坂西 一良(ばんざい いちろう、1891年1月26日 - 1… 坂西 一良(ばんざい いちろう、1891年1月26日 - 1946年9月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。勲一等旭日大綬章。 鳥取県日野郡黒坂村(現在の日野町)出身。陸軍三等軍医・稲田清淳の長男として生まれ、坂西利八郎陸軍中将の養嗣子となる。 米子中学校(現在の米子東高校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。同年12月、歩兵少尉任官、歩兵第10連隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍大学校(30期)を卒業。 1919年(大正8年)5月、参謀本部付勤務(ドイツ班)となり、参謀本部員、参謀本部付(ドイツ出張)などを経て、1923年(大正12年)2月から1926年(大正15年)6月までドイツ大使館付武官補佐官を務めた。
万城目 武雄(まんじょうめ たけお、1891年1月25日 -… 万城目 武雄(まんじょうめ たけお、1891年1月25日 - 1975年3月11日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。 宮城県出身。仙台第二中学校を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、歩兵少尉任官。 1938年(昭和13年)3月、歩兵大佐に昇進し独立歩兵第11大隊長となり日中戦争に出征。平定の治安維持に当った。1939年(昭和14年)8月、甲府連隊区司令官に就任。 1941年(昭和16年)1月、第1独立歩兵隊長に発令され太平洋戦争を迎えた。中国南部の諸作戦に参加。1942年(昭和17年)2月、第23軍付として広東市特別警備司令官に就任。 1944年(昭和19年)4月、南方軍付となり、同年10月、歩兵第78旅団長に発令されレイテ島の戦いに従軍。
高品 彪(たかしな たけし、1891年1月25日 - 194… 高品 彪(たかしな たけし、1891年1月25日 - 1944年7月28日)は、日本の陸軍軍人。陸士25期、陸大34期。最終階級は陸軍中将。 千葉県山武郡成東町(現・山武市成東)出身。成東中学校、立教中学校(現・立教池袋中学校・高等学校)を経て、1913年5月、陸軍士官学校(25期)を卒業、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第66連隊付となる。1922年11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。 基隆要塞参謀、歩兵第50連隊大隊長、陸軍工兵学校教官、陸士教官、近衛歩兵第4連隊付、留守第16師団参謀、歩兵第3連隊付、高雄要塞司令官、歩兵第60連隊長などを歴任し、1940年3月、陸軍少将に進級。 歩兵第27旅団長、第14歩兵団長、独立混成第17旅団長などを経て、1943年10月、陸軍中将となり第29師団長に親補された。
加藤 鑰平(かとう やくへい、1891年(明治24年)1月2… 加藤 鑰平(かとう やくへい、1891年(明治24年)1月25日 - 1974年(昭和49年)7月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 愛知県出身。竹材商・加藤直八の三男として生まれる。明倫中学校(現愛知県立明和高等学校)卒業を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第18連隊付となる。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業し歩兵第18連隊中隊長に就任。 1925年(大正14年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員を務め、1928年(昭和3年)8月、歩兵少佐に昇進。1929年(昭和4年)2月から1931年(昭和6年)2月までアメリカに駐在し、アメリカ大使館付武官補佐官に就任。
大島 喜一郎(おおしま きいちろう、1891年(明治24年)… 大島 喜一郎(おおしま きいちろう、1891年(明治24年)1月25日 - 1980年(昭和55年))は、日本の政治家。栃木県矢板市長を務めた。 矢板村幸岡に生まれる。塩谷郡書記などを経て、1944年(昭和19年)に矢板町助役に就任。1947年(昭和22年)4月から1951年(昭和26年)4月まで塩谷郡選出の栃木県議会議員を務めた。 1955年(昭和30年)2月17日、合併に伴う矢板町長選挙が行われ、大島がいずれも元矢板町長の高柳宰正と高橋保平を破り当選した。1958年(昭和33年)11月1日、矢板町の市制施行に伴い矢板市長に就任し、市長は1959年(昭和34年)2月16日まで務めた。町長および市長在任中には公共施設の整備や合併後の地域の一体化に努力した。
大志摩 孫四郎(おおしま まごしろう、1891年1月24日 … 大志摩 孫四郎(おおしま まごしろう、1891年1月24日 - 1961年4月28日)は、日本の実業家。南洋拓殖社長。 東京府赤坂区生まれ。1918年に東京帝国大学法学部政治学科卒業後、朝鮮銀行入行。 1938年東洋拓殖入社。資金主任、資金課次席、資金課長、平壌支店長、経理課長、理事を経て、1940年南洋拓殖社長。1944年南洋拓殖会長。 日本の降伏後、公職追放を経て、日本海外移住振興社長を務め、1956年から海外移住審議会委員。1961年従四位勲二等瑞宝章追贈。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
片野 重脩(かたの しげなが、1891年(明治24年)1月2… 片野 重脩(かたの しげなが、1891年(明治24年)1月21日 - 1978年(昭和53年)3月27日)は、日本の政治家。実業家。衆議院議員(2期)立憲政友会所属。秋田相互銀行、秋田銘醸、羽後交通社長などを務めた。 江戸時代は佐竹一族の戸村家の家臣であり、士族。秋田県横手町(現・横手市)出身。東京帝国大学法学部に進むも、病気のため中退し帰郷する。 1922年(大正11年)に、横手町長に就任する。翌年には、秋田県会議員選挙に出馬し当選。その後には県会議長も務めた。 1930年(昭和5年)には、衆議院選挙に出馬し当選。議員を2期にわたって務めた。その一方、秋田県の農業団体の役員も務め、農業界の実力者としても君臨した。
原 惣兵衛(はら そうべえ、1891年(明治24年)1月20… 原 惣兵衛(はら そうべえ、1891年(明治24年)1月20日 - 1950年(昭和25年)1月30日)は、衆議院議員(政友本党→立憲政友会)、姫路市長。 兵庫県赤穂郡上郡村(現上郡町)出身。父親の事業の失敗により1902年(明治35年)に大阪へ転居する。1912年(大正元年)6月、大阪の陸軍第4師団輜重兵第4大隊に入隊。在営満期で除隊。 1919年(大正8年)、日本大学専門部法律科を卒業。1920年(大正9年)に弁護士試験に合格し、東京弁護士会に所属した。1921年から1923年にかけて日本大学の海外留学生としてベルリン大学とミュンヘン大学に留学し法学・国家学を学んだ。在独中は在独日本人会常任理事を務めた。
小林 房之助(こばやし ふさのすけ、1891年(明治24年)… 小林 房之助(こばやし ふさのすけ、1891年(明治24年)1月20日 - 1986年(昭和61年)2月26日)は、大正から昭和期の著述家、実業家、政治家。衆議院議員。 大阪府大阪市で、小林市之助の四男として生まれた。1913年(大正2年)早稲田大学政治経済学科を卒業した。 大阪現株取引(株)支配人、大阪市福島商業学校講師、逓信省海運事業調査嘱託などを務め、下岡忠治が朝鮮総督府政務総監に就任した際に随行して同秘書(朝鮮総督府嘱託)となった。その他、神戸電機製作所監査役、石産製作所監査役、日本輸出農産物(株)設立委員なども務めた。 1937(昭和12年)4月の第20回衆議院議員総選挙に兵庫県第2区から立憲民政党公認で出馬して当選し、翼賛議員同盟に所属して衆議院議員に1期在任した。
中山 マサ(なかやま まさ、1891年1月19日 - 197… 中山 マサ(なかやま まさ、1891年1月19日 - 1976年10月11日)は、日本の政治家。位階は従三位。 日本初の女性閣僚(厚生大臣)。衆議院議員などを歴任。中山太郎(元衆議院議員)は長男、中山正暉(元衆議院議員)は四男。中山讓治(実業家)と中山泰秀(衆議院議員)は孫。 長崎県長崎市にアメリカ人の父ロドニー・H・パワーズ(Rodney H. Powers)と日本人の母、飯田ナカの一人娘として生まれた。 地元の活水高等女学校を卒業して、1911年にアメリカに渡り、アルバイトをしながら米国オハイオ州のオハイオ・ウェスリアン大学を卒業。帰国後は活水女子英語専門学校、長崎市立高等女学校の教師を務める。
陳望道(ちん ぼうどう、1891年1月18日 - 1977年… 陳望道(ちん ぼうどう、1891年1月18日 - 1977年10月29日)は、中国の言語学者、修辞学者、教育者。早い時期からの中国共産党員であり、「共産党宣言」を中国語に翻訳した人として知られる。 陳望道は浙江省義烏に生まれ、16歳まで私塾で伝統的な教育を受けた後、近代的な小学校にはいり直し、キリスト教系の之江大学に学んだ。 1915年に日本に留学し、早稲田大学、東洋大学、中央大学で学んだ。中央大学の法学士の学位を得た。早稲田大学では五十嵐力に修辞学を学んだ。 1919年5月に帰国し、杭州の浙江第一師範学校で国文を教えた。この時代には句読点の改良を主張し、新式標点の採用を訴えた。 翌1920年5月には陳独秀の求めに応じて上海に移り、中国共産党の前身であるマルクス主義研究会と共産主義青年団の創立にかかわった。
田中 武雄(たなか たけお、明治24年(1891年)1月17… 田中 武雄(たなか たけお、明治24年(1891年)1月17日 - 昭和41年(1966年)4月30日)は、日本の官僚。三重県出身。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
稲村 豊二郎(いなむら とよじろう、1891年〈明治24年〉… 稲村 豊二郎(いなむら とよじろう、1891年〈明治24年〉1月17日 - 1972年〈昭和47年〉1月10日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。 1891年(明治24年)に群馬県桐生市東久方町で生まれた。陸軍士官学校第26期、陸軍大学校第37期卒業。1935年(昭和10年)に関東軍参謀に就任し、1937年(昭和12年)に陸軍兵器本廠附となり、1938年(昭和13年)3月1日に陸軍歩兵大佐に進級。12月10日に第106師団参謀長に転じ、日中戦争に出動。南昌作戦で指揮を執った。 1940年(昭和15年)4月17日に留守第6師団参謀長に就任し、12月2日に陸軍少将に進級。1941年(昭和16年)8月1日に北部軍兵務部長、10月21日に駐蒙軍参謀長と歴任し、1942年(昭和17年)に樺太混成旅団長に着任した。
浅川 巧(あさかわ たくみ、1891年(明治24年)1月15… 浅川 巧(あさかわ たくみ、1891年(明治24年)1月15日 - 1931年(昭和6年)4月2日)は、朝鮮民芸・陶芸の研究家・評論家。朝鮮半島で植林事業を行う傍ら、朝鮮半島の陶磁器と木工を研究紹介した。 父・浅川如作、母・けいの次男として山梨県北巨摩郡甲村五丁田(同郡高根町五町田を経て、現在は北杜市高根町五町田)に生まれる。兄は浅川伯教。1891年(明治24年)には村山西尋常小学校に、1901年(明治34年)には秋田尋常高等学校に入学する。 1906年(明治39年)4月、山梨県立農林学校に入学、この頃に浅川政蔵と知り合う。1907年(明治40年)6月にはメソジスト甲府教会で受洗。1909年(明治42年)4月、秋田県大館営林署に就職。
土田 杏村(つちだ きょうそん、1891年(明治24年)1月… 土田 杏村(つちだ きょうそん、1891年(明治24年)1月15日 - 1934年(昭和9年)4月25日)は、日本の哲学者・評論家。大正・昭和を通じて活動した。画家の土田麦僊は兄。 新潟県佐渡郡(現:佐渡市)の生まれ。本名は茂(つとむ)。1918年7月京都帝国大学文科大学哲学専攻卒業。西田幾多郎に哲学を学ぶ。雑誌「文化」を発刊。社会問題や思想・文化・宗教など多方面にわたって、鋭い主張の論文や著述が多くある。 大正時代を代表する自由主義の評論家で、大正教養主義者の一人。哲学・教育学・経済学・文学など幅広い領域で批評活動を行った。大正自由教育運動の影響を受けて長野県や新潟県で自由大学運動を起こしたりしたが、昭和に入ると国家主義の傾向を強め、上代文学の研究をした。
大谷 武夫(おおたに たけお、1891年(明治24年)1月1… 大谷 武夫(おおたに たけお、1891年(明治24年)1月15日 - 1950年(昭和25年)8月16日)は、日本の水産学者である。 福島県に生まれ、東京帝国大学農科大学(現在の東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部)水産学科に入学する。1916年(大正5年)に卒業後は母校で教鞭を執り、1921年(大正10年)には水産講習所(現在の東京海洋大学)に転勤し同じく教授として活動した。 その後は宮崎大学の教授として活動し同時期に魚類の自己消化やその消化酵素、ビタミン、フィッシュミールといった魚類に含まれる様々な成分の研究に携わる。この業績で1928年(昭和3年)に農学博士を取得し、1932年(昭和7年)には日本水産学会の設立にも携わり後に1946年(昭和21年)まで副会長を務めた。
山崎 常吉(やまざき つねきち、1891年(明治24年)1月… 山崎 常吉(やまざき つねきち、1891年(明治24年)1月15日 - 1961年(昭和36年)1月5日)は、日本の労働運動家、政治家。衆議院議員、ブリキ職人。 高知県香美郡夜須村(現香南市)で生まれ、6歳で両親を失い、小学校を中退し高知市でブリキ屋の小僧として働く。徴兵後に大阪でブリキ職人として働いたが、喧嘩による傷害罪で8ヵ月服役し、その後名古屋に転居した。 1918年米騒動で、同年8月10日、名古屋市鶴舞公園の集会で演説を行い逮捕されたが無罪となり、これをきっかけに労働運動に加わった。名古屋労働者協会に加入し、1922年、名古屋自由労働者組合を結成し組合長に就任。1923年、名古屋麻裏工組合を結成し、麻裏工争議を指導して検挙されたが無罪となった。
森山 ヨネ(もりやま ヨネ、1891年(明治24年)1月14… 森山 ヨネ(もりやま ヨネ、1891年(明治24年)1月14日 - 1990年(平成2年)10月30日)は、政治家、衆議院議員(1期)。 福岡県久留米市出身。福岡女学校を経て奈良女子高等師範学校を卒業する。1927年栄養学を学ぶため文部省の在外研究員として米国のコロンビア大学に留学する。帰国後は鹿児島県立国分高等女学校教諭や三重県と福岡県の女子師範学校の教諭を経て、福岡県女子専門学校教授になる。その後、退職してブラジルに渡り、戦時中の1942年に帰国した。戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙では福岡県から日本進歩党公認で立候補してトップ当選した。進歩党では渉外連絡部副部長を務めた。翌年の第23回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
矢口 家治(やぐち いえはる、明治24年(1891年)1月1… 矢口 家治(やぐち いえはる、明治24年(1891年)1月14日 - 昭和48年(1973年)4月22日)は、日本の裁判官、弁護士。関西大学第一高等学校の初代校長。第11代最高裁判所長官矢口洪一の父。 矢口次郎太郎の三男。 大正6年(1917年)7月 京都帝国大学法科大学卒業。同年8月司法官試補、京都地方裁判所詰。大正9年(1920年)京都地裁判事に任官。 大正12年(1923年)文部省在外研究員としてドイツ、イギリス、フランス、アメリカに二ヵ年留学。大正14年(1925年)高岡高等商業学校教授。 昭和10年(1935年)弁護士名簿登録。長野地裁、東京控訴院を歴任。 昭和16年(1941年)関西大学専務理事に就任。
鳥海 剛(とりうみ たけし、1891年(明治24年)1月11… 鳥海 剛(とりうみ たけし、1891年(明治24年)1月11日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚、拓務官僚。 東京市中野区大和町に生まれる。岩手県立一関中学校を中途退学し、私立横浜英語学校へ入学。ついで正則英語学校分校を経て、1917年(大正6年)7月、中央大学法科専門部を卒業する。 卒業後、明治神宮造営局属外苑課経理課次、社会局属を経て、1929年(昭和4年)6月、拓務省へ転じ、1931年(昭和6年)4月、拓務理事官に進んだ。南米課勤務を経て台湾総督府属理事官に任ぜられ、1936年(昭和11年)4月に嘉義市助役、1937年(昭和12年)11月に台北州七星郡守に就任した。ついで宜蘭市長を経て、1942年(昭和17年)4月、花蓮港市長に就任した。
小野 清一郎(おの せいいちろう、1891年(明治24年)1… 小野 清一郎(おの せいいちろう、1891年(明治24年)1月10日 - 1986年(昭和61年)3月9日)は、日本の法学者・弁護士。専門は、刑法・刑事訴訟法・法哲学。学位は、法学博士。東京大学名誉教授。法務省特別顧問。日本学士院会員。勲一等瑞宝章・文化勲章受章者。岩手県盛岡市出身。盛岡小野組の一族である。 仏教の影響を受け、客観主義の法哲学・刑法理論を展開し、大場茂馬以来の後期旧派理論を継承する。戦後の刑法学会に多大な影響を与えた。東京裁判では海軍側被告人の弁護人をつとめた。親鸞に造詣の深い仏教研究者でもあった。 盛岡市で生まれる。盛岡中学校(盛岡一高の前身)卒業後、一高(東京大学教養学部の前身)独法科を首席で卒業。
竹田 復(たけだ さかえ、1891年(明治24年)1月10日… 竹田 復(たけだ さかえ、1891年(明治24年)1月10日 - 1986年(昭和61年)11月7日)は、日本の中国文学者・中国語学者。東京教育大学名誉教授。 山梨県生まれ。父は漢学者・竹田左膳。病弱なため和歌山県で小学校を終え、静岡中学校、1914年第一高等学校卒、1918年東京帝国大学文学部支那文学科卒、大学院入学、1921年から1924年北京に学ぶ。 1925年より第一高等学校教授、東京帝国大学文学部助教授を兼任。1945年に「支那口語文学源流考」で東京帝国大学文学博士を取得。1945年1月、東京文理科大学教授。1948年東京教育大学(現筑波大学)教授、1952年定年退官、東洋大学教授、1958年日本大学教授、1964年大東文化大学教授、1967年名誉教授。
辰野 保(たつの たもつ、1891年(明治24年)1月10日… 辰野 保(たつの たもつ、1891年(明治24年)1月10日 - 1938年(昭和13年)10月17日)は、日本の陸上競技選手、弁護士、政治家。 父は建築家の辰野金吾、兄はフランス文学者の辰野隆。 1891年、東京市赤坂に生まれる。旧制第一高等学校を経て東京帝国大学法学部に入学。東大在学時の1913年(大正2年)、第1回全国陸上大会において砲丸投げで9m00の記録を打ち立てて優勝する。父・金吾、兄・隆ともども相撲好きで、保はとくに強く、一高時代には出羽海部屋に通っていた。 1917年に東大法学部を卒業後、岩田宙造の法律事務所に入って実務研修する。同年、中山瑞彦の娘千代子と結婚。翌1918年に独立して弁護士を開業し、法律事務および特許関係の仕事に従事する。
阿部 正直(あべ まさなお、1891年〈明治24年〉1月9日… 阿部 正直(あべ まさなお、1891年〈明治24年〉1月9日 - 1966年〈昭和41年〉1月1日)は、日本の理学博士、気象研究所長。伯爵。 父は備後福山藩10代藩主・阿部正桓。弟は農林大臣や日本中央競馬会理事長などを歴任した酒井忠正。姉の貞子は小笠原長幹の妻。 東京生まれ。東京帝国大学理学部卒業後、雲の研究に携わり、1927年御殿場市に阿部雲気流研究所を設立、主に富士山の雲に関する研究を行った。1945年には「山雲及山の気流に関する研究」により、帝国学士院より伯爵鹿島萩麿記念賞を受賞。戦後、中央気象台を経て気象研究所長に就任した。その後は財団法人誠之舎の理事長を務め、また文京区に阿部幼稚園を設立して園長も務めた。
朝比奈 宗源(あさひな そうげん、1891年(明治24年)1… 朝比奈 宗源(あさひな そうげん、1891年(明治24年)1月9日 - 1979年(昭和54年)8月25日)は、臨済宗の禅僧。臨済宗円覚寺派管長、円覚寺住職。日本を守る会代表委員、スパイ防止法制定促進国民会議呼びかけ人なども務めた。 静岡県清水市(現在の静岡市清水区)出身。鎌倉・円覚寺住職。臨済宗円覚寺派管長。 32歳の時に日本大学宗教専門部(現存しない)卒。京都妙心寺、鎌倉円覚寺で修行。1934年~1942年まで横濱専門学校(現神奈川大学)で倫理学講師を担当、高歯の下駄で鎌倉から通った。その後、駒澤大学教授。 1942年、円覚寺住職。1945年、円覚寺派管長。大戦中は中国や南方で従軍布教をした。
永瀬 義郎(ながせ よしろう、1891年1月5日 - 197… 永瀬 義郎(ながせ よしろう、1891年1月5日 - 1978年3月8日)は、日本の版画家、画家。茨城県出身。大正初期の時代から昭和にかけて旺盛なる創作活動を続け、版画や油絵により、自分の信ずる「美の世界」を表現するために、様々な手法を試み社会に問い続けた。また、著書「版画を作る人へ」はその後の版画家たちへ影響を与えた。 茨城県西茨城郡北那珂村入野(現在の桜川市)に生まれる。土浦中学時代より絵画に興味を持ち始め、熊岡美彦、矢口達、高田保らと知り合う。1904年に創刊された美術雑誌『みずゑ』に水彩画を応募し、画家になることを本格的に意識し始める。東京美術学校(現在の東京藝術大学)彫刻科に入学するもすぐに中退。
浅沼 誉夫(あさぬま よしお、1891年1月5日 - 194… 浅沼 誉夫(あさぬま よしお、1891年1月5日 - 1944年1月24日)は、日本の元プロ野球監督。 旧制立教中学に在籍し、野球部(立教大学野球部の基礎)を創設。立教大学教授で聖公会の司祭でもあったハーバート・ロイドに技術的指導を受ける。その後早稲田大学商科に進み、二塁手として野球部第9代主将を務める。東京六大学野球連盟の初代首位打者。 その後、東京六大学野球リーグ戦で審判を務める。八十川ボーク事件(1931年(昭和6年)5月18日)で、騒動の発端となるボーク判定を行った試合の球審を務めたのが浅沼であった[リンク切れ][出典無効]。 1922年(大正11年)、第二高等学校(旧制二高)の野球部のコーチをする。
福澤 駒吉(ふくざわ こまきち、1891年〈明治24年〉1月… 福澤 駒吉(ふくざわ こまきち、1891年〈明治24年〉1月5日 - 1945年〈昭和20年〉3月18日)は、大正から昭和初期にかけて活動した日本の実業家である。 「電力王」と呼ばれた実業家福澤桃介の長男で、福澤諭吉の孫にあたる。父の電気事業に参加し矢作水力社長などを務めたほか、化学工業を起して東亞合成化学工業(現・東亞合成)初代社長となった。 福澤駒吉は1891年(明治24年)1月5日、福澤桃介(旧姓・岩崎、福澤家に婿入り)の長男として生まれた。母は福澤諭吉次女の房(ふさ)。当時桃介は北海道で炭鉱と鉄道を経営する北海道炭礦鉄道(北炭、後の北海道炭礦汽船)に勤めており、房を連れて札幌へと赴任していたが、出産にあたって東京に帰ったため、駒吉は東京三田の諭吉邸で生まれた。
小野沢 勝太郎(おのざわ かつたろう、1891年〈明治24年… 小野沢 勝太郎(おのざわ かつたろう、1891年〈明治24年〉1月5日 - 1975年〈昭和50年〉3月1日)は、長野県小県郡東部町滋野原口(現・東御市)出身の実業家・政治家。小野沢興行株式会社会長。島根県議会議員(1期)。息子の小野沢明男は益田市議会議長・益田商工会所会頭。 1891年(明治24年)1月5日、長野県小県郡東部町滋野原口(現・東御市)に生まれた。父は小野沢勝次郎であり、勝太郎は5人兄弟の長男だった。小野沢家は規模の小さな農家であり、小野沢は小学校に4年間しか通っていない。 16歳の時には家出して東京に出た。まずは専売局の下請け工場に務めたが、新聞配達、牛乳配達、土方人夫と様々な職業を転々とした。
登坂 良作(とさか りょうさく、1891年(明治24年)1月… 登坂 良作(とさか りょうさく、1891年(明治24年)1月4日 - 1982年(昭和57年)11月11日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員、官選函館市長。 新潟県北蒲原郡新発田町(現在の新発田市)立売町で登坂岩内の四男として生まれる。新潟県立新発田中学校、第二高等学校を経て、1917年4月、東京帝国大学法科大学(英法)を卒業。義兄堤清六が経営する堤商会(後のニチロ)に入って北洋漁業に携わりロシア帝国カムチャツカ州、千島列島に渡航した。 1918年12月、函館区で弁護士を開業。以後、函館市会議員、同議長、北海道会議員、同参事会員、(財) 相馬報恩会理事長、全国人権擁護委員会連合会理事などを務めた。
土屋 耕二(つちや こうじ、1891年(明治24年)1月4日… 土屋 耕二(つちや こうじ、1891年(明治24年)1月4日 - 1947年(昭和22年)10月11日)は、日本の内務官僚。印刷局長。 千葉県夷隅郡長者町(現在のいすみ市)出身。1915年(大正4年)10月、文官高等試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。北海道庁理事官、広島県理事官、広島県書記官・学務部長、石川県書記官・警察部長、長野県書記官・警察部長を歴任。 1928年(昭和3年)、内閣印刷局書記官・総務部長に転じ、1936年(昭和11年)には内閣印刷局長に就任した。1943年(昭和18年)に内閣印刷局は大蔵省印刷局に改組されたが、引き続き局長を務めた。退官後は日本銀行監事を務めたが、戦後に公職追放となった。
笠井 藍水(かさい らんすい、1891年(明治24年)1月3… 笠井 藍水(かさい らんすい、1891年(明治24年)1月3日 - 1974年(昭和49年)11月15日)は、日本の歴史家・郷土史家。徳島県の郷土史研究や各市町村史編纂の基盤確立に大きな役割を果たした。本名は笠井(吉田) 高三郎(かさい(よしだ) たかさぶろう)。 1891年1月3日、徳島県美馬郡脇町に笠井量平の三男として生まれる。 1909年、早稲田中学校を卒業する。卒業後、水彩画講習所でデッサンの勉強をしていたが、家族の要請により、1910年に脇町に帰郷する。 1913年8月23日、脇町収入役に就任し、『美馬郡郷土誌』編纂のために美馬郡教育会嘱託を兼任する。1915年10月19日、辞任する。
広瀬 与兵衛(廣瀬 與兵衞、ひろせ よへえ、1891年(明治… 広瀬 与兵衛(廣瀬 與兵衞、ひろせ よへえ、1891年(明治24年)1月3日 - 1966年(昭和41年)6月5日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。旧姓は長谷川、旧名は勉。 神奈川県で長谷川豊吉の六男として生まれ、東京府の薪炭商、先代・広瀬与兵衛の養子となる。中央大学を修了。1926年(大正15年)に家督を継承し与兵衛を襲名して家業の薪炭商を経営した。 東京都燃料卸商業組合理事長、同燃料配給統制組合理事長、全国燃料団体連合会長、日本薪炭社長、ほまれ鋳物社長、中野木材工業社長、東京燃料林産取締役会長、千代田製鉄取締役会長、中央倉庫取締役、神田錦町町会長、東京商工会議所議員、商工組合中央会理事、同中央金庫評議員などを務めた。
阿部 余四男(あべ よしお、1891年〈明治24年〉1月3日… 阿部 余四男(あべ よしお、1891年〈明治24年〉1月3日 - 1960年〈昭和35年〉4月22日)は、日本の動物学者。広島大学名誉教授。 哲学者・美学者の阿部次郎、陸軍軍人・実業家の堀三也は兄。歴史学者の竹岡勝也は弟。動物生態学者の阿部襄は甥。 1891年(明治24年)山形県飽海郡上郷村(現・酒田市)大字山寺で、教師をしていた父・阿部富太郎と医師の娘であった母・ゆきの四男として生まれる。 旧制・山形県立山形中学校、旧制・第二高等学校を経て、東京帝国大学理科大学で渡瀬庄三郎教授のもとで学び、1916年(大正5年)同動物学科を卒業し、同理学部嘱託、ヨーロッパ留学をへて、第二高等学校および広島高等師範学校教授を歴任し、1929年(昭和4年)広島文理科大学(現・広島大学)教授となる。
川上 三太郎(かわかみ さんたろう、1891年1月3日 - … 川上 三太郎(かわかみ さんたろう、1891年1月3日 - 1968年12月26日)は、日本の川柳作家。「川柳六大家」の一人。東京の日本橋出身。本名は幾次郎、別号は蒼蒼亭(そうそうてい)、S・S・T。 東京市日本橋区蠣殻町(現在の東京都中央区日本橋蛎殻町)出身。1911年に大倉高等商業学校(のちの東京経済大学)を卒業し、大倉洋行に入社。退社後、1920年に東京毎夕新聞社に入り、学芸部長などを務め、1927年退社。 13歳から川柳を作り、井上剣花坊に師事した。1929年に『國民新聞』の選者になり、1930年に国民川柳会を結成し、機関紙「国民川柳」を発刊。1934年には国民川柳会を川柳研究社に、「国民川柳」を「川柳研究」に名前を改める。
藤原 猶雪(ふじわら ゆうせつ、1891年(明治24年)1月… 藤原 猶雪(ふじわら ゆうせつ、1891年(明治24年)1月2日 - 1958年(昭和33年)7月3日)は、大正から昭和時代の日本の仏教学者。浄土真宗大谷派の僧侶。 愛知県海部郡津島町(現・津島市)にて生まれる。1911年(明治44年)真宗大谷大学予科を経て、1914年(大正3年)同大を卒業する。 同年より東京帝国大学で図書館学、1923年(大正12年)から国史学を学び、1921年(大正10年)から1924年(大正13年)にかけて同大学図書館司書、史料編纂官補を歴任。1924年(大正13年)東洋大学の教授となり、同図書館長を兼務。ほか大倉精神文化研究所主任、明治仏教史編纂所理事、日本教学研究所評議員、駒澤大学講師、史料編纂官などを兼任。
山本 市英(やまもと いちえい、1891年(明治24年)1月… 山本 市英(やまもと いちえい、1891年(明治24年)1月1日 - 1969年(昭和44年)9月25日)は、日本の政治家、実業家。北海道会議員、衆議院議員、北海道岩見沢市長(1947年-1954年)。 石川県出身。空知農学校卒。1915年(大正4年)早稲田大学専門部政治経済科卒業。小樽新聞(後の北海道新聞)に入社し政治経済部記者となり、同社岩見沢支局長を務めた。その後、小樽商業会議所総務課長に就任。1924年(大正13年)第8期北海道会議員に当選、2期8年務め、北海道会参事会員にも在任。その後1932年の第18回衆議院議員総選挙にて北海道第4区から当選。1期務め、立憲政友会に所属。1936年の第19回から1942年の第21回総選挙まで立候補するもいずれも落選。
梛野 巌(なぎの いつき、1891年〈明治24年〉1月1日 … 梛野 巌(なぎの いつき、1891年〈明治24年〉1月1日 - 1982年〈昭和年57年〉)は、明治期から昭和期にかけての大日本帝国陸軍の軍医、医学博士。最終階級は陸軍軍医中将。 長岡藩医・梛野直(なぎの ただし)の長男として生まれる。旧制新潟県立長岡中学校(1908年(明治41年)卒業)、旧制第四高等学校を経て、1916年(大正5年)に東京帝国大学医学部を卒業する。1917年(大正6年)に陸軍二等軍医に任官した。 軍籍のまま大学院で学んだ後、外国駐在軍医官としてアメリカ合衆国とドイツに赴任する。海外赴任中にはスイスのチューリヒに留学し、悩解剖研究所モナコフ教授に師事した。1927年(昭和2年)10月13日、東京帝国大学から医学博士号を授与された。
土橋 勇逸(つちはし ゆういつ、1891年〈明治24年〉1月… 土橋 勇逸(つちはし ゆういつ、1891年〈明治24年〉1月1日 - 1972年〈昭和47年〉5月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 佐賀県小城郡芦刈村(現・小城市)出身。小城中学校在学中、日露戦争が勃発。郷里から将校が出征する姿や、演習帰りの歩兵第48連隊の留守大隊の将校らを見て自身も軍人を志す。熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校に進学。中隊長は三木宗太郎、区隊長は津村諭吉(のち鴨脚光弘)、指導生徒は神田正種だった。神田の誘いで富久町の善慶寺にて精神修養を行うようになり、陸士卒業後も同期の甘粕正彦と度々訪れている。歩兵第37連隊での勤務を経て陸軍士官学校に進学。しかし区隊長の森本八十三中尉とのそりが合わず、大きく内申点を落としてしまう。
長谷川 治良(はせがわ はるよし、1891年(明治24年)1… 長谷川 治良(はせがわ はるよし、1891年(明治24年)1月1日 - 1980年(昭和55年)3月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 東京府出身。1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官した。1915年(大正4年)12月、陸軍砲工学校高等科(21期)を優等で卒業した。また、陸軍派遣学生として東京帝国大学工学部火薬学科で学び、1919年(大正8年)7月に卒業した。 1926年(大正15年)8月、砲兵少佐に進級。1931年(昭和6年)8月、砲兵中佐に進み、1932年(昭和7年)8月、陸軍造兵廠廠員に就任。1934年(昭和9年)12月、火工廠作業課長に転じ、1935年(昭和10年)8月、砲兵大佐に昇進した。
中西 幸重(なかにし ゆきしげ、1891年 <明治24年> … 中西 幸重(なかにし ゆきしげ、1891年 <明治24年> 1月1日 - 1985年 <昭和60年> 1月7日)は、日本の政治家。三重県宇治山田(現・伊勢市)市長、伊勢市長。位階は従六位。 三重県度会郡神社町(現・伊勢市)出身。神社港で旅館業を営む両親のもと生まれる。 1911年(明治44年)3月、三重県師範学校(現・三重大学)卒業後、小学校教諭を経て1914年(大正3年)関西大学専門部法科へ入学。卒業一か月前に、旧軍閥打倒の護国戦争に投じるため中華民国上海へ渡った。1919年(大正8年)に帰国後は東京労働日報主筆に就任する傍ら、尾崎行雄に師事し大野伴睦らと共に普選運動を展開した。 1929年(昭和4年)3月、神社町助役、1933年(昭和8年)同町会議員、1947年(昭和22年)宇治山田市議会議員、1951年(昭和26年)三重県議会議員となる。
江田 斗米吉(えだ とめきち、1891年〈明治24年〉1月1… 江田 斗米吉(えだ とめきち、1891年〈明治24年〉1月1日 - 1957年〈昭和32年〉4月19日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県上妻郡矢部村(八女郡矢部村を経て現八女市)で生まれる。高等小学校卒業。農業、石炭業を営む。 東豊炭坑江田鉱業所長、恩賜財団同胞援護会福岡県川崎分会長などを務めた。 1933年(昭和8年)川崎町会議員に当選し、以後3選した。 1949年(昭和24年)1月、第24回衆議院議員総選挙で福岡県第4区から民主自由党所属で出馬して当選した。1952年(昭和27年)10月の第25回総選挙(福岡県第4区、自由党)では落選し、衆議院議員に1期在任した。 1957年(昭和32年)4月19日死去、66歳。
高村 正次(たかむら まさつぐ、1891年(明治24年) -… 高村 正次(たかむら まさつぐ、1891年(明治24年) - 1967年(昭和42年)9月)は、日本の映画プロデューサー、実業家。 1950年代の一時期、高村 將嗣(新字体表記高村 将嗣)と名乗った。読みはいずれも「たかむら しょうじ」とも。ユナイテッド・アーティスツの日本支社支配人から東亜キネマ取締役、のちに撮影所長へと転身して辣腕を揮い、戦後は宝プロダクションを設立して剣戟映画を手がけ、加藤泰、萩原章を映画監督として本格的にデビューさせた。 1891年(明治24年)、長野県更級郡稲荷山町仲町(現在の同県千曲市稲荷山中町)に生まれる。弟は高橋家の養子となった元長野県議会議員の高橋楙(たかはし しげる)である。
赤木 顕次(あかぎ けんじ、1891年(明治24年) - 1… 赤木 顕次(あかぎ けんじ、1891年(明治24年) - 1959年(昭和34年))は、日本の宗教家、PL教団祐祖。日本三大寮歌である北海道大学恵迪寮の明治45年寮歌「都ぞ弥生」の作曲者。北海道小樽市出身。 1891年、小樽市の医者の家に生まれる。生まれつき耳が遠かったものの、ハーモニカの名手であった。京北中学校から北海道大学農学部に進学した。 1912年、日本三大寮歌のひとつとなる、北海道大学恵迪寮の明治45年寮歌「都ぞ弥生」を寮の同室であった横山芳介が作詞し、赤木が作曲した。都ぞ弥生の作歌活動のために一年留年し、1917年(大正6年)に、畜産科を卒業した。 卒業後、東京、広島で食品化学会社研究員、東京帝国書院で教科書編集、中学教師と勤める。
井本 政信(いもと まさのぶ、1891年 - 1957年)は… 井本 政信(いもと まさのぶ、1891年 - 1957年)は、日本の造園家。政治家。明治神宮造営局に奉職、ついで造園の内務技師として横浜市の震災復興三公園、兵庫県立明石公園の建設に関わったほか、郷里で町長となって地方自治にも参画する。 富山県上新川郡水落村の阿波加家に生まれ富山中学・旧制第四高等学校(金沢市)卒業後、富山県婦負郡四方町の井本三信家を継ぎ同家のあやと結婚。1919年東京帝国大学農科大学で造園・土木を専攻・卒業。師である原熙の推挙により、明治神宮造営局に奉職し内外苑、殊に御苑(通称、神宮御苑)の造園を担当した。大名下屋敷の庭園から代々木御苑となり、昭憲皇太后がしばしば行啓し、明治天皇が御茶屋「隔雲亭」・あずまや・お釣台を設け、菖蒲田を昭憲皇太后のため植えさせられたという名園で、最奥に清正井と呼ぶ泉が湧いており、武蔵野の昔を偲ばせ訪う人が多い。
中村 茂(なかむら しげる、1891年 - 1969年)は、… 中村 茂(なかむら しげる、1891年 - 1969年)は、沖縄県の空手家。昭和期の空手家で、沖縄拳法の創始者。 1891年(明治24年)、父・中村幸吉、母・カメの長男として沖縄本島北部の名護間切(現・名護市)に生まれた。幼少の頃より祖父や親戚から武勇伝を聞いて育ち、武術に興味を持った。夭折した父やその弟にあたる叔父・中村貞一から「手(ティー)」と琉球古武術の手ほどきを受けた後、沖縄県立第一中学校(現・首里高校)に入学。屋部憲通、花城長茂、東恩納寛量、糸洲安恒らから空手の指導を受ける。当時の一中の唐手師範は糸洲安恒、師範代は花城長茂だったので、中村は両者に師事したものと思われる。卒業後は名護に戻り、そこで「久茂地の山原国吉(やんばるくにし)」こと、国吉真吉にも師事した。
大瀬 欽哉(おおせ きんや、1891年(明治24年) - 1… 大瀬 欽哉(おおせ きんや、1891年(明治24年) - 1991年(平成3年))は、日本の歴史家。鶴岡市立図書館館長、(社)荘内文化財保存会理事、山形県地域史研究協議会副会長、栄典・称号は、勲六等単光旭日章・鶴岡市名誉市民。 1891年(明治24年)山形県鶴岡市家中新町に銀行員の大瀬正の四男として生まれる。荘内中学校(山形県立鶴岡南高等学校)を経て、山形師範学校第二部卒業。西田川郡で高等小学校の教師を務める。1936年(昭和11年)鶴岡市立図書館に司書として勤務し、同図書館館長を務める。1950年(昭和25年)以文会(現・致道博物館)が設立され評議員に就任。1955年(昭和30年)図書館館長を退職。
謝花 凡太郎(しゃばな ぼんたろう、1891年(明治24年)… 謝花 凡太郎(しゃばな ぼんたろう、1891年(明治24年) - 1963年(昭和38年))は日本の漫画家。児童文化史に大きな影響を与えた中村書店の人気作家として活躍した。苗字の読み方は「しゃか」だという説もある。 本名は殿木真三。東京都の日本橋出身。慶應義塾大学卒業後はサラリーマンを経て会社を起こすが、特定の職に就くことはなかった。40代以降に漫画を描き出し、1933年(昭和8年)に『びっくり突進隊』で中村書店からデビューする。戦後も『漫画少年』で数々の作品を発表した。 1940年(昭和15年)頃からは、漫画執筆とは別に中学校で書道を教えるようになり、戦後も漫画執筆と並行して行い、亡くなるまで従事した。
今泉 源吉(いまいずみ げんきち、1891年 - 1969年… 今泉 源吉(いまいずみ げんきち、1891年 - 1969年)は、日本の法律家、キリスト教伝道者。福音同志会の中央委員・日本基督教団中渋谷教会(日本基督教会)長老牧師を務めた。母の今泉みねは蘭学の家として知られる桂川家出身。母に回想録『名ごりの夢』口述を勧め、自らも『蘭学の家桂川の人々』を著した。 佐賀藩出身の検事今泉利春と今泉みねの三男として生まれる。東京帝国大学法学部を卒業。植村正久の後継者高倉徳太郎の神学を受け入れ、その協力者となり、「福音と現代」の発行を助けた。 1935年に月刊誌『みくに』を発行し、みくに運動を展開した。第二次世界大戦においては戦争協力の姿勢を示し、「キリストにより日本の国体を明らかにする」「皇国の使命を認識して、之をたすけることが最も神のみこころにかなうのである。
太田 謙吉(おおた けんきち、1891年 - 1963年)は… 太田 謙吉(おおた けんきち、1891年 - 1963年)は、日本の造園家、都市計画家。官庁の造園技師として、都市計画における公園緑地行政と、都市近郊の農林業用地の用途向上理論を究明した。 滋賀県に生まれる。1917年(大正6年)東京帝国大学農科大学農学科卒業後、明治神宮造営局に入局。神宮の造営にあたる。 1919年から都市計画官制が設けられた際、中央委員会の技手として内務省に入る。1933年から1938年にかけて東京緑地計画協議会技師、1938年から都市計画神奈川地方委員会技師兼地方技師として活躍する一方で、母校帝大農学部の講師として公共緑地学を園芸第二講座において講じた。 緑地計画協議会時代に努力して指定をみた神奈川県大桶山景園地の施設計画及び施工に着手するいっばう、湘南海岸公園の都市計画決定をみるなど、広域緑地計画に大きな功績を残した。