片柳 真吉(片柳 眞吉、かたやなぎ しんきち、1905年3月… 片柳 真吉(片柳 眞吉、かたやなぎ しんきち、1905年3月25日 - 1988年6月8日)は、日本の農林官僚、政治家。参議院議員(1期)、農林中央金庫理事長。 東京府出身。1928年に東京帝国大学法学部を卒業し、農林省に入省した。貿易庁輸入局長、食糧管理局長官を務めたのちに、1948年、農林次官に就任。 1950年に農林省を退官し、同年に実施された第2回参議院議員通常選挙で緑風会所属として立候補し、当選。1956年の第4回参議院議員通常選挙で落選し議席を失ってからは、全国漁業協同組合長、農林中央金庫理事長といった職を歴任した。 1975年(昭和50年)秋の叙勲で勲一等瑞宝章受章(勲四等からの昇叙)。
松野 孝一(まつの こういち、1905年3月25日 - 19… 松野 孝一(まつの こういち、1905年3月25日 - 1967年7月29日)は、日本の政治家、台湾総督府及び農林官僚。参議院議員(3期)。衆議院議員(1期)。 現在の大館市出身。菅原精一の二男に生まれ、能代港町(現能代市)の松野一也の養子となる。1927年高等文官試験行政科と司法科に合格。翌1928年に東京帝国大学法学部を卒業し、台湾総督府へ入庁。台北州海山郡守、台中州勧業課長、総督府米穀、農務、特産各課長、食糧部長、逓信部長を歴任の後、終戦で農林省へ転籍し開拓局第一部長、東京農地事務局長、仙台農地事務局長を務める。この間、1947年には請われて宮城県本吉郡入谷村(現南三陸町)村長に就任した。
黒崎 義介(くろさき よしすけ、1905年3月25日-198… 黒崎 義介(くろさき よしすけ、1905年3月25日-1984年8月12日)は童画画家。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
楠見 義男(くすみ よしお、1905年3月24日 - 199… 楠見 義男(くすみ よしお、1905年3月24日 - 1996年2月2日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)。農林次官。 兵庫県出身。 1925年第六高等学校 (旧制)文科甲類卒、1928年東京帝国大学法学部政治学科卒。同年農林省に入る。大臣官房秘書課長、同調査課長、満洲国産業部参事官兼理事官、同総務庁企画処長、農林省総務局長、資材局長、食糧管理局長官、農林次官などを歴任する。1947年の第1回参議院議員通常選挙において全国区から無所属で立候補して当選した(のち緑風会に入る)。国会内では農林委員長を務めた。1953年の第3回参議院議員通常選挙でも再選されたが、栃木県佐野市の投票所においてこの選挙で次点となった平林剛(左派社会党)の所属政党が誤って「日本共産党」と表示されたため、翌1954年9月に楠見ほか下位当選者6名の当選が取り消された。
水野 清一(みずの せいいち、1905年3月24日 - 19… 水野 清一(みずの せいいち、1905年3月24日 - 1971年5月25日)は、日本の考古学者。学位は、文学博士(京都大学・1962年)(学位論文「雲岡石窟系譜」)。京都大学名誉教授。 1905年、兵庫県神戸市で生まれた。京都帝国大学文学部史学科に入学し、濱田耕作の下で学んだ。1928年に同大学を卒業。卒業後は、東亜考古学会の留学生として1940年4月より北京に留学した。 1961年に帰国し、同年1月より東方文化学院京都研究所に研究員として勤務した。1938年に学院が改組されると、東方文化研究所助教授。研究所では、中国彫塑芸術の研究をテーマとして、引き続き濱田耕作の指導を受けた。また、同僚の長廣敏雄らと共に研究所が1936年から終戦まで華北で進めた龍門石窟、山西省大同市での雲崗の発掘調査などに従事した。
佐野 博(さの ひろし、1905年3月24日 - 1989年… 佐野 博(さの ひろし、1905年3月24日 - 1989年4月4日)は、日本の社会主義運動家、評論家。田中清玄とともに、いわゆる「武装共産党」時代の日本共産党(第二次共産党)の指導部を組織した。佐野学の甥で、共産党系演劇人で革命歌「インターナショナル」訳詞者の佐野碩、社会学者鶴見和子・哲学者鶴見俊輔姉弟は従妹弟にあたる。 1905年、大分県速見郡杵築町(現・杵築市)に生まれる。旧制第七高等学校在学中に、学生サークル「鶴鳴会(かくめいかい)」に参加。1923年(大正12年)9月、鹿児島港にソ連の船が入港した折に佐野を含む鶴鳴会のメンバー数人は手漕ぎのボートで接近、「インターナショナル」を歌って乗船を許され、身振り手振り(メンバーにはロシア語に通じたものがいなかった)で船長と意思疎通を図り、パンフレットなどを渡されて戻るという事件を起こす。
明本 京静(あけもと きょうせい、1905年3月23日 - … 明本 京静(あけもと きょうせい、1905年3月23日 - 1972年10月17日)は、日本の作詞家、作曲家。本名は明本 教成。 青森県黒石市出身。旧制青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)を経て、旧制弘前高等学校卒業。東京帝国大学工学部中退。 近衛秀麿に師事し、新交響楽団(NHK交響楽団の前身)でベートーヴェンの「第九」のテナー独唱者となる。 その後、しばらく鳴かず飛ばずの時代が続いたが、昭和14年(1939年)、朝日新聞社が募集した「皇軍感謝の歌」の当選作、「父よあなたは強かった」の作曲依頼が日本コロムビアに依頼され、専属作曲家12人の競作になり、採用されたのは最も無名に近かった明本の曲であった。
亀岡 勝雄(かめおか かつお、1905年3月23日 - 19… 亀岡 勝雄(かめおか かつお、1905年3月23日 - 1945年11月14日)は、日本の元アマチュアボクシング選手。ロサンゼルスオリンピックフェザー級日本代表。福島県桑折町出身。 日本大学卒業。 1930年、全日本アマチュア拳闘連盟主催の全日本アマチュア拳闘選手権大会にフェザー級で優勝を収めた。この大会には帝国ホテル所属選手として出場した。 1932年、ロサンゼルスオリンピックにフェザー級の日本代表として出場したが、1回戦でこの大会の銅メダリストとなるアラン・カールソン(英語版)(スウェーデン)と対戦し、ポイント負けとなった。 この項目は、ボクシング関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJボクシング/PJキックボクシング)。
三上 卓(みかみ たく/たかし、1905年〈明治38年〉3月… 三上 卓(みかみ たく/たかし、1905年〈明治38年〉3月22日 - 1971年〈昭和46年〉10月25日)は、日本の海軍軍人、政治活動家、国家主義者。最終階級は海軍中尉。号は大夢。 佐賀県出身。第二次世界大戦以前の五・一五事件、および戦後の三無事件の双方に参加した人物として知られる。『青年日本の歌』(昭和維新の歌)の作詞者。著名な弟子に野村秋介がいる。 佐賀県佐賀郡本庄村(現・佐賀市本庄町)出身。父は北鮮日日新聞社長の三上新。佐賀中学校在学中は野球部に所属しており、チームメートには伊丹安広(のち早大監督、野球殿堂入り)や山口猛彦(画家)、小林竜二郎(東京製綱社長)などがいた。1926年(大正15年)3月に海軍兵学校を卒業(54期)。
井上 徳治(いのうえ とくじ、1905年3月22日 - 20… 井上 徳治(いのうえ とくじ、1905年3月22日 - 2002年5月21日 )は、日本の経営者。鐘淵化学工業社長、会長を務めた。 大阪府出身。1928年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に鐘紡に入社。1949年に鐘淵化学工業に転じ、1950年2月に取締役に就任し、1956年11月に常務、1962年11月に専務を経て、1968年5月に副社長に就任し、1969年5月には社長に昇格。1974年11月に会長に就任し、1978年6月から相談役を務めた。 1968年3月に藍綬褒章を受章。 2002年5月21日老衰のために死去。97歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
村瀬 幸子(むらせ さちこ、1905年〈明治38年〉3月21… 村瀬 幸子(むらせ さちこ、1905年〈明治38年〉3月21日 - 1993年〈平成5年〉10月9日)は、日本の女優。東京市本所区(現在の東京都墨田区)出身。本名は北村 さだ(旧姓:松井)。芸名を藤真 みや子としたこともある。夫は演劇家の北村喜八(1960年死別)。 東京府立第二高等女学校(現在の都立竹早高等学校)卒業、東京女子大学を中退。 1925年に築地小劇場に研究生として入った。1929年の劇団分裂後は劇団築地小劇場に参加。解散後の1931年、松竹蒲田撮影所に入社し、映画に出演した。1937年に北村喜八とともに芸術小劇場を結成した。同劇場は1943年に解散した。 1944年に千田是也、東野英治郎、東山千栄子、小沢栄太郎らとともに俳優座結成に参加し、以後劇団の中心人物として活動した。
早川 勝(はやかわ まさる、1904年4月19日 - 197… 早川 勝(はやかわ まさる、1904年4月19日 - 1979年2月5日)は、日本の柔道家(講道館8段)、実業家。 学生時代に旧制第六高校師範の金光弥一兵衛や同校柔道部員らと共に前三角絞を開発した事で知られ、社会人となってからは三菱鉱業を経て日本経営者団体連盟専務理事を務めるなど実業家として活躍した。また兄・昇(のぼる)も学生時代に柔道選手として腕を鳴らし、後には王子製紙にて専務取締役を務めている。 東京府中野区に生まれ、4歳年長の兄・昇と同じ県立第一神戸中学校(後の県立神戸高校)に進学して柔道を始めた。中学在学中には昇が籍を置いていた金光弥一兵衛率いる旧制第六高校柔道部の選手たちと共に前三角絞を編み出し、勝は大日本武徳会兵庫支部主催のもと1921年11月に開かれた兵庫県下中学柔道大会に主将として出場しこの技を駆使して優勝、その有効性を証明して見せた。
古賀 武夫(こが たけお、1904年4月19日 - 1992… 古賀 武夫(こが たけお、1904年4月19日 - 1992年5月3日)は、日本の法学者。西南学院大学学長、西南学院名誉顧問。 1904年(明治37年)、福岡県甘木市に生まれる。 1928年(昭和3年)、東京帝国大学法科卒業。1943年(昭和18年)、東京帝国大学大学院修了。その後日本貯蓄銀行、関東学院勤務などを経て、1949年(昭和24年)に西南学院大学教授に就任。1956年(昭和31年)から1969年(昭和44年)までのおよそ13年間に渡り同大の学長をつとめる。また1989年(平成元年)から西南学院理事長を2年間務めた。 専門は民法。勲三等旭日中綬章を1974年(昭和49年)に受賞。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
本間 茂雄(ほんま しげお、1904年(明治37年)4月19… 本間 茂雄(ほんま しげお、1904年(明治37年)4月19日 - 1974年(昭和49年)11月3日)は、日本の体操競技選手、指導者で、体育学者。 1932年ロサンゼルスオリンピック日本代表で、日本では最初の体操競技オリンピック選手の一人である。 新潟県の佐渡島出身。旧畑野町(現・佐渡市)の畑野尋常小学校から東京府東京市牛込区(現・東京都新宿区牛込)の牛込尋常小学校高等科(現在の新宿区立牛込仲之小学校)、府立四中、東京高等師範学校を経て、1933年(昭和8年)東京文理科大学教育学科を卒業した。大学在学中に主将として1932年ロサンゼルスオリンピックに体操競技初の日本代表メンバーとして出場したが、チームは最下位だった。
木村 雄吉(きむら ゆうきち、1904年4月17日 - 19… 木村 雄吉(きむら ゆうきち、1904年4月17日 - 1989年10月10日)は、日本の生化学者・科学哲学者、東京大学名誉教授。木村謹治の弟。 秋田県秋田市生まれ。山形高等学校を経て、1928年東京帝国大学理学部動物学科卒。大学では五島清太郎に師事、求道学舎で近角常観に師事する。医学部生化学教室で柿内三郎に教えを受け、1933年理化学研究所入所、1937年第二高等学校教授、1946年東京医科歯科大学教養部設立に参与。1949年東京大学教養学部教授。1956年伝染病研究所細胞化学研究部長。1965年定年退官。1974年勲三等瑞宝章受章。1989年10月10日、肺癌のため死去。
青木 重夫(あおき しげお、1904年〈明治37年〉4月17… 青木 重夫(あおき しげお、1904年〈明治37年〉4月17日 - 1961年〈昭和36年〉6月8日)は、昭和期の実業家、農林業経営者、政治家、華族。貴族院子爵議員。 本籍・栃木県。農業経営者・青木梅三郎(杉孫七郎三男)の長男として生まれる。父の死去に伴い、1941年(昭和16年)10月15日、子爵を襲爵した。 1930年(昭和5年)、東北帝国大学法文学部を卒業。1932年(昭和7年)、日本生命保険に入社し、その後、常磐簡易火災保険副支配人、日本火災保険副支配人、日本火災海上保険支配人を務めた。その他、栃木県那須郡高林村(現:那須塩原市)で農林業の経営を行う。 1946年(昭和21年)5月10日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
有泉 龍之助(ありいずみ たつのすけ、1904年〈明治37年… 有泉 龍之助(ありいずみ たつのすけ、1904年〈明治37年〉4月16日 - 1945年〈昭和20年〉8月31日)は、日本の海軍軍人(海兵51期卒)。最終階級は海軍大佐。 東京都出身。旧幕臣で日本海海戦に参戦した海軍主計中佐・有泉庚午の長男として生まれる。静岡中学校を経て、1923年(大正12年)7月、海軍兵学校(51期)を卒業。1924年(大正13年)12月、海軍少尉に任官。海軍水雷学校高等科、海軍潜水学校(乙種学生)で学ぶ。 1931年(昭和6年)4月、「呂号第六十四潜水艦」乗組となり、装甲巡洋艦「浅間」分隊長、「伊号第五十一潜水艦」「伊号第百五十六潜水艦」「伊号第七十潜水艦」の各水雷長を経て、1937年(昭和12年)7月、海軍大学校(甲種35期)を卒業。
淀野 隆三(よどの りゅうぞう、1904年〈明治37年〉4月… 淀野 隆三(よどの りゅうぞう、1904年〈明治37年〉4月16日 - 1967年〈昭和42年〉7月7日)は、日本の文芸評論家。フランス文学者。 京都府紀伊郡伏見町(現・京都市伏見区)生まれ。本名・三吉。淀野家は伏見過書町で手広く鉄工所を営んでいた。京都府立京都第二中学校(現・京都府立鳥羽高等学校)を卒業後、1922年に第三高等学校(現・京都大学 総合人間学部)文科甲類に入学。野球部に入り、一高三高戦で三塁手として活躍した。三高劇研究会に所属し、卒業した先輩の梶井基次郎、中谷孝雄、外村茂と知り合う。 1925年、三高卒業後に東京帝国大学文学部仏文科に入学。前年に同校に進んでいた梶井基次郎、中谷孝雄、外村茂の創刊した同人誌『青空』の6月号・通巻4号から同人参加した。
本間順治(ほんま じゅんじ、1904年(明治37年)4月16… 本間順治(ほんま じゅんじ、1904年(明治37年)4月16日 - 1991年(平成3年)8月29日)は、日本の刀剣学者。文学博士、号は薫山(くんざん)。古刀研究の権威であり、本間美術館初代館長、日本美術刀剣保存協会会長などを務めた。山形県飽海郡(後の酒田市)出身。 1904年(明治37年)4月16日生。酒田本間家出身(9代当主・本間光弥の甥)。本間家は俗謡にうたわれたほどの日本有数の豪商。曽祖父の本間家7代当主・本間光美が大の刀好きで、幼少の頃より光美の日本刀の手入れを間近に見て育つ。外祖父も刀の目利きとして知られ、父も順治を目利きにすべく激励し、本家当主である伯父や従兄弟も大いに援助した。 國學院大學在学中、国文学と日本美術史を学ぶかたわら刀剣の鑑識を本格的に学びたく、遠縁で愛刀家の三矢宮松に相談し、今村長賀の高弟である刀剣鑑定師の神津伯(本職は海軍省水路部技師)に弟子入り、5年間修業する。
為成 養之助(ためなり ようのすけ、1904年(明治37年)… 為成 養之助(ためなり ようのすけ、1904年(明治37年)4月16日 - 1995年(平成7年))は日本の裁判官、弁護士。 大分県西国東郡高田町(現豊後高田市)出身。1927年(昭和2年)3月東京帝国大学法学部法律学科卒業、同年12月高等試験司法科合格、1928年(昭和3年)4月司法官試験合格、司法官試補、1930年(昭和5年)12月予備判事、1932年(昭和7年)長崎地方裁判所転任で判事任官、1933年(昭和8年)2月まで同地裁民事部判事。 為成は任官後すぐに革新政党の集会に行き、それは警察官に中止だと叫ばれ散会させられたが、自らは警官に頭を殴られ警察署に留置された。1930年夏、試補だったときに同じく判事の尾崎陞や日本共産党党員と交流して赤化、滝内礼作と研究会を結成、毎月1円か2円から10円、7円から10円、10円から12円の資金提供をして完全に赤化、長崎に転任してからは日本労働組合全国協議会(全協)加入や地裁職員を中心とする全日本無産者芸術家連盟(ナップ)関係の文化グループを結成、『赤旗』を持ち込んだりして共産党の党勢拡大を図った。
竹中 龍雄 (たけなか たつお、1904年4月16日 - 1… 竹中 龍雄 (たけなか たつお、1904年4月16日 - 1989年2月16日)は、日本の経営学者。神戸大学名誉教授。 島根県浜田市生まれ。1921年東京府立第一中学校(現東京都立日比谷高等学校)修了。1927年東京商科大学(現一橋大学)卒業。上田貞次郎に師事。同年同大学補手。1930年大阪商科大学(現大阪公立大学)助手。1931年同講師。1932年同助教授。1944年同教授。1947年神戸経済大学附属経営学専門部教授。1950年神戸大学経営学部教授。1952年郵政審議会委員。1955年経営学博士。1958年電気料金制度調査会委員。1960年塩業審議会専門委員。1962年電気事業審議会専門委員。
木村 秀政(きむら ひでまさ、1904年〈明治37年〉4月1… 木村 秀政(きむら ひでまさ、1904年〈明治37年〉4月13日 - 1986年〈昭和61年〉10月10日)は、日本の航空機設計者。航空機研究者。工学者。航空工学教育者。東京帝国大学教授、日本航空学会会長等を歴任。戦後は日本大学で後進の育成にあたり、1974年(昭和49年)から日本大学名誉教授。 日大時代の1961年11月に初飛行ニュースを聞いた人力飛行機開発を学生たちとともに計画。1963年から所属する機械工学科航空専修コースの卒業研究テーマとして研究開発に着手し、日本初の飛行を実現させた。 1904年(明治37年)、北海道にて出生。木村家の先祖は南部藩士であり、五戸(現在の青森県三戸郡五戸町)にて代々代官を務めていた。
永沢 勝雄(または 永澤 勝雄〈ながさわ かつお〉、1904… 永沢 勝雄(または 永澤 勝雄〈ながさわ かつお〉、1904年4月13日 - 1985年2月22日)は、将棋棋士。飯塚勘一郎八段門下。棋士番号は21。栃木県佐野市生まれ。 東京府立工業高等学校卒業後、1929年(昭和4年)に飯塚勘一郎八段に入門。 翌1930年(昭和5年)、初段昇段。 1937年(昭和12年)、四段昇段。 戦後に開始された順位戦(1946年〈昭和21年〉)には主旨不賛成のため参加せず。 その後、現役を引退。奨励会幹事を務める傍ら、長く観戦記執筆を手掛ける。 1948年(昭和23年)、五段昇段。 1950年(昭和25年)、六段昇段。 現役当時から文筆に長じる。 雑誌「将棋研究」(将棋研究会)でも執筆を行う。
佐藤 勝也(さとう かつや、1904年4月10日 - 198… 佐藤 勝也(さとう かつや、1904年4月10日 - 1988年3月19日)は、日本の政治家、官僚、弁護士。長崎県知事などを務めた。退任後は東京にて弁護士活動をする。趣味の囲碁は2段の腕前だった。 旧制福岡高校を経て東京帝國大学(現・東京大学)法学部に入学。在学中に高等文官試験に合格し、台湾総督府、拓務省などに務めた後、内務省に移り大阪府経済部長、官選の徳島県知事などを歴任した。戦後は岡山県副知事を経て長崎県副知事を6年間務めたが、次期県知事を狙っているとみなされて1957年に西岡竹次郎(西岡武夫の父)に解任された。翌1958年に西岡の死去を受けて長崎県知事選挙に出馬し、前県会議長の金子岩三を破り当選。
小川 譲二(おがわ じょうじ、1904年4月10日 - 19… 小川 譲二(おがわ じょうじ、1904年4月10日 - 1974年1月21日)は、技官官僚・工学者。北海道大学出身初の北海道開発局局長。学校法人北海学園理事長。また、北海道における治水事業の第一人者である。 北海道札幌市生まれ。1928年北海道帝国大学工学部土木工学科を第1期生として卒業。 北海道庁に入庁し、札幌治水事務所に勤務。その後、釧路土木事務所所長、帯広土木現業所所長、石狩川治水事務所所長、北海道電源開発推進部長等を経て、1951年総理府技官・北海道開発局初代建設部長、1957年北海道開発局二代局長。1959年停年退官。1960年富士セメント(現、日鉄住金セメント)コンクリート工場建設実施本部長。
四宅 ヤエ(したく ヤエ、1904年〈明治37年〉4月10日… 四宅 ヤエ(したく ヤエ、1904年〈明治37年〉4月10日 - 1980年〈昭和55年〉8月11日)は、日本のアイヌ文化伝承者。アイヌ語を母語に育った最後の世代の1人とされ、アイヌ語の白糠方言伝承者、ユカㇻ(叙事詩)の伝承者としても知られる。北海道白糠町や北海道東部でユカㇻ、舞踊、音楽などを伝承し、晩年は後進の指導や聞き取り調査などで、アイヌ文化の継承に貢献した。 北海道白糠で誕生した。旧姓は相戸(あいと)。両親を早くに亡くし、祖父と2人で、アイヌ語のみで生活した。祖父からアイヌの物語を聞かされ、祖父を訪ねてくる近所の人たちからも、アイヌ語、歌、舞踊、物語を教わった。 祖父と2人での生活は苦しかったが、後年、息子には「イコロ(宝物)は金銀や土地や屋敷ばかりでない」「私のイコロはアイヌの文化」と語っていた。
中谷 実(なかたに みのる、1904年4月9日 - 1982… 中谷 実(なかたに みのる、1904年4月9日 - 1982年4月)は、日本の経済学者。教育者。 1904年(明治37年)4月9日、大阪府に生まれる。1928年(昭和3年)京都帝国大学経済学部卒業後、同学部講師となり1938年(昭和13年)に助教授、1946年(昭和21年)に教授。1962年 経済学博士 取得、1968年(昭和43年)に京都大学を退官して名誉教授。同年、甲南大学の教授。1972年(昭和47年)から京都学園大学教授、翌年から1980年(昭和55年)まで同大学学長。1982年(昭和57年)4月死去。
中村 要(なかむら かなめ、1904年(明治37年)4月8日… 中村 要(なかむら かなめ、1904年(明治37年)4月8日 - 1932年(昭和7年)9月24日)は、日本の天文学者、京都帝国大学天文台の職員。滋賀県出身。 1904年(明治37年)4月8日、滋賀県滋賀郡真野村(現大津市真野)に生まれる。父は真野村長などを勤めた中村与、6人兄弟の次男として誕生した。1910年(明治43年)4月、真野小学校に入学し、1916年(大正5年)3月同校を卒業、同年4月同志社中学に入学した。1920年(大正9年)に京都帝国大学理学部教授山本一清により天文同好会(略称・OAA)が発会すると、同会同志社支部に入会した。1921年(大正10年)同志社中学卒業後、第三高等学校を受験するが、天体観測に身を入れ過ぎて失敗。
永松 定(ながまつ さだむ、1904年4月8日 - 1985… 永松 定(ながまつ さだむ、1904年4月8日 - 1985年2月7日)は、日本の作家、英文学者。熊本女子大学(現・熊本県立大学)名誉教授。熊本県玉名郡出身。 熊本県立玉名中学校、第五高等学校を経て、1928年に東京帝国大学文学部を卒業した。在学中、上林暁らと同人誌『風車』を創刊して創作活動をおこなった。 1930年、伊藤整・辻野久憲とともにジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を初めて邦訳する。三好達治・北川冬彦の『詩・現実』に連載し、単行本として刊行する。このほか『ダブリンの人々』『万有引力』『ロレンス芸術論』などを出版した。 1937年強烈な神経衰弱に陥り、熊本県へ帰郷する。1940年、母の死をきっかけに英語教師として働く。
都 逢渉(ト・ボンソプ、朝鮮語: 도봉섭、1904年4月8日… 都 逢渉(ト・ボンソプ、朝鮮語: 도봉섭、1904年4月8日 - 没年不詳)は、大韓民国の植物学者、薬学者。北朝鮮の政治家。第2期最高人民会議代議員。本貫は星州都氏。妻は画家の鄭燦英。 本籍はソウル市東大門区回基洞。 咸鏡南道出身。東京帝国大学(現・東京大学)医学部薬学科卒。1945年11月から1946年10月まで初代朝鮮生物学会(現・韓国生物科学協会)会長を務め、1946年から1949年まで初代朝鮮薬学会(現・大韓薬学会)会長を務めた。朝鮮戦争中の1950年9月26日午前ごろ、大学へ出勤後に行方不明になった。北朝鮮側の関係者2名によって拉致されたと見られる。以後平壌医科大学の教授、第2期最高人民会議代議員を務めた痕跡がある。
横田 武夫(1904年(明治37年)4月8日 - 1992年… 横田 武夫(1904年(明治37年)4月8日 - 1992年(平成4年)5月10日)は、日本の実業家。朝日新聞社で経理部門を歩み、代表取締役ののち、日本教育テレビ(NET、現テレビ朝日)第5代社長を務めた。三重県出身。 旧制第二高等学校、東京帝国大学法学部政治学科卒業後、東京朝日新聞社入社。 会計、経理各部長、業務局次長、総務経理などを歴任し、1953年(昭和28年)12月、取締役に選任される。 1963年(昭和38年)の村山事件の際、矢島八洲夫(常務、総務・労務担当)、中川英造(取締役)、安井桂三郎(名古屋本社業務局長)らとともに辞表を提出。同事件収束後の翌年1月、代表取締役に就任したが、3月、元社長で大株主の村山長挙は、横田ら復職した5人の取締役の職務執行停止の仮処分申請を裁判所に提出した。
木村 毅一(きむら きいち、Kiichi Kimura、19… 木村 毅一(きむら きいち、Kiichi Kimura、1904年4月7日 - 1992年7月8日)は、日本の実験原子核物理学者。理学博士(京都帝国大学・論文博士・1940年)。京都大学教授、京都大学原子炉実験所(現・京都大学複合原子力科学研究所)長を経て、京都大学名誉教授。大阪府立放射線中央研究所長、福井工業高等専門学校長も務めた。勲二等旭日重光章受章。 台北帝国大学(現・国立台湾大学)の荒勝文策教授の下でアジアで最初の加速器(コッククロフト・ウォルトン型)の建設を行った(1934年完成)。敗戦直後の1945年11月に進駐軍によって廃棄された京都大学サイクロトロンをのちに再建し(1954年)、大阪府立放射線中央研究所(1959年発足)、京都大学原子炉実験所(1963年発足、現・京都大学複合原子力科学研究所)の建設を行うなど、日本の原子核・放射線研究の場を創ることに貢献した。
桜井 義之(さくらい よしゆき、1904年4月6日 - 19… 桜井 義之(さくらい よしゆき、1904年4月6日 - 1989年9月12日)は、昭和期の書誌学者である。 福島県久慈川近くで生まれる。中央大学経済学科に通学する傍ら、東京帝大法学研究室でアルバイトとして吉野作造の私設秘書となる。1926年に中央大卒業後、1928年9月に吉野の口利きで京城帝国大学法文学部経済研究室助手として、資料室の配属となった。1933年には、京城帝大朝鮮経済研究所研究員として、四方博の下で書誌の整理を行っている。1941年、京城帝大を離れ、朝鮮総督府文書課に転じ、調査係主査として朝鮮総督府機関誌『朝鮮』の編集にあたった。 戦後は、元京城帝大法文学部長の上野直昭の紹介で東京芸術大学に勤務した後、1950年東京都立大学 (1949-2011)図書館事務長となり、1956年同大学の図書館学・書誌学の専任講師となっている。
松田 武夫(まつだ たけお、1904年4月6日 - 1973… 松田 武夫(まつだ たけお、1904年4月6日 - 1973年10月11日)は、日本の国文学者・作家。 山口県岩国市出身。旧制第五高校(現・熊本大学)卒、1930年東京帝国大学文学部国文科卒。 1956年「金葉集の研究」で東京大学文学博士。1933年陸軍士官学校教授、1940年文部省図書監修官、1952年宇都宮大学教授。 1968年定年退官、専修大学教授。二松学舎大学教授。 勅撰和歌集を中心に平安時代の文学を研究した。創作もおこなった。
勝平 得之(かつひら とくし、1904年4月6日 - 197… 勝平 得之(かつひら とくし、1904年4月6日 - 1971年1月4日)は、秋田県秋田市本町(現在の大町)生まれの版画家。本名・勝平徳治。 家業である紙漉き業、左官業の傍ら絵を書いていたところ、竹久夢二の絵に惹かれ浮世絵版画を始める。このとき、色刷版画の研究をし、1928年に自画、自刻、自刷の彩色抜法を完成させる。以後、故郷秋田の情景を描き続ける。1929年には日本版画協会展に「外濠夜景」、「八橋街道」が入選。その後、1931年の第12回帝展で第2部初入選など、数々の展覧会に多数入選し国内に名を轟かせた。1935年、秋田県を訪れたブルーノ・タウトと知り合いになり、作品が世界に紹介された。ケルン東洋美術館には代表作およそ70点が保存されている。
小川 喜一(おがわ きいち、1904年(明治37年)4月5日… 小川 喜一(おがわ きいち、1904年(明治37年)4月5日 - 1979年(昭和54年)8月18日)は、日本の内務官僚。栃木県知事。 徳島県出身。京都高等蚕糸学校を卒業。1927年、京都帝国大学農学部農林経済科を卒業。同年12月、高等試験行政科試験に合格。京都帝大で勤務し、1928年、内務省に転じ茨城県属となる。 福井県書記官・警察部長、警視庁警務部長、広島県部長・警察部長などを務め、1946年1月、栃木県知事となり、1947年3月、初の公選知事選に出馬のため知事を辞任するが次点で落選した。 1955年2月、日本社会党の支援を受けて二度目の知事選出馬で当選を果たした。任期の後半は少数与党のため困難な議会運営を強いられた。
石堂 清倫(いしどう きよとも、1904年4月5日 - 20… 石堂 清倫(いしどう きよとも、1904年4月5日 - 2001年9月1日)は、日本の評論家、社会思想研究家、社会運動家である。 1904年、石川県石川郡松任町(現白山市)生まれ。第四高等学校で先輩である中野重治を知り、東京帝国大学在学中、新人会で共に活動する。1927年東京帝国大学文学部英文科卒業後、関東電気労働組合に勤務、東京府荏原郡馬込村で西田信春、大間知篤三、岩田義道、栗原佑との5人で共同生活。同年10月、日本共産党入党、11月無産者新聞の編集に携わる。1928年、「三・一五事件」に連座し逮捕。その後釈放と逮捕を繰り返し、執行猶予となって、1933年11月保釈。獄中でロシア語や中国語を独学、ペンネームでウラジーミル・レーニンなどの著作を翻訳。
桝田 啓三郎(ますだ けいざぶろう、1904年〈明治37年〉… 桝田 啓三郎(ますだ けいざぶろう、1904年〈明治37年〉4月5日 - 1990年〈平成2年〉12月12日)は、日本の哲学者(ドイツ・アメリカ哲学)。東京都立大学名誉教授。キェルケゴール研究では、日本国内の第一人者であった。 愛媛県喜多郡大洲町(現大洲市)生まれ。生糸繭屑物商桝田與三郎の三男。1930年、法政大学文学部哲学科卒業。三木清の弟子であった。大学卒業後、法政大学で長く教鞭をとった。千葉大学、旧・東京都立大学などでも教えた。 卓越した語学力の持ち主で、キェルケゴール、ウィリアム・ジェームズ、フォイエルバッハ、フィヒテ、ベルクソン、デカルトを翻訳。特にキェルケゴールは、独学でデンマーク語を学び原典翻訳を行い、それまでドイツ語訳を使用することの多かった日本の研究状況を一変させた。
松浦 薫(まつうら かおる、1904年(明治37年)4月4日… 松浦 薫(まつうら かおる、1904年(明治37年)4月4日 - 1975年(昭和50年)7月23日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、香川県坂出市長。 香川県綾歌郡松山村(現坂出市大屋冨町)出身。1930年(昭和5年)3月、東京帝国大学工学部土木工学科を卒業した。 兄・伊平の創業した松浦組に入り、同支配人、満州松浦組専務取締役、松浦工業専務取締役、四国瓦斯取締役などを務めた。 1946年(昭和21年)4月、第22回衆議院議員総選挙で香川県選挙区から出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。この間、日本自由党幹事に就任した。 その後、高松市助役を務め、1969年(昭和44年)7月12日、坂出市長に就任した。
福原 武(ふくはら たけし、1904年〈明治37年〉4月3日… 福原 武(ふくはら たけし、1904年〈明治37年〉4月3日 - 1996年〈平成8年〉1月21日)は、日本の生理学者、医師。医学博士。岡山大学医学部生理学教室生理学第二講座初代教授。岡山大学名誉教授、日本生理学会特別会員。 新潟県新潟市寄居町(現 新潟市中央区寄居町)出身。1921年(大正10年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1924年(大正13年)3月に新潟高等学校を卒業、1928年(昭和3年)3月に新潟医科大学を卒業。 1928年(昭和3年)4月に新潟医科大学生理学教室(担任:横田武三教授)助手に就任、1930年(昭和5年)4月に講師に就任、1932年(昭和7年)2月に新潟医科大学から医学博士号を取得、1933年(昭和8年)4月に新潟医科大学生理学教室助教授に就任、1938年(昭和13年)11月に永井潜の推薦で北京大学医学院生理学教室初代教授に就任、太平洋戦争後、1945年(昭和20年)12月に日本に帰国、1946年(昭和21年)6月に新潟医科大学薬理学教室(担任:木原玉汝教授)助教授に就任、1948年(昭和23年)7月に米子医科大学生理学教室初代教授に就任、1949年(昭和24年)5月に鳥取大学医学部生理学教室初代教授に就任、1954年(昭和29年)7月に岡山大学医学部生理学教室生理学第二講座初代教授に就任、1956年(昭和31年)5月に岡山で第33回日本生理学会総会を主催、1966年(昭和41年)7月に岡山で第8回日本平滑筋学会総会を主催、1970年(昭和45年)3月に岡山大学を定年退官、6月に川崎医科大学生理学教室初代教授に就任、1976年(昭和51年)3月に同大学を退任、同大学客員教授に就任。
森末 義彰(もりすえ よしあき、1904年4月3日 - 19… 森末 義彰(もりすえ よしあき、1904年4月3日 - 1977年12月17日)は、日本史学者、東京大学名誉教授。 1904年、香川県生まれ。1922年に第五高等学校に入学し、1925年に卒業。東京帝国大学文学部国史学科に進学し、1928年に卒業論文「江戸初期に於ける演劇と社會との関係」をまとめて卒業した、史料編纂所業務嘱託、1932年史料編纂官補、1936年史料編纂官。 戦後、1954年に東京大学史料編纂所教授となり、1962年より所長を務めた。1965年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は白百合女子大学教授として教鞭をとった。 「国書総目録」編集委員のひとり。
宮澤 清六(みやざわ せいろく、新字体:宮沢 清六、1904… 宮澤 清六(みやざわ せいろく、新字体:宮沢 清六、1904年(明治37年)4月1日 - 2001年(平成13年)6月12日)は、日本の実業家、児童文学研究者。宮沢賢治と宮沢トシの実弟で、全集の編纂をはじめとする賢治の文学研究に携わった。宮沢和樹は孫。 宮澤政次郎の次男として岩手県稗貫郡花巻川口町(現・花巻市)に生まれ育つ(賢治の8歳年下)。 1922年、旧制岩手県立盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)を卒業し、家業を手伝った。同年11月27日、6歳上の姉トシが死去。「家業への嫌悪」とトシ死去などの「暗欝な家庭からの脱出、息抜き」として家族の了解を得た上で、同年12月から東京市本郷区龍岡町(現・東京都文京区湯島)に下宿して、図書館や研数学館で数学(主として幾何学)と科学(主として電気)を学ぶ。
永田 広志(ながた ひろし、1904年4月1日 - 1947… 永田 広志(ながた ひろし、1904年4月1日 - 1947年9月7日)は日本の哲学者である。マルクス主義の立場から活動した。 長野県東筑摩郡山形村に生まれる。県立松本中学(後の長野県松本深志高等学校)に学び、小岩井源一(後の詩人、高橋玄一郎)と知り合う。中学時代から哲学に興味を持ち始める。卒業後、1921年に東京外国語学校露語部に入学。クロポトキンら、当時のソ連の哲学動向に関心を持つ。卒業後は一時朝鮮に渡り、国境近い新義州で流入するソ連文献を検閲する任務に当たる。 1927年、パーヴェル・アクセリロード『ブルジョア社会学の批判』を翻訳して刊行、海外文献の紹介、翻訳につとめる。1930年、川内唯彦のすすめでプロレタリア科学研究所に参加し、唯物弁証法の研究につとめる。
竹中 郁(たけなか いく、1904年4月1日 - 1982年… 竹中 郁(たけなか いく、1904年4月1日 - 1982年3月7日)は、日本の詩人。本名、育三郎。 兵庫県神戸市兵庫区出身。生家は裕福な問屋で、1歳の時紡績用品商の竹中家へ養子に出された。兵庫県立第二神戸中学校、関西学院大学文学部英文学科卒。画家の小磯良平は二中の同制作作品「彼の休息」は竹中がモデルをつとめている。小磯の弟子の石阪春生は竹中の甥。 中学時代より北原白秋に傾倒し、『近代風景』『詩と音楽』などの白秋主宰の雑誌で詩人としての履歴をスタートした。1924年に北川冬彦、安西冬衛らの「亜」のグループと交流をもち、モダニズムのスタイルの影響をうける。1925年、第1詩集『黄蜂と花粉』を発表する。
小岩井 源一(こいわい げんいち、1904年3月31日 - … 小岩井 源一(こいわい げんいち、1904年3月31日 - 1978年1月31日)は、長野県浅間温泉の旅館「香蘭荘」の経営者で、当時の東筑摩郡本郷村の初代公選村長となり、後には助役も務めた。他方では、筆名の高橋 玄一郎(たかはし げんいちろう)として詩人、文学者としても知られた。 浅間温泉で温泉旅館「香蘭荘」を経営していた小岩井家から、石川県輪島の高橋家に養子に出ていた父・孝八のひとり息子として輪島で生まれた。その後、父が浅間温泉の家業を継ぐこととなり、輪島で母方の高橋家の祖父母によって育てられた。中学に上がることになり、父に呼び寄せられ、浅間温泉に戻り、松本中学校(後の長野県松本深志高等学校)に学ぶ。
杉田 一次(すぎた かずし、1904年〈明治37年〉3月31… 杉田 一次(すぎた かずし、1904年〈明治37年〉3月31日 - 1993年〈平成5年〉4月12日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官。陸士37期・陸大44期。最終階級は帝国陸軍では陸軍大佐、陸自では陸上幕僚長たる陸将。第4代陸上幕僚長を務めた。 米国陸軍隊付の経験に加えて在アメリカ大使館駐在武官補佐官の経験から、対米開戦に終始反対し、海軍をも巻き込んで開戦阻止に動いたが上層部を説得することができなかった。第25軍情報参謀としてマレー作戦に従軍、シンガポールの戦い後の降伏交渉において後半から山下奉文将軍の通訳を務める。イギリス軍に対する降伏勧告文を起案した。 ガタルカナル作戦では大本営派遣参謀として現地に入り、第2師団の作戦に関与。
斎 辰雄(とき たつお、1904年3月31日 - 1967年… 斎 辰雄(とき たつお、1904年3月31日 - 1967年10月26日)は日本の元陸上競技選手。徳島県那賀郡今津村(現阿南市)出身。旧制富岡中学校(現富岡西高校)、三重高等農林学校(現三重大学)卒業。
山田 丈夫(やまだ たけお、1904年〈明治37年〉3月31… 山田 丈夫(やまだ たけお、1904年〈明治37年〉3月31日 – 1971年〈昭和46年〉1月19日)は、日本の弁護士・実業家。 1904年(明治37年)3月31日、岐阜県岐阜市に生まれた。岐阜県岐阜中学校の同期には、岐阜市長を務めた松尾吾策などがおり、松尾とは大学も一緒だった。 1927年(昭和2年)に明治大学法学部を卒業し、1928年(昭和3年)に弁護士を開業した。1943年(昭和18年)には岐阜県弁護士会会長に就任した。 1946年(昭和21年)、『東海夕刊新聞』を創刊して自身が社長に就任した。1954年(昭和29年)、『岐阜タイムス』(現・『岐阜新聞社』)の社長に迎えられると、1959年(昭和34年)には社名を岐阜日日新聞社に変更し、1960年(昭和35年)には紙名を『岐阜日日新聞』に変更した。
松下 整吉(まつした せいきち、1904年〈明治37年〉3月… 松下 整吉(まつした せいきち、1904年〈明治37年〉3月31日 - 1986年〈昭和61年〉)は、日本の実業家、政治家。松下酒店社長。境港商工会議所副会頭。 鳥取県西伯郡境町松ヶ枝町(現境港市松ヶ枝町)出身。質屋・松下専次郎の息子。1947年から2期境町会議員を務める。境港魚市場社長、北陽産業社長、境港魚凾社長などを歴任する。 境港魚市場の大株主である。妻・さいは面谷代表、酒類醸造業の面谷友太郎の二女。住所は境港市松ヶ枝町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
三条西 信子(さんじょうにし のぶこ、1904年〈明治37年… 三条西 信子(さんじょうにし のぶこ、1904年〈明治37年〉3月30日 - 1945年〈昭和20年〉11月8日)は、日本の元皇族、華族。久邇宮邦彦王と同妃俔子の第2王女子。三条西公正侯爵夫人。旧名は、信子女王(のぶこじょおう)。皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。香淳皇后の妹であり、第125代天皇・明仁(上皇)の叔母、第126代天皇・徳仁(今上天皇)の大叔母にあたる。 1904年(明治37年)3月30日午前3時、久邇宮邦彦王と同妃俔子の第2王女子(第4子)として誕生。御七夜の4月5日に「信子」と命名された。 久邇宮家は兄弟も多く、財政的にゆとりがある状況ではなかった。こうした中、姉良子女王と妹智子女王は年齢も近く、何事も一緒に過ごした。