岡本 謹平(おかもと きんぺい、1895年(明治18年)11… 岡本 謹平(おかもと きんぺい、1895年(明治18年)11月1日 - 1973年(昭和48年)10月12日)は、昭和期の政治家・薬剤師。愛知県碧海郡刈谷町長(1948年~1950年)、刈谷市長(1950年~1955年)。 1895年(明治18年)11月1日、愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市広小路)に生まれた。旧制千葉医学専門学校薬学科(千葉大学の前身)を卒業して薬剤師となり、大日本帝国陸軍薬剤官少尉を経て、1914年(大正3年)に刈谷町に岡本薬局を開業した。1941年(昭和16年)から1948年(昭和23年)まで区長を務めた。 1947年(昭和22年)に学制改革が行われると、碧海郡刈谷町では学校建設の資金が問題となり、1948年(昭和23年)9月には石原平一郎町長が辞任する騒動となった。
北澤 國男 (きたざわ くにお、1895年10月31日 - … 北澤 國男 (きたざわ くにお、1895年10月31日 - 没年不明) は、日本の実業家。東洋バルヴの創業者。 長野県諏訪郡上諏訪村(現諏訪市)生まれ。小学校卒業後、1916年に北沢製作所を設立、1943年に株式会社北沢工業に改組し代表取締役社長に就任。1946年諏訪商工会議所初代会頭。1970年勲三等珠宝章受勲。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
西田 正雄(にしだ まさお、1895年(明治28年)10月2… 西田 正雄(にしだ まさお、1895年(明治28年)10月26日 - 1974年(昭和49年)3月19日)は、日本の海軍軍人。海兵44期恩賜・海大26期恩賜。最終階級は海軍大佐。 1895年(明治28年)10月26日、兵庫県揖保郡神岡村東嘴崎(現たつの市神岡町)に生まれる。小学校のころより抜群の成績を誇った。旧制龍野中学校でも成績はトップであり、龍野中学校のクラスメートであった哲学者の三木清でさえも次席でついに西田を抜くことができなかった。また『陸の田中、海の西田』(田中とは、終戦時の第12方面軍司令官 兼 東部軍管区司令官であった田中静壱陸軍大将〈陸士19期恩賜・陸大28期恩賜〉)と並び評された。
郷隆(ごう たかし、1895年10月26日 - 1944年4… 郷隆(ごう たかし、1895年10月26日 - 1944年4月18日)は、日本の教育者、ボート選手。
鳥山 四男(とりやま よつお、1895年10月25日 - 1… 鳥山 四男(とりやま よつお、1895年10月25日 - 1981年12月7日)は、日本の電気工学者。武蔵工業大学名誉教授。専門は高電圧工学。 長野県東筑摩郡笹賀村(現松本市)出身。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て、東北帝国大学専門部修了後、同工学部電気工学科卒業。1922年理化学研究所助手、1924年文部省在外研究員となり、アーヘン工科大学に留学。1926年北海道帝国大学工学部教授。1930年工学博士(東北帝国大学)。1944年日立製作所中央研究所に転じ、1946年同所長。1951年東北大学教授となり、1958年武蔵工業大学教授、1971年退職。1979年日本学士院会員選出。 放電現象の解析分布手段として沿面放電図形法を開発し、破壊事故の原因を発見し、且つ真空、気体、液体、固体の全てにわたって一貫性のある破壊機構があることを発見した。
奥 むめお(おく むめお、1895年10月24日 - 199… 奥 むめお(おく むめお、1895年10月24日 - 1997年7月7日)は、日本の婦人運動家、政治家。参議院議員を計3期務め、1961年(昭和36年)に勲二等宝冠章を受章し、没後に正四位を追賜された。1989年(平成元年)に福井市名誉市民の称号を贈られた。本名は奥 梅尾(読み同じ)。 福井県福井市の鍛冶屋、父・和田甚三郎、母・はまの長女として出生した。年少時から婦人労働問題に強い関心を示し、福井高等女学校(現在の福井県立藤島高等学校)を経て、1916年(大正5年)日本女子大学校卒業後、労働組合期成会の機関紙『労働世界』の記者になり、身分を偽り富士瓦斯紡績に一女工として潜入取材したレポートが反響を呼んだ。
木下 友敬(きのした ゆうけい、1895年10月24日 - … 木下 友敬(きのした ゆうけい、1895年10月24日 - 1968年11月14日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)。下関市長(1期)。医学博士。旧姓は平川。 山口県出身。1921年九州帝国大学医学部卒。九州歯科医専教授を経て、1927年下関市で内科を開業する。1956年の第4回参議院議員通常選挙で山口県から日本社会党公認で立候補して当選した。参議院議員を1期務めた後は、1963年下関市長に当選した。1966年秋の叙勲で勲三等旭日中綬章受章。1967年まで市長を務め、1968年11月14日死去、73歳。死没日をもって従四位に叙され、銀杯一組を賜った。 山口県医師会会長、下関山岳会会長、山口県山岳連盟会長も歴任した。
浅井 清(あさい きよし、1895年(明治28年)10月24… 浅井 清(あさい きよし、1895年(明治28年)10月24日 - 1979年(昭和54年)8月14日)は、日本の法学者。専門は行政法。学位は、法学博士。人事院初代総裁、貴族院勅選議員。正三位勲一等瑞宝章、銀杯一組(菊紋)。 兵庫県神戸市生まれ。1919年(大正8年)、慶應義塾大学部法律科を卒業。1925年(大正14年)から1928年(昭和3年)までヨーロッパに留学、1929年(昭和4年)法学部教授に就任。憲法・行政法を専攻し、ハンス・ケルゼンの影響を受け天皇機関説を主張した。 1946年(昭和21年)7月19日に貴族院議員に勅選され、交友倶楽部に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
甘粕 二郎(あまかす じろう、1895年10月24日 - 1… 甘粕 二郎(あまかす じろう、1895年10月24日 - 1987年9月13日)は、日本の経営者、銀行家。山形県出身。甘粕正彦の弟。 1919年に東京帝国大学法学部英法科を卒業。三菱商事、三菱銀行での勤務を経て、1927年に三菱信託銀行に転じ、取締役、常務、副社長を歴任し、1959年6月に社長に就任。1965年5月には会長に就任。 1962年に藍綬褒章を受章し、1975年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1987年9月13日老衰のために死去。91歳没。墓所は多磨霊園。
田中 宗吉(たなか そうきち、1894年11月21日 - 1… 田中 宗吉(たなか そうきち、1894年11月21日 - 1978年10月22日)は、日本の柔道家(講道館8段)。 一般的な柔道選手が選手としての適齢期を終える31歳で柔道を学び始め、戦前の全日本選士権大会で優勝1度、準優勝1度の成績を残した。指導者としては国鉄や講道館、星薬科大学等で柔道教員を務め、後進の育成に当たった。 佐賀県出身。旧制小城中学校(後の県立小城高校)を中退して上京、31歳の時に初めて柔道衣に袖を通し5歳年長の高橋重蔵5段に師事した。1927年2月に講道館の初段位を許されると、翌28年1月に2段、同年9月には3段へ抜群昇段を果たした。柔道家として生きる事を決意した田中は1930年に警視庁水上警察署の柔道助教となり、以後も1931年4月4段、1932年11月には再び抜群で5段と順調に昇段を重ねた。
関口 存男(せきぐち つぎお、正字は關口存男、1894年11… 関口 存男(せきぐち つぎお、正字は關口存男、1894年11月21日 - 1958年7月25日)は、日本のドイツ語学者(ゲルマニスト)。通称:ゾンダン(ドイツ語のsondernにかけてある)。 ドイツ語以外にも様々な言語に通じており、「不世出の語学の天才」と呼ばれた。また、村田実らの新劇運動に参加、主役級の俳優として大正期の無声映画に出演していた。 兵庫県姫路市生まれ。父・関口存啓は陸軍主計大尉。大阪陸軍地方幼年学校を経て1913年に陸軍中央幼年学校本科を卒業し、士官候補生として千葉県佐倉市の歩兵第57連隊に勤務。1915年、東京の陸軍士官学校を卒業(第27期)。同年12月、陸軍歩兵少尉となるも肋膜炎を患い休務を続ける。
小林 哥津(こばやし かつ、1894年11月20日 - 19… 小林 哥津(こばやし かつ、1894年11月20日 - 1974年6月25日)は日本の小説家。 1894年に小林清親の五女として東京府東京市京橋区に生まれる。名は哥津子。母は田島芳子。仏英和高等女学校(現・白百合学園中学校・高等学校)に入学し、同校在学中の1911年に平塚らいてうの雑誌『青鞜』の同人となり、伊藤野枝、尾竹紅吉らと同誌の編集に携わった。同雑誌に戯曲『お夏のなげき』や小説『麻酔剤』などを執筆した。1914年に青鞜社を退職し、外国文学の翻訳や東京回想、父の清親の研究資料などについての著作を行った。著書に『瑞典のお伽噺不思議な旅』、『清親考』がある。1974年6月25日、79歳で死去。
大橋 熊雄(おおはし くまお、1894年(明治27年)11月… 大橋 熊雄(おおはし くまお、1894年(明治27年)11月20日 - 1944年(昭和19年)4月14日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。駐蒙軍政治参謀。愛知大学の森久男は、蒙古連合自治政府の成立にあたって大橋が、「陸軍省との渉外事項を担当して、蒙疆地域の政治的統合に決定的役割を果たした」と指摘している。 1914年(大正3年)、新潟県立長岡中学校(第19回卒業)を経て、1917年(大正6年)、陸軍士官学校(第29期)を卒業した。1927年(昭和2年)、陸軍大学校を卒業(第39期)する。 1936年(昭和11年)二・二六事件の軍事裁判官を務める。関東軍参謀に就任。1938年(昭和13年)に駐蒙兵団参謀に転任となる。
成富 政一(なりとみ まさいち、1894年(明治27年)11… 成富 政一(なりとみ まさいち、1894年(明治27年)11月18日 – 1938年(昭和13年)10月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は歩兵大佐。位階勲等功級は正五位勲三等功四級。 佐賀県神埼市において士族成富庄吉(佐賀藩士石井探玄の次男、成富延精の養子)の次男として生まれる。生家は、肥前国の戦国大名龍造寺隆信の重臣で、後に佐賀藩主鍋島氏の家老として活躍した成富茂安の養子安利の子孫にあたる。 陸軍士官学校28期を卒業し、1916年(大正5年)陸軍少尉に任官。陸軍大尉の時、陸軍大学校41期に学び、1929年(昭和4年)席次8位の成績で卒業した。 その後、台湾軍基隆要塞参謀、台湾軍司令部付、歩兵第19連隊付、独立歩兵第1連隊大隊長、陸軍歩兵学校教導連隊大隊長、留守第16師団参謀、同参謀長等を歴任し、満洲事変では、中国熱河省及び呼倫貝爾を転戦し、軍功あり。
阿以田 治修(あいだ じしゅう、1894年(明治27年)11… 阿以田 治修(あいだ じしゅう、1894年(明治27年)11月16日 - 1971年(昭和46年)2月15日)は、大正-昭和期の日本の洋画家。本名は会田 治修 。 東京府生まれ。私立郁文館卒。 自身のアトリエで洋画を描き始め、1914年(大正3年)太平洋洋画会研究所に入り、満谷国四郎に師事。1919年(大正8年)二科会に初入選を果たし、1922年(大正11年)からヨーロッパへ留学。フランスでロジェ・ビシエールに学んだほかイタリアやスペインにも渡った。 帰国後、1925年(大正14年)の第6回帝展に「読書するイボンヌ」を出品し、入選。さらに、1926年より第7回から9回までの帝展にて「髪」、「画房小閑」、「部屋つづき」が3年連続で特選に選ばれた。
長沼 直兄(ながぬま なおえ、1894年11月16日 - 1… 長沼 直兄(ながぬま なおえ、1894年11月16日 - 1973年2月9日)は、日本語教育者。 1894年11月16日、群馬県伊勢崎市近郊に長沼宗雄の三男として誕生。1915年6月、21歳の時に東京高等商業学校(一橋大学の前身)入学。隣人のアメリカ人の依頼で日本語教師の代行をしたことをきっかけに、「日本語教育」の道を歩んだ。ハロルド・E・パーマーとの出会いを機に、「英語教授研究所」に関わってパーマーを援け、その後、米国大使館で主任教官として米国陸海軍から送られたアメリカ人将校への日本語教育を担当した。日米開戦が近づき米国大使館の日本語教室は閉鎖され、文部省内に日本語教育振興会が設立されると、その理事としてアジア地域(大東亜)への日本語普及事業にも携わり、戦後は、財団法人言語文化研究所附属東京日本語学校を創立、生涯を日本語教育に尽力した。
山田 輝郎(やまだ きろう、1894年(明治27年)11月1… 山田 輝郎(やまだ きろう、1894年(明治27年)11月16日 - 1982年(昭和57年)4月17日)は、日本の実業家。ロート製薬会長。山田スイミングクラブ設立者。大阪府多額納税者。ロート製薬の前身である信天堂山田安民薬房を創業した山田安民の長男。 奈良県宇陀郡伊那佐村(後の榛原町、現・宇陀市)出身。山田安民の長男である。1899年、父・安民が大阪で信天堂山田安民薬房創業。 1920年、早稲田大学専門部政治経済科を卒業。山田安民薬房に入る。1936年、父の退隠に伴い家督を相続する。1939年、上海に山田製薬會社を、1940年、奉天に満州山田製薬會社を各設立し共に其の社長に就任する。1943年、父・安民死去。
吉田 賢一(よしだ けんいち、1894年(明治27年)11月… 吉田 賢一(よしだ けんいち、1894年(明治27年)11月15日 - 1982年(昭和57年)6月11日)は、日本の弁護士、農民運動家、政治家。衆議院議員。 兵庫県明石郡明石町(現明石市)で、理髪業・吉田種次郎、たみ夫妻の長男として生まれる。1920年4月、日本大学専門部法律科を卒業。弁護士試験に合格し、大阪市に弁護士事務所を開業。 1921年、兵庫県明石郡神出村の小作争議に係わり農民運動に参加。1922年4月、日本農民組合が結成され法律顧問の一人となる。以後、農民労働党参加、労働農民党中央委員、日本労農党中央委員、全日本農民組合中央委員、全国農民組合中央委員、日本大衆党参画、全国大衆党参画などの活動を行い、1931年7月から1932年6月までヨーロッパの政治経済、農業を視察した。
近藤 壌太郎(こんどう じょうたろう、1894年11月13日… 近藤 壌太郎(こんどう じょうたろう、1894年11月13日 - 1977年8月15日)は、日本の内務官僚、弁護士。官選県知事。 長野県埴科郡屋代町(現:千曲市屋代)において、農業・旅館業、近藤万五郎・たか夫妻の長男として生まれる。4歳で母と死別。県立長野中学校、第二高等学校を経て、1920年(大正9年)7月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。1919年(大正8年)10月、高等試験行政科試験に合格。1920年(大正9年)8月、内務省に入り鳥取県属となり内務部に配属。以後、鳥取県警視・警察部勤務、奈良県警察部保安課長、青森県警察部保安課長、北海道庁土木部土地改良課長を歴任。北海道庁在任中の1927年(昭和2年)6月、文官分限令第11条第1項第4号により休職を命ぜられ帰郷した(逸話を参照)。
中山 輔親(なかやま すけちか、1894年〈明治27年〉11… 中山 輔親(なかやま すけちか、1894年〈明治27年〉11月13日 - 1980年〈昭和55年〉4月23日)は、日本の政治家、華族。貴族院侯爵議員。中山忠能の曾孫で、大正天皇のはとこに当たる。勲二等瑞宝章。 東京府出身。侯爵・中山孝麿の五男として生まれる。父・孝麿の死去に伴い、1919年(大正8年)12月20日、家督を相続し侯爵を襲爵。同年12月22日、貴族院侯爵議員に就任し、火曜会に属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。 東京帝国大学経済学部を修了。1942年(昭和17年)以降、商工省参与、内閣委員、軍需省委員、取引所資産評価委員会委員などを務めた。 忠親 - 兼宗 - 忠定 - 基雅 - 家親 - 定宗 - 親雅 - 満親 - 定親 - 親通 - 宣親 - 康親 - 孝親 - 親綱 - 慶親 - 元親 - 英親 - 篤親 - 兼親 - 栄親 - 愛親 - 忠尹 - 忠頼 - 忠能 - 忠愛 - 孝麿 - 輔親 - 忠敬 -
吉川 元光(きっかわ もとみつ、明治27年(1894年)11… 吉川 元光(きっかわ もとみつ、明治27年(1894年)11月12日 - 昭和28年(1953年)2月19日)は、明治時代から昭和にかけての華族。爵位は子爵。毛利家の一門・旧岩国藩主吉川家当主。旧名・吉川光。父は吉川重吉、妻は吉川経健の娘、芳子。弟に宮内庁官僚で宮中儀礼の専門家の吉川重国。子に吉川重喜、吉川光喜。孫に吉川重幹・吉川重廣。 岩国藩主吉川家の一族、吉川重吉の子として生まれた。明治42年(1909年)、男子のなかった伯父で吉川子爵家当主の吉川経健の養子となった。大正6年(1917年)に経健の娘芳子と結婚する。大正9年(1920年)に京都帝国大学を卒業した。 小野田セメント、義済堂、岩国電気軌道の株主であり、また資産家でもあった。
小山田 小七(こやまだ こしち、1894年11月12日 - … 小山田 小七(こやまだ こしち、1894年11月12日 - 1961年12月16日)は、日本の財政学者。 福岡県糟屋郡須恵村に生まれる。1914年福岡県立中学修猷館、1917年第五高等学校を経て、1920年7月京都帝国大学法科大学を卒業。同年10月同大学大学院経済研究科に進み、1922年1月から財政学研究のため文部省在外研究員としてドイツ、イギリス、フランス、イタリア、アメリカ合衆国、メキシコに留学。その間、1924年8月和歌山高等商業学校教授(財政学担当)となり、同年10月京都帝国大学大学院を修了。1927年帰国し、1928年2月和歌山高等商業学校を退職。 1928年3月台北帝国大学教授に就任、1931年2月同大学を退職。
佐佐木 茂索(ささき もさく、1894年(明治27年)11月… 佐佐木 茂索(ささき もさく、1894年(明治27年)11月11日 - 1966年(昭和41年)12月1日)は日本の小説家、編集者。文芸春秋新社元社長。
飯塚 友一郎(いいづか ともいちろう、1894年(明治27年… 飯塚 友一郎(いいづか ともいちろう、1894年(明治27年)11月11日 - 1983年(昭和58年)4月21日)は、日本の演劇研究家、弁護士である。妻は日本舞踊家の飯塚くに。 東京の生まれ。1919年(大正8年)東京帝国大学(現在の東京大学)法学部卒業後、約10年間弁護士として活動しその傍らとして在学中からの歌舞伎等の演劇研究に携わった。その後は弁護士としての活動を辞め、1932年(昭和7年)には日本大学芸術学部の教授となる。 その後は二松學舎大学にて教鞭を執り、日本演劇学会の設立にも携わった。また松竹歌舞伎審議会の専門委員や国立劇場の評議員、鎌倉アカデミアの初代校長、鎌倉市教育委員等も歴任した。
上條 貢(かみじょう みつぎ、1894年11月10日 - 1… 上條 貢(かみじょう みつぎ、1894年11月10日 - 1977年2月6日)は日本の政治家、弁護士。浅草区議(1期)、東京市議(2期)、東京都議(5期)、第13代都議会議長、第6−8代台東区長を歴任した。 長野県生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て、日本大学法律学科卒業。東京市で弁護士を開業。 1934年から浅草区会議員を1期4年務めた。1937年3月16日から1943年6月30日まで東京市会議員を2期務めた。1943年9月13日の第1回東京都議会議員選挙で当時の浅草区選挙区から立候補して、初当選する。都議会では、消防委員会委員長(1948年から1949年)、オリンピック大会招致実行委員会委員長(1953年から1954年)を歴任した。
石田 茂作(いしだ もさく、1894年11月10日 - 19… 石田 茂作(いしだ もさく、1894年11月10日 - 1977年8月10日)は、日本の仏教考古学者。文学博士(東京帝国大学・論文博士・1941年)(学位論文「飛鳥時代寺院址の研究」)。元奈良国立博物館長。文化功労者。従三位勲二等旭日重光章。岡崎市名誉市民。 愛知県碧海郡矢作町(現・岡崎市矢作町)生まれ。本郷村外十ヶ町村組合立江西高等小学校(現・岡崎市立矢作中学校)から愛知県立第二中学校(愛知県立岡崎高等学校)へ進む。1918年、東京高等師範学校(現・筑波大学)本科国語漢文部卒業。愛知第二師範学校(現・愛知教育大学)勤務、1923年東京高等師範学校専攻科修身教育部卒業などを経て、1925年1月から鑑査官補として東京帝室博物館に勤務、鑑査官・学芸部長へと昇進した。
岡本 神草(おかもと しんそう、1894年11月10日 - … 岡本 神草(おかもと しんそう、1894年11月10日 - 1933年2月13日)は、神戸市出身の日本画家。本名は敏郎。 若くして没したため、充分な活躍はできなかった。作品はいずれも濃艶な雰囲気の女性像で、成熟した女性の美しさや舞妓の持つ人工的美しさをモティーフに独自の作風をみせている。菊池契月に師事する。10代半ばで卓越した技術で花鳥画を制作した後、竹久夢二に魅了されて雑誌などに掲載された絵を模写したり、夢二風の少女の絵などを描いた。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
上田 庄三郎(うえだ しょうざぶろう、1894年(明治27年… 上田 庄三郎(うえだ しょうざぶろう、1894年(明治27年)11月10日 - 1958年(昭和33年)10月19日)は、日本の教員、教育評論家である。 高知県幡多郡三崎町(現土佐清水市)出身。高知師範学校(現高知大学教育学部)卒業。 高知県下の小学校教師・校長を経て1925年に上京。生活綴方運動に参加、1929年雑誌『綴方生活』同人となり、1931年には雑誌『観念工場』を創刊・主宰した。大正自由教育運動を果敢に実践し、池袋児童の村小学校を手本として、神奈川県茅ケ崎の雲雀岡(ひばりがおか)児童の村小学校校長を務めた。戦後、「日本教育新聞」編集局長などを務めた。 戦前戦後の教育界に鋭い議論を展開し、特に教師論で多くの理解者・支持者を得た。
横川 重次(よこかわ じゅうじ、1894年(明治27年)11… 横川 重次(よこかわ じゅうじ、1894年(明治27年)11月9日 - 1964年(昭和39年)9月11日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(8期)。埼玉県多額納税者。武蔵野銀行相談役。位階は正四位。勲二等旭日重光章。 埼玉県比企郡大河村腰越(現・小川町)出身。横川宗作の長男。旧制早稲田中学を経て[要出典]1917年、早稲田大学大学部文学科哲学科卒業。ドイツに留学し、ベルリン大学で社会学を専攻した。1924年、家督を相続した。 農業、製材業を営み埼玉県多額納税者となった。大河村信用組合長、小川無尽、横川製材各社長、武州本場絹織物工業、比企繭販売利用各組合長などをつとめた。 1927年3月28日、第15回衆議院議員総選挙の埼玉県第3区補欠選挙で衆議院議員に当選。
加藤 仁平(かとう にへい、1894年11月7日 - 199… 加藤 仁平(かとう にへい、1894年11月7日 - 1993年4月12日)は、日本の教育史学者。 愛知県宝飯郡豊川町(現豊川市)出身。東京高等師範学校卒。1944年「伊藤仁斎の学問と教育 古義堂即ち堀川塾の教育史的研究」で、文学博士(慶應義塾大学)の学位を取得。東京高等師範学校教授、東京文理科大学教授を兼ねるが、1947年公職追放。のち関東学院大学教授となる。1978年退職。 東京高師で嘉納治五郎に学ぶ。江戸時代の教育思想が専門だが、二宮尊徳の報徳思想を広めることに努め、これが戦時中の戦争イデオロギーとなったため戦後公職追放を受けた。
武田 宣城(たけだ のぶき、1894年 <明治27年> 11… 武田 宣城(たけだ のぶき、1894年 <明治27年> 11月5日 - 1987年 <昭和62年> 11月17日)は、日本の経営者。 三菱江戸川化学社長を務めた。高知県高知市出身。位階は正五位。 1918年に東京高等工業学校応用化学科を卒業。 三菱製紙での勤務を経て、1931年に江戸川化学工業に転じ、1946年に取締役に就任し、1949年5月に常務を経て、1956年5月には社長に就任。1964年5月から1968年5月までに会長を務めた。 1965年に藍綬褒章を受章し、1967年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1987年11月17日老衰のために死去。93歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
矢野 英雄(やの ひでお、1894年〈明治27年〉11月1日… 矢野 英雄(やの ひでお、1894年〈明治27年〉11月1日 - 1944年〈昭和19年〉7月8日)は、日本の海軍軍人。海兵43期。サイパンで戦死、特進により最終階級は海軍中将。 香川県三野郡桑山村(現 三豊市豊中町)出身。矢野英寛の三男として生まれる。 旧制香川県立三豊中学校(第8回)を経て、1912年(大正元年)9月9日海軍兵学校第43期に成績順位100名中第58位で入校。秋山門造(最終階級中将)は三豊中学、海軍兵学校ともに矢野の一学年先輩であった。 1915年(大正4年)12月16日96名中第12位の成績で卒業。少尉候補生として1等巡洋艦「磐手」乗組、練習艦隊近海航海に出発した。1916年(大正5年)4月3日帰着。
根岸 寛一(ねぎし かんいち、明治27年(1894年)11月… 根岸 寛一(ねぎし かんいち、明治27年(1894年)11月1日 - 昭和37年(1962年)4月28日)は、戦前日本の映画プロデューサー。昭和10年(1935年)から日本映画の黄金時代である日活多摩川撮影所時代をマキノ満男らとつくりあげる。その後、満州映画協会理事を経て敗戦後はニュース映画を製作する日本映画社(日映)の社長として原爆記録映画を製作。日映を辞したのちは東急資本による東横映画、さらに東京映画配給(のちの東映)の「第四系統」(東宝、松竹、大映の後発組の邦画配給系統の意)に参画するが、公職追放により辞任。追放解除の頃には肺結核が悪化、斯界から引退した。 戦前から戦後まで古野伊之助、甘粕正彦、五島慶太という大物の影響力を利用しながら、迫害された映画人を徹底して庇護した根岸に対して、現在まで「左翼」との評価が根強く残っている。
原 淳一郎(はら じゅんいちろう、1894年〈明治27年〉1… 原 淳一郎(はら じゅんいちろう、1894年〈明治27年〉10月30日 - 1975年〈昭和50年〉6月2日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(2期)。板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問。 高知県安芸郡田野村(現田野町)で生まれた。1919年明治大学法律科卒。弁護士となる。兵庫県議、同参事会員、神戸市議、同参事会員、神戸弁護士会副会長となる。高知電気工業、国策化学工業、神戸機械工作所各(株)取締役、(株)播磨造船所監査役、神陽汽船、大陸鉱業、秋岺鉱業、三陽工業、三陽精機、太平金属各(株)社長、ラジオ高知初代社長、高知放送取締役となる。 1932年の第18回衆議院議員総選挙において兵庫2区(当時)から立憲民政党公認で立候補して当選。
佐藤 章(さとう あきら、1894年〈明治27年〉10月28… 佐藤 章(さとう あきら、1894年〈明治27年〉10月28日 - 1921年〈大正10年〉11月3日)は、大正時代に活躍した日本の民間パイロット。民間飛行家の草分け。章は飛行家になってからの雅号であり、本名は佐藤要蔵。死後、彼のよき理解者のひとりであった東京日日新聞の小野蕪子からは「飛行詩人」と称された。 秋田県仙北郡金沢西根村字下菻沢(後の美郷町)に佐藤平治・富子夫妻の三男として生まれた。佐藤家は、章の祖父金重の代に永苗字帯刀が御免となった地主で、父平治は幼少期に同じ村の佐藤長左衛門家から養子に出され、のちに生まれた金重の娘富子と結婚した。 金沢西根尋常小学校を4年で修了した後、隣りの平鹿郡角間川町(後の大仙市)の高等小学校に2年通った。
大金 益次郎(おおがね ますじろう、1894年〈明治27年〉… 大金 益次郎(おおがね ますじろう、1894年〈明治27年〉10月28日 - 1979年〈昭和54年〉3月11日)は、昭和期の日本の官僚。 栃木県出身。大田原中学、二高を経て、1919年(大正8年)に東京帝国大学法学部を卒業し、内務省に入省。 大阪府保安課長・京都府地方課長などを経て、1927年(昭和2年)宮内省に移る。宮内大臣秘書官・侍従・総務局長などを歴任した後、1945年(昭和20年)宮内次官。翌1946年(昭和21年)戦後初の侍従長に就任。昭和天皇の信任厚く、神奈川県を皮切りに始まった全国巡幸では、宮内大臣の松平慶民・宮内次官の加藤進とともに、巡幸の企画・立案・随行の中心人物として活躍した。
加藤 信義(かとう のぶよし、1894年10月28日 - 1… 加藤 信義(かとう のぶよし、1894年10月28日 - 1959年4月1日)は、日本の電気工学・電子工学者。工学博士(京都帝国大学)。京都大学名誉教授・電気工学教室同窓会洛友会元副会長。大阪工業大学第2代学長。京都大学・大阪工業大学電子工学科創設者。通産省電子工業審議会元委員・電波技術審議会元委員。電子情報通信学会第34代会長。輻射科学研究会初代理事長。赤外線連合会元会長。日本学術振興会第34特別委員会委員。関西教育工業協会初代副会長。 専門は、電気工学・高周波回路、電気通信・無線工学(特に赤外線・妨害電波)、電子工学・電子顕微鏡。 1894年山口県生まれ。旧姓は蛭子屋。1918年京都帝国大学工科大学電気工学科卒業(指導教授:黎明期の日本の電気工学界を支えた重鎮で電気学会元会長の鳥養利三郎)。
伊原 宇三郎(いはら うさぶろう、1894年10月26日 -… 伊原 宇三郎(いはら うさぶろう、1894年10月26日 - 1976年1月5日)は、日本の美術家。徳島県徳島市出身。国内外で活躍した洋画家。古典主義風の重量感のある裸婦像など,数多くの人物画を制作した。またパブロ・ピカソに傾倒し、著書を著して日本にピカソブームを巻き起こした。
竹内 時男(たけうち ときお、1894年(明治27年)10月… 竹内 時男(たけうち ときお、1894年(明治27年)10月26日 - 1944年(昭和19年)4月24日)は、日本の物理学者。科学ジャーナリストとして著名であったが、医療効果を謳った人工放射性食塩事件で世間を騒がせた。 1894年(明治27年)10月26日、元金沢藩士・竹内一元(のち煙草商)の二男として石川県金沢市で生まれる。1918年(大正7年)に東京帝国大学理科大学実験物理科を卒業後、三菱造船技師を経て東京高等工業学校講師となる。 1927年に『新量子力学及波動力学論叢』を出版し、量子力学を極めて早く日本で紹介した。1928年から1930年にかけて渡欧し、フランス滞在中はルイ・ド・ブロイのもとで量子力学を研究する。
久保松 勝喜代(くぼまつ かつきよ、1894年(明治27年)… 久保松 勝喜代(くぼまつ かつきよ、1894年(明治27年)10月25日 - 1941年(昭和16年)12月15日)は、囲碁棋士。兵庫県出身。方円社、日本棋院に所属、名誉九段。昭和初期の関西囲碁界の重鎮であり、橋本宇太郎、木谷實らを弟子としながら東京に送り出した他、多くの棋士を育てた。「偉大なる素人」と呼ばれ、大模様の碁を得意とし、初手天元も研究した。連珠八段でもあり、久保松機山を名乗った。 尼崎市生まれ。5歳の時に父が打っているのを見て碁を覚える。6歳で父を亡くし、伯父の後見で育つ。特定の棋士に師事することはなく、ほとんど独学で棋力を磨いた。9歳の時に禅晶寺の碁会で泉秀節に九子で対局して勝ち、秀節は養子にすることを望んだが伯父が許さなかった。
逆鉾 盛吉(さかほこ せいきち、1894年10月25日 - … 逆鉾 盛吉(さかほこ せいきち、1894年10月25日 - 1947年5月5日)は、鹿児島県姶良郡蒲生町西浦出身で井筒部屋に所属した力士。本名は川原林 盛吉。173cm、86kg。最高位は西前頭筆頭。 1911年2月初土俵。突き、押しを主体とする相撲で序ノ口から7場所目の1914年1月に十両昇進。11場所目の1916年1月入幕した。前頭筆頭まで躍進したが怪我をしてからは振るわず、1922年1月十両に陥落し、1922年5月廃業。
3代目 三遊亭 金馬(さんゆうてい きんば、1894年10月… 3代目 三遊亭 金馬(さんゆうてい きんば、1894年10月25日 - 1964年11月8日)は、日本の落語家。大正・昭和時代の落語家。本名∶加藤 専太郎。出囃子は「本調子カッコ」。当初は落語協会に所属、のちに東宝名人会に所属したが、実質的にフリーであった。 東京府東京市本所(現・東京都墨田区本所)生まれ。初代三遊亭圓歌の門下だが、名人と呼ばれた初代柳家小せんや、橋本川柳にも多くを学んだ。読書家で博学。持ちネタの幅が広く、発音や人物の描き別けが明瞭で、だれにでもわかりやすい落語に定評がある。 1894年10月25日、東京府東京市本所に生まれる。家業は洋傘屋。 小学校卒業後、本所林町の実家を出て本所相生町で経師屋をしていた伯父の元で奉公修行。
鹿目 善輔(かのめ ぜんすけ、1893年(明治26年)11月… 鹿目 善輔(かのめ ぜんすけ、1893年(明治26年)11月22日 - 1960年(昭和35年)9月21日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争開戦前の出師準備にあたった兵備局課長で開戦時の軍令部先任副官、北方部隊の幹部、大湊警備府参謀長を歴任し、終戦後は大湊地方復員局長、横須賀地方復員局残務処理部長を務めた海軍少将で、後に米海軍横須賀基地(横須賀海軍施設)警備隊の初代隊長に就任。 1870年(明治3年)に浦賀に移住した会津藩士 鹿目常吉(幸之助)の孫として、1893年(明治26年)神奈川県三浦郡浦賀町(現・横須賀市浦賀)で生まれた。横須賀中学校を経て、1916年(大正5年)に海軍兵学校を卒業後、少尉候補生として軍艦「常磐」に乗り組み、北米および南洋諸島を回航。
谷口 雅春(たにぐち まさはる、1893年〈明治26年〉11… 谷口 雅春(たにぐち まさはる、1893年〈明治26年〉11月22日 - 1985年〈昭和60年〉6月17日)は、新宗教「生長の家」創始者・初代総裁。旧名は同訓異字の“正治”。兵庫県八部郡烏原村東所(現:兵庫県神戸市兵庫区烏原町)に生まれ、大阪市港区の大阪府立市岡中学(旧制)出身。早稲田大学文学部英文科中退。同学科には青野季吉、木村毅、坪田譲治らが在学していた。 著作は400冊以上に及び、主著『生命の實相』は通算1,900万部を超える。他に『新版真理』全11巻、『新選谷口雅春選集』全20巻、『新選谷口雅春法話集』全12巻等、多数の著書(聖典)がある。他にも、彼が受けたとした33の神示(総称:『七つの燈臺の點燈者の神示』)や自由詩の形態を取る「聖経」として『甘露の法雨』『天使の言葉』『続々甘露の法雨』等がある。
樋口 敬七郎(ひぐち けいしちろう、1893年(明治26年)… 樋口 敬七郎(ひぐち けいしちろう、1893年(明治26年)11月22日 - 1971年(昭和46年)12月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 佐賀県唐津市出身。1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業した。 1931年(昭和6年)8月、陸士教官から関東軍独立守備隊参謀に転出、翌月、満州事変が勃発した。1934年(昭和9年)8月、陸大教官に発令された。1938年(昭和13年)7月、歩兵大佐に昇進。1939年(昭和14年)11月、第3師団参謀長に就任し日中戦争に出征。南支那方面軍参謀副長を経て、第23軍参謀副長となり、1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に進級し太平洋戦争を迎えた。
尾崎 卓爾(おざき たくじ、1893年(明治26年)11月2… 尾崎 卓爾(おざき たくじ、1893年(明治26年)11月20日 – 1958年(昭和33年)10月13日)は、高知県出身の歴史家・記者。号は吸江(ぎゅうこう)。中岡慎太郎の伝記を日本で初めて著した人物。陽明社の創始者・尾崎旦は兄。 1893年(明治26年)11月20日、尾崎旦爾(手島熊吉)の四男として高知県安芸郡北川村野川番地に生まれる。母は尾崎旦信(折蔵)の長女・亀。 旧制高知商業学校を経て明治大学へ進む。卒業後、土陽新聞の速記部長、のち徳島日日新聞の東京支局長などを務める。 文壇「博浪沙」に参加、大町桂月、田中貢太郎らと交わる。土佐人の典型のような、豪放磊落で気骨のある性格で、あるとき貢太郎を伴って北川村の実家に帰ったが、議論伯仲し、両人とも酒豪であったため、二人で一斗樽を飲み空かしたと言われる。
山本 真平(眞平、やまもと しんぺい、1893年(明治26年… 山本 真平(眞平、やまもと しんぺい、1893年(明治26年)11月20日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚、検察官。台湾総督府食糧局長。 山本芳太郎の二男として大分県北海部郡臼杵町(現・臼杵市)に生まれる。1919年(大正8年)7月に東京帝国大学法科(英法)を卒業し、山下汽船鉱業(商船三井の前身企業のひとつ)に入社する。のち法曹界に転じ、1922年(大正11年)5月、宇都宮地方司法官試補、大阪区裁判所検事を経て、1928年(昭和3年)7月に渡台し、台北地方法院検察官となる。 ついで台湾総督府官房法務課、法務課長事務取扱、法務課長、府審議室兼務、府総動員関係軍機文書取扱主任、府人事課長を経て、1939年(昭和14年)12月に台湾総督府食糧局長に就任。
永田 衡吉(ながた こうきち、1893年11月20日 - 1… 永田 衡吉(ながた こうきち、1893年11月20日 - 1990年2月27日)は、日本の劇作家、民俗芸能研究家。 和歌山県新宮出身。1917年早稲田大学英文科卒、東京帝国大学で美学美術史を学ぶ(卒業未確認)。21年から戯曲を発表、27年柳田國男、折口信夫らの民俗芸術の会の結成に参加、28年「信州義民伝」が6代目尾上菊五郎によって上演、「源義朝」が沢田正二郎によって上演される。30年菊五郎の日本俳優学校の設立に参加し講師となる。
田中 菊雄(たなか きくお、1893年11月19日 - 19… 田中 菊雄(たなか きくお、1893年11月19日 - 1975年3月29日)は、日本の英語学者、英和辞典編纂者である。 北海道小樽市生まれ。父の事業の失敗が元で、貧窮に耐えて暮らした。旭川市の高等小学校に通学したのち、旭川駅所属の列車ボーイとなる。文学青年だった車掌から小説を借りては、乱読していたという。 列車ボーイを辞め、18歳のときに上川郡鷹栖村近文第一高等尋常小学校の代用教員に採用され、翌年、検定試験に合格し正教員となった。このころ英文学研究を志し、独学に没頭するかたわら、遠距離に住んでいたアメリカ人教師に学ぶ。田中の学習法は「睡眠時間節約のために、一切室に火をおかず、床をとらず、端然として机に向って、いよいよ眠くなってたまらなくなると、そのまま外套をかぶってゴロリと畳の上にねる」「やや眠りが浅くなってだんだんと寒くなって目をさますと、すぐまた机に向うという極端な手段」といったような壮絶なものであった。
野田 高梧(のだ こうご、1893年(明治26年)11月19… 野田 高梧(のだ こうご、1893年(明治26年)11月19日 - 1968年(昭和43年)9月23日)は、日本の脚本家。シナリオ・ライター協会初代会長。 次兄は日本画家の野田九甫、娘は脚本家の立原りゅう、その夫は同じく脚本家の山内久。また、幕末の漢学者・野田笛浦は祖父にあたる。 税官吏・野田鷹雄の子として北海道函館市に生まれ、長崎県・名古屋市で育つ。愛知一中(現・愛知県立旭丘高等学校)、早稲田大学英文科を卒業後、映画雑誌記者・東京市職員を経て、1924年に松竹蒲田撮影所に入所。以後、蒲田および移転した大船撮影所で、現代劇の中心的脚本家として活躍し、小市民の生活を味わい深く描いたいわゆる「大船調」の代表的存在となる。