中村 幸之助(なかむら こうのすけ、明治5年6月16日(18… 中村 幸之助(なかむら こうのすけ、明治5年6月16日(1872年7月21日) - 昭和20年(1945年)1月11日)は、日本の電気工学者。 宮城県仙台市出身。第二高等学校を経て、1898年(明治31年)に東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業し、大学院に進んだ。1899年(明治32年)、東京工業学校教授となり、翌年から欧米諸国に留学した。1902年(明治35年)に帰国後は、東京高等工業学校教授に特許局審査官、東京高等工業学校附設工業教員養成所主事、特許局技師などを兼ねた。1919年(大正8年)、工学博士の学位を得た。1926年(大正15年)、東京高等工業学校校長に就任し、翌年には財団法人協調会東京工業専修学校校長も兼ねた。
中野 猪之助(なかの いのすけ、1872年7月21日(明治5… 中野 猪之助(なかの いのすけ、1872年7月21日(明治5年6月16日)- 1938年(昭和13年)1月18日)は、明治後期から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 大分県日田郡、のちの三芳村(現日田市下井手町)で、中野伍兵衛の二男として生まれる。漢学を修めた。 1899年(明治32年)福岡県久留米市京町で久留米製材所を設立し材木商を営む。のちに東京で合資会社中野材木店(京橋木挽町)を開店した。その他、久留米材木同業組合長、九州材木連合協会長、日田実業銀行取締役、九州材木専務取締役、久留米商業会議所特別議員、同顧問なども務めた。 政界では、久留米市会議員、同参事会員に在任。1924年(大正13年)5月、第15回衆議院議員総選挙(大分県第5区、無所属)で当選し、立憲民政党に所属して衆議院議員に1期在任した。
橋本 太吉(はしもと たきち、1872年 7月15日(明治5… 橋本 太吉(はしもと たきち、1872年 7月15日(明治5年6月10日)- 1933年(昭和8年)8月28日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家、衆議院議員。 広島県御調郡尾道町(現尾道市)で、醸造業・橋本長三の長男として生まれる。1885年(明治18年)家督を相続。1891年(明治24年)12月、慶應義塾を卒業した。 帰郷後、尾道市会議員に就任。また、尾道電灯社長、尾道米塩肥料取引所理事を務めた。1900年(明治33年)4月、横浜の原合名会社(原富太郎)輸出部支配人に就任し1904年(明治37年)6月まで在任した。その後、家業の醸造業、さらにアルミニウム工業を営み、中外石油アスファルト取締役、日本リンネット取締役、東海化学工業取締役、日本夏帽取締役、日本軽銀製造監査役などを務めた。
松江 豊寿(まつえ とよひさ、1872年7月11日(明治5年… 松江 豊寿(まつえ とよひさ、1872年7月11日(明治5年6月6日)- 1956年(昭和31年)5月21日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。第9代若松市長。 第一次世界大戦中に板東俘虜収容所所長を務め、在任中にドイツ人俘虜を人道的に扱い地元の住民とドイツ人俘虜を交流させた。この時、ドイツ人俘虜によって日本で初めてベートーベンの交響曲第9番が演奏された。映画『バルトの楽園』の主人公としても知られる。 1872年6月に現在の会津若松市で会津藩士、警察官・松江久平の長男として生まれる。1889年(明治22年)16歳の時に仙台陸軍地方幼年学校に入校し、1892年(明治25年)には陸軍士官学校(5期)に進んだ。
佐佐木 信綱(ささき のぶつな、1872年7月8日(明治5年… 佐佐木 信綱(ささき のぶつな、1872年7月8日(明治5年6月3日) - 1963年(昭和38年)12月2日)は、日本の歌人・国文学者。正三位。勲六等。文学博士。日本学士院会員。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 一時は桂園派に連なる歌を詠んだが、和歌改良の風潮に接して革新の気風を抱き、1897年(明治30年)頃から独自の歌境をうち立て、有望な新星として注目された。「ひろく、ふかく、おのがじし」をモットーとし[要出典]、新詩社系、根岸短歌系双方との交流を深めた。 国文学者としての実績も豊富で、特に『万葉集』の研究で有名。 三重県鈴鹿郡石薬師村(現在の鈴鹿市石薬師町)で、国学者で歌人の佐々木弘綱の長男として生まれる。
浜口 檐(はまぐち たん、1872年7月7日(明治5年6月2… 浜口 檐(はまぐち たん、1872年7月7日(明治5年6月2日)– 1939年(昭和14年)10月2日)は、明治後期から昭和前期の実業家・政治家。衆議院議員。 和歌山県有田郡広村(広町を経て現広川町)で、実業家・7代濱口儀兵衛(濱口梧陵)の末子として生まれた。1891年(明治24年)慶應義塾普通部を、1894年(明治27年)東京専門学校(現早稲田大学)英語政治科を卒業。円覚寺に2年参禅して イギリスに留学し、1902年(明治35年)ケンブリッジ大学を卒業した。 1904年(明治37年)3月、第9回衆議院議員総選挙に和歌山県郡部から無所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。この間、議員歳費を辞退して話題となる。
杉 敏介(すぎ としすけ、1872年7月1日(明治5年5月2… 杉 敏介(すぎ としすけ、1872年7月1日(明治5年5月26日) - 1960年7月2日)は、日本の教育者。第一高等学校、国文教授 - 校長。通称は"びんすけ"。夏目漱石『吾輩は猫である』の津木ピン助のモデル。歌人としても知られ、号は烏山。
載仁親王妃 智恵子(ことひとしんのうひ ちえこ、1872年6… 載仁親王妃 智恵子(ことひとしんのうひ ちえこ、1872年6月30日〈明治5年5月25日〉- 1947年〈昭和22年〉3月19日)は、日本の皇族。閑院宮載仁親王の妃。身位は親王妃で、皇室典範における敬称は殿下。母方を通じて、東山天皇の7世孫にあたる。 1872年6月30日(明治5年5月25日)、公爵・三条実美の二女として誕生。母は、鷹司輔煕の九女・治子。旧名は、三条 智恵子(さんじょう ちえこ)。 6歳ほどより跡見女学校へ通い、跡見花蹊に学ぶ。絵画を得意とし、四條派の写生画、南宗派の文人画を修め、「花堤」の雅号を持つ。1891年(明治24年)閑院宮載仁親王と結婚する。載仁親王との間には、篤仁王(夭折)、恭子女王(安藤信昭夫人)、茂子女王(黒田長礼夫人)、季子女王、春仁王、寛子女王、華子女王(華頂博信夫人、後に戸田豊太郎夫人)の2男5女を儲けた。
金山 米次郎(かなやま よねじろう、1872年6月29日(明… 金山 米次郎(かなやま よねじろう、1872年6月29日(明治5年5月24日)- 1941年(昭和16年)5月29日)は、富山市長。弟は安田銀行下谷支店長を務めた金山音治。 富山県富山市出身。青雲の志を抱き東京に出る。東京芝新銭座町4番地(現・東京都港区東新橋2丁目)にあった吏党系の壮士の集う「青年義勇団」に所属しようとしたが若すぎた為、年齢を2歳偽り所属した。実年齢20歳(公称22歳)の時、1891年(明治24年)5月29日、板垣退助を総理(総裁)に迎えた自由党は「国家主義(極右)と社会主義(極左)とはともに国を滅ぼす」とし、その中庸を目指す自由党の自由主義こそが国家を津々と発展させるものであるとして国家が歩むべき方向性を示す宣言を行い、10月15日に自由党は党大会を開いて党則を改正したが、国家主義を標榜し民党と対立する吏党に所属する米次郎は、自由党の方向性と板垣に対して憤りを覚えた。
万代 嘉平治(萬代、まんだい かへいじ、1872年6月27日… 万代 嘉平治(萬代、まんだい かへいじ、1872年6月27日(明治5年5月22日)- 1917年(大正6年)3月9日)は、明治から大正前期の園芸家、政治家。衆議院議員(1期)、岡山県赤磐郡石生村長。 岡山県磐梨郡原村(石生村、赤磐郡石生村を経て現和気郡和気町)で生れた。同志社(現同志社大学)を卒業した。 1901年(明治34年)石生村長に就任し1914年(大正3年)まで在任。この間、難航していた同村田原上・下耕地整理事業を推進した。その他、赤磐郡会議員(1900年-1904年、1911年-1913年)、岡山県会議員(1899年-1917年)を務め、郡会議長、岡山県参事会員にも在任した。立憲国民党に所属し第一次護憲運動を推進し、和気橋の架橋に尽力した。
牛島 滕六(うしじま とうろく、1872年〈明治5年6月24… 牛島 滕六(うしじま とうろく、1872年〈明治5年6月24日〉 - 1952年〈昭和27年〉9月11日)は、明治から昭和にかけての日本の俳人。本名は虎之助。 俳誌『時雨』の主宰として、戦前の北海道俳壇における重鎮の地位にあった。 1872年(明治5年)、福岡県久留米市に生まれる。 1891年(明治24年)、屯田兵として東永山兵村へ移住する。 1897年(明治30年)、北海道庁の鉄道敷設事業手として旭川へ赴任する。このころから雪村の雅号で河東碧梧桐選の俳誌『活文壇』に投稿していた。 1900年(明治33年)、札幌の吉見香漣・祝鱸江らとともに俳誌『白雪』を発行するが、8号で廃刊となる。 1902年(明治35年)、俳句結社「若葉吟社」を興し、俳誌『若葉』を4号まで発行する。
小瀧 喜七郎(おだき きしちろう、1872年6月23日(明治… 小瀧 喜七郎(おだき きしちろう、1872年6月23日(明治5年5月18日) - 1951年(昭和26年)12月14日)は、日本の政治家。第4代岡崎市長(1期)。助役時代より岡崎公園の修築・改修に力を入れたため、公園助役、公園市長とよばれた。企業の誘致にも積極的で、日清レーヨン、日本レーヨンなどを誘致した。 額田県八町村(現・愛知県岡崎市八帖南町)で岡崎藩士の子として生まれる。1886年(明治19年)2月、真宗三河教校に入学し英語を学ぶ。1887年(明治20年)7月8日、同校を卒業。1891年(明治24年)1月から1892年(明治25年)10月まで名古屋市の私立誠心塾で漢学・剣道を修める。同年12月11日から数度にわたり兵役につき、日清戦争と日露戦争に従軍した。
江田 鎌治郎(えだ かまじろう、1872年6月22日(明治5… 江田 鎌治郎(えだ かまじろう、1872年6月22日(明治5年5月17日) - 1957年(昭和32年)5月7日)は、日本の技術者、実業家。速醸酛の発明者として知られ、「酒聖」「酒造界の大恩人」と賞される。 1872年(明治5年)、新潟県糸魚川に生まれる。新潟師範学校、東京高等工業学校応用化学科(現・東京工業大学)卒業。東京税務監督局、大蔵省醸造試験所、大阪工業大学講師などを歴任。1909年、速醸酛を開発した。大蔵省を退官後、1933年(昭和8年)に江田醸造研究所(後の江田醸造株式会社)を設立。1916年に勲六等瑞宝章、1955年に紫綬褒章を受賞。 没後、日本生物工学会による生物工学奨励賞(江田賞)が創設された。
飯田 精一(いいだ せいいち / きよかず[要出典]、187… 飯田 精一(いいだ せいいち / きよかず[要出典]、1872年6月21日(明治5年5月16日) - 1945年(昭和20年)9月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 山口県玖珂郡、現在の岩国市で旧岩国藩士・飯田文輔の長男として生まれた。1896年、東京帝国大学独法科卒。卒業後は郵便事業研究のためドイツに留学する。通信事務官、逓信書記官、一等郵便局長を歴任する。日本製樽、讃岐電気軌道、加富登麦酒、高野登山鉄道、電気信託、宮島瓦斯、小野田セメント各(株)取締役を務め、大阪商業会議所議員、大阪株式取引所理事となる。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において山口県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。
守屋 荒美雄(もりや すさびお、1872年6月20日(明治5… 守屋 荒美雄(もりや すさびお、1872年6月20日(明治5年5月15日) - 1938年(昭和13年)2月8日)は、日本の教育者であり実業家。地理教育に関する書籍、特に地理教科書や学校用地図帳を多数出版。帝国書院、関東第一高等学校、吉祥女子中学校・高等学校の創立者。 幼名は荒三(あらぞう)で、のちにキリスト教(カトリック)の洗礼を受け、「最高の賢者」を意味する「すさびお」に改名した(「人物」参照)。 1872年5月15日、岡山県浅口郡西原村(のちに西阿知町大字西原、現在の倉敷市西阿知)に生まれる。生家のあった土地は河川改修で高梁川に消えた。1890年に岡山県師範学校の小学校簡易科教員学力検定試験に合格して教員になる。
柚原 完蔵(ゆはら かんぞう、1872年6月20日(明治5年… 柚原 完蔵(ゆはら かんぞう、1872年6月20日(明治5年5月15日) - 1940年12月6日)は、日本陸軍の軍人。陸士4期、陸大15期卒業。最終階級は陸軍中将。 元津藩士、衆議院議員・伊東祐賢の二男として生れ、陸軍幼年学校を経て、1893年(明治26年)7月、陸軍士官学校(4期)を卒業。1894年(明治27年)3月、歩兵少尉に任官し歩兵第19連隊付となる。同年9月から翌年7月まで日清戦争に出征。陸軍戸山学校教官、歩兵第19連隊中隊長などを経て、1901年(明治34年)11月、陸軍大学校(15期)を卒業。 1902年(明治35年)11月、陸士教官となり、のち教育総監部参謀に異動。1904年(明治37年)3月、同郷の官吏の柚原具致の養子となり、家督を継承する。
嘉山 幹一(かやま かんいち、1872年6月18日(明治5年… 嘉山 幹一(かやま かんいち、1872年6月18日(明治5年5月13日) - 1940年(昭和15年)5月7日)は、明治から昭和時代前期の司法官。大審院判事。 嘉山昆篤の長男としてのちの静岡県に生まれ、1904年(明治37年)5月、家督を相続する。1895年(明治28年)7月、帝国大学法科大学を卒業し、1897年(明治30年)5月、高崎区裁判所判事に任じる。ついで高崎地方裁判所、東京区裁判所、同地方裁判所各判事、同裁判所部長、同控訴院判事を経て、1912年(明治45年)2月、大審院判事に進んだ。1913年(大正2年)2月、会計検査官懲戒裁判所予備裁判官を兼任した。のち大審院部長や万国海法会委員を務めた。
矢野 仁一(やの じんいち、明治5年5月13日〈1872年6… 矢野 仁一(やの じんいち、明治5年5月13日〈1872年6月18日〉 - 1970年〈昭和45年〉1月2日)は、日本の東洋史研究者。京都帝国大学名誉教授。 1872年、現在の山形県米沢市生まれ。第一高等学校を経て、東京帝国大学文科史学科で学ぶ。1899年に同大学を卒業。 卒業後は東京帝国大学文科助教授となり、1905年に清朝の招聘により北京の法政学堂(進士館教習)に勤務。1912年、京都帝国大学助教授、1920年より教授。1932年に定年退官し、名誉教授となる。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
山崎 正董(やまさき まさただ、明治5年5月11日(1872… 山崎 正董(やまさき まさただ、明治5年5月11日(1872年6月16日) - 昭和25年(1950年)5月29日)は日本の医師(産婦人科医)。私立熊本医学校教授、愛知県立医学専門学校校長、熊本医科大学学長(1925-1932)。60歳の定年後は好きな旅行、歴史に没頭。『横井小楠』『肥後医育史』を著す。1932年と1933年に沖縄を旅行した写真が発見され、写真集ができた。貝や沖縄の古瓦も蒐集した。 字は子勉、号は黙堂。 1872年5月11日 現在の高知県高岡郡佐川町に生まれる。1890年 第三高等学校に入学。1892年 第一高等学校に転学。1900年 東京帝国大学卒業。1901年 私立熊本医学校教授。
丸山 五郎(まるやま ごろう、旧姓・横田、1872年6月15… 丸山 五郎(まるやま ごろう、旧姓・横田、1872年6月15日(明治5年5月10日) - 1963年(昭和38年)6月20日)は、日本の医師、埼玉県医師会長、政治家・衆議院議員(憲政会→立憲民政党)。ダンサーのSAMは曽孫にあたる。 埼玉県北足立郡吹上村(現在の鴻巣市)に生まれた。埼玉県士族・横田半十郎の二男で、丸山家を嗣いだ。1893年(明治26年)、東京慈恵医院医学専門学校を卒業。東京病院に勤務した。1896年(明治29年)、南埼玉郡岩槻町に医院を開業した。南埼玉郡会議員、同参事会員、同議長に選出された。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、南埼玉郡医師会長、埼玉県医師会議員・理事、日本医師会議員、埼玉県医師会長、岩槻自動車株式会社取締役などを務めた。
木本 源吉(きもと げんきち、1872年6月15日(明治5年… 木本 源吉(きもと げんきち、1872年6月15日(明治5年5月10日)- 1944年(昭和19年)1月5日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員、奈良県奈良市長。 奈良県添上郡紀寺村(奈良町を経て現奈良市)で、豪農・木本孫治郎の長男として生まれる。同志社政法学校で経済を学んだ。 帰郷して家業に従事し、1910年(明治43年)8月、家督を相続した。奈良銀行頭取、産業銀行頭取、奈良県農工銀行取締役、日本勧業銀行地方顧問、奈良実業協会会長、奈良県実業連合会会長、奈良教育会会長、兵事会会長、日本赤十字社奈良委員長、大日本武徳会地方委員、恩賜財団済生会評議員、大和山岳会長などを務めた。
加納 友之介(かのう とものすけ、1872年6月13日(明治… 加納 友之介(かのう とものすけ、1872年6月13日(明治5年5月8日) - 1936年(昭和11年)8月14日)は、明治期の官僚、住友銀行理事。 茨城県生まれ。生家の立川家は里正を務める家柄であった。第百四国立銀行の取締役を務めた立川直行の五男として生まれる。兄に衆議院議員を務めた立川興がいる。妹のヒロは陸軍中将の浄法寺五郎の妻。 1893年叔父で、常陸太田の太田銀行取締役を務めた加納甚三郎の養子となった。12歳で慶應義塾幼稚舎に入るも、病気退学。1896年(明治29年)帝国大学法科大学を卒業。1897年(明治30年)農商務省に入り参事官として商工局に勤務。1902年(明治35年)に政府委員として欧州各国を巡視。
野原 種次郎(のはら たねじろう、1872年6月13日(明治… 野原 種次郎(のはら たねじろう、1872年6月13日(明治5年5月8日) - 1937年(昭和12年)9月11日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 兵庫県川辺郡、のちの東谷村(現川西市)で生まれた。農業を営む。東谷村議、同村長、川辺郡会議員、兵庫県議、兵庫県町村会会長、同農会評議員、所得税調査委員、兵庫県農政協会理事、北摂銀行頭取、能勢妙見自動車、猪名川水力電気、妙見鋼索鉄道各(株)社長となる。 1925年(大正14年)の兵庫5区の補欠選挙において無所属で立候補して当選した。その後、立憲政友会に入り、衆議院議員を1期務めた。1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
大久保 虎吉(おおくぼ とらきち、1872年6月13日(明治… 大久保 虎吉(おおくぼ とらきち、1872年6月13日(明治5年5月8日) - 1924年(大正13年)3月2日)は、日本の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 高知県長岡郡本山村(現本山町)で、大久保克人、常子夫妻の長男として生まれる。土佐自由党に加わり自由民権運動に参加。 1893年、武市安哉が組織した高知殖民会に賛同し、北海道樺戸郡浦臼に移住して開墾に従事。その後、天塩国中川郡ヒウカで農場を、上川郡美瑛村で牧場を経営。1904年2月、上川郡名寄に転居し木材業を経営。名寄倉庫取締役、天塩銀行監査役、士別電気取締役、開北炭礦取締役、士別商事取締役、士別軌道 (株) 社長、大久保木材 (株) 社長、上川郡士別町会議員などを務めた。
金沢 庄三郎(かなざわ しょうざぶろう、明治5年5月7日(1… 金沢 庄三郎(かなざわ しょうざぶろう、明治5年5月7日(1872年6月12日) - 昭和42年(1967年)6月2日)は、日本の言語学者、国語学者。本来の名前は金澤 庄三郎である。雅号は濯足(たくそく)で、その出典は屈原の詩集『楚辞』の中の「漁夫」である。 大阪生まれ、東京帝国大学卒。アジアの各言語の比較研究を行った。北海道(アイヌ語)、大韓帝国(朝鮮語)、琉球、シベリア(ロシア語)、満洲(満洲語、蒙古語)などでフィールドワークを行い、さらに中国語も修めた。また、國學院大學教授を務め、東京帝国大学、東京外国語学校、駒澤大学にも出講した。 日本語と朝鮮語を対象とした、「日韓両国語同系論」(1910年(明治43年))や「日鮮同祖論」(1929年(昭和4年))は、朝鮮半島併合を理論的に正当化するため、併合推進者が頻繁に引用した。
佐々 醒雪(さっさ せいせつ、明治5年5月6日(1872年6… 佐々 醒雪(さっさ せいせつ、明治5年5月6日(1872年6月11日) - 大正6年(1917年)11月25日)は、日本国文学者・俳人である。本名は佐々政一(さっさ まさかず/せいいち)。 京都に生まれ、明治29年(1896年)東京帝国大学文科大学卒。在学中の明治27年(1894年)に俳句結社・筑波会を結成し、雑誌『帝国文学』に『連俳小史』を連載した。旧制第二高等学校や旧制山口高等学校で国文学を教えた。また、明治大学でも教鞭を執った。 明治34年(1901年)12月に山口高校を依頼退官した後、書店・金港堂に入社し、雑誌『文芸界』を編集した。明治39年(1906年)に東京高等師範学校教授に就任した。
川合 為吉(かわい ためきち、1872年6月10日〈明治5年… 川合 為吉(かわい ためきち、1872年6月10日〈明治5年5月5日〉 - 1933年〈昭和8年〉10月18日)は、明治の政治家。警察官。山形県山形市長(第8代)。 山形県南村山郡山元村(現上山市)出身。山形県警部、寒河江警察署長、米沢警察署長、山形警察署長などを歴任。1923年(大正12年)7月、山形市長に就任した。在任中は仙山線の実現、当時としては珍しい鉄筋コンクリート造の第一小学校の改築などに尽力した。1927年(昭和2年)7月、退任した。
林 毅陸(はやし きろく、1872年6月6日(明治5年5月1… 林 毅陸(はやし きろく、1872年6月6日(明治5年5月1日) - 1950年(昭和25年)12月17日)は、明治後期から戦前昭和期の歴史家、法学者(法学博士)、政治家。枢密顧問官、衆議院議員、帝国学士院会員、慶應義塾長、初代愛知大学学長等を歴任。号は弘堂。 位階勲等は正四位勲三等旭日中綬章。日本の外交史研究の先駆者として知られている。 佐賀県松浦郡田野村(現在の唐津市肥前町田野)に、豪族・中村清七郎の四男として生まれる。幼名は中村毅陸。母は唐津藩士・浦川喜右衛門の次女。 10歳の頃、中江兆民の門下であり、『仏和辞書』を同盟出版から出版し、東京府で仏学の私塾を開いていた実兄・中村秀穂が帰省の際に伴われて上京。
百武 三郎(ひゃくたけ さぶろう、1872年6月3日(明治5… 百武 三郎(ひゃくたけ さぶろう、1872年6月3日(明治5年4月28日)- 1963年(昭和38年)10月30日)は、日本の海軍軍人、海軍大将、侍従長。二人の弟、百武源吾は海軍大将、百武晴吉は陸軍中将。三郎・源吾は海軍史上唯一組の海軍大将兄弟である。 妻・マチ(旧姓:李家)の父は、陸軍少佐の李家頼蔵で、海軍造兵総監(後の海軍技術中将)の李家政太は叔父に当たる。 佐賀藩士、百武庭蔵の三男として生まれる。佐賀中学、攻玉社を経て、1892年、海軍兵学校(19期)を首席で卒業。少尉候補生として「松島」に乗り組み日清戦争に従軍。1894年に少尉任官。「八島」回航委員としてイギリス出張。1902年、海軍大学校(甲種3期)卒業。
渋川 玄耳(しぶかわ げんじ、1872年6月3日(明治5年4… 渋川 玄耳(しぶかわ げんじ、1872年6月3日(明治5年4月28日) - 1926年(大正15年)4月9日)は、明治期に活躍したジャーナリスト、随筆家、俳人。佐賀県出身。本名渋川柳次郎。ほかに薮野椋十(やぶの むくじゅう)の筆名を用いる。 佐賀県杵島郡西川登村小田志(現武雄市西川登町小田志)出身。長崎商業を卒業後、法律家を志し上京。獨逸学協会中学校および國學院で学び、東京法学院(現中央大学)に進み卒業。高等文官試験に合格し、福島県いわき市平区裁判所の裁判官となる。その後、陸軍法務官として熊本県の第六師団に勤務。熊本時代には、夏目漱石を主宰に寺田寅彦、厨川千江らがおこした俳句結社紫溟吟社(しめいぎんしゃ)に参加。
名取 和作(なとり わさく、1872年6月3日〈明治5年4月… 名取 和作(なとり わさく、1872年6月3日〈明治5年4月28日〉 - 1959年〈昭和34年〉6月4日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の実業家である。電機メーカー富士電機製造(現・富士電機)の初代社長や時事新報社社長などを務め、貴族院廃止直前の短期間だが貴族院勅選議員にも在任した。子に写真家・編集者の名取洋之助がいる。 名取和作は、明治5年4月28日(新暦:1872年6月3日)、筑摩県諏訪郡上蔦木村(現在の長野県諏訪郡富士見町)に名取和三郎の長男として生まれた。名取家は「桔梗屋」の屋号で造り酒屋を営む旧家で、元は裕福な家であったものの、明治時代に入ってからは松方デフレの影響で没落していた。
四代目 嵐 芳三郎(よだいめ あらし よしさぶろう、明治5年… 四代目 嵐 芳三郎(よだいめ あらし よしさぶろう、明治5年4月25日(1872年5月31日)- 大正元年(1912年)10月11日)は、明治時代に活躍した歌舞伎役者。屋号は豐島屋。俳名に橘丈。本名は寺田 市太郎(てらだ いちたろう)。 二代目嵐璃珏の孫として大阪島之内に生まれる。明治12年 (1879) 三代目嵐芳三郎(後の二代目市川権十郎)の門人となり、祖父がかつて名乗った二代目嵐市太郎を名乗る。四代目嵐芳三郎を襲名後、明治37年 (1904) 頃より東京の舞台にも出るようになり、宮戸座などの小芝居で活躍する。上方色濃厚な技巧派の芸風で、『夏祭浪花鑑』の團七、『桜鍔恨鮫鞘』の八郎兵衛などの上方世話狂言や、『伽羅先代萩』の政岡などの丸本時代物に秀でていた。
岡井 慎吾(旧字体:岡井愼吾)(おかい しんご、1872年〈… 岡井 慎吾(旧字体:岡井愼吾)(おかい しんご、1872年〈明治5年〉5月29日- 1945年〈昭和20年〉2月13日)は、日本の教育者、漢文学者。柿堂と号した。研究論文の『玉篇の研究』で知られている。 1872年に福井県丹生郡立待村(現・鯖江市)の地主の家に生まれる。 父親を早くに亡くしたため母親の元に育ち、福井師範学校を卒業後、福井中学校で教員心得となる。 1898年(明治31年)、教員検定試験で国語、漢文に合格し愛媛県西条中学校(現・愛媛県立西条高等学校)に転任。 旧制石川県第二中学校(現・石川県立金沢錦丘中学校・高等学校)教諭、石川県師範学校訓導を歴任、広島高等師範学校附属中学校(現・広島大学附属中学校・高等学校)に招聘されたのち、1915年(大正4年)に朝鮮平壌中学に赴任した。
紀 淑雄(きの としお、1872年5月28日(明治5年4月2… 紀 淑雄(きの としお、1872年5月28日(明治5年4月22日) - 1936年(昭和11年)4月15日)は、日本の美術学者、美術評論家、早稲田大学講師・教授、本願寺文学寮講師、女子美術学校講師、日本美術学校校長。号は星峰(星峯)。 1872年5月28日(明治5年4月22日)、元津軽藩お抱えの能楽師(喜多流)である紀淑真の子として、東京市本所区(現・東京都墨田区)に生まれる。 東京専門学校普通科(1888年9月入学、1890年7年卒業)、東京専門学校文学科(1890年9月入学、1893年7月卒業)を経て、1893年(明治26年)9月から本願寺文学寮講師となり、国文学・英文学を担当する。1896年(明治29年)4月から早稲田尋常中学校教員、同年9月から東京専門学校講師となる。
秋保 安治(あきほ やすじ、明治5年4月21日(1872年5… 秋保 安治(あきほ やすじ、明治5年4月21日(1872年5月27日) - 昭和17年(1942年)1月9日)は、日本の教育者。東京高等工業学校(のちの東京科学大学)教授兼東京府技師や、文部省督学官、東京科学博物館(のちの国立科学博物館)館長等を務めた。 宮城県仙台市で旧仙台藩士秋保住房の四男として生まれる。宮城県師範学校(のちの宮城教育大学)卒業後、1896年(明治29年)、東京高等工業学校(のちの東京科学大学)附設工業教員養成所木工科を卒業。仙台市徒弟実業学校(のちの仙台市立仙台工業高等学校)教諭を経て、1899年(明治32年)同校長。1900年(明治33年)岩手県実業学校(のちの岩手県立盛岡工業高等学校)教諭。
仙石 政敬(せんごく まさゆき、1872年5月26日〈明治5… 仙石 政敬(せんごく まさゆき、1872年5月26日〈明治5年4月20日〉- 1935年〈昭和10年〉9月16日)は、明治時代から昭和初期にかけての官僚・政治家。子爵。 1872年(明治5年)、旧出石藩主・仙石政固の長男として生まれる。1891年(明治24年)7月、学習院高等学科を卒業。1893年(明治26年)、久邇宮朝彦親王の六女・素子女王と結婚した。1898年(明治31年)、東京帝国大学法科を卒業。1899年(明治32年)11月、高等文官試験に合格。その後、一時志願兵として近衛師団に入営したが、1900年(明治33年)、足疾のために現役を免除された。 宮内省諸陵頭などを務めたのち、1923年(大正12年)賞勲局総裁、1925年(大正14年)宗秩寮総裁を歴任した。
北村 季晴(きたむら すえはる、1872年5月22日(明治5… 北村 季晴(きたむら すえはる、1872年5月22日(明治5年4月16日) - 1931年(昭和6年)6月17日)は、明治・大正期日本の作曲家、作詞家、演出家。東京府銀座出身。 明治5年4月16日(西暦1872年5月22日)、東京府銀座(東京市京橋区を経て現在の東京都中央区)に漢学者で14代将軍・徳川家茂の侍講を務めた北村季林・鉞夫妻の一子として生まれた。江戸時代前期の国文学者・北村季吟は7代前の先祖で、季晴は季吟から見て仍孫(じょうそん)に当たる。 父と親交のあったジェームス・カーティス・ヘボンが開設したヘボン塾の後身であるジョン・C・バラの築地大学校で学ぶ。その後、ヘボンが開校した明治学院に入学し、同級生となった島崎藤村と親交を結ぶが季晴に音楽の才能を見出したヘボンの薦めもあり学院を中退。
加藤 小太郎(かとう こたろう、明治5年4月16日(1872… 加藤 小太郎(かとう こたろう、明治5年4月16日(1872年5月22日) – 昭和10年(1935年)4月27日)は、日本の日本の政治家・衆議院議員(立憲同志会→憲政会)。京都市助役。実業家。旧名太郎松。族籍は新潟県士族。 新潟県北蒲原郡新発田町(現在の新発田市)出身。新潟県士族・先代小太郎の長男。1898年(明治31年)、同志社大学部政治科を卒業。1902年(明治35年)まで滋賀県立商業学校で教壇に立った。その後、国民新聞社大阪支局長、『東京日日新聞』を発行する日報社の業務担当社員・理事を歴任した。1909年(明治42年)、京都市助役に就任。1914年(大正4年)までの在任中、京都市三大事業を手掛け、また京都商品陳列所所長、京都市盲唖院院長、京都市水道事務所所長、京都市立第一商業学校校長などを兼ねた。
市来 乙彦(いちき おとひこ、正体字:市來 乙彥、明治5年壬… 市来 乙彦(いちき おとひこ、正体字:市來 乙彥、明治5年壬申4月13日〈1872年5月19日〉 - 昭和29年〈1954年〉2月19日)は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。大蔵次官、大蔵大臣(加藤友三郎内閣)、日本銀行総裁、東京市長、貴族院議員(勅選)、参議院議員(1期3年)などを歴任した。 旧薩摩藩士の三男として、鹿児島県鹿児島市春日小路町に生まれる。地元の中学造士館を卒えて、1888年(明治21年)鹿児島高等中学造士館予科に進むが、家計の都合で中退。1889年(明治22年)に上京し、田尻稲次郎の書生となって苦学する。1890年(明治23年)10月に第一高等中学校予科へ編入学し、翌年本科へ進む。
西風 重遠(にしかぜ しげとお、1872年 5月13日(明治… 西風 重遠(にしかぜ しげとお、1872年 5月13日(明治5年4月7日)– 1942年(昭和17年)11月30日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・伊之輔。 和歌山県那賀郡、のちの粉河村(粉河町を経て現紀の川市)で西風清五郎の長男として生まれた。1899年(明治32年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1916年(大正5年)5月に家督を相続した。 大学卒業後、大阪商船に入社し、長崎、台湾、宇品、朝鮮の各支店長を歴任。1909年(明治42年)に退社して和歌山市で回漕業を営んだ。その他、富島組取締役、武庫酒造取締役、摂陽商船取締役、大阪商運監査役などを務めた。 1912年(明治45年)5月、第11回衆議院議員総選挙で和歌山県郡部から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
相良 安之助(さがら やすのすけ、1872年5月13日(明治… 相良 安之助(さがら やすのすけ、1872年5月13日(明治5年4月7日) - 1948年(昭和23年)6月8日)は、明治から昭和時代前期の政治家・実業家。貴族院多額納税者議員。 鹿児島県鹿児島市柳町生まれ。相良笑蔵の長男で、1905年(明治38年)9月、家督を相続する。生家は酒造業を営む。明治法律学校を卒業後、1897年(明治30年)鹿児島市柳町衛生組合組長、県衛生組合連合会会長、鹿児島市会議員、同市商業会議所議員、鹿児島県会議員、鹿児島肥料、鹿児島銀行、鹿児島朝日新聞各取締役などを歴任した。 1931年(昭和6年)鹿児島県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、同年7月4日から翌年の9月28日まで在任した。
青木 昌吉(あおき しょうきち、明治5年4月5日(1872年… 青木 昌吉(あおき しょうきち、明治5年4月5日(1872年5月11日) - 昭和14年(1939年)3月2日)は、日本のドイツ語学者。日本ゲーテ協会初代会長。 東京府南多摩郡鶴川村大蔵(現・東京都町田市)出身。旧姓は中溝。神奈川県議会議長の中溝昌弘(東京都知事の鈴木俊一の曾祖父)の長男にあたる。衆院議員で京浜電鉄社長の青木正太郎の娘婿。 小学校には行かず、寺小屋に学び、医者になるつもりで私塾で独語を一年半学んだのち、第一高等中学校で6年間学ぶ。東京帝国大学文科大学独逸文学科卒業後、大学院に進んだが翌年退学し、熊本の第五高等学校教授となる。当時の校長は中川元、教員仲間に夏目漱石、上田整次、児島献吉郎、小島伊佐美、田丸卓郎らがおり、多大な影響を受けた。
藤戸 達吾(ふじと たつご、1872年5月10日(明治5年4… 藤戸 達吾(ふじと たつご、1872年5月10日(明治5年4月4日) – 1920年(大正9年)7月27日)は、日本の新聞人。地方政治家。 1872年(明治5年)[西暦年要検証]4月4日高知県安芸郡土居村(現在の安芸市土居)に堀内弁次の子に生まれた。1895年(明治28年)東京専門学校(現在の早稲田大学)英文科卒業。黒岩涙香の万朝報社に入社。 安芸の瓦製造業藤戸家の養子となり帰郷。土陽新聞に入社。以後松月の号で南海文壇に重きをなした。1905年(明治38年)高知新聞創設に参加し、文筆を持って活動する。岡本社長亡き後は野中楠吉、杉駸三郎とともに新聞社の元老格となる。 1919年(大正8年)県会議員に当選した。
和田 潤(わだ じゅん、1872年5月8日(明治5年4月2日… 和田 潤(わだ じゅん、1872年5月8日(明治5年4月2日)- 1947年(昭和22年)7月30日)は日本の内務官僚、政治家。沖縄県知事、郡山市長、松阪市長。 1872年(明治5年)4月2日、高知県香美郡に生まれる。1899年(明治32年)に和仏法律学校(現・法政大学)を卒業し、1901年(明治34年)に文官高等試験に合格する。 内務省に入省。警視庁警部。北海道庁警視、香川県事務官・第四部長、島根県事務官・警察部長、佐賀県事務官・警察部長、大分県・鳥取県・沖縄県内務部長を経て、1921年(大正10年)に沖縄県知事に就任し、1923年(大正13年)に退官する。 1929年(昭和4年)に福島県郡山市長(-1937年(昭和12年))、1937年(昭和12年)に三重県松阪市長(-1941年(昭和16年))を務める。
田崎 慎治(たざき しんじ、1872年5月6日(明治5年3月… 田崎 慎治(たざき しんじ、1872年5月6日(明治5年3月29日) - 1954年(昭和29年)4月3日)は、日本の商学者。村瀬春雄門下で、専門は海運論、海上保険論。神戸大学名誉教授、神戸商業大学(現神戸大学)初代学長。パルモア学院学院長(1944年-1947年)。正三位勲一等。 長崎県西彼杵郡三重村(現長崎市三重)出身。田崎慶治の三男、同周三郎の弟、同武男の兄として生まれ、1910年(明治43年)分家する。 長崎商業学校(現長崎市立長崎商業高等学校)を経て、1901年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部保険科を卒業。日本における保険学の祖である村瀬春雄の最初の門下生となった。村田省蔵は友人。
木下 竹次(きのした たけじ、明治5年3月25日(1872年… 木下 竹次(きのした たけじ、明治5年3月25日(1872年5月2日) - 1946年(昭和21年)2月14日)は、日本の教育者。 足羽県大野郡勝山町(現在の福井県勝山市)出身。1898年(明治31年)、東京高等師範学校文科を卒業し、研究科の修身科・教育科で学んだ。奈良県師範学校教諭、富山県師範学校教諭を経て、1904年(明治37年)に鹿児島県師範学校教諭に転じた。1910年(明治43年)、鹿児島県女子師範学校が分離・独立すると校長に就任し、鹿児島県立第二高等女学校校長も兼ねた。1917年(大正6年)、京都女子師範学校校長となり、翌年には京都府立桃山高等女学校校長を兼ねた。 1919年(大正8年)、奈良女子高等師範学校教授となり、同附属実科高等女学校主事、同附属小学校主事を兼ねた。
内海 弘蔵(うつみ こうぞう、明治5年3月24日(1872年… 内海 弘蔵(うつみ こうぞう、明治5年3月24日(1872年5月1日) - 昭和10年(1935年)12月7日)は、神奈川県出身の国文学者、歌人。号は月杖(げつじょう)。 神奈川県生まれ。獨逸学協会学校、第一高等中学を経て、1898年(明治31年)に東京帝国大学国文科を卒業。早稲田大学等の講師を経て1904年、明治大学講師に就任、後に教授。また、落合直文の短歌結社「浅香社」に参加し、歌人としても活動した。 『平家物語』や『方丈記』などの注釈書を著しており、特に『徒然草』を兼好の「一大趣味論」とした『徒然草評釈』で知られる。 1910年に明治大学硬式野球部が創設されると同時に部長を務めることになった。
奈倉 次郎(なぐら じろう、1872年5月〈明治5年4月〉-… 奈倉 次郎(なぐら じろう、1872年5月〈明治5年4月〉- 1947年11月20日)は、日本の英文学者、英語教育者、翻訳家。山口高等商業学校(現・山口大学)教授、立教学校(現・立教大学)英語教授。多くの編著があり、英語教科書や青年英文学叢書など広く読まれた。 1872年5月(明治5年4月)、静岡県伊豆生まれ。兄は静岡県人・奈倉新一郎。 伊豆学校で学んだ後、東京へ出て、東京英語専修学校(立教大学の前身校の一つ)で修学する。英国人アーサー・ロイド(立教学院総理)、米国人ジエーキンボル両氏に就いて英語及び英文学を修める。 1890年(明治23年)、郷里に戻って伊豆学校の英語教師となる。その後、再び東京へ出て、1891年(明治24年)、私立錦城学校英語専攻科を卒業。
松崎 章太郎(まつざき しょうたろう、明治5年(1872年)… 松崎 章太郎(まつざき しょうたろう、明治5年(1872年)5月 – 没年不詳)は、東京市麻布区長、東京府豊多摩郡落合町長、医師。 岡山県和気郡福河村(現在の備前市)出身。1893年(明治26年)、第三高等中学校を卒業し、翌年医術開業免状を得た。日清戦争では陸軍三等軍医として従軍した。その後岡山や大阪で開業。1903年(明治36年)より内務省衛生局に技手として勤務し、日露戦争では陸軍二等軍医として従軍した。その後、静岡県技師・警察医長、同衛生課長、宮城県技師・衛生課長、愛知県技師・衛生課長などを歴任した。退官後、東京市主事・衛生課長に任命され、のち麻布区長に転じた。1928年(昭和3年)、落合町長に選ばれた。
大道寺 慶男(だいどうじ よしお、1872年(明治5年)5月… 大道寺 慶男(だいどうじ よしお、1872年(明治5年)5月 - 1962年(昭和37年)2月22日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。弁護士。 三重県名賀郡比奈知村(現在の名張市)出身。1897年(明治30年)、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業。判事検事登用試験に合格し、司法官試補・検事代理を務めた。のち岐阜市に弁護士事務所を開業し、岐阜弁護士会長に選出された。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。