新関 良三(にいぜき りょうぞう、1889年8月4日 - 1… 新関 良三(にいぜき りょうぞう、1889年8月4日 - 1979年4月27日)は、ドイツ文学者、演劇研究者。1943年恩賜賞受賞。1963年日本学士院会員。1967年文化功労者。文学博士。学習院教授、埼玉大学学長。河北町名誉町民。息子の新関欽哉は外交官、オーストリア、ソ連大使などを務めた。 山形県西村山郡谷地村横町(現・河北町谷地)生まれ。旧姓・平泉。谷地尋常高等小学校から西村山郡立西村山中学校(現・山形県立寒河江高等学校)に入学後、山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)に転じる。東京高等商業学校(現・一橋大学)に進む。1912年、山形市の伯母新関せいの養子となる。第一高等学校文科を経て、1915年東京帝国大学文科大学独文科卒。
織田 信恒(おだ のぶつね、1889年〈明治22年〉8月3日… 織田 信恒(おだ のぶつね、1889年〈明治22年〉8月3日 - 1967年〈昭和42年〉5月20日)は、日本の政治家、実業家、漫画原作者。貴族院議員。爵位は子爵。筆名は織田 小星(おだ しょうせい)。漫画『正チャンの冒険』の原案・文を作った。織田信正、織田信昭の父。 1889年(明治22年)8月3日、元相馬中村藩藩主の子爵相馬誠胤の長男として東京府に生まれる。生母は東明氏。初名は相馬秀胤(そうま ひでたね)。1895年(明治28年)6月、元天童藩藩主の子爵織田信敏の養嗣子となる。1901年(明治34年)7月1日、養父信敏の死去により襲爵。学習院高等科 (旧制)を経て、1915年(大正4年)に京都帝国大学法科大学政治学科を卒業し、日本銀行に入行した。
熊野 英(くまの えい、1889年〈明治22年〉8月3日 -… 熊野 英(くまの えい、1889年〈明治22年〉8月3日 - 1963年〈昭和38年〉2月3日)は、日本の内務官僚、政治家。官選群馬県知事、松江市長。旧姓・石倉。 島根県出身。石倉家に生まれ、熊野家の養子となる。松江中学校を経て、第一高等学校を卒業。1913年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1914年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1915年、内務省に入省し鹿児島県属となる。 以後、鹿児島県警視、同県日置郡長、同薩摩郡長、同県理事官、和歌山県理事官、同農林課長、同地方課長、帝都復興院書記官、復興局書記官・整地部庶務課長、同用地課長、愛知県書記官・学務部長、大阪府書記官・学務部長、岐阜県書記官・内務部長、三重県書記官・総務部長などを歴任。
佐野 隆一(さの りゅういち、1889年8月1日 - 197… 佐野 隆一(さの りゅういち、1889年8月1日 - 1977年5月29日)は、日本の実業家・慈善家。自身が設立した鉄興社(現・東北東ソー化学)を日本有数の総合電気化学メーカーに成長させ、社長・会長を務めた。また、自身が蒐集した古美術品をもとに佐野美術館を設立したほか、出身地の三島市にたびたび寄付を行い、図書館や学校、福祉施設などの開設に貢献した。「三島のお父さん」と呼ばれ、三島市名誉市民(第1号)に推挙されている。静岡県田方郡三島町(現・三島市)出身。 1889年(明治22年)8月1日、静岡県田方郡三島町久保町(現・三島市中央町)の商家に生まれた。父親は佐野米吉、母親はたみであり、実家は秋月堂という和菓子舗を営んでいた。
田所 芳秋(たどころ よしあき、 1889年(明治22年)8… 田所 芳秋(たどころ よしあき、 1889年(明治22年)8月 - 1977年(昭和52年)6月29日) は、日本の鉱物学者。元日本製鐵八幡製鐵所研究所長。帝国学士院賞受賞。 高知県出身。旧制高知県立中学海南学校(現高知県立高知小津高等学校)を経て、1911年旧制大阪高等工業学校卒業。1916年東北帝国大学理科大学物理学科卒業、理学士。同年官営八幡製鐵所(研究課)入所。1920年東北帝国大学理学博士。官営八幡製鐵所研究所で研究し、日本製鐵八幡製鉄所技師、研究所監事、研究所長、日本製鐵理事などを経て、高知県工業試験場長に就任。1923年正七位勲六等瑞宝章。1934年帝国学士院賞受賞、従四位。1938年日本鉄鋼協会香村賞受賞。
山本 茂(やまもと しげる、1889年〈明治22年〉7月27… 山本 茂(やまもと しげる、1889年〈明治22年〉7月27日 - 1970年8月18日)は、日本の政治家・実業家。鹿児島県松山町議会議長(2期)、松山町議会議員(4期)、松山遺族会会長、松山町商工会会長などを歴任した。 1889年〈明治22年〉、和歌山県日高郡上山路村(現・田辺市)に生まれる。 1913年〈大正2年〉、23歳の時に医師を志して家を出て、親類を頼って人吉へ移った。1917年〈大正6年〉、製材所で勤めていた茂は、親類の杭木商・古久保安次郎の手引きで松山へ移った。翌1918年〈大正7年〉、28歳の時に水力利用の製材所を興し、以後製材業を続け、1940年〈昭和15年〉、囎唹郡製材統合株式会社副社長・郡内伐出組合長・県坑木組合囎唹支部長・県平木組合長に就任した。
石原 富松(いしはら とみまつ、1889年7月26日 - 没… 石原 富松(いしはら とみまつ、1889年7月26日 - 没年不詳)は、日本の化学者、鉱物工学者。東北大学名誉教授。鉱物の選鉱製錬研究において重要な業績を残した。特に、金属資源の有効利用に関する研究に従事し、戦前・戦中の日本の工業発展に貢献した。 1889年(明治22年)、宮城県に生まれる。旧制古川中学校(現・宮城県古川高等学校)を経て、1915年(大正4年)東北帝国大学理科大学化学科を卒業。東北帝国大学附属興業専門部、理学部を経て、1923年同大学工学部に勤める。1924年、イギリス、フランス、ドイツへ留学。同年、東北大学工学博士の学位を取得、選鉱製錬研究所の第三代所長に就任。当時、日本は自国の鉱物資源に乏しく、戦争遂行のために鉄や銅などの金属資源確保が急務で、石原は鉱石の選鉱技術や製錬技術を発展させ、より効率的に金属を精錬する方法を研究した。
河相 達夫(かわい たつお、1889年(明治22年)7月26… 河相 達夫(かわい たつお、1889年(明治22年)7月26日 - 1966年(昭和41年)10月31日)は、大正から昭和期の外交官、外務次官。終戦連絡中央事務局次長やオーストラリア公使等を務めた。旧姓・永井。 広島県賀茂郡竹原村(現竹原市)出身。永井潜の実弟で、河相保四郎の養子となる。旧制第一高等学校を経て1915年に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業後、北海道炭礦汽船入社。翌年退職し1918年、外交官及領事官試験に合格、外務省入省。 バンクーバー総領事代理、青島在勤外務書記官、情報一課長、関東庁官房外事課長、米国大使館一等書記官、中国公使館一等書記官、広東、上海各総領事を歴任。1937年外務省情報部長となり、同年10月の米ルーズベルト大統領のシカゴ演説(隔離演説)に反駁談話を発表、「持てる国」中国に対し「持たざる国」日本が不公平是正の戦いを挑むことの正当性を主張し注目された。
緋縅 祐光(ひおどし すけみつ、1889年7月25日 - 1… 緋縅 祐光(ひおどし すけみつ、1889年7月25日 - 1928年10月14日)は、現在の千葉県市原市出身で二十山部屋に所属した元力士。本名は鈴木 勇作。167cm、109kg。最高位は東前頭17枚目。 1903年1月13歳で入門。1905年1月場所序ノ口に付き、最初「槙ノ嶌」を名乗って着実に出世した。1910年1月場所新十両昇進、一時番付に「牧ノ嶌」と書かれたこともあった。1913年1月場所幕下に陥落したが、1914年1月場所に十両に復帰した。1915年1月場所、再び幕下に陥落していたが、この場所から四股名を「緋縅」と改めて翌1915年6月場所で再び十両に復帰し、そこで4勝1敗の好成績を残して1916年1月場所で新入幕を果たした。
井上 赳(いのうえ たけし、1889年7月23日 - 196… 井上 赳(いのうえ たけし、1889年7月23日 - 1965年7月20日)は、島根県出身の文部官僚。1930年代の国語読本である『小学国語読本』(サクラ読本)の編集の中心となった。 県立松江中学校、第一高等学校(同期に近衛文麿、山本有三、土屋文明)、東京帝国大学文科大学国文学科を卒業した。1921年、鹿児島県の第七高等学校造士館教授の時、大学の先輩である高木市之助に誘われ、文部省図書監修官となる。以後20年にわたって国定教科書の編集に関わる。 1925年から教科書研究のため1年間欧米に留学する。 1931年から『小学国語読本』の編纂に着手する。従来巻一の冒頭に単語から教えていたが井上は「サイタ サイタ サクラガ サイタ」に象徴されるように文から習うように改めた。
青山 杉作(あおやま すぎさく、1889年7月22日 - 1… 青山 杉作(あおやま すぎさく、1889年7月22日 - 1956年12月26日)は、日本の俳優、演出家、映画監督である。本名は青山 達美(あおやま たつみ)。 新潟県北蒲原郡紫雲寺村(紫雲寺町を経て、現在の新発田市米子)にある浄土真宗大谷派紫雲寺に、父・宣と母・綱の長男として生まれる。12歳下の弟に青山敏美 がいる。旧制新発田中学校(現在の新潟県立新発田高等学校)を卒業した。 1909年(明治42年)、旧制早稲田大学哲学科に入学した。在学中から演劇活動に参加し、同大学創立記念祭の野外公演で、青山杉作を名乗り初舞台を踏む。しかし、僧籍を拒み演劇活動に熱中しすぎたため、実家から送金を絶たれてしまい、英文科に転じた後大学を中退する。
岡田 喜久治(おかだ きくじ、1889年〈明治22年〉7月2… 岡田 喜久治(おかだ きくじ、1889年〈明治22年〉7月21日 - 1959年〈昭和34年〉2月2日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員(3期、立憲民政党)、参議院議員(1期、民主党)。農林政務次官。 栃木県芳賀郡清原村(現在の宇都宮市)出身。1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。同年の高等文官試験に合格し、宮城県志田郡長、北海道庁理事官、石川県理事官を経て、警視庁理事官に任命され、工場課長、保安課長、外事課長、特別高等課長を歴任した。その後、宮崎県書記官・警察部長、三重県書記官・警察部長に就任。1927年(昭和2年)、京都市助役となった。1929年(昭和4年)、岐阜県書記官・警察部長となり、翌年には宮崎県書記官・内務部長となった。
森 幸太郎(もり こうたろう、1889年7月20日 - 19… 森 幸太郎(もり こうたろう、1889年7月20日 - 1964年2月4日)は、昭和期の日本の政治家。衆議院議員、農林大臣、滋賀県知事などを歴任。位階は正三位。勲一等瑞宝章。 滋賀県東浅井郡竹生村(現在の長浜市)出身。1905年に長浜農学校を卒業後、家業の農業・蚕種製造・水産業などを行っていたが、政治の世界を志して竹生村長となり、1917年には38歳で立憲政友会より滋賀県会議員となり2期務める。1936年の第19回衆議院議員総選挙で滋賀県選挙区から立憲政友会の公認で立候補して当選するが、3期目を目指した1942年の第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会の推薦を受けずに立候補して落選した。
生駒 高常(いこま たかつね、1889年(明治22年)7月1… 生駒 高常(いこま たかつね、1889年(明治22年)7月19日 - 1955年(昭和30年)10月16日)は、日本の内務・台湾総督府官僚。台中州知事、官選石川県知事。 兵庫県出身。生駒八十弥の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1913年、東京帝国大学法科大学経済学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。大蔵省に入省し専売局書記兼大蔵属となる。その後、内務省に転じた。 以後、警視庁警視、岡山県理事官、台湾総督府事務官兼同参事官、同内務局学務課長、同府秘書官、同総督官房文書課長兼調査課長、台中州知事などを歴任。1929年7月、拓務省管理局長に就任した。 1935年1月、石川県知事(「石川県知事一覧」参照)に就任。
木村 蓬伍(きむら ほういつ、1889年7月19日 - 19… 木村 蓬伍(きむら ほういつ、1889年7月19日 - 1964年4月22日)は、日本の牧師。学校法人関西学院理事長を歴任した。 1889年、山口県宇部市に生まれる。1908年、日本メソヂスト下関教会で高橋泰平牧師より受洗。関西学院神学部を卒業後、エモリー大学神学部、同大学院を修了。1926年、受按。呉、京城、大阪東部(現:東梅田教会)各教会の伝道・牧会に従事した後、大阪東部伝道局巡回教師となる。西宮教会(現:西宮公同教会)の牧師在任中、ランバス女学院神学部、聖和女子学院神学部、関西学院神学部の講師を務めた。1960年6月から1964年4月まで、関西学院理事長を務めた。
木戸 幸一(きど こういち、1889年〈明治22年〉7月18… 木戸 幸一(きど こういち、1889年〈明治22年〉7月18日 - 1977年〈昭和52年〉4月6日)は、日本の華族・官僚・政治家。 昭和天皇の側近の一人として東條英機を内閣総理大臣に推薦するなど、太平洋戦争前後の政治に関与した。敗戦後にGHQによって戦争犯罪容疑で逮捕され、極東国際軍事裁判において終身刑のA級戦犯となったが後に仮釈放された。 1889年(明治22年)7月18日に東京府赤坂区新坂町六二において侯爵木戸孝正の長男として生まれた。父の木戸孝正は、明治の元勲である木戸孝允の妹治子と長州藩士来原良蔵の長男である。 学習院高等科では原田熊雄、織田信恒などと同級だった。近衛文麿は1学年下に当たる。
梅園 篤彦(うめぞの あつひこ、1889年〈明治22年〉7月… 梅園 篤彦(うめぞの あつひこ、1889年〈明治22年〉7月17日 - 1978年〈昭和53年〉8月4日)は、大正から昭和期の神職、政治家、実業家、華族。貴族院子爵議員。 男爵・梶野行篤の七男として生まれ、1913年(大正2年)6月、子爵・梅園実師の養子となる。養父の死去に伴い、1917年(大正6年)10月10日、子爵を襲爵した。 1909年(明治42年)京都府立第二中学校を卒業。1912年(明治45年)3月、大阪市立高等商業学校を卒業。その後、京都帝国大学法科大学を修了した。 1916年(大正5年)官幣中社白峯宮主典に就任。以後、府社男神社社司、京都市主事、京都市嘱託、滋賀県嘱託、京都薬学専門学校講師、京都計理士会会長、三島製紙常務取締役、精版印刷監査役などを務めた。
永井 要造(ながい ようぞう、1889年(明治22年)7月1… 永井 要造(ながい ようぞう、1889年(明治22年)7月16日 - 1962年(昭和37年)7月13日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 山梨県 甲府市下一条町(現城東)で、雑穀商・永井忠兵衛の長男として生まれる。市立甲府商業学校(現甲府市立甲府商業高等学校)を卒業後、満州、朝鮮に渡ったが帰国した。 1923年(大正12年)3月、横浜の日清製菓 (株) を買収し合資会社に改組して代表社員に就任。その他、日清煉乳取締役社長、ABC製菓取締役社長、日清化学食産社長、早川鉄工監査役、横浜商工会議所議員などを務めた。 1930年(昭和5年)横浜市会議員に選出され同参事会員も務め、1938年(昭和13年)まで2期在任した。
加野 宗三郎(かの そうざぶろう、1889年7月14日 - … 加野 宗三郎(かの そうざぶろう、1889年7月14日 - 1946年1月23日)は、日本のパトロン、美術品収集家。 「金盛」という酒を醸造販売する、造り酒屋「萬屋」を営む加野熊次郎の長男として、福岡市中奥堂町(現・博多区)に生まれる。1908年福岡県立中学修猷館を経て、1911年大阪高等工業学校(現・大阪大学工学部)醸造科を卒業。 家業の酒造業を営む傍ら、美術や文芸に関心を向け、多くの美術家や詩人・俳人らと交友を持つ。所有する別邸「柳北亭」や「環水荘」は、来福の文人墨客のたまり場となった。交友のあった美術家には、青木繁、青山熊治(ドイツ語版)、津田青楓、森田恒友、正宗得三郎、村上華岳、榊原紫峰、冨田溪仙、小野竹喬、山崎朝雲、冨永朝堂、恩地孝四郎などがあり、文筆家では与謝野鉄幹・晶子夫妻、北原白秋、吉井勇、高浜虚子といった人たちがいた。
高橋 百千(たかはし ももち、1889年7月14日 - 19… 高橋 百千(たかはし ももち、1889年7月14日 - 1973年8月8日)は船舶交通に関する人物。 台湾総督府交通局技師として現地の方を尊重し、台湾と日本の関係良好の礎を築いた。戦後は日本モーターボート選手会が今の競艇に発展するための法整備などに尽力。[要出典] 広島県広島市東白鳥町で生まれる。1916年(大正5年)、官立商船学校機関科(現・東京海洋大学海洋工学部)卒業。日本郵船機関士を務めた後、1917年(大正6年)逓信省管船局に入り、名古屋逓信局海事部長を経て、1940年(昭和15年)日本船用品統制副社長、1949年(昭和24年)日本船燈監査役となる。 1956年(昭和31年)日本船舶機関士協会会長、1957年(昭和32年)全国モーターボート競走施行者協議会事務局長を務める。
平澤 計七(ひらさわ けいしち、1889年7月14日 - 1… 平澤 計七(ひらさわ けいしち、1889年7月14日 - 1923年9月3日)は、近代日本の劇作家・労働運動家である。日本のプロレタリア演劇の祖にして、生活協同組合及び労働金庫の設立の提言者でもある。関東大震災直後に、亀戸警察署に検束され労働運動家であったために他の活動家とともに虐殺された。妻の松は森竹次郎(森泰吉郎の父である磯次郎の義父)の次女。実子は、平澤綾子がいた。 若い頃、「潮態」あるいは「紫魂」の筆名を用いた。新潟県小千谷町(現・小千谷市)の出身。小学校を卒業すると、日本鉄道株式会社(現・JR東日本)大宮工場に就職した父に連れられて故郷を後にし、同工場付属職工養成所に入った。そこで3年間、近代的鍛冶工としての技術を身につけた。
兪 万兼(ゆ まんけん、ユ・マンギョム、朝鮮語: 유만겸、1… 兪 万兼(ゆ まんけん、ユ・マンギョム、朝鮮語: 유만겸、1889年(高宗26年 / 明治22年)7月13日 - 1944年(昭和19年)12月13日)は、大正から昭和にかけての朝鮮総督府官僚。位階は正四位、勲位は勲三等。 1889年に兪吉濬の長男として漢城府で生まれた。培才学堂、興化学校を卒業し、日本に留学。1913年(大正2年)に岡山県の旧制第六高等学校を卒業し、東京帝国大学法学部経済科に入学。1917年(大正6年)に卒業。大学院に進んだが、1918年(大正7年)に朝鮮に帰り、朝鮮総督府に奉職する。1920年(大正9年)に聞慶郡守に昇進し、1921年(大正10年)に慶尚北道庶務課長、1922年(大正11年)に同道社会課長などを歴任した。
地主 悌助(じぬし ていすけ、1889年(明治22年)7月1… 地主 悌助(じぬし ていすけ、1889年(明治22年)7月12日 - 1975年(昭和50年)11月26日)は、日本の洋画家。 1889年、地主正次の次男として山形県鶴岡最上町(現:鶴岡市)に生まれる。 1905年に山形県立荘内中学校(現:山形県立鶴岡南高等学校)に進むも中退。検定試験に合格し小学校教諭となる。 1913年、画家坂本繁二郎の作品を見て、感銘を受け、弟子となる。 その後、図画教諭の検定試験に合格。秋田県師範学校、山口県女子師範学校、鶴岡中学校(現:鶴岡南高等学校)で教鞭を執った。また1950年には鶴岡の美術団体「白甕社」会長に就任。庄内の芸術文化の発展にも尽力した。 1954年に健康を害したことから、転地療養も兼ね、友人である真田祐太郎が居住する神奈川県中郡二宮町に移る。
菅野 廉(かんの れん、1889年(明治22年)7月12日 … 菅野 廉(かんの れん、1889年(明治22年)7月12日 - 1988年(昭和63年)7月8日)は、日本の洋画家。宮城県黒川郡大衡村生まれ。東京美術学校を卒業し、戦前は二科で、戦後は河北美術展などで活躍した。「蔵王の画家」と呼ばれる。 昭和万葉の森の敷地内にある「大衡村ふるさと美術館」は、作品の一部を常設展示している。 1889年(明治22年)7月12日、宮城県黒川郡大衡村に生まれる。1910年(明治43年) 宮城県師範学校卒業。1911年(明治44年) 東京美術学校に入学。1915年(大正4年) 東京美術学校卒業。 1925年(大正14年) 二科展に入選。1931年(昭和6年) パリに留学。
尾関 義一(おぜき ぎいち、1889年(明治22年)7月11… 尾関 義一(おぜき ぎいち、1889年(明治22年)7月11日 - 1966年(昭和41年)2月14日)は、明治末から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員(3期)。 広島県三上郡、のちの比婆郡本田村(現庄原市)出身。1907年(明治40年)中央大学法律科を卒業。弁護士の業務に従事。 犬養内閣嘱託、衆議院嘱託、立憲政友会幹事、吉田内閣内閣総理大臣秘書官を務めた。立憲政友会幹事長森恪の側近として活躍し、森の没後は林譲治と共に活動した。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に栃木県第1区から日本自由党公認で出馬して落選。落選後の1948年(昭和23年)、政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。
篠原 新三(しのはら しんぞう、1889年〈明治22年〉7月… 篠原 新三(しのはら しんぞう、1889年〈明治22年〉7月9日 - 1966年〈昭和41年〉4月13日)は日本の画家・水彩画家である。水彩画の普及と信州での美術の発展に多大に貢献した。 長野県上水内郡芹田村(現・長野市中御所)に資産家である篠原勝之助の三男として生まれる。長野商業学校(現・長野商業高等学校)在学中、長野師範学校で開催された水彩画研究会に参加。河野通勢、草川信を知り、共に絵画グループを結成する。 卒業後上京し、日本水彩画会研究所に入り、日本水彩画の父・大下藤次郎の指導を受ける。大正元年(1911年)太平洋画会会員となり、大正2年(1913年)丸山晩霞ら総勢37名と日本水彩画会を創立。
足立 源一郎(あだち げんいちろう、1889年〈明治22年〉… 足立 源一郎(あだち げんいちろう、1889年〈明治22年〉7月8日 - 1973年〈昭和48年〉3月31日)は、日本の画家、作家、登山家。山岳作家として国内外に足跡を残し、『滝谷ドームの北壁』『北穂高岳南峰』など、数々の名作を世に送り出した。 大阪府大阪市南船場生まれ。1905年に京都市立美術工芸学校(現:京都市立芸術大学)に入学し、翌年からは京都岡崎に新設された関西美術院にも通って浅井忠や鹿子木孟郎の指導を受けた。 1907年に上京して太平洋画会研究所に入る。さらに柚木久太の勧めで1914年から渡欧。1914年〜1918年、1923年〜1926年の7年のパリへの渡欧を経て画家としての基礎を学ぶ。
稲田 直道(稻田 直道、いなだ なおみち、1889年(明治2… 稲田 直道(稻田 直道、いなだ なおみち、1889年(明治22年)7月7日 - 1979年(昭和54年)4月29日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(4期)。 鳥取県邑美郡古市村(岩美郡美保村古市を経て現鳥取市古市)で、稲田益造、ちせ夫妻の長男として生まれる。1908年(明治41年)鳥取県第一中学校(現鳥取県立鳥取西高等学校)を卒業。在学中、日露戦争後の満韓の視察を行った。1908年、第六高等学校に入学したが中退し、1909年(明治42年)早稲田大学に転じた。在学中、雄弁会幹事を務め、南極探検事業、理想選挙、憲政擁護運動の遊説を全国各地で行った。1915年(大正4年)同大政治経済科を卒業。
河瀬 四郎(かわせ しろう、1889年(明治22年)7月7日… 河瀬 四郎(かわせ しろう、1889年(明治22年)7月7日 - 1946年(昭和21年)7月20日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 鳥取藩士・小学校長、河瀬聰の四男として生れる。鳥取第一中学校を経て、1910年7月、海軍兵学校(38期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。海軍水雷学校高等科を卒業し、「天津風」水雷長、臨時海軍防備隊付などを経て、1922年11月、海軍大学校(甲種20期)を卒業した。 横須賀防備隊水雷長、「萩」「桑」の各駆逐艦長、連合艦隊参謀、水雷学校教官、艦政本部員、水雷学校教官、イギリス出張(造兵監督官)、「霧島」副長、第3駆逐隊司令、第6駆逐隊司令、艦政本部員などを経て、1937年12月、海軍少将に進級。
山崎 元幹(やまざき もとき、1889年(明治22年)7月7… 山崎 元幹(やまざき もとき、1889年(明治22年)7月7日 - 1971年(昭和46年)1月24日)は昭和期の実業家。南満洲鉄道株式会社(満鉄)最後の総裁としてその終戦処理をおこなった。 福岡県糸島郡福吉村(現・糸島市二丈地域)出身。名前の読みは「もとき」であるが「げんかん」と音読みするものが多かったという。唐津中学、第一高等学校英法科、東京帝国大学法科大学政治学科を首席卒業。 1916年(大正5年)5月、満鉄に入社し、総務部に勤務。1921年(大正10年)8月から1923年(大正12年)9月にかけて、欧米に留学する。帰国後は社長室文書課勤務となる。1925年(大正14年)6月、撫順炭鉱参事に移り、翌年8月には撫順炭鉱庶務課長を務めた。
大麻 唯男(おおあさ ただお、1889年(明治22年)7月7… 大麻 唯男(おおあさ ただお、1889年(明治22年)7月7日 – 1957年(昭和32年)2月20日)は、日本の内務官僚、政治家。 熊本県玉名郡梅林村(現玉名市)出身(出生地は東京府)。兄は後に剣道十段となった大麻勇次。 熊本中学、第五高等学校、1914年(大正3年)東京帝国大学法科を卒業後、内務省に入省。山梨県属。警察畑を歩み、山形・山梨・神奈川各県の警察署長を務めた。 1924年(大正13年)、同郷の小橋一太(元文部大臣)の推挙により、清浦奎吾首相秘書官を務める。徳川家広によると、細川護立の宴会に出席した大麻のスピーチの巧さが清浦の目に止まったのが秘書官になったきっかけという。同年政友本党から第15回衆議院議員総選挙に立候補し当選。
佐々木 嘉平(ささき かへい、1889年(明治22年)7月7… 佐々木 嘉平(ささき かへい、1889年(明治22年)7月7日 - 1983年(昭和58年)5月2日)は社寺大工。富山県東礪波郡福野町(現在の南砺市福野)で代々宮大工であった佐々木家に生まれた。 父であった三代目佐々木嘉平に師事し、独学で技術・知識を身に付け、全国各地で数々の国宝や重要文化財の修復・保存に携わった。昭和46年黄綬褒章を受章。この四代目佐々木嘉平は、棟梁としては佐々木棟慶とも名乗った。戒名は平等院釈棟慶居士。 日本建築文様宝典 2003年 文芸社刊 清水稔次 佐々木健 編
飯塚 茂(いいづか しげる、1889年(明治22年)7月4日… 飯塚 茂(いいづか しげる、1889年(明治22年)7月4日 - 1945年(昭和20年)1月12日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 栃木県下都賀郡三鴨村大字都賀(現:栃木市藤岡町都賀)で、飯塚茂十郎の長男として生まれる。叔父・飯塚国三郎(講道館幹部、慶應義塾柔道師範)の導きで講道館・嘉納塾に入塾し、最終的に段位は講道館柔道七段となる。 1915年、慶應義塾大学部法律学科を卒業し、同年4月、英国領シンガポールに渡り、英国領マレー半島ジョホール州でゴム栽培事業を経営。1918年、南進公司を設立して社長となり、南和公司常務、大倉スマトラ農場常務なども務めた。1927年12月、財団法人暹羅協会(現:日本タイ協会)の設立時に創立委員、その後、1935年3月まで理事を務めた。
大溝 勇(おおみぞ いさむ、1889年(明治22年)7月4日… 大溝 勇(おおみぞ いさむ、1889年(明治22年)7月4日 - 1928年(昭和3年)6月17日)は、日本の造園家。明治神宮内苑の造営にかかわり、関東大震災復興小公園の設計にも関与した。 静岡県君沢郡中郷村(現・三島市)に生まれる。1899年に中郷尋常小学校を卒業して上京し、富士見尋常高等小学校に入学した[要出典]。1907年に旧制第一高等学校理農科に進学。1911年7月に卒業(卒業時点では「農科」)、同年9月に東京帝国大学農科大学林学科に入学した(入学宣誓式は10月14日に挙行)。大学では本多静六に学ぶ。 1914年7月に大学を卒業すると、翌年4月30日に内務大臣所管の明治神宮造営局(内苑造営工事専門の国による部局)林苑課に就職した。
明石 順三(あかし じゅんぞう、1889年7月1日 - 19… 明石 順三(あかし じゅんぞう、1889年7月1日 - 1965年11月14日)は、日本の宗教家。1927年にワッチタワー(エホバの証人)の日本支部として灯台社を創立した。聖書に基づく信仰から戦争に反対し、1939年に検挙され、治安維持法違反で懲役刑を受けた。第二次世界大戦後の1945年10月に釈放されたが、1947年にエホバの証人のアメリカ合衆国本部を批判してエホバの証人から除名された。 1889年7月1日に滋賀県坂田郡息長村(現・米原市)岩脇(いよぎ)で生まれた。順三の生まれた家は彦根藩で代々藩医を務めていて、父の道貞は外科医あるいは漢方医だった。 順三は滋賀県立彦根中学校(後の滋賀県立彦根東高等学校)を2年で中退し、1907年に東京に行きプロテスタント系の神田教会の牧師である島貫兵太夫(しまぬき へいだゆう・ひょうだゆう)が主宰する力行会に入った。
中島 陟(なかじま のぼる、1889年7月 - 1958年2… 中島 陟(なかじま のぼる、1889年7月 - 1958年2月)は、日本の実業家・都市計画家。多摩湖鉄道株式会社常務、駿豆鉄道、箱根土地各株式会社取締役歴任。堤康次郎の正妻川崎文の妹婿。兵庫県生まれ。 明治22年(1889年)兵庫県出石郡に生まれる。 1907年から東京物理学校(現東京理科大学)、及び日英義塾で2年間ずつ学ぶ。 大正3年(1914年)宮内省帝室林野管理局に勤務。大正8年(1919年)宮内省御料野境界査定官吏。 大正9年(1920年)東京外国語学校(現東京外国語大学)専修科独逸語部入学。大正10年(1921年)攻玉社工学校で講師を勤める。大正11年3月大学を卒業。箱根土地株式会社に入社し、堤康次郎と西武グループの形成を図る。
橋上 保(はしがみ たもつ、1889年(明治22年)7月 -… 橋上 保(はしがみ たもつ、1889年(明治22年)7月 - 1949年(昭和24年)11月26日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。参議院議員。 福岡県京都郡椿市村(現行橋市)で、橋上弥五郎、モトの二男として生まれ、1914年(大正3年)に家督を相続した。1904(明治37年)高等小学校を卒業した。 1923年(大正12年)6月、上山田炭鉱(現嘉麻市上山田)を開鉱。1931年(昭和6年)1月、橋上鉱業 (株) を設立し社長に、弟・俊崇が常務取締役に就任。1937年(昭和12年)5月、新山野炭鉱(現嘉麻市山野)を開鉱。同年6月、日本炭業 (株) を設立し社長に就任。1938年(昭和13年)宝珠山鉱業 (株) を設立し代表となり、1940年(昭和15年)同社長に就任。
穂積 真六郎(ほづみ しんろくろう、1889年(明治22年)… 穂積 真六郎(ほづみ しんろくろう、1889年(明治22年)6月30日 - 1970年(昭和45年)5月23日)は、朝鮮総督府官僚、参議院議員。
土田 國太郎(つちだ くにたろう、1889年〈明治22年〉6… 土田 國太郎(つちだ くにたろう、1889年〈明治22年〉6月28日 - 1960年〈昭和35年〉3月26日)は、日本の醸造家、政治家。参議院議員(1期)。 群馬県利根郡川場村立岩に生まれる。父・茂八は新潟県の生まれで川場村に移住し貸蔵で酒造業を営んでいた。 國太郎は群馬県立前橋中学校利根分校(のち旧制群馬県立沼田中学校、現群馬県立沼田高等学校)を卒業したのち、1912年(大正元年)より沼田町(現・沼田市)下之町で酒造りを始める。1923年(大正12年)、同町の酒蔵を買い入れて土田酒造を創業、「譽之國光」の銘板の日本酒の醸造を開始。これが地酒の銘酒として県内外から称賛を浴びるようになる(のちに現名の「譽國光」(ほまれこっこう)に改名)。
中山 タマ(なかやま タマ、1889年(明治22年)6月28… 中山 タマ(なかやま タマ、1889年(明治22年)6月28日 – 1971年(昭和46年)10月5日)は日本の医師。政治家、衆議院議員(1期)。 1889年兵庫県津名郡仮屋町(現淡路市)に生まれる。日本医学校(現日本医科大学)を卒業後、1911年に医師免許を取得し、翌年神戸市で開業する。その後鈴蘭台病院院長になり、戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙に兵庫県1区(大選挙区制)から無所属で立候補して3位で当選した。翌年の第23回衆議院議員総選挙では兵庫2区から民主党公認で立候補したが落選した。落選後は論文「人體に於けるBCG皮内接種の局所反應とツベルクリン反應との關連に就て」により1949年に大阪大学から医学博士の学位を取得し、自民党に入党して兵庫県連顧問になった。
桜井 省三(さくらい しょうぞう、1889年(明治22年)6… 桜井 省三(さくらい しょうぞう、1889年(明治22年)6月27日 - 1985年(昭和60年)7月7日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 判事や弁護士を務めた桜井祥造の二男として名古屋で生れる。本籍は山口県萩市。 愛知第四中学校、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1911年5月、陸軍士官学校(第23期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し奈良の歩兵第53連隊付となる。参謀本部付勤務などを経て、1919年11月、陸軍大学校(第31期)を優等で卒業。 その後、参謀本部員(船舶班)、フランス駐在、参謀本部員、歩兵第41連隊大隊長、参謀本部員(船舶班)、兼陸大教官、歩兵第77連隊長、内閣調査局調査官、企画庁調査官、第14碇泊場司令官、企画院調査官、第1船舶輸送司令部付などを歴任し、1938年3月1日、陸軍少将に進級。
片多 徳郎(かたた とくろう、明治22年(1889年)6月2… 片多 徳郎(かたた とくろう、明治22年(1889年)6月24日 - 昭和9年(1934年)4月27日)は、大分県出身の洋画家である。 大分県西国東郡高田町(現・豊後高田市)生まれ。 明治45年(1912年)、東京美術学校卒業。文展第3回に『夜の自画像』、第4回に『黄菊白菊』、第5回に『或る人の母』を出品した。第10回出品の『婦女沐浴』と第11回出品の『伎女舞踏図』は、当時では珍しい伝統的な題材と復古的な重厚な色彩とが異色で、以後、帝展における日本化された洋画の代表者と目され、大正7年(1918年)『花下美人』、大正8年(1919年)『霹靂』、昭和4年(1929年)『秋果図』、昭和7年(1932年)『秋果一枝』を帝展に出品した。
三木 露風(みき ろふう、1889年6月23日 - 1964… 三木 露風(みき ろふう、1889年6月23日 - 1964年12月29日)は、日本の詩人、童謡作家、歌人、随筆家。本名は三木 操(みき みさお)。異父弟に映画カメラマンの碧川道夫がいる。国木田独歩の曾祖母が三木家出身。その縁もあり1912年『独歩詩集』を刊行した。早稲田詩社結成に加わり、『廃園』(1909年)を刊行。ほかに詩集『寂しき曙』(1910年)、『白き手の猟人』(1913年)など。 近代日本を代表する詩人・作詞家として、北原白秋と並んで「白露時代」を築いた。若き日は日本における象徴派詩人でもあった。 1889年(明治22年)6月23日、兵庫県揖西郡龍野町(現・たつの市)に父・三木節次郎、母・かたの長男として生まれた。
塩入 亮忠(しおいり りょうちゅう、1889年6月23日 -… 塩入 亮忠(しおいり りょうちゅう、1889年6月23日 - 1971年12月23日)は、天台宗の僧侶、仏教学者。第13代大正大学学長。雅号・一乗子、別名・汲海。 1889年、長野県小県郡神川村(現上田市)に生まれる。1901年、東京浅草寺で得度。天台宗大学(現・大正大学)で学び、1915年に卒業。大谷大学研究科で華厳、唯識、天台宗学を学びつつ、奈良の華厳宗本山東大寺勧学院でも修めた。 1918年より天台宗大中学講師、1927年より大正大学講師となる。研究雑誌「伝教大師研究」を創刊。第2代駒込中学校長・理事長を務めた。1931年より大正大学教授。1951年、同大学学長に就任。1959年に定年退職し名誉教授。
海野 数馬(うんの かずま、1889年(明治22年)6月22… 海野 数馬(うんの かずま、1889年(明治22年)6月22日 - 1971年(昭和46年)1月4日)は、明治時代後期から昭和時代の政治家、実業家。衆議院議員(3期)。 静岡市に生まれる。大井善吉の三男として生まれ、のち先代平作の養子となり1916年(大正5年)家督を相続し前名勇吉を改める。静岡県立静岡中学校退学。1911年(明治44年)日本大学法律科を卒業する。請負業を営む傍ら、静岡県農会議員、静岡県会議員を務めた。ほか財界では、昭和工業、昭和木材各社長を歴任した。 1928年(昭和3年)2月の第16回衆議院議員総選挙では静岡県第1区から立憲民政党所属で出馬し当選。つづく第17回、第18回総選挙でも当選し衆議院議員を3期務めた。
金子 彦二郎(かねこ ひこじろう、1889年6月20日 - … 金子 彦二郎(かねこ ひこじろう、1889年6月20日 - 1958年5月27日)は、日本の国文学者。 新潟県西蒲原郡岩室村(現在の新潟市西蒲区)出身。東京高等師範学校卒。帝国女子専門学校(のち相模女子大学)国文科主任、1945年「平安時代文学と白氏文集 句題和歌千載佳句研究篇」で帝国学士院賞受賞。1946年「平安時代文学と白氏文集」で慶應義塾大学文学博士。女子学習院教授、東洋大学教授。女子教育の実践者として研究されている。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
野坂 康久(のざか やすひさ、明治22年(1889年)6月1… 野坂 康久(のざか やすひさ、明治22年(1889年)6月18日 - 没)は、日本の実業家、政治家。旧姓稲田。洋食のレストラン“十字屋”経営主。元米子市会議員(議長)。 外交官、米子市長だった野坂康夫の祖父。弁護士・公証人雑賀愛造の実兄。戦後米子市長を務めた野坂寛治は姻戚関係にある。 鳥取県米子市出身。酒造業稲田家に生まれた。養父は野坂吉五郎。 米子中学校(現米子東高校)から大阪高等工業学校醸造科に進み、同校を明治45年(1912年)3月卒業。初めの10年程は家業に従事したが、海陸運送業、楽器販売、飲食業と、転々仕事を新たにして終戦時に及んだ。 その間昭和8年(1933年)米子商工会議所議員、昭和10年(1935年)米子市会議員に当選。
山口 光一郎(やまぐち こういちろう、1889年6月17日 … 山口 光一郎(やまぐち こういちろう、1889年6月17日 - 1948年7月8日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 栃木県三好村(のち田沼町、現・佐野市)に生まれる。1912年栃木県師範学校卒。卒業後は小学校訓導や校長となり、三好村会議員、同村長となった。 戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙において栃木県(全県1区)から日本進歩党公認で出馬して初当選した。しかし、翌年公職追放によりその座を追われた。追放後は石灰業に従事したが、追放中の1948年に死去した。
大沼 哲(おおぬま さとる、1889年6月17日 - 194… 大沼 哲(おおぬま さとる、1889年6月17日 - 1944年10月18日)は、日本の陸軍軍人、作曲家、指揮者。最終階級は陸軍軍楽少佐。山形県米沢市出身。 1889年、小学校長を勤める音楽好きな父の家に生まれるが、7歳のころ生家の大滝家を離れ親戚の大沼家の養子となる。米沢工業学校卒業後に音楽への思い止みがたく上京して、軍楽兵を目指し1907年陸軍戸山学校に入校。同校を首席で卒業し銀時計を授与される(俗に言う「恩賜の銀時計組」)。1912年に陸軍戸山学校軍楽隊を中心とする選抜メンバーでイギリス演奏旅行する際、メンバーに選ばれず永井建子軍楽隊長の留守居役を命じられたことに発奮し、フランス語を習得した。
奥野 他見男(おくの たみお、1889年6月16日 - 19… 奥野 他見男(おくの たみお、1889年6月16日 - 1953年12月17日)は、日本の作家。本名・西川他見男。 金沢生まれ。金沢医学専門学校薬学科卒。学生時代「北國新聞」に「凸坊日記」を連載し、1915年『大学出の兵隊さん』で単行本デビュー、爆発的人気を得た。『婦女界』『主婦の友』などに連載し、流行語、新風俗を描きユーモア作家として大正から昭和初期に一世を風靡した。