岡崎 次郎(おかざき じろう、男性、1904年〈明治37年〉… 岡崎 次郎(おかざき じろう、男性、1904年〈明治37年〉6月29日 - 1984年〈昭和59年〉9月30日以降?)は、日本のマルクス経済学者、翻訳家。マルクスの大著『資本論』の翻訳で知られる。 北海道江差生まれ。第一高等学校を経て、1927年(昭和2年)に東京帝国大学文学部、1929年(昭和4年)に同経済学部を卒業。戦後、1950年(昭和25年)より九州大学教養部教授。ついで法政大学経済学部教授となる。1968年(昭和43年)法政大学教授を辞任、以降は著述業に専念した。 1983年(昭和58年)に青土社から出版した『マルクスに凭()れて六十年 自嘲生涯記』という自伝で向坂逸郎を批判。本書を友人・知人らに献本し、さりげなく別れの会を持った岡崎は、「これから西の方へ行く」という言葉を残して、80歳となる直前の翌1984年(昭和59年)6月6日からクニ夫人とともに死出の旅に出た。
内田 鐡衛(うちだ てつえ、1904年(明治37年)6月29… 内田 鐡衛(うちだ てつえ、1904年(明治37年)6月29日 - 1996年(平成8年)2月18日)は、日本の技術者、実業家、経営者、株式会社コロナ創業者。内田力は長男。 1904年(明治37年)新潟県三条市に生まれる。電機学校(現・東京電機大学)卒業後、20歳の時には逓信省電気事業主任技術者の資格を取得。その技術と知識を生かすべく富山電気(現・北陸電力)へ入社。 入社後4年程で、父に呼び戻され家業であるガソリンコンロの販売を手伝うようになる。家業は順調に進み、販売や修理を通して、燃焼効率や操作性などコンロの様々な改良点を発見した鐡衛は、徐々に自分のアイデアを活かしたコンロを自らの手で作り上げたいという思いを強めていく。
山口 左右平(やまぐち そうへい、1904年(明治37年)6… 山口 左右平(やまぐち そうへい、1904年(明治37年)6月28日 - 1949年(昭和24年)3月26日)は、昭和時代前期の政治家。衆議院議員(1期)。 神奈川県中郡高部屋村上糟屋(伊勢原町を経て現伊勢原市)に生まれる。1930年(昭和5年)京都帝国大学経済学部を卒業する。農業を営む傍ら、産業組合中央会に奉職し、同総務部企画課長、文書課長、満州国開拓協力協議会幹事、農林省委員などを歴任した。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙では神奈川県第3区から翼賛政治体制協議会推薦で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。戦後、公職追放となった。
水野 勝邦(みずの かつくに、1904年〈明治37年〉6月2… 水野 勝邦(みずの かつくに、1904年〈明治37年〉6月27日 - 1988年〈昭和63年〉1月12日)は、日本の華族(子爵)・政治家・中国研究者。水野家(旧結城藩)第19代当主。旧名は邦で、1924年(大正13年)11月26日、勝邦に改名した。 1928年(昭和3年)に学習院を卒業、東京帝国大学文学部に進学して中国に関する研究を行った。外務省派遣中華民国調査員、専修大学講師、外務省在支特別研究員、北支那開発会社調査局嘱託などを歴任。北平(現在の北京)に「水野公館」を開設し日中外交に携わると共に、中国各地を調査し多くの報告書、論文を執筆した。 1939年(昭和14年)7月10日に貴族院子爵議員に選出され、院内会派研究会所属し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
柴生田 稔(しぼうた みのる、1904年6月26日 - 19… 柴生田 稔(しぼうた みのる、1904年6月26日 - 1991年8月20日)は、日本の歌人、国文学者。
滝口 征夫(たきぐち ゆきお、1904年6月26日 - 19… 滝口 征夫(たきぐち ゆきお、1904年6月26日 - 1967年11月17日)は、日本の経営者。 広島県広島市出身。1926年に慶応義塾大学法学部を卒業し、1927年にエヌチーエヌ製作所(現在のNTN)に入社。1949年に取締役に就任し、1956年5月に常務、1959年2月に専務を経て、1959年4月から1964年5月までに社長を務めた。 1967年11月17日、肺癌のために死去。63歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
楢崎 宗重(ならさき むねしげ、1904年6月26日 - 2… 楢崎 宗重(ならさき むねしげ、1904年6月26日 - 2001年7月18日)は、日本の美術史家、立正大学名誉教授。 佐賀県生まれ。旧制五高、東京帝国大学文学部卒業。1942年立正大学教授。1954年「近世風俗画様式史の研究」で東洋大学文学博士。1962年日本浮世絵協会を設立し理事長。1975年定年退任、名誉教授。研究活動の中で収集した美術品は、墨田区に寄贈し、現在はすみだ北斎美術館が所蔵している。
羽後響 助枩(うごひびき すけまつ、1904年6月26日 -… 羽後響 助枩(うごひびき すけまつ、1904年6月26日 - 没年不明)は、秋田県北秋田郡森吉町(現北秋田市)出身で出羽海部屋に所属した元大相撲力士。本名は武石 助松。身長167cm、体重90kg。最高位は西十両筆頭。 1921年1月初土俵、1928年1月十両昇進。十両では負け越したり休場したりと幕下に何度も落ちたりしたが、1931年1月に4回目の十両昇進で東十両7枚目に付いてから定着し、5月に西十両筆頭まで躍進した。この場所と翌10月場所で勝ち越し、次の場所での新入幕が確実とみられたが、1932年1月場所の新番付では入幕どころか1枚下の西十両2枚目にされた。番付発表当日に起きた春秋園事件に加担し、1932年1月脱退(番付上は削除、実質的最終場所は1931年10月)し、天竜三郎率いる新興力士団に加わった。
上島 明(かみじま あきら、1904年6月25日 - 198… 上島 明(かみじま あきら、1904年6月25日 - 1988年10月22日)は、日本の経営者。住友倉庫社長、会長を務めた。位階は従四位。 長野県上伊那郡伊那富村(現辰野町)出身。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1929年に東京商科大学を卒業し、同年に住友倉庫に入社。1952年11月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1965年5月に社長に就任。1970年11月に会長に就任し、1978年6月には相談役に就任。 1971年11月に藍綬褒章を受章し、1977年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1988年10月22日に心不全のため死去。84歳没。死没日付をもって正七位から従四位に進階した。
坊 秀男(ぼう ひでお、1904年〈明治37年〉6月25日 … 坊 秀男(ぼう ひでお、1904年〈明治37年〉6月25日 - 1990年〈平成2年〉8月8日)は、日本の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(11期)。財政政策に詳しく衆議院大蔵委員会理事、大蔵政務次官(第1次岸改造内閣)、自由民主党税制調査会長、厚生大臣(第44代)、大蔵大臣(第81代)などを歴任。 和歌山県伊都郡出身。旧制第六高等学校を経て、1930年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業後、都新聞、東京日日新聞記者を経て、大政翼賛会財務部副部長を務める。東日の大蔵省詰め記者時代に福田赳夫と知り合い、肝胆相照らす仲となる。1942年旧和歌山1区より翼賛政治体制協議会推薦で第21回衆議院議員総選挙に出馬するも落選する。
近藤 東(こんどう あずま、1904年〈明治37年〉6月24… 近藤 東(こんどう あずま、1904年〈明治37年〉6月24日 - 1988年〈昭和63年〉10月23日)は、日本の詩人。 1904年東京京橋に生まれる。岐阜中学時代より短歌を作り始め、15歳で窪田空穂に年少の才能を賞賛される早熟ぶりを示した。明治大学在学中に「謝肉祭」を創刊。明大卒業後、鉄道省に入り、その一方で詩作をし、春山行夫、竹内隆二、棚夏針手、佐藤一英などと交友をもった。北原白秋に認められ、「詩と音楽」「近代風景」などで新進詩人として出発。27年上海外遊。28年雑誌『詩と詩論』創刊に編集同人として参加、以後「MADAME BLANCHE」「文学」「詩法」「新領土」と戦前戦中のモダニズム詩運動の中心で活動した。
高山 忠雄(たかやま ただお、1904年6月24日 - 19… 高山 忠雄(たかやま ただお、1904年6月24日 - 1980年7月1日)は、東京都出身のサッカー選手、教育者。 東京都生まれ。御影師範附属小時代にサッカーを覚え、兵庫県立第一神戸中学校(神戸一中、現:兵庫県立神戸高等学校)時代には第1回日本フートボール優勝大会(1918年)に出場した。白洲次郎は神戸一中サッカー部の1年先輩に当たる。 1921年に神戸一中を卒業。第八高等学校を経て、東京帝国大学文学部に入学し、快足のフォワードとして活躍。1927年10月に開催された第4回明治神宮競技大会兼ア式蹴球全國優勝競技會(第7回天皇杯全日本サッカー選手権大会)に神戸一中および東京帝大の後輩にあたる若林竹雄らと共に神戸一中クラブのメンバーとして出場して大会優勝に貢献した。
谷口 吉郎(たにぐち よしろう、1904年(明治37年)6月… 谷口 吉郎(たにぐち よしろう、1904年(明治37年)6月24日 - 1979年(昭和54年)2月2日)は、昭和期の建築家である。石川県金沢市出身。
長谷川 東蔵(東藏、はせがわ とうぞう、1904年〈明治37… 長谷川 東蔵(東藏、はせがわ とうぞう、1904年〈明治37年〉6月23日 - 1963年〈昭和38年〉2月20日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、岐阜県会議長、岐阜県恵那市長。旧名・俊一。位階は従五位。勲四等瑞宝章。 岐阜県恵那郡東野村(現恵那市東野)で、長谷川藤藏、ひろ の長男として生まれる。1930年(昭和5年)東北帝国大学法文学部法律科を卒業。さらに同大大学院で学んだ。 1932年(昭和7年)11月、岐阜県会議員に選出され、同参事会員、同副議長、同議長を歴任した。1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で岐阜県全県区から日本進歩党公認で立候補(俊一名義)したが落選。
大沼 勘四郎(おおぬま かんしろう、1904年〈明治37年〉… 大沼 勘四郎(おおぬま かんしろう、1904年〈明治37年〉6月23日 - 没年不明)は、日本の造り酒屋経営者。寿虎屋酒造社長(第9代)・会長。山形県酒造組合連合会会長(第3代・3期)。山形商工会議所二号議員。沖正宗酒造株式会社監査役。
中山善三郎(なかやま ぜんざぶろう、1904年(明治37年)… 中山善三郎(なかやま ぜんざぶろう、1904年(明治37年)6月21日 - 1974年(昭和49年)1月13日)は、日本のジャーナリスト、劇作家。劇作家としての筆名は塩谷国四郎。 1904年(明治37年)秋田市本町(現在の秋田市大町)に生まれる。日本大学卒。 1927年(昭和2年)、毎日新聞社入社。日米開戦前後には、海軍徴用報道班員として鹿屋海軍航空隊に随行し、戦況などを日本に伝えた。この折の体験を基に実録「真珠湾奇襲」「不沈戦艦北へ」を執筆している(いずれも『大東亜戦史 1 太平洋編』所収)。戦後、西部本社社会部長兼地方部長、横浜支局長、東京本社連絡部長、東京本社社会部長、サンデー毎日編集長を歴任した。
小山田 七次郎(おやまだ しちじろう、1904年(明治37年… 小山田 七次郎(おやまだ しちじろう、1904年(明治37年)6月19日 - 1976年(昭和51年))は、昭和時代の政治家。青森県十和田市長。 青森県上北郡藤坂村(後の三本木市、現・十和田市)に生まれる。 貧農の7番目の末子として生まれ、小学校3年の時、一家は北海道石狩に渡る。1927年(昭和2年)盛岡高等農林学校を卒業後、農林省に出仕し、奥羽種畜牧場勤務となる。洞内小学校(現在、十和田市立)、青森師範学校教諭、上北地方事務所経済課長、五所川原農林学校長、青森県教育委員長を経て、1956年(昭和31年)10月、十和田市長に就任する。 県南内陸部の中心都市としての地位確立や北里大学の誘致に尽力した。
内野 熊一郎(うちの くまいちろう、1904年6月17日 -… 内野 熊一郎(うちの くまいちろう、1904年6月17日 - 2002年11月14日)は、漢文学者。別名、能朗(のうろう/たいろう)。 1904年、香川県三豊郡二ノ宮村で藤川家に生まれた。1929年に東京高等師範学校を卒業し、東京文理科大学漢文学科に入学。同大学を1932年に卒業した。 卒業後は、1933年より東方文化学院東京研究所研究員。1934年に内野台嶺の長女道子と結婚し、内野家の養嗣子となった。1941年に陸軍経理学校教官となり、陸軍教授。 戦後は、1951年に母校である東京文理科大学・東京教育大学助教授となった。1950年、東京文理科大学に学位論文『今古文源流型の研究』を提出して文学博士号を取得。
池田 徳真(池田 徳眞、いけだ のりざね、1904年(明治3… 池田 徳真(池田 徳眞、いけだ のりざね、1904年(明治37年)6月16日 - 1993年(平成5年)12月6日)は、因州池田家第17代当主。 侯爵池田仲博の次男として東京市麻布区市兵衛町(現在の東京都港区六本木)で生まれた。「徳」の字は大伯父にもあたる第14代当主・池田慶徳からの偏諱である。 1921年(大正10年)1月26日、横浜正金銀行頭取の原六郎夫人である登美子から、衆議院議員の根本正が訳した『日々の力』(メアリ・ダブリュー・ティレストン著)という、一日毎に聖書の一節が書いてある本をもらい、初めて聖書の聖句触れた。このことを徳眞は、自分がクリスチャンになるための主のお導きとしている。同年2月に学習院にてクリスチャンの友人から伝道されたが、信仰へは至らなかった。
下村 ひろし(しもむら ひろし、1904年6月16日 - 1… 下村 ひろし(しもむら ひろし、1904年6月16日 - 1986年4月21日)は、長崎県出身の俳人、医師。本名宏。長崎市生。長崎医科大学卒。在学中、田中田士英の指導で俳句を始める。1933年、「馬酔木」に入会し水原秋桜子に師事。1947年「棕梠(しゅろ)」を創刊・主宰。終生まで長崎で活動したと見られ、初期より異国情緒のある句を詠む。また医師として被爆者の救済に務めた経験ものちの句作に影響を及ぼした。1977年、『西陲集』により第17回俳人協会賞を受賞。句集に『石階聖母』(1963年)『西陲集』(1976年)『西陲集以後』(1988年)。
松尾 あつゆき(まつお あつゆき、1904年6月16日 - … 松尾 あつゆき(まつお あつゆき、1904年6月16日 - 1983年10月10日)は、長崎県出身の俳人。本名、敦之。 1904年(明治37年)、長崎県北松浦郡生まれ。長崎高等商業学校(旧制。現・長崎大学)卒業後、英語教師となる。在学中より自由律俳句に傾倒し、24歳のとき「層雲」に入会、荻原井泉水に師事。のち「層雲」同人、1942年層雲賞受賞。。1945年、生地長崎で原爆に遭い、家と妻、四人の子供のうち長男、次男、次女の三人を失う。11月、重症を生き延びた長女とともに佐世保市に転居、公立学校教員(地方公務員)となり、旧制 佐世保第二中学校の英語教師となる。1948年に再婚、生地を離れ長野県千曲市の高等学校に赴任した。
江崎 孝坪(えざき こうへい、1904年6月15日 - 19… 江崎 孝坪(えざき こうへい、1904年6月15日 - 1963年6月27日)は、長野県上伊那郡高遠町(現・伊那市)出身の日本画家。本名は江崎 孝平。歴史人物画を得意とした。 1904年6月15日に長野県上伊那郡高遠町(現・伊那市)に生まれ、画家を志して15歳の時に東京に出た。呉服商で図案を描いて生計を立て、日本画家の蔦谷龍岬に大和絵を学んだ。1927年(昭和2年)には第8回帝展で「晩秋」が初入選。 1933年(昭和8年)に龍岬が死去すると、今度は前田青邨に師事した。1940年(昭和15年)に大礼記念京都美術館で開催された日本画大展覧会では、「雲と防人」が大毎・東日賞を受賞。1941年(昭和16年)の第4回新文展では「撃て」が特選に選ばれた。
菅野 義丸(かんの よしまる、1904年〈明治37年〉6月1… 菅野 義丸(かんの よしまる、1904年〈明治37年〉6月14日 - 1979年〈昭和54年〉5月7日)は、日本の鉄道官僚、実業家。内閣官房副長官、国際電信電話社長。旧姓は長田。 山梨県東八代郡上曽根村(現甲府市)の長田家に生まれ、その後、菅野家に婿入りして本籍を福島県に移す。山梨県立甲府中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)を経て、検定試験に合格して、1931年3月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。1930年10月、高等試験行政科試験に合格。1931年、鉄道省に入省し仙台鉄道局書記となる。 以後、鉄道省事務官、鉄道局副参事、国際観光局事務官、大阪鉄道局運輸部長、同業務部長、運輸省大臣官房文書課長、日本国有鉄道職員局長などを歴任。
鹿島 宗二郎(かしま そうじろう、1904年(明治37年)6… 鹿島 宗二郎(かしま そうじろう、1904年(明治37年)6月13日 - 1980年(昭和55年)6月1日)は、日本の諜報員、著述家、翻訳家。別名吉田 東祐(よしだ とうすけ)。筆名高杉 三郎。 東京生まれ。東京府立第四中学校(のちの東京都立戸山高等学校)を経て、1927年に東京商科大学(のちの一橋大学)を卒業後、鉄鋼会社に入社。 共産主義を研究するため退社し、横浜専門学校(のちの神奈川大学)教授や、第一飛行学校理事も務めたが、教壇を追われたため、麹町区飯田町にて古本屋「三一書房」を立ち上げ、日本共産党に入党(中央委員会直属特別資金局B班)。 逮捕され執行猶予判決を受けるなどし、1936年に中国に渡り、秋草俊中佐や大使館付武官だった喜多誠一の発案で、大日本帝国陸軍の下、上海租界に潜入して情報網を築き、日中戦争開戦後は、和平交渉に従事した。
城 昌幸(じょう まさゆき、1904年6月10日 - 197… 城 昌幸(じょう まさゆき、1904年6月10日 - 1976年11月27日)は、日本の小説家、推理作家、詩人、編集者。本名は稲並 昌幸。 東京市神田練塀町生まれ。京華中学校4年次退学。城左門名義で詩作している。時代小説『若さま侍』シリーズは有名で、時代劇映画・ドラマ化された。江戸川乱歩は、城を「彼は人生の怪奇を宝石のやうに拾ひ歩く詩人である」と評している。またショートショートの先駆者と称される。日夏耿之介の門下。 横溝正史が創作した名探偵・金田一耕助のモデルとなった一人でもある。 1977年に東京都大田区の区立馬込図書館に旧蔵書4,750冊が寄贈され、翌1978年5月に「城昌幸記念文庫」が開設され、公開された。
栄 米治(さかえ よねじ、1904年6月10日 - 1976… 栄 米治(さかえ よねじ、1904年6月10日 - 1976年3月3日)は、北海道出身の建築家。 1904年に北海道広尾郡茂寄村(現・広尾町)で味噌製造を営む栄米蔵・ふゆ夫妻の四男として生まれ、広尾小学校を経て将来に期待を込め遊学させることとなり1916年に東京・浅草の松葉小学校に転校。 1922年に京華中学校卒業、1年浪人し1923年に東京美術学校に入学、1927年には小石川区の日本基督教団上富坂教会で結婚に向けてキリスト教の洗礼を受け、1928年に東京美術学校建築科を卒業。その後寄寓先の姪の加納春江と結婚。 東京美術学校卒業後は樺太庁に入庁し内務部土木科嘱託として建築技術者の道を歩み出す。1929年には技手に任官、大泊警察署を皮切りに10件の建築に携わる。
帯刀 貞代(たてわき さだよ、1904年6月7日 - 199… 帯刀 貞代(たてわき さだよ、1904年6月7日 - 1990年3月31日)は、日本の女性運動家、新日本婦人の会代表委員。 島根県飯石郡掛合村(現・雲南市)出身。松江高等女学校(現・島根県立松江北高等学校)卒業後の1924年に上京、織本利との結婚をきっかけに労働運動に関わる(1929年離婚)。昭和初め、全国婦人同盟や無産婦人同盟の結成に参加した。 1929年8月、東洋モスリン亀戸工場の女性労働者を主たる対象として「労働女塾」を開いた。労働者意識と女子教育を組み合わせた教育活動を行う。1930年同工場の閉鎖を巡る労働争議に参加、その後検挙と投獄を繰り返しながら執筆活動を行った。戦後も婦人解放運動に取り組んだ。
井口 新次郎(いぐち しんじろう、1904年6月7日 - 1… 井口 新次郎(いぐち しんじろう、1904年6月7日 - 1985年9月24日)は、和歌山県出身の野球選手。
佐多 忠隆(さた ただたか、1904年6月4日 - 1980… 佐多 忠隆(さた ただたか、1904年6月4日 - 1980年4月23日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)。 鹿児島県鹿児島市生まれ。同市下荒田町出身。佐多直正の次男として生まれる。後の鹿児島市長平瀬實武は、地元の小学校と学舎の2年先輩。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校を経て、1925年旧制第七高等学校造士館文科を卒業。七高時代は佐野博らとともにサークル「鶴鳴会」(かくめいかい)に参加。東大に進学し、新人会で活動。1928年東京帝国大学経済学部卒業。大学卒業後は「中央公論」などの雑誌に評論を書いていたが、1935年内閣調査局(内閣企画院の前身)に入り、次いで第2次近衛内閣のもとで企画院調査官に就任し勝間田清一、和田博雄とともに同政権の「経済新体制」の策定に関与するが、企画院事件により治安維持法違反の嫌疑で検挙、投獄された。
末広 恭雄(すえひろ やすお、1904年 6月4日 - 19… 末広 恭雄(すえひろ やすお、1904年 6月4日 - 1988年7月14日)は、日本の水産学者・随筆家・作曲家。
増田 吉郎(ますだ よしろう、1904年6月3日 - 200… 増田 吉郎(ますだ よしろう、1904年6月3日 - 2005年1月22日 )は、日本の経営者。宮崎銀行頭取を務めた。 青森県出身。1922年に函館商業学校を卒業し、同年に日本銀行に入行。1950年6月から1952年6月までに日本信用調査常務を務め、1952年8月には日向興業銀行(のちの宮崎銀行)専務に就任し、1961年10月から1975年12月までに頭取を務めた。 1974年11月には勲四等旭日小綬章を受章。 2005年1月22日、誤嚥性肺炎のために死去。100歳没。
宗村 佐信(むねむら すけのぶ、1904年(明治37年)6月… 宗村 佐信(むねむら すけのぶ、1904年(明治37年)6月3日 - 1975年(昭和50年)8月29日)は、日本の実業家、教育者である。平田紡績の5代目社長を務め、また暁学園を創設した。三重郡富洲原町(現在の三重県四日市市富洲原地区)富田一色出身。 四日市本社工場(富洲原の天ヶ須賀本町(天ヵ須賀5丁目)の紡績工場・富洲原の住吉町の善太付近の漁網工場)と富洲原周辺の三重郡川越町高松天神の川越漁網工場・志摩市の浜島疎開工場・東紀州の尾鷲市の尾鷲疎開工場以外の工場を建設して東日本地域やアフリカなど海外に進出して生産拠点が拡大した。 また1951年(昭和26年)11月に昭和天皇の(三重県)伊勢行幸の際、同じ富洲原地区の東洋紡績富田工場の視察後に平田紡績を視察した。
辰巳 浜子(たつみ はまこ、1904年5月31日 - 197… 辰巳 浜子(たつみ はまこ、1904年5月31日 - 1977年6月11日)は主婦、料理研究家。日本の料理研究家としては草分け的存在であったが、本人は料理研究家と呼ばれることを嫌い、自らを主婦であるとしていた。本名は辰巳ハマ。東京都千代田区神田錦町生まれ。長女の辰巳芳子も料理研究家、随筆家として知られる。 浜子は普通の主婦であったが、家に招いた客をもてなすために作っていた料理が評判となり、雑誌やテレビに登場するようになった。料理は誰かに習ったわけではなく独学だった。食材の野菜は自ら畑を作って育てていた。一般の婦人や栄養士向けの料理講習会も行った。夫の芳雄は大成建設の常務取締役。長女の芳子は病を得て学究の道を断念した後に母と同じ料理研究家の道を選び、浜子の著書『手しおにかけた私の料理』が1992年に復刊された際に解説を加えている。
北條 秀一(北条、ほうじょう しゅういち / ひでいち、19… 北條 秀一(北条、ほうじょう しゅういち / ひでいち、1904年(明治37年)5月31日 - 1992年(平成4年)8月23日)は、日本の実業家、政治家、郷土史家。引揚者団体全国連合会理事長、参議院議員(1期)、衆議院議員(1期)、日本国有鉄道顧問。 兵庫県城崎郡竹野村(現豊岡市竹野町竹野)の宮大工の家に生まれる。竹野小学校を経て、1924年神戸商業学校を卒業し、東京商科大学(現一橋大学)予科に入学。大学では自治組織の一橋会総務理事を務めたが、1929年に大山郁夫へ献金を行ったとして逮捕された。1930年大学卒業。同年南満洲鉄道に入社。1932年、満鉄調査部経済調査会に配属される。参与兼総務課長を経て、理事に就任。
後藤 悦治(ごとう えつじ、1904年(明治37年)5月31… 後藤 悦治(ごとう えつじ、1904年(明治37年)5月31日 - 1980年(昭和55年)9月28日)は、大正末から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 兵庫県有馬郡中野村(広野村、三田町を経て現三田市)で生まれる。尼崎実業補習学校英語科、同商業科で学び、1921年(大正10年)に卒業した。 家業の米穀商を継承。直木三十五に師事して創作活動を行う。日本硝子釦工業社長、旭商会取締役会長、昭和化学取締役会長、近畿サルベージ社長、後藤産業社長、後藤建設社長、全国釦工業組合理事長、トヨタオート阪神社長、(株)「紙ふうせん」監査役、尼崎商工会議所常議員などを務めた。 政界では、尼崎市会議員(1932年-1939年)、兵庫県会議員(1939年-1947年)を務め、同県参事会員にも在任した。
尾崎 喜左雄(おざき きさお、1904年〈明治37年〉5月3… 尾崎 喜左雄(おざき きさお、1904年〈明治37年〉5月30日 - 昭和53年〈1978年〉1月4日)は、日本の歴史学者・考古学者。主に群馬県で古墳の調査を行い、群馬県の考古学の礎を築いた。文学博士、群馬大学名誉教授。 1904年(明治37年)、神奈川県足柄上郡川村(現・山北町)に生まれる。1923年(大正12年)神奈川県立第一横浜中学校(現・神奈川県立希望ケ丘高等学校)を卒業。1926年(大正15年)日本メソヂスト静岡教会で受洗。同年静岡高等学校卒業後、東北帝国大学法文学部に入学するも中退。1930年(昭和5年)九州帝国大学法文学部を卒業(法学士)。1932年(昭和7年)近衛砲兵大隊に入隊し工兵科幹部候補生となるが同年除隊し予備役となる。
菅 太郎(かん たろう、1904年(明治37年)5月30日 … 菅 太郎(かん たろう、1904年(明治37年)5月30日 - 1980年(昭和55年)1月11日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員(5期)。 愛媛県松山市出身、東京帝国大学法学部卒業。戦前は内務省の革新官僚の一人で、内務事務官や企画院調査官を務めた他、1936年12月より一時期は満洲国総務庁に配属されている。また1941年に発足した大日本翼賛壮年団の訓練部長や理事に就任した(1943年まで)。 戦後、公職追放となり、1952年に追放解除。同年の第25回衆議院議員総選挙で改進党から愛媛県第1区より初当選。1953年の第26回衆議院議員総選挙では落選した。その後も当選と落選を繰り返し、1955年の第27回衆議院議員総選挙で日本民主党から2度目の当選を果たし、同年の保守合同(自由民主党結党)に参加。
蓮實 重康(はすみ しげやす、1904年5月30日 - 19… 蓮實 重康(はすみ しげやす、1904年5月30日 - 1979年1月11日)は、日本美術史学者、元京都大学教授。東京市麻布生まれ。
李 在鶴(イ・ジェハク、朝鮮語: 이재학、1904年5月30… 李 在鶴(イ・ジェハク、朝鮮語: 이재학、1904年5月30日または5月31日 - 1973年11月23日)は、日本統治時代の朝鮮の官僚、大韓民国の官僚、政治家。丹陽郡守、制憲・第2・3・4・5代韓国国会議員を歴任し、第3・4代議員在任中は国会副議長を務めた。 本貫は原州李氏。号は東恩。妻は李正守(朝鮮語版)、元国会議員の李教善(朝鮮語版)と李応善(朝鮮語版)は息子。 江原道洪川郡西面出身。1924年に京城第1高等普通学校(現・京畿高等学校)を卒業し、1929年京城帝国大学(現・ソウル大学校)法文学部卒。1938年から忠清北道学務課嘱託・視学・社会課長を務め、1944年に丹陽郡守となった。 光復後は江原道学務局長・警務局長・内務局長・知事代理・知事署理、春川農業大学(現・江原大学校)学長を経て、1948年の初代総選挙で国会議員に当選した。
杉浦 彦衛(すぎうら ひこえ、1904年(明治37年)5月2… 杉浦 彦衛(すぎうら ひこえ、1904年(明治37年)5月28日 - 1980年(昭和55年)9月13日)は、日本の政治家。愛知県安城市長(3期)、愛知県議会議員(2期)、安城町議会議員(安城市議会議員)(1期)などを歴任した。位階は従五位。 愛知県出身。福釜信用組合の前身である報恩社の設立者、杉浦彦次(ひこじ)の長男として生まれた。愛知県立安城農林高等学校卒業。1929年(昭和4年)3月、東京農業大学農学部卒業。 アメリカ合衆国農務省昆虫局嘱託、全国販売農業協同組合連合会(全販連。全国農業協同組合連合会の前身)の農畜特産課長などを務め、戦時中は海軍省兵備局からバンコクに派遣され、農作物の現地指導にあたった。
草地 貞吾(くさち ていご、1904年(明治37年)5月28… 草地 貞吾(くさち ていご、1904年(明治37年)5月28日 - 2001年(平成13年)11月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は大佐。 旧制大分県立宇佐中学校出身。陸軍士官学校第39期を卒業し、同期生の末松太平歩兵少尉とともに青森を衛戍地とする歩兵第5連隊に配属される。1936年(昭和11年)に末松歩兵大尉は、二・二六事件に連座している。 著名な同期生は、終戦時に陸軍省軍務局軍事課高級課員で戦後陸将・陸上幕僚副長となる高山信武大佐や、南方軍第2課長の矢野連大佐、第53軍参謀の大橋武夫中佐がいる。第106師団では、同期の成富政一大佐(戦死後、進級)と勤務している。 終戦時、満州にあった関東軍の作戦課主任参謀。
栗原 佑(くりはら たすく/ゆう、1904年5月26日 - … 栗原 佑(くりはら たすく/ゆう、1904年5月26日 - 1980年1月4日)は、日本の経済学者、大阪市立大学名誉教授。広島県出身。
崔 凡述(チェ・ボムスル、朝鮮語: 최범술、1904年5月2… 崔 凡述(チェ・ボムスル、朝鮮語: 최범술、1904年5月26日 - 1979年7月10日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、仏教の僧侶、教育者、政治家、茶人。制憲韓国国会議員。 俗名は英煥。堂号は錦峯、法号は暁堂(ヒョダン、효당/曉堂)。 慶尚南道昆陽郡両浦面(後の泗川郡西浦面)出身。昆陽普通学校卒業後、1916年に地元の多率寺(朝鮮語版)で出家した。1917年に海印寺の地方学林に入学した。三・一運動の時は独立宣言文を配布したため、日本の警察に逮捕された。1922年に渡日し大正大学予科を経て、1933年に同大仏教学科卒。特に1923年以降は朴烈、朴興坤、陸洪均、韓龍雲、金法麟らと「不逞鮮人社」「黒友会」「卍党」などの運動に参加して、いわゆる「朴烈事件」の大逆事件で上海への爆弾運搬役として検挙され、8か月間投獄された。
中村 英男(なかむら ひでお、1904年5月25日 - 19… 中村 英男(なかむら ひでお、1904年5月25日 - 1988年2月14日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(5期)。参議院議員(2期)。歯科医師。 現在の島根県江津市出身。旧制島根県立浜田中学校(現在の島根県立浜田高等学校)、1927年日本歯科医学専門学校卒業。卒業後は帰郷し、歯科医を開業する傍ら農民運動を指導する。戦後、日本社会党島根県連を結成し、副委員長となる。島根県議を2期務め、1952年の第25回衆議院議員総選挙で島根全県区から日本教職員組合の政治団体である日本教職員政治連盟公認で立候補して初当選。以来連続5期当選した(その後は無所属を経て左派社会党から日本社会党に入る)。1963年の第30回衆議院議員総選挙で落選。
田村 実造(たむら じつぞう、1904年5月25日 - 19… 田村 実造(たむら じつぞう、1904年5月25日 - 1999年2月24日)は、日本の東洋史学者、京都大学名誉教授、京都女子大学学長。 1904年、山口県生まれ。1929年京都帝国大学文学部史学科卒業。 1940年に京都帝国大学助教授となり、1947年に教授、文学部長を務め、1968年に定年退官する。京都女子大学学長。主著に『中国征服王朝の研究』、東洋史教科書作成にも多く参加した。1930年代に中国東北部の実地調査を行い、契丹・遼代の遺跡墳墓を発掘、契丹文字を初めて学会に紹介した。
田村 実造(たむら じつぞう、1904年5月25日 - 19… 田村 実造(たむら じつぞう、1904年5月25日 - 1999年2月24日)は、東洋史学者、京都大学名誉教授、元京都女子大学学長。
南部 忠平(なんぶ ちゅうへい、1904年〈明治37年〉5月… 南部 忠平(なんぶ ちゅうへい、1904年〈明治37年〉5月24日 - 1997年〈平成9年〉7月23日)は、日本の陸上競技選手。走幅跳および三段跳の元世界記録保持者。ロサンゼルスオリンピック陸上男子三段跳金メダリスト。位階は正五位。 北海道札幌区(現札幌市)出身。札幌中心部の狸小路商店街1丁目で酒屋「三国屋南部源蔵商店」を営んでいた南部源蔵の4男として生まれ、小学校高等科から攻玉社中学(現・攻玉社中学校・高等学校)に進学し、後に北海中学(現在の北海高等学校)へ転校する。腕白な子供であったが体はあまり強くなく、小学4年から始めた乗馬で体力を養った。北海中学3年の時に上級生にスカウトされて徒歩部(現・陸上競技部)に入部した。
宮崎 世龍(みやざき せいりゅう、1904年〈明治37年〉5… 宮崎 世龍(みやざき せいりゅう、1904年〈明治37年〉5月23日 - 1995年)は、日本のジャーナリスト。朝日新聞記者を務めた。 宮崎民蔵の子で、宮崎世民の実弟、宮崎滔天の甥に当たる。 熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校)を経て(1922年卒業)、東亜同文書院大学(当時は旧制専門学校の扱い)を卒業した。 朝日新聞社に入社し、上海通信局員として第一次上海事変を取材した。1935年には、日本人記者として初めて蔣介石と単独会見をおこなう。1943年に朝日新聞社南京支局長兼上海総局次長、1945年に上海総局長となった。 戦後は朝日新聞東京本社東亜部長、編集局次長、朝日新聞社社友などを歴任した。
鄭 準謨(チョン・ジュンモ、朝鮮語: 정준모、1904年5月… 鄭 準謨(チョン・ジュンモ、朝鮮語: 정준모、1904年5月23日 - 1978年11月26日)は、大韓民国の医師、病院経営者、陸軍軍人(陸軍少領)、政治家、実業家。保健社会部次官・長官、第3・4代韓国国会議員を歴任した。 本貫は東萊鄭氏(朝鮮語版)。漢字表記は鄭準模とも。 全羅北道(現・全北特別自治道)長水郡出身。京城薬専、平壌医専を経て、1937年京都帝国大学(現・京都大学)医学部研究科卒。1939年医学博士号取得。1928年医師試験合格。同仁外科医院経営者、ソウル医師会副会長、陸軍軍医学校校長、保健社会部次官(1952年)、高等選考委員、大韓医学協会理事、大韓赤十字社副総裁、第3代国会保社委員長、自由党中央委員、第2代保健社会部長官(1956年5月26日~1957年6月16日)を務めた。
滝口 武士(たきぐち たけし、1904年5月23日 - 19… 滝口 武士(たきぐち たけし、1904年5月23日 - 1982年5月15日)は、大分県出身の日本の詩人。 大分県東国東郡武蔵町(現:国東市)の出身。大分師範学校を卒業。 中国の大連市に渡り、安西冬衛らが大連市で創刊した詩誌『亞』に3号から参加(1924年)、3号から23号までは実質的に滝口と安西の2人で編集を行なっていた。 大連では小学校の教師をしており、生徒にはのちの詩人、清岡卓行がいた。 他に『詩と詩論』『詩聖』『日本詩人』などに作品を投稿していた。特に『亞』に発表した作品は2行詩が多く、単純で簡素な表現形式を取っていた。1933年に、『亞』に発表した作品を中心に収めた詩集『園』を発行。 1939年に帰国し、大分県で教員を勤めた。