年)に新潟大学医学部助教授として外科学講座に着任した。当時は、中田瑞穂教授らとともに大脳の半分を摘出する手術をおこなった。 1958年(昭和33年)にはジョンズ・ホプキンズ大学へ留学し、1962年(昭和37年)には新潟大学医学部教授に昇任した。この間、1959年(昭和34年)から1967年(昭和42年)まで医学部附属脳外科研究施設長を務め、1967年(昭和42年)からは新潟大学脳研究所脳神経外科学部門教授となり、その後1972年(昭和47年)から1976年(昭和51年)、また1978年(昭和53年)から1980年(昭和55年)にかけて脳研究所所長を務め、1980年(昭和55年)に定年退官した。
井村 二郎(いむら じろう、1914年11月3日 - 201… 井村 二郎(いむら じろう、1914年11月3日 - 2011年5月6日)は、日本の実業家。井村屋グループの創業者。三重県松阪市出身。井村正勝は長男。 1932年に松阪商業学校を卒業し、父親が経営する和菓子屋を継ぐ。1947年に井村屋製菓を創業し、社長に就任。1974年に会長を経て、1979年に相談役に就任した。 2011年5月6日、肺炎のために死去。96歳没。
杉山 平一(すぎやま へいいち、1914年11月2日 - 2… 杉山 平一(すぎやま へいいち、1914年11月2日 - 2012年5月19日)は、日本の詩人、映画評論家、帝塚山学院大学名誉教授。 福島県生まれ。大阪府立北野中学校(旧制)、松江高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業。在学中三好達治に認められ『四季 (詩雑誌)』に参加、文芸同人となる。卒業後、織田作之助らと『大阪文学』を創刊。1941年第2回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)、1943年『夜学生』で文芸汎論詩集賞受賞。1987年大阪芸術賞受賞、2003年『戦後関西詩壇回想』で第5回小野十三郎賞特別賞受賞。2012年、詩集『希望』で第30回現代詩人賞を受賞。その他、兵庫県文化賞など受賞。
桂 信子(かつら のぶこ、1914年11月1日 - 2004… 桂 信子(かつら のぶこ、1914年11月1日 - 2004年12月16日)は、日本の俳人。日野草城に師事。「旗艦」「青玄」などを経て「草苑」を創刊・主宰。本名は丹羽信子(にわのぶこ)。大阪市出身。1980年代以降は箕面市の自宅で過ごした。 大阪府大阪市東区八軒家に生まれる。大阪府立大手前高等女学校卒業。1934年、日野草城の「ミヤコ・ホテル」連作に感銘を受け、翌年より句作を開始。どこにも投句しなかったが、1938年、草城主宰の「旗艦」を知り投句。1939年、桂七十七郎と結婚。1941年、「旗艦」同人。同年、夫が喘息の発作のため急逝、以後会社員として自活する。 1946年「太陽系」創刊に参加、草城主宰の「アカシヤ」同人。
大島寛一(おおしま ひろかず、1914年10月31日 - 1… 大島寛一(おおしま ひろかず、1914年10月31日 - 1994年9月23日)は、日本の大蔵官僚。近畿財務局長、内閣官房内閣審議室長、関東財務局長、財務参事官、日本銀行理事、日本監査役協会会長。大島堅造の長男。 兵庫県出身。旧制一高を経て東京帝国大学法学部法律学科在学中に高等試験行政科を合格。東京帝大法学部法律学科を卒業し、1937年4月 大蔵省入省。理財局属。1940年9月 大蔵大臣秘書官(事務担当)。1952年8月 理財局総務課長。1953年6月から1956年6月までは外務省在ニューヨーク総領事館・ 在米国大使館で勤務。1956年6月 大臣官房財務調査官(為替局担当)。1957年6月 近畿財務局長。
四宮 和夫(しのみや かずお、1914年10月31日 - 1… 四宮 和夫(しのみや かずお、1914年10月31日 - 1988年4月28日)は、日本の法学者。専門は民法・信託法。学位は、法学博士(東京大学、1962年)(学位論文「信託法」)。我妻栄門下。弟子に能見善久など。 香川県三豊郡観音寺町生まれ。歩く通説と呼ばれた指導教官の我妻に対し、歩く反対説とも呼ばれた[要出典]。四宮の反対説の提示によって初めて論点化された論点も多く[要出典]、日本の民法学に多大な貢献をもたらした。信託法の研究の第一人者であり、その地位は弟子の能見に受け継がれている。 後掲『請求権競合論』は、債務不履行と不法行為等の請求権競合問題に関する論文で、民事訴訟法学における訴訟物における旧訴訟物理論・実体法説と新訴訟物理論・訴訟法説の対立を踏まえた上で、民法学の見地から新訴訟物理論の考え方を取り入れ、債務不履行と不法行為の要件及び効果を利益衡量の上一本化すべきとして新実体法説(のうち、全規範統合説)を主張した。
大谷 昌行(おおたに まさゆき、1914年(大正3年)10月… 大谷 昌行(おおたに まさゆき、1914年(大正3年)10月31日 - 2002年(平成14年)5月9日)は、日本の実業家。元一畑電気鉄道社長、元日本海テレビジョン社長。 1914年(大正3年)10月31日、島根県平田市に生まれる。1938年(昭和13年)に法政大学法学部法律学科を卒業する。 三菱電機を経て、1945年(昭和20年)に一畑電気鉄道に入社する。1955年(昭和30年)に取締役、1957年(昭和32年)に常務、1965年(昭和40年)に社長に就任する。 一畑グループの総帥で、グループ数十社の社長・会長を務めた。また、日本海テレビジョン社長、松江商工会議所会頭、日本民営鉄道協会理事などを歴任した。
西山 方富(にしやま まさとみ、1914年10月31日 - … 西山 方富(にしやま まさとみ、1914年10月31日 - 1987年4月12日)は、日本の経営者。井村屋製菓社長、会長を務めた。三重県松阪市出身。 1932年に三重県立松阪商業学校を卒業。髙島屋での勤務を経て、1947年に井村屋に転じ、専務に就任し、1970年に副社長を経て、1974年5月には社長に就任。1979年6月に監査役に就任。 1987年4月12日食道静脈瘤破裂と肝硬変のために死去。72歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
曽根 道貫(そね どうかん、1914年(大正3年)10月30… 曽根 道貫(そね どうかん、1914年(大正3年)10月30日 - 1992年(平成4年))は、元体操選手。 新潟県中頸城郡高士村上曽根(現・上越市)に生まれる。高田中学校から日本体育会体操学校に進み、1935年(昭和10年)に卒業する。翌年の1936年ベルリンオリンピックに出場した。 その後は、本郷中学校教諭、東京警視庁工場課嘱託を経て、1941年(昭和16年)郷里に戻り、高士村役場に勤務した。
森田 千賀三(もりた ちかぞう、1914年10月28日 - … 森田 千賀三(もりた ちかぞう、1914年10月28日 - 1999年8月12日)は、日本の経営者。東洋信託銀行社長を務めた。大阪府出身。 1940年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に三和銀行に入行。1965年11月に取締役に就任し、1968年11月に常務、1971年11月に専務を経て、1974年11月に社長に就任。1983年6月に会長に就任し、1991年6月に取締役相談役を経て、1995年6月には相談役に就任。 1978年11月に藍綬褒章を受章し、1984年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1999年8月12日、死去。84歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
木下 夕爾(きのした ゆうじ、1914年(大正3年)10月2… 木下 夕爾(きのした ゆうじ、1914年(大正3年)10月27日 - 1965年(昭和40年)8月4日)は、日本の詩人、俳人。本名・優二。 広島県福山市御幸町に生まれる。広島県立府中中学(現・広島県立府中高等学校)を卒業後、1933年にいったんは第一早稲田高等学院文科(仏文科)に入学するが、養父の結核発病に伴い家業を継ぐために転学した。1938年に名古屋薬学専門学校(現・名古屋市立大学)を卒業し、広島県福山市の実家で薬局を営む。以後、終生郷里を離れなかった。この間堀口大学に傾倒し影響を受けており、13歳のときには堀口の詩誌「若草」で特選を取っている。1940年、第一詩集『田舎の食卓』を刊行、第6回文芸汎論賞を受賞。
今堀 誠二(いまほり せいじ、1914年10月27日 - 1… 今堀 誠二(いまほり せいじ、1914年10月27日 - 1992年10月9日)は、中国史学者、原水爆禁止運動家。父は教育者・心理学者の今堀友市、弟は生物学者・今堀宏三、生化学者・今堀和友。
上田 正(うえだ ただし、1914年10月25日 - 194… 上田 正(うえだ ただし、1914年10月25日 - 1944年)は広島県出身のプロ野球選手。
三好 和夫(みよし かずお、1914年10月25日 - 20… 三好 和夫(みよし かずお、1914年10月25日 - 2004年11月9日)は、医学者、医師。専門は神経筋疾患学・血液学。 1914年、東京生まれ。東京大学医学部で血液学を研究した。 1954年3月、第五福竜丸操業中に被爆(ビキニ事件)した乗組員の診察と治療にあたった。その後、東大付属病院(現:東京大学医学部附属病院)と米軍医団共同の原子爆弾影響合同調査団に参加。1955年4月1日、京都市で開かれた第14回日本医学会総会において、熊取敏之(国立東京第一病院)とともに「ビキニ放射能の臨床的、血液学的観察」と題して発表した。「久保山愛吉さんの死因は単なる肝臓障害ではなく、死の灰によって致死量以上の放射線を受けたため」と、アメリカ合衆国側の見解に反論した。
関野 凖一郎(せきの じゅんいちろう、1914年10月23日… 関野 凖一郎(せきの じゅんいちろう、1914年10月23日‐1988年4月13日)は昭和時代の日本の版画家、洋画家。 青森県青森市の魚粕の肥料問屋の家に生まれる。旧制青森中学校卒業。1932年に今純三に銅版画を学んだ。1936年に官展に初入選を果たす。1938年に第8回日本版画協会展において会員に推される。翌1939年に東京へ出て恩地孝四郎に師事、新宿鈴木研究所において油絵を学んだ。作品は木版画、銅版画、石版画、油絵に及んでいる。1940年に日本エッチング協会を設立、その会員となった。1953年、ルガノ国際版画展に作品を出品、1960年、アメリカ・ノースウェスト国際版画展で受賞する。1957年に調布市下布田に移住する。
永井 義憲(ながい よしのり、1914年(大正3年)10月2… 永井 義憲(ながい よしのり、1914年(大正3年)10月23日 - 2001年(平成19年)8月5日)は、国文学者、大妻女子大学名誉教授。真言宗豊山派日輪寺住職。 千葉県生まれ。父は千葉義胤、母は永井とら。1937年大正大学文学部国文学科卒。1945年10月大正大学講師、1950年助教授、55年教授。1962年「日本仏教文学研究」により大正大学文学博士。1967年大妻女子大学教授。87年退任、名誉教授。同年勲三等瑞宝章受勲。 1979年、早稲田大学の講義における「私の村の隣には『きちがい部落』があるが、こうした部落では近親結婚が多く、だいたい一割の割合できちがいが出ている。私は結婚相談をされた時には『きちがい部落』の出身者が相手なら注意することにしている」との発言が部落解放同盟に問題視され、騒動に発展した。
岡 正芳(おか まさよし、1914年10月23日 - 没年不… 岡 正芳(おか まさよし、1914年10月23日 - 没年不明)は、日本の政治運動家。元日本共産党中央委員会幹部会副委員長。 佐賀県小城郡三日月村(現小城市)出身。旧制第五高等学校を経て東京帝国大学哲学科に進んだ。東大在学中から無産運動に入った。日本共産党に入党。中央委員、書記局員、政策委員会責任者、常任幹部会員、幹部会副委員長等を歴任し、のち名誉幹部会委員を務めた。 党内では理論・政策分野の専門家としての評価が高く、新聞記者たちからは“綱領の番人”と評された、という。 1967年3月に論文「『地域開発』反対政策の位置づけについて」を発表。これが同党の政策活動や大衆運動対応の画期となったとの見方がある。
森田 鉄郎(もりた てつろう、1914年10月22日 - 1… 森田 鉄郎(もりた てつろう、1914年10月22日 - 1996年2月5日)は、日本の西洋史学者。 1914年10月22日、父・福井県出身・弁護士・摩寿意善太郎、母・広島県出身・山田ツヤの次男として東京麻布区に生まれる。兄は日本の美術家、東京芸術大学名誉教授・摩寿意善郎。麻布中学校卒業後、1932年、旧制第一高等学校に入学。 1935年東京帝国大学文学部西洋史学科入学。1939年同卒業。秩父宮御用掛・学習院大学教授・渡邉八郎長女・千江と婚姻。(祖父は大村藩士・初代大阪府知事・元老院議官・会計検査院長・貴族院議員・渡邉昇)婚姻後京都市岡崎円寺151・「吉富楼」経営の森田久の夫婦養子となり、姓を森田と改める。
鈴木 共子(すずき きょうこ、1914年10月22日 - 2… 鈴木 共子(すずき きょうこ、1914年10月22日 - 2002年8月11日)は、東京生まれのヴァイオリニストである。 1935年、東京音楽学校本科器楽部ヴァイオリン専攻を卒業。1936年、時事新報社主催の第5回音楽コンクール(現在の日本音楽コンクール)で第2位となる。1938年~1940年、フランスに留学、ボリス・カメンスキー(英語版)に師事した。1949年、第1回毎日音楽特別賞を受賞。1961年の桐朋学園大学創立以来教授を務めた。2002年5月、「米寿を祝うコンサート」が開かれ、教え子である古澤巌、渡辺玲子、荒井英治、植村理葉、植村菜穂、西野優子などが出演した。同年8月、脳梗塞のため87歳で亡くなった。