石原 省三(いしはら しょうぞう、1910年8月10日- 1… 石原 省三(いしはら しょうぞう、1910年8月10日- 1993年7月19日)は、日本の元スピードスケート選手・指導者。第二次世界大戦前にオリンピック出場2回。1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘン大会では500mで4位入賞を果たした。 満洲安東県(現在の中国遼寧省丹東市東港市)に生まれ育つ。南満洲鉄道(満鉄)がスケートを奨励したこともあり、満洲は大日本帝国の勢力圏において「スケート王国」と評され、スケート競技では内地を圧倒していた。スピードスケートにおいては、満鉄の仲介でハルピン在住ロシア人スケーター、ルシチャイがコーチとして指導にあたっていた。1931年には満鉄の岡部平太監督のもと石原らがヘルシンキの世界選手権大会に出場している。
木下 双葉(きのした ふたば、1910年8月9日 - 193… 木下 双葉(きのした ふたば、1910年8月9日 - 1938年8月30日)は、日本の女優である。本名は光田 貞子(みつだ さだこ)で、初期は本名で活動していた。 1910年(明治43年)8月9日、東京府東京市本所区押上町(現在の東京都墨田区押上)に「光田貞子」として生まれる。 1926年(大正15年)、名古屋のキリスト教主義学校である旧制・金城女学校(現在の金城学院高等学校)を卒業し、東京に戻って、松竹蒲田撮影所に入社する。当時は本名を名乗っていた。1929年(昭和4年)、京都に移り、東亜キネマ京都撮影所に移籍した。1931年(昭和6年)9月、東亜キネマが経営不振に陥り、福西譲治監督の『霧の中の白蓮』を最後に、同社の業務を代行する会社として設立された東活映画社(東活)に移籍する。
やなぎ 女楽(やなぎ めらく、1910年〈明治43年〉8月8… やなぎ 女楽(やなぎ めらく、1910年〈明治43年〉8月8日 - 1997年〈平成9年〉6月17日)は、日本の曲独楽師。本名∶田口 亀次。 群馬県館林市出身。芝居小屋の息子で小さい頃から芸事に親しむ。館林中学中退後、1929年に上京し落語家の5代目柳亭左楽に入門する。はじめは噺家を目指し柳亭女楽を名乗る。 のち噺家の道を断念し曲ごまを独学で学ぶ。素人演芸会に出ていたところプロの目に留まり、1942年、本郷の寄席にやなぎ女楽の名で出演。戦後、米軍キャンプの慰問などで日本各地を回った。1965年から落語芸術協会に所属する。 十八番は「衣紋流し」。貴重な膝替わりの芸人として晩年まで寄席出演をしていた。
杉本 甫(すぎもと はじめ、1910年8月8日 - )は、日… 杉本 甫(すぎもと はじめ、1910年8月8日 - )は、日本の実業家で、市川毛織(現・イチカワ)顧問。東京府(現・東京都)出身。
福永 健司(福永 健司、ふくなが けんじ、1910年〈明治4… 福永 健司(福永 健司、ふくなが けんじ、1910年〈明治43年〉8月5日 - 1988年〈昭和63年〉5月31日)は、日本の政治家、衆議院議長(第63代)、内閣官房長官(第9・10・26・27代)、労働大臣(第19代)、厚生大臣(第51代)、運輸大臣(第49代)、自由民主党国会対策委員長、自由民主党総務会長を歴任。位階は従二位、勲一等旭日桐花大綬章。息子は元自民党衆議院議員の福永信彦。 滋賀県甲賀郡甲賀町(現・甲賀市)出身。旧制松江高校文科甲類、1933年東京帝国大学法学部法律学科卒業後、片倉製糸紡績に入社。 1947年、西村実造埼玉県知事の要請を受けて埼玉県副知事となる。カスリーン台風が到来したときには、利根川が決壊するなか陣頭指揮にあたる。
津田 穣(つだ ゆたか、1910年〈明治43年〉8月4日 -… 津田 穣(つだ ゆたか、1910年〈明治43年〉8月4日 - 1955年〈昭和30年〉8月12日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。 京都府出身。1935年京都帝国大学文学部仏文科卒。第三高等学校講師、大阪高等学校(旧制)教授。 ブレーズ・パスカル『パンセ』の翻訳で知られる。 息子は俳優、声優、ナレーターの津田喬。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
金沢 良雄(かなざわ よしお、1910年8月4日 - 198… 金沢 良雄(かなざわ よしお、1910年8月4日 - 1987年1月6日)は、日本の法学者。専門は、経済法・公害・環境法。学位は、法学博士(東京大学・論文博士・1961年)(学位論文「水法論」)。成蹊大学名誉教授。東京大学法学部教授を歴任。1977年紫綬褒章受章。弁護士。大阪出身。「金澤良雄」とも表記される。 1928年(昭和3年)旧制大阪府立今宮中学校卒業、1931年(昭和6年)旧制浪速高等学校卒業。1938年(昭和13年)東京帝国大学法学部卒。国際文化振興会、中央物価統制協力会議、内閣総合計画局、内閣調査局、東京大学嘱託を経て、1948年(昭和23年)東京大学法学部助教授。 1953年(昭和28年)北海道大学法経学部教授。
伊藤 佐喜雄(いとう さきお、1910年8月3日 - 197… 伊藤 佐喜雄(いとう さきお、1910年8月3日 - 1971年10月17日)は、日本の作家。 島根県津和野生まれ。女優の伊沢蘭奢の子。漢方胃腸薬「一等丸」で知られる、島根県津和野の薬屋「伊藤博石堂」の長男として生まれる。大阪高等学校中退。在学中に文芸評論家の保田與重郎を知り師事、『日本浪曼派』、『コギト』の同人となる。 1936年第二回「芥川賞」に「面影」と「花の宴」の2作が候補となる。1943年「花の鼓笛」で第8回池谷信三郎賞を受賞。 戦後は少女小説や、偕成社の児童向け名作文庫の再話、偉人伝などを執筆した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
津川 武一(つがわ たけいち、1910年8月2日 - 198… 津川 武一(つがわ たけいち、1910年8月2日 - 1988年9月4日)は、日本の政治家、精神科医、作家である。 青森県南津軽郡五郷村(現青森市浪岡地区)に生まれ、小作人の子どもとして育つ。学業成績が優秀であったため、小学校の教師のすすめで弘前中学校に進学し、その後旧制弘前高等学校に進む。弘前高時代は、石上玄一郎と交友をもつ。なお、太宰治とも同時期に弘前高に在学していたが、そのころは交流はなかったという。なお、津川、石上、太宰は、いずれも旧制中学四修で高校入学組の秀才だった。ただし、太宰は高等小学校1年就学後に中学入学のため津川と石上よりは一歳上だった。 1930年、東京帝国大学医学部に進学。
友田 信(ともだ しん、1910年(明治43年)8月2日 -… 友田 信(ともだ しん、1910年(明治43年)8月2日 - 2000年(平成12年)5月16日)は、日本の経営者。文化放送、キングレコード、サンケイ・スワローズで社長を務めた。 京都府京都市出身。1936年に早稲田大学政治経済学部を卒業。第一紙業社社長、第一通信社社長を経て、1956年に文化放送専務に就任し、1968年には社長に昇格した。 その一方で、産業経済新聞社で取締役と専務を務め、キングレコードで代表取締役社長と会長を務めた。フジテレビジョン代表取締役、サンケイ・スワローズ球団社長も務めた。 1971年に藍綬褒章を受章し、1981年に勲二等瑞宝章を受章した。 2000年5月16日肺炎のために死去。
萱場 照雄(かやば てるお、1910年(明治43年)8月1日… 萱場 照雄(かやば てるお、1910年(明治43年)8月1日 - 1984年(昭和59年)7月3日)は、日本の剣道家。段位は範士八段。 1940年(昭和15年)の天覧試合で準優勝した逆二刀の剣道家である。 宮城県伊具郡枝野村(現角田市)に生まれる。1934年(昭和9年)2月、宮城県警察官に任官。第二高等学校 (旧制)剣道師範の乳井義博から二刀流を学ぶ。1940年(昭和15年)6月20日、紀元二千六百年奉祝天覧武道大会府県選士の部で準優勝。1948年(昭和23年)4月、宮城県警察部を退職。その後、萱場産業を設立。 宮城県剣道連盟理事、仙台市剣道連盟名誉会長等を歴任した。
小林 千代子(こばやし ちよこ、1910年7月30日 - 1… 小林 千代子(こばやし ちよこ、1910年7月30日 - 1976年11月25日)は、日本の戦前期に活動した流行歌歌手・声楽家である。北海道小樽市出身。別名、金色仮面・小林伸江。 東京府立第七高等女学校(現・東京都立小松川高等学校)卒業後、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)に入学。卒業後、新宿ムウランルウジュで初舞台を踏む。 その後、松竹楽劇部(のちの松竹歌劇団)に入団、水の江滝子やオリエ津阪の相手役を務め、1936年に退団するまで、「タンゴローザ」「ウィンナワルツ」「蝶々夫人の幻想」等、多くの歌劇に出演する。 松竹楽劇部入部と同時に日本ビクター蓄音器株式会社に入社し「金色仮面」(ゴールデン・マスク)という芸名で音盤界デビューを果たした。
山本 清二郎(やまもと せいじろう、1910年 <明治43年… 山本 清二郎(やまもと せいじろう、1910年 <明治43年> 7月30日 - 1995年 <平成7年> 12月12日)は、日本の検察官。最高検察庁次長検事、大阪高等検察庁検事長。位階は正三位。 愛知県出身。1933年、中央大学法学部卒業、銀行員を経て、1935年に検事任官。戦後の公職追放によって、塩野季彦らを大御所とする戦前からの主流であった思想検事系列の一掃と共に、東京地検特別捜査部長(1953年11月9日-1955年10月3日)に。東京地検次席検事に田中萬一、主任検事に河井信太郎と主だったポストには中央大学出身者が占めた。その後も河井らと昭和電工事件、造船疑獄、共和製糖事件、日通事件などの主だった政界汚職に従事した。
赤松 貞明(あかまつ さだあき、1910年(明治43年)7月… 赤松 貞明(あかまつ さだあき、1910年(明治43年)7月30日 - 1980年(昭和55年)2月22日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中尉。日中戦争、太平洋戦争の撃墜王。 1910年(明治43年)7月30日高知県土佐郡秦村(現高知市)で測候所長の子として生まれる。中学海南学校を卒業し、1928年(昭和3年)6月佐世保海兵団に入隊、四等水兵。1929年(昭和4年)大村航空隊所属の柴田武雄中尉の従兵となる。柴田によれば、赤松は外出しては酔って暴れ、そのたびに柴田がもらい下げにいったという。1931年(昭和6年)6月、第17期操縦練習生。教官は源田実大尉。1932年(昭和7年)3月、同修了。その後、大村航空隊、空母「赤城」、「龍驤」、「加賀」に配属。
関口 恒五郎(せきぐち つねごろう、1910年7月29日 -… 関口 恒五郎(せきぐち つねごろう、1910年7月29日 - 1988年11月3日)は、昭和時代の日本の柔道家、関口病院院長。全日本学生柔道連盟会長などを歴任[要出典]。講道館八段。父は関口孝五郎、兄は関口林五郎。
田中 文雄(たなか ふみお、1910年7月29日 - 199… 田中 文雄(たなか ふみお、1910年7月29日 - 1998年1月6日)は、日本の経営者。王子製紙社長、会長を務めた。 長野県南佐久郡平賀村(現佐久市)出身。旧制野沢中学を経て、1935年に九州帝国大学農学部林学科を卒業し、同年に王子製紙に入社した。1956年に取締役に就任し、常務、副社長を経て、1968年に社長に就任。社長在任中は、北日本製紙、日本パルプ工業との合併を実現させ、紙パルプ業界の国際化に尽力した。1981年に会長に就任し、1989年から取締役相談役を務めた。1982年には病気療養中の市村修平社長に代わり、社長を一時代行した。 1979年から1987年までに日本経営者団体連盟副会長を務め、1981年には日本製紙連合会会長に就任した。
井伊 直愛(いい なおよし、1910年(明治43年)7月29… 井伊 直愛(いい なおよし、1910年(明治43年)7月29日 - 1993年(平成5年)12月2日)は、日本の水産学者・政治家。旧彦根藩主井伊家の第16代当主。農学博士(東京大学・論文博士・1961年)(学位論文「極東海域におけるアミ科の分布に関する研究」)。滋賀大学経済学部講師、彦根市長。彦根市名誉市民。滋賀県出身。 幕末の大老井伊直弼の曾孫にあたる。 伯爵井伊直忠の庶子。生母は東京の斎藤ふく。 海軍軍人志望だったが体格に自信がなく、また当時の軍を支配していた藩閥を嫌って学問の道に進み、東京帝国大学農学部水産学科から同大学院に学ぶ。専門はアミ類で、約50種の新種を発見した。東大農学部嘱託、文部省資源科学研究所や滋賀県水産試験場、滋賀大学経済学部講師などを歴任した。
今日泊 亜蘭(きょうどまり あらん、1910年(明治43年)… 今日泊 亜蘭(きょうどまり あらん、1910年(明治43年)7月28日 - 2008年(平成20年)5月12日)は、日本の小説家、SF作家。本名は水島 行衛(みずしま ゆきえ)。「今日泊」以外のペンネームに水島多樓(みずしま たろう)、水島太郎、璃昴(りぼう)、紀尾泊世央(きおどまり ぜお)、今日泊蘭二、宇良島多浪(うらしま たろう)、園兒(えんじ)、志摩滄浪(しま そうろう)など。日本SF界の最長老として知られた。代表作は、日本SFの古典としても知られる『光の塔』。
大澤 孝(おおさわ たかし、1910年7月26日 - 198… 大澤 孝(おおさわ たかし、1910年7月26日 - 1987年1月10日)は、日本の経営者。山梨県出身。 府立一中を経て、1935年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に鐘紡に入社。 1949年に鐘淵化学工業(現在のカネカ)に転じ、1956年11月に取締役に就任し、1962年2月に常務、1968年5月に専務を経て、1969年5月に副社長に就任し、1974年11月には社長に昇格。1978年11月に会長に就任し、1982年6月から相談役を務めた。 1987年1月10日脳梗塞のために死去。76歳没。
斎藤 栄治(さいとう えいじ、1910年7月26日 - 19… 斎藤 栄治(さいとう えいじ、1910年7月26日 - 1979年1月22日)は、日本のドイツ文学者。 1933年東京帝国大学独文科卒。戦後、1971年まで東京大学教養学部教授。ゲーテなどを専門とし、多くの翻訳書がある。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
高橋 邦雄(たかはし くにお、1910年〈明治43年〉7月2… 高橋 邦雄(たかはし くにお、1910年〈明治43年〉7月25日 - 1988年〈昭和63年〉8月26日)は、昭和期の地方公務員、政治家。参議院議員(1期)、群馬県副知事。 群馬県群馬郡車郷村富岡(箕郷町を経て現高崎市)で生まれる。旧制高崎中学、旧制松本高校を経て、1936年(昭和11年)京都帝国大学法学部を卒業した。 1936年、群馬県庁に入庁し総務部地方課に配属された。1937年(昭和12年)10月、充員召集令により歩兵第15連隊に入隊し1940年(昭和15年)1月に召集解除となったが、1941年(昭和16年)8月に再度充員召集を受けて東部38部隊に入隊し、1945年(昭和20年)4月に解除された。
大月 明(おおつき あきら、1910年7月25日 - 198… 大月 明(おおつき あきら、1910年7月25日 - 1987年2月16日 )は、日本の医学者。論文『から・あざーるニ関スル研究』で、博士(医学)の学位授与(主査:木村廉「微生物学」)。学位記宛先は、大阪府三島郡富田町(現・高槻市富田町)。現住所:不掲載。
阿部 九洲男(あべ くすお、1910年7月24日 - 196… 阿部 九洲男(あべ くすお、1910年7月24日 - 1965年11月2日)は、日本の俳優である。初期の芸名は春見 堅太郎(はるみ けんたろう)など、本名は伊東 石太郎(いとう いしたろう)である。 1910年(明治43年)7月24日、神奈川県横浜市寿町(現在の同県同市中区寿町)に「伊東石太郎」として生まれる。 満19歳を迎える1929年(昭和4年)、古海卓二監督の紹介で京都の市川右太衛門プロダクションに入社、「春見堅太郎」の芸名で、同年、城戸品郎監督の『髪』に出演、大貫三郎衛門役を演じる。市川右太衛門に師事する が、1931年(昭和6年)には関東に戻り、東京・巣鴨の河合映画製作社に移籍する。同年、村越章二郎監督の『清水の小政』に出演している。
山中 吾郎(やまなか ごろう、1910年(明治43年)7月2… 山中 吾郎(やまなか ごろう、1910年(明治43年)7月23日 - 1983年(昭和58年)6月2日)は、昭和期の教育者、地方公務員、政治家。衆議院議員。 和歌山県伊都郡名倉村(高野口町を経て現橋本市高野口町)出身。1933年(昭和8年)東京高等師範学校文科を卒業した。 山形県立山形中学校(現山形県立山形東高等学校)教諭、三重県師範学校教諭、京都府師範学校教諭などを歴任。1943年(昭和18年)7月、高等試験行政科試験に合格。1945年(昭和20年)岩手県庁に入庁。学務課長兼厚生課長、労働部長、教育部長を歴任し、1948年(昭和23年)岩手県教育委員会教育長に就任。その後、公共企業体等労働委員会地方調停委員、岩手大学講師、私立修紅短期大学助教授などを務めた。
木村 栄一(きむら えいいち、1909年8月22日 - 19… 木村 栄一(きむら えいいち、1909年8月22日 - 1985年6月16日)は、日本の実業家、株式会社木村屋總本店元代表取締役社長(5代目)、全日本パン協同組合連合会初代会長、日本パン工業会元会長。 1909年、東京生まれ。1933年、立教大学商学部(現・経済学部)卒業。大学在学中は体育会ラグビー部に所属。 大学卒業後、家業である木村屋總本店へ入社。1947年、木村屋總本店取締役社長(5代目)に就任。 1956年、全日本パン協同組合連合会設立にあたり初代会長に就任。 母校、立教大学のラグビー部監督も務めた 木村屋總本店の本社、工場、店舗に、額に入れて掲げられている『五つの幸福』 『四大目標』は、栄一が繰り返し口にしていた言葉であり、木村屋の根幹をなす企業理念となっている。
遠山 啓(とおやま ひらく、1909年8月21日 - 197… 遠山 啓(とおやま ひらく、1909年8月21日 - 1979年9月11日)は、熊本県下益城郡(現・宇城市)出身の日本の数学者。数学教育の分野でよく知られる。
小野川 秀美(おのがわ ひでみ、1909年8月21日 - 1… 小野川 秀美(おのがわ ひでみ、1909年8月21日 - 1980年7月20日)は、日本の東洋史学者。学位は、文学博士(論文博士・1961年)(学位論文「清末政治思想研究」)。京都大学名誉教授。 高知県安芸郡生まれ。高知県立高知城北中学校、高知高等学校文科乙類を経て、1933年京都帝国大学文学部史学科(東洋史学専攻)卒業。 東方文化研究所嘱託員を経て、1940年(昭和15年)、東方文化研究所(現:京都大学人文科学研究所)助手就任。1951年(昭和26年)に京都大学人文科学研究所助教授。1961年(昭和36年)学位論文「清末政治思想研究」で文学博士の学位を取得。1965年(昭和40年)に同教授に就任する。
岩崎 敏夫(いわさき としお、1909年8月21日 - 20… 岩崎 敏夫(いわさき としお、1909年8月21日 - 2004年10月28日)は、日本の民俗学者、歌人。 福島県相馬生まれ。國學院大學高等師範部卒。1962年「本邦小祠の研究」で國學院大學文学博士。相馬女子高等学校教頭。東北学院大学教授。1963年「本邦小祠の研究」で柳田賞受賞。歌人。
斎藤 鶴子(さいとう つるこ、1909年8月20日 - 20… 斎藤 鶴子(さいとう つるこ、1909年8月20日 - 2000年9月30日)は、日本の平和運動家。 宮崎県延岡で、7人兄弟中の3姉妹の長女として生まれた。父は教員で、各地の学校で校長を務めた。 1930年に、東京女子高等師範学校附属高等女学校専攻科を卒業した。在学中は幼児教育を専門とした倉橋惣三に師事し、またテニスに打ち込んだ。その後、結婚して東京・中野に定住したが、戦時中の1944年には山形県に疎開していた。 1950年代に、PTA活動に参加するようになったことをきっかけに、社会問題への関心を深め、1954年の第五福竜丸の被爆事件を機に、安井郁らが組織した主婦学習グループ「杉の子会」に加わり、原水爆禁止運動、平和運動に関わり始め、1955年に『朝日新聞』への投書をきっかけに投稿者らの女性グループ「草の実会」に参加して、1967年には「草の実会」を母体に平和研究グループを組織し、原水爆禁止運動などに取り組んだ。
安田 敏雄(やすだ としお、1909年(明治42年)8月20… 安田 敏雄(やすだ としお、1909年(明治42年)8月20日 - 1977年(昭和52年)9月27日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員(1期)。 山梨県南都留郡谷村町下谷(現都留市)で生まれる。1927年(昭和2年)都留中学校(現山梨県立都留高等学校)を卒業した。 谷村町町営電気部(のち東京電燈に合併)に入所。戦後、労働運動に加わり、関東配電労働組合大月分会委員長、南都留労協委員長、東京電力労働組合山梨県支部常任執行委員などを務めた。また社会運動研究会「黎人荘」を設立して主幹に就任。 政界では、社会大衆党に入党。1947年(昭和22年)山梨県議会議員に選出され2期在任し、同副議長を務めた。
西 律(にし りつ、1909年〈明治42年〉8月20日 - … 西 律(にし りつ、1909年〈明治42年〉8月20日 - 1983年〈昭和58年〉4月30日)は和歌山県の政治家・郷土史家。和歌山県東牟婁郡四村の村長、本宮町町議会議員をつとめた。政治家の職を退いた後、熊野九十九王子の調査に従事した。 西は1909年(明治42年)8月20日、和歌山県東牟婁郡四村(和歌山県田辺市本宮町)に生まれた。新宮中学校を中退した後、家業の林業に一時従事したが、陸軍に入隊し、郷里を出た。第二次大戦中は満州で軍役に就いたが、敗戦とともにソ連に抑留され、1949年(昭和24年)に帰国した。帰国後、1949年から四村の村長に就任し、水害にあった村の復旧など、政治家としての手腕を振るったが、1951年(昭和31年)に四村ほかいくつかの町村が合併して本宮町が成立する際の町長選で落選した。
三原 朝雄(みはら あさお、1909年8月20日 - 200… 三原 朝雄(みはら あさお、1909年8月20日 - 2001年3月7日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲一等旭日大綬章(1986年4月)。 衆議院議員(8期)、文部大臣、防衛庁長官、総理府総務長官を歴任した。福原学園元理事。長男は元北九州市議会議員の三原征彦、次男は元衆議院議員の三原朝彦。陸軍軍人の山縣初男は岳父にあたる。 福岡県にて三原幸太郎の次男として生まれる。生家は貧しい農家だった。1927年に旧制東筑中学校(現・福岡県立東筑高等学校)卒業後、上京して明治大学専門部法科に入学する。明大在学中に愛国学生連盟を組織して学生運動を展開する傍ら、当時の著名人を訪問し教えを請うた。この頃から「貧乏からの解放」を終生の政治理念とし、この理念を共有する学生運動関係者、二・二六事件の青年将校、右翼関係者と最後まで付き合いがあった(三原は「右翼・保守思想とは、一言でいえば“優しさと度量”」と考えていた)。
市之瀬 廣太(いちのせ ひろた、1909年8月20日 - 1… 市之瀬 廣太(いちのせ ひろた、1909年8月20日 - 1995年2月23日)は日本の芸術家。 岐阜県土岐郡土岐村市原(現瑞浪市)の雛人形づくりの家に生まれる。 小学校5年生の時に、江戸川乱歩の小説のとある美しい彫刻のシーンが強烈に印象に残り、自分もいつしかあのような作品が作ってみたいと思う。 18歳から本格的に彫刻を習い始め、翌年、東京の雨宮治郎(日本芸術院会員)の門下生となる。 「ハンティングの自刻像」で構造社展初入選。 1933年(昭和8年)「キネ子の顔」で構造社展最高構造賞、1962年(昭和37年)「破る」で日展菊華賞。 1968(昭和43年)名古屋芸術大学教授となる。 その後、数々の賞を受賞。
成田 理助(なりた りすけ、1909年(明治42年)8月18… 成田 理助(なりた りすけ、1909年(明治42年)8月18日 - 1988年(昭和63年)4月1日)は、日本の野球評論家。成田は旧姓。本姓は西田。息子は中日ドラゴンズに所属した西田暢。 長野県上水内郡三輪村(現長野市)で生まれる。旧制長野中学(現長野県長野高等学校)を経て、1934年(昭和9年)に法政大学法文学部法律学科を卒業する。大学在学中は、野球部選手として活躍し、2回の優勝に貢献する。 1934年東京鉄道局に入局。1940年応召。復員後の1949年に退職し、東鉄野球部監督、東京六大学野球審判員。1951年、明治座入社とともに野球部監督、全日本軟式野球連盟常任理事。1979年日本社会人野球関東連盟副会長。
小林 米三(こばやし よねぞう、1909年8月18日 - 1… 小林 米三(こばやし よねぞう、1909年8月18日 - 1969年2月10日)は、京阪神急行電鉄元社長、宝塚歌劇団元理事長。プロ野球球団阪急ブレーブスのオーナーでもあった。 阪急電鉄や宝塚歌劇団の創業者である小林一三の三男として生まれた。 京都帝国大学経済学部卒業後、1932年に阪神急行電鉄に入社。 1946年に取締役、1951年に専務取締役、1959年に代表取締役社長に就任。 専務時代の1956年に発生した庄内事件では、事件現場となった宝塚線庄内駅に自ら出向き、事態を収拾するため騒ぎを起こした群衆を説得した。 1968年5月から1969年1月まで宝塚歌劇団理事長を務め、2014年には『宝塚歌劇の殿堂』最初の100人のひとりとして殿堂表彰される。
平山 輝男(ひらやま てるお、1909年8月16日 - 20… 平山 輝男(ひらやま てるお、1909年8月16日 - 2005年8月17日)は、日本の国語学者。東京都立大学名誉教授。日本音声学会第5代会長。 宮崎県北諸県郡中郷村(現:都城市)生まれ。1922年3月に中郷村尋常高等小学校を卒業。1928年3月に麻布中学校を卒業。1935年3月に國學院大學文学部国文学科卒業。1937年3月に國學院大學大学院修了。金田一京助、折口信夫に師事。 1937年4月に法政大学講師。1940年6月に東京府立高等学校教授。1949年4月に東京都立大学人文学部助教授。1957年に文学博士となった(学位論文「日本語音調の研究」)。 1962年2月に東京都立大学人文学部教授。1969年4月に東京都立大学附属図書館長。
諸葛 義夫(もろくず よしお、1909年8月16日 - 19… 諸葛 義夫(もろくず よしお、1909年8月16日 - 1983年8月21日)は、日本の経営者。住友海上火災保険社長、会長を務めた。 東京都出身。1933年に東京商科大学本科を卒業し、同年に住友海上火災保険に入社。1960年6月に取締役に就任し、1965年6月に常務、1968年6月に専務を経て、1969年6月には社長に就任。1974年9月に会長を経て、1978年7月には相談役に就任。 1973年9月に藍綬褒章を受章し、1979年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1983年8月21日、急性心不全のために死去。74歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
相川 春喜(あいかわ はるき、1909年〈明治42年〉8月1… 相川 春喜(あいかわ はるき、1909年〈明治42年〉8月15日 - 1953年〈昭和28年〉4月29日)は、日本の科学史家、社会運動家。本名は矢浪久雄。 第二次世界大戦前の時期に唯物論研究会に参加し、技術史、科学哲学を中心にした理論学習運動の中核を担い、戦後は、シベリア抑留を経て、アジア地域における抑留者引揚運動に尽力した。第四高等学校中退。 新潟県高田市(現・新潟県上越市)南土橋出身。新潟師範附属小学校、佐渡河原田小学校、佐渡中学校、富山中学校を経て、第四高等学校文科乙類に首席で入学後、社会研究会、全国学聯支部に加盟。1928年6月の学生ストライキの責任者となる。 1929年、卒業試験後、雑誌「広場」の編集責任者であることを理由として卒業を取り消され、退学を命ぜられる。
内村 直也(うちむら なおや、1909年8月15日 - 19… 内村 直也(うちむら なおや、1909年8月15日 - 1989年7月27日)は、日本の劇作家、翻訳家。本名:菅原実(すがわら みのる)。実業家・劇作家の菅原卓は兄である。妻の富子は安川敬一郎の孫。 東京生まれ。1932年、慶應義塾大学経済学部卒。岸田國士に師事、同人誌『劇作』を編集担当。1935年に処女作「秋水嶺」を発表、築地座で上演された。戦後の作品として「雑木林」(1948)、「遠い凱歌」(1956)などがある。 NHKの連続ラジオ劇「えり子とともに」(1948 - 1951)の脚本ならびに劇中歌「雪の降るまちを」の作詞で広く知られている。また、日本の民間放送で初のテレビドラマとなった「私は約束を守った」(日本テレビ)(1953)や、「追跡」(NHK)(1955)をはじめ、初期のテレビドラマでも多く作品を発表した。
巴 一作(ともえ いっさく、1909年〈明治42年〉8月15… 巴 一作(ともえ いっさく、1909年〈明治42年〉8月15日 - 2020年〈令和2年〉4月14日)は、日本の医師、長寿の男性。渡邉智哲が2020年2月23日に死去して以来、男性長寿日本一となっていた。 愛知県岡崎市に生まれる。1939年、名古屋医科大学から医学博士を授与。1953年現在市立岡崎病院副院長であった。その後1968年、第4代市立岡崎病院長に就任。1979年9月に退職、のち名誉院長となっている。 岡崎市の老人ホームで生活し、車が好きで99歳の時まで運転していた。日ごろは車椅子で移動し、施設職員や入所者らとの会話を楽しみ、新聞を読んだりテレビを見たりして過ごしていた。 2020年2月23日、渡邉智哲が死去したことにより国内男性最高齢となったことが、厚生労働省により発表された。
福原 亮厳(ふくはら りょうごん、1909年〈明治42年〉8… 福原 亮厳(ふくはら りょうごん、1909年〈明治42年〉8月15日 - 2000年〈平成12年〉3月31日)は、浄土真宗の僧、仏教学者。龍谷大学名誉教授。 広島県生まれ。龍谷大学仏教学科卒。1961年「阿毘達磨佛教教理研究」で龍谷大学文学博士。龍谷大学助教授、教授、1977年退職、名誉教授。浄土真宗本願寺派勧学。2000年3月31日、敗血症のため死去する。享年90歳。
森 三樹三郎(もり みきさぶろう、1909年8月14日 - … 森 三樹三郎(もり みきさぶろう、1909年8月14日 - 1986年8月29日)は、日本の中国思想研究者。文学博士(大阪大学・論文博士・1962年)。大阪大学名誉教授、佛教大学文学部教授。専門は仏教と老荘思想との関連を軸とした中国哲学史。 京都府舞鶴市生まれ。旧制・大阪府立高津中学校卒、1935年京都帝国大学文学部哲学科支那哲学史専攻を卒業。京都帝国大学副手、東方文化研究所(現京都大学人文科学研究所)を経て、1942年大阪高等学校教授に任命。1950年大阪大学文学部助教授、1962年「上古より漢代に至る性命観の展開」で大阪大学より文学博士の学位を取得。1966年教授、1973年定年退官、名誉教授。
山口 興一(やまぐち おきかず、1909年8月13日 - 2… 山口 興一(やまぐち おきかず、1909年8月13日 - 2008年12月31日)は、日本の実業家。元関西テレビ放送代表取締役社長、元阪急電鉄副社長、元新阪急ホテル監査役、元京都大学蹴球部OBクラブ会長。 1909年、兵庫県神戸市に生まれる。1927年、甲陽中学校(現在の甲陽学院、6回卒)を卒業。その後、旧制山口高等学校を経て京都大学法学部を卒業。同大学では蹴球部に所属し、後にOBクラブ会長を務めた。 関西テレビ放送代表取締役社長、阪急電鉄副社長、新阪急ホテル監査役、阪急ブレーブスオーナー代行などを歴任した。
祐田 善雄(ゆうだ よしお、1909年(明治42年)8月13… 祐田 善雄(ゆうだ よしお、1909年(明治42年)8月13日 - 1973年(昭和48年)8月23日)は、日本の国文学者、浄瑠璃・歌舞伎研究者。 1909年(明治42年)、大阪府大阪市東区北久宝寺町で生まれた。1928年(昭和3年)に大阪府立今宮中学校を卒業し、第三高等学校文科乙類へ入学。1932年、同校を卒業後、京都帝国大学文学部文学科国語学国文科専攻に進んだ。1936年に卒業し、同大学大学院に進学。 京都大学に在籍のまま、1938年に天理図書館嘱託となる。これに合わせて、この頃天理市に居を移した。翌1939年2月に天理図書館司書を退職。1941年3月に京都帝国大学大学院を修了し、1942年4月から天理中学校嘱託に就職した。
松平 賴明(まつだいら よりひろ、1909年8月13日 - … 松平 賴明(まつだいら よりひろ、1909年8月13日 - 1990年2月23日)は、高松松平家13代当主。華族制度廃止までは伯爵。第2代本郷学園理事長、第4代本郷中学校・高等学校長。ボーイスカウト日本連盟理事、同国際コミッショナー、日本ユネスコ協会連盟理事長などを歴任した。ブロンズ・ウルフ章受章者。戦前は陸軍技術将校(最終階級は技術少佐)。 1909年(明治42年)、東京市本郷区池之端七軒町(東京都文京区七軒町)に、松平胖・俊子夫妻の長男として生まれる。初名は廣。父胖は高松松平家の12代当主・伯爵松平頼寿の同母弟で海軍軍人(のちに海軍大佐)であり、母俊子は侯爵鍋島直大の六女。 1915年(大正4年)、暁星小学校へ入学。
山田 勇(やまだ いさむ、1909年8月12日 - 1986… 山田 勇(やまだ いさむ、1909年8月12日 - 1986年4月26日)は、日本の経済学者・統計学者。学位は、経済学博士(一橋大学・1961年)。1973年一橋大学名誉教授。1975年日本統計学会会長。国民経済計算、産業連関分析など計量経済学分野の研究で知られる。著書に『経済通論』・『産業連関の理論と計測』など、論文多数。訳書にW.J.ボーモル『経済動学序説』(共訳)・J.E.ミード『経済成長の理論』(監訳)など。 名古屋大学の北川一雄教授とともに名古屋高等商業学校が産んだ逸材の双璧とされた。指導学生に山澤逸平(一橋大学名誉教授)、島久代(千葉大学名誉教授)など。
横山 保(よこやま たもつ、1909年(明治42年)8月11… 横山 保(よこやま たもつ、1909年(明治42年)8月11日 - 1981年(昭和56年)3月)は、日本の海軍軍人、航空自衛官。海兵59期。最終階級は海軍で中佐、空自で空将補。 1909年8月11日、神奈川県横須賀市で海軍軍人の次男として生まれる。横須賀中学校を経て、1928年4月、海軍兵学校に59期生として入校。1931年11月7日兵学校を卒業。1934年11月、第26期飛行学生拝命。1935年7月、同課程修了、戦闘機搭乗員となる。1936年11月、佐伯空。 1937年2月、大分空分隊長。7月、支那事変の勃発に伴い、十三空分隊長として上海の公大飛行場に着任。哨戒任務を行う。9月19日、南京の中国空軍機殲滅を目的とした南京第一次空襲に第1大隊(制空隊、九六式艦戦13機)第3中隊長として参加。
古関 裕而(こせき ゆうじ、 1909年(明治42年)8月1… 古関 裕而(こせき ゆうじ、 1909年(明治42年)8月11日 - 1989年(平成元年)8月18日)は、日本の作曲家。本名は古關 勇治。1969年(昭和44年)、紫綬褒章受章、1979年(昭和54年)、勲三等瑞宝章を受章。
井村 栄三(いむら えいぞう、1909年8月11日 - 19… 井村 栄三(いむら えいぞう、1909年8月11日 - 1996年10月22日)は、日本の経営者。三重県出身。 1930年に名古屋高等商業学校を卒業。 トヨタ自動車工業などでの勤務を経て、1949年に日本電装監査役に就任し、1951年5月に取締役、1955年に常務、1962年に専務を経て、1967年に副社長に就任した。1973年12月に東海理化電機製作所社長に就任。1979年6月には会長に就任した。1979年6月から1983年6月までに光洋精工社長を務めた。 1977年4月に藍綬褒章を受章し、1984年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1996年10月22日慢性腎不全のために死去。87歳没。
福永 英二(ふくなが えいじ、1909年8月11日 - 20… 福永 英二(ふくなが えいじ、1909年8月11日 - 2002年11月18日)は、朝日新聞記者、翻訳家であり、アフリカとの民間外交も担った。 山口県生まれ。1936年早稲田大学法学部卒。1939年パリ大学修了、朝日新聞社入社、欧米部員、海外特派員などを経て、1956年退社。在フランス日本大使館勤務ののち、1959年社団法人日本アフリカ協会専務理事。1985年日本とアフリカの民間外交の功績で勲三等瑞宝章を受章(『日本企業の体験的アフリカ』略歴)。ほかフランス語の翻訳も行った。 2002年11月18日、心不全のため死去。