川淵 洽馬(かわぶち こうま、1883年〈明治16年〉8月1… 川淵 洽馬(かわぶち こうま、1883年〈明治16年〉8月15日 - 1946年 〈昭和21年〉10月1日)は、日本の内務官僚、政治家。官選県知事、高知市長、衆議院議員。財団法人板垣伯銅像記念碑建設同志会第7代会長。旧姓は宮崎。姓は川渕とも表記される。 高知県高岡郡窪川町(現・四万十町)生まれ。宮崎文次の二男として生まれ、川淵龍起の養子となる。第一高等学校を経て、1910年(明治43年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1912年(明治45年)、内務省に入り警視庁警部に任官。 以後、警視庁警視、月島警察署長、台湾総督府警視、山形県警察部長、広島県警察部長、京都府警察部長、警視庁書記官・警務部長、警察講習所教授兼内務省参事官などを歴任。
鷲沢 与四二(わしざわ よしじ、1883年(明治16年)8月… 鷲沢 与四二(わしざわ よしじ、1883年(明治16年)8月14日 - 1956年(昭和31年)10月1日)は、衆議院議員(立憲民政党→国民同盟)。ジャーナリスト。実業家。 長野県小県郡上田町(現在の上田市)出身。鷲沢由太郎の長男として生まれる。旧制上田中(現在の長野県上田高等学校)を経て、1908年(明治41年)、慶應義塾大学政治科を卒業。慶大在学中は野球部監督を務めた。毎日電報社記者、慶應義塾大学講師を務めた後、時事新報社北京特派員として中国に渡る。北京で日刊英字新聞『ノース・チャイナ・スタンダード』を創刊したほか、北京新聞社社長、北京燕塵社社長、時事新報社顧問を務めた。その後、雑誌『ベースボール』を発行し、社長を務めた。
谷口 弥三郎(たにぐち やさぶろう、1883年(明治16年)… 谷口 弥三郎(たにぐち やさぶろう、1883年(明治16年)8月13日 - 1963年(昭和36年)8月19日)は、日本の政治家、産婦人科医師、医学者。熊本県立医学専門学校(現熊本大学)教授、久留米大学長。日本医師会会長、参議院議員(3期)。「不良な子孫の出生を防止する」として、太田典礼、加藤シヅエに一時提携をもちかけながらその影響を排除しつつ、福田昌子らと共に優生保護法の成立に深く関わった。また、熊本県におけるハンセン病患者隔離政策の中心人物である。 1883年(明治16年)8月13日、香川県三豊郡大野原町(現観音寺市)に生れる。1902年(明治35年)に私立熊本医学校(現・熊本大学医学部)を卒業。
富田 勇太郎(とみた ゆうたろう、1883年8月12日 - … 富田 勇太郎(とみた ゆうたろう、1883年8月12日 - 1946年2月24日)は、日本の官僚、銀行家。大蔵省理財局長、満州興業銀行初代総裁。
伊藤 誠哉(いとう せいや、1883年8月7日 - 1962… 伊藤 誠哉(いとう せいや、1883年8月7日 - 1962年3月28日)は、植物学者、菌類学者、植物病理学者、元北海道大学総長。農学博士。新潟県新潟市生まれ。 新潟県立新潟中学校を経て東北帝国大学農科大学(現北海道大学農学部)卒業。稲熱病の防除法を研究。その後も日本に点在する全菌類の調査研究をする等、日本の植物病理学の発展に尽力した。1950年(昭和25年)、日本学士院(当時の第二部自然科学部門)会員になる。新会員一同は、昭和天皇から皇居に招かれたが伊藤は欠席した。1959年(昭和34年)文化功労者。 主著に『日本菌類誌』等。
今西 卓(いまにし たく、1883年〈明治16年〉8月7日 … 今西 卓(いまにし たく、1883年〈明治16年〉8月7日 - 1933年〈昭和8年〉4月23日)は、明治末期から昭和初期にかけて活動した日本の電気技術者、実業家。愛知県豊橋市の電力会社豊橋電気に技師長として入社し、後に支配人へと昇進。同社が解散した後は東三河地方の電気・鉄道事業に関わった。岐阜県出身。 今西卓は、1883年(明治16年)8月7日、岐阜県池田郡池野村(現・揖斐郡池田町池野)の豪農今西文造の長男として生まれた。幼少時より俊才で、温知学校を経て岐阜県大垣中学校へ入学、開学以来となる好成績で卒業した。次いで京都の第三高等学校へ進み、1905年(明治35年)7月第二部工科を卒業。最終的に1908年(明治41年)7月、京都帝国大学理工科大学電気工学科を卒業した。
助川 喜四郎(すけがわ きしろう、1883年(明治16年)8… 助川 喜四郎(すけがわ きしろう、1883年(明治16年)8月7日) - 1963年(昭和38年)12月11日)は、日本の医師・ウイルス学者。 1915年(大正4年)、神奈川県衛生試験所(現・神奈川県衛生研究所)にはいり、狂犬病を研究。1921年(大正10年)「助川梅野法」とよばれる犬体注射法を完成。天然痘病原体の鶏卵内培養にも成功した。1928年(昭和3年)、土浦市に昭和病院及び助川研究所を設立。 大正4、5年頃、狂犬病流行の兆を呈し、被害が広がる折、梅野信吉より病理学の権威であった草間滋を通じ、助川喜四郎へ狂犬病に関する相談があった。当時、パスツールによる人体に狂犬病予防注射する方法が行われていたが、応用接種しても発病する事があるため、更に進んで犬体に予防接種する研究を行う事となった。
新開 渧観(しんかい ていかん、1883年(明治16年)8月… 新開 渧観(しんかい ていかん、1883年(明治16年)8月5日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。福岡県八幡市長。神奈川県小田原町長。茨城県日立市長。 熊本県熊本市出身。1900年(明治33年)に第五高等学校に入学し、1903年(明治36年)に卒業。その後、東京帝国大学法科大学に入学し、1908年(明治41年)に卒業し、同年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。群馬県警視、同事務官、栃木県理事官、宮崎県警察部長、岩手県警察部長、愛知県警察部長などを歴任。1921年(大正10年)からは石川県内務部長を務めた。 退官後の1926年(大正15年)には八幡市長に就任した。1935年(昭和10年)には小田原町長に選ばれ、さらに1941年(昭和16年)から1945年(昭和20年)まで日立市長を務めた。
宮城 音五郎(みやぎ おとごろう、1883年8月3日 - 1… 宮城 音五郎(みやぎ おとごろう、1883年8月3日 - 1967年9月14日)は、日本の工学者、政治家。 東北帝國大学教授、宮城県知事、東北工業大学学長などを歴任した。 1883年(明治16年)埼玉県出身。旧制埼玉県立熊谷中学校を経て、1908年(明治41年)東京帝國大学卒業。 仙台高等工業学校(現・東北大学工学部)教授となった後、1917年(大正6年)から翌年にかけてアメリカ合衆国に留学した。帰国後は東北帝國大学の工学部長などを務めて1945年(昭和20年)に退官、1946年から1950年までは宮城県仙台第一中学校(現・宮城県仙台第一高等学校)の校長を務めた。1952年(昭和27年)から1956年(昭和31年)まで宮城県知事を一期務めた。
小野 武夫(おの たけお、1883年(明治16年)8月3日 … 小野 武夫(おの たけお、1883年(明治16年)8月3日 - 1949年(昭和24年)6月5日)は、日本の農業経済学者。法政大学教授。専門は農民経済史。 大分県で生まれる。1901年に大分県立農学校を卒業して代用教員となり、数年後には日露戦争に従軍する。1906年に上京し、農商務省に勤務しながら、1912年7月に法政大学専門部政治学科を卒業する。 1913年に帝国農会に入り、次いで1920年に農商務省に移って永小作慣行の本格的な調査を行なう。その調査結果は1924年に「永小作論」として刊行され、その精緻な研究は当時の学界から高く評価された。1925年に「郷士制度史論」によって農学博士(東京帝国大学)。
大森 佳一(おおもり かいち、1883年〈明治16年〉8月2… 大森 佳一(おおもり かいち、1883年〈明治16年〉8月2日 - 1945年〈昭和20年〉3月25日)は、日本の政治家、内務官僚。貴族院議員、官選県知事、男爵。位階は従三位。勲等は勲三等。 本籍・静岡県、東京府出身。男爵・大森鍾一の長男として生まれる。学習院高等科を経て、1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入り千葉県属となる。1911年(明治44年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、群馬県属、滋賀県理事官、滋賀県警察部長、栃木県警察部長、岩手県内務部長、山形県内務部長、茨城県書記官・内務部長、群馬県書記官・内務部長などを歴任。1927年(昭和2年)、父の死去に伴い男爵を襲爵。
秋山 虎六(あきやま とらろく、1883年〈明治16年〉8月… 秋山 虎六(あきやま とらろく、1883年〈明治16年〉8月2日 - 1952年〈昭和27年〉4月28日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。佐賀県佐賀市巨勢町出身。 旧制佐賀中学校から海軍兵学校に進学。1905年(明治38年)5月27日、翌28日にかけて日本海海戦に参戦する。同年11月28日、海軍兵学校33期卒業。同期に豊田貞次郎、豊田副武、有地十五郎、小野弥一、中村亀三郎など。 各軍艦勤務をへて海軍砲術学校高等科に入校。1912年(大正元年)英国出張。第一次世界大戦・日独戦争では英国と共に海軍陸戦重砲隊中隊長として、ドイツ帝国が清国から租借し、権益を持つ山東省青島の戦いで奮戦した。1916年11月、海軍大学校(甲種14期)を卒業。
小柳 篤二(おやなぎ とくじ、1883年〈明治16年〉8月1… 小柳 篤二(おやなぎ とくじ、1883年〈明治16年〉8月1日 - 1985年〈昭和60年〉12月23日)は、日本のドイツ文学者、ドイツ語学者。元東京高等学校独語主任教授、元早稲田大学教授。日出学園名誉園長。 新潟県新潟区学校町通(現 新潟市中央区学校町通)出身。1903年(明治36年)3月に新潟中学校を卒業、9月に第一高等学校大学予科理科に入学するも、病気で中退。 新潟中学校の5年先輩の櫻井天壇の所によく遊びに行き、ゲーテやシラーの話を聞いたり、ドイツ語の詩を教えられたりしたことがきっかけで、ドイツ語の道に入ろうと思うようになる。 1909年(明治42年)3月に東京外国語学校独語学科を卒業、1912年(明治45年)に東京帝国大学文科大学文学科選科を修了。
八木 林作(やぎ りんさく、1883年(明治16年)8月1日… 八木 林作(やぎ りんさく、1883年(明治16年)8月1日 - 1974年(昭和49年)6月11日)は、日本の内務官僚。官選島根県知事、尼崎市長。 京都府天田郡出身。八木新造の六男として生まれる。第三高等学校を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し北海道庁属となる。 以後、北海道庁事務官補・同理事官、栃木県理事官、兵庫県事務官、朝鮮総督府道事務官、山梨県警察部長、高知県内務部長、石川県内務部長、兵庫県書記官・警察部長、長崎県書記官・内務部長などを歴任。 1927年5月、島根県知事に就任。1928年7月、第四次産業計画を決定。
河合 博之(かわい ひろゆき、1883年〈明治16年〉8月 … 河合 博之(かわい ひろゆき、1883年〈明治16年〉8月 – 1933年〈昭和8年〉8月14日)は、日本の外交官。駐ポーランド公使。 神奈川県出身。1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。領事官補、外交官補、大使館三等書記官、同二等書記官、同一等書記官を歴任した。1921年(大正10年)、帰国して外務書記官・参事官となった。1923年(大正12年)より駐ベルギー大使館参事官、駐フランス大使館参事官を務めた。1931年(昭和6年)に駐ポーランド公使に就任した。在任中に死去。
横山 英太郎(よこやま えいたろう、1883年(明治16年)… 横山 英太郎(よこやま えいたろう、1883年(明治16年)7月31日 - 1966年(昭和41年)6月13日)は、日本の工学者(専攻は電気工学、電気通信)。 福井県坂井郡三国町(現坂井市)生まれ。福井県立福井中学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学を卒業。逓信省電気試験所に入所し、鳥潟右一・北村政治郎と世界初の無線電話機を発明した。 1914年(大正3年)12月16日から1916年(大正5年)4月10日まで、鳥羽・神島・答志島間で無線電話の実用試験を行い成功、無線電話の実用化としては世界初の偉業であった。この世界初の実用無線電話の名は開発した3人の頭文字(T:鳥潟 Torigata Y:横山 Yokoyama K:北村 Kitamura)からTYK式無線電話と名付けられた。
浅賀 長兵衛(あさか ちょうべえ、1883年(明治16年)7… 浅賀 長兵衛(あさか ちょうべえ、1883年(明治16年)7月30日 - 1945年(昭和20年)4月13日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、弁護士。 東京府北豊島郡滝野川村(後の東京都北区)出身。第一高等学校を経て、1910年(明治43年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、弁護士を開業。滝野川町会議員、北豊島郡会議員、東京府会議員、同参事会員に選出された。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し当選。続く第15回衆院選でも再選を果たす。その他、帝国種苗殖産株式会社取締役を務めた。 日本福祉大学教授でソーシャルワーカーの浅賀ふさは妻。東京で小栗飛行学校を開いた小栗常太郎は義兄、その実父で酒造や銀行業、紡績業などを手広く営んだ豪商の小栗富治郎は義父に当たる。
大神田 軍治(おおかんだ ぐんじ、1883年(明治16年)7… 大神田 軍治(おおかんだ ぐんじ、1883年(明治16年)7月30日 - 1943年(昭和18年)1月24日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 山梨県北都留郡巌村(上野原町を経て現上野原市)出身。籍文学舎で漢学を学んだ。 芝区会議員、東京市会議員、同参事会員、同議長、東京府会議員、同参事会員、帝都復興委員長などを経て、1932年(昭和7年)の第18回衆議院議員総選挙で東京1区(当時)から立憲民政党公認で立候補して初当選。同年の東京府会市部会の正副議長選挙では、三木武吉が推薦した者を押しのける形で大神田が推薦した立候補者が当選したため、三木との間で激論を繰り広げた。 1934年(昭和9年)、第2次東京市会疑獄(瓦斯疑獄・市会議長選挙買収事件・市長選挙買収事件)により東京地方裁判所で懲役1年2ヵ月・追徴金6500円の判決を、翌年の控訴審で懲役10ヵ月・追徴金3500円の判決を受け、1936年(昭和11年)の大審院判決で刑が確定。
神尾 茂(かみお しげる、1883年(明治16年)7月29日… 神尾 茂(かみお しげる、1883年(明治16年)7月29日 - 1946年(昭和21年)5月10日)は、日本の衆議院議員。ジャーナリスト。 福島県石川郡川東村(現在の須賀川市)出身。1906年(明治39年)に早稲田大学政治経済科を卒業し、1909年(明治42年)に東亜同文書院商務科を卒業した。大阪朝日新聞社南京通信員となり、上海特派員、北京特派員を歴任した。さらに大阪朝日新聞社の支那部長、東亜部長、編集局顧問、論説委員を務めた。また陸軍梅機関(影佐禎昭機関)に配属され、大使館嘱託も兼ねた。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を得て福島2区(当時)から出馬し、当選を果たした。
前田 夕暮(まえだ ゆうぐれ、1883年(明治16年)7月2… 前田 夕暮(まえだ ゆうぐれ、1883年(明治16年)7月27日 - 1951年(昭和26年)4月20日)は、神奈川県出身の歌人。本名は前田洋造(洋三とも)。長男の前田透も歌人であり、歌誌「詩歌」を引き継いだ。 尾上柴舟に師事。歌集『収穫』(1910年)で自然主義歌人として牧水と並称された。その後北原白秋らと「日光」を創刊。『水源地帯』(1932年)では、自由律短歌に傾くなど、生涯新境地を求めた。 現・神奈川県秦野市にあたる大住郡南矢名村の豪農の家に生まれ、代々庄屋や戸長を務める家柄で、「油屋」の屋号で食用油や醤油の販売もしていた。父の前田久治は県会議員や大根村の村長を務めた厳格な人物で、母のイセは控えめな性格、夕暮を長男として三男四女の家族であった。
玉井 潤次(たまい じゅんじ、1883年(明治16年)7月2… 玉井 潤次(たまい じゅんじ、1883年(明治16年)7月27日 - 1958年(昭和33年)12月27日)は、日本の弁護士、政治家。日本社会党衆議院議員(1期)。 新潟県中蒲原郡早通村(現:新潟市)で、大地主・玉井貞太郎の二男として生まれた。1910年東京帝国大学独法科卒。卒業後は弁護士の業務に従事し、日本無産党に加わり、新潟県議、新潟市議となる。その後、人民戦線事件で検挙される。 戦後は日本社会党の結成に加わり、1946年の第22回衆議院議員総選挙で新潟県第1区(当時は大選挙区制)から立候補して当選する。翌1947年の第1回新潟県知事選挙に日本社会党公認で立候補する。1回目の投票で1位の岡田正平に次ぐ得票となったが、法定得票数に達した者がいなかったため、岡田との決選投票となった。
福原 信三(ふくはら しんぞう、1883年(明治16年)7月… 福原 信三(ふくはら しんぞう、1883年(明治16年)7月25日 - 1948年(昭和23年)11月4日)は、日本の実業家、写真家。資生堂の創業者・福原有信の息子であり、株式会社資生堂の初代社長。弟に写真家の福原路草がいる。 東京府京橋区出雲町(現・東京都中央区銀座)で資生堂薬局(当時)の福原家に生まれる。名前の「三」が示す通り福原家の三男であるが、長男の信一は身体が弱く、また二男の信二も幼少期に他界してしまったため、後継ぎとして育てられた。 中学時代は画家を志し、日本画家の石井鼎湖に入門するなどしたが、父の希望に従い薬学の道に進んだ。千葉医学専門学校(現・千葉大学医学部)を卒業後、1908年(明治41年)に米国・コロンビア大学薬学部に留学。
池田 長康(いけだ ながやす、1883年(明治16年)7月2… 池田 長康(いけだ ながやす、1883年(明治16年)7月24日 - 1962年(昭和37年)5月23日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。旧姓・千坂。 本籍・岡山県。内務官僚・千坂高雅の六男として生まれ、男爵・池田長準の養子となる。養父の死去に伴い、1913年(大正2年)4月10日、男爵を襲爵した。 第一高等学校を経て、1911年(明治44年)7月、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年、三井銀行に入行。以後、日本鉄工取締役、富士護謨工業取締役、山城銀行頭取、桑船銀行取締役、萩電灯取締役などを務めた。 1918年(大正7年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し1932年(昭和7年)7月9日まで2期在任した。
矢吹 省三(やぶき しょうぞう / せいぞう、1883年(明… 矢吹 省三(やぶき しょうぞう / せいぞう、1883年(明治16年)7月23日 - 1950年(昭和25年)12月27日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 東京府出身。旧幕臣・陸軍中将、矢吹秀一の三男として生まれる。旧制第一高等学校を経て、1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。父の死去に伴い1910年(明治43年)1月19日、男爵を襲爵。 横浜正金銀行書記、富士生命保険 (株) 取締役、東京タクシー自動車 (株) 取締役、東京貿易 (株) 社長などを務めた。 1918年(大正7年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され公正会に属して活動した。
小橋 三四子(こはし みよこ、1883年(明治16年)7月2… 小橋 三四子(こはし みよこ、1883年(明治16年)7月23日 - 1922年(大正11年)5月11日)は、日本の明治期のジャーナリストである。1914(大正3)年、日本で最初の婦人面といわれる『読売新聞よみうり婦人付録』の編集主任となった。。 1883年(明治16年)、静岡県で小橋光次郎の次女として生まれた。5歳で上京し、東京府立第一高等女学校(現・東京都立白鷗高等学校)に入学した。1901年(明治34年)、創設されたばかりの日本女子大学校(現・日本女子大学)国文学部に第一回生として入学した。この頃キリスト教に入信した。 1904年(明治37年)、日本女子大学校を卒業した。同校の卒業生組織として桜楓会が創設され、同校初代校長の成瀬仁蔵の要請に応えて橋本八重子(柳八重子)とともに同窓会誌 『家庭週報』 『家庭』 の編集人を務めた。
坂口 武市(明治16年(1883年)7月23日 - 昭和33… 坂口 武市(明治16年(1883年)7月23日 - 昭和33年(1958年)3月5日))は、日本の実業家、政治家。旧姓井上。米子商工会議所会頭、県会議員、米子市議会議員を務めた。鳥取県平民。 鳥取県人・井上豊治郎の二男、井上喜代太の弟、初代平兵衛の養子。坂口家は藩政時代“沢屋”と称し、綿、木綿仲買業を営んでいた。初代平兵衛が、「坂口財閥」と呼ばれるように家業を発展させた。 明治39年(1906年)7月早稲田大学法学科卒業。山陰電気常務取締役に就任。明治42年(1909年)、分家して一家を創立す。 大正15年(1926年)8月合併により広島電気(中国電力の前身)取締役山陰支社長となる。 大正2年(1913年)9月の町会議員当選以来、昭和2年(1927年)3月まで13年7か月にわたり町勢伸展に尽くし、同6年(1931年)6月に市会議員当選と共に市会議長に選任され、同10年(1935年)6月再選まで通算20有余年議員の職にあり、その間2期県会議員に当選した。
今井 健彦(いまい たけひこ、1883年(明治16年)7月2… 今井 健彦(いまい たけひこ、1883年(明治16年)7月22日 - 1966年(昭和41年)1月20日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、文部政務次官、商工政務次官、農林参与官。ジャーナリスト。歌人の今井邦子は妻。坂本龍馬暗殺の犯人とされる今井信郎の三男。 静岡県榛原郡初倉村(現在の島田市)に村長今井信郎の三男として生まれる。『中央新聞』『中外商業新報』記者を経て、福井日報社社長となった。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第21回衆議院議員総選挙まで7回連続当選を果たした。その間、犬養内閣で農林参与官を、平沼内閣で商工政務次官を、小磯内閣で文部政務次官を務めた。
大錦 大五郎(おおにしき だいごろう、1883年7月22日 … 大錦 大五郎(おおにしき だいごろう、1883年7月22日 - 1943年5月16日)は、愛知県海部郡鍋田村稲元(現:愛知県弥富市稲元)出身の大相撲力士(京都相撲・大坂相撲)。第28代横綱。本名は鳥井 大五郎(とりい だいごろう)。 1883年7月22日に愛知県海部郡鍋田村稲元(現:愛知県弥富市稲元)で大工だった山田松次郎の次男として生まれた。3月22日、3月20日の誕生日諸説ある。幼少期から怪力で、地元の子供相撲でも年上の子供を相手にしても負けなかったため、「稲元の金太郎」という異名を取った。父の元で修業の後に京都で車大工の職人となったが、体格と怪力を見込まれ、その評判を聞きつけた力士の勧めで、1898年に伊呂波部屋(京都相撲)へ入門した。
南 薫造(みなみ くんぞう、1883年(明治16年)7月21… 南 薫造(みなみ くんぞう、1883年(明治16年)7月21日 - 1950年(昭和25年)1月6日)は、広島県賀茂郡内海町(現呉市安浦町)出身の画家。 東京美術学校西洋画科出身。1907年〜1910年にかけて、イギリスで学ぶ。文展、帝展、新文展、日展で活躍し、1932年から43年にかけては東京美術学校の教授を務めた。油画家、水彩画家として知られるが、版画の制作にも携わっていた。晩年は郷里の安浦町で暮らし、瀬戸内海を描き続けた。 ウィキメディア・コモンズには、南薫造に関するカテゴリがあります。
横尾 龍(よこお しげみ、男性、1883年(明治16年)7月… 横尾 龍(よこお しげみ、男性、1883年(明治16年)7月21日 – 1957年(昭和32年)1月7日)は、日本の実業家、政治家。通商産業大臣(第4代)。参議院議員(1期)。 佐賀県小城郡芦刈町(現小城市)に生まれる。佐賀県尋常中学校唐津分校、第五高等学校を経て、1907年東京帝国大学工科大学造船科を卒業、三菱長崎造船所に入社する。その後鈴木商店に転職し、1921年神戸製鋼播磨造船工場工作課長、後に工場長、1929年播磨造船所専務取締役となる。1943年社長に就任。 戦後の1949年、兵庫県選挙区で行われた参議院補欠選挙に民主自由党より立候補し当選。1950年第3次吉田第1次改造内閣にて通商産業大臣として入閣する。
三木 翠山(みき すいざん、明治16年〈1883年〉7月20… 三木 翠山(みき すいざん、明治16年〈1883年〉7月20日 - 昭和32年〈1957年〉3月25日)は、大正時代から昭和時代にかけての京都の日本画家、版画家。 竹内栖鳳の門人。本名三木斎一郎。兵庫県社町(現加東市)で、服部寿七と母やすの4男として生まれる。幼少より絵を好み、紺屋を営んでいた三木利兵衛(号南石)から画を習う。明治33年(1900年)前後に竹内栖鳳に師事し、竹杖会において日本画の研鑽を積む。なお、翠山の紹介で栖鳳に入門した森月城は従弟にあたる。明治35年(1902年)利兵衛の養嗣子だった又蔵の養子となり、同時に同家のじんと結婚する。大正2年(1913年)第七回文展に「朝顔」を出品して初入選。
来栖 七郎(くるす しちろう、1883年(明治16年)7月2… 来栖 七郎(くるす しちろう、1883年(明治16年)7月20日 - 1928年(昭和3年)5月24日)は、衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 茨城県北相馬郡北文間村(現在の龍ケ崎市)出身。日本法律学校を経て、東京政治学校を卒業。二六新報記者、同理事、帝国通信記者、自由通信社理事などを歴任。さらに殖民協会理事長を務めた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。次の第16回衆議院議員総選挙でも再選された。
藤井 重郎(ふじい じゅうろう、1883年(明治16年)7月… 藤井 重郎(ふじい じゅうろう、1883年(明治16年)7月18日 - 1937年(昭和12年)8月21日)は、日本の陸軍軍人。歩兵大佐で予備役となったのち、靖安軍司令官に就任し、熱河支隊長として戦死した。最終階級は陸軍少将、満州国陸軍中将。 福島県出身。農業を営む塩谷家の六男で、藤井家の養子となる。長男の藤井毅は陸軍獣医大尉、三男の藤井信は陸軍士官学校57期出身で戦死した陸軍大尉である。藤井は創設以来の稚松会会員であった。会津中学から仙台陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校本科を経て、陸軍士官学校16期を卒業。1904年(明治37年)11月、歩兵少尉に任官した。 歩兵第32連隊附となり、翌年5月から1906年(明治39年)3月まで日露戦争に従軍した。
伊藤 竹之助(いとう たけのすけ、1883年(明治16年)7… 伊藤 竹之助(いとう たけのすけ、1883年(明治16年)7月16日 - 1948年(昭和23年)1月22日)は、日本の実業家。元伊藤忠商事社長。 父は福井県熊川村の初代村長逸見勘兵衛(へんみ かんべえ)。 逸見竹之助は、福井県熊川村で生まれ、滋賀県商業学校を卒業し、伊藤本店に番頭候補として入店。二代・伊藤忠兵衛の1年先輩の竹之助は、後に初代伊藤忠兵衛の長女トキの娘フキ(二代忠兵衛の姪)と24歳で結婚し、伊藤姓を名乗る。伊藤竹之助はよきパートナーとして生涯二代忠兵衛を支える。 初代・伊藤忠兵衛の娘婿伊藤忠次郎を初代とする伊藤忠次郎家2代目。
渡辺 知雄(わたなべ ともお、1883年(明治16年)7月1… 渡辺 知雄(わたなべ ともお、1883年(明治16年)7月16日 – 1946年(昭和21年)11月29日)は、日本の外交官。静岡県三島市長。 静岡県出身。1907年(明治40年)に早稲田大学政治経済科を卒業し、翌年に外務省に入省した。1912年(明治45年)に外務書記生となり、バンクーバー領事館に勤務した。1917年(大正6年)より中華民国に駐在し、1919年(大正8年)には広州副領事となった。翌年、ロンドン副領事に転任。1922年(大正11年)、ボンベイ(現在のムンバイ)総領事に就任し、1927年(昭和2年)からニューオーリンズ総領事に転じた。1932年(昭和5年)よりハバナ領事となり、さらにマニラ総領事を務めた。
安藤 文英(あんどう ぶんえい、1883年7月15日 - 1… 安藤 文英(あんどう ぶんえい、1883年7月15日 - 1958年4月13日)は、日本の仏教学者、僧侶。駒澤大学教授、總持寺顧問、学校法人総持学園理事長などを歴任。号は哲山。 明治16年、尾張国熱田(愛知県)生まれ。秋野孝道に参道。1910年(明治43年)曹洞宗大学(現: 駒澤大学)卒業。4年間、内地留学生として宗学研究を行う。1910年から可睡斎にて参禅学道。1921年に曹洞宗第一中学林教頭、1926年に同校長。1944年より總持寺監院。駒澤大学教授、神奈川県仏教会顧問、静岡県周智郡大洞院独住八世、崇信寺44世などを務める。 著書に「修証義通解」「永平大清規通解」、共著に「正法眼蔵註解全書」「禅学辞典」など。
中山 悦治(なかやま えつじ、1883年7月15日 - 19… 中山 悦治(なかやま えつじ、1883年7月15日 - 1951年12月25日)は大正・昭和期の実業家。中山製鋼所の創設者。 福岡県行橋市南泉の中山家に生まれ、行橋市立泉小学校を卒業。豊津中学校(現在の育徳館中学校)三年時、父が事業に失敗し、中途退学。その後、製糸工事、炭鉱、行商など様々な職を転々した。1919年に兵庫県尼崎にメッキ炉1基、作業員数名からなる亜鉛鉱金製造工場を開設した。この工場が中山悦治商店を経て中山製鋼所となる。
相馬 御風(そうま ぎょふう、1883年(明治16年)7月1… 相馬 御風(そうま ぎょふう、1883年(明治16年)7月10日 - 1950年(昭和25年)5月8日)は、明治期から昭和期にかけての日本の文学者、詩人、歌人、評論家。本名は昌治(しょうじ)。新潟県西頸城郡糸魚川町(現糸魚川市)出身。早稲田大学大学部文学科英文学科卒業。詩歌や評論のほか、早稲田大学校歌「都の西北」をはじめとした多くの校歌や、「春よ来い」などの童謡の作詞者としても知られる。 1883年、新潟県西頸城郡糸魚川町大町(現糸魚川市)に生まれる。相馬徳治郎の長男。高田中学(現新潟県立高田高等学校)を経て早稲田大学に進む。中学以来の学友に小川未明がいる。在学中の1903年に岩野泡鳴らと雑誌「白百合」を創刊した。
若杉 要(わかすぎ かなめ、1883年(明治16年)7月9日… 若杉 要(わかすぎ かなめ、1883年(明治16年)7月9日 - 1943年(昭和18年)12月9日)は、日本の外交官。駐アメリカ合衆国公使。 熊本県出身。1883年(明治16年)7月9日熊本市寺原町に生まれる。1900年(明治33年)熊本市立商業高校入学、1903年(明治36年)熊本市立商業高校(校名変更により熊本県立商業高校)7期生卒業。1906年(明治39年)、東亜同文書院を3期生卒業し、外務書記生試験に合格した。1911年(明治44年)、オレゴン州立大学を卒業し、さらに1914年(大正3年)にはニューヨーク大学を卒業した。1917年(大正6年)、外交官及領事官試験に合格し領事官補となった。
内藤 濯(ないとう あろう、1883年7月7日 - 1977… 内藤 濯(ないとう あろう、1883年7月7日 - 1977年9月19日)は、フランス文学者、評論家、翻訳家、エッセイスト。
木村 久一(きむら きゅういち、1883年7月5日 - 19… 木村 久一(きむら きゅういち、1883年7月5日 - 1977年2月28日)は、日本の教育学者、百科事典編集者である。 山形県生まれ。1913年、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、麻布中学校、青山女学院、早稲田大学などの教壇に立った。早教育の提唱者であり、『早教育と天才』(木村久一 1917)の著がある。島中雄三を介して下中弥三郎を知り、1931年、請われて平凡社に入り、『世界大百科事典』の編集長に就いた。一説に、英単語の encyclopedia を「百科事典」と訳したのは木村である。同百科事典全28巻を完結させた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
鷲野 米太郎(わしの よねたろう、1883年(明治16年)7… 鷲野 米太郎(わしの よねたろう、1883年(明治16年)7月2日 - 1937年(昭和12年)4月3日)は、日本の衆議院議員(実業同志会→国民同志会→立憲政友会)。実業家。弁護士。 高知県安芸郡吉良川村(現在の室戸市)に楠武三郎の長男として生まれ、鷲野繁馬の養子となった。1909年(明治42年)、東京高等師範学校を卒業し、小学校訓導、台湾総督府国語学校助教諭、同中学校教諭を歴任した。1915年(大正4年)、京都帝国大学法科大学独法科を卒業し、京都府属となった。高等文官試験に合格し、愛宕郡長、京都市助役を歴任した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第17回、第18回でも再選された。
堀田 正昭(ほった まさあき、1883年(明治16年)7月1… 堀田 正昭(ほった まさあき、1883年(明治16年)7月1日 - 1960年(昭和35年)7月25日)は、日本の外交官。駐チェコスロバキア公使、駐スイス公使、駐イタリア大使。 検事・法学者堀田正忠の長男として東京府に生まれる。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業し、翌年に外交官及領事官試験に合格した。外交官補としてフランス、中華民国に勤務した。公使館三等書記官、大使館二等書記官、同一等書記官、外務書記官・大臣官房人事課長などを歴任し、その間に中国・ドイツ・イタリアに勤務した。1926年(大正15年)、外務省欧米局長に就任。1931年(昭和6年)、駐チェコスロバキア公使となり、1934年(昭和9年)に駐スイス公使に転じた。
真藤 慎太郎(眞藤 愼太郎、しんどう しんたろう、1883年… 真藤 慎太郎(眞藤 愼太郎、しんどう しんたろう、1883年(明治16年)7月1日 - 1971年(昭和46年)1月11日)は、日本の実業家、漁業家、政治家。衆議院議員。玄洋社社員。 福岡県福岡区(現福岡市)で回船問屋・真藤利吉の長男として生まれる。福岡県立福岡中学校を卒業後、玄洋社に所属。中国大陸で活動し、日本の対ロシア帝国政策に着目してロシア語を習得。日露戦争開戦後、通訳として従軍した。 その後、カムチャツカ半島沿岸などの北洋漁業で財を築いた。1926年6月、日魯漁業(現マルハニチロ)の取締役に就任。その他、日魯漁業副社長、東洋製罐取締役、函館水産販売取締役、函館製網船具取締役、樺太共同漁業取締役、台湾殖産工業取締役、北千島水産社長、函館定温倉庫社長、北千島鱈漁業社長、北海道護謨社長、北日本漁業社長、東都冷蔵社長、函館公海漁業取締役、輸出鱈協会理事長、中央水産業会副会長、西部瓦斯顧問などを務めた。
小野寺 有一(おのでら ゆういち、1883年(明治16年)7… 小野寺 有一(おのでら ゆういち、1883年(明治16年)7月1日 – 1965年(昭和40年)1月4日)は、衆議院議員。岩手県釜石市長。 岩手県東磐井郡黄海村(藤沢町を経て現在の一関市)出身。岩手県巡査となり、普通文官試験に合格して、1909年(明治42年)より岩手県警部を務めた。その後、宮城県警部に転じ、角田警察署長、石巻警察署長、塩釜警察署長、高等保安警務課長を歴任。1921年(大正10年)に警視に昇進し、仙台警察署長に就任した。その後、伊具郡長となった。 1928年(昭和3年)より釜石町長を務め、1937年(昭和12年)に市制施行されると初代市長に就任した。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受けて出馬し、当選を果たした。
杉原祥造(すぎはらしょうぞう、1883年〈明治16年〉7月 … 杉原祥造(すぎはらしょうぞう、1883年〈明治16年〉7月 - 1926年〈大正15年〉2月)は、日本の刀剣研究家。長年行方不明になっていた数珠丸恒次を再発見した人物として知られる。 1883年(明治16年)7月、兵庫県尼崎市にて生まれる。当初は歯科医を志して大阪にある歯科医院の書生となり、次いで東京にある歯科医専へ進学する。1902年(明治35年)春、19歳の頃に海軍水路部技師を務める傍ら刀剣研究を行っていた神津伯と出会ったことがきっかけで日本刀に魅せられ、歯科医専を中退して刀剣研究に没頭していった。 1918年(大正7年)には國學院大學で刀剣の講義を毎月行なうなど、刀剣研究家として活動するようになる。
高橋 親吉(たかはし しんきち、1883年(明治16年)7月… 高橋 親吉(たかはし しんきち、1883年(明治16年)7月 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。 大分県出身。1910年(明治43年)に東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、高等文官試験に合格した。1912年(大正元年)、台湾総督府属となり、同事務官、専売局事務官、高雄州知事などを歴任し、1927年(昭和2年)には殖産局長に就任した。その後、台北州知事となり、1929年(昭和4年)に退官した。
小九紋竜 梅吉(こくもんりゅう うめきち、1883年(明治1… 小九紋竜 梅吉(こくもんりゅう うめきち、1883年(明治16年)7月 - 1943年(昭和18年)7月29日)は、兵庫県武庫郡鳴尾村(現・西宮市)出身の大坂相撲の元力士。第11代時津風親方。本名は岡田 作次郎(おかだ さくじろう)。最高位は小結。入門当時は若紋竜、後年は九紋竜、妨の四股名で取った。 大坂相撲の年寄名跡の時津風部屋に入門し、1906年(明治39年)に入幕、1908年(明治41年)1月場所では小結に昇進したが負け越し、6月場所では平幕に下がり、四股名を九紋竜に改めた。 博打好きで借金を重ね、喧嘩も繰り返し、人を騙すなど素行が悪い事から、1909年(明治42年)1月場所の前に、親方から「世の中の妨げばかりするので、四股名を妨(さまたげ)に改めろ」と言われ、「妨 四郎盛足」に改名した。
瀧谷 善一(たきたに ぜんいち、1883年6月30日 - 1… 瀧谷 善一(たきたに ぜんいち、1883年6月30日 - 1947年9月18日)は、日本の商学者。神戸経済大学(現神戸大学)名誉教授。初代日本経営学会理事長。 大阪府貝塚市出身。1908年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部卒業。村瀬春雄門下。1910年神戸高等商業学校(現神戸大学)教授。1913年英米留学。1923年欧米出張。1924年同校商業研究所調査部長。1929年神戸商業大学(現神戸大学)教授。1935年商学博士の学位を取得。1941年日本経営学会初代理事長。1942年依願退官。同年従三位。のち、東洋紡績経済研究所初代所長、神戸市助役、神戸市最高顧問を歴任した。
八条 隆正(はちじょう たかまさ、1883年(明治16年)6… 八条 隆正(はちじょう たかまさ、1883年(明治16年)6月27日 - 1950年(昭和25年)2月3日)は、明治末から昭和前期の大蔵官僚、政治家、華族。貴族院子爵議員。 伯爵・油小路隆董の三男として生まれ、子爵・八条隆邦の養子となる。養父・隆邦の死去に伴い、1896年(明治29年)9月8日、家督を相続し子爵を襲爵した。 1908年(明治41年)京都帝国大学法科大学を卒業。1909年(明治42年)大蔵省に入省し、税務監督局属兼大蔵属、同監督局事務官、東京税務監督局経理部長などを歴任。1915年(大正4年)7月15日、依願免本官となり退官した。その後、産業組合中央金庫理事長、日本銀行監事、住宅営団監事、内閣顧問、大蔵省顧問、帝国農会特別議員、国民貯蓄奨励委員会委員、学習院評議会会員などを務めた。