武田 祐吉(たけだ ゆうきち、1886年5月5日 - 195… 武田 祐吉(たけだ ゆうきち、1886年5月5日 - 1958年3月29日)は、大正・昭和期の日本の国文学者(上代文学)。万葉集や古事記の研究で業績がある。元國學院大學教授。日本学士院賞受賞。 1886年(明治19年)、東京市日本橋区(現・東京都中央区)で生まれた。幼少期は大阪で育ち、大阪府第五尋常小学校(現 天王寺中学)に入学。同級生に折口信夫・岩橋小弥太・西田直二郎がいた。1908年(明治41年)國學院大學に入学し、三矢重松に師事した。 1913年(大正2年)に國學院大学を卒業。翌年、小田原中学校教諭となった。1916年(大正5年)に退職し、東京帝国大学において、佐佐木信綱の『校本万葉集』編纂に従事する。
有吉 実(ありよし みのる、1886年(明治19年)5月5日… 有吉 実(ありよし みのる、1886年(明治19年)5月5日 - 1968年(昭和43年)6月29日)は、日本の内務・警察官僚、弁護士。官選宮崎県知事、尼崎市長。 京都府出身。有吉三七の三男として生まれる。第六高等学校を卒業。1912年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1913年(大正2年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。司法省を経て内務省に入省し徳島県属となる。 以後、徳島県警視、徳島県理事官、長野県理事官、山形県理事官、鳥取県警察部長、三重県警察部長、福岡県書記官・警察部長、宮崎県書記官・内務部長、愛知県書記官・警察部長などを歴任。 1930年(昭和5年)8月、宮崎県知事に就任。
藤田 一郎(ふじた いちろう、1886年〈明治19年〉5月5… 藤田 一郎(ふじた いちろう、1886年〈明治19年〉5月5日 - 1949年〈昭和24年〉9月19日)は、日本の実業家、土木建築請負業、地主。藤田組(現・フジタ)初代社長。広島県多額納税者。東亜木材防腐社長。広島商工会議所顧問。族籍は広島県平民。参議院議長を務めた藤田正明は甥。 広島県賀茂郡中黒瀬村字大多田(現・東広島市黒瀬町)の農家に生まれた。藤田次助の二男。1900年、高等小学校を卒業。 郷里で百姓のまま埋もれたくなかったため、広島市で請負業をやっていた母方のおじに当たる森信正市の店で小僧として働く。土木建築業の見習いの傍ら夜学に通い、建築や簿記を学ぶ。17歳の時、アメリカへの密航を企てたが、失敗に終わり再び森信方に連れ戻された。
岩松 義雄(いわまつ よしお、1886年(明治19年)5月3… 岩松 義雄(いわまつ よしお、1886年(明治19年)5月3日 - 1958年(昭和33年)4月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 旧尾張藩士・岩松義行の長男として生れる。愛知一中、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905年3月、陸軍士官学校(17期)を卒業、翌月、陸軍少尉に任官し歩兵第10連隊付となる。1918年11月、陸軍大学校(30期)を卒業した。 歩兵第61連隊中隊長、参謀本部付勤務、参謀本部付(支那駐在)、参謀本部員(支那課)、参謀本部付(上海駐在)、参謀本部員、欧州出張、台湾歩兵第1連隊付、台湾歩兵第2連隊長、第5師団参謀長、参謀本部支那課長、参謀本部付(南京駐在)などを経て、1934年3月、陸軍少将に進級する。
大関 善雄(おおぜき よしお、1886年(明治19年)5月3… 大関 善雄(おおぜき よしお、1886年(明治19年)5月3日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。屏東市尹。 福島県若松市善久町(現・会津若松市日新町)に生まれる。1911年(明治44年)東洋協会専門学校を卒業し、1914年(大正3年)4月、府民政部通信局庶務課勤務となる。 ついで通信局府報材料報告主任、文山郡庶務課長、台北市役所秘書係長を経て、1935年(昭和10年)9月、地方理事官に進み、屏東市助役に就任した。翌年の10月、新竹州竹東郡守に転じ、1939年(昭和14年)10月、屏東市尹に就任した。
黒崎 幸吉(くろさき こうきち、1886年(明治19年)5月… 黒崎 幸吉(くろさき こうきち、1886年(明治19年)5月2日 - 1970年(昭和45年)6月6日)は、日本の聖書学者、キリスト教伝道者、元住友本社社員。 書家・黒崎研堂の長男として生まれる。 荘内中学校(現:山形県立鶴岡南高等学校)、旧制第一高等学校を経て、1911年(明治44年)7月に東京帝国大学法科大学政治経済学科を卒業。帝大在学中に内村鑑三の聖書研究会に加わり入信する。同年8月に住友本社に入社。住友家嗣子の教育掛となり、1915年(大正4年)にこれに随行し渡米留学する。その後、大阪、東京、別子に勤務。1921年(大正10年)の妻の死をきっかけとして、住友製鋼所副支配人を最後に住友を退社。
奥田 茂造(おくだ しげぞう、1886年〈明治19年〉5月2… 奥田 茂造(おくだ しげぞう、1886年〈明治19年〉5月2日 - 1960年〈昭和35年〉9月28日)は、日本の内務官僚。三重県鈴鹿市長。 三重県飯南郡櫛田村(現在の松阪市)出身。1909年(明治42年)、早稲田大学政治経済科を卒業。1917年(大正6年)、大蔵属となり、翌年に東京府属に転じた。1920年(大正9年)、高等文官試験に合格。秋田県北秋田郡長、同山本郡長、同事務官、奈良県事務官、福井県事務官を歴任し、1932年(昭和7年)に北海道庁事務官・産業部長に就任した。さらに佐賀県書記官・学務部長、山口県書記官・経済部長を経て、1939年(昭和14年)より川崎市助役を務めた。 その後、日本屑繊維配給統制株式会社社長、日本機下屑統制株式会社社長を務め、1943年(昭和18年)に初代鈴鹿市長に就任した。
住山 徳太郎(すみやま とくたろう、1886年(明治19年)… 住山 徳太郎(すみやま とくたろう、1886年(明治19年)5月1日 - 1962年(昭和37年)11月20日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 東京府出身。住山宗次郎の長男として生まれる。学習院中等科を経て、1906年(明治39年)11月、海軍兵学校(34期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。海軍大学校で乙種学生、同専修学生として学び、水上機母艦「若宮丸」分隊長、通報艦「淀」航海長、海兵教官、第三艦隊参謀、東郷平八郎元帥副官などを経て、1919年(大正8年)12月、海軍大学校(甲種17期)を卒業。以後、巡洋戦艦「鞍馬」航海長、第三艦隊参謀、横須賀海兵団分隊長、戦艦「敷島」航海長、第二艦隊参謀、海軍省人事局第1課局員などを歴任。
森岡 二朗(もりおか じろう、1886年〈明治19年〉5月1… 森岡 二朗(もりおか じろう、1886年〈明治19年〉5月1日 - 1950年〈昭和25年〉12月20日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、台湾総督府総務長官。 森岡万平の二男として奈良県山辺郡丹波(現:天理市)で生まれる。郡山中学、四高を経て、1911年(明治44年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験に合格し内務省に入省。兵庫県警部に任官し警察部保安課に配属された。 1912年(大正元年)10月、兵庫県出石郡長に就任。以後、兵庫県理事官、同県警視、青森県警察部長、神奈川県警察部長、警視庁刑事部長、警視庁官房主事、京都府書記官・内務部長などを歴任。1923年(大正12年)の関東大震災当時は神奈川県警察部長で、大阪府知事、兵庫県知事、千葉県知事、茨城県知事、横須賀鎮守府、横須賀軍港停泊中の艦船および大阪朝日新聞社と大阪毎日新聞社に至急官報で救援を要請した。
山本 犀蔵(やまもと さいぞう、1886年(明治19年)5月… 山本 犀蔵(やまもと さいぞう、1886年(明治19年)5月 - 没年不詳)は、日本の法制官僚、朝鮮総督府官僚。 兵庫県出身。1910年(明治43年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、東京府属兼内務属となった。高等文官試験合格後、群馬県事務官、同理事官、同視学官、法制局参事官・内閣恩給局書記官、法制局第一部長を歴任した。1924年(大正13年)、朝鮮総督府事務官に転じ、逓信局長・海員審判所長を務めた。 1933年(昭和8年)に退官した後は、西鮮合同電気株式会社社長、朝鮮送電株式会社取締役、朝鮮放送協会理事などを務めた。
吉澤 一喜(よしざわ かずき、1886年(明治19年)4月2… 吉澤 一喜(よしざわ かずき、1886年(明治19年)4月28日 - 1972年(昭和47年)10月26日)は、日本の武道家。 段位は居合道範士九段、剣道範士七段、銃剣道範士八段、柔道八段、整復術八段。“武道日本一合計四十段”と称され、全日本柔道選士権で優勝した戦績を有すほか、伯耆流居合では大家としてその名を知られた。身長180cm以上、体重約94kgの偉丈夫であった。 熊本県下益城郡松橋歌里(現宇城市松橋町)の傘屋に生まれ、幼少より剣道、柔道を学んだ。宇土鶴城学院中等部を卒業後、同校の助教を務めた。 日露戦争開戦後の明治38年、志願して陸軍歩兵第13連隊に入隊した。 その後陸軍戸山学校に入校し、明治41年卒業に際し、成績優秀により明治天皇から恩賜の銀時計を受けた。
小日山 直登(こびやま なおと、1886年(明治19年)4月… 小日山 直登(こびやま なおと、1886年(明治19年)4月26日 - 1949年(昭和24年)8月28日)は、昭和期日本の実業家、政治家。南満洲鉄道総裁を務め、第二次世界大戦末期の鈴木貫太郎内閣に入閣。ポツダム宣言受諾の意思を示した。 福島県出身。生家は士族出身であったが、生活は貧しく小さな水車小屋で生まれ育つ。会津中学、第二高等学校を経て、1912年(明治45年)に東京帝国大学英法科を卒業すると共に文官高等試験に合格して南満洲鉄道株式会社(満鉄)に入社する。塔連炭鉱事件(満鉄疑獄事件)に連座して一時偽証罪で起訴されるが控訴審で無罪となり、満鉄に復帰。理事を経て、1943年(昭和18年)7月、満鉄生え抜きの人材として初めて満鉄総裁となる。
中村 柳一(なかむら りゅういち、1886年(明治19年)4… 中村 柳一(なかむら りゅういち、1886年(明治19年)4月26日 - 1972年(昭和47年)11月28日)は、日本の教諭、日本語(国語)の教育者、研究者。日本語方言の開合研究の黎明期に、日本統治下の台湾に勤務した時の経験から、初めて越後方言の開合音(アウ・オウの別)について報告した。 明治19年(1886年)に新潟県刈羽郡高田村堀(現柏崎市堀)に生まれた。明治40年(1907年)に高田師範学校を卒業し、同年に小学校教員免許を取得し、同校の訓導を務めた。後に新潟県の大貫尋常小学校、富山県立魚津中学校で教職を歴任した。 大正6年(1917年)には台湾総督府国語学校に助教授として赴任し、国語(日本語)教育に従事した後、台北女子高等学校普通学校に教諭を担任した。
坂間 棟治(さかま むねじ、1886年(明治19年)4月24… 坂間 棟治(さかま むねじ、1886年(明治19年)4月24日 - 1974年(昭和49年)2月17日)は、日本の内務官僚、第9代大阪市長である。高知県知事、岐阜県知事などを歴任した。位階は正四位。勲二等瑞宝章。 1886年(明治19年)4月、神奈川県に生まれる。1912年(明治45年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。 1913年(大正2年)、高等文官試験に合格。1914年(大正3年)岐阜県属。1917年(大正6年)、岐阜県内務部地方課長。1919年(大正8年)、大阪府内務部学務課長兼救済課長。1922年(大正11年)、富山県警察部長。1924年(大正13年)、愛媛県内務部長。その後、宮城県、香川県、広島県、兵庫県の内務部長を歴任。
辻村 伊助(つじむら いすけ、1886年(明治19年)4月2… 辻村 伊助(つじむら いすけ、1886年(明治19年)4月22日 - 1923年(大正12年)9月1日)は、日本の園芸家、登山家。 神奈川県小田原町(現・小田原市)に素封家の二男として生まれる。東京府開成中学校、第一高校学校を経て、東京帝国大学理学部農芸化学科卒。1906年一高時代、日本初の登山団体「山岳会」に入会し、登山を行い日本アルプスを踏破。1906年木曽駒ヶ岳・宝剣岳でタカネスミレの新たな自生地を発見。1913年渡欧し、翌1914年1月、ユングフラウに登頂。さらに同年8月、近藤茂吉とグロース・シュレックホルンに登頂したが下山中に雪崩に遭い重傷を負う。入院先の看護師ローザ・カレンと結ばれ、1921年帰国、小田原高等女学校で英語を教える。
谷本 馬太郎(たにもと うまたろう、1886年〈明治19年〉… 谷本 馬太郎(たにもと うまたろう、1886年〈明治19年〉4月20日 - 1942年〈昭和17年〉11月11日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 広島県福山市出身。旧制広島県立福山誠之館中学校より海軍兵学校第35期入校。海軍兵学校入校時成績順位は183名中第82名、卒業時成績順位は172名中第37位。 第1次上海事変の際に、第3戦隊旗艦の軽巡洋艦「由良」艦長として参戦したが、上官の堀悌吉第3戦隊司令官の命令を忠実に守り、攻撃対象を中国軍関係に対してのみ限定させ中国国民への被害を最小限度に止めた為に作戦終了後、攻撃が手緩いとの批判が相次いだが、谷本は報告書の中で『堀司令官ノ判断処置ニ鑑ミ一点ノ非アラザル事明白ニシテ現地ニ於ケル事当ラザリシ者ガ非難スルハ司令官ヲ陥シ入レントスル意図明白ナリ』と憤懣やるかたなき状況を伝えている。
大島 浩(おおしま ひろし、1886年(明治19年)4月19… 大島 浩(おおしま ひろし、1886年(明治19年)4月19日 - 1975年(昭和50年)6月6日)は、日本の陸軍軍人、外交官。最終階級は陸軍中将。 第二次世界大戦前から戦中にかけて駐ドイツ特命全権大使を務め、日独伊三国同盟締結の立役者としても知られる。終戦後の極東国際軍事裁判ではA級戦犯として終身刑の判決を受けた。 大島は、陸軍士官学校、及び陸軍大学校を卒業した陸軍軍人であった。1921年(大正10年)、駐在武官補として初めてドイツに赴任、ナチ党とのあいだに強い個人的関係を築くようになった。1938年(昭和13年)には駐ドイツ日本大使に就任、日独同盟の締結を推進し、1940年(昭和15年)に調印された日独伊三国同盟も強力に支持した。
岡田 満(おかだ みつる、1886年4月19日 - 1962… 岡田 満(おかだ みつる、1886年4月19日 - 1962年4月28日)は、日本の大正・昭和期における歯科医、大学教授。滋賀県出身者の歯科医として、初の医学博士。 1886年(明治19年)4月19日、滋賀県野洲郡守山村吉身(現・滋賀県守山市吉身)で誕生。 父は滋賀県議会議長や衆議院議員を務めた岡田逸治郎、母は逸治郎の3番目の妻・義子。八男七女の七男として誕生したが、長男と四男が夭折しており対外的には五男と称す。 1898年(明治31年)早稲田中学入学に伴い上京し、長兄岡田国太郎宅より通う。1908年(明治41年)7月20日、東京歯科医学専門学校(現東京歯科大学)第14回生(本科6名の一人)として卒業する。
赤羽 一雄(あかはね かずお、1886年4月17日 - 19… 赤羽 一雄(あかはね かずお、1886年4月17日 - 1981年5月21日)は、日本の教育者。号は王郎。 王郎の正確な来歴については、正否の判定が難しい部分が多い。履歴書が流浪先で適当に書かれたものであり、来歴に関する具体的な口述が少ないこと、晩年は事実と本人の願望が錯綜したことを述べていたためである。 長野県上伊那郡東春近村(現伊那市)生まれ。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を経て、東京美術学校学校図案課を卒業後、長野県学務課に勤務。1910年に自殺未遂を起こし、翌年、更級郡中津尋常高等小学校の代用教員となり、諏訪郡玉川小学校に転任。この頃、来県した武者小路実篤に出会い、白樺派同人と交流を深め、以後長野県における白樺派教育の先導者となり、人道主義の思潮と芸術運動を盛り上げた。
湛増 庸一(たんそう よういち、1886年(明治19年)4月… 湛増 庸一(たんそう よういち、1886年(明治19年)4月17日 – 1941年(昭和16年)5月14日)は、日本の政治家、教育者。衆議院議員(1期)。 岡山県久米郡倭文西村(現在の美咲町)出身。1904年(明治37年)、岡山県立第一中学校を卒業。1908年(明治41年)に東京帝国大学農科大学を卒業。その後、アメリカ合衆国に留学して、ミネソタ州立農科大学を卒業し、さらにノースダコタ大学に学んだ。1912年(明治45年)に帰国した後は、岡山県農業試験場講師、山本農学校校長・山本実科高等女学校校長などを務めた。 1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬して当選を果たしたがその際、同じ岡山県第七区での競合相手だった藤島守太と談合して藤島方の選挙民を1万円で買収、衆議院選挙罰則違反で禁錮3月の判決を受け、1925年(大正14年)11月19日、大審院で上告棄却され、失職した。
前田 鼎(まえだ かなえ、1886年(明治19年)4月16日… 前田 鼎(まえだ かなえ、1886年(明治19年)4月16日 - 1961年(昭和36年)7月2日)は、医学者、京都帝国大学医学部長・名誉教授。第三高等学校長も務めた。 前田鼎は、1886年(明治19年)4月16日に滋賀県高島郡大溝村(現滋賀県高島市)の前田文良の三男として生まれた。前田家は代々大溝藩殿医を務めた。滋賀県立第2中学校(滋賀県立膳所高等学校)から1907年(明治40年)第三高等学校第三部を、また1911年(明治44年)京都帝国大学医科大学を卒業した。 卒業後荒木寅三郎教授に師事し医化学教室へ入室、同年12月には助手に任ぜられ、1915年(大正4年)6月荒木教授の京都帝国大学総長就任に伴い助教授に昇任した。
落合 慶四郎(おちあい けいしろう、1886年(明治19年)… 落合 慶四郎(おちあい けいしろう、1886年(明治19年)4月16日 - 1965年(昭和40年)3月12日)は、日本の内務官僚。徳島県知事、東京市第一助役、宇都宮市長、福井市長。 島根県神門郡、のちの簸川郡朝山村(現出雲市)出身。落合亀四郎の二男として生まれる。1910年、日本大学大学部法律学科を卒業。1911年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1912年、内務省に入り徳島県属となる。 以後、徳島県理事官、鳥取県東伯郡長、山梨県理事官、大分県警察部長、三重県警察部長、長野県警察部長、群馬県書記官・内務部長、秋田県書記官・内務部長、石川県書記官・内務部長、愛知県書記官・警察部長、神奈川県内務部長などを歴任。
宇佐 玄雄(うさ しずお/げんゆう、1886年4月15日 -… 宇佐 玄雄(うさ しずお/げんゆう、1886年4月15日 - 1957年2月14日)は、日本の臨済宗の僧、精神科医(医学博士)。京都三聖病院の初代院長。森田正馬の弟子で森田療法の実践者。 この頃、倉田百三(この時の体験が『神経質者の天国』になる)を治療 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
多田 満長(ただ みつなが、1886年(明治19年)4月14… 多田 満長(ただ みつなが、1886年(明治19年)4月14日 – 1951年(昭和26年)2月9日)は、日本のジャーナリスト・政治家で立憲民政党所属の衆議院議員。 千葉県君津郡神納村(現在の袖ケ浦市)出身。多田子之助の二男として生まれ、兄の昌太郎は君津郡会議員・神納村長を務めた。千葉師範学校に入学するが、病のため退学した。その後明治学院を経て、1911年(明治44年)に早稲田大学政治経済科を卒業した。卒業後は大日本通信社を創設し、社長を務めた。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に民政党公認で出馬し初当選。5回連続当選を果たした。その間、廣田内閣で逓信参与官を、阿部内閣で外務政務次官を務めた。
井上 日召(いのうえ にっしょう、1886年〈明治19年〉4… 井上 日召(いのうえ にっしょう、1886年〈明治19年〉4月12日 - 1967年〈昭和42年〉3月4日)は、日本の宗教家、政治運動家、テロリスト、右翼指導者。本名は井上 昭(いのうえ あきら)、別号に日象。血盟団を結成して「一殺多生」を唱え、1932年に血盟団事件を起こした。無期懲役の判決を受けたが恩赦により出所。戦後は右翼団体・護国団を結成した。日蓮宗を信仰し、仲間からは「和尚」と呼ばれたものの僧籍は有していない。 群馬県利根郡川場村に、医師・井上好人の四男として生まれる。幼名は四郎、通称尚(たすく)。幼少期より母との関係が悪く、野火を付けたり脇差を持ちだして門松を斬り倒したりする悪童だった。
大倉 燁子(おおくら てるこ、1886年4月12日 - 19… 大倉 燁子(おおくら てるこ、1886年4月12日 - 1960年7月18日、本名:物集 芳子(もづめ よしこ))は、日本の小説家。 国学者・物集高見の三女。兄の物集高量は国文学者、妹の物集和子も小説家。 東京府東京市本郷区弓町(現・東京都文京区本郷)出身、学歴は東京女子高等師範学校中退。文学を志して妹の和子とともに二葉亭四迷に弟子入りしたが、1908年、二葉亭は朝日新聞社特派員としてロシアに赴任することになったので、同社の同僚であった夏目漱石に物集姉妹の世話を依頼した。以後は漱石門下の作家として、本名や「岩田由美」、「岩田百合子」の名義で『兄』、『生家』、『母』などの小説を発表した(1909年 - 1912年)。
鳥居 維(とりい つな、1886年4月11日 - 1966年… 鳥居 維(とりい つな、1886年4月11日 - 1966年9月14日)は、日本のヴァイオリニスト、作曲家、音楽教師。 愛知県出身。1906年7月に東京音楽学校本科器楽部を卒業。1909年9月に同校研究科器楽部ヴァイオリン専攻を修了した。安藤幸とアレクサンドル・モギレフスキーに師事。1906年9月から1944年3月まで東京音楽学校の器楽部ヴァイオリン専攻の音楽教師を務め、1912年4月に教務嘱託、1919年4月に講師、1929年6月に助教授、1934年11月に教授となった。1930年から1941年まで同校管弦楽部員(ヴァイオリン)。大日本作曲家協会員および大日本音楽協会員。 邦楽に通じ、三味線楽譜の著作がある。
高木 義人(たかぎ よしと、1886年(明治19年)4月10… 高木 義人(たかぎ よしと、1886年(明治19年)4月10日 - 1956年(昭和31年)8月15日)は、日本の政治家、陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。政治家としては衆議院議員を歴任した。長野県出身。陸士19期、陸大26期。 長野県南安曇郡高家村(現在の安曇野市)出身。松本中学を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官。1914年(大正3年)には陸軍大学校(26期)を卒業した。浦塩派遣軍参謀、参謀本部員、第14師団参謀、第6師団参謀、台湾歩兵第1連隊大隊長、奉天独立守備第2大隊長、福井連隊区司令官、歩兵第26連隊長、第8師団参謀長、歩兵第39旅団長などを歴任し、1938年(昭和13年)7月15日には留守第2師団長に就任し、1939年(昭和14年)3月9日陸軍中将に進級した。
横田 清蔵(よこた せいぞう、1886年4月7日 - 196… 横田 清蔵(よこた せいぞう、1886年4月7日 - 1964年6月11日)は、日本の政治家。元衆議院議員(1期)。 千葉県出身。1907年、千葉県師範学校卒業。千葉県会議員、同議長、飯岡町(現在の旭市)長、千葉県町村長会長、飯岡信用購買販売組合長、千葉県農業会監事、飯岡町農業会長、飯岡農業協同組合長を歴任した。 1946年の第22回衆議院議員総選挙において千葉県から日本自由党公認で立候補して当選。衆議院議員を1期務めた。次の1947年の第23回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1964年死去。
榊原 弥生(さかきばら やよい、1886年〈明治19年〉4月… 榊原 弥生(さかきばら やよい、1886年〈明治19年〉4月7日 - 1935年〈昭和10年〉4月19日)は、日本の婦人運動家。大正デモクラシーの時期の京都で、市民的な女性運動が盛んになった際に、その中心となって諸運動の連携に尽力した人物である。山形県鶴岡出身、明治女学校専攻科卒業。従兄弟に聖書学者の黒崎幸吉がいる。 1886年(明治19年)に誕生した。東京の明治女学校卒業を経て、熊本女学校や東京女子商業学校など、日本各地の女学校に教員として勤めた。兄の仕事の関係で、満州でも教鞭をとった。 1919年(大正8年)7月、当時の京都大学教授の厨川白村の勧めで、厨川の妻や中外日報記者ら女性たちと共に、知的階級女性による文化団体「京都PL会」を結成した。
石丸 梧平(いしまる ごへい、1886年4月5日 - 196… 石丸 梧平(いしまる ごへい、1886年4月5日 - 1969年4月8日)は、日本の宗教家、小説家。 大阪府生まれ。号を梅外。茨木中学校(現茨木高等学校)卒。早稲田大学高等師範部歴史地理科卒業後、教員となる。その後小説など執筆活動を始め、青年に対する教育的・啓蒙的なものを多く書いた。雑誌『人生創造』を刊行し、花園大学客員教授などを務めた。川端康成は若いころ梧平の影響下にあった。妻の石丸喜世子も評論家として活動した。
服部 嘉香(はっとり よしか、1886年(明治19年)4月4… 服部 嘉香(はっとり よしか、1886年(明治19年)4月4日 - 1975年(昭和50年)5月10日)は、日本の詩人・歌人・国語学者。 東京市日本橋区浜町の旧松山藩主久松家邸内で生まれた。愛媛県士族・服部嘉陳の長男。父の嘉陳は松山藩士・藤野正久の次男で、服部家を継いだ。 1889年(明治22年)に父の故郷である松山に移る。その後間もなく父が病没したため、叔父藤野漸の下で養育される。松山中学校を卒業後、1904年(明治37年)に再び上京して早稲田大学に入学。1908年(明治41年)、大学部文学科英文学科を卒業。同級生に北原白秋・三木露風・若山牧水・土岐善麿などがいた。中学時代から雑誌『少年世界』『中学世界』などに新体詩を投稿していたが、早大進学によって詩壇での活動はより活発になる。
平林 広人(ひらばやし ひろんど、1886年4月3日 - 1… 平林 広人(ひらばやし ひろんど、1886年4月3日 - 1986年2月21日)は、日本の児童文学翻訳家。デンマーク文学者。アンデルセンの研究で知られる。
大宮 庫吉(おおみや くらきち 1886年(明治19年)4月… 大宮 庫吉(おおみや くらきち 1886年(明治19年)4月1日 - 1972年(昭和47年)1月19日)は、大正・昭和時代の日本の実業家。寳酒造を日本有数の酒造会社にした宝酒造中興の祖。愛媛県宇和島市出身。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
首藤 今四郎(すとう いましろう、1886年〈明治19年〉4… 首藤 今四郎(すとう いましろう、1886年〈明治19年〉4月 - 1970年〈昭和45年〉4月7日)は、日本の政治家。大分県日田市長。 大分県大分郡戸次町(現在の大分市)生まれ。1907年(明治40年)、大分県巡査となった。1914年(大正3年)、文官普通試験に合格し、大分県警部となった。1915年(大正4年)、日田警察署長となった。その後、臼杵、四日市(現・宇佐署)、別府の各署長を歴任した。1924年(大正13年)、宇佐郡長となる。1928年(昭和3年)10月3日、日田郡日田町長に就任。1935年(昭和10年)、大分県会議員となる。1936年(昭和11年)10月2日に町長を退任した。県議在任中の1940年(昭和15年)日田市が発足、翌1941年(昭和16年)3月18日に初代日田市長に就任した。
金子 廉次郎(かねこ れんじろう、旧姓:山口、1886年〈明… 金子 廉次郎(かねこ れんじろう、旧姓:山口、1886年〈明治19年〉3月31日 - 1945年〈昭和20年〉7月23日)は、日本の内科学者、内科医。医学博士。九州帝国大学名誉教授。「日本脳炎」という名称の元になった症例を学会に報告した。 新潟県南蒲原郡猪子場新田(現 三条市猪子場新田)の素封家・山口新次郎の長男に生まれた。 1904年(明治37年)3月に新潟中学校を卒業、1907年(明治40年)7月に第三高等学校を卒業、新潟県南蒲原郡大面村大字蔵内(現 三条市蔵内)の大面村初代村長の金子正次の婿養子になった。 1907年(明治40年)9月に京都帝国大学福岡医科大学医学科に入学、1911年(明治44年)11月に九州帝国大学医科大学を優等で卒業、恩賜の銀時計を下賜された。
堀内 謙介(ほりのうち けんすけ、1886年〈明治19年〉3… 堀内 謙介(ほりのうち けんすけ、1886年〈明治19年〉3月30日 - 1979年〈昭和54年〉11月1日)は、日本の外交官。1930年代後半に外務次官及び駐米大使、戦後は駐中華民国(台湾)大使を務めた。 兵庫県多紀郡篠山町(のち丹波篠山市)にて旧篠山藩士堀内令順の次男として生まれる。私立尋常中学鳳鳴義塾、旧制山口高等学校、第一高等学校を経て、1910年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。東京帝大在学中の1909年に文官高等試験合格、さらに1911年10月の外交官及領事官試験に合格(同期は重光葵・芦田均・縫田栄四郎・栗野昇太郎・村上義温・酒匂秀一・桑島主計)、翌11月に外交官補に任じられ清国在勤を命じられた。
大中 肇(おおなか はじめ、1886年3月28日 - 195… 大中 肇(おおなか はじめ、1886年3月28日 - 1950年9月15日)は、日本の建築家。熊本県天草郡楠浦村(現・天草市楠浦町)出身。 福岡県立工業学校建築科(現・福岡県立福岡工業高校)卒業。愛知県刈谷市を中心とする西三河地方で活躍し、建築学者の瀬口哲夫は大中を「タウンアーキテクト」と称している。代表作として亀城尋常高等小学校本館(現・刈谷市郷土資料館、登録有形文化財)がある。 1886年(明治19年)3月28日、熊本県の天草諸島にある天草郡楠浦村(現・天草市楠浦町)に生まれた。父親は大中清八、母親はキヨであり、肇は長男だった。大中家は肇の教育面を考えて、八代海の対岸にある鹿児島県出水郡中出水村下鯖渕(現・出水市下鯖町)に移住した。
赤塚 五郎(あかつか ごろう、1886年〈明治19年〉3月2… 赤塚 五郎(あかつか ごろう、1886年〈明治19年〉3月27日 - 1935年〈昭和10年〉3月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 新潟県西蒲原郡、のちの松長村(現燕市)出身。上京し、神田区会議員、東京府会議員、同議長、神田区信用組合長となる。 1928年の第17回衆議院議員総選挙において東京2区から立憲民政党公認で立候補したが次点で落選。1930年の第17回衆議院議員総選挙で立候補してトップ当選し、衆議院議員を1期務めた。1932年の第18回衆議院議員総選挙では次点で落選した。1935年死去。
大和田 愛羅(おおわだ あいら、1886年3月24日 - 1… 大和田 愛羅(おおわだ あいら、1886年3月24日 - 1962年8月11日)は、日本の音楽家、声楽家、教育家。 東京府東京市牛込区牛込下宮比町(現在の東京都新宿区下宮比町)で医師の長男として生まれる。父親が若くして亡くなったため新潟県村上市の祖父のもとで育てられ、新潟師範学校付属小学校、新潟県中学校を経て東京音楽学校声楽科に入学。卒業後は東京府立女子師範学校、東京府立第二高等女学校の教諭となる。1938年4月には第6回日本音楽コンクールの審査員を務めている。 第二次世界大戦後は上野学園大学の教授に就任。明治大学、東京慈恵会医科大学、国立音楽学校、東洋音楽学校などでも学生の指導にあたった。 第二次世界大戦以前の童謡や学校唱歌を多数作曲したほか、新潟県内を中心に学校校歌の作曲を手掛けた。
平野 運平(ひらの うんぺい、1886年3月23日 - 19… 平野 運平(ひらの うんぺい、1886年3月23日 - 1919年2月6日)は、旧名を「榛葉」という、ブラジル移民の先駆者として働き「ブラジル移民の父」と称された明治・大正期の海外開拓家である。 平野運平は1886年3月23日に現在の掛川市にあたる静岡県小笠郡栗本村で生まれた、榛葉健蔵の三男である。 同氏は、掛川中を卒業したのち、義兄の平野家に入籍したのち、同氏は東京外国語学校大西語科を卒業した。 1908年4月28日には神戸港より笠戸丸に乗船して出発した第1回ブラジル移民の笠戸丸移民に通訳五人衆の一人として同行し、シベリア経由での50日余の航海ののち、1908年6月18日にサンパウロ州のサントス港に入港した。
吉村 萬治郎(よしむら まんじろう、1886年(明治19年)… 吉村 萬治郎(よしむら まんじろう、1886年(明治19年)3月22日 - 1969年(昭和44年)5月23日)は、古河合名会社(古河財閥)副総帥、古河鉱業(現在の古河機械金属)社長、富士通信機製造(現在の富士通)創業者・初代社長。古河財閥創始者・古河市兵衛の大甥(兄弟姉妹の孫のこと)。 京都府生まれ。古河市兵衛の大甥であり、市兵衛の実兄(木村万治郎)の孫に当たる。父親は木村長兵衞。古河家親族の中川末吉らと共に財閥解体まで古河財閥の要職を歴任した。古河財閥総帥の古河虎之助は義兄(妻の兄)。
福永 挽歌(ふくなが ばんか、1886年3月22日 - 19… 福永 挽歌(ふくなが ばんか、1886年3月22日 - 1936年5月5日)は、福井県出身の詩人、小説家、翻訳家。本名は渙(きよし)。別号に冬浦。早稲田大学卒業。東京日日新聞、万朝報などの記者を務め、のち日本女子高等学院などで教職に就いた。南アジア研究者の福永正明は、大甥である。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
鈴木 良治(すずき りょうじ、1886年〈明治19年〉3月2… 鈴木 良治(すずき りょうじ、1886年〈明治19年〉3月20日 - 1931年〈昭和6年〉8月9日)は、日本の洋画家。 新潟県中蒲原郡亀田町大字稲葉(現 新潟市江南区稲葉)出身。1906年(明治39年)3月に新潟中学校を卒業、1911年(明治44年)3月に東京美術学校西洋画科を卒業。 1912年(明治45年)に東京美術学校の同期の大野隆徳、小寺健吉、富田温一郎、山口亮一、横井礼一らと12人で赤甕会を結成、時事新報社に勤務する傍ら油彩画の制作を続け、1914年(大正3年)の第8回文展で『靜物』が初入選、以後、文展、帝展、光風会展、新光洋画会展などに作品を発表し続け、1918年(大正7年)の第6回光風会展で『手袋の女』および『靜物』により最高賞である今村奨励賞を受賞。
大森 玉木(おおもり たまき、1886年(明治19年)3月2… 大森 玉木(おおもり たまき、1886年(明治19年)3月20日 - 1964年(昭和39年)2月19日)は、日本の政治家、興行師。衆議院議員(6期)、石川県議会議員。 石川県鹿島郡七尾町(現在の七尾市)生まれ。西湊村尋常小学校卒業。 当初は大相撲に入り、雷部屋に入門したが、間もなく廃業。その後は帰郷し、草相撲で活動。四股名は最初は「玉椿」と名乗り、その後「唐戸山」と改め、大関まで上がった。のちに興行師として活躍。1930年(昭和5年)、浅草公園六区で安来節を上演していた御園座を改築し、玉木座を開業。チェロ奏者だった佐々木千里を支配人として経営を任せる一方、劇団プペ・ダンサントを発足させて榎本健一などが活躍した。
原 石鼎(はら せきてい、1886年3月19日 - 1951… 原 石鼎(はら せきてい、1886年3月19日 - 1951年12月20日)は、島根県出身の俳人。高浜虚子に師事、「鹿火屋」を創刊・主宰。大正期の「ホトトギス」を代表する作家の一人で、色彩感覚に優れたみずみずしい作風で一世を風靡した。本名は原 鼎(はら かなえ)。初号・鉄鼎。別号・ひぐらし。 簸川郡塩冶村(現出雲市)の医師の家に三男として生まれ、県立簸川中学校(現在の島根県立大社高等学校)に入学。教員として大町桂月がいた。2年のときに『山陰新報』課題句に投句し入選。5年生の時、新任教員であった俳人の竹村秋竹の家に寄宿し、秋竹の影響を受け俳句、短歌を初めとする文学活動に熱中。『国文学』に俳句、短歌、文を投稿ししばしば入選した(俳句は河東碧梧桐、歌・文は金子薫園選)。
遠藤 柳作(えんどう りゅうさく、1886年〈明治19年〉3… 遠藤 柳作(えんどう りゅうさく、1886年〈明治19年〉3月18日 - 1963年〈昭和38年〉9月18日)は、日本の政治家、官僚、実業家、弁護士。衆議院議員。貴族院議員。参議院議員。武蔵野銀行初代頭取。 埼玉県葛飾郡千塚村(北葛飾郡行幸村、幸手町を経て現幸手市)生まれ。遠藤幸五郎の二男。第二高等学校を経て、1910年、東京帝国大学法科大学独法科を卒業後、文官高等試験に合格し、内務省に入る。朝鮮総督府に入り試補、同書記官、同秘書官を務めた。1920年、東京府産業部長、次いで千葉県内務部長、青森・三重県知事を歴任した。 1928年、埼玉3区から立憲政友会に属して衆議院議員となった。弁護士を開業し、武蔵野鉄道会社社長に就任。
金森 徳次郎(かなもり とくじろう、1886年〈明治19年〉… 金森 徳次郎(かなもり とくじろう、1886年〈明治19年〉3月17日 - 1959年〈昭和34年〉6月16日)は、日本の大蔵・法制官僚、政治家、憲法学者。岡田内閣の法制局長官、第1次吉田内閣の憲法担当国務大臣。初代国立国会図書館長も務めた。 愛知県名古屋市生まれ。愛知一中、旧制一高を経て、1912年(明治45年)東京帝国大学法科大学を卒業。文官高等試験行政科試験に合格し大蔵省に入省、税務監督局属兼大蔵属。 1914年(大正3年)法制局に移り、法制局参事官、第一部長を歴任。この間、大学で法学、憲法学を講じ、『帝国憲法要説』等を著わした。1934年(昭和9年)岡田啓介内閣の法制局長官に就任するが、在任中に法制局長官就任以前の著作『帝国憲法要説』が天皇機関説的であるという理由で右翼勢力から攻撃を受け、1936年(昭和11年)辞任に追い込まれた。
平田 紀一(ひらた きいち / のりかず、1886年〈明治1… 平田 紀一(ひらた きいち / のりかず、1886年〈明治19年〉3月17日 - 1938年〈昭和13年〉5月28日)は、日本の官僚。山梨県知事、群馬県知事、富山市長を歴任した。 現在の福島県会津美里町出身。三高を経て1911年(明治44年)に東京帝国大学を卒業。法科大学法律学科(独法)の同期生に石坂泰三、重光葵、正力松太郎などがいる。同年に高等文官試験に合格し、内務省に入省した。 平田の官歴は茨城県属に始まり、警視として富山県で警務課長、衛生課長を務める。富山はおよそ20年後に市長に迎えられる地であった。大阪府理事官、同工場課長を経て、米国出張。鎌田栄吉、河原田稼吉らと国際労働会議に参加した。
池田 亮次(いけだ りょうじ、1886年〈明治19年〉3月1… 池田 亮次(いけだ りょうじ、1886年〈明治19年〉3月16日 - 1972年〈昭和47年〉3月28日)は日本の研究者・実業家である。日立製作所常務。後、第二次世界大戦中の統制会理事長。日本エレベーター(現:日本ケーブル)代表取締役。広島県福山市出身。 1886年(明治19年)、広島県深安郡山野村(現:福山市)で生まれる。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、1905年(明治38年)第六高等学校二部乙類に進学、1909年(明治42年)6月、同校を卒業し、東京帝国大学工学部電気科へ進学した。1912年(明治45年)同大学を卒業後、日立製作所へ就職した。 帝大卒業後、日立製作所へ入社したが、これは当時、創業したばかりの日立製作所(創業:1910年・明治43年)の社長であった小平浪平の影響が大きかった。