小浜 浄鉱(小濱、こはま[要出典] / おばま じょうこう、… 小浜 浄鉱(小濱、こはま[要出典] / おばま じょうこう、1886年(明治19年)7月2日 - 1948年(昭和23年)9月24日)は、日本の内務官僚。官選福井県知事、台湾総督府内務局長。 東京府東京市本所区元町(現・東京都墨田区)出身。小濱三次郎の四男として生まれる。第二高等学校を卒業。1912年、東京帝国大学法科大学経済学科を卒業。内務省に入省し富山県属となる。1913年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 1914年、富山県氷見郡長に就任。以後、広島県理事官、兵庫県理事官、内務省衛生局保険課長、同社会局社会部福利課長などを歴任。 1928年5月、福井県知事に就任。1930年8月に休職となるが、1931年12月に再任された。
もっと読む
関屋 龍吉(せきや りゅうきち、1886年(明治19年)7月… 関屋 龍吉(せきや りゅうきち、1886年(明治19年)7月2日 - 1976年(昭和51年)11月5日)は、大正・昭和戦前期の日本の文部官僚。文部省社会教育局長を務め、「社会教育育ての親」とも評される。「青い目の人形」による日米交流や、少年団・青年団の組織化などに足跡を残す。 1886年(明治19年)、岐阜県大垣で、旧藩校教官一柳元吉の二男として生まれる。関屋家の養子となり、東京へ出た。 当初は父の弟子であった日本鉄道幹部の吉川義幹の養子になる予定であったが、1897年(明治30年)に吉川が急逝したため、吉川の妻である与喜子(関屋家に復する)の養子となったものである。旧制大垣中学校(現在の岐阜県立大垣北高等学校)で1年生の課程を終えたあと、1899年(明治32年)春に東京府中学(翌年東京府立第一中学校に改称)に移り、第一高等学校を経て東京帝国大学に入学。
もっと読む
山田 佐一(やまだ さいち、1886年(明治19年)7月2日… 山田 佐一(やまだ さいち、1886年(明治19年)7月2日 - 1960年(昭和35年)4月2日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。 愛知県知多郡乙川村(亀崎町を経て現半田市)で、山田保造の三男として生まれる。高等小学校を卒業し、1913年(大正2年)に分家した。 木綿織布業を営み、知多商工会議所副会頭、知多白木綿同業組合長、愛知県織物同業組合連合会長、日本織物中央会副会頭、日本輸出綿織物同業組合連合会代表、日本白巾白生地工業組合連合会長、山田商店代表社員、山田紡織会長、山田織布取締役などを務めた。 政界では、亀崎町会議員、知多郡会議員、同参事会員、愛知県会議員、同参事会員、半田市会議員、同議長などを歴任した。
もっと読む
佐藤 緑葉(さとう りょくよう、1886年7月1日 - 19… 佐藤 緑葉(さとう りょくよう、1886年7月1日 - 1960年9月2日)は、日本のジャーナリスト、小説家、翻訳家。本名は佐藤利吉(さとう りきち)。群馬県吾妻郡東村生まれ。
もっと読む
門田 定蔵(定藏、かどた さだぞう / ていぞう、1886年… 門田 定蔵(定藏、かどた さだぞう / ていぞう、1886年(明治19年)7月1日 - 1962年(昭和37年)1月12日)は、明治末から昭和期の農民運動家、政治家。参議院議員。 鳥取県久米郡中江村(上北条村、東伯郡上北条村中江を経て現倉吉市)の農家に生まれる。小学校卒業後、農業に従事し作物改良に尽力した。1917年(大正6年)上北条小作組合を設立して農民運動に加わった。1925年(大正14年)上日小作連合会、1927年(昭和2年)東伯小作聯合会を組織して同会長に就任し、地主側との小作料減額の交渉を進めた。1929年(昭和4年)暴力行為等処罰ニ関スル法律違反の嫌疑により逮捕され、懲役2年執行猶予2年の有罪判決を受けた。
もっと読む
高田 良平(たかだ りょうへい、1886年(明治19年)6月… 高田 良平(たかだ りょうへい、1886年(明治19年)6月30日 - 1972年(昭和47年)9月15日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 埼玉県榛沢郡、のちの大里郡深谷町(現:深谷市)で、高田惣五郎、ひこ夫妻の二男として生まれる。旧制熊谷中学卒業。 深谷物産専務取締役、深谷商業銀行取締役、深谷製材社長、武蔵土地証券社長、富岡製織取締役、大里郡織物同業組合織物研究会長、深谷商工会副会長、関東商事社長などを務め、商工業の振興に尽力した。 1920年5月、第14回衆議院議員総選挙で埼玉県第三区から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
もっと読む
半田 孝海(はんだ こうかい、1886年6月28日 - 19… 半田 孝海(はんだ こうかい、1886年6月28日 - 1974年9月17日)は日本の天台宗の僧侶、平和運動家。 茨城県水戸市生まれ。10歳で長野県上田市の常楽寺の養子となる。旧制京北中学校、旧制第七高等学校造士館、東京帝国大学文学部心理学科卒卒業。1917年常楽寺住職に就任し、上田自由大学を積極的に支援した。1920年上田蚕糸専門学校講師、1929年天台宗教学部長、同比叡山中学校長、学監などを経て、1950年天台宗大僧正となり、1959年善光寺大勧進副住職を務め、のち名誉貫主なる。また比叡山樹王院住職も務めた。 戦後は平和運動を推進し、1947年から長野県仏教会会長を務め、米軍の浅間山演習場計画には先頭に立ってこれを阻止し、1956年、原水爆禁止日本協議会の代表委員兼長野県協議会長を務めた。
もっと読む
今村 均(いまむら ひとし、1886年〈明治19年〉6月28… 今村 均(いまむら ひとし、1886年〈明治19年〉6月28日 - 1968年〈昭和43年〉10月4日)は、日本の陸軍軍人。陸士19期、陸大27期首席。最終階級は陸軍大将。 1886年(明治19年)6月28日、宮城県仙台区に父・今村虎尾と母・今村きよみの二男として生まれる。今村家は仙台藩上士の家柄であった。均の祖父は戊辰戦争の際に仙台藩参謀を務めた今村鷲之助。鷲之助は進駐してきた新政府軍に対して融和的な態度をとったため藩内の強行派から非難を浴び、財産を家来にほとんど分け与え、新政府からの官職への呼びかけにも応じることなく隠遁した。その後、妻を亡くすと名家から後妻を押しつけられるなどしたため酒に溺れる生活を送った。
もっと読む
高田 義一郎(たかた ぎいちろう、1886年(明治19年)6… 高田 義一郎(たかた ぎいちろう、1886年(明治19年)6月28日 - 1945年(昭和20年)6月14日)は、医学博士、文筆家。主に性欲・犯罪に関する著作で知られる。筆名・高田 杏湖。 1886年(明治19年)、滋賀県栗太郡草津村、東海道草津宿の名門6代目高田茂徳の長男として生まれる。 茂徳の放蕩癖により家財を使い果たした一家は草津を追われ北海道、京都、東京と転居を繰り返す。貧困にあったが親戚である実業家浜岡光哲の援助をうけ医学の道に進んだ。 旧制第三高等学校卒業後、京都帝国大学医学部に学び同校法医学教室助手となる。 1919年(大正8年)、千葉医学専門学校の教授に就く。1922年(大正11年)から1年あまり文部省在外研究生として独伊英に留学。
もっと読む
安田 善五郎(やすだ ぜんごろう、1886年〈明治19年〉6… 安田 善五郎(やすだ ぜんごろう、1886年〈明治19年〉6月26日 - 1963年〈昭和38年〉1月10日)は、日本の実業家。安田銀行頭取、京浜電気鉄道社長、安田生命保険社長、大垣共立銀行頭取、四国銀行頭取、肥後銀行頭取等を歴任した。 安田善次郎の三男(善次郎49歳のときの子)。幼名は三郎彦。福島県立安積中学校(現福島県立安積高等学校)17期出身。後年、安積中学校から東京に進学した学生のため、父善次郎の言葉「積善の家に必ず余慶あり」からとった積善寮を牛込に開設し、学費の援助も行った。1919年安田銀行頭取に就任。 1921年京浜電気鉄道社長。同年に安田善次郎が死去すると、辞任した安田善四郎、安田善衛、安田善助の後を受け、安田善雄、安田善兵衛とともに保善社の理事に就任。
もっと読む
戸田 由美(とだ よしみ、1886年〈明治19年〉6月24日… 戸田 由美(とだ よしみ、1886年〈明治19年〉6月24日 - 1965年〈昭和40年〉7月23日)は、衆議院議員(憲政会→立憲民政党→国民同盟)。男性。埼玉県大宮市長(第2代)。 長野県上伊那郡東春近村(現在の伊那市)出身。1910年(明治43年)、慶應義塾大学部理財科を卒業。南信毎日新聞社専務取締役・主筆、南信絹糸紡績株式会社専務取締役、信産館製糸株式会社取締役を務め、また東春近村会議員に選ばれた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第18回に至るまで連続4回当選を果たした。その間、濱口雄幸内閣総理大臣の秘書官を務めた。 1944年(昭和19年)には第2代大宮市長に選出された。
もっと読む
山中 恒三(やまなか つねぞう、1886年(明治19年)6月… 山中 恒三(やまなか つねぞう、1886年(明治19年)6月23日 - 1975年(昭和50年)7月1日)は、日本の内務官僚、弁護士。官選県知事。 山口県都濃郡富田村(新南陽市を経て現周南市)出身。山中安兵衛の二男として生まれる。第六高等学校を経て、1912年(明治45年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。司法省に入省。1914年(大正3年)内務省に転じ三重県属となる 以後、三重県警視、同県安濃郡長、青森県理事官、岐阜県警察部長、北海道庁書記官・拓殖部長、福岡県書記官・内務部長、北海道庁土木部長などを歴任。 1929年(昭和4年)2月、富山県知事に就任。
もっと読む
水守 亀之助(みずもり かめのすけ、1886年(明治19年)… 水守 亀之助(みずもり かめのすけ、1886年(明治19年)6月22日 - 1958年(昭和33年)12月15日)は兵庫県出身の小説家。 兵庫県若狭野村(現・相生市)生まれ。大阪の医学校を中退して1906年に上京し、1907年には田山花袋に入門。春陽堂で編集者となる。1914年、徳田秋声の紹介で中央公論社に入るも1日で退職。1919年、中村武羅夫の紹介で新潮社に入社。『新潮』編集部に入る。編集者生活の傍ら、自然主義の影響下に『末路』『帰れる父』などを発表。中村武羅夫や加藤武雄と共に新潮三羽烏と称された。1923年には文学雑誌『随筆』を主宰し、八木隆一郎を書生とする。1924年、1925年に『少女倶楽部』で連載した「涙の握手」「残月の曲」で人気を集める。
もっと読む
許 憲(ホ・ホン、きょ けん、1885年7月22日 – 19… 許 憲(ホ・ホン、きょ けん、1885年7月22日 – 1951年8月16日)は、朝鮮の政治家、弁護士、独立運動家。 朝鮮王朝時代の咸鏡北道明川郡に生まれる。普成専門学校を経て、日本の明治大学法学部を卒業し、1907年には大韓帝国の弁護士試験に合格した。 1919年の三・一独立運動では、抗日派の代表的な弁護士として活躍した。その後は、朝鮮共産党の創党に参加し、コミンテルンの承認を得るために送られた曺奉岩が1928年2月に上海で日本の領事館警察に逮捕された事に伴い、京城地方裁判所において無償で彼の弁護を担当した。光州学生事件後のデモに関与して逮捕され、弁護士資格を剥奪、1943年には禁止されていた海外の短波放送を聴取した廉で逮捕され、1945年8月の解放まで収監された。
もっと読む
矢部 藤七(やべ とうしち、1885年(明治18年)7月21… 矢部 藤七(やべ とうしち、1885年(明治18年)7月21日 - 1959年(昭和34年)4月11日)は、大正から昭和時代の政治家。醸造家。大日本帝国陸軍軍人。衆議院議員。栃木県上都賀郡西方村長。位階は従五位。 栃木県上都賀郡本城村(西方村、西方町を経て現栃木市)出身。矢部儀一郎の二男として生まれ、1909年(明治42年)家督を相続する。1903年(明治36年)栃木中学校卒業。陸軍に入り歩兵少尉に進んだ。 酒造業を営み、西方村長、栃木県会議員、同副議長、上都賀郡農会長、県農会長、西方村産業組合長、県信用購買販売利用組合連合会副会長を歴任した。ほか、村会議員、郡会議員、帝国在郷軍人会分会長、消防組頭、大政翼賛会県支部常務委員なども務めた。
もっと読む
北 昤吉(きた れいきち、1885年(明治18年)7月21日… 北 昤吉(きた れいきち、1885年(明治18年)7月21日 - 1961年(昭和36年)8月5日)は、日本の思想家、思想評論家、教育者、政治家・衆議院議員、日本自由党政調会長。多摩美術大学創立者。別名・礼華。 二・二六事件の首謀者の一人である北一輝の実弟。 新潟県佐渡市(旧新潟県佐渡郡湊町)出身。初代両津町長で酒屋と肥料屋を営む北慶太郎の二男。高等小学校入学と同時に漢学塾に通い、漢学と習字を習う。新潟県立佐渡中学校(新制:佐渡高校)に入学したが、兄と同学年になることを嫌った父親の命令で中学入学が遅れたため、希望していた陸軍幼年学校進学を年齢制限により絶たれる。早稲田大学政治経済学部に入学するも、1年で哲学科に移り、1905年(明治38年)の予科卒業時には首席となり各科総代を務めた。
もっと読む
黒田 長敬(くろだ ながあつ、1885年(明治18年)7月2… 黒田 長敬(くろだ ながあつ、1885年(明治18年)7月21日 - 1963年(昭和38年)3月24日)は、明治後期から昭和期の宮内官、華族。旧秋月藩黒田家13代当主、黒田子爵家2代当主。貴族院子爵議員。初名は静男。 筑前福岡藩最後の藩主黒田長知の五男。筑前秋月藩最後の藩主で子爵の黒田長徳の養子となる。長徳の死去に伴い、1892年(明治25年)7月20日、家督を継ぎ子爵を襲爵。同年7月22日に長敬と改名した。1906年(明治39年)7月、学習院高等科を卒業した。その後、アメリカ合衆国に留学し1912年(明治45年)コーネル大学文理科を卒業。 帰国後、1914年(大正3年)宮内省に入省し大正天皇の侍従となり宮内事務官を兼務。
もっと読む
田澤 義鋪(たざわ よしはる、1885年(明治18年)7月2… 田澤 義鋪(たざわ よしはる、1885年(明治18年)7月20日 - 1944年(昭和19年)11月24日)は、大正期及び昭和初期の社会教育家、政治家、思想家。佐賀県鹿島市出身。 青年教育と政治教育そして選挙粛正に一生を捧げた。とりわけ青年団運動及び青年教育に尽力した活動が知られており、「青年団の父」と称されている。 1885年(明治18年)7月20日、佐賀県藤津郡鹿島村(現鹿島市)大字高津原434番地に、父義陳・母みすの長男として生まれる。4歳で鹿島小学校に入学。幼少時は、旧鹿島藩主鍋島直彬の薫陶を受ける。1901年(明治34年)旧制佐賀県立鹿島中学校(現佐賀県立鹿島高等学校)卒業。熊本第五高等学校 (旧制)を経て1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。
もっと読む
野依 秀市(のより ひでいち、1885年(明治18年)7月1… 野依 秀市(のより ひでいち、1885年(明治18年)7月19日 - 1968年(昭和43年)3月31日)は、日本のジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家、政治家。本名同じ。旧名義は野依 秀一(のより しゅういち)。筆名は不屈生。 明治・大正・昭和の3つの時代にわたって活動し、雑誌『実業之世界』、日刊紙『帝都日日新聞』、仏教雑誌『真宗の世界』等を創刊・運営した。また、「右翼ジャーナリスト」、「言論ギャング」、「ブラック・ジャーナリズムの祖」等の異名を持った。敗戦後のGHQ検閲(プレスコード)による没収図書は個人では断トツであり、表の言論史では抹殺された存在である。慶應義塾で机を並べた石山賢吉とは表と裏の関係になった。
もっと読む
大倉 勝馬(おおくら かつま、1885年(明治18年)7月1… 大倉 勝馬(おおくら かつま、1885年(明治18年)7月15日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の公吏。東京府荏原郡駒沢町長。東京市世田谷区長。 大倉寛蔵の長男として千葉県に生まれる。千葉県立安房中学校を卒業する。千葉県夷隅郡、東京府南葛飾郡各書記、復興局嘱託、駒沢町助役、同町長を経て、1932年(昭和7年)大森区庶務課長に転任した。 1938年(昭和13年)7月、世田谷区長に就任し、1942年(昭和17年)9月まで務めた。 戦後、公職追放となった。
もっと読む
喜舎場 永珣(きしゃば えいじゅん、1885年7月15日 -… 喜舎場 永珣(きしゃば えいじゅん、1885年7月15日 - 1972年4月2日)は、沖縄県出身の日本の郷土史家(沖縄学者)、民俗学者。「八重山研究の父」と呼ばれる。石垣市名誉市民。 1885年7月15日、沖縄県石垣島(現在の石垣市)に生まれる。沖縄県師範学校を卒業して教師となる。 1907年に八重山列島を訪問した伊波普猷の影響で郷土史研究に着手。1921年に八重山列島を訪れた柳田国男を案内したことが縁で、1924年に『八重山島民謡誌』が柳田による炉辺叢書の1巻として出版された。 1932年には校長の職を辞し、以後は八重山研究に専念。1954年に『八重山歴史』、1968年に『八重山民謡誌』を出版。
もっと読む
福井 盛太(ふくい もりた、1885年〈明治18年〉7月14… 福井 盛太(ふくい もりた、1885年〈明治18年〉7月14日 - 1965年〈昭和40年〉12月27日)は、日本の弁護士(第一東京弁護士会会長)、検察官、政治家。検事総長、衆議院議員(3期)、日本弁護士連合会副会長、共立薬科大学理事長等を歴任。また、日本野球機構初代コミッショナーを務めた。従三位、勲二等旭日重光章、館林市名誉市民。囲碁5段、柔道3段。 1885年(明治18年)、群馬県邑楽郡館林町(現在の館林市)に、旧館林藩士・福井盛武の長男として生まれる。館林小学校尋常科・同高等科を経て、1900年(明治33年)群馬県立太田中学校を卒業し旧制第二高等学校に進む。1913年(大正2年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、翌年弁護士開業。
もっと読む
清水 与七郎(しみず よしちろう、旧字体:清水 與七郎、18… 清水 与七郎(しみず よしちろう、旧字体:清水 與七郎、1885年〈明治18年〉7月12日 - 1983年〈昭和58年〉9月11日)は日本の実業家、技術者。日本テレビ放送網第2代代表取締役社長。現在の富山県高岡市福岡町出身。岳父に高嶺秀夫、義弟に土田誠一。 金沢第一中学校、第四高等学校二部工科を卒業。1908年(明治41年)、東京帝国大学電気工学科卒業。逓信省に入省し技師を務めた後、1919年(大正8年)に東京芝浦電気(現在の東芝)に入社。1931年(昭和6年)に同社の副社長に就任する。1934年(昭和9年)、読売ジャイアンツの設立に参加する。また、東京電気無線(現在の東芝テリー)の社長も務めた。
もっと読む
出塚 助衛(いでづか すけえ、1885年(明治18年)7月1… 出塚 助衛(いでづか すけえ、1885年(明治18年)7月10日 – 1966年(昭和41年)10月11日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 新潟県北蒲原郡、のちの神山村(笹神村を経て現在の阿賀野市)出身。1911年(明治44年)に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、さらに大学院で学んた。弁護士を開業し、また新潟市会議員に選ばれた。 1932年(昭和7年)第18回衆議院議員総選挙に新潟県第2区から出馬し、当選を果たした。 その他、新潟競馬クラブ理事長、観光ホテル清風株式会社監査役などを務めた。 1967年に出塚助衛の功績を称え出塚記念が新潟競馬場で新潟県競馬組合により実施され、1982年まで16回開催された(1973年と1979年は三条競馬場で施行)[要出典]。
もっと読む
高田豊四郎(たかた とよしろう、1885年(明治18年)7月… 高田豊四郎(たかた とよしろう、1885年(明治18年)7月10日 - 1961年(昭和36年)11月3日、旧姓:松原)は、日本の篤農家である。梨の黒斑病対策として鳥取県に初めてパラフィン紙袋を持ち込んだことや、傾斜地のオールバック整枝を発案したことで知られる。 1885年(明治18年)7月10日、鳥取県東伯郡三朝村(現在の東伯郡三朝町)大字横手村の農家の三男として生まれる。松原家は江戸時代には庄屋も務めた名家であり、父の松原虎之丈(虎之丞とも)は村長を13年務めた。虎之丈は山村にも新産業を導入しようと考え、岡山県から小山益太を招いて講演会を開催し、自身も果樹栽培を始めた。果樹栽培に興味を持った豊四郎は家業の農業をする傍ら年に2~3回は小山のもとを訪ねるなどして果樹栽培の技術を磨いていった。
もっと読む
波江 悌夫(なみえ やすお、1885年7月9日 - 1965… 波江 悌夫(なみえ やすお、1885年7月9日 - 1965年2月8日)は、大阪を中心に活躍した建築家。大阪城天守閣の基本設計を行ったことなどで知られる。
もっと読む
小泉 軍治(こいずみ ぐんじ、Gunji Koizumi、1… 小泉 軍治(こいずみ ぐんじ、Gunji Koizumi、1885年7月8日 - 1965年4月15日)は、柔道をイギリスに紹介し、「イギリス柔道の父 (the Father of British Judo)」と称された日本の柔道家である。G.K.の愛称でも知られた。 イングランド、ヨーロッパで最初の柔道団体として、ロンドンに武道会を創設した。小泉はイギリス柔道協会の設立を助け、ヨーロッパ柔道連盟を創設した。最終段位は講道館8段であった。1965年、小泉が自殺と見られる死を遂げたことは、世界の柔道界に衝撃を与えた。 1885年7月8日に茨城県南部の駒塚村(現在の稲敷市の一部)に生まれた。当時、この地域は東京から50㎞ほど離れた農村であった。
もっと読む
坂本 清馬(さかもと せいま、1885年〈明治18年〉7月4… 坂本 清馬(さかもと せいま、1885年〈明治18年〉7月4日 - 1975年〈昭和50年〉1月15日)は、日本の社会運動家、幸徳事件(いわゆる大逆事件)で逮捕され、仮釈放後も無実を訴え続けた。 高知県安芸郡元村(のち同郡室戸町、現・室戸市)出身。高知第二中学校を中退し、中退後は上京し、砲兵工廠に勤務する。「平民新聞」を読み、社会主義に関心を持ち、1907年〈明治40年〉に同郷の幸徳秋水の門を叩き、その書生となる。翌年、熊本に移り、「熊本評論」の記者となる。同年赤旗事件が起こり、上京し、幸徳の元に身を寄せた。しかし、意見の相違により幸徳から離れ、各地を移動する。1910年〈明治43年〉東京に戻り、7月26日に「浮浪罪」で逮捕され、8月9日に天皇爆殺を企てた大逆事件の被告として起訴された。
もっと読む
梁田 貞(やなだ ただし(てい))、1885年7月3日 - … 梁田 貞(やなだ ただし(てい))、1885年7月3日 - 1959年5月9日)は教育者、作曲家。北海道札幌市出身。
もっと読む
田島 道治(たじま みちじ、1885年(明治18年)7月2日… 田島 道治(たじま みちじ、1885年(明治18年)7月2日 - 1968年(昭和43年)12月2日)は、日本の実業家、銀行家、教育家。
もっと読む
大橋 進一(おおはし しんいち、1885年(明治18年)7月… 大橋 進一(おおはし しんいち、1885年(明治18年)7月1日 - 1959年(昭和34年)11月29日)は、日本の実業家。出版社・博文館の第3代館主、初代・第3代社長。第二次世界大戦終結直後、財閥解体と公職追放の圧力が高まる中で、祖父の佐平と父の新太郎が2代にわたり築き上げてきた博文館をみずから解体させた。 1885年(明治18年)7月1日、新潟県長岡で、大橋新太郎とやま子の長男として生まれる。 1888年(明治21年)3月、両親に連れられて上京する。 1897年(明治30年)、父の新太郎がやま子と離婚して須磨子と結婚した。進一は継母の須磨子や異母弟妹たちとは不仲で、須磨子のいる大橋家を嫌い、寄りつかなかったという。
もっと読む
小林 久七(こばやし きゅうしち、1885年〈明治18年〉6… 小林 久七(こばやし きゅうしち、1885年〈明治18年〉6月30日 - 1971年〈昭和46年〉4月)は、大正から昭和戦前期にかけて活動した日本の銀行経営者。 父が創業した長野実業銀行を継ぎ、1930年(昭和5年)にはその後身である信濃銀行の第2代頭取に就任。しかし直後に昭和恐慌のため信濃銀行は破綻、その影響で没落した。「久七」は父も名乗った名であり、襲名前は辰治を名乗った。 1885年(明治18年)6月30日、小林久七(先代)の長男として生まれる。旧名は辰治。生家の小林家は長野の新町にて油問屋「美濃屋」を営む旧家で、父・久七は金融業にも進出して明治中期に「崇成社」を結成、1903年(明治36年)にはこれを元に長野実業銀行を起こして頭取となっていた。
もっと読む
小見山 七十五郎(こみやま なそごろう / おみやま しちじ… 小見山 七十五郎(こみやま なそごろう / おみやま しちじゅうごろう、1885年(明治18年)6月28日 - 1948年(昭和23年)3月16日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。
もっと読む
成瀬 達(なるせ たつ、1885年6月28日 - 1951年… 成瀬 達(なるせ たつ、1885年6月28日 - 1951年8月16日)は、日本の官僚・実業家。成瀬隆蔵の長男。貴族院書記官長を経て第4代の日本生命社長となった。 1909年に東京帝国大学政治科を卒業して農商務省に入る。その後、1926年7月23日から1931年12月5日まで貴族院書記官長を務めた。翌1932年、日本生命の常務取締役に迎えられるが、1936年3月に創業家出身の第3代社長の弘世助太郎社長が急逝したため社長代行に就任、1937年には会長の山口吉郎兵衛も辞任したため、同年2月の株主総会・取締役会によって佐々木駒之助新会長と共に新社長に選任された。以降、戦時下を通じて社長の地位にあり、生命保険協会理事長会長などを歴任したが、太平洋戦争終結後の1946年12月に戦時中への国策協力を理由に公職追放令の適用に先立って社長と生命保険協会理事長会長を退任、翌1947年8月に正式に公職追放処分を受けた。
もっと読む
荻山 音吉(おぎやま おときち、1885年〈明治18年〉6月… 荻山 音吉(おぎやま おときち、1885年〈明治18年〉6月26日 - 1945年〈昭和20年〉7月)は、日本の商人(酒醤油商)、栃木県多額納税者、実業家、政治家。栃木県会議員。日本鉱泉社長。宇都宮モーター商会社長。宇都宮実業学校理事。 栃木県足利市の酒醸造業植田家に三男として生まれる。23歳の時に栃木県宇都宮市荻山家の養子となり、1913年に家督を相続して襲名する。「大津屋」と称し、酒類醤油商を営む。1919年、宇都宮酒類商組合長となる。 1922年、日本鉱泉を創立、社長となる。1926年、宇都宮市会議員に当選する。市会においては中立派である。1945年、宇都宮空襲によって戦災死した。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。
もっと読む
古市 六三(ふるいち ろくぞう、1885年(明治18年)6月… 古市 六三(ふるいち ろくぞう、1885年(明治18年)6月25日 - 1961年(昭和36年)3月10日)は、明治から昭和期の鉱山技術者、実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 東京で工学者・古市公威の長男として生まれた。父の死去に伴い、1934年(昭和9年)3月1日、男爵を襲爵した。 1910年(明治43年)7月、東京帝国大学工科大学採鉱及冶金学科を卒業。同年、住友総本店に入社。以後、別子鉱業所採鉱課主任、住友合資技師長、住友本社技師長、住友鉱業取締役、昭和鉱業取締役、帝国鉱業開発副社長、同社長、東北亜鉛鉱業社長、藤田組会長、日本鉱業会会長などを務めた。 1942年(昭和17年)1月17日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
もっと読む
長野 新十郎(ながの しんじゅうろう、1884年(明治17年… 長野 新十郎(ながの しんじゅうろう、1884年(明治17年)7月22日 - 1958年(昭和33年))は、教育者であり、実業家でもある。大阪高等商業学校(現:大阪公立大学)教授を経て、大阪無線電気学校の初代校長。岡山県高梁市出身。 1884年(明治17年)に岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)で生まれる。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学し、同期には山発産業社長になる山本発次郎、日本競馬会(現:日本中央競馬会)常務理事になる横屋潤がいた。1904年(明治37年)同校を卒業する。 第六高等学校へ進学し第二部(工理農コース)理科乙類(医薬農学部進学コース)でドイツ語を学ぶ。
もっと読む
服部 ケサ(はっとり けさ、1884年(明治17年)7月22… 服部 ケサ(はっとり けさ、1884年(明治17年)7月22日 - 1924年(大正13年)11月22日)は、日本の医師。ハンセン病患者の治療に尽くしたことで知られる。歌人の服部躬治は兄、小説家の水野仙子は妹。 1884年、福島県岩瀬郡須賀川村(現在の須賀川市)で、商家を営む父直太郎、母せいの次女として生まれる。尋常小学校、高等小学校を経て裁縫専修学校を卒業した後、1901年に兄躬治を頼って上京するが、家族の病気が重なり2年ほどで須賀川に帰郷する。福島県内でも明治期の近代化が進む中、閉塞感に苛まれたケサであったが、病弱な家族を思い、医師を志すようになる。 1905年、東京女医学校に入学し、1909年に前期医術開業試験に合格。
もっと読む
中尾 甚九郎(なかお じんくろう、1884年〈明治17年〉7… 中尾 甚九郎(なかお じんくろう、1884年〈明治17年〉7月22日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。合資会社中尾製材所代表社員。鳥取県八頭郡池田村会議員。若桜運送取締役。鳥取県木材連合会長。 鳥取県八東郡中原村(のち八頭郡池田村中原、現・若桜町)出身。中尾徳蔵の長男。若桜高等小学校を卒業後、家業の農業及び材木商に従事し、池田村収入役、池田信用組合専務理事等を歴任し後に製材所、運送会社、自動車会社等を設立経営する。 宗派は曹洞宗、龍徳寺。住所は鳥取県八頭郡若桜町大字若桜。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
もっと読む
鯨井 恒太郎(くじらい つねたろう、1884年(明治17年)… 鯨井 恒太郎(くじらい つねたろう、1884年(明治17年)7月19日 - 1935年(昭和10年)7月22日)は、日本の電気工学者である。 東京府(現在の東京都)東京市京橋の生まれ。東京帝国大学工科大学(現:東京大学工学部)電気工学科に入学する。1907年(明治40年)の卒業後は、逓信省に入省し電気試験所の研究員として活動した。1908年(明治41年)には同試験所に勤務する傍ら、母校の東京帝国大学で鳳秀太郎の指導の下に助教授を経て、1912年(大正元年)に文部省より「電気工学研究」のため、満2か年間ドイツ、イギリス及びアメリカへ留学を命じられ、1915年(大正4年)に帰国する。1918年(大正7年)に工学博士の学位を取得された後、昇進して教授に就任した。
もっと読む
古荘 四郎彦(ふるしょう しろひこ、1884年(明治17年)… 古荘 四郎彦(ふるしょう しろひこ、1884年(明治17年)7月18日 - 1967年(昭和42年)10月24日)は、日本の銀行家。初代千葉銀行頭取、千葉工業大学理事。千葉銀行レインボー事件で有罪となった。熊本県熊本市出身。陸軍大将の古荘幹郎はいとこ。 熊本藩士・古荘幹実の四男として生まれる。第五高等学校 (旧制)を経て、1912年(大正元年)東京帝国大学独法科を卒業、帝国商業銀行(後の富士銀行)に入行する。支配人まで昇進したのち、1923年(大正12年)に、帝大同窓の業界仲間で親しい友人の河合良成の紹介で、河合の弟の岳父川崎八右衛門 (2代目)が経営する川崎銀行の営業局長代理に転進。1925年(大正14年)には川崎系の房州銀行と安房銀行が合併して発足した安房合同銀行の常務に就任する。
もっと読む
戸村よしを(とむらよしお、1884年7月16日 – 1971… 戸村よしを(とむらよしお、1884年7月16日 – 1971年4月18日)は、日本の看護婦。福井赤十字病院看護婦監督。第11回フローレンス・ナイチンゲール記章受章。 1884年7月16日 、福井県福井市清川上町5番地 (現・松本1丁目) に、士族の娘として生まれ、厳格な家庭に育った。遠州流の茶道、生け花を教え、宝生流の謡もたしなんだ。
もっと読む
石井 林響(いしい りんきょう、1884年〈明治17年〉7月… 石井 林響(いしい りんきょう、1884年〈明治17年〉7月15日 - 1930年〈昭和5年〉2月25日)は、日本の明治末期から昭和初期に活動した日本画家。画業の中期までは、石井天風と称する。本名は毅三郎。 千葉県山辺郡土気本郷町下大和田(現在の千葉市緑区下大和田町)に、父・治郎助、母・げんの三男として生まれる。実家は豪農で、隣の家まで1町余り、東西南に他人の家が見えないほどだったという。2歳の時、母が誤って囲炉裏に落ち、頭に火傷を負う。以後これを隠すため生涯総髪で、大人になると髭も蓄えたため、これらが林響のトレードマークとなる。土気尋常小学校、大網高等小学校、旧制千葉中学校(現:千葉県立千葉中学校・高等学校)と進学。
もっと読む
小柳 牧衛(小柳 牧衞、こやなぎ まきえ、1884年7月13… 小柳 牧衛(小柳 牧衞、こやなぎ まきえ、1884年7月13日 - 1981年12月21日)は、日本の内務官僚、政治家。官選県知事、新潟市長、衆議院議員、参議院議員。幼名は畋之助。 新潟県北蒲原郡川東村大字上楠川(現:新発田市)に生まれる。新発田中学、第一高等学校を経て、1909年に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1910年、内務省に入り北海道属となり、1913年、北海道庁理事官に就任。 その後、青島守備軍民政部事務官、臨時震災救護事務局事務官兼総務課長、青森県内務部長、山口県書記官・内務部長、神奈川県書記官・内務部長などを歴任。1926年9月、青森県知事に就任。
もっと読む
畑山 四男美(はたやま しおみ、1884年〈明治17年〉7月… 畑山 四男美(はたやま しおみ、1884年〈明治17年〉7月13日 - 1971年〈昭和46年〉8月8日)は、日本の内務官僚、政治家、弁護士。県知事、福岡市長。位階は正四位。勲等は勲三等。 高知県安芸郡羽根村(現室戸市羽根町)で、畑山亀喜代、岩の四男として生まれる。第四高等学校を経て、1915年(大正4年)、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1916年(大正5年)、内務省に入り宮城県属となる。 以後、宮城県亘理郡長、佐賀県・岩手県・長野県の各理事官、岐阜県書記官、熊本県書記官・学務部長、鹿児島県書記官・警察部長、同内務部長、大分県書記官・内務部長、北海道庁部長・土木部長などを歴任。
もっと読む
北島 貴孝(きたじま よしのり、1884年〈明治17年〉7月… 北島 貴孝(きたじま よしのり、1884年〈明治17年〉7月10日 - 1956年〈昭和31年〉8月20日)は、大正から昭和前期の神職、政治家、華族。出雲大社北島国造家第77代当主、貴族院男爵議員。 島根県簸川郡(現・出雲市大社町)で北島国造家76代当主・北島斉孝の長男として生まれる。父の死去に伴い1918年(大正7年)12月20日、男爵を襲爵した。 1906年(明治39年)、学習院高等科を卒業し、さらに東京帝国大学文科大学史学科を修了した。1918年、父の死去後、神道出雲教会大教主に就任。1952年(昭和27年)、神道大教から離れ出雲教を設立して国造に就任した。1948年(昭和23年)から1953年(昭和28年)まで出雲大社御造営御用掛を務めた。
もっと読む
赤岡 重樹(あかおか しげき、明治17年(1884年)7月8… 赤岡 重樹(あかおか しげき、明治17年(1884年)7月8日 - 昭和40年(1965年)8月11日)は、山梨県出身の郷土史家。 山梨県北巨摩郡若神子村二日市場(現在の北杜市)に、父「九十郎」、母「うめ」の長男として生まれる。明治37年(1904年)に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)を卒業後、神宮皇学館本科(現在の皇學館大学)を明治43年(1910年)に卒業。 大正4年(1915年)には甲府商業会議所が赤岡を主任に「甲斐史」編纂会の設立を企図したがこれは頓挫し、同年11月には若尾財閥の当主・若尾謹之助がこれを引き継いで「山梨県志」編纂会を立ち上げ、赤岡は総裁に任用された。他の委員とともに5年間に渡って山梨県内の史料調査に当たっている。
もっと読む
守屋東(もりやあずま、1884年7月7日 - 1975年12… 守屋東(もりやあずま、1884年7月7日 - 1975年12月18日)は、日本の教育者、女性活動家で、社会事業家でもある。東京都出身。父は守屋一、母は守屋和佐。父は、旧福岡藩藩士で、長崎に遊学し医学を修めた。西南戦争の後、衛戍病院に勤務した。1893年(明治26年)、東が8歳の時に死去。以後、2人の妹と共に母に育てられる。1900年(明治33年)東京府立高等女学校(現在の東京都立白鴎高等学校)を卒業。小説家の田村俊子と同期になる。その後、仏英和女学校でフランス語を東京音楽学校でバイオリンを習うが家庭の経済困窮から中退。
もっと読む
清瀬 一郎(きよせ いちろう、1884年〈明治17年〉7月5… 清瀬 一郎(きよせ いちろう、1884年〈明治17年〉7月5日 - 1967年〈昭和42年〉6月27日)は、大正、昭和時代の日本の弁護士、法学者、政治家。学位は法学博士。東京弁護士会会長。従二位勲一等旭日桐花大綬章。 弁護士としては極東国際軍事裁判で東條英機の弁護人などを務め、また政治家としては文部大臣、衆議院議長を歴任。 兵庫県飾磨郡夢前町(現・姫路市)出身。弁護士としては小作争議裁判や思想事件等の他、特許事件を多く手掛けて著作物も多く、工業所有権法(知的財産法)の分野においては実務・学問の両面において草分け的な存在であった。 政界入りしてからは普通選挙運動の推進や台湾議会設置運動への支援、治安維持法への反対などリベラルな政治家として知られてきた。
もっと読む
浅野 泰治郎(あさの たいじろう、1884年〈明治17年〉7… 浅野 泰治郎(あさの たいじろう、1884年〈明治17年〉7月5日 - 1947年〈昭和22年〉11月29日)は、日本の実業家。浅野財閥二代目総帥として苦境にあった浅野財閥を再建した。二代目浅野総一郎を襲名する。 初代浅野総一郎の長男で、浅野セメント深川工場で生まれた。早稲田大学商科を卒業後、セメント業研究のために欧米を何度も視察した。1930年(昭和5年)、父の死後に浅野財閥総帥になると浅野総一郎を襲名したが、弟の浅野良三に実務を任せた。1938年(昭和13年)に刊行された中外産業調査会による『中堅財閥の新研究 関東編』という書籍には「独裁的」な先代と比較して「うって変って温和な性格、よく云えば長老の風があり、悪く云えば長男型で、平々凡々だ」という人物評がある。
もっと読む