矢野 酉雄(やの とりお、1897年(明治30年)10月6日… 矢野 酉雄(やの とりお、1897年(明治30年)10月6日 - 1963年(昭和38年)11月20日)は、大正から昭和期の教育者、雑誌編集者、政治家。参議院議員(1期)。号・孤山。 福岡県三池郡上内村大字上内(銀水村を経て現大牟田市大字上内)で矢野巽の息子として生まれる。福岡県立八女中学校を経て、1917年(大正6年)福岡師範学校を卒業。その後、中央大学法科、日本大学高等師範科で学び、同年、福岡県三池郡内各尋常小学校訓導を務めた。その後、文部省教員検定試験に合格し中等教員免状を取得。以後、沖縄県女子師範学校教諭兼訓導兼同県立高等女学校教諭、鹿児島県第二師範学校教諭兼訓導、福岡県立嘉穂中学校教諭、同県実業補習学校指導員などを務めた。
白石 光治郎(しらいし こうじろう、1897年(明治30年)… 白石 光治郎(しらいし こうじろう、1897年(明治30年)10月6日 - 没年不明)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。平安北道知事。朝鮮総督府逓信局長。朝鮮総督府農商局長。 白石房次郎の長男として愛知県名古屋市に生まれる。1925年(大正14年)東京帝国大学法学部政治科を卒業し、朝鮮総督府に奉職する。平安北道、慶尚南道各警察部長、総督府事務官警務局勤務、平安南道内務部長、逓信局電気課長、総督府事務官官房外務部勤務兼任外務事務官を経て、平安北道知事に就任。1943年(昭和18年)7月、朝鮮総督府逓信局長兼高等海員審判所長に任じた。その後、朝鮮総督府農商局長に就任した。
田中 斉(田中 齊、たなか ひとし、1897年10月4日 -… 田中 斉(田中 齊、たなか ひとし、1897年10月4日 - 1966年12月27日)は、昭和時代前期日本の政治家、実業家、経営学者。衆議院議員(当選1回)。旧姓・鈴木。 1897年(明治30年)、愛知県東春日井郡坂下村(現在の春日井市)で鈴木実太郎の長男として出生する。名古屋商業学校を経て、1920年(大正9年)に明治大学専門部商科を卒業。1923年(大正12年)、ジョンズ・ホプキンズ大学大学院修了。 帰国後は母校の明治大学で講師を経て商学部教授に就いていたが、1925年(大正14年)に田中仁三郎の長女・とみ子に入婿する。仁三郎の実父は新愛知新聞社を創業した大島宇吉であり、外戚として同紙の経済部長に迎えられた。
田村 久三(たむら きゅうぞう、1897年10月1日 - 1… 田村 久三(たむら きゅうぞう、1897年10月1日 - 1972年3月23日)は、日本の海軍軍人、海上保安官、警備官。機雷専門。最終階級は海軍大佐、警備監(後の海将)。 栃木県出身。田村徳吉の三男として生まれる。(旧制)栃木県立栃木中学校卒業を経て、1918年に海軍兵学校(46期)を卒業。海軍大佐として終戦を迎える。戦後は、第二復員省、海上保安庁と警備隊(海上自衛隊の前身)で掃海作業の責任者として活動した。 日本海軍は、田村久三元海軍大佐を最高指導者として機雷関係のスタッフを揃え、米海軍司令部との折衝を続けながら、占領軍指揮による掃海作業の準備へ入った。まず掃海艇の整備を行うと共に、当時解散しつつあった海軍軍人の中から人員の補充確保に努め、全国各地に所在する掃海関係船艇合計360隻、人員約1,900名をもって新たに掃海部隊を編成し、1945年(昭和20年)9月から10月にかけて占領政策のために一時中断されていた掃海作業を再開。
引田 一郎(ひきた いちろう、1897年10月1日 - 19… 引田 一郎(ひきた いちろう、1897年10月1日 - 1973年4月18日)は、日本の経営者。宝塚歌劇団理事長、宝塚音楽学校校長を務めた。 東京都中野区出身。陸軍士官引田乾作の長男として生まれる。1924年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に阪神急行電鉄(のちの阪急電鉄)に入社。1933年10月に宝塚歌劇団理事長に就任し、1946年12月に阪急電鉄取締役に就任し、宝塚音楽学校校長も務めた。 1966年5月に藍綬褒章を受章した。 1973年4月18日、心不全のために死去。75歳没。
鎌田 逸郎(かまた いつろう、1897年(明治30年)10月… 鎌田 逸郎(かまた いつろう、1897年(明治30年)10月1日 - 1980年(昭和55年)9月4日)は、日本の実業家、政治家。参議院議員。 岩手県稗貫郡花巻町で鎌田元三郎の三男として生まれる。 1922年(大正11年)岩手製綿を設立して社長に就任。1941年(昭和16年)3月、盛岡商工会議所常議員に当選。その他、下台土地建物社長、岩手被服工業社長、岩手県商工経済会評議員、同県製綿工業組合理事長、全国製綿工業協同組合理事長、花巻電気鉄道取締役、東北振興燐寸取締役などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に全国区から出馬して当選(補欠、任期3年)し、その後、緑風会に所属して参議院議員を1期務めた。
新庄 健吉(しんじょう けんきち、明治30年(1897年)9… 新庄 健吉(しんじょう けんきち、明治30年(1897年)9月30日 - 昭和16年(1941年)12月5日)は、大日本帝国陸軍(以下陸軍という)の軍人。階級は陸軍主計大佐。陸軍経理学校教官・支那派遣軍経理部員・企画院調査官等を歴任。情報将校としてアメリカ合衆国の国力を詳細に調査し、戦争の見通しについて報告書を作るなど情報分析能力が注目された。 1897年(明治30年)9月30日に農家を営む新庄竹蔵の三男として生まれ、京都府立第三中学校(現:京都府立福知山高等学校)を経て1915年(大正4年)12月、主計候補生となる。1916年(大正5年)9月、陸軍経理学校に入校し、1918年(大正7年)5月、主計候補生第12期として卒業する。
阿久津川 高一郎(あくつがわ こういちろう、1897年9月3… 阿久津川 高一郎(あくつがわ こういちろう、1897年9月30日 - 1972年10月20日)は、栃木県宇都宮市出身で高砂部屋(一時期は錣山部屋)に所属した大相撲力士。本名は永井 高一郎(ながい こういちろう)(一時磯野姓を名乗る)。最高位は西前頭筆頭(1923年1月場所)。現役時代の体格は身長170cm、体重98kg。得意手は突き、押し。現役引退後は年寄として後進の指導につくした。 1914年5月場所に初土俵。小柄ではあったが腕力が強く、「三角突っ張り」と呼ばれた独特の突き押しを武器にしており、速い相撲で鳴らした 。1920年1月場所に新入幕を果たすまですべて勝ち越すという順調な昇進で、なおかつ十両では新十両から2場所連続優勝をはたした。
那須 義雄(なす よしお、1897年(明治30年)9月26日… 那須 義雄(なす よしお、1897年(明治30年)9月26日 - 1993年(平成5年)11月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 熊本県出身。陸軍中佐・那須仙太郎の長男として生まれる。名古屋明倫中学校(現愛知県立明和高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第33連隊付となる。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業し歩兵第33連隊中隊長に就任。 1930年(昭和5年)8月、陸軍戸山学校教官に就任。1931年(昭和6年)3月、陸軍省軍務局課員(兵務課)となり、1933年(昭和8年)8月、歩兵少佐に進級。
福西 清(ふくにし きよし、1897年9月26日 - 196… 福西 清(ふくにし きよし、1897年9月26日 - 1967年12月25日)は、阪神電気鉄道社長。奈良県出身。 広島高等師範学校卒業後は、一時教職を務めるが、九州帝国大学法文学部に入学し、1929年に卒業し、阪神電気鉄道に入社した。 主に電灯、電力部門の営業を担当していたが、1942年4月に同部門が関西配電に譲渡されたのを機に同社に移籍し、1944年に阪神に復帰した。その後は、庶務部、取締役、常務取締役を歴任し、1957年に阪神百貨店の専務取締役に就任した。 1965年に藍綬褒章を受章。 1960年5月に阪神に戻り、副社長を経て、1967年11月18日に社長に就任したが、同年12月25日に脳出血のために在職中のままに死去。
豊田 勝秋(とよだ かつあき 1897年9月24日 - 19… 豊田 勝秋(とよだ かつあき 1897年9月24日 - 1972年4月22日)は日本の工芸家、陶芸家、教育者。鋳造、金工の分野で足跡を残した。 1897年(明治30年)9月、福岡県久留米市に生まれる。1915年(大正4年)、福岡県立明善中学校を卒業し、東京美術学校鋳造科入学。1920年(大正9年)に卒業後、研究科に進む。研究科を修了後は、東京高等工芸学校金属工芸科の嘱託となり、1924年(大正13年)、同校助教授となる。 1927年(昭和2年)、帝展に出品して入選。1933年(昭和8年)、帝展に出品した「鋳銅広間用四方花さし」が特選となる。1938年(昭和13年)、東京高等工芸学校教授に就任。1942年(昭和17年)、活動拠点を故郷である久留米市に移す。
我妻 東策(あずま とうさく、1897年9月22日 - 19… 我妻 東策(あずま とうさく、1897年9月22日 - 1983年1月19日)は、農業経済学者。 栃木県上都賀郡今市町(現・日光市)出身。1923年東京帝国大学農学部農業経済学科卒、1924年同経済学部卒。1924年東京農業大学講師、1925年教授。1937年「士族授産ニ関スル研究」で農学博士。1960-1966年農学部長、1967年定年退職、名誉教授。1952年日本農業経済学会理事。農村の家族制度、農業政策などを研究。
倉石 武四郎(くらいし たけしろう、1897年〈明治30年〉… 倉石 武四郎(くらいし たけしろう、1897年〈明治30年〉9月21日 - 1975年〈昭和50年〉11月14日)は、日本の中国語学者、中国文学者。文学博士。東京大学名誉教授、京都大学名誉教授。 1897年、新潟県高田町(現・上越市)に、十三人兄弟の四男として生まれる。倉石家は地元の名家で、一族には漢学者の高田藩校教授の倉石侗窩がいる。 高田第二尋常小学校(現上越市立東本町小学校)、新潟県立高田中学校(現新潟県立高田高等学校)、第一高等学校を経て、1921年東京帝国大学文学部支那文学科卒。一高時代は三木清や瀧川政次郎とともに岩元禎らの下で学び、東大では塩谷温・服部宇之吉・岡田正之らの下で学ぶ。卒業論文では中国天文学(英語版)を扱う。
田中 弘道(たなか ひろみち、1897年9月21日 - 19… 田中 弘道(たなか ひろみち、1897年9月21日 - 1975年11月3日)は、岡山県岡山市小畑町出身の政治家。 1897年9月21日、岡山市小畑町に生まれる。大西姓を名乗っていたが、後に田中姓となる。1918年、旧制関西中学校(現・関西高等学校)を卒業する。 1934年、岡山市会議員に当選する。その後、市会議長を務め、1939年、岡山県会議員となる。 1947年、公選による初代岡山市長に就任し、1951年まで1期務める。 退任後の1952年、播備商事を設立し、会社経営に尽力した。 活躍が評価され、勲五等双光旭日章が授与された。 1975年11月3日死去。享年79。
片桐 英郎(かたぎり ひでお、1897年9月21日 - 19… 片桐 英郎(かたぎり ひでお、1897年9月21日 - 1987年9月18日)は日本の農芸化学者。農学博士(東京帝国大学、1938年)。専門は発酵化学。 長野県下伊那郡根羽村生まれ。1919年旧制第二高等学校卒業、1922年東京帝国大学農学部農芸化学科卒業。東京帝大の助手から、1924年京都帝国大学農学部助教授、欧米留学から1927年に帰国後、1929年同教授、1960年退官、名誉教授。1963年から1965年まで日本農芸化学会会長を務める。1982年日本学士院会員選出。著作に「酵素化学工業」などがある。 乳酸菌の生化学、ラセミアーゼの発見、醱酵菌類によるビタミンB2関連物質の生産、有機発酵酸及び微生物の代謝に関する研究、繊維原料の発酵精錬に関する研究などで業績を上げた。
柏原 語六(かしわばら ごろく、1897年9月20日 - 1… 柏原 語六(かしわばら ごろく、1897年9月20日 - 1981年6月5日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。岡山県出身。 1920年(大正9年)中央大学法学部を卒業。1921年(大正10年)に弁護士登録。 1961年(昭和36年)4月に柏原が所属する会派から順送りで推されて、無競争のまま東京弁護士会会長に選出されて就任。会長に選ばれた時に「抱負は別にないが、弁護士の職域を広げること。正義の実現を旨とする弁護士のあり方は、もっと世間に受け入れられていいと思う」と述べる。 1963年(昭和38年)12月に最高裁判所判事に就任。1958年(昭和33年)と1962年(昭和37年)にも日弁連から最高裁入りを推され固辞したこともあり、三度目に了承したことになる。
後藤 猛(ごとう たけし、1897年9月20日 - 1982… 後藤 猛(ごとう たけし、1897年9月20日 - 1982年1月19日)は、日本の経営者。近畿車輛社長を務めた。 茨城県出身。1922年に東京帝国大学機械科を卒業し、同年に鉄道省に入省。 1949年5月に関東特殊製鋼常務に就任し、同年6月に近畿車輛専務を経て、1959年11月には社長に就任。1970年6月には相談役に就任した。 1967年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1982年1月19日、心不全のために死去。84歳没。
小野寺 信(おのでら まこと、1897年〈明治30年〉9月1… 小野寺 信(おのでら まこと、1897年〈明治30年〉9月19日 - 1987年〈昭和62年〉8月17日)は、日本の陸軍軍人、翻訳家。最終階級は陸軍少将。第二次大戦末期に、在スウェーデン日本大使館の駐在武官として、ヤルタ会談での密約(ドイツ降伏から約3ヶ月後にソ連が日ソ中立条約を破棄して、対日参戦するとの最高機密情報)を早い時期に密かに入手して日本に打電・通報したことや、その後、スウェーデン王室の仲介による連合国との和平工作を行ったことで知られる。 1897年、岩手県胆沢郡前沢町(現在の奥州市)において町役場助役・小野寺熊彦の長男として生まれる。12歳の時に熊彦が病死し、本家筋の農家・小野寺三治の養子となる。
崎山 好春(さきやま よしはる、1897年(明治30年)9月… 崎山 好春(さきやま よしはる、1897年(明治30年)9月19日 - 1974年(昭和49年)6月10日)は日本の実業家。大同海運社長、大日海運会長を務めた。 作家で東京都知事をつとめた石原慎太郎、俳優石原裕次郎兄弟の実父石原潔の前妻勝子は崎山の妻の姪にあたる。 愛媛県温泉郡河野村(現在の松山市)に生まれた。父・崎山常五郎の二男。1917年(大正6年)、松山商業学校(現在の松山商業高校)を卒業。山下汽船に入社。1923年(大正12年)、家督を相続する。 1930年(昭和5年)、大同海運に転じ、近海配船課長営業部副長を歴任。1939年(昭和14年)、取締役のち常務専務を経て1949年(昭和24年)、社長に就任した。
桜井 英記(さくらい ひでき、1897年(明治30年)9月1… 桜井 英記(さくらい ひでき、1897年(明治30年)9月19日 - 1988年(昭和63年)2月7日)は、日本の都市計画家。内務省技師から、太平洋戦争後は日本の都市計画コンサルタントの草分けとなる桜井・森都市計画事務所を創始した。日本都市計画学会会長も務めた。 東京府東京市本郷区(現・東京都文京区)生まれ。東京府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)、第二高等学校を経て、1922年3月東京帝国大学工学部土木工学科を卒業。同年5月より内務省都市計画局に第1技術課に配属される。 1924年2月、帝都復興院技師。1925年8月からは内務省大臣官房都市計画課(内務技師)。主に山田博愛課長を補佐し復興計画とその事業予算をまとめる資料づくりにあったという。
金 祐鎮(キム・ウジン、朝鮮語: 김우진/金祐鎭、1897年… 金 祐鎮(キム・ウジン、朝鮮語: 김우진/金祐鎭、1897年9月19日 - 1926年8月4日)は、日本統治時代の朝鮮の詩人、劇作家。本貫は安東金氏。号は焦星(チョソン、초성)、水山(スサン、수산)。 1897年9月19日、李氏朝鮮で全羅南道の長城にて、務安郡の監理であった金星圭(父)と順天朴氏(母)のもと、長男として生まれた。 木浦公立普通学校(現: 木浦北橋初等学校)を卒業後渡日し、日本の熊本農業学校(現: 熊本県立熊本農業高等学校)を経て、1924年に早稲田大学英文科を卒業した。 1920年代には『劇芸術協会』と『同友会巡回演劇団』を主導した。また、西洋の表現主義の文芸理論を翻訳し、紹介した。
中野 以佐夫(なかの いさお、1897年9月18日 - 19… 中野 以佐夫(なかの いさお、1897年9月18日 - 1971年3月12日)は、日本の経営者。北海道新聞社社長を務めた。 佐賀県出身。1917年に早稲田大学文学部国文学科を中退し、1918年に小樽新聞社に入社。1945年に北海道新聞社取締役に就任し、1947年11月に専務を経て、1957年12月に社長に就任した。1968年12月に相談役に退いた。 1968年4月に勲二等瑞宝章を受章した。 1971年3月12日、圧迫性脊髄炎のために死去。73歳没。
三宮 四郎(さんのみや しろう、1897年9月14日 - 1… 三宮 四郎(さんのみや しろう、1897年9月14日 - 1973年11月8日)は、昭和期の実業家。東京急行電鉄専務取締役、京王帝都電鉄(現:京王電鉄)取締役社長(初代)、財団法人五島美術館常務理事を歴任した。東京急行電鉄(いわゆる「大東急」)から独立した京王帝都電鉄の初代社長として、終戦直後から1950年代にかけて、京王帝都電鉄および京王グループの基礎を築き上げた人物である。 大分県生まれ。慶應義塾大学卒業後、目黒蒲田電鉄(現・東京急行電鉄)に入社。五島慶太社長の知遇を得て、1942年に東京急行電鉄取締役に就任。1946年同社専務取締役に昇任した。その後いったん同社監査役に転任する。 京王電気軌道は戦時統合により東京急行電鉄(大東急)に合併され、同社の京王営業局とされていたが、終戦後の1947年(昭和22年)12月26日に大東急からの分離独立を決議。
須藤 五郎(すどう ごろう、1897年9月14日 - 198… 須藤 五郎(すどう ごろう、1897年9月14日 - 1988年11月18日)は、日本の音楽家、政治家。元日本共産党参議院議員(4期)。筆名は鳥羽英夫。 三重県鳥羽市出身。旧制東京音楽学校(東京藝術大学音楽学部の前身)を卒業後、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)で教鞭を執るかたわら、1922年からは宝塚歌劇団の作曲家、指揮者に就任。1928年に発生した三・一五事件で日本共産党中央委員会が壊滅する中、地下活動を続ける党に対し資金援助を行ったため、1930年2月に検挙され投獄される。留置場で作曲した「しぐれに寄する抒情」は後に三浦環により愛誦された。1935年にドイツに渡りゲオルク・シューマンに師事。
細谷 雄二(ほそや ゆうじ、1897年9月14日 - 196… 細谷 雄二(ほそや ゆうじ、1897年9月14日 - 1967年3月30日)は、日本の生理学者。大阪市立大学名誉教授。医学博士。アララギ派の歌人でもある。 1897年、山形県西村山郡谷地町(現・河北町)生まれ。1923年、東北帝國大学医学部を卒業した。 1925年、東北帝國大学医学部助教授に着任。1928年に学位論文『眼の光生理学的補遺(独文)』を東北帝国大学に提出して医学博士号を取得。1932年、文部省在外研究員としてドイツへ留学。帰国後、1936年より台北帝國大学教授に任命され、医学部生理学第二講座を担当した。太平洋戦争終結後も中華民国国立台湾大学医学部教授として留用され、教務と診療にあたった。
小原 栄次(おはら えいじ、1897年〈明治30年〉9月13… 小原 栄次(おはら えいじ、1897年〈明治30年〉9月13日 - 1957年〈昭和32年〉1月20日)は、日本の弁護士、弁理士。 人権擁護委員東京連合会副会長、日本弁護士連合会人権擁護第一部長、東京地方裁判所調停委員、東京弁護士会常議員を歴任した。鹿児島県出身。族籍は鹿児島県士族。次女は声優、女優、ナレーター、朗読家の小原乃梨子。 鹿児島県士族・小原萬次郎の息子として同県日置郡上伊集院村上谷口に生まれる。母は奥休太郎の長女・イネ。1937年(昭和12年)に家督を相続した。1914年(大正3年)博約義塾(現・樟南高等学校)を卒業後、上京し、1917年(大正6年)、中央大学法科を卒業。卒業後、農商務省に奉職。
山岸 金三郎(やまぎし きんざぶろう、1897年(明治30年… 山岸 金三郎(やまぎし きんざぶろう、1897年(明治30年)9月13日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。台東庁長。 山岸徳松の三男として福岡県福岡市に生まれる。第七高等学校を経て、1924年(大正13年)3月に東京帝国大学法学部政治科を卒業。安田保善社に勤務する。 翌年の11月、高等試験行政科に合格と同時に台湾総督府交通局に奉職し書記となる。ついで同局参事、鉄道部改良課庶務係長、同部経理課長、財務局金融課長、警察幹部講習会講師、刑事講習会講師を経て、会計課長を発令される。1940年(昭和15年)1月、台中州内務部長に転じ、同年同州総務部長、米穀局総務課長を経て、1942年(昭和17年)8月に台東庁長に就任。
小野村 胤敏(おのむら たねとし、1897年(明治30年)9… 小野村 胤敏(おのむら たねとし、1897年(明治30年)9月12日 - 1947年(昭和22年)2月26日)は、日本の弁護士。大阪理工科大学創設者。福井県遠敷郡遠敷村(現・小浜市遠敷)出身。 若狭彦神社神官・小野村胤信の三男として生まれた。旧制小浜中学校を経て[要出典]、1917年(大正6年)、関西大学専門部法律学科を卒業。 のち上京して日本大学山岡萬之助研究室に入り、翌年には弁護士試験に合格。大阪市東区博労町で弁護士事務所を開いた。 1925年(大正14年)3月、日本大学専門学校(近畿大学の前身)の創立に参画。1927年(昭和2年)、司法省嘱託としてドイツに留学し、ベルリン大学とミュンヘン大学で学ぶ。
石井 龍猪(いしい たつい、1897年(明治30年)9月10… 石井 龍猪(いしい たつい、1897年(明治30年)9月10日 - 1950年(昭和25年)10月10日)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。台北市尹、台南州知事。旧姓は加藤。 加藤十四郎の四男として佐賀県佐賀郡高木瀬村(現・佐賀市)に生まれ、石井力三郎の養子となる。県立中学校、第五高等学校を経て、1921年(大正10年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。翌年、高等文官試験行政科試験に合格し、台湾総督府に出仕する。 1922年(大正11年)5月に高雄州勧業課長、1924年(大正13年)12月に台中州教育課長、1927年(昭和2年)7月に台南州警務部長、1929年(昭和4年)12月に同府警務局衛生課長、1931年(昭和6年)5月に台南州内務部長、1932年(昭和7年)4月に同府内務局地方課長兼地理課長を経て、1936年(昭和11年)10月、台北市尹に就任した。
伊藤 康善(いとう こうぜん、1897年9月9日 - 196… 伊藤 康善(いとう こうぜん、1897年9月9日 - 1969年1月9日)は、奈良県北葛城郡新庄町生まれの宗教家。浄土真宗華光会の創始者、真宗興正派学頭。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
稲富 栄次郎(いなとみ えいじろう、1897年(明治30年)… 稲富 栄次郎(いなとみ えいじろう、1897年(明治30年)9月7日 - 1975年(昭和50年)12月30日)は、日本の哲学者、教育哲学者。上智大学名誉教授。学位は文学博士(広島文理科大学)。広島高等師範学校、東北帝国大学卒業。福岡県出身。 1897年(明治30年)9月7日 福岡県浮羽郡に生まれる 1924年(大正13年)3月7日 広島高等師範学校文科第二部卒業 3月31日 山口県女子師範学校教諭(1926年(大正15年)4月27日まで) 1929年(昭和4年)3月26日 東北帝国大学法文学部哲学科卒業 3月31日 兵庫県立第一神戸中学校教諭(1931年(昭和6年)3月31日まで) 1931年(昭和6年)3月31日 広島文理科大学・広島高等師範学校講師 9月28日 広島高等師範学校教授 1933年(昭和8年)3月31日 広島文理科大学助教授兼、広島高等師範学校教授 1941年(昭和16年)12月27日 広島文理科大学教授 1944年(昭和19年)9月30日 同大学教育学科長 1946年(昭和21年)9月27日 文学博士の学位を受く 1947年(昭和22年)10月25日 広島文理科大学教授退任、広島図書株式会社顧問(1951年(昭和26年)3月31日まで) 1951年(昭和26年)10月23日 上智大学文学部教授 1952年(昭和27年)4月1日 同大学文学部教育学科長(1966年(昭和41年)3月31日まで) 1953年(昭和28年)5月10日 学事視察のため西ヨーロッパ各国へ出張(同年10月27日まで) 1954年(昭和29年)9月25日 神戸大学教育学部教授(1957年(昭和32年)3月31日まで) 1956年(昭和31年) 2月10日 文部省・教育課程審議会委員(1957年(昭和32年)2月9日まで)5月1日 教育史学会理事(1974年(昭和49年)9月30日まで)12月1日 文部省・国語審議会委員(1958年(昭和33年)1月30日まで)
渡 正監(わたり まさみ、1897年(明治30年)9月5日 … 渡 正監(わたり まさみ、1897年(明治30年)9月5日 - 1953年(昭和28年)2月7日)は、日本の内務官僚。上海共同租界警視総監。
河村 黎吉(かわむら れいきち、1897年9月1日 (一説に… 河村 黎吉(かわむら れいきち、1897年9月1日 (一説に6月16日) - 1952年12月22日)は、日本の俳優。本名は河村石五郎(かわむら いしごろう)。 松竹で活躍した脇役俳優の一人であり、300本近い作品に出演した。島津保次郎監督作品に常連出演し、江戸っ子役や三枚目役で知られた。戦後に社長シリーズの前身である『三等重役』に社長役で出演したことでも有名。 1897年(明治30年)9月1日、東京府東京市深川区(現在の東京都江東区)に生まれる。神田の錦城商業学校予科を卒業後、13歳で中洲の真砂座で初舞台を踏む。新派劇の無名劇団に参加して地方巡業で各地を転々とし、自ら小劇団を組織したこともあった。
横山 太喜夫(よこやま たきお、1897年〈明治30年〉9月… 横山 太喜夫(よこやま たきお、1897年〈明治30年〉9月1日 - 1969年〈昭和44年〉11月11日)は、日本の経営者。群馬銀行頭取を務めた。位階は正五位。 岡山県岡山市出身。1923年に慶應義塾大学経済学部を卒業。日本銀行での勤務を経て、1944年11月に群馬大同銀行に転じ、1948年から1968年まで頭取を務めた。 1958年に黄綬褒章を受章し、1967年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1969年11月11日心臓麻痺のために死去。72歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
内藤 寛一(ないとう かんいち、1897年(明治30年)9月… 内藤 寛一(ないとう かんいち、1897年(明治30年)9月 - 没年不詳)は、日本の内務・警察・厚生官僚。官選茨城県知事、陸軍司政長官、昭南市長(シンガポール)。 愛媛県出身。内藤豊治の二男として生まれる。第一高等学校を卒業。1921年11月、高等試験行政科試験に合格。1922年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し奈良県属となる。 以後、奈良県警部、三重県理事官・工場監督官、長野県書記官・学務部長、和歌山県書記官・警察部長、内務省書記官・警保局図書課長、同大臣官房会計課長、厚生省書記官・衛生局指導課長、同大臣官房会計課長、同職業部長、同職業局長などを歴任。 1941年3月26日、茨城県知事に就任。
小口 太郎(おぐち たろう、1897年(明治30年)8月30… 小口 太郎(おぐち たろう、1897年(明治30年)8月30日 - 1924年(大正13年)5月16日)は、日本の科学者、歌人。第三高等学校、東京帝国大学理学部物理学科卒業後、同大学航空研究所入所。大学在学中に電信電話に関する発明をし、日本を始め諸外国に特許申請をし、許可を得ている。 科学者以外の彼を有名にしたのは、「琵琶湖周航の歌」の作詞者としてである。1917年、三高ボート部員として琵琶湖周航中、故郷諏訪湖に思いを馳せながら詩情豊かに作詞した「琵琶湖周航の歌」は、吉田千秋(新潟県出身、歴史地理学者吉田東伍の次男)の「ひつじぐさ」の原曲により現在まで広く歌われ続けている。この二人はお互いを知らず、それぞれ26歳と24歳で死去している。
廉 想渉(れん そうしょう、ヨム・サンソプ、1897年8月3… 廉 想渉(れん そうしょう、ヨム・サンソプ、1897年8月30日 - 1963年3月14日)は、朝鮮の小説家、言論人。本貫は坡州廉氏。本名は尚燮、号は横歩。8人兄弟の3番目に生まれた。朝鮮文学に初めて自然主義という語を植え付け、朝鮮の自然主義文学の祖となった。
小松 直治(こまつ なおじ、1897年〈明治30年〉8月29… 小松 直治(こまつ なおじ、1897年〈明治30年〉8月29日 - 1985年〈昭和60年〉)は、日本の政治家。長野県諏訪市長。 長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)で、小松直助、ゑひ の長男として生まれた。旧制諏訪中学(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1919年(大正8年)東京高等商業学校専攻科を卒業した。 1928年(昭和3年)上諏訪町会議員(3期)に選出され、1929年(昭和4年)同町名誉職助役(3期)に就任。1939年(昭和14年)長野県会議員(4期)となり、1947年(昭和22年)から昭和24年(1949年)までと、1951年(昭和26年)から同28年(1953年)まで副議長を務めた。 1955年(昭和30年)に諏訪市長選挙に当選し、1963年(昭和38年)4月まで2期務めた。
西村 英一(にしむら えいいち、1897年〈明治30年〉8月… 西村 英一(にしむら えいいち、1897年〈明治30年〉8月28日 - 1987年〈昭和62年〉9月15日)は、日本の政治家。位階は従二位。姫島村名誉村民。七日会初代会長。 衆議院議員を11期務め、閣僚として厚生大臣、建設大臣などを歴任。また党職として自由民主党副総裁を務めた。「おじいちゃん」の愛称で知られ、佐藤栄作、田中角栄両元首相に対するご意見番的存在であった。 大分県東国東郡姫島村出身。大分中学、七高を経て、1924年に東北帝国大学工学部電気工学科を卒業後、鉄道省に入省。省内で佐藤栄作と知り合った。その後、運輸通信省を経て運輸省鉄道総局電気局長で退官。 1949年、第24回衆議院議員総選挙に吉田茂率いる民主自由党公認で立候補し初当選(当選同期に池田勇人・前尾繁三郎・橋本龍伍・麻生太賀吉・小渕光平・橋本登美三郎・福永健司・塚原俊郎・藤枝泉介・木村俊夫・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・床次徳二・有田喜一など)。
外ヶ濱 弥太郎(そとがはま やたろう、1897年8月27日 … 外ヶ濱 弥太郎(そとがはま やたろう、1897年8月27日 - 1966年5月30日)は、現在の青森県弘前市出身で出羽海部屋に所属した力士。本名は斉藤 弥作。174cm、92kg。最高位は東前頭筆頭。引退後は3代峰崎から13代千賀ノ浦を襲名し、年寄として後進の指導につとめた。 1916年1月入間川部屋より初土俵、その後千賀ノ浦部屋に移り1924年5月新入幕、その後出羽海部屋に移籍した。幕内では金星を3つ獲得した。春秋園事件の際に一時脱退したが、その後復帰。1934年1月に引退し、3代峰崎、13代千賀ノ浦と改め、桟敷部長、理事、監事の要職を長年務め、1962年8月停年退職。 ※さらに朝響、大蛇山、琴ヶ浦、若太刀と引分が1つずつある。
尹 潽善(ユン・ボソン、日本語読み:いん ふぜん、1897年… 尹 潽善(ユン・ボソン、日本語読み:いん ふぜん、1897年8月26日 - 1990年7月18日)は、大韓民国第4代大統領。本貫は、海平尹氏(朝鮮語版)。号は海葦(해위、ヘウィ)。尹致昭(朝鮮語版)(尹致暎の異母兄)の長男。 忠清道牙山郡(現在の忠清南道牙山市)生まれ。独立後初代のソウル市長として政界入りし、商工相・大韓赤十字社総裁を経て民主党最高委員に。四月革命 (韓国)で李承晩が失脚・亡命すると、民主党旧派の代表格として8月12日に大統領に選出された。しかし、新派の代表格で政治的実権を握っていた張勉首相との確執が絶えず、自ら民主党を離党して新民党を結成。5・16軍事クーデターの遠因を作った。
佐藤 圓治(さとう えんじ、明治30年(1897年)8月24… 佐藤 圓治(さとう えんじ、明治30年(1897年)8月24日 - 昭和46年(1971年)7月30日)は、日本の俳優。娘は女優の三條美紀、孫は元女優の紀比呂子。 山形県東田川郡東栄村(藤島町を経た後に鶴岡市)出身。大正4年(1915年)山形県立荘内農業学校卒業。上京して慶應義塾大学に入るが中退。兵役につき、大正7年(1918年)にシベリアに従軍。大正11年(1922年)に帰還した。除隊後に会社(日本体育用品株式会社)に取締役として勤めるが、方向転換し、大正12年(1923年)に水口薇陽が設立した日本映画俳優学校に第1回目の入学生として入校した。同期には小杉勇、島耕二、森岩雄、八木保太郎等がいる。
天野 喜久代(あまの きくよ、本名:新井 ふく、1897年(… 天野 喜久代(あまの きくよ、本名:新井 ふく、1897年(明治30年)8月24日 - 1945年(昭和20年)3月10日)は、昭和初期の歌手、女優。 千葉県佐倉市出身。日本橋高等女学校卒業。 1913年(大正2年)に帝劇歌劇部二期生として入部し、1914年(大正3年)2月より舞台に出演。1916年(大正5年)5月に帝劇洋劇部が解散、その後伊庭孝、佐々紅華らの主催する歌舞劇協会、東京歌劇座を経て浅草オペラで活躍。 東京音楽学校で教えていたハンカ・ペツォールドに声楽を師事していたため基礎ができており、浅草オペラ凋落後の1929年(昭和4年)1月25日ほか浅草電気館レビューで活躍する傍ら東京の松竹少女歌劇団の声楽教師に就く。
内田 亨(うちだ とおる、1897年8月24日 - 1981… 内田 亨(うちだ とおる、1897年8月24日 - 1981年10月27日)は、日本の動物学者。北海道大学 名誉教授。学位は理学博士(東京帝国大学・1923年)。専門は動物分類学など。ウチダザリガニの献名者としても知られる。 1897年(明治30年)8月24日:静岡県生まれ。東京帝国大学理学部卒業。1923年(大正12年)4月、日本動物学会の機関誌「動物学雑誌」の編集委員のひとりであった江崎悌三が九州に異動となり、編集委員会は、岸田久吉、内田 亨の2名体制になったが年末に平岩馨邦が新たに加わり3名体制になった。1924年(大正13年)度末の日本動物学会評議員会の席で、1923年(大正12年)末に編集委員となった平岩馨邦が辞職を申し出たが入れられず、かわりに岸田久吉が勇退することになった。
信正 義雄(のぶまさ よしお、1897年(明治30年)8月2… 信正 義雄(のぶまさ よしお、1897年(明治30年)8月23日 - 1985年(昭和60年)12月2日)は、大正末から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員(1期)、滋賀弁護士会長、大津市会議長を務める。 奈良県出身。1919年(大正8年)、大阪府警察部に入り、同巡査、同警部補となる。一方で、1922年(大正11年)に関西大学法科を卒業し、弁護士試験に合格する。関西大学在学中に、同窓の先輩で大津市会議長の信正時治郎の知遇を得て、時治郎の二女・賤子に入婿する。 1923年(大正12年)、大津市材木町に法律事務所を開業し、京都、大阪にも手を広げ、大津弁護士会長を務める。1929年(昭和4年)、大津市会議員に初当選し、同副議長、同議長を務める。
河村 光陽(かわむら こうよう、本名:河村直則、1897年8… 河村 光陽(かわむら こうよう、本名:河村直則、1897年8月23日 - 1946年12月24日)(49歳没)は、昭和期の戦前から戦中にかけて活躍した作曲家。長女は歌手の河村順子。 1897年(明治30年)福岡県田川郡上野村(現・福智町)の裕福な地主の家に生まれる。小倉師範学校を卒業後、地元の小学校で音楽教師をしていたが、ロシア音楽、特に国民楽派に傾倒していた彼は、1920年モスクワでの音楽研究を夢見て朝鮮に渡った。しかし、当時のロシアは革命後の混乱期で、ゆっくり音楽の研究ができる状態ではなかったため、朝鮮にとどまり、師範学校や公立学校の音楽教師をして時を待った。 1924年帰国。東京音楽学校選科(現・東京芸術大学大学院)で、音楽理論などを学ぶ。
糸魚川 祐三郎(いといがわ ゆうざぶろう、1897年8月22… 糸魚川 祐三郎(いといがわ ゆうざぶろう、1897年8月22日 - 1967年11月17日)は、日本の商学者、教育者。横浜高等商業学校(後の横浜国立大学の前身のひとつ)校長、和歌山大学学長、松商学園短期大学(後の松本大学松商短期大学部)学長などを歴任した。 岐阜県恵那郡坂下町に生まれ、1915年に松本商業学校(後の松商学園高等学校)、1918年に小樽高等商業学校(後の小樽商科大学)、1922年に東京高等商業学校(後の一橋大学)専攻部を、それぞれ卒業した。 1923年に、小樽高等商業学校教授となり、1924年から1928年まで、簿記・商業学研究を目的として留学し、イギリス、ドイツ、アメリカ合衆国を回り、帰国後は、小樽高等商業学校に戻ったが、後には文部省督学官、さらに1942年の制度改正により教学官となった。
三村 一(みむら はじめ、1897年8月21日 - 1980… 三村 一(みむら はじめ、1897年8月21日 - 1980年4月28日)は、日本の農学者。専門は畜産学。 長野県諏訪郡落合村(現富士見町)生まれ。旧制長野中学(長野県長野高等学校)、盛岡高等農林学校を経て、大正12年(1923年)京都帝国大学農学部卒業。昭和2年(1927年)九州帝国大学助手、同16年(1941年)助教授、同24年(1949年)宮崎大学教授、同30年(1955年)信州大学農学部教授、同37年(1962年)同大学長を歴任。同43年(1968年)退官、同年11月、勲二等旭日重光章受章。主な研究内容にはニワトリの人工授精や、日本在来馬に関するものがある。 弟の三村二は東京医科歯科大学歯学部教授、政治家の小川平吉は叔父、同じく政治家の小川一平、小川平二、外交官の小川平四郎は従兄弟にあたる。
有賀 幸作(ありが こうさく、1897年(明治30年)8月2… 有賀 幸作(ありが こうさく、1897年(明治30年)8月21日 - 1945年(昭和20年)4月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。戦艦大和最後の艦長として有名である。長野県南信地方に多い姓である有賀は、「ありが」ではなく「あるが」と読む例が多いが、当人は相手が聞き返すことを嫌い、ありがの読み方で通した。軍帽裏のネーム刺繍もアリガとしていた。 長野県上伊那郡朝日村(現辰野町)に金物商・村長、有賀作太郎の長男(惣領)として生まれた。父の作太郎は旅順攻囲戦に参加して二〇三高地戦で殊勲をあげ、功六級金鵄勲章と多額の年金を授かるにいたった勇士だったが、息子の軍人志願には反対した。有賀は活発な少年として育ち、長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を卒業。
菊田 七平(きくた しちへい、1897年(明治30年)8月2… 菊田 七平(きくた しちへい、1897年(明治30年)8月20日 - 1976年(昭和51年)11月16日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)、茨城県議会議長。 茨城県新治郡真鍋町殿里(現在の土浦市殿里)で、旧家・菊田広恵の長男として生まれる。1912年(大正元年)茨城県立土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)を卒業した。 土浦商工会議所会頭、湖南通運社長、環産業社長、高津油機社長、霞ケ浦食品工業社長、日神酒造社長、丸果生果社長、関東銀行(現在の筑波銀行)取締役会長などを務めた。その他、茨城県農業会長、同県蚕種協同組合長、同県観光連盟会長、新治郡真壁町農会長、同町産業組合専務理事などに在任した。