新井 石龍(あらい せきりゅう、俗名:小島 藤七、1889年… 新井 石龍(あらい せきりゅう、俗名:小島 藤七、1889年〈明治22年〉9月29日 - 1984年〈昭和59年〉2月16日)は、日本の曹洞宗の僧侶、書家。雲洞庵四十五世住職。号は無著。 新潟県中蒲原郡村松町(現 五泉市村松)出身。1911年(明治44年)3月に新潟中学校を卒業、1914年(大正3年)7月に第四高等学校を卒業、1917年(大正6年)7月に京都帝国大学文科大学哲学科を卒業。 1918年(大正7年)に雲洞庵四十五世住職に就任、1921年(大正10年)6月に養父で曹洞宗管長の新井石禅に随行してアメリカに渡り、6カ月間、各地を視察、ウォレン・ハーディング大統領に謁見。 1939年(昭和14年)に新潟県仏教各宗代表中支派遣皇軍慰問団団長として中支戦線を巡錫、1942年(昭和17年)に南満州鉄道に招聘されて満州に渡り、各地を行脚、南満州鉄道職員に講演。
平岡 力(ひらおか りき、1889年(明治22年)9月29日… 平岡 力(ひらおか りき、1889年(明治22年)9月29日 - 1980年(昭和55年)8月2日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 鹿児島県日置郡吉利村(日吉町を経て現日置市日吉町吉利)で生まれた。陸軍士官学校第24期卒業。1938年(昭和13年)7月15日に陸軍歩兵大佐進級と同時に鹿児島連隊区司令官に着任。1940年(昭和15年)8月に歩兵第45連隊長(第11軍・第6師団・歩兵第36旅団のち第6歩兵団)に転じ、日中戦争に出動。岳州から第一次長沙作戦、第二次長沙作戦などに参加した。 1942年(昭和17年)11月に横浜連隊区司令官に就任し、1943年(昭和18年)3月に陸軍少将に進級した。
松本 象二郎(まつもと しょうじろう、明治22年(1889年… 松本 象二郎(まつもと しょうじろう、明治22年(1889年)9月27日 - 昭和17年(1942年)5月12日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 鳥取県西伯郡崎津村(現在の米子市大崎)出身。父・松本林太郎は警官で、島根県八束郡美保関町(現在の松江市)や横田町(現在の奥出雲町)に勤務した。 象二郎は、小学校時代から水泳が得意で、大崎、安来間を平気で泳いだという。米子中学(現在の米子東高校)に入ってからは、大崎から学校までの10キロの道を、米川沿いに黙々と歩いて通った。米中を抜群の成績で卒業したが、海軍兵学校に入ったのは、卒業翌年の明治42年(1909年)9月である。 大正3年(1914年)第一次世界大戦が勃発すると、ドイツ東洋艦隊の根拠地青島の攻略戦に「千歳」乗組として参加した。
山口 三郎(やまぐち さぶろう、1889年(明治22年)9月… 山口 三郎(やまぐち さぶろう、1889年(明治22年)9月27日 - 1934年(昭和9年)2月1日)は、日本の海軍軍人で海軍航空草創期の搭乗員。海軍随一の空爆の名手であったが、神兵隊事件で内乱予備陰謀罪に問われ検挙された。最終階級は海軍中佐。
板 祐生(いた ゆうせい、 1889年9月24日‐1956年… 板 祐生(いた ゆうせい、 1889年9月24日‐1956年2月5日)は明治時代から昭和時代にかけての日本の版画家、収集家。孔版画を日本に普及させた。 鳥取県西伯郡東長田村(現南部町)の生まれ。本名は板愈良(いた まさよし)。父は板房太郎。1904年から1945年まで鳥取県内の小学校教員を歴任した。以降、鳥取県の法勝寺村役場に勤務した。大正から没年にわたって孔版画を制作している。独学によって謄写版(ガリ版)を利用した孔版画を制作、つぶし孔版、切り抜き孔版を自ら創案した。また、1917年から『珍道楽』という趣味の団体に参加し、料治熊太など30名の収集家と交流を深めた後、1919年に三田平凡寺の『我楽他宗』に参画し、第二十番十徳山竜駒寺と号して富士山に関する物やこけしなどの郷土玩具、民具、菓子のラベル、ポスターなどを収集し、自らそれらを題材にした絵暦、絵草紙、蔵書票などを制作して同好の士と交換を行った。
抜山 平一(ぬきやま へいいち、1889年9月23日-196… 抜山 平一(ぬきやま へいいち、1889年9月23日-1965年8月18日)は、東京府東京市出身の電気工学者。
海野 三朗(うんの さぶろう、1889年(明治22年)9月2… 海野 三朗(うんの さぶろう、1889年(明治22年)9月21日 - 1961年(昭和36年)1月14日)は、大正・昭和期の冶金学者、僧侶、政治家。衆議院議員、参議院議員、理学博士。 山形県山形市で、浄土真宗本願寺派・明善寺住職、海野覚英の三男として生まれる。1916年(大正5年)東北帝国大学理科大学物理学科を卒業した。 山形県立米沢中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)教諭に就任。1919年(大正8年)農商務省に入省し、製鐵所技手、同技師を歴任。その後、八幡製鉄所研究所員、日本製鐵理事、同研究所調査部長、技術院事務嘱託などを務めた。1935年(昭和10年)鉄炭素の研究で日本学士院賞を受賞した。
三代目 尾上 多賀之丞(さんだいめ おのえ たがのじょう、1… 三代目 尾上 多賀之丞(さんだいめ おのえ たがのじょう、1889年(明治22年)9月21日 - 1978年(昭和53年)6月20日)は、歌舞伎役者。位階は正五位。 戦前戦後にかけて活躍した。本名は樋口 鬼三郎。俳名は梅華。屋号は音羽屋。 東京市日本橋区(現・東京都中央区)出身。叔父は歌舞伎役者四代目淺尾工左衛門。役者としての初舞台は明治25年(1892年)8月、市川鬼三郎の名前で東京赤坂福禄座『恋初緑鈴木主水』。明治32年(1899年)頃、一時、木挽町にいた鏑木清方に入門、日本画を習得している。明治44年(1911年)9月、明治座での『四千両小判梅葉』の子分助六他で五代目市川鬼丸(いちかわ きがん)を襲名し名題昇進を果たす。
矢口 達(やぐち たつ、1889年9月20日 - 1936年… 矢口 達(やぐち たつ、1889年9月20日 - 1936年4月4日)は、日本の英文学者、翻訳家。 茨城県新治郡高浜町(現在の石岡市)生まれ。土浦中学校在学中には、一期上の熊岡美彦や同期の永瀬義郎らと交流を持つ。1913年早稲田大学英文科卒業。 日夏耿之介らの『聖盃』同人。東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校・附属中学校)教師、早稲田高等学院教授、早稲田大学講師を歴任。 息子はエッセイストの矢口純。
多田 勉吉(ただ べんきち、1889年(明治22年)9月19… 多田 勉吉(ただ べんきち、1889年(明治22年)9月19日 - 1958年(昭和33年)4月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍主計中将。広島県出身。
岩下 壮一(いわした そういち、1889年9月18日 - 1… 岩下 壮一(いわした そういち、1889年9月18日 - 1940年12月3日)は、日本のカトリック司祭、神学者、哲学者。大正から昭和初期の日本カトリック教会の精神的指導者と言われる。日本における中世哲学・スコラ哲学研究の第一人者でもある。 1889年9月18日、父・清周、母・幽香子の間に東京府東京市京橋区采女町、現在の東京都中央区銀座五丁目に生まれる。同年、清周が三井から独立して品川電燈会社を設立した折に、一家は芝区高輪南町(現・港区高輪周辺)に移る。 小学校に入る前、壮一は関節炎を患い、右足に障害を負った。多方面にわたって産業家として活躍した清周は、壮一を「ボストンの工科学校」(マサチューセッツ工科大学)あたりに留学させてエンジニアに育てる予定であったが、身体障害により「米国の学校にやられずに済んだ」。
武井 群嗣(たけい ぐんじ、1889年〈明治22年〉9月17… 武井 群嗣(たけい ぐんじ、1889年〈明治22年〉9月17日 - 1965年〈昭和40年〉1月26日)は、群馬県出身の内務・厚生官僚、国会職員。官選山形・山口県知事、厚生次官。位階は従三位。サッカー日本代表でもあり、大日本蹴球協会初代理事の一人。 群馬県利根郡利南村(現・沼田市沼須町)に、武井捨五郎の二男として生まれる。実家の酒造業が不振だったため高等小学校卒業後代用教員となった。群馬師範学校を経て、東京高等師範学校に入学。在学時は蹴球部に所属し、1916年3月に[要出典]東京高師を卒業した。 1917年5月に開催された第3回極東選手権競技大会の日本代表に佐々木等や藤井春吉らと共に選出され、2試合に出場した(そのうちの1試合が、フィリピン代表に2-15で敗れた試合である)。
功刀 亀内(くぬぎ きない、1889年(明治22年)9月16… 功刀 亀内(くぬぎ きない、1889年(明治22年)9月16日 - 1957年(昭和32年)12月30日)は、山梨県出身の実業家、郷土史料蒐集家、研究家。蒐集した山梨県に関する郷土資料群は「甲州文庫」と命名されている。 山梨県中巨摩郡豊村(現在の南アルプス市上今井)出身。生家は蚕糸業者で父は六蔵、亀内は三男。豊村高等小学校卒業後、家業を手伝う。 1919年(大正8年)1月には結婚し、甲府市穴切町に転居する。戦後に行われた対談の証言に拠れば、30歳頃には当時の最先端の流行であったオートバイを愛好し、本業の蚕糸業に活用し、趣味のツーリングを行ったという。「甲州文庫」の史料の一つである「山梨県下写真貼込帳」には、1916年(大正5年)の長野県諏訪(諏訪市)へのツーリングの写真が残され、群衆の中に亀内も写っているとされる。
北 勝太郎(きた かつたろう、1889年〈明治22年〉9月1… 北 勝太郎(きた かつたろう、1889年〈明治22年〉9月14日 - 1963年〈昭和38年〉2月21日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)・参議院議員(1期)。奈井江村初代村長。 石川県能美郡御幸村(現・小松市)出身。1894年、一家で砂川町奈井江に入植。1911年、空知農業学校卒業。卒業後は、家業の農業に従事。1915年大日本帝国陸軍に入営。少尉任官。砂川農村会長・奈井江産業組合長・奈井江水利組合長を兼任。1919年砂川町議会議員に当選。1920年保証責任北海道信用購買販売組合聯合会(北聯、のちのホクレン)理事および砂川農会会長。1924年大日本帝国陸軍中尉任官、同年北海道議会議員に当選し、以後連続3期務めた。
岩村 清一(いわむら せいいち、1889年〈明治22年〉9月… 岩村 清一(いわむら せいいち、1889年〈明治22年〉9月14日 - 1970年〈昭和45年〉2月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 東京府芝区(現・東京都港区)出身。1889年(明治22年)9月14日、岩村定高(初代三重県令:現在の知事)の子として生まれる。 旧制東京府立第一中学校より海軍兵学校第37期入校。入校時成績順位は180名中第54位、卒業時成績順位は179名中第8位。その後、海軍大学校甲種19期を29名中首席で卒業。 岩村の妻は高木八尺東大教授の妹。 評論家・医学博士の加藤周一は大甥。 岩村の同期に、井上成美海軍大将、小沢治三郎、草鹿任一、浮田秀彦、小松輝久、桑原虎雄、桑折英三郎、大川内伝七海軍中将、岩下保太郎海軍少将などがいる。
加藤 七郎(かとう しちろう、1889年(明治22年)9月1… 加藤 七郎(かとう しちろう、1889年(明治22年)9月11日 - 1944年(昭和19年)8月23日)は、昭和時代戦前の政治家。実業家。衆議院議員。静岡県会議長。 静岡県、のちの浜松市上池川町(現・浜松市中央区布橋一丁目)出身。旧制浜松中学校中退。 浜松市会議員、静岡県会議員、同副議長、同議長、浜松市茶業組合長、静岡県茶業組合連合常議員、全国茶業組合中央会議員、日本紅茶、東亜製茶各監査役、東海精機重工業社長、遠州鉱物工業組合理事長を歴任した。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙では静岡県第3区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬し当選。在任中に死去した。
山田 幸五郎(やまだ こうごろう、1889年9月10日 - … 山田 幸五郎(やまだ こうごろう、1889年9月10日 - 1982年7月23日)は、日本光学界の先駆者、海軍軍人、理学博士。最終階級は海軍技術少将。主に幾何光学中心に、光学機械、光学兵器の開発に寄与した。 青森県青森市出身。旧制青森県第三中学校(現青森県立青森高等学校)・旧制第一高等学校・東京帝国大学卒業。大学院で長岡半太郎に師事して輻射学を研究、長岡の推薦で技術士官(造兵官)として海軍に入り、光学兵器の研究を推進させた。青木小三郎、丸山修治らを育て、日本の光学兵器の水準を世界水準にまで高めた。 敗戦後、公職追放処分を受け、一時期は進駐軍の通訳などをして不遇の時期を過ごしたこともあった。 ロチェスター大学の客員教授となって以降は公職に復帰し、企業の取締役や大学教授などを歴任した。
吉阪 俊蔵(よしざか しゅんぞう、1889年9月10日 - … 吉阪 俊蔵(よしざか しゅんぞう、1889年9月10日 - 1958年7月14日)は、日本の男性官僚。商工省・内務省で活動した。 兵庫県武庫郡西灘村(現・神戸市灘区)の造り酒屋の六男に生まれる。京都府立三中、五高を経て、1913年東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、初め農商務省に入り、その後商工省を経て内務省に移った。1919年パリ講和会議全権随員となり、1921年に内務省社会局書記官に就任。1928年12月に国際労働機関理事会日本政府代表事務所長に就任しジュネーヴに駐在した。1936年内務省社会局参与。退官後は商工中金理事長、日本商工会議所専務理事等を歴任。 妻の花子は動物学者・箕作佳吉(箕作阮甫の孫)の次女で、俊蔵・花子夫妻の長男が建築家の吉阪隆正である。
吉良 俊一(きら しゅんいち、1889年(明治22年)9月9… 吉良 俊一(きら しゅんいち、1889年(明治22年)9月9日 - 1947年(昭和22年)4月30日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 1889年9月9日、大分県に生まれる。1909年3月、杵築中学を卒業。9月、海兵40期に入学。同期には山口多聞、宇垣纏、大西瀧治郎、千田貞敏らがいる。1912年7月、海兵40期を卒業し、少尉候補生になる。1913年(大正2年)12月、少尉任官。 1916年12月1日、航空術学生に任命。1921年(大正10年)8月6日、センピル教育団の講習に参加した。1922年11月10日、航空母艦「鳳翔」航空長兼分隊長に任命。1923年(大正12年)3月16日、「鳳翔」で行われた一〇式艦上戦闘機の発着艦テストに成功。
相沢 三郎(あいざわ さぶろう、1889年〈明治22年〉9月… 相沢 三郎(あいざわ さぶろう、1889年〈明治22年〉9月6日 - 1936年〈昭和11年〉7月3日)は、日本の陸軍軍人、剣道家。最終階級は陸軍歩兵中佐。皇道派将校として教育総監真崎甚三郎更迭に憤激し、統制派の軍務局長永田鉄山を殺害した相沢事件の犯人。 1889年(明治22年)9月6日、旧仙台藩士で裁判所書記、公証人となる相沢兵之助とまき子の長男として福島県西白河郡白河町(現白河市)に生まれる(本籍は宮城県仙台市東六番町1番地)。旧制一関中学校(現岩手県立一関第一高等学校)を経て、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を卒業する。陸軍士官学校に入り、1910年(明治43年)5月28日に卒業する(第22期)。
福原 定吉(ふくはら さだきち、1889年(明治22年)9月… 福原 定吉(ふくはら さだきち、1889年(明治22年)9月6日 ‐ 1980年(昭和55年)4月24日)は、日本の政治家。秋田県大曲町(現・大仙市)の町長を経て、合併後の大曲市の初代市長を務めた。位階は従五位。 福原寅吉の長男。父・寅吉は本来は福原家を継ぐはずだったが、複雑な事情から、福辺内(当時の須和町)に分家となり、1888年(明治18年)に商店を開いた。 大正元年の「仙北郡案内」によると、五十(いさば)集商に大坂久治、福原寅吉、伊勢多郎八、最上正吉と印刷されている。 1933年(昭和8年)に、仙北酒造株式会社を買い取り、12月には酒の免許を取得し、翌1934年(昭和9年)から個人経営として、黒松金福(のちの福原酒販)を始めた。
南原 繁(なんばら しげる、1889年〈明治22年〉9月5日… 南原 繁(なんばら しげる、1889年〈明治22年〉9月5日 - 1974年〈昭和49年〉5月19日)は、日本の政治学者。東京大学名誉教授。東京帝国大学の総長を務めた。位階は従二位。 無教会主義の立場から国家主義とマルクス主義を批判。サンフランシスコ講和条約をめぐっては全面講和を主張して内閣総理大臣吉田茂から「曲学阿世の徒」と罵られた。
菊地 養之輔(きくち ようのすけ、1889年9月5日 - 1… 菊地 養之輔(きくち ようのすけ、1889年9月5日 - 1983年1月5日)は大正、昭和期の日本の政治家、弁護士。日本社会党衆議院議員、日本弁護士連合会(日弁連)副会長、日中友好協会宮城県連合会長。仙台市名誉市民、岩沼市名誉市民。 1889年(明治22年)9月5日宮城県名取郡玉浦村(現在の岩沼市)に生まれる。日本地婦連会長の大友よふは従妹。妻は世界医師会会長の武見太郎と従妹。本籍地は仙台市東七番丁。1914年(大正3年)中央大学法科を卒業する。1921年(大正10年)弁護士試験に合格。翌1922年(大正11年)仙台市で弁護士事務所を開業する。息子の菊地一民も仙台弁護士会会長を歴任した。 弁護士の傍ら、社会運動に参加し、労働者、農民の立場に立った。
暉峻 義等(てるおか ぎとう、1889年9月3日 - 196… 暉峻 義等(てるおか ぎとう、1889年9月3日 - 1966年12月7日)は、日本の生理学者・産業医学者。日本における「労働科学」の創設者として知られる。 兵庫県生まれ。鹿児島の第七高等学校造士館卒業後、1910年東京帝国大学に入学。1917年東京帝国大学医学部卒業。在学中は永井潜に学んだ。1918年警視庁保健衛生事務嘱託となり「細民街」を調査する。1919年大原社会問題研究所の創立に際して所員となり、紡績女工・労働者・農民・開拓民の生活・栄養の調査を行う。『日本社会衛生年鑑』の編集も担当した。1921年倉敷労働科学研究所を設立して所長に就任。同研究所は、のちに東京に移転して日本労働科学研究所(労研)と改称、財団法人化した。
土倉 宗明(つちくら そうめい、1889年(明治22年)9月… 土倉 宗明(つちくら そうめい、1889年(明治22年)9月2日 - 1972年(昭和47年)6月16日)は、日本の政治家で立憲政友会→民主自由党→自由党所属の衆議院議員。 富山県東礪波郡中田町(現在の高岡市)出身。早稲田大学政治経済科に学んだ後、著述業に従事した。1913年(大正2年)第一次護憲運動に際して普選運動に取り組み、翌1914年(大正3年)普選運動期成同盟会が再興されると直ちに入会。その後立憲政友会院外団に入り大野伴睦とともに政友会院外団員として活動、第二次護憲運動にも政友会院外団員の一員として大野とともに参加。牛込区会議員、東京市会議員、同参事会員を歴任した。 1930年(昭和5年)、政友会公認で第17回衆議院議員総選挙に出馬し初当選。
白井 喬二(しらい きょうじ、1889年〈明治22年〉9月1… 白井 喬二(しらい きょうじ、1889年〈明治22年〉9月1日 - 1980年〈昭和55年〉11月9日)は、日本の時代小説作家。本名:井上 義道。大衆文学の巨峰。 NHKの大河ドラマ『花の生涯』『赤穂浪士』の演出を担当した井上博は長男。 横浜市に生まれる。鳥取県士族である父井上孝道(鳥取池田藩士出身)、同じく鳥取県士族の母タミの長男。当時父は警察官として横浜市に奉職中であった。 父の勤務のため青梅、甲府、浦和、弘前と小学校を転々とし、1902年(明治35年)、鳥取県米子市の角盤高等小学校に転入した。その後、米子中学校へ進み、最初はボート部に所属し、後に剣道部に移った。当時中学生としては珍しかった剣道二段の段位を取っている。
国吉 康雄(くによし やすお、1889年9月1日 - 195… 国吉 康雄(くによし やすお、1889年9月1日 - 1953年5月14日)は、日本の洋画家。岡山県岡山市中出石町(現・岡山市北区出石町一丁目)出身。 20世紀前半にアメリカ合衆国を拠点に活動した。
江上 緑輔(えがみ ろくすけ、1889年9月 - 没年不詳)… 江上 緑輔(えがみ ろくすけ、1889年9月 - 没年不詳)は、日本、朝鮮の検察官。 江上末吉の長男として福岡県に生まれる。1908年福岡県立中学修猷館、1911年7月第五高等学校英語法律科を経て、1917年7月東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。 長崎地方裁判所などの検事を務めた後、朝鮮に渡り、釜山地方法院、晋州支庁、咸興覆審法院、平壌覆審法院、京城地方法院の各検事を経て、1940年清津地方法院検事正、1943年3月大田地方法院検事正に就任する。
15代上山 勘太郎(うえやま かんたろう、前名・英之助、18… 15代上山 勘太郎(うえやま かんたろう、前名・英之助、1889年〈明治22年〉9月 - 1942年〈昭和17年〉)は、日本の商人(天産物直輸出商)、実業家。大日本除虫菊社長を務めた。大日本除虫菊の創業者・上山英一郎の長男。 和歌山県有田郡保田村山田原(現・有田市山田原)出身。東京高等商業学校に学び、天産物直輸出商を営んだ。ユーゴスラビア国に紀州産蜜柑苗を移植、寄贈した。1930年、大日本除虫粉社長に就任した。1939年、日本除虫菊輸出組合理事長に就任した。 大阪商工会議所貿易部長、ユーゴスラビア国日本駐箚名誉領事、大日本除虫菊、朝鮮除虫菊、箕島倉庫運送、関西金鳥販売、東京金鳥販売各社長、南海水力電気、松下電工、信太山ゴルフ各取締役、岸和田煉瓦綿業、日本レイヨン、白浜温泉土地倶楽部、南海鉄道、満州製紙、大阪ゴルフ、上山殖産各監査役などを務めた。
翠川 秋子(みどりかわ あきこ、1889年(明治22年)9月… 翠川 秋子(みどりかわ あきこ、1889年(明治22年)9月 - 1935年(昭和10年)8月20日〈遺体発見日〉)はアナウンサー。日本初の女性アナウンサー。 東京日本橋亀島町で、明治維新前には与力を務め荻野流砲術師範であった武士の家に生まれる。女子美術学校(現在の女子美術大学)を卒業。銀行員と結婚して養子に迎え、2男1女をもうけるが、1922年(大正11年)に死別。 その後、開局に向けて準備を進めていた社団法人東京放送局(NHK首都圏局の前身)総裁だった後藤新平の目に止まり、後藤の推薦によって1925年(大正14年)6月に社団法人東京放送局入り。当初は放送係として家庭講座を担当していたが、採用試験の際に琵琶を披露して豊かな声量を認められていたため、アナウンサーを兼任するようになる。
岩槻 信治(いわつき のぶじ、1889年8月30日 - 19… 岩槻 信治(いわつき のぶじ、1889年8月30日 - 1948年5月9日)は、日本の農業技師。20余種に及ぶ稲の品種改良を行い、西三河一帯の農業振興に大きく寄与した。岡崎市名誉市民。 愛知県碧海郡中園村(現・岡崎市中園町)に生まれる。なお岩槻が出生した直後の1889年(明治22年)10月1日、中園村は合併により長瀬村大字中園となるが、父善吉は同村の村長に就任している。長瀬村立長瀬尋常小学校(現・岡崎市立矢作北小学校)と江西高等小学校(現・岡崎市立矢作中学校)に学ぶ。1906年(明治39年)3月、愛知県農林学校(現・愛知県立安城農林高等学校)を卒業。8か月ほど母校の江西高等小学校に勤務。同年12月、愛知県農林学校の山崎延吉校長に招かれて碧海郡安城町の愛知県農事試験場(現・愛知県農業総合試験場)に入った。
佐藤 市郎(さとう いちろう、1889年(明治22年)8月2… 佐藤 市郎(さとう いちろう、1889年(明治22年)8月28日 - 1958年(昭和33年)4月14日)は、日本の海軍軍人、歴史家。海兵36期首席・海大18期首席。最終階級は海軍中将。 男3兄弟の長男で弟二人が内閣総理大臣(岸信介・佐藤栄作)を務めるという特異な家族構成である。さらに大甥(岸の孫)には第90・96・97・98代内閣総理大臣の安倍晋三がいる。 佐藤の遺品は、郷里である山口県熊毛郡田布施町の田布施町郷土館(外部リンク)に収蔵・展示されている。 山口県熊毛郡田布施町に、父・佐藤秀助、母・茂世の長男として生まれた。 東京府立第四中学校を経て、海軍兵学校36期(同期には南雲忠一がいる)に入校した。
島 善鄰(しま よしちか、1889年8月27日 - 1964… 島 善鄰(しま よしちか、1889年8月27日 - 1964年8月7日)は、日本の農学者。北海道大学第6代学長。その一生をリンゴの研究と普及に努めリンゴの神様といわれる。正三位、勲一等瑞宝章を授与。 1889年、陸軍軍人の島時中、きち夫婦の5男として広島県広島市に生まれる。8歳の時に父が亡くなり岩手県稗貫郡矢沢村高木(現・花巻市)に移る。盛岡中学(現・岩手県立盛岡第一高等学校)を経て1914年、東北帝国大学農科大学(現・北海道大学)を卒業。1916年、星野勇三教授に推挙されて青森県農事試験場の技師となる。当時の青森は褐斑病の発生でリンゴ生産減退の時期であったが、早速減収原因の調査に着手。リンゴ栽培改善事業として の三大事業を実施し、従来の粗放な技術から労働集約技術への転換を指導した。
北野 憲造(きたの けんぞう、1889年(明治22年)8月2… 北野 憲造(きたの けんぞう、1889年(明治22年)8月24日 - 1960年(昭和35年)7月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 滋賀県出身。税務署長・北野本次郎の息子として生まれる。彦根中学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第38連隊付となる。参謀本部付勤務などを経て、1919年(大正8年)11月、陸軍大学校(31期)を卒業した。 教育総監部付勤務、教育総監部課員、ドイツ駐在、教育総監部課員、歩兵第3連隊大隊長、教育総監部課員、陸軍省人事局課員などを歴任し、1933年(昭和8年)8月、歩兵大佐に昇進し陸士本科生徒隊長となった。
河田 槌太郎(かわだ つちたろう、1889年(明治22年)8… 河田 槌太郎(かわだ つちたろう、1889年(明治22年)8月20日 - 1964年(昭和39年)2月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 北海道上川郡東旭川村(現旭川市東旭川町)出身。1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官。 1936年(昭和11年)5月、支那駐屯軍高級副官となり日中戦争に出征。1937年(昭和12年)8月、歩兵大佐に昇進し北支那方面軍高級副官に転じた。1938年(昭和13年)3月、歩兵第44連隊長に就任し満州に赴任。1940年(昭和15年)3月、陸軍少将に進級し独立混成第10旅団長となり、済南に駐屯し再び日中戦争に従軍した。
幡谷 仙次郎(はたや せんじろう、1889年8月20日 - … 幡谷 仙次郎(はたや せんじろう、1889年8月20日 - 1964年1月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 茨城県東茨城郡小川町(現小美玉市)で、豪商・幡谷仙之助の二男として生まれた。日本大学法律科に学ぶ。小川町長となる。小川繭糸市場社長、石岡地区通運(株)監査役、鹿島参宮通運(株)社長を務める。 1949年の第24回衆議院議員総選挙において茨城1区から民主自由党公認で立候補して当選した。衆議院議員は1期務め、1952年の第25回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1964年死去。
片岡 華江(かたおか かこう、1889年(明治22年)8月2… 片岡 華江(かたおか かこう、1889年(明治22年)8月20日 - 1977年(昭和52年)10月22日)は、螺鈿師、蒔絵師。本名は照三郎。東京都出身。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
館 哲二 (たち てつじ、1889年8月18日 - 1968… 館 哲二 (たち てつじ、1889年8月18日 - 1968年9月27日)は、日本の内務官僚・政治家。参議院議員(3期)、府県知事。旧姓・木津。 富山県高岡市出身。木津太郎平の二男として生まれ、後に館萩江の入夫となり改姓。富山県立高岡中学校、第一高等学校を経て、1914年(大正3年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、内務省に入り岐阜県属として内務部学務兵事課に配属された。1917年(大正6年)10月、文官高等試験に合格した。 1918年(大正7年)4月、岐阜県警部となる。以後、同県警視・警務課長兼工場課長、同県内務部産業課長、神奈川県外事課長、茨城県知事官房文書課長兼内務部社会課長、内閣書記官、内閣官房記録課長、同総務課長などを歴任。
石井 光次郎(いしい みつじろう、1889年〈明治22年〉8… 石井 光次郎(いしい みつじろう、1889年〈明治22年〉8月18日 - 1981年〈昭和56年〉9月20日)は、日本の政治家。位階は従二位、勲等は勲一等、勲章は旭日桐花大綬章。衆議院議長(第54代)、副総理、法務大臣、通商産業大臣、行政管理庁長官、北海道開発庁長官、運輸大臣、商工大臣、朝日放送社長を歴任した。久留米市名誉市民。 福岡県久留米市出身。石井百次の四男として生まれ、1897年(明治30年)家督を相続。久留米商業学校(現・久留米市立久留米商業高等学校)、神戸高等商業学校(現・神戸大学)を経て、1914年(大正3年)東京高等商業学校(現・一橋大学)専攻部を卒業する。 1913年(大正2年)に高等文官試験に合格し、東京高商専攻部卒業後に警視庁警部、台湾総督府秘書課長兼外事課長などを経て1922年(大正11年)に朝日新聞社入社。
野長瀬 晩花(のながせ ばんか、明治22年(1889年)8月… 野長瀬 晩花(のながせ ばんか、明治22年(1889年)8月17日 - 昭和39年(1964年)3月31日)は、和歌山県出身の日本画家。国画創作協会の創立メンバーとして大正時代の日本画界で活躍した。 和歌山県西牟婁郡近野村(現:田辺市中辺路町近露)に資産家の三男として生まれる。本名、弘男。初め蘆秋と号する。 明治36年(1903年)14歳で大阪に出て、円山派の中川蘆月のもとで4年間基礎を学び、その後京都の谷口香嶠塾に移る。 明治42年京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)に入学(同級に小野竹喬、土田麦僊ら)。2年目には授業に出席せず(翌々年退学)、秦テルヲや竹久夢二をはじめとする進歩的な若い芸術家たちとの交流を深めた。
武塙 祐吉(たけはな ゆうきち、1889年〈明治22年〉8月… 武塙 祐吉(たけはな ゆうきち、1889年〈明治22年〉8月15日 - 1964年〈昭和39年〉4月3日)は、日本の政治家。第12代秋田市長。号は三山。 秋田県南秋田郡上井河村井内(現・井川町井内)に生まれる。本荘中学校(現・秋田県立本荘高等学校)を経て、1912年(明治45年)、早稲田大学法律科卒。卒業後1913年(大正2年)秋田魁新報社に入社したが、1914年(大正3年)に退社し帰郷した。 1920年(大正9年)、秋田県農会書記に就職するが、1923年(大正12年)に辞任し、同年秋田魁新報社に再入社した。 同社では経済、整理の各部長、副主筆、監査役、取締役編集局長、常務取締役に進んだ。 1945年(昭和20年)、上井河村長に就任。
内藤 豊次(ないとう とよじ、明治22年(1889年)8月1… 内藤 豊次(ないとう とよじ、明治22年(1889年)8月15日 - 昭和53年(1978年)3月20日)は、日本の実業家。エーザイ創業者・元社長。 戦前、日本の薬業界が主に外国品の輸入に頼っていることに対し、日本でも新薬の研究開発に注力しなければならないと考えていたという。周りの協力が得られなかったため、独力で創業した「合資会社桜ヶ岡研究所」が、現在のエーザイである。 福井県丹生郡糸生村(現・越前町)出身。明治36年(1903年)武生中学校を2年で中退したが、この時点で旧制高等学校卒業程度の学力を持っていたためという。明治38年(1905年)に大阪の工場で奉公し、翌年神戸の貿易商ウインケル商館(経営者はドイツ人)に勤める。
川瀬 俊男(かわせ としお、1889年8月15日 - 198… 川瀬 俊男(かわせ としお、1889年8月15日 - 1982年6月9日)は、日本の経営者。愛知県出身。 1918年に東京帝国大学法学科を卒業。三菱製紙での勤務を経て、1934年に江戸川化学工業常務に就任し、1946年には社長に昇格した。1956年から1960年6月までに会長を務めた。 1960年5月に藍綬褒章を受章し、1965年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1982年6月9日高血圧性心不全のために死去。92歳没。
杉 寛(すぎ かん、1889年8月14日 - 1974年8月… 杉 寛(すぎ かん、1889年8月14日 - 1974年8月7日)は、日本の俳優、元オペラ歌手である。杉 寬と表記されることもある。本名は杉山 寬治(すぎやま かんじ)。浅草オペラの花形として活躍し、後年は東宝、新東宝等で活躍したバイプレーヤーである。 1889年(明治22年)8月14日、東京府東京市本郷区曙町(現在の東京都文京区本駒込)に生まれる。1919年(大正8年)に発行された『人気役者の戸籍調べ』(文星社)の杉の項では、生年は「明治二十五年」(1892年)、本名は杉山寬次(読み同じ)である旨が記されている。 東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)卒業。小間物商を経て欧州航路の船員となるが、1913年(大正2年)に帝国劇場洋劇部の第3期研究生となり、日本のオペラ界に影響を与えたイタリアの演出家ジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシー(1867年 - 1940年)にオペラを師事。
三富 朽葉(みとみ くちは/きゅうよう、1889年〈明治22… 三富 朽葉(みとみ くちは/きゅうよう、1889年〈明治22年〉8月14日 - 1917年〈大正6年〉8月2日)は、日本の詩人。本名は義臣。 長崎県石田郡武生水村(現・壱岐市)生まれ。父・道臣は石田郡長を務めた。1896年、本家の伯父三富浄の養嗣子となる。旧制暁星中学校を経て、1908年に早稲田大学予科を修了し、早稲田大学本科英文科に入学する。大学の同期には宇野浩二・廣津和郎がいる。1909年、人見東明、加藤介春、福田夕咲らとともに、自由詩社を結成する。自由詩風で認められ、またフランス文学批評も著した。1911年、早稲田大学英文科を卒業。 1917年8月2日、犬吠埼君ヶ浜で溺れた友人の今井白楊を助けようとして、そのまま水死した。
中江 丑吉(なかえ うしきち、1889年(明治22年)8月1… 中江 丑吉(なかえ うしきち、1889年(明治22年)8月14日 - 1942年(昭和17年)8月3日)は、大正・昭和期の中国学者。 中江兆民の長男として大阪に生まれた。小石川竹早小学校、旧制早稲田中学校、旧制第七高等学校造士館を経て、1913年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。翌年8月に袁世凱の憲法制定顧問となった有賀長雄博士の助手として北京に赴く。これは当時官界にあった曹汝霖・章宗祥が日本留学中に中江家に寄寓していたという機縁によるものである。その期限が満了した1915年夏に日本に帰国。しかし、数ヶ月後に再び中国に渡り、以降30年にわたる北京での生活を始める。1919年、五四運動の際には曹汝霖・章宗祥を救出し、その前後から中国思想の研究に励む。
佐野 虎太(さの とらた、1889年(明治22年)8月8日 … 佐野 虎太(さの とらた、1889年(明治22年)8月8日 - 1961年(昭和36年)2月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級 鹿児島県桑原郡横川村(横川町を経て現霧島市)で生まれた。陸軍士官学校第23期卒業。青島の戦いに従軍し戦傷を受けた。1937年(昭和12年)7月20日に歩兵第80連隊補充隊長に就任し、11月1日に陸軍歩兵大佐に進級。1938年(昭和13年)5月に歩兵第23連隊長(第11軍・第6師団・歩兵第36旅団)に転じ、日中戦争に出動。武漢作戦では漢口に一番乗りの戦果を挙げ、岳州を根拠地として贛湘作戦などにも参加した。1940年(昭和15年)8月1日に熊本陸軍教導学校長に転じた。
安蔵 弥輔(あんぞう やすけ、1889年8月7日 - 19… 安蔵 弥輔(あんぞう やすけ、1889年8月7日 - 1963年1月22日)は、東京電力の初代社長(1951年5月 - 1952年9月)。他に東京電力会長、東京電力記念科学研究所理事長、日本電気協会会長を務めた。 1889年、東京生まれ。旧制東京中学、旧制第二高等学校を経て1912年東京帝国大学電気工学科を卒業後、猪苗代水力電気に入社。1923年猪苗代水力電気が東京電燈に合併されたことに伴い同社に移り、技師長や工務部長、取締役などを経て、1938年常務に就任。 戦後日本発送電副総裁を経て、1951年東京電力の初代社長に就任。翌1952年新井章治会長が死去したことに伴い会長に昇格。以後東電顧問、日本電力調査委員会委員長、日本電気協会会長などを歴任。
河目 悌二(かわめ ていじ、1889年8月6日 - 1958… 河目 悌二(かわめ ていじ、1889年8月6日 - 1958年4月23日)は、大正・昭和期の日本の画家(童画・商業美術)。愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)出身。初山滋、岡本帰一、川上四郎、武井武雄らとともに「童画の第一世代」のひとりである。父は教育者の河目正平。 1889年(明治22年)8月6日、愛知県碧海郡刈谷町大字熊字本屋敷(旧・碧海郡熊村、現・刈谷市八幡町)に生まれた。父親の河目正平は碧海郡熊村出身であり、刈谷藩の藩校である文礼館の教員を務めていた。母親の徳丸あやは刈谷藩江戸屋敷に生まれ、10歳の時に刈谷に移住していた。悌二は次男であり、兄1人と姉2人がいる。兄の河目揆一は小高原尋常小学校(現・刈谷市立小高原小学校)などで校長を務めた教育者である。
杉山 長谷夫(すぎやま はせお、1889年(明治22年)8月… 杉山 長谷夫(すぎやま はせお、1889年(明治22年)8月5日 - 1952年(昭和27年)8月25日)は、日本の作曲家、ヴァイオリニスト、音楽教育者、指揮者。本名は杉山 直樹(すぎやま なおき)。別名として杉山 長谷雄、杉山 はせをという表記も見られる。 愛知県名古屋市出身。1913年(大正2年)東京音楽学校器楽科卒業。安藤幸、アウグスト・ユンケル、ハインリヒ・ヴェルクマイスター、アレクサンドル・モギレフスキーらにヴァイオリンや作曲を師事した。東京音楽学校を卒業後はヴァイオリン奏者として活躍し、高階哲夫、多基永、高勇吉、芝盂泰、多忠亮らと室内楽運動を展開。暁星中学校、俳優学校、陸軍戸山学校などで音楽を教えた。