戸田 邦雄(とだ くにお、1915年(大正4年)8月11日 … 戸田 邦雄(とだ くにお、1915年(大正4年)8月11日 - 2003年(平成15年)7月8日)は、日本の作曲家。本名は戸田盛国、別名森田邦雄。 東京府本郷の東大病院で生まれ、六本木で育つ。祖父は尾崎三良。義理のおじに尾崎行雄がいる。父親はいわゆる高等遊民だったが、1927年(昭和2年)の金融恐慌で没落した。東京府青山師範学校附属小学校から東京高等学校文科乙類を経て東京帝国大学法学部政治学科を卒業。東大オーケストラ部の仲間に、柴田南雄、入野義朗、繁田裕司(後の三木鶏郎)がいた。 1938年(昭和13年)に外務省に入る。ドイツ赴任中にカラヤンやフルトヴェングラーの演奏に接する。駐ソ連日本大使館勤務の後、独ソ戦の激化に伴い1941年(昭和16年)に帰国して諸井三郎に作曲を師事した。
服部 新佐(はっとり しんすけ、1915年8月10日 - 1… 服部 新佐(はっとり しんすけ、1915年8月10日 - 1992年5月12日)は日本の植物学者である。南九州の蘚苔類の研究で知られる。 宮崎県日南市飫肥に生まれた。第七高等学校を経て東京帝国大学理学部に入学し、卒業後東京科学博物館(現、国立科学博物館)で働いた。1946年に、家業の林業を継ぐため帰郷し、日南市に服部植物研究所を設立した。林業の傍ら、当時、研究がほとんどなされていなかった蘚苔類の研究を行い、南九州に分布する蘚苔類の分類学的研究を行い、その後日本各地、アジアやニューギニアの蘚苔類の研究も行った。服部植物研究所は蘚苔類の国際的な研究センターになった。胞子体がなく特徴的な配偶体をもつナンジャモンジャゴケ(Takakia lepidozioides)を記載したことでも知られる。
真船 和夫(まふね かずお、1915年8月10日 - 200… 真船 和夫(まふね かずお、1915年8月10日 - 2006年2月4日)は、日本の理科教育学者。 東京出身。東京文理科大学生物学科植物学専攻卒。岡山師範学校教員をへて、東京学芸大学助教授、1971年教授。1979年定年退官。1954年科学教育研究協議会の創設に参加、科学教育に関与する。日本子どもの本学会会長。1966年「さ・え・ら伝記ライブラリー」で産経児童出版文化賞(出版社の受賞)。
山岡 喜久男(やまおか きくお、1915年8月10日 - 2… 山岡 喜久男(やまおか きくお、1915年8月10日 - 2000年2月21日)は、日本の経済学者。早稲田大学名誉教授。ドイツの神学者・ブルトマンの提唱した神学の研究でも知られる。位階は従四位。 長野県諏訪郡湊村(現・岡谷市)出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1938年早稲田大学政治経済学部卒業。1942年同大学大学院経済研究科理論経済学専攻修了、同大学非常勤講師。千葉大学教授を経て、1964年早稲田大学教授。同大学学生部長、同大学教育学部長、同大学評議員、早稲田実業学校校長、早稲田大学常任理事、同大学名誉教授。埼玉女子短期大学学長など歴任した。 1988年勲三等旭日中綬章受章。
宮崎 吉政(みやざき よしまさ、1915年8月8日 - 20… 宮崎 吉政(みやざき よしまさ、1915年8月8日 - 2006年3月3日)は、日本のジャーナリスト、政治評論家。
堀内 平八郎(ほりうち へいはちろう、1915年8月8日 -… 堀内 平八郎(ほりうち へいはちろう、1915年8月8日 - 1997年7月4日)は日本の実業家。浜松ホトニクス創業者。 長野県上伊那郡西箕輪村(現伊那市)出身。旧制中校卒業後、浜松高等工業学校に入学し、高柳健次郎に師事する。1937年に卒業後、テレビジョン研究の実用化のためNHK技術研究所に入所し、太平洋戦争中はテレビジョン技術を軍事に応用した暗視管の研究に従事し、1943年日本電子工業嘱託となり、1945年疎開先の天童で終戦を迎えた。 1947年浜松に戻り、東海電子研究所を設立。1949年東海真空工業を創業して誘蛾灯の点灯管の製造を開始したが、農薬の普及に押されて廃業した。その間、光を電気信号に変える光電変換素子の研究を進め、1953年に浜松テレビを創業し社長に就任、1978年に会長、1980年取締役相談役となり、光電変換素子の世界的メーカーに育て上げた。
天藤 真(てんどう しん、1915年8月8日 - 1983年… 天藤 真(てんどう しん、1915年8月8日 - 1983年1月25日)は、日本の推理作家。本名は遠藤 晋。 東京都生まれ。東京帝国大学国文科卒。同盟通信社記者を経て、戦後は千葉県で開拓農民となる。また千葉敬愛短期大学講師も務める。寡作ながらユーモアとウィットに富んだ文体、状況設定の巧みさと読者の意表を突く展開の作風が特徴的である。現在、ほとんどの作品が創元推理文庫に入っている。 1962年、旧『宝石』に投稿した『親友記』が宝石賞に佳作入選して、作家活動を開始。また同年『陽気な容疑者たち』が第八回江戸川乱歩賞の最終候補となり、大下宇陀児らの推薦を得て翌年刊行に至る。1963年、『鷹と鳶』で第二回宝石賞を受賞。
清水 房雄(しみず ふさお、1915年8月7日 - 2017… 清水 房雄(しみず ふさお、1915年8月7日 - 2017年3月3日)は、日本の歌人。 千葉県生まれ。本名・渡辺弘一郎。東京文理科大学卒。大学で加藤楸邨と同期。1938年『アララギ』に入会、土屋文明・五味保義に師事、九州小倉で国語教師、のち予科練の教官になり、土浦、西宮、高野山と移り倉敷海軍航空隊で敗戦を迎える。戦後は都立高校で教え、東京都立九段高等学校教頭、東京都立北園高等学校校長、昭和女子大学教授などを歴任。そのかたわら『アララギ』編集に携わる。1990年から2008年まで読売歌壇選者。97年『アララギ』終刊後、『青南』編集委員。漢詩・漢籍に造詣が深く、宮中歌会始選者も務め、2005年には歌会始の召人も務めた。
山陽山 淺一(さんようざん せんいち、1915年8月7日 -… 山陽山 淺一(さんようざん せんいち、1915年8月7日 - 没年不明)は、岡山県小田郡(現在の笠岡市)出身で、出羽海部屋所属の1940年代に活躍した元大相撲力士。本名は、藤井 浅一(ふじい せんいち)。現役時代の体格は身長185cm、体重96kg。得意手は突っ張り、寄り、上手投げ。最高位は東十両3枚目。 1930年5月場所に初土俵。1940年1月場所に十両昇進。柔軟な体格から繰り出す突っ張りを持ち味とし、その取り口は闘志に溢れていた。新十両の場所を8勝7敗と勝ち越すと、1941年5月場所には自己最高位となる東十両3枚目まで番付を上げたが、2勝13敗と大敗し、幕下へ陥落した。翌1942年1月場所では幕下優勝を果たして1場所で十両へ復帰した。
三谷 秀治(みたに ひでじ、1915年8月5日 - 1999… 三谷 秀治(みたに ひでじ、1915年8月5日 - 1999年10月20日)は、日本の政治家。元日本共産党衆議院議員。 鳥取県日野郡溝口町(現・西伯郡伯耆町)出身。小学校を卒業後、戦前より日本プロレタリア作家同盟に属し労働運動などに参加。1951年に大阪市生野区から大阪府議会議員に立候補し当選した。府議を5期務め1972年の衆院選で旧大阪4区から出馬し初当選を果たす。当選4回。議員在任中は共産党議員団部落対策委員長などを歴任した。1983年の衆院選には出馬せず引退し、地盤を経塚幸夫に譲る。 1999年10月20日、呼吸不全のため奈良県生駒市の自宅で死去。84歳。
双見山 一夫(ふたみやま かずお、1915年8月4日 - 1… 双見山 一夫(ふたみやま かずお、1915年8月4日 - 1974年3月5日)は、大分県佐伯市(津久見市とする文献もあり)出身(生まれは愛媛県西宇和郡三崎町(現・伊方町))で立浪部屋に所属した元大相撲力士。本名は大星 一夫。現役時代の体格は身長171cm、体重118kg。最高位は東前頭筆頭。得意手は左四つ、寄り。 1937年1月場所、本名の大星の四股名で幕下付出とされて初土俵を踏んだ。天竜三郎らが率いた関西角力協会に入門していたための措置だったが負け越したため、当時の協会内規で翌5月場所は序二段に降格されてしまった。 初土俵から3年後の1940年1月場所に新十両、1941年1月場所に13勝2敗で十両優勝、翌5月場所双見山又五郎の名(1943年1月から下の名を本名の一夫に改名)で入幕を果たした。
田川 孝治(たがわ こうじ、1915年 <大正4年> 8月3… 田川 孝治(たがわ こうじ、1915年 <大正4年> 8月3日 - 没年不明)は、日本の経営者、銀行家。鳥取銀行頭取を務めた。 大阪府出身。1939年に大阪商科大学を卒業し、同年に三和銀行に入行した。1971年11月にオリエント・リース副社長を経て、1973年5月に鳥取銀行副頭取に就任し、1980年6月には頭取に昇格した。1987年6月には取締役相談役に就任。1988年6月には今橋興業会長に就任。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
蓮田 修吾郎(はすだ しゅうごろう、1915年〈大正4年〉8… 蓮田 修吾郎(はすだ しゅうごろう、1915年〈大正4年〉8月2日 - 2010年〈平成22年〉1月6日)は、鋳金家。文化勲章受章、日本芸術院会員。日本の金属造型の第一人者である。 石川県金沢市生まれ。1928年石川県立工業学校図案絵画科卒業、1938年東京美術学校工芸科鋳金部卒業。在学中は高村豊周に師事した。1949年、第5回日展に初入選し、1951年「トロフィー」で日展特選朝倉賞を受賞。1952年創作工芸協会設立を設立した。1953年「黒豹鋳銅スクリーン」で日展北斗賞、1959年「野牛とニンフ」で日展文部大臣賞を受賞。1961年日本現代工芸美術家協会設立に参加、「森の鳴動」で日本芸術院賞を受賞。
天野 秀二(あまの しゅうじ、1915年8月2日 - 200… 天野 秀二(あまの しゅうじ、1915年8月2日 - 2009年3月11日)は、新宿高野に勤務して「フルーツ評論家」として、また「ギャラリー新宿高野」の支配人として知られた日本のサラリーマン。 1915年、静岡県浜松市に生まれる。父親は当時、静岡銀行の支店長をしていた。 明治大学商学部に学び、1938年に住友銀行に入行した。 第二次世界大戦中には召集されて、名古屋の自動車部隊の助教となった。兵役期間を満了し、1944年に住友銀行に復帰し、終戦までの時期に、家族を静岡に疎開させながら東京で勤務し、激しい空襲を経験する。 1959年、当時副社長であった高野保の誘いに乗って新宿高野に転職し、以降、広報を担当し「フルーツ評論家」として各方面に寄稿するなどして、後には、取締役になった。
井上 孝(いのうえ たかし、1915年8月2日 - 2002… 井上 孝(いのうえ たかし、1915年8月2日 - 2002年6月17日)は、日本の小説家。 山口県生まれ。早稲田大学仏文科卒業。『早稲田文学』に小説を発表し、1940年「ある市井人の一生」で芥川賞候補。戦後は『早稲田文学』の編集に携わりながら作家活動をおこなった。 2002年6月17日、肺炎のため山口県下関市の病院で死去。86歳没。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
広田 幸一(廣田 幸一、ひろた こういち、1915年8月2日… 広田 幸一(廣田 幸一、ひろた こういち、1915年8月2日 - 2013年6月4日)は、日本の政治家、参議院議員(1期、日本社会党)。 鳥取県鳥取市出身。関西大学専門部中退。陸軍に入り、ソ連軍に抑留され、1948年復員。日本通運に入り、同社の労働組合で活動する。鳥取県議を5期務め、1977年の参院選で鳥取地方区から日本社会党公認で立候補して自民党候補などを破り当選する。国会内では災害対策特別委員長を歴任した。1983年の参院選で落選。 2013年6月4日死去、97歳。死没日をもって正八位から正五位に叙される。
児玉 三夫(こだま みつお、1915年8月1日 - 1996… 児玉 三夫(こだま みつお、1915年8月1日 - 1996年9月23日)は、日本の教育学者。 鹿児島県鹿児島市春日町出身。東京帝国大学(現 東京大学)文学部教育学科卒業。明星大学第2代学長。いわき明星大学創設者、初代学長。長兄は小原一夫、次兄は鰺坂二夫。兄たちが歴史学、地理学、哲学に関心をもっていたため、強く影響を受ける。また、叔父の小原国芳が京都帝国大学で哲学を学び、成城学園の幹部として活躍していたことも影響し、歴史学、地理学、哲学に興味を抱くようになる。京都にするか東京にするかの選択に悩み、結局は東京の文学部の教育学を専攻したことが「回想 教育と私」に記されている。 小学校3年までは鹿児島女子師範学校の付属小学校にて過ごし、3年の途中で私立成城小学校に転校後、中学、高校とも成城で過ごす。
今井田 勲(いまいだ いさお 1915年8月1日 – 198… 今井田 勲(いまいだ いさお 1915年8月1日 – 1989年6月24日)は鹿児島県出身の編集者。 鹿児島県熊毛郡南種子町(種子島)生まれ。旧制中学校時代、今井田榕舟(ようしゅう)の名で自由律短歌を制作し、雑誌にたびたび入選。 1936年日本大学芸術科卒業。1938年、400倍以上の競争率を突破して主婦之友社(現在の主婦の友社)に入社。初代社長石川武美と『主婦の友』編集長本郷保雄に鍛えられる。『主婦之友花嫁講座』全12巻や『続主婦之友花嫁講座』全8巻、『世界名作家庭文庫』全50巻で成功を収める。 数年後に、主婦の友社・講談社・新潮社などの出資で設立された大東亜出版に出向、内閣情報局が大東亜共栄圏のための青年向けに発行した雑誌『ヒカリ』の編集長となる。
小平 忠(こだいら ただし、1915年8月1日 - 2000… 小平 忠(こだいら ただし、1915年8月1日 - 2000年12月3日)は、日本の政治家。衆議院議員(11期)。正三位勲一等。北海道空知郡栗沢町(現・岩見沢市)出身。民主党元衆議院議員で、野田内閣 (第3次改造)で国家公安委員長を務めた小平忠正は実子。 現在の岩見沢市栗沢町茂世丑地区で、戊辰戦争に敗れ北海道に開拓に入った貧しい家庭に生まれた。 1941年に日本大学経済科を卒業後、出征し南方戦線より帰還した。その後、郷里の北海道へ戻り、北海道農協中央会専務理事を経て、1949年、農民新党公認で第24回衆議院議員総選挙に北海道第4区より立候補し初当選。以後通算当選11回。農民協同党→協同党→右派社会党→日本社会党を経て民社党の結成に参加。
村井 長正(むらい ながまさ、1915年(大正4年)7月30… 村井 長正(むらい ながまさ、1915年(大正4年)7月30日 - 1997年(平成9年)5月29日)は、昭和期の侍従、華族(男爵)。加賀八家村井家第13代当主。 加賀藩重臣村井家第12代当主、村井長八郎男爵の子として金沢市に生まれる。1945年(昭和20年)12月15日、父の死去に伴い男爵を襲爵した。 東京帝国大学文学部を卒業。1940年(昭和15年)5月に東宮傅育官となり、東宮侍従。1947年(昭和22年)、故博恭王一年祭に際して皇后宮使の役を務めた。その後、侍従職侍従、皇子傅育官等を歴任した。1965年(昭和40年)、宮内庁を退官し日本大学で倫理学の教鞭をとった。 1997年(平成9年)5月29日未明、自宅において就寝中火災に遭い死去した。
工藤 甲人(くどう こうじん、本名:工藤 儀助(くどう ぎす… 工藤 甲人(くどう こうじん、本名:工藤 儀助(くどう ぎすけ)、1915年7月30日 - 2011年7月29日)は、日本の画家、日本画家。創画会会員。東京芸術大学名誉教授、沖縄県立芸術大学客員教授。 青森県弘前市出身。1934年に上京し、翌年から川端画学校日本画科に入学。岡村葵園や福田豊四郎に師事した。1962年、弘前市から神奈川県平塚市に転居。1971年東京芸術大学助教授、1978年同教授。1983年定年退官後、名誉教授。1988年、沖縄県立芸術大学客員教授。2002年、神奈川県庁に飾られていた工藤の作品が盗難の被害に遭った。2011年7月29日、老衰のため神奈川県平塚市で死去。95歳没。 自然の昆虫や小動物、植物の葉などを繊細な描線で描き、その周りを群青などの単色の岩絵具で色面を大きく取り、装飾的に感じるような構図が特徴とされる。
玉城 康四郎(たまき こうしろう、1915年 <大正4年> … 玉城 康四郎(たまき こうしろう、1915年 <大正4年> 7月29日 - 1999年 <平成11年> 1月14日)は、日本の仏教学者。東京大学名誉教授。世界各地の宗教を研究した。位階は従四位。 熊本県熊本市の浄土真宗の門徒の家に生まれ、熊本中学校卒。高校時代から禅、真宗の師につく。1936年第五高等学校(現・熊本大学)卒、1940年東京帝国大学文学部印度哲学科卒業、大学院に進む。1942年10月召集を受け、敗戦を迎えて熊本の専門学校で教えたあと、1951年再上京し大学院に復帰。 1954年東洋大学文学部勤務。1959年「天台実相観における心の捉え方の問題」で東京大学より文学博士の学位を取得。同年東京大学文学部印度哲学科助教授、1964年教授、1976年定年退官、名誉教授、東北大学教授。
田辺 節郎(たなべ せつろう、1915年7月29日 - 20… 田辺 節郎(たなべ せつろう、1915年7月29日 - 2013年7月10日)は、日本の経営者。アルナ工機社長、宝塚音楽学校校長を務めた。山梨県出身。創業者である小林一三の甥。 1938年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)に入社。1959年に宝塚映画製作所代表取締役に就任し、1971年から1975年までに阪急電鉄監査役、1974年から1983年までにアルナ工機社長、1985年から1991年までに宝塚音楽学校校長を歴任した。 2013年7月10日心不全のために死去。97歳没。
具 喆会(ク・チョルェ、朝鮮語: 구철회/具喆會、1915年… 具 喆会(ク・チョルェ、朝鮮語: 구철회/具喆會、1915年7月26日または1918年 - 1965年1月27日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国のジャーナリスト、実業家、政治家。第4代韓国国会議員。本貫は綾城具氏。 日本統治時代の京畿道水原出身。本籍地はソウル。中央大学予科、立教大学文学部卒。日本統治時代には抗日闘争により3年間投獄された。解放後は漢城日報政治経済部長、民衆日報幹部、水原新聞社社長、政界春秋社社長、国際ニュース社社長、自由新聞社常務取締役を務めた。政界入りした後は民主党中央委員・宣伝部次長・龍仁郡党委員長・京畿道党副委員長を歴任し、1958年の第4代総選挙で民主党の候補として龍仁郡選挙区から当選したが、後は民主党を離党し自由党に移籍した。
大原 亨(おおはら とおる、 1915年7月25日 - 19… 大原 亨(おおはら とおる、 1915年7月25日 - 1990年4月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(11期、日本社会党)。 広島県豊田郡本郷町(現三原市)出身。1942年中央大学法学部卒。卒業後は読売新聞社に勤務する。戦後、小学校教員になり、広島県教職員組合委員長や日教組書記次長などを歴任。1952年の第25回衆議院議員総選挙に広島1区で左派社会党より立候補し落選。1955年の第27回衆議院議員総選挙でも落選した。1958年の第28回衆議院議員総選挙において日本社会党公認で立候補して当選。以後連続当選11回を数えた。 1975年2月に広島市長選に出馬し、落選している。 1990年1月の第39回衆議院議員総選挙に立候補せず、政界引退。
毛利 昌三(もうり しょうぞう、1915年7月24日 - 1… 毛利 昌三(もうり しょうぞう、1915年7月24日 - 1999年6月22日)は、日本の教育学者。 熊本県に生まれる。熊本県立玉名中学校、第五高等学校を経て、東京帝国大学文学部を卒業した。 東大卒業後の1940年から東京大学航空研究所航空心理部員となる。 戦後の1947年から熊本師範学校教諭となり、学制改革後の1949年からは熊本大学助教授に移る。1965年に岡山大学教育学部教授に就任した。1980年に退官し、名誉教授となる。その後、ノートルダム清心女子大学教授を1985年まで務めた。この間、1975年にNHK厚生文化事業団より研究奨励賞を受賞している。 その他の役職として日本精神薄弱研究協会評議員や岡山心理学会会長なども歴任した。
吉田 猪佐喜(よしだ いさき、1915年7月24日 - 19… 吉田 猪佐喜(よしだ いさき、1915年7月24日 - 1982年4月10日)は、熊本県出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。1950年から1952年までの登録名は吉田 和生(よしだ かずお)。
矢田 俊隆(やだ としたか、1915年〈大正4年〉7月23日… 矢田 俊隆(やだ としたか、1915年〈大正4年〉7月23日 - 2000年7月14日)は、日本の歴史学者・政治学者、北海道大学名誉教授。中欧史を研究。 1915年、三重県桑名市生まれ。1938年、名古屋市の第八高等学校 (旧制)卒業。東京帝國大学文学部に進み、西洋史を専攻する。1938年、東京帝國大学文学部を卒業し、同大学院へ進学。1940年、東京帝國大学大学院文学研究科を修了し、同文学部の副手となる(1943年まで)。 日本大学、東京女子大学などの講師を経て、1949年に成蹊大学政治経済学部教授に就く。1950年、北海道大学法経学部教授となり、1953年の学部改組に伴い法学部教授となった。1957年以降、同大学スラブ研究センター研究員を併任する。
清藤 三津郎(せいとう みつろう、1915年(大正4年)7月… 清藤 三津郎(せいとう みつろう、1915年(大正4年)7月23日 - 2001年(平成13年)11月25日)は、昭和から平成時代前期の政治家。歯科医師。青森県黒石市長。位階は従五位。勲三等瑞宝章。 青森県南津軽郡黒石町前町(現黒石市)に生まれる。日本大学第二中学校を経て、1941年(昭和16年)東京歯科医学専門学校を卒業し、翌年の1942年(昭和17年)に故郷で歯科医を開業する。1948年(昭和23年)南津軽郡歯科医師会会長を経て、1951年(昭和26年)黒石町議会議員に当選。1954年(昭和29年)7月、合併を経て黒石市議会議員となる。1955年(昭和30年)同議長に選ばれ、1967年(昭和42年)まで通算4期市議を務めた。
永井 典彦(ながい のりひこ、1915年7月23日 - 20… 永井 典彦(ながい のりひこ、1915年7月23日 - 2003年1月21日)は、日本の経営者。大阪商船三井船舶(現在の商船三井)社長、会長を務めた。 東京都出身。1944年に東京商科大学を卒業し、同年に三井物産に入社。1942年に三井船舶に転じ、1968年5月に大阪商船三井船舶取締役に就任し、1971年5月に常務、1973年11月に専務を経て、1976年6月に社長に就任。1980年6月に会長に就任し、1984年6月には相談役に就任。 1977年7月に運輸大臣表彰を受け、1978年11月に藍綬褒章を受章し、1985年11月に勲二等旭日重光章を受章し、1989年11月に文部大臣表彰を受けた。 2003年1月21日肺炎のために死去。
美濃部 正(みのべ ただし、1915年〈大正4年〉7月21日… 美濃部 正(みのべ ただし、1915年〈大正4年〉7月21日 - 1997年〈平成9年〉6月12日)は、日本の海軍軍人、航空自衛官。海兵64期。最終階級は海軍少佐、空将。旧姓は太田(おおた)。夜間戦闘機部隊「芙蓉部隊」指揮官として、全軍特攻方針の軍上層部に抵抗し、特攻を拒否したとして紹介されることが多いが、特攻の精神そのものは否定しておらず、むしろ特攻への確固たる信念を持つゆえに現状の特攻作戦を邪道と見ており、これに賛同せず難易度が高い夜間攻撃に特化した部隊を造り上げた。決定的な戦機到来の暁には美濃部自身が先頭に立って特攻をかける覚悟であった。 1915年7月21日、愛知県高岡村(現豊田市)で自作農の太田家に六人兄弟の次男として生まれる。
青地 秀太郎(あおち ひでたろう、1915年7月21日 - … 青地 秀太郎(あおち ひでたろう、1915年7月21日 - 1979年11月10日)は、日本の洋画家。岡山県岡山市出身。 1915年、岡山県岡山市の農家に産まれる。幼少より絵を描くのを趣味としていた。第二岡山中学校に進学したが、絵に熱中しすぎた為、落第寸前となり私立の関西中学へ転校している。在学中は市内の絵画コンクールなどで常に入賞するなど、画家としての片鱗を覗かせていた。卒業後は画家を目指して上京し、川端画学校、本郷洋画研究所で学んだが、学費を支払う事が出来なくなり岡山県へ戻る。岡山では小林喜一郎主催の赤坂洋画研究所へ通った。同期生に中田政夫がおり、研究所では中田が塾頭、青地が青年隊長として研究所を盛り上げていた。
景浦 將(かげうら まさる、1915年7月20日 - 194… 景浦 將(かげうら まさる、1915年7月20日 - 1945年5月20日)は、愛媛県松山市出身のプロ野球選手(外野手、投手)。
高田馨(たかだ かおる、1915年7月19日-1995年7月… 高田馨(たかだ かおる、1915年7月19日-1995年7月27日)は、日本の経営学者。 福井県武生市(現越前市)出身。1941年大阪商科大学経営学科卒。短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月に卒業。大阪警備府に配属。1943年11月、海軍主計大尉に昇進し、第101工作部部員(シンガポールセレター軍港)に転じた。1944年6月、第一南遣艦隊副官に転任。1945年1月、第十三航空艦隊副官を経て、同年2月、第二技術廠部員となり電波兵器の資材確保に従事し終戦を迎えた。 59年「経営共同体の原理」で大阪大学経済学博士。1949年彦根経済専門学校教授、1952年名古屋大学助教授、1959年大阪大学経済学部教授、79年定年退官となり名誉教授、追手門学院大学教授を務めた。
伊藤 三郎(いとう さぶろう、1915年7月18日 - 19… 伊藤 三郎(いとう さぶろう、1915年7月18日 - 1978年1月19日)は、日本の競泳選手。現役時代の種目は平泳ぎで、明治大学在学中に1936年ベルリンオリンピック日本代表のひとりとなり、男子200m平泳ぎ決勝で2分47秒6のタイムを出し、5位に入賞した。 静岡県磐田郡豊浜村(後の磐田市の南東部)出身。中泉農学校(後の静岡県立磐田農業高等学校の前身)から、明治大学に進んだ。 1938年に明治大学を卒業し、昭和製鋼所に入社と報じられた。 1941年、陸軍少尉となっていた伊藤は、第23軍第38師団の一員として香港島の戦いに参加した。そして、12月22日、戦闘中に銃創を負ったと報道された。 明治大学水泳部監督、日本水泳連盟常務理事、埼玉県水泳連盟副会長を歴任。
大塚 和(おおつか かのう、1915年7月18日 - 199… 大塚 和(おおつか かのう、1915年7月18日 - 1990年9月26日)は、日本の映画プロデューサー、映画プロダクション社長。1955年に日活とプロデューサー契約を結び、今村昌平、浦山桐郎、藤田敏八、神代辰巳、長谷川和彦ら13名もの新人監督を世に送り出したことで知られる。 高知県長岡郡田村(現・南国市田村)に生まれる。父親は開業医で、9人姉弟の末っ子。 1937年、東京外国語学校ロシア語科(現・東京外国語大学)卒業。映画世界社に入社。1943年、同社が戦時雑誌統合令によって解散したため、都新聞社(現・東京新聞社)文化部に転職した。 1946年、再開した映画世界社に復職。『映画ファン』の編集長になる。
青木 半治(あおき はんじ、1915年7月16日 - 201… 青木 半治(あおき はんじ、1915年7月16日 - 2010年5月30日)は、日本のスポーツ指導者、日本陸上競技連盟第5代会長。日本体育協会第11代会長。また国際陸上競技連盟とアジア陸上競技連盟でも役員を歴任し、副会長を務めた。後に終身名誉副会長。 千葉県長生郡太東村(現いすみ市)出身。旧制銚子商業学校(現在の千葉県立銚子商業高等学校)卒業。1938年(昭和13年)に早稲田大学商学部を卒業。 日立製作所に入社し、同年日本陸上競技選手権大会の砲丸投競技で優勝。その後は三徳工業、昭和電工を経て、1945年(昭和20年)に独立し、1946年(昭和21年)青木金属興業株式会社を設立。 会社経営の傍ら、母校の早稲田大学競走部監督を務めた。
八木 冕(やぎ べん、1915年7月16日 - 1988年5… 八木 冕(やぎ べん、1915年7月16日 - 1988年5月23日)は、日本の心理学者、東京大学名誉教授。 東京高等学校から、1938年東京帝国大学文学部心理学科卒業。大学院を経て、1939年東大副手、横浜専門学校講師、1944年京都帝国大学講師、1952年東大文学部心理学科助教授、1961年「動機づけに関する実験的研究」で文学博士、1964年教授、1976年定年退官、名誉教授、青山学院大学教授、1984年退職、1975年から1981年まで日本動物心理学会会長。動物心理学を専攻した。没後、正四位勲三等旭日中綬章追贈。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
加藤 禮次(かとう れいじ、1915年7月15日 - 198… 加藤 禮次(かとう れいじ、1915年7月15日 - 1986年8月24日)は、日本の経営者。大阪府出身。レンゴー社長を務めた。旧姓は小林。 大阪市西区北堀江にて小林董治郎・候の次男として生まれる。小林家はあみだ池大黒を経営する一族である。甲南高等学校を経て1938年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に東洋製罐に入社。同年末に歩兵第8連隊に入営。ジャムスに駐屯。ノモンハン事件最中の1939年8月に主計幹部候補生に合格して内地に帰還が決まった際、古参一等兵たちから腹いせに鼓膜が破れ気絶するほどのリンチを受けたという。陸軍経理学校(甲幹3期、第1中隊)を経て1940年より赤羽の陸軍被服廠に勤務し、二代目会計監督官班長。
加藤 博康(かとう ひろやす、1915年(大正4年)7月15… 加藤 博康(かとう ひろやす、1915年(大正4年)7月15日 - 2002年(平成14年)7月18日)は、昭和時代の政治家。埼玉県秩父郡両神村長、秩父市長。位階は従五位。 埼玉県出身。1940年(昭和15年)東京帝国大学法学部法律学科を卒業する。1951年(昭和26年)秩父郡両神村長に当選し3期務め、1964年(昭和39年)秩父市助役を経て、1975年(昭和50年)秩父市長に当選。1987年(昭和62年)引退した。2002年死去。死没日付をもって従五位に叙された。
山本 定子(やまもと さだこ、1915年7月14日 - 生没… 山本 定子(やまもと さだこ、1915年7月14日 - 生没不明)は、日本の陸上競技選手。 中京高等女学校家事体操専攻科(現・至学館大学)卒。 1936年ベルリンオリンピックで女子やり投げに出場し、5位入賞を果たした。この山本の5位入賞後、日本女子やり投は長らくオリンピックでの入賞者が出ていなかったが、2024年パリオリンピック女子やり投に於いて北口榛花が優勝(金メダル獲得)し、88年ぶりにオリンピック入賞者を出すこととなった。 この項目は、陸上選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:陸上競技/PJ陸上競技)。
宮川 英二(みやがわ えいじ、1915年7月14日 - 19… 宮川 英二(みやがわ えいじ、1915年7月14日 - 1989年5月11日)は日本の建築家。日本大学名誉教授。 東京出身。日本大学旧工学部建築学科卒業。1988年勲四等旭日小綬章受章。1989年、急性白血病のため死去。 近江栄・宇野英隆編『建築への誘い先駆者10人の歩んだ道』朝倉書店、1982 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 この項目は、建築・土木に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:建築/Portal:建築)。
石川 馨(いしかわ かおる、1915年 <大正4年> 7月1… 石川 馨(いしかわ かおる、1915年 <大正4年> 7月13日 - 1989年 <平成元年> 4月16日)は、日本の化学工学者。工学博士。東京大学名誉教授、東京理科大学教授、武蔵工業大学(現東京都市大学)元学長。位階は正四位。旧経済団体連合会(現日本経済団体連合会)初代会長の石川一郎は父。鹿島建設会長、日本商工会議所会頭の石川六郎は弟。 東京都出身。1928年に東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、1933年に同附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。附属中の同級生には、中村光夫(文芸評論家)、島田秀夫(日本サッカー協会名誉会長)、小川平四郎(初代駐中国大使)などがいる。
吉野 義子(よしの よしこ 1915年7月13日 - 201… 吉野 義子(よしの よしこ 1915年7月13日 - 2010年12月6日)は、俳人。台湾台北市に生まれる。父は言語学者の小川尚義。幼時に母方の伯父の養女となり、愛媛県松山市にて育つ。県立松山高等女学校(現松山南高等学校)を経て、1933年、同志社大学英文科に入学。1934年、結婚のため中退。当初は詩を作っていたが、1947年に俳句に転向。1948年、「濱」に入会、大野林火に師事。1954年、「濱」同人。1972年、濱同人賞受賞。1979年、「芭蕉の精神を基盤とした叙情を継承する」として「星」を創刊・主宰。2001年、『流水』により第1回俳句四季大賞受賞。2003年、「星」終刊。代表句に「むらさき着て掌にあたたむる龍の玉」など。
吉岡英一(よしおか えいいち、1915年7月13日 - 19… 吉岡英一(よしおか えいいち、1915年7月13日 - 1999年8月22日)は、日本の大蔵官僚。経済企画庁長官官房長、理財局長、国税庁長官、中小企業金融公庫総裁、日本開発銀行総裁などを務めた。 台湾出身。旧制台北高等学校卒業。1937年10月、高等試験行政科合格。東京帝国大学法学部政治学科卒業。1938年、大蔵省入省。主税局属。主計局第四課長、主計官、大臣官房秘書課長、為替局企画課長、大臣官房財務調査官(大臣官房担当)、理財局総務課長、主計局総務課長と、課長時代は1官房、3課を横断していた。主計局次長(次席)、大臣官房財務調査官(理財局証券担当)などを経て、1961年6月16日 理財局次長。1962年5月15日 経済企画庁長官官房長。
彌永 貞三(いやなが ていぞう、1915年(大正4年)7月1… 彌永 貞三(いやなが ていぞう、1915年(大正4年)7月12日 - 1983年(昭和58年)12月30日)は、日本の歴史学者。東京大学史料編纂所所長。従四位勲三等瑞宝章。 1915年、父の任地の長野県松本市で生まれた。父の転任に伴い東京で育ち、府立第四中学、府立高等学校を卒業。東京帝国大学文学部国史学科に入学し、日本古代史を専攻し、坂本太郎に師事。1939年、卒業論文『上代の貨幣史に関する研究』を提出して同大学を卒業した。同大学大学院に進学したが、同年12月より兵役につき、千葉の鉄道連隊に入営した。 1940年、北支派遣の鉄道連隊に転属。以後3年あまり中国各地を転戦。1943年に除隊。帰国し、東京帝国大学大学院を退学し、東京帝国大学史料編纂所常勤嘱託に就いた。
スパット・スタタム(Suphat Sutatum、1915年… スパット・スタタム(Suphat Sutatum、1915年7月11日 - 没年不詳)は、タイ王国の政治家、タイ王国元財務大臣。 1915年7月11日、タイのバンコクで生まれる。1930年に、ワット・ボピトルピムク・スクール(Wat Bopitrpimuk school)で中等教育を修了。 1934年にタイ会計検査院で研修生としてキャリアをスタートさせ、1935年に2級事務官に任じられた。 その後来日し、立教大学で学び、1941年には商学修士号を取得。また、バンク・オブ・アメリカの監査役として研修を受けた。 1948年、タイ監査委員会委員、1975年、監査委員会事務局長、1972-75年、監査委員会委員長、1974年、汚職・腐敗行為防止局委員など、タイの国家財務の要職を歴任。
磨甎庵 劫石<ませんあん ごっせき>(本名:白田 貴郎<はく… 磨甎庵 劫石<ませんあん ごっせき>(本名:白田 貴郎<はくた たかお>)、1915年7月10日 - 2009年2月11日)は、臨済宗妙心寺派系の法を嗣ぐ老師、人間禅第三世総裁。倫理学学者。千葉大学名誉教授。聖徳短期大学名誉教授。勲二等瑞宝章受章。 1915年7月10日、東京に生まれ、隅田小学校に学ぶ。 1932年、東京府立第七中学校4年修了後、府立高等学校文科甲類に進学。 在学中野球部に入り、練習で体調を崩して結核となり、人間の死について疑団をもち、これを決着しなければ、人生は砂 上の楼閣となると考え、経済学部への進学をやめて、東大の和辻哲郎教授につき、哲学を学ぶことを決意。 1935年、東京帝国大学文学部倫理学科に進学。
小林 章(こばやし あきら、1915年(大正4年)7月10日… 小林 章(こばやし あきら、1915年(大正4年)7月10日 – 1999年(平成11年)8月1日)は、日本の昭和期の大蔵官僚、政治家。参議院議員、日本専売公社総務理事。 大阪府大阪市出身。大阪高等学校を卒業。1937年(昭和12年)10月、高等試験行政科試験に合格。1938年(昭和13年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。同年、大蔵省に入省し主税局属となる。 以後、大阪税関総務部長、松山海運局監理部長、高松財務局経理部長、同関税部長、大蔵省管理局財務第二課長などを歴任した。 日本専売公社に移り、塩業課長、主計課長、仙台地方局長、本社綜合企画室長、塩脳部長、臨時塩業整備本部長、経理部長、企画部長、総務理事を歴任し、1964年(昭和39年)に退任した。
小山 源喜(こやま げんき、1915年7月8日 - 1991… 小山 源喜(こやま げんき、1915年7月8日 - 1991年4月11日)は、日本の男性俳優、声優、演出家。東京府東京市向島(現・東京都墨田区)出身。戦後のラジオドラマ黄金期を代表する声優。 隅田小、東京府立七中(現・東京都立墨田川高等学校)卒業、東京府青山師範学校中退。1934年(昭和9年)、遠縁に当たる二代目市川小太夫の縁で市川猿之助主宰の春秋座で初舞台を踏む(『若き日の成吉斯汗』)同年6月、丸山定夫のP・C・L映画に入る。1935年(昭和10年)10月、小山映画演劇研究所主宰。1936年(昭和11年)3月、新築地劇団演出部(千田是也の助手)を経て、1938年(昭和13年)には文学座旗揚げに参加。