伊藤 道郎(いとう みちお、1893年4月14日 - 196… 伊藤 道郎(いとう みちお、1893年4月14日 - 1961年11月6日) は、日本のダンサー、振付師。 東京府東京市神田区生まれ。伊藤為吉の長男。慶應義塾普通部卒業。1911年に帝国劇場歌劇部に入団し、三浦環との共演でドイツ語のオペラ『釈迦』で初舞台。 1911年11月1日に声楽家を志し19歳でパリに留学、シャトレ座でニジンスキーを見る、ロダンや、ドビッシー等と交流をもつ。1912年にドイツに移住、ベルリンではイザドラ・ダンカンの公演を観る。その後、ライプツィヒに滞在、ドレスデン郊外ヘレラウのエミール・ジャック=ダルクローズ舞踊学校に入団。 1914年 第一次世界大戦の影響で英国に渡る。1915年、ホルストに 舞踊曲『日本組曲』の作曲依頼をした。
宗藤 大陸(むねとう たいろく、1893年(明治26年)4月… 宗藤 大陸(むねとう たいろく、1893年(明治26年)4月14日 - 1974年(昭和49年)2月27日)は、大正から昭和時代前期の政治家。台湾総督府官僚。屏東市尹、高雄市尹。北海道函館市長。 岡山県久米郡吉岡村(現在の美咲町)出身。1914年(大正3年)から兵庫県で巡査、巡査部長、警部を歴任。1924年(大正13年)に台湾に渡り、警務局勤務、文教局属、新竹市助役、豊原郡守を歴任。1936年(昭和11年)、屏東市尹に就任し、翌年に高雄市尹に転じた。 退官後、台湾製糖株式会社企画部長、同総務部長、高雄州会議員、屏東商業会議所会頭などを務めた。 戦後は函館市助役を経て、坂本森一の急逝をうけて1947年(昭和22年)に市長に選出された。
松島 清(まつしま きよし、1893年(明治26年)4月12… 松島 清(まつしま きよし、1893年(明治26年)4月12日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 山形県西田川郡加茂町(現在の鶴岡市)出身出身。山沢浩の二男として生まれ、松島鉉太郎の養子となった。1922年(大正11年)、東京帝国大学法学部独法科を卒業し、慶尚南道属となった。翌年に高等試験行政科に合格し、警視・全羅南道警務課長、理事官・同学務課長、慶尚南道産業課長、同学務課長、京畿道警務課長を歴任し、1929年(昭和4年)に仁川府尹となった。 その後、全州専売支局長、忠清北道内務部長、京城府総務部長、総督官房外務部勤務を経て、1939年(昭和14年)に京城地方専売局長に就任した。
駒泉 徳治郎(こまいずみ とくじろう、1893年4月11日 … 駒泉 徳治郎(こまいずみ とくじろう、1893年4月11日 - 1959年2月24日)は、現在の宮城県大崎市出身で井筒部屋に所属した力士。本名は高橋 徳治郎。10代大嶽。180cm、96kg。最高位は東前頭2枚目。 旧制古川中学(現・宮城県古川高等学校)を中退し、同郷の大関駒ヶ嶽國力を頼って入門。所属は井筒部屋であったが、駒ヶ嶽の内弟子であった。1911年2月初土俵、1915年1月十両昇進。1917年1月新入幕した。四つに組むと勝ちみに乏しい相撲振りであったが、上背を利しての突っ張り・叩き込み・引き落としには威力があった。1919年5月場所には横綱鳳を外掛けから浴びせ倒して現役時代唯一の金星を獲得している。
清藤 唯七(せいとう ただしち、1893年(明治26年)4月… 清藤 唯七(せいとう ただしち、1893年(明治26年)4月10日 - 1952年(昭和27年)7月15日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。リンゴ移出業界の発展に尽力し「リンゴの清藤」として知られた。 青森県南津軽郡、のちの尾上町(現平川市)で生まれた。1917年(大正6年)3月、正則英語学校(現正則学園高等学校)を卒業した。 家業のリンゴ移出業に従事し、満州など海外への販路拡大に尽力した。青森県食品工業 (有) 社長、日本林檎輸出取締役社長、日本農産加工取締役社長、弘前製氷取締役社長、(有) 弘前製材所代表取締役、弘前倉庫代表取締役、青森県林檎移出商業協同組合連合会理事長、青森県果実ジャム工場組合理事長、青森商工協会理事長、青森県りんご協会副会長、弘前市商工会議所会頭などを務めた。
日高 信六郎(ひだか しんろくろう、1893年4月10日 -… 日高 信六郎(ひだか しんろくろう、1893年4月10日 - 1976年6月18日)は、日本の外交官、登山家。駐イタリア、イタリア社会共和国大使、日本山岳会会長。
千葉ヶ嵜 俊治(ちばがさき としじ、1893年4月10日 -… 千葉ヶ嵜 俊治(ちばがさき としじ、1893年4月10日 - 1933年1月16日)は、千葉県印旛郡富里町(現:千葉県富里市)出身で二十山部屋に所属した大相撲力士。本名は玉ノ井 俊治(たまのい としじ)(旧姓:宍倉)。最高位は東大関。 1893年4月10日に千葉県印旛郡富里町(現:千葉県富里市)で生まれる。子供の頃から相撲好きで、地元で開かれていた宮相撲に参加しては大関を張って活躍していたため、1910年に同郷の二十山を頼って二十山部屋へ入門、1911年6月場所で序ノ口から初土俵を踏んだ。宮相撲で大関を張っていた実力は伊達ではなく、幕下時代の1913年5月場所では、それまで無敗の快進撃を続けていた栃木山守也に初黒星を付けて話題を集めた。
安永 登(やすなが のぼる、1893年(明治26年)4月9日… 安永 登(やすなが のぼる、1893年(明治26年)4月9日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。関東州官僚。 福岡県出身。1912年(明治45年)、小学校教員となり、訓導に進んだ。1918年(大正7年)に日本大学高等師範部を卒業し、内務属となる。1921年(大正10年)に高等試験行政科に合格。富山県属、同警視・警務課長、青森県事務官、鹿児島県事務官、朝鮮総督府事務官・平安南道警察部長を歴任した。 1932年(昭和7年)より関東庁事務官に転じ、金州民政署長、内務局地方課長、旅順民政署長を歴任。1938年(昭和13年)に関東専売局長に就任した。 退官後、福岡市助役を務めた。
大槻 喬(おおつき たかし、1893年4月8日 - 1969… 大槻 喬(おおつき たかし、1893年4月8日 - 1969年11月16日)は、日本の電気工学者。電気学会会長。 兵庫県生まれ。1914年、東京高等工業学校付設工業教員養成所電気科卒業。1919年、東京外国語学校専修科ドイツ語学科卒業。1921年からアメリカ・イギリス・ドイツに留学。熊本高等工業学校教授を経て、1929年、東京工業大学助教授。ドイツ留学を経て、1932年に東京大学工学博士号を修得、1934年に東工大電気工学科教授。1954年、定年退職し、名誉教授となると共に、明治大学教授、東洋電機製造取締役・技術研究所長に就任。1965年、東海大学工学部長。1969年、電気学会会長。 1969年11月16日、脳卒中のため東京都目黒区自由が丘の自宅にて死去。
山木 武夫(やまき たけお、1893年(明治26年)4月4日… 山木 武夫(やまき たけお、1893年(明治26年)4月4日 - 1983年(昭和58年)10月11日)は、昭和時代の政治家。農政家。衆議院議員(1期)。別名に栄太、孫左衛門。 農業・山木孫左衛門の長男として山形県東田川郡新堀村落野目(現酒田市落野目)に生まれる。1910年(明治43年)藤島の庄内農学校を卒業し、家業に従事する傍ら新堀村小学校の代用教員を務める。県立自治講習所に入り加藤完治に学び、1918年(大正7年)同所を卒業すると農村問題に取り組み、大陸移民政策の推進に関与した。1928年(昭和3年)落野目信用組合を組織し同組合長となり、農業倉庫を設立し、県信用組合連合会、県連合農業倉庫、北斗会などの理事を歴任した。
丹羽 保次郎(にわ やすじろう、1893年(明治26年)4月… 丹羽 保次郎(にわ やすじろう、1893年(明治26年)4月1日 - 1975年(昭和50年)2月28日)は、NE式写真電送装置(ファクシミリ)を開発した技術者。東京電機大学初代学長。日本の十大発明家の一人として数えられることもある。工学博士。三重県松阪市名誉市民(第1号)[要出典]。 三重県松阪市出身。旧制八高を経て1916年(大正5年)に東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業。逓信省電気試験所を経て、1924年(大正13年)6月に日本電気に入社する。同年から翌年末にかけ欧米へ最新の通信技術を学びに視察。1926年(大正15年)2月に学位論文の「矩形枠捲線輪特ニ其誘導系数ノ計算方法ニ関スル研究」で帝大より工学博士を授与される。
世耕 弘一(せこう こういち、1893年〈明治26年〉3月3… 世耕 弘一(せこう こういち、1893年〈明治26年〉3月30日 - 1965年〈昭和40年〉4月27日)は日本の教育者・政治家。衆議院議員(8期)、経済企画庁長官(第2次岸内閣)、学校法人近畿大学理事長などを歴任した。位階は従三位。 和歌山県東牟婁郡敷屋村(現・新宮市)に中農・世耕佐七の五男として生まれる。一旦は材木店に丁稚奉公をするが、その後苦学して1918年専門学校入学者検定試験に合格、日本大学予科に入学。1923年、日本大学法文学部卒業。日大の政治経済海外研究員としてベルリン大学に5年間留学。帰国後の1931年に日本大学教授。1944年に日大と関係の深い大阪専門学校の校長と大阪理工科大学長に就任。
上島 三之助 清忠(うえしま さんのすけ きよただ、1893… 上島 三之助 清忠(うえしま さんのすけ きよただ、1893年3月30日 - 1987年)は、日本の武道家である。大阪で空真流空手道を発展させた。 3歳のとき、兵庫県赤穂市で上島作治郎、松原嘉年、赤田政治から今真流柔捕術を学び始める。 9歳のとき、沖縄出身の赤穂市警察官上島菅から空手型のピンアンとクーシャンクー(公相君)を教わり研究を始めた。 1918年、25歳で上島は今真流柔捕術の教授に任命された。 1926年、本部朝基著『沖縄拳法 唐手術 組手編』の出版にあたり、本部門下の唐手術普及会幹事長、杉本得二とともに編集に携わる。大阪市東淀川区に移り1925年(大正14年)上島柔道場を開設。また沖縄の空手教師数名がそこで空手も練習し、教えた。
三上 英雄(みかみ ひでお、1893年(明治26年)3月29… 三上 英雄(みかみ ひでお、1893年(明治26年)3月29日 - 1983年(昭和58年)8月17日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員。 広島県恵蘇郡口北村字宮内(現庄原市)で、三上瀧蔵、シカ夫妻の長男として生まれたが、母は産後に死去した。口北尋常小学校、口北高等小学校を経て、1906年、格致学院に入学。1909年、親類を頼って大阪市に移り関西商工学校に入学し、風呂屋を経営して学費を稼ごうとするも失敗。1910年に上京して日本大学に入学し、1913年、同大法律科を卒業。1914年11月、会計検査院嘱官となる。 1917年、弁護士試験に合格。1918年1月、弁護士登録を行い東京弁護士会に加入。
塩川 政巳(しおかわ まさみ、1893年〈明治26年〉3月2… 塩川 政巳(しおかわ まさみ、1893年〈明治26年〉3月29日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。佐久銀行頭取。浅間山観光、塩久各社長。長野県会議員。曹洞宗玄江院総代会長。 長野県・塩川幸太の長男。塩川三四郎の甥。1917年、慶應義塾大学部政治学科を卒業。第一銀行に入行。1923年、佐久銀行に転じる。1936年、家督を相続する。 佐久銀行常務を経て頭取に就任。長野貯蓄銀行、千曲自動車各監査役、東京美術館取締役、浅間山観光、塩久各社長、県選管委員長などをつとめる。 宗教は曹洞宗、禅宗。趣味はスポーツ、美術品愛好、運動、俳諧。長野県小諸市在籍で、住所は長野県北佐久郡三岡村森山(現・小諸市森山)、東京宅は赤坂区丹後町。
三浦 三郎(みうら さぶろう、1893年3月26日 - 19… 三浦 三郎(みうら さぶろう、1893年3月26日 - 1974年10月17日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。関東憲兵隊司令官。
佐々部 晩穂(ささべ くれお、1893年3月26日 - 19… 佐々部 晩穂(ささべ くれお、1893年3月26日 - 1979年1月23日)は、日本の実業家。中部日本放送初代社長。元名古屋商工会議所会頭。元大同大学理事。 福岡県山門郡塩塚村で医者だった父・田尻常太郎(福岡県士族)の息子に生まれる。1914年(大正3年)旧制一高を卒業して、京都帝国大学(現京都大学)に進学、同期の卒業生には汐見三郎、高山義三、岸要、酒井忠正、森本寛三郎がいた。京都帝国大学を首席(恩賜の銀時計組)で卒業後、1918年(大正7年)に日本銀行へ入行する。日銀の同期には一万田尚登がいた。営業局を経て、のちに日銀総裁となる結城豊太郎が支店長を務める大阪支店、ロンドン支店などで勤務する。
福田 正夫(ふくだ まさお、1893年3月26日 - 195… 福田 正夫(ふくだ まさお、1893年3月26日 - 1952年6月26日) は、神奈川県足柄下郡小田原町(現・小田原市)出身の詩人。「民衆詩人」と呼ばれる一派の中心的詩人であった。広く歌われた国民歌謡「愛国の花」(1937年、古関裕而作曲)の作詞者である。 小田原藩士族の堀川家の五男として生まれる。1910年、17歳の時に福田家の養子となる。1913年神奈川師範学校(現・横浜国立大学)卒業。東京高等師範学校(現・筑波大学)体操科中退。1915年、川崎市の小学校教員となる。同年12月、処女詩集『農民の言葉』を自費出版し、民衆詩人として注目される。 1918年、富田砕花・井上康文・白鳥省吾・川崎長太郎らと同人誌『民衆』を創刊。
森田 親三(もりた ちかぞう、1893年(明治26年)3月2… 森田 親三(もりた ちかぞう、1893年(明治26年)3月25日 - 1985年(昭和60年)4月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍主計中将。 埼玉県出身。森田弥之治の二男として生まれる。熊谷中学校(現埼玉県立熊谷高等学校)卒業を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍経理学校(9期)を優等で卒業し見習主計となる。同年12月、三等主計に任官し歩兵第3連隊付となる。1918年(大正7年)2月、第1師団経理部員に就任し、1919年(大正8年)4月、二等主計に昇進。1920年(大正9年)6月から1921年(大正10年)5月まで、経理学校高等科で学び、さらに、1921年5月から1922年(大正11年)5月まで員外学生として学んだ。
石井正己(いしい まさみ、1893年(明治26年)3月25日… 石井正己(いしい まさみ、1893年(明治26年)3月25日 - 不詳)は、日本の陸軍軍医。最終階級は陸軍軍医少将。第二次世界大戦における第14軍の生物兵器実験・人体実験に関与した。 広島県で出生。1920年(大正9年)12月25日、陸軍二等軍医。1923年(大正12年)、九州帝国大学大学院への入学が認可され外科学を学んだ。 1930年代から1940年にかけて、満州国の山西省の北支那方面軍第一軍軍医部におり、太原臨時衛生調査班の調査に参与した。 1943年(昭和18年)、第14軍の軍医部長としてフィリピンに駐屯した。同年7月に配属されてきた第16師団防疫給水部に対し、第14軍軍医部長として「予防内服の効果については自信ある成績を要望す」、「濃厚汚染部隊に於ては部隊内感染防止に各班の努力を傾注するを要す」と指示していた。
渡部 義雄(わたなべ よしお、1893年3月25日 - 19… 渡部 義雄(わたなべ よしお、1893年3月25日 - 1964年12月17日)は、日本の会計学者。 東京府東京市麻布区(現:東京都港区)生まれ。麻布中学校より大倉高等商業学校(現:東京経済大学)予科、本科を経て、1913年神戸高等商業学校(現:神戸大学)卒。東会計人事務所に入所。各務鎌吉の援助で、1920-1922年英国に留学し、英国勅許会計士の会計事務所において訓練を受けた。のち立教大学講師を務めた。
鈴木 登(すずき みのる、1893年(明治26年)3月25日… 鈴木 登(すずき みのる、1893年(明治26年)3月25日 - 没年不明)は、日本の内務官僚。 静岡県小笠郡佐束村(現掛川市)出身。1917年東京帝国大学独法科卒業、内務省に入省。長野県北安曇郡長、北佐久郡長、内務部農商課長を務めた後、長崎県理事官、千葉県書記官・学務部長、大阪府内務部長、高知県書記官・警察部長、岡山県書記官・警察部長、宮城県書記官・警察部長、香川県書記官・内務部長、京都府書記官・経済部長、内務省警保局警察講習所長を歴任後、1939年に青森県知事、1940年に長野県知事に就任。その後は広島県呉市長などを務めた。 長野県知事としては戦時下での食糧の増産、満蒙開拓移民の送出、信濃銀行の再生、治山治水事業の財源基礎の確立などに実績を上げた。
挟間 茂(はざま しげる、1893年3月24日 - 1987… 挟間 茂(はざま しげる、1893年3月24日 - 1987年12月3日)は、日本の内務官僚、内務次官。 日本住宅公団総裁。広島県福山市出身。旧姓・三谷。「梜間茂」表記の文献もあり。戸籍上は旧字体の挾間。 海軍大佐挾間光太の養子。福山中学(現福山誠之館高校)~第六高等学校を経て1919年、東京帝国大学法学部法律学科卒業。内務省に入省、衛生局長、茨城県知事、土木局長、地方局長などを歴任。1937年衛生局長として保健所法制定に尽力、現在の保健所制度の基礎を作った。茨城県知事時代の大洪水に対する災害復旧政策は今日でも評価が高い。1940年第2次近衛内閣の内務次官に就任。大政翼賛会の結成をすすめ、翌1941年大政翼賛会組織局長として国民を戦時体制に動員した。
時國 益夫(ときくに ますお、1893年(明治26年)3月2… 時國 益夫(ときくに ますお、1893年(明治26年)3月23日 - 1989年(平成元年)9月1日)は、日本の実業家、技術者。キリンビール代表取締役社長や、同社代表取締役会長を務めた。 第四高等学校を経て、1917年東京帝国大学工学部応用化学科卒業、キリンビール入社。1933年仙台工場長。1940年取締役。1942年取締役横浜工場長。1943年監査役。1946年監査役兼企業部長。1951年取締役。1953年常務取締役。1956年常務取締役製造部長。1958年専務取締役。1966年から代表取締役社長を務め、創業家として長年君臨した磯野長蔵亡きあとの経営を担い、ラガービールの品質本位路線などを進めた。
李家 弘(りのいえ ひろし、1893年(明治26年)3月23… 李家 弘(りのいえ ひろし、1893年(明治26年)3月23日 - 没年不明)は、日本の弁護士。大阪特殊製鋼取締役。 李家隆介の長男として生まれ、後に家督を相続する。1917年(大正6年)、東京帝国大学獨法科を卒業後、三井銀行に入行する。入行後は、本店本部外国課に勤務する。その後上海支店を経て、1924年(大正13年)大連主席出張員となり、1930年(昭和5年)3月外国営業部輸出係長に転じ、1932年(昭和7年)計算係長に就任した。 退行後は、大阪特殊製鋼取締役、日華製紙監査役を務めた。 趣味はゴルフ。宗教は真宗。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
佐藤 親弘(さとう ちかひろ、1893年(明治26年)3月2… 佐藤 親弘(さとう ちかひろ、1893年(明治26年)3月23日 - 1961年(昭和36年)8月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)・弁護士。 栃木県出身。1923年日本大学専門部法律科卒。弁護士となり、宇都宮市議、栃木県地方労働委員会会長、宇都宮弁護士会会長となる。 1947年の第23回衆議院議員総選挙において栃木2区から日本自由党公認で立候補して落選。1949年の第24回衆議院議員総選挙では民主自由党公認で立候補して初当選。1952年の第25回衆議院議員総選挙では自由党公認で立候補して落選。1953年の第26回衆議院議員総選挙で復帰した。1955年の第27回衆議院議員総選挙で落選し、以後立候補しなかった。
小林 謙五(こばやし けんご、1893年3月22日 - 19… 小林 謙五(こばやし けんご、1893年3月22日 - 1948年4月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
白鳥 清(白鳥 淸、しらとり きよし、1893年3月21日 … 白鳥 清(白鳥 淸、しらとり きよし、1893年3月21日 - 1972年8月9日)は、日本の歴史学者。学習院教授、立教大学文学部教授、聖心女子大学教授。専門は東洋史学。 1893年(明治26年)、千葉県市原郡戸田村(現・市原市)生まれ。旧姓は鈴木。 1916年(大正5年)、第六高等学校一部英法科卒業。1917年(大正6年)、叔父の八代国治の媒酌により、白鳥庫吉(東洋史学者、邪馬台国九州説の代表的論者)の長女と結婚し、その嗣子となる。1920年(大正9年)、東京帝国大学文学部史学科(東洋史専攻)卒業。 1925年(大正14年)4月に、立教大学文学部に史学科が創設され、最初の教授陣の一人として東洋史を講じた。
前田 健二郎(まえだ けんじろう、1892年〈明治25年〉4… 前田 健二郎(まえだ けんじろう、1892年〈明治25年〉4月19日 - 1975年〈昭和50年〉3月14日)は、日本の建築家。位階は正五位。 逓信省・第一銀行勤務を経て独立。戦前から戦後にかけてモダニズムとは一線を画した作品を多く残す。「コンペの前健さん」の異名を取り、戦前の数々のコンペティションに入選したが、実施実現できたものは少ない。 加賀藩出身(士族)の父前田信兆は裁判官。父の赴任地福島で生まれる。 正則中学校(現・正則高等学校)から東京美術学校図案科第2部(東京芸術大学建築科の前身)に進学する。在校中、商工省輸出工芸図案展に出品し2等受賞。1916年(大正5年)東京美術学校卒業。 1917年(大正6年)逓信省経理課(のち逓信省営繕課)に勤務。
倉成 庄八郎(くらなり しょうはちろう、1892年4月19日… 倉成 庄八郎(くらなり しょうはちろう、1892年4月19日 - 1938年4月22日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 長崎県出身。1924年、日本大学法科専門部卒。税務属、長崎県属、会計検査院書記を経て、長崎市議、同議長、長崎県議、同参事会員、となる。また、万朝報記者、長崎民友新聞副社長となる。 1936年の第19回衆議院議員総選挙において長崎1区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選した。第20回総選挙でも再選され衆議院議員を2期務め、1938年、現職のまま死去した。
野﨑 丹斐太郎(のざき にいたろう、明治25年(1892年)… 野﨑 丹斐太郎(のざき にいたろう、明治25年(1892年)4月18日 - 昭和51年(1976年)9月8日)は、昭和時代の製塩業を営んだ実業家。野﨑続太郎の子(母は祖父野﨑武吉郎の娘)。妻は板倉勝憲の娘(長女)。姉に階(佐谷有吉妻)、妹に正(舟橋清賢妻)。子女は、保子(三女、大塚斌妻)ら。 京都帝国大学卒業。大正14年に祖父武吉郎が没した為、家業(製塩業)を継ぐ。昭和9年(1934年)株式会社野﨑事務所カナワ式、真空式、流下式と新しい製塩法を次々と取り入れ近代化をはかった。昭和21年(1946年)に内海塩業株式会社に社名変更し、昭和44年(1969年)にはイオン交換樹脂膜法を採用した。昭和49年(1974年)にはナイカイ塩業株式会社と社名を変更した。
佐野 文夫(さの ふみお、1892年(明治25年)4月18日… 佐野 文夫(さの ふみお、1892年(明治25年)4月18日 - 1931年(昭和6年)3月1日)は、日本の共産主義者で戦前の日本共産党(第二次共産党)幹部。 山形県米沢市生まれ。父は山口県立山口図書館長を務めた図書館学者・佐野友三郎。父の転勤に伴い、少年期を台湾、大分、山口で過ごす。第一高等学校に無試験で入り、菊池寛、井川(後の恒藤)恭、芥川龍之介と同級生となる。高校生時代、特にドイツ語に長け、在学中から西欧の哲学書を翻訳するほどの天才ぶりだった。この在学中に菊池寛との間でマント事件が起きた。事件の影響でいったん休学して山口県に帰り、キリスト教信徒伝道者・本間俊平の「感化」を促す施設で謹慎生活(秋吉台での大理石採掘)を送り、通常よりも遅れて1913年9月に第一高等学校を卒業した。
宮崎 勝太郎(みやざき かつたろう、1892年〈明治25年〉… 宮崎 勝太郎(みやざき かつたろう、1892年〈明治25年〉4月16日 - 1946年〈昭和21年〉7月12日)は、日本の外交官。駐ルーマニア公使。 愛媛県松山市出身。1916年(大正5年)、高等文官試験と外交官及領事官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学法律科を卒業した。農商務省商工局、同臨時産業調査局に勤務した後、外務事務官に転じ、政務局第三課に勤務。さらにイギリス大使館三等書記官、同二等書記官、外務書記官・欧米局第一課長、フランス大使館一等書記官、イギリス大使館一等書記官、トルコ大使館参事官を歴任した。1939年(昭和14年)、駐ルーマニア公使に就任し、翌年に退官した。
佐々木 すぐる(ささき すぐる、本名:佐々木 英、1892年… 佐々木 すぐる(ささき すぐる、本名:佐々木 英、1892年〈明治25年〉4月16日 - 1966年〈昭和41年〉1月13日)は、日本の作曲家。兵庫県高砂市出身。童謡をはじめとする2000曲もの楽曲を作曲し、中でも「月の沙漠」「お山の杉の子」が有名。三男の佐々木行綱は元童謡歌手、声楽家(バス)、音楽評論家、元山形大学教授。 兵庫県印南郡阿弥陀村魚橋(現・高砂市阿弥陀町魚橋)出身。元は士族であり、父親が郡役所に勤務する家庭に育つ。幼い頃に近所の住人から笛を貸してもらったことで、音楽に興味を抱く。しかし、家庭が貧しかったことから学費のことを考え、音楽学校ではなく姫路師範学校(現在の神戸大学の前身の一つ)へと進学。
4代氏家 清吉(うじいえ せいきち、1892年(明治25年)… 4代氏家 清吉(うじいえ せいきち、1892年(明治25年)4月15日 - 1956年(昭和31年)12月14日)は、日本の銀行家。元七十七銀行頭取・会長。
宮崎 高四(みやざき たかし、1892年4月14日 - 19… 宮崎 高四(みやざき たかし、1892年4月14日 - 1932年5月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 大阪府出身。1917年、東京帝国大学経済科卒。阪堺電鉄、大阪土地建物、高松百貨店各(株)取締役、木津川土地運河、門司築港各(株)監査役となる。 1930年の第17回衆議院議員総選挙において熊本2区から立憲国民党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。1932年の第18回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。同年5月に死去した。
星野 直樹(ほしの なおき、1892年〈明治25年〉4月10… 星野 直樹(ほしの なおき、1892年〈明治25年〉4月10日 - 1978年〈昭和53年〉5月29日)は、日本の大蔵官僚、政治家、実業家。 満洲国では国務院総務長官として腕を振るい、満洲国の実力者「弐キ参スケ」の一角を占める。第2次近衛内閣の企画院総裁、東條内閣では内閣書記官長を務め、終戦後にA級戦犯として起訴された。終身禁固刑を受けるも釈放され、その後は旭海運社長、ダイヤモンド社会長などを歴任した。 1892年(明治25年)4月10日に横浜市で生まれた。当時の高等科二年時(現在の小学校6年)、府立一中(現在の日比谷高校)へ願書を持って行ったところ、その年、中学校に入れるのは1892年4月2日以前の生まれの者に限られるとして、断られた。
高田 敏子(たかだ としこ、1892年4月10日 - 197… 高田 敏子(たかだ としこ、1892年4月10日 - 1974年4月1日)は日本の女子教育および英語教育を先駆的に推進した教育者。静岡県田方郡三島町(現在の三島市)出身。名前の表記は「敏」の例もあるが、戸籍上の表記は「敏子」。高田常三郎と常子の娘として生まれる。大正から昭和初期に「高田女塾」、「高田女学校」を、戦後は「日本キリスト会川崎教会・高田英語学園」を設立して、女性や子供の英語教育に終生献身した。姉の坂本真琴は大正・昭和期に日本の婦人参政権運動に尽力したことで知られる。 高田家は三島の裕福な士族で、敏子の父常三郎は画家を志し(画号常斎)、なおかつキリスト教に入信するなど、明治という時代にあっては大変開明的な家庭環境にあった。
佐藤 春夫(さとう はるお、1892年〈明治25年〉4月9日… 佐藤 春夫(さとう はるお、1892年〈明治25年〉4月9日 - 1964年〈昭和39年〉5月6日)は、近代日本の詩人・小説家。艶美清朗な詩歌と倦怠・憂鬱の小説を軸に、文芸評論・随筆・評伝作品・童話・戯曲・和歌とその活動は多岐に及び、明治末期から昭和中期まで旺盛に活動した。筆名を潮鳴、沙塔子、雅号を能火野人と称した。初代新宮市名誉市民。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 生家は医家。中学時代から文学好きで、文芸誌「スバル」に詩歌を投稿した。永井荷風を慕い慶應義塾に入学。生田長江に師事。与謝野鉄幹・晶子の東京新詩社に入った。 『西班牙犬の家』(1917年)などで認められ、『田園の憂鬱』(1917年)や『都会の憂鬱』(1922年)で作家的地位を確立。
細見 惟雄(ほそみ これお、1892年(明治25年)4月9日… 細見 惟雄(ほそみ これお、1892年(明治25年)4月9日 - 1963年(昭和38年)8月10日)は、日本陸軍の軍人。陸士25期。最終階級は陸軍中将。
田中 恭吉(たなか きょうきち、明治25年(1892年)4月… 田中 恭吉(たなか きょうきち、明治25年(1892年)4月9日 - 大正4年(1915年)10月23日)は、和歌山県和歌山市出身の文人・芸術家。特に版画家としてよく知られている。 明治25年(1892年)、現在の和歌山市に生まれた。明治43年(1910年)に和歌山県立徳義中学校(後に和歌山中学校と統合)を卒業すると上京し、約1年間、白馬会原町洋画研究所に通う間に恩地孝四郎と知り合った。翌年に東京美術学校の彫刻科に入学すると、藤森静雄、大槻憲二、土岡泉、竹久夢二、香山小鳥などと交流を深める中で独自の表現を模索。初めて木版画を制作したのは大正2年(1913年)12月頃だと考えられている。藤森や大槻、土岡などと同人雑誌「ホクト」を手掛けたり、雑誌「少年界」や「少女界」に寄稿したり、回覧雑誌「密室」にペン画や、自刻による木版画いわゆる創作版画を発表するなど、美術と文芸の両方で才能を発揮した。
箱崎 文應(はこざき ぶんおう、1892年(明治25年)4月… 箱崎 文應(はこざき ぶんおう、1892年(明治25年)4月7日 - 1990年(平成2年)2月6日 )は、天台宗の僧侶。比叡山延暦寺の千日回峰行を戦前満行した行者として知られる。天台宗北嶺大行満大阿闍梨、大僧正、比叡山一山 飯室谷不動堂長寿院住職を務めた。 福島県石城郡小名浜町(現・いわき市)に生まれる。出生時の名は箱崎作。 1930年、海難事故に遭い遭難者の菩提を願い比叡山に入る。翌年、大乗院住職、小森文諦の門弟となり、文応を名乗る。 四度加行の満行(1932年)、入壇灌頂履修(1933年)を経て、1934年より回峰修行に入る。1938年10月25日より11月2日の間、断食・断水・不眠・不臥の堂入修行をおこなった。
伊藤 弥太(いとう やた、1892年(明治25年)4月6日 … 伊藤 弥太(いとう やた、1892年(明治25年)4月6日 - 1975年(昭和50年)5月31日)は、日本の洋画家。 秋田県大館市部垂町出身。1910年に旧制大舘中学校(現・秋田県立大館鳳鳴高等学校)を卒業し、翌年の1911年に上京して美術雑誌「美の廃墟」を友人らと発行したのち岸田劉生に師事した。1912年に国民新聞社の記者として活動した。1914年の第1回二科展に入選した。 この頃に家財道具一切の盗難に遭い、これが原因で岸田劉生との間に誤解が生じ、絵画を放棄して静岡県三島市に隠棲した。 1927年に若山牧水らの勧めで再起し国分寺村に上京した。1929年には千葉県に転居し、翌年の1930年には秋田市に転居した。
平良 辰雄(たいら たつお、1892年4月6日 - 1969… 平良 辰雄(たいら たつお、1892年4月6日 - 1969年7月26日)は、戦前の沖縄県の官僚で、沖縄群島政府及び琉球政府の政治家。
草光 信成(くさみつ のぶしげ、1892年4月5日 - 19… 草光 信成(くさみつ のぶしげ、1892年4月5日 - 1970年12月21日)は、日本の洋画家。 島根県出雲市出身。1916年東京美術学校(現在の東京芸術大学)卒。和田三造に師事した。1916年の第4回帝展に出品した「簾の影」が初入選した。その後、1927年に「四人の子等」、1928年に「立像」で2年連続帝展特選を受賞した。1930年に「前庭」でも帝展特選を受賞した。 1936年ベルリンオリンピックの芸術競技の絵画種目に、「スタート」「用意」という作品を出品した。 1938年には従軍画家として中国に赴任した。 1950年には新世紀美術協会の創立に参画し、その委員を務めた。
中原 義正(なかはら よしまさ、1892年4月3日 - 19… 中原 義正(なかはら よしまさ、1892年4月3日 - 1944年2月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。日本海軍の著名な南進論者であった。 山口県美祢郡美東町太田出身。農業・中原吉蔵の三男として生れる。萩市の医師、平和主義者、宮原進の叔父にあたる。山口中学校を経て、1913年12月、海軍兵学校(41期)を卒業し、翌年12月、海軍少尉任官。1920年12月、海軍水雷学校高等科を卒業し、「第1潜水艦」長兼水雷学校教官、第1潜水戦隊参謀、練習艦隊参謀、「第37潜水艦」長心得などを歴任し、1926年11月、海軍大学校(甲種24期)を卒業した。 「呂号第六十四潜水艦」長、アメリカ駐在、軍令部第1班第1課参謀、軍令部出仕(第1班)、ジュネーヴ出張、海軍省人事局第1課局員、軍令部第1部員、「名取」艦長、開戦時の御前会議に出席をした。
長野 長広(旧字体: 長野 長廣、ながの ながひろ、1892… 長野 長広(旧字体: 長野 長廣、ながの ながひろ、1892年(明治25年)4月1日 – 1965年(昭和40年)3月23日)は、日本の政治家。衆議院議員(立憲民政党→日本進歩党→民主党→自由党)、文部政務次官、内務政務次官を務めた。 高知県長岡郡介良村(現在の高知市)出身。1909年(明治42年)、高知県立農林学校を卒業。小学校訓導、高知県立農業学校教諭、熊本農業学校教諭、実業補習学校教員養成所教諭、文部省社会教育官、宇都宮高等農林学校教授を歴任。のち満州国文教部に勤務し、満州国体育連盟理事を兼ねた。 1937年(昭和12年)、衆議院に補欠当選。同年の第20回衆議院議員総選挙で再選を果たした。
土岐 政夫(とき まさお、1892年4月1日 - 1965年… 土岐 政夫(とき まさお、1892年4月1日 - 1965年3月5日)は、日本の官僚。
大ノ里 萬助(おおのさと まんすけ、1892年4月1日 - … 大ノ里 萬助(おおのさと まんすけ、1892年4月1日 - 1938年1月22日)は、青森県南津軽郡藤崎町出身で出羽海部屋(入門時は若松部屋)に所属した大相撲力士。本名は天内 萬助(あまない まんすけ)。最高位は東大関。 1892年4月1日に青森県で生まれる。身体は小さいが無類の相撲好きで、1910年の夏に巡業が弘前へ来た際に土俵上にいた綾川五郎次の颯爽たる姿に憧れ、角界入りを決意した。そして1911年に周囲の忠告・制止を振り切って上京し若松部屋で入門を志願したが、あまりの小さい身体に一度は唖然とされるも、熱心さに根負けした若松が「暫くは置いておこう」と入門を許可、1912年1月場所で初土俵を踏んだ。
宮寺 敏雄(みやでら としお、1892年(明治25年)3月3… 宮寺 敏雄(みやでら としお、1892年(明治25年)3月31日 - 1968年(昭和43年)8月1日)は、昭和時代に活動した日本の実業家。大同電力取締役、揖斐川電気工業(現・イビデン)社長などを務めた。静岡県出身。 宮寺敏雄は1892年(明治25年)3月31日、宮寺昇作の次男として生まれた。出身は静岡県沼津市。沼津中学校を経て慶應義塾大学部理財科に進み、1915年(大正4年)卒業。親戚に銀行家が多かったため周囲から三井銀行への就職を勧められたがこれを断り、日本陶器に入るため名古屋市へ赴く。しかし同社への入社が叶わなかったため、福澤桃介に面会して彼が経営する電力会社名古屋電灯株式会社に入社することとなった。