相羽 有(あいば たもつ、1895年8月8日 - 1979年… 相羽 有(あいば たもつ、1895年8月8日 - 1979年4月6日)は、日本の民間航空業及び自動車業の草分けとして活躍した実業家。1916年(大正5年)羽田の地に日本飛行学校を設立し、後の東京国際空港(羽田空港)の礎を築いた。通称・羽田の父。 日本最初期の自動車学校も開設しており、日本のスチュワーデス(エア・ガール)の生みの親としても知られる。 1895年(明治28年)8月に栃木県宇都宮町伝馬町の呉服商相瀬屋・相羽正吉の四男として生まれる。家は裕福だったが4歳で父を、5歳で母を亡くし、伯父の田中千代吉に養育された。 小学生の頃にはライト兄弟初飛行のニュースに大きな衝撃を受ける。その後、宇都宮商業学校を中途退学し、横浜にあった英国人学校のフェアモント・アカデミーに入学。
櫻井 清香(さくらい きよか、男性、1895年(明治28年)… 櫻井 清香(さくらい きよか、男性、1895年(明治28年)8月7日 - 1969年(昭和44年))は、日本の芸術家(画家)。愛知県名古屋市出身。源氏物語絵巻の昭和復元模写を作成したことで有名。父櫻井武愷宮之亟、母三保の二男。兄は桜井馨、弟は桜井鐐三。桜井 清香と表記する場合もある。 他多数の作品が徳川美術館に所蔵されている。 櫻井家は元々は氏を橘(橘氏の流れを汲む氏族である)と名乗っていたが、いつの頃からか櫻井に改めたとされる。氏を改めたのは櫻井作之右衛門佐武の時であると考えられる(理由は不明)。
相良 徳三(さがら とくぞう、1895年8月4日 - 197… 相良 徳三(さがら とくぞう、1895年8月4日 - 1976年8月21日)は、日本の美学美術史学者、成城大学名誉教授。 鹿児島県鹿児島市船津町出身。京都帝国大学美学美術史学科卒。東京日日新聞、成城高等学校、日本大学、北京師範大学、宮崎大学で教え、成城大学教授、1966年定年退任、名誉教授。美学・美術史などを研究、文芸評論や英文学の翻訳もおこなった。伊集院 斉の別名を使った。
大井 直之助(おおい なおのすけ、1895年(明治28年)8… 大井 直之助(おおい なおのすけ、1895年(明治28年)8月3日 - 1973年(昭和48年)11月29日)は、大正から昭和前期の農業指導者、政治家。衆議院議員、秋田県由利郡矢島町(現・由利本荘市)長。 秋田県由利郡矢島町で生まれる。1914年(大正3年)秋田県立秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)を卒業した。 1921年(大正10年)矢島町会議員に選出され4期在任。1934年(昭和9年)から1943年(昭和18年)まで秋田県会議員、矢島町長に在任。その他、本荘税務署所得調査委員、矢島町産業組合長、秋田県農業会由利支部長・理事、同県森林組合連合会理事、帝国在郷軍人会由利郡連合会分会長などを務めた。
中山 岩太(なかやま いわた、1895年8月3日 - 194… 中山 岩太(なかやま いわた、1895年8月3日 - 1949年1月20日)は、戦前の日本の新興写真を代表する写真家の1人。福岡県柳川市出身。 福岡県柳川で実業家・中山重行の一人息子として生まれる。小学生のときに家族で上京、仰高小学校、京北中学校を経て、1918年に東京美術学校臨時写真科を卒業(第1期生)。農商務省の派遣で、アメリカのカリフォルニア大学で学ぶ。その後、ニューヨークにて、菊地東陽のスタジオで働いたり、「ラカン・スタジオ」を開設したのち、1926年には渡仏。マン・レイや未来派のエンリコ・プランポリーニと知り合う。 1927年に日本に帰国したのちは、芦屋カメラクラブをハナヤ勘兵衛ら地元の写真愛好家を集め結成し、欧米での経験を生かして活躍。
坂口 献吉(さかぐち けんきち、1895年(明治28年)8月… 坂口 献吉(さかぐち けんきち、1895年(明治28年)8月3日 - 1966年(昭和41年)8月13日)は、大正 - 昭和期の日本の実業家。新潟市出身。元衆議院議員で元新潟新聞社社長の坂口仁一郎の長男。作家の坂口安吾の長兄。新潟日報社第2代社長。新潟放送初代社長。新潟県立新潟中学校、早稲田大学専門部政治経済科卒業。
青木 香雪(あおき こうせつ、本名:青木 徳太郎、1895年… 青木 香雪(あおき こうせつ、本名:青木 徳太郎、1895年8月2日 - 1978年12月30日)は、日本の仏師。愛称は人形徳さん。 1895年(明治28年)8月2日、滋賀県甲賀郡岩根村(現・湖南市正福寺)にて出生。石部高等小学校卒業。1915年(大正4年)、日本美術院第二部卒業(第1期生)。後に美術院の院長に就いた明珍恒男に学ぶ。1970年(昭和45年)、文化庁より文化財保護功労者として表彰を受ける。 滋賀仏像彫刻家同好会会長。甲西町文化財審議委員。甲西町指定無形文化財認定保持者の第1号に選定される。1978年(昭和53年)滋賀会館ギャラリーにて個展開催。同年12月30日、84歳の生涯を閉じた。
本間 精(ほんま きよし、1895年8月1日 - 1948年… 本間 精(ほんま きよし、1895年8月1日 - 1948年9月1日)は、昭和時代の内務・警察官僚。官選の秋田県知事、岡山県知事、福岡県知事。 本間啓太郎(農林省勅任技師)の長男として生まれる。横浜一中、第二高等学校を経て、1919年(大正8年)7月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。同年9月、大学院に進み経済行政を専攻した。 1920年(大正9年)7月、神奈川県属となり内務部地方課に配属。同年10月、高等試験行政科試験に合格。1921年(大正10年)8月、神奈川県警視に就任し、以後、沖縄県内務部学務課長、山口県内務部学務兵事課長、群馬県書記官・警察部長、山口県書記官・警察部長、長崎県書記官・警察部長、栃木県内務部長、広島県書記官・内務部長、警視庁警務部長、北海道庁総務部長などを歴任。
原田 義和(はらだ よしかず、1895年8月1日 - 197… 原田 義和(はらだ よしかず、1895年8月1日 - 1973年6月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
水橋 藤作(みずはし とうさく、1895年(明治28年)7月… 水橋 藤作(みずはし とうさく、1895年(明治28年)7月30日 - 1958年(昭和33年)8月11日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員(1期)。 富山県上新川郡滑川町(中新川郡滑川町を経て現滑川市)出身。1921年(大正10年)郵便集配人として勤務。その後、逓信事務官に任官。 戦後、労働運動に加わり、全逓信従業員組合(のちの日本郵政公社労働組合)に加盟し、全逓中央執行委員、全日本産業別労働組合会議(産別会議)中央執行委員などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に全国区から日本社会党公認で出馬して当選し、労働者農民党に転じ参議院議員に1期在任した。その間、芦田内閣労働政務次官などを務めた。
小柳津 政雄(こやいづ まさお、1895年(明治28年)7月… 小柳津 政雄(こやいづ まさお、1895年(明治28年)7月22日 - 1971年(昭和46年)10月21日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1895年(明治28年)に東京府で生まれた。陸軍士官学校第28期卒業。1923年(大正12年)3月に陸軍派遣学生として東京帝国大学理学部化学科を卒業した。1938年(昭和13年)7月15日に陸軍砲兵大佐進級と同時に陸軍技術本部部員に着任。1939年(昭和14年)3月9日に陸軍科学研究所所員に転じ、5月20日に北支那方面軍司令部附となり、11月1日に関東軍化学部長に就任した。 1940年(昭和15年)12月に陸軍科学研究所第2部長に転じ、1941年(昭和16年)6月15日に陸軍技術本部研究所所員に就任し、10月15日に陸軍少将に進級した。
栗栖 赳夫(くるす たけお、1895年(明治28年)7月21… 栗栖 赳夫(くるす たけお、1895年(明治28年)7月21日 – 1966年(昭和41年)5月10日)は、昭和期の政治家・銀行家・法学者。日本興業銀行総裁・大蔵大臣・経済安定本部総務長官などを歴任。 現在の山口県岩国市に生まれる。第六高校を経て、1921年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、日本興業銀行へ入行する。証券部長、総務部長などを経て戦後の1945年に理事に昇格、1947年には総裁まで昇りつめた。学究肌で著作も多く中央大学教授も務めた。1933年に「担保附社債信託ニ関スル研究」で同大学より法学博士号を授与されている。一方1946年6月19日には貴族院議員に勅選され、同和会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
柳川 宗左衛門(宗左衞門、やながわ そうざえもん、1895年… 柳川 宗左衛門(宗左衞門、やながわ そうざえもん、1895年〈明治28年〉7月21日 - 1978年〈昭和53年〉11月8日)は、明治期から昭和期にかけての地主であり、醤油醸造家、実業家、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(1期)。 常陸国鹿島郡の日川砂漠を開拓した柳川宗左衛門秀勝の孫(四代目)。 茨城県鹿島郡若松村大字柳川新田(現:神栖市柳川)に、農業や醤油醸造業を営む第三代・柳川宗左衛門の長男・謙一として生まれる。1911年(明治44年)家督を相続。1913年(大正2年)東京市の京北中学校(現・東洋大学京北中学高等学校)を卒業した。 父が小作人のために設立した産業組合、柳川信用販売組合を継承し発展させた。
韓 根祖(ハン・グンジョ、朝鮮語: 한근조/韓根祖、1895… 韓 根祖(ハン・グンジョ、朝鮮語: 한근조/韓根祖、1895年7月19日 - 1972年2月8日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の弁護士、政治家、実業家。平壌市長、第4・5・6代韓国国会議員を歴任した。 本貫は清州韓氏。カトリック教徒。 平安南道江西郡出身、本籍はソウル。1921年明治大学法学部卒。翌年の弁護士試験合格後は平壌で弁護士として活動し、平壌弁護士会長を経て、大東亜戦争勃発以降は農村に隠居した。光復後は平壌市長、平安南道政治委員を務めた。その後は越南し、米軍政庁大法院大法官、司法部法務次長、曺晩植が率いる朝鮮民主党の副党首・最高委員、憲法起草専門委員、司法科・行政科考試委員、高等選考委員、弁護士試験委員、韓国日報社社長、民主党中央常任委員会議長・ソウル鍾路乙区党委員長を務めた。
加藤 宗厚(かとう しゅうこう、1895年7月18日 - 1… 加藤 宗厚(かとう しゅうこう、1895年7月18日 - 1981年9月22日)は、日本の図書館司書、図書館学者。国立図書館館長、駒澤大学教授を歴任。日本十進分類法の著名な研究者。 終戦後の「図書館法」草案と『学校図書館の手引』作成にも尽力。「図書館奉仕」を理念の根底に据えることで日本の公共図書館サービスの向上に貢献。 愛知県稲沢市生まれ。1908年に得度。曹洞宗第四中学林(多々良高校の前進)、1922年に曹洞宗大学(現駒澤大学)卒業。1925年文部省図書館講習所修了。同年、帝国図書館勤務。1930年、帝国図書館司書。1940年、富山県立図書館長。1944年、東京都立深川図書館長。1947年、文部省嘱託。
永田 安太郎(ながた やすたろう、1895年(明治28年)7… 永田 安太郎(ながた やすたろう、1895年(明治28年)7月15日 – 1955年(昭和30年)5月13日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(1期)、愛知県会議長、愛知県会議員(4期)などを歴任した。 愛知県碧海郡長瀬村大字橋目字毘沙門(現岡崎市)に永田半兵衛の次男として生まれた。安城農林学校を卒業後、家事の農業に従事していたが、明治大学専門部法律学科に入学した。1917年(大正6年)7月、同大学を卒業。1922年(大正11年)に弁護士試験に合格し弁護士を開業した。1937年(昭和12年)には名古屋弁護士会長に就任した。 1927年(昭和2年)9月25日の愛知県会議員選挙に碧海郡選挙区から立憲民政党公認で出馬し初当選。
斎田 喬(さいだ たかし、1895年7月15日 - 1976… 斎田 喬(さいだ たかし、1895年7月15日 - 1976年5月1日)は、日本の児童劇作家・画家。 香川県那珂郡丸亀町(現丸亀市)出身。1916年香川県師範学校卒、京都高等工芸学校卒。1920年小原国芳の招きで成城小学校の教師となり、学校劇運動、自由画教育運動を指導。1933年退職。1934-1947年児童劇団テアトロ・ピッコロで劇作、演出。1948年児童劇作家協会を設立、委員長となる(のち日本児童演劇協会)。1955年「斎田喬児童劇選集」で芸能選奨文部大臣賞受賞。児童文学の挿画も描いた。演劇教育研究所理事長、児童演劇協会名誉会長。
松ノ井 覚治(まつのい かくじ、1895年7月14日 - 1… 松ノ井 覚治(まつのい かくじ、1895年7月14日 - 1982年9月)は、日本の建築家。「日本にはスパニッシュ(アメリカン・スパニッシュ様式)で自分の右に出る者はいない」と自負していた。 1895年(明治28年)に山形県山形市に生まれた。 1918年(大正7年)に早稲田大学理工学部建築学科を卒業すると、1919年(大正8年)にアメリカ合衆国に渡ってコロンビア大学に入学し、3年間建築設計を学んだ。この間、ニューヨークのトロウブリッジ・アンド・リビングストン建築設計事務所、アンドリュー・ジェ・トマス建築設計事務所、エ・エフ・ギルバード建築設計事務所で設計実務に従事している。1923年(大正12年)からはニューヨークのアーキテクツビル内にあるモレス・スミス建築設計事務所に勤務した。
角 猪之助(すみ いのすけ、1895年(明治28年)7月13… 角 猪之助(すみ いのすけ、1895年(明治28年)7月13日 - 1955年(昭和30年)5月14日)は、日本の衆議院議員。ジャーナリスト。 和歌山県東牟婁郡新宮町(現在の新宮市)出身。日本大学法科に学んだ後、『中央新聞』と『都新聞』で政治部記者を務めた。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬し、当選を果たした。戦後の1946年(昭和21年)、公職追放となった。 その他、日本真珠株式会社相談役、大日本漁業株式会社取締役を務めた。
打出 信行(うちで のぶゆき、1895年(明治28年)7月1… 打出 信行(うちで のぶゆき、1895年(明治28年)7月12日 - 1963年(昭和38年)6月25日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員、熊本県議会議員、熊本市議会議員を歴任した。 熊本県出身。第五高等学校から東京帝国大学法学部に学び、弁護士資格を取得。弁護士活動の傍ら立憲民政党から熊本県議・熊本市議となり、民政党県支部政調副会長を務めた。 1946年の総選挙で進歩党から衆議院議員に立候補するも次々点、翌1947年の総選挙で熊本県第一区から民主党公認で出馬して初当選し衆議院議員を一期務める。落選後は熊本市議に返り咲き、1954年に熊本県弁護士会長となり1959年6月〜1961年3月に熊本市議会議長を務めた。
竹内 愛二(たけうち あいじ、1895年(明治28年)7月9… 竹内 愛二(たけうち あいじ、1895年(明治28年)7月9日 - 1980年(昭和55年)2月18日)は、日本の社会学者・社会福祉学者。日本における社会福祉学の構築に寄与した研究者で、ソーシャル・ケースワーク研究の黎明期を支えた第一人者。日本ソーシャルワーカー協会の初代会長。 京都府京都市生まれ。父は同志社神学科にて学び、愛二が生まれてのち長崎県を中心に九州伝道を行った牧師であり、母も伝道の道にいた人物であるとされる。幼少期の愛二も両親の伝道の旅に付き添ったため、書類によってはその道程の地域を出身地としたものも散見される。 1913年に旧制同志社中学校を卒業し、神戸三菱造船所に就職。1924年に学問への志、断ち難く三菱造船を辞して米国への私費留学へと赴く。
前沢 長重(まえざわ ながしげ、1895年(明治28年)7月… 前沢 長重(まえざわ ながしげ、1895年(明治28年)7月8日 - 1990年(平成2年)10月3日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。兵科は歩兵科。 1895年(明治28年)に茨城県で生まれた。陸軍士官学校第30期、陸軍大学校第43期卒業。1941年(昭和16年)3月1日に陸軍大佐に進級し、7月28日に留守第57師団参謀長(東部軍)に就任した。1943年(昭和18年)6月に第47師団参謀長に転じ、1944年(昭和19年)7月に留守第57師団参謀長に戻った。 1945年(昭和20年)3月1日に陸軍少将に進級し、4月1日に弘前師管区参謀長に着任。6月1日には東北軍管区参謀副長兼第11方面軍参謀副長に転じ、仙台で終戦を迎えた。
南条 徳男(南條 德男、なんじょう とくお、1895年7月7… 南条 徳男(南條 德男、なんじょう とくお、1895年7月7日 - 1974年11月1日)は、日本の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(11期)、建設大臣・農林大臣。大東文化大学の理事長・学長も務めた。 北海道胆振支庁室蘭村(現・室蘭市)生まれ。仙台の東北中学校(現・東北高等学校)、第二高等学校を経て、1920年に東京帝国大学法学部独法科を卒業。弁護士となる。東大では岸信介と同期だった。学生時代から日本の人口・食糧問題に関心を持ち、自身の「ブラジルへの100万人移住」構想を実現すべく、立憲政友会に入党する。また当時総裁だった原敬に面会し、移民政策について意見を述べたことがある。1923年には立憲政友会法曹団を結成し幹事長となる。
浅野 長武(あさの ながたけ、1895年(明治28年)7月5… 浅野 長武(あさの ながたけ、1895年(明治28年)7月5日 - 1969年(昭和44年)1月3日)は、日本の美術史家、政治家、華族。貴族院侯爵議員、東京国立博物館長を歴任した。 東京市出身。侯爵・浅野長之の息子として生まれる。学習院高等科を経て、1920年、東京帝国大学文学部国史科を卒業し、さらに同大学大学院を修了。父・長之が1940年12月20日に隠居し家督を相続する。同月28日、侯爵を襲爵し、貴族院侯爵議員に就任する。火曜会に所属し、1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。 1927年、学習院講師に就任する。その他、内務省嘱託、帝国学士院嘱託、東京府嘱託、文部省委員、歌御会始読師などを歴任する。
仙石 久英(せんごく ひさひで、1895年(明治28年)7月… 仙石 久英(せんごく ひさひで、1895年(明治28年)7月5日 - 1960年(昭和35年)10月13日)は、昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 旧出石藩主家嗣子・仙石政敬の長男として生まれる。父の死去に伴い家督を相続し、1935年(昭和10年)11月15日、子爵を襲爵した。 学習院高等科を経て、1921年(大正10年)3月、京都帝国大学法学部政治学科を卒業。1925年(大正14年)日本郵船に入社した。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで1期在任した。墓所は多磨霊園(12-1-5-17)。
星野 重次(ほしの じゅうじ、1895年(明治28年)7月5… 星野 重次(ほしの じゅうじ、1895年(明治28年)7月5日 - 1985年(昭和60年)8月1日)は、昭和期の政治家。参議院議員(1期)、山梨県議会議長。 山梨県北都留郡初狩村(現大月市)で生まれる。1909年、初狩高等小学校を卒業。1937年、大月町会議員に就任。 戦後、1947年、山梨県議会議員に当選し、その後、同議長を務めた。1956年9月大月市手引動力ポンプ購入資金として10万円寄付により1957年11月27日紺綬褒章受章。1956年6月大月市立初狩中学校新築費として10万円寄付により1957年12月18日紺綬褒章受章(飾版)。1956年7月大月市立初狩中学校屋内体育館建築費として10万円寄付により1957年12月25日紺綬褒章受章(飾版)。
新納 克己(にいろ かつみ、1895年〈明治28年〉7月4日… 新納 克己(にいろ かつみ、1895年〈明治28年〉7月4日 - 1971年〈昭和46年〉3月14日)は、昭和時代の日本の外交官、弁理士。第二次世界大戦中に、マニラ総領事や外務省通商局長を務めた。新納 克巳とも。 鹿児島県鹿児島市出身。谷村敏成の三男に生まれ、新納家の養子になる。旧制京都一中(現京都府立洛北高等学校)を経て、1916年(大正5年)第三高等学校二甲卒業。1919年(大正8年)に東京帝国大学工学部土木工学科卒業。1921年(大正10年)4月、鉄道省雇となり、同年11月、高等試験行政科試験に合格。同年12月、外務省嘱託となり臨時平和条約事務局に勤務。1922年(大正11年)東京帝国大学法学部政治学科卒業、外務事務官に任官。
2代 二田 是儀(ふただ これのり、1895年7月4日 - … 2代 二田 是儀(ふただ これのり、1895年7月4日 - 1979年1月31日)は、日本の政治家。衆議院議員、秋田県天王町長。工藤八之助の子、二田是儀 (初代)の娘婿。 山形県西村山郡高松村(現・寒河江市)で、工藤八之助の三男として生まれる。旧名・工藤亮吉。1921年東京帝国大学文学部印度哲学科卒。翌年二田家に入籍する。天王村(現・潟上市)長、秋田県議を経て、1942年の翼賛選挙では秋田1区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選した。 戦後、推薦議員のため、公職追放となる。1951年に追放解除。追放解除後は再び天王村長となり、同村は在任中の1961年に町制施行。1965年まで務めた。
黄 土水(黃土水, こう どすい, 台湾語:N̂g, Thô… 黄 土水(黃土水, こう どすい, 台湾語:N̂g, Thô͘ Chúi, 1895年7月3日 - 1930年12月21日)は、日本統治時代の台湾出身の彫刻家。台湾人として初めて日本の東京美術学校に入学、また台湾人として初めて日本の官展に入選するなど、台湾近代美術の先駆者として活躍したが、35歳で早世した。 1895年、台北市艋舺生まれ。1907年、父親の死去に伴い大稲埕の二兄の所に身を寄せた。黄土水は大工であった父親や三兄の影響を受け、彫刻に興味を持つようになったと言われている。1911年3月に大稲埕公学校(現在の台北市太平国民小学)を卒業、同年4月、台湾総督府国語学校 (後の台湾総督府台北師範学校)公学師範科乙科に入学した。
二神 範蔵(ふたかみ のりぞう、明治28年(1895年)6月… 二神 範蔵(ふたかみ のりぞう、明治28年(1895年)6月29日 - 没年不明)は日本の実業家。元山下近海汽船社長。 二神は、東京都知事石原慎太郎の父潔の死後、慎太郎に一橋大への進学と、当時できたばかりの公認会計士の取得を強くすすめた 愛媛県南宇和郡城辺町(現在の愛南町)出身。二神彦一の男。 大正7年(1918年)東京高商(現在の一橋大学)を卒業し三井物産を経て、昭和6年(1931年)6月山下汽船に入社し日濠定航事務所長、紐育支店副長、名古屋支店長を歴任。 昭和18年(1943年)山下近海機船常務に転じ、昭和22年(1947年)3月同社社長に挙げられ、昭和24年(1949年)4月第二会社山下近海汽船を設立し社長に就任した。
小倉 謙(おぐら ゆずる、1895年6月26日 - 1981… 小倉 謙(おぐら ゆずる、1895年6月26日 - 1981年3月18日)は、日本の植物学者。専門分野は植物形態学・植物解剖学。 1895年、宮城県仙台市生まれ。父は実業家・歌人の小倉長太郎(茗園)。東京帝国大学植物学科を卒業。卒業後は母校の同大学講師・助教授を経て、1938年に教授昇進。わが国における植物形態学・植物解剖学の確立・発展に尽くした。1946年から55年まで、日本植物学会会長を務めた。1956年、東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は横浜市立大学教授として教鞭をとった。
関 未代策(せき みよさく、1895年6月26日 - 197… 関 未代策(せき みよさく、1895年6月26日 - 1974年3月8日)は、日本の経済学者。日本経済団体連合会の設立など、戦後の経済再建に重要な役割を果した。 1917年、明治大学政治経済学部卒業。在学中は雄弁会幹事長を務めていた。朝日新聞社に入る。1920年のワシントン会議では、緒方竹虎等と共に特派員に選出されたが、直前の急病により断念することとなった。 1925年に、母校からの要請により、朝日新聞社から明治大学に転じた。同商学部助教授に就任すると同時にパリ大学に留学。1927年に帰国し、政治経済学部助教授、1930年に同教授、1942年に「東洋思想と仏蘭西経済学」で、経済学博士の学位を取得。
鈴木 東民(すずき とうみん、1895年〈明治28年〉6月2… 鈴木 東民(すずき とうみん、1895年〈明治28年〉6月25日 - 1979年〈昭和54年〉12月14日)は、日本のジャーナリスト、労働運動家、政治家。岩手県出身。第2次世界大戦前にベルリン特派員であった時はナチスを批判して国外退去させられ、帰国後は戦争を批判して軍部から執筆禁止処分を受け、敗戦後は読売新聞労働組合の委員長として読売争議を闘ったがGHQの命令により解雇された。釜石市長となってからは釜石製鉄所の公害を規制して闘った。 1895年6月25日、釜石市唐丹町川目で生まれる。旧制遠野中学校を経て、1920年に第二高等学校を卒業後、東京帝国大学経済学部に進み、卒業する。1920年初冬、東大赤門前にあった文信社という謄写版印刷屋で、宗教上の対立で実家から家出同然に上京していた宮沢賢治と知り合う 。
芦間 圭(蘆間圭、あしま けい、1895年6月24日 - 1… 芦間 圭(蘆間圭、あしま けい、1895年6月24日 - 1956年以降)は、日本の文筆家、翻訳家。本名・安島 健(あじま けん)。別筆名に曲木 磯六。 秋田県湯沢市出身。東京帝国大学文学部倫理学科中退。報知新聞、日本評論社の記者をへて文筆に転じる。萩原朔太郎らの『感情』に寄稿したこともあり、菊池寛の代作をした。
早川 三代治(はやかわ みよじ、1895年(明治28年)6月… 早川 三代治(はやかわ みよじ、1895年(明治28年)6月22日 - 1962年(昭和37年)8月28日)は、日本の経済学者、小説家。位階は正五位。 北海道小樽市生まれ。北海道帝国大学卒業後、経済学を学ぶためにドイツに留学し、ウィーンでヨーゼフ・シュンペーターに面会し、指導を受ける。帰国後、レオン・ワルラスやヴィルフレド・パレートを日本に紹介し、北海道を中心に所得調査を行い、日本の所得分布でパレートの法則を検証した論文を発表した。また、北海道帝国大学、小樽経済専門学校・小樽商科大学、早稲田大学で教鞭を取り、早稲田大学で経済学博士の学位を取得している。 一方で、東北帝国大学農科大学予科在学時に有島武郎の教えを受け、文学に傾倒し、その後島崎藤村に師事し、多くの小説・戯曲・随筆を創作した。
早川 元(はやかわ はじめ、1895年(明治28年)6月21… 早川 元(はやかわ はじめ、1895年(明治28年)6月21日 - 1970年(昭和45年)8月4日)は、日本の内務官僚。官選県知事、海軍司政長官。 長野県出身。早川繁夫の長男として生まれる。第八高等学校を卒業。1920年、東京帝国大学法学部を卒業。1921年、貴族院に入り貴族院属となる。1922年11月、高等試験行政科試験に合格。 1923年4月、内務省に転じ警視庁属となる。以後、警察署長、警視庁事務官、同消防部長、長崎県書記官・警察部長、愛知県書記官・警察部長などを経て、1939年4月、熊本県総務部長に就任。 1941年1月、沖縄県知事に就任。標準語・国民礼法励行運動、南進政策、翼賛壮年団の結成、食糧増産などを推進した。
細川 鉅(ほそかわ つよし、1895年(明治28年)6月21… 細川 鉅(ほそかわ つよし、1895年(明治28年)6月21日 - 没年不明)は日本の実業家である。野村證券に務めた後、野村財閥直系・航空用ガソリンメーカーであった帝国潤滑油社長を務めた。広島県庄原市出身。 1895年(明治28年)広島県比婆郡東城町(現:庄原市)の細川平左衛門の次男として出生する。1908年(明治44年)地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、1914年(大正3年)に同校を卒業する。その後、岡山市にある旧制第六高等学校へ進学する。1918年(大正6年)に同校を卒業する。同年、京都帝国大学法科大学政治経済学科へ進学。1921年(大正9年)京大を卒業する。
岩重 隆治(いわしげ りゅうじ、1895年(明治28年)6月… 岩重 隆治(いわしげ りゅうじ、1895年(明治28年)6月21日 - 1975年(昭和50年)3月10日)は、大正後期から昭和期の内務官僚、警察官僚、弁護士。陸軍司政長官、最後の官選福岡県知事。 山口県出身。岩重弥七の長男として生まれる。小倉中学校(現福岡県立小倉高等学校)を経て、第三高等学校を卒業。1921年(大正10年)11月、高等試験行政科試験に合格。1922年(大正11年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し長野県属兼警部となる。 以後、鹿児島県警察部保安課長、福岡県警察部保安課長、同警務課長、岡山県警察部特別高等課長、愛知県警察部特別高等課長、岡山県学務課長、同社寺課長、兵庫県商工課長、同水産課長、同地方課長、千葉県書記官・学務部長、京都府書記官・学務部長、青森県書記官・経済部長、三重県書記官・総務部長などを歴任。
菅野 和太郎(かんの わたろう、1895年6月20日 - 1… 菅野 和太郎(かんの わたろう、1895年6月20日 - 1976年7月6日)は、日本の政治家。大阪経済大学教授。
伊与田 光男(いよだ みつお、1895年6月19日 - 19… 伊与田 光男(いよだ みつお、1895年6月19日 - 1959年3月18日)は、日本の経営者。資生堂社長を務めた。 大分県中津市出身。1920年に東京帝国大学理学部化学科を卒業し、大学院で研究活動をする傍らに福原資生堂に入社した。1930年に資生堂取締役に就任し、専務を経て、1954年6月に社長に就任した。 1957年に藍綬褒章を受章した。 1959年3月18日、脳溢血のためにで死去。63歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
古賀 春江(こが はるえ、1895年6月18日 - 1933… 古賀 春江(こが はるえ、1895年6月18日 - 1933年9月10日)は大正から昭和初期に活躍した洋画家である。日本の初期のシュルレアリスムの代表的な画家として知られる。本名は亀雄(よしお)。後に僧籍に入り「古賀良昌(りょうしょう)」と改名した。「春江」は通称である。 1895年6月18日、福岡県久留米市の善福寺の住職(古賀正順)の長男として生まれた。善福寺は江戸時代初期からの歴史を持つ浄土宗の寺である。古賀春江は、父・正順が53歳、母・イシが43歳の時の子供でただ一人の男子だった(古賀春江が生まれる前に3人の女の子をもうけたが、2人は早世した)。松田実(後述)によると、そのために両親や姉の溺愛を受けて育ったという。
小沢 凱夫(おざわ よしお、1895年6月13日 - 197… 小沢 凱夫(おざわ よしお、1895年6月13日 - 1978年5月5日)は、日本の医学者。大阪大学名誉教授。 専門は胸部外科学。大阪帝国大学第一外科初代教授。大阪大学外科の礎を築くとともに、日本の心臓外科、呼吸器外科をはじめ、外科学全般の発展に寄与した。 静岡県出身。1920年(大正9年)大阪医科大学卒業。1930年(昭和5年)医学博士を取得、大阪医科大学(後に大阪大学)教授に就任。1937年(昭和12年)国内初の片肺全摘術を行う。1936年(昭和11年)に日本初の心臓外傷手術が、岡山市榊原病院の榊原亨によって実施されたが、この時行われたガーゼによる圧迫止血(昭和11年)と、1937年(昭和12年)に小沢凱夫大阪帝国大教授が行った右室損傷の縫合止血との間で行われた止血法の大論争が日本の心臓外科の扉を開いたと言われる。
原 乙未生(はら とみお、1895年6月12日 - 1990… 原 乙未生(はら とみお、1895年6月12日 - 1990年11月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。日本の戦車開発の黎明期に中心的役割を果たし「日本戦車の父」と呼ばれている。 福岡県出身。原亨陸軍大尉の息子として生まれる。熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を優等で卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し重砲兵第5連隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍砲工学校高等科(24期)を優等で卒業し、さらに陸軍派遣学生として東京帝国大学工学部機械工学科で学び、戦車設計をテーマにした卒論で1922年(大正11年)3月に卒業した。 1923年(大正12年)3月、陸軍中尉に昇進。
荒木 市次郎(あらき いちじろう、1895年〈明治28年〉6… 荒木 市次郎(あらき いちじろう、1895年〈明治28年〉6月11日 - 没年不明)は、日本の会社役員、鳥取県多額納税者、資産家、鳥取県の大地主。 鳥取県西伯郡境町(現・境港市)出身。荒木徳三郎の長男。1912年、家督を相続する。農業、金融業を営む。境貿易取締役・同専務取締役をつとめる。 境貿易の大株主である。境日本海写真倶楽部会員である。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は鳥取県西伯郡境町栄町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
土田 耕平(つちだ こうへい、1895年(明治28年)6月1… 土田 耕平(つちだ こうへい、1895年(明治28年)6月10日 - 1940年(昭和15年)8月12日)は、日本の歌人、童話作家。 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)に生まれる。18歳で両親を失う。1911年旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を中退、同郡玉川村立玉川小学校の代用教員となる。ここで島木赤彦に師事し『アララギ』に投稿、編集に携わる。1913年に上京し、1915年旧制東京中学校(現・東京高等学校)卒。1921年まで伊豆大島で病気療養、のち上諏訪へ帰り、長野県内各地を頻繁に転居。1924年信濃毎日新聞の歌壇撰者となる。 後半生の大半を不眠症の療養、短歌、童話の創作に費やした。1940年下伊那郡鼎町で心臓病で死去。
ペトル河野通勢( - こうの みちせい、1895年6月10日… ペトル河野通勢( - こうの みちせい、1895年6月10日 - 1950年3月31日)は、日本の画家、版画家。 風景画、人物画(自画像含む)、銅版画、木版画、小説等の挿絵、装丁、山水画、南画など、その膨大な量の作品が占めるジャンルは多岐に亘っているのみならず、画風もまた題材・時期によって様々な展開をみせており、舞台美術なども手がけている。代表作には関東大震災に取材した多数の銅版画が挙げられる。 父の河野次郎(下野国足利藩士、旧姓杉本、聖名:アレクセイ)は長野師範学校の図画教師も務め、高橋由一の門下で洋画の普及・教育に尽力した洋画家であり、後に写真家となった熱心な正教徒であった。通勢も9歳の時に正教の洗礼を受けた。
池 清(いけ きよし、1895年6月10日 - 1952年1… 池 清(いけ きよし、1895年6月10日 - 1952年10月17日)は、朝鮮総督府官僚。徳山市(現・周南市)市長。 山口県都濃郡徳山町(現在の周南市)出身。1917年、逓信官吏練習所卒。朝鮮総督府逓信局に勤務する。1925年に高等試験行政科に合格した後、朝鮮総督府逓信局副事務官、京城貯金管理所主計課長、朝鮮総督府逓信事務官、逓信局庶務課長、高等海員審判所理事官、新義州税関長などを経て、朝鮮総督府農林局林政課長兼土地改良課長から平壌府尹に勤務し、終戦を迎えた。日本に引揚げた後の1947年、徳山市助役に就任した。 1951年の徳山市長選挙に立候補。池は「市政の刷新」「健全財政化」「産業の振興と工場誘致」「学校の建設と充実」などを公約に激しい選挙戦を制して当選、市長に就任した。
西岡 芳次郎(にしおか よしじろう、1895年〈明治28年〉… 西岡 芳次郎(にしおか よしじろう、1895年〈明治28年〉6月9日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。弁護士。 三重県阿山郡新居村(現在の伊賀市)出身。第三高等学校を経て、1921年(大正10年)、東京帝国大学法学部独法科を卒業し、同年11月高等試験行政科に合格した。朝鮮総督府属、警察官講習所教授、忠清北道地方課長、平安南道地方課長、総督官房審議室勤務、農林局水産課長、内務局地方課長、総督官房審議室勤務、企画部長、慶尚南道知事を歴任した。 1943年(昭和18年)に退官した後は、帝国鉱業開発株式会社理事を務めた。戦後に公職追放となった。のち、弁護士を開業。上野市教育委員長を務めた。
里見 勝蔵(さとみ かつぞう、1895年(明治28年)6月9… 里見 勝蔵(さとみ かつぞう、1895年(明治28年)6月9日 - 1981年(昭和56年)5月13日)は、日本の洋画家。 国画会会員。洋画家の山内滋夫は孫にあたる。 京都市四条生まれ。東京美術学校卒業後にフランスに留学。二科展に入会し活躍。1926年には前田寛治・佐伯祐三らと1930年協会を設立したほか、児島善三郎らと独立美術協会を創立し、フォーブ運動を展開した。終戦後に国画会に入会。著書に「ブラマンク」など。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
池内 新蔵(いけうち しんぞう、1895年〈明治28年〉6月… 池内 新蔵(いけうち しんぞう、1895年〈明治28年〉6月6日 - 没年不明)は、日本の実業家、鳥取県多額納税者、地主。池内綿糸店社長。鳥取商工会議所顧問。 鳥取県鳥取市出身。池内新蔵の長男。1913年、旧制鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)を卒業する。家業の綿糸商を継承する。池内綿糸店、とりせんビル、丸興綿業各社長、鳥取大丸、鳥取瓦斯、日ノ丸証券、日ノ丸金属、日本海テレビ各取締役をつとめる。 鳥取市の豪商である。趣味は刀剣、読書。宗教は真宗。住所は鳥取市元大工町。 池内家は、藩政時代に主として酒造業により繁栄し、「高砂屋十家」と称された高砂屋一族のうちの一家である。「高砂屋十家」はいずれも高砂の郷士・池内氏を祖とし、本町四丁目にあった沢氏(初代高砂屋惣兵衛)と川端二丁目にあった小川氏(初代高砂屋六兵衛)を高砂屋両本家としていた。