北山 一郎(きたやま いちろう、1872年4月10日(明治5… 北山 一郎(きたやま いちろう、1872年4月10日(明治5年3月3日) - 1949年(昭和24年)2月12日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、青森市長。 青森県津軽郡浅瀬石村(現黒石市)で北山長作の長男として生まれる。南津軽郡中学校を経て、1897年、東京専門学校政治科(現早稲田大学政治経済学部)を卒業。卒業後に帰郷し郡青年団を組織した。実業界では、リンゴ輸出商社・(株) 青浦商会社長、日出セメント (株) 取締役、(株) 青森映画劇場社長、青森商工会議所特別議員を務めた。 政界では、1900年に青森県会議員に選出され、県会議長を二度務めた。1920年5月、第14回衆議院議員総選挙で青森県第一区から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
八束 可海(やつか かかい、明治5年3月1日(1872年4月… 八束 可海(やつか かかい、明治5年3月1日(1872年4月8日) - 大正5年(1916年)1月13日)は、日本の衆議院議員(中央倶楽部)、弁護士。家紋は丸に杏葉紋。 愛媛県伊予郡北伊予村(現在の松前町)出身。1893年(明治26年)、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業し、弁護士試験に合格した。翌年、静岡県浜松市に事務所を開き、1900年(明治33年)に東京市に移した。その後、東京市会議員に選出された。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙で当選を果たした。 その他、藤枝競馬倶楽部理事を務めた。 大正5年1月13日没。戒名は泰雲院通義可海大居士。墓所は本所(墨田区)立川の新義真言宗・弥勒寺旧子院墓地。
寺崎 乙治郎(てらさき おとじろう、1872年4月8日〈旧暦… 寺崎 乙治郎(てらさき おとじろう、1872年4月8日〈旧暦明治5年3月1日〉 - 1937年〈昭和12年〉1月22日)は、日本のジャーナリスト、政治家。雅号は斗南(となん)。 合資会社静岡新報社での勤務を経て、株式合資会社静岡新報社主筆、静岡市会議員、静岡県会議員、静岡県会議長(第24代)などを歴任した。 静岡県出身のジャーナリストである。静岡新報社で主筆を務めるなど、地域の論壇で重きをなしていた。その傍らで、静岡市会議員や静岡県会議員など政治家としても活動した。 1872年(旧暦明治5年3月1日)、浜松県城東郡、のちの静岡県小笠郡佐束村に該当する地域で生まれた。 1901年(明治34年)2月1日に静岡新報社に入社した。
石田 孝吉(いしだ こうきち、明治5年2月30日(1872年… 石田 孝吉(いしだ こうきち、明治5年2月30日(1872年4月7日) - 1926年(大正15年)8月9日)は、日本の衆議院議員、勲四等旭日小綬章。 島根県邇摩郡波積本郷(波積村、江東村を経て現江津市)に生まれる。祖先は毛利公に仕えた家臣で石田量太郎の長男。1896年(明治29年)7月慶應義塾を卒業し島根県に帰郷。温泉津村(温泉津町を経て現大田市)に石見銀行を設立し頭取に就任した。 迩摩郡会議員、島根県会議員、島根県農会議員などを経て、1901年(明治34年)日本赤十字社特別社員に列せられ、1903年(明治36年)3月衆議院議員に当選。1904年(明治37年)帝国義勇艦隊建設の際の地方委員に嘱託。
俵 国一(たわら くにいち、1872年4月5日(明治5年2月… 俵 国一(たわら くにいち、1872年4月5日(明治5年2月28日) - 1958年(昭和33年)7月30日)は、日本の冶金学者。工学博士。東京帝国大学名誉教授。島根県平民。 島根県浜田市出身。上京後、共立学校などを経て、東京帝国大学工科大学採鉱及冶金学科卒業。同大助教授、教授を経て、昭和7年(1932年)定年退官後は名誉教授となる。電気製鋼法にも通じた鉄鋼冶金学の権威で、金属顕微鏡を用いた金属組織研究で成果を残した。研究の一環としてたたら製鉄の科学的分析を行い『日本刀の科学的研究』などを著すなど、和鋼(たたら製鉄により生成される特殊鋼)と日本刀研究の第一人者であった。1940年(昭和10年)には、「治金学上ヨリ見タル日本刀ノ特色」と題して昭和天皇に進講を行った。
住吉 秀松(すみよし ひでまつ、1872年4月5日(明治5年… 住吉 秀松(すみよし ひでまつ、1872年4月5日(明治5年2月28日)- 1928年(昭和3年)10月8日)は、広島県出身の実業家。日本統治時代の台湾で土木建築請負業の住吉組を興したほか、当時の自治組織だった台南市協議会員を務めた。また、民間の消防団「台南消防組」で市内の防災に貢献したことから、現地では「台南消防の父」として知られている。 1872年、広島県賀茂郡広村(現在の呉市広地区)で出生。1900年(明治33)に台湾へ移り、鹿島組(現在の鹿島建設)で鉄道などのインフラ建設に従事、後年独立し、台南で住吉組を設立する。 1920年(大正9)、有限責任信用組合台南興信社(台南市白金町(中国語版))理事に就任するとともに、「台南土木建築請負業組合」の相談役(建設業公会顧問)となった。
島崎 藤村(しまざき とうそん、1872年3月25日〈明治5… 島崎 藤村(しまざき とうそん、1872年3月25日〈明治5年2月17日〉 - 1943年8月22日)は、日本の詩人・小説家。本名は島崎 春樹(しまざき はるき)。筑摩県木曾の中山道馬籠(現在の岐阜県中津川市馬籠)生まれ。帝国芸術院会員。次男は画家の島崎鶏二、三男は同じく画家の島崎蓊助。 『文学界』に参界し、ロマン主義に際した詩人として『若菜集』などを出版する。さらに、主な活動事項を小説に転じたのち、『破戒』や『春』などで代表的な自然主義作家となった。作品は他に、日本自然主義文学の到達点とされる『家』、姪との近親姦を告白した『新生』、父である島崎正樹をモデルとした歴史小説の大作『夜明け前』などが存在する。
浦口 文治(うらぐち ぶんじ、1872年3月21日(明治5年… 浦口 文治(うらぐち ぶんじ、1872年3月21日(明治5年2月13日) - 1944年(昭和19年)3月8日)は、日本の英米文学者、教育者。同志社大学英文科教授、東京商科大学(現・一橋大学)教授、立教大学教授。 摂津三田藩(兵庫県三田市)出身。三田藩士の浦口長弘と千代の子として生まれる。12歳の時に神戸の川本恂蔵の家に寄宿し、キリスト教に感化を受けると、1884年(明治17年)に神戸教会において原田助(同志社第7代目社長)より受洗。 同志社普通学校に入学し、1890年(明治23年)に同志社を卒業。その後、英文学を志し神戸、東京、仙台、函館を転々とする生活を送る。 1894年(明治27年)夏に神戸にいた際には、ウォルター・ウェストンの日本アルプス登山に、H.J.ハミルトン(日本聖公会中部教区初代主教)とともに通訳として同行し、日本アルプス連山の初登頂に成功する。
尾澤 良助(おざわ りょうすけ、1871年4月18日《旧暦明… 尾澤 良助(おざわ りょうすけ、1871年4月18日《旧暦明治4年2月29日》 - 1921年(大正10年)2月14日)は、日本の薬剤師、政治家。学位は薬学士(帝国大学・1892年)。姓の「澤」は「沢」の旧字体のため、尾沢 良助(おざわ りょうすけ)と表記されることもある。長男の尾澤良靖も、のちに「良助」を襲名しているため、混同しないように注意を要する。 尾澤総本店店主、東京府東京市牛込区会議員などを歴任した。 浦和県豊島郡出身の薬剤師である。「脈をとらせても当代一」と謳われた薬種商の尾澤良甫の長男として生まれ、私立薬学校を経て薬舗開業試験に合格し、のちに帝国大学でも学んだ。大学卒業後は、家業である尾澤薬舗を継承し、尾澤総本店の店主となった。
荒岩 亀之助(あらいわ かめのすけ、1871年4月18日(明… 荒岩 亀之助(あらいわ かめのすけ、1871年4月18日(明治4年2月29日) - 1920年(大正9年)9月3日)は、鳥取県(現西伯郡大山町)出身の大相撲力士。本名は山崎 徳三郎(やまざき とくさぶろう)。最高位は大関。陣幕部屋(大坂)、尾車部屋(東京)に所属した。 1871年4月18日(旧暦2月29日)に木こりの二男として生まれる。子供の頃から家業を手伝っていたので自然に足腰や腕力が鍛え上げられ、相撲も好きだったので土地相撲で強豪力士として活躍した。そんな徳三郎少年を見出した大坂相撲の関係者からスカウトされ、1891年に陣幕部屋(大坂相撲)へ入門、「真竜」の四股名で初土俵を踏んだ。しかし、ある時に銭湯で兄弟子の背中を流していたところ、「流し方が悪い」と殴られたことに立腹し、すぐに大坂相撲を脱退すると同時に上京、大戸平廣吉が親方として経営する尾車部屋(東京相撲)へ入門、1894年1月場所において三段目付出で東京相撲での初土俵を踏んだ。
原 勝郎(はら かつろう、1871年4月15日(明治4年2月… 原 勝郎(はら かつろう、1871年4月15日(明治4年2月26日) - 1924年(大正13年)1月12日)は、日本の歴史学者。京都帝国大学教授、京都帝国大学文学部長。 1871年、岩手県盛岡市で旧盛岡藩士・原勝多の長男として生れた。盛岡中学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学文科大学史学科で学んだ。1896年に卒業。同大学大学院に進んだ。 1896年12月から一年志願兵として近衛歩兵第4連隊に入営。1899年2月、陸軍歩兵少尉に任官し、1904年、歩兵中尉に進級。 1899年9月、第一高等学校教授に就いた。1902年10月、文学博士号を取得。 1907年2月から1909年3月まで、イギリス、アメリカ、ドイツに留学。
笹尾 粂太郎(ささお くめたろう、1871年4月14日〈明治… 笹尾 粂太郎(ささお くめたろう、1871年4月14日〈明治4年2月25日〉- 1941年〈昭和16年〉1月29日)は、日本の哲学者である。 長門国、現在の山口県下関市に笹尾勝蔵の息子として生まれ、日本基督教会柳川教会で父から洗礼を受けた。山口高等学校に入学したが、経済的事情で明治学院神学部に転校。同じく、白金にあった自営館(現・巣鴨教会)で共同生活を送った。 明治学院から推薦されて、20歳で渡米し、オーバン神学校、コロンビア大学で学んだ。さらに、1896年にドイツに渡りベルリン大学、ハレ大学、ボン大学でキリスト教とカント哲学の研究を重ね、1899年に学位論文「カントの神概念」によりボン大学より哲学博士号を得た。
横山 源之助(よこやま げんのすけ、明治4年2月21日〈18… 横山 源之助(よこやま げんのすけ、明治4年2月21日〈1871年4月10日〉- 大正4年〈1915年〉6月3日)は、富山県中新川郡魚津町(現在の魚津市)出身のジャーナリスト。号は天涯茫々生。他に有磯逸郎・無膓・夢蝶・漂天痴童・樹下石上人といった筆名を用いた。 魚津の網元の家に私生児として生まれ、すぐに左官職人の横山伝兵衛の養子となる。1881年、魚津明理小学校を卒業後、商家(醤油醸造業)に住み込み奉公をしながら独学し、1885年に富山県立富山中学校に1期生として入学する。しかし2年生の時に中退、代言人(弁護士)を目指して上京し、英吉利法律学校(現在の中央大学)に学ぶ。その後、弁護士試験を数度にわたって受験するが合格できず、各地を放浪する。
西田 当百 (にしだ とうひゃく、1871年4月10日(明治… 西田 当百 (にしだ とうひゃく、1871年4月10日(明治4年2月21日) - 1944年6月30日)は、日本の俳人、川柳作家。本名、嘉吉。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
帆足 準三(ほあし じゅんぞう、1871年4月7日(明治4年… 帆足 準三(ほあし じゅんぞう、1871年4月7日(明治4年2月18日) – 1913年(大正2年)10月3日)は、戦前の日本の朝鮮総督府官僚。 長門国豊浦郡、後の山口県豊浦郡長府村(現下関市長府地区)出身。1890年7月、明治法律学校卒業。1895年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1896年1月、会計検査院に入院後、1899年6月、内務省に転じ試補となる。以後、大分県参事官、千葉県内務部長などを歴任。渡韓し、朝鮮総督府道事務官、1912年4月1日からは朝鮮総督府殖産局長を務めたのち、1913年2月14日、咸鏡北道長官に就任。同年10月3日、在任中に死去。
田村 守衛(たむら もりえ、1871年4月7日(明治4年2月… 田村 守衛(たむら もりえ、1871年4月7日(明治4年2月18日) - 1923年6月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山梨県東山梨郡相興村中尾(現:笛吹市一宮町)に宮司・田村義事の息子として生まれる。1894年(明治27年)7月、陸軍士官学校(5期)を卒業。同年9月、騎兵少尉任官。1901年(明治34年)11月、陸軍大学校(15期)を首席で卒業。参謀本部編制班に配属された。 日露戦争に大本営参謀として出征し、さらに満州軍参謀に転じた。1914年(大正3年)1月、歩兵大佐に昇進し関東都督府高級参謀に就任。1917年(大正6年)4月、陸大幹事となり、1918年(大正7年)7月、陸軍少将に進級。
西村 清雄(にしむら すがお、明治4年2月13日(1871年… 西村 清雄(にしむら すがお、明治4年2月13日(1871年4月2日) - 昭和39年(1964年)12月25日)は日本の教育者。日本人の創作賛美歌の有名な古典「山路こえて」を作詞したクリスチャン。松山名誉市民第3号。 祖父は幕末の松山を代表する歌人西村清臣。叔父は道後村村長で道後温泉本館を建てた伊佐庭如矢。 1871年(明治4年)、愛媛県松山市北京町に伊予松山藩士の長男として生まれる。1885年(明治18年)、愛媛県第一中学校(後の松山中学校、現愛媛県立松山東高等学校)へ入学するが、翌年、廃校。この頃、カトリック教会の洗礼を受けた。 1888年(明治21年)、大阪で英語を学び、大阪基督教会で宮川経輝の教えを受けプロテスタントの信仰を持つ。
安満 欽一(やすみつ きんいち、1871年4月2日(明治4年… 安満 欽一(やすみつ きんいち、1871年4月2日(明治4年2月13日) - 1960年10月24日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
中馬 興丸(ちゅうま おきまる、旧姓・天崎、1871年4月1… 中馬 興丸(ちゅうま おきまる、旧姓・天崎、1871年4月1日(明治4年2月12日) – 1936年(昭和11年)3月14日)は、日本の政治家、医師。衆議院議員(兵庫県第二区選出、当選3回)。尼崎中馬病院主。族籍は兵庫県士族。 摂津国川辺郡尼崎(現在の兵庫県尼崎市)で、浄土真宗本願寺派西性寺の天崎紹印の三男として生まれ、中馬譲吉の養子となった。1898年(明治31年)、東京帝国大学医科大学を卒業。日露戦争に従軍し、陸軍一等軍医に任ぜられた。姫路県立病院副院長を務めた後、中馬病院を開業した。一般の診療に従事した。また尼崎市医師会長、琴浦育児院長、尼崎市訓盲院長などを務めた。 1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
北村 四海(きたむら しかい、1871年4月1日〈明治4年2… 北村 四海(きたむら しかい、1871年4月1日〈明治4年2月12日〉 - 1927年〈昭和2年〉11月14日)は、日本の彫刻家である。本名は直次郎。 現在の長野県長野市生まれ。幼年期より養父で宮彫師あった北村正信から彫刻を学んだ。後に上京し、1893年(明治26年)に島村俊明や小倉惣次郎、新海竹太郎、安田善次郎らと親交を持った。後に島村から木彫、小倉から塑造を学んだ。また同時期に解剖学についても学び始めた。 1900年(明治33年)より留学のため渡仏し、パリに在住し同地で裸体像等の大理石を用いた西洋式彫刻を学んだ。1902年(明治35年)に帰国し、その後は大理石を用いた彫刻を製作し始めた。これによって日本でブロンズ像に対抗して、初の大理石による彫刻像を導入した事で名を馳せた。
吉田 羊治郎(よしだ ようじろう、1871年3月31日〈明治… 吉田 羊治郎(よしだ ようじろう、1871年3月31日〈明治4年2月11日〉- 1939年〈昭和14年〉11月11日)は、明治後期から昭和前期の政治家、衆議院議員(1期)、貴族院議員、滋賀県会議員、滋賀県多額納税者。 滋賀県犬上郡高宮村(現・彦根市)生まれ。吉田与三平の二男。1890年(明治23年)滋賀県商業学校(現・滋賀県立八幡商業高等学校)卒。1911年(明治44年)8月26日、高宮村長になった。町制施行後もそのまま在職し、1915年(大正4年)8月27日に退任した。同年9月、犬上郡選出の滋賀県会議員になった。そのほか、高宮町会議員、同参事会員、所得税調査委員、帝国農会議員、近江水力電気、大正製棉各(株)取締役、滋賀県農工銀行頭取、近江商業銀行、江若鉄道(株)各監査役となった。
井上 羽城(いのうえ うじょう、1871年3月29日〈明治4… 井上 羽城(いのうえ うじょう、1871年3月29日〈明治4年2月9日〉 - 1947年〈昭和22年〉9月30日)は、福井県出身の歌人、新聞記者。本名は井上 一(いのうえ はじめ)。号は羽城のほか、経足、風露郎、紅蓮などを用いた。 1871年(明治4年)2月9日、福井県福井市に井上一庵・起怒の長男として生まれる。家業であった医者を継ぐために金沢高等医学専門学校に入学したが、文学への道を志望し、1892年(明治25年)春に上京し、落合直文の門下に入る。大八洲学校に入学し、落合直文と久米幹文から国文を学ぶ。在学中に金子元臣や品田太吉を助け、雑誌『歌学』や『分海』の編集に当たる。1893年(明治26年)、浅香社の創立に加わる。
亀井 陸良(かめい ろくろう、明治4年2月6日(1871年3… 亀井 陸良(かめい ろくろう、明治4年2月6日(1871年3月26日) - 1923年(大正12年)3月11日)は戦前日本の新聞記者。 古河鉱業に勤務中、義和団事件におけるロシア帝国軍の満洲駐留に危機感を覚え、北京を拠点に時事新報、順天時報(中国語版)で対露主戦論、対中強硬論を唱えたが、晩年はパリ講和会議で聞いた国際連盟構想に影響を受け、一転して中国権益の放棄を主張した。 明治4年(1871年)2月6日大分県下毛郡万田村に医者亀井玄理の次男として生まれた。中津に出て山田小太郎の私塾に学んだ後、1888年(明治21年)上京し、1893年(明治26年)慶應義塾大学部法律科に進学した。在学中は中年寮舎監を務めて学資を稼ぎ、1895年(明治28年)12月大学部法律科を卒業した。
朝永 三十郎(ともなが さんじゅうろう、明治4年2月5日〈1… 朝永 三十郎(ともなが さんじゅうろう、明治4年2月5日〈1871年3月25日〉 - 1951年〈昭和26年〉9月18日)は、日本の哲学者。京都大学名誉教授(西洋哲学)、文学博士、日本学士院会員。京都学派を代表する人物の一人。 兄は工学者で京都帝国大学工科大学教授の朝永正三、長男は物理学者で東京教育大学教授の朝永振一郎。 大村藩士・朝長甚次郎の三男として長崎県東彼杵郡川棚町石木郷で生まれる。私立大村中学校(旧制中学校、第一回入学者・現長崎県立大村高等学校)2年修了後に上京して共立学校、東京英語学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学で学ぶ。丁酉倫理会会員となり、哲学館事件においては意見書に名を連ねた。
米岡 規雄(よねおか のりお、明治4年2月5日(1871年3… 米岡 規雄(よねおか のりお、明治4年2月5日(1871年3月25日) - 没年不詳)は、日本の弁護士。旅順市長。 鳥取県鳥取市に谷口卯三郎の二男として生まれ、米岡勘十郎の養子となった。鳥取中学校を卒業し、1892年(明治25年)より鳥取県属、西伯郡書記となり、さらに鳥取県内務部、大蔵省専売局、大蔵省主税局に勤務した。1901年(明治34年)、和仏法律学校(現在の法政大学)を卒業。1903年(明治36年)、弁護士試験に合格した。1906年(明治39年)、関東州民政署属となり、旅順民政署財務課長を務めた。翌年に退官した後は、旅順で弁護士事務所を開き、さらに大連市にも事務所を設けた。旅順市会議員に選ばれ、1932年(昭和7年)には同市会議長に就任した。
本間 宇兵衛(ほんま うへえ、1871年3月24日〈明治4年… 本間 宇兵衛(ほんま うへえ、1871年3月24日〈明治4年2月4日〉 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。 新潟県佐渡郡畑野村(現佐渡市)生まれ。1890年4月、商業目的のため北海道札幌市南三条東一丁目に一時身を寄せ各地視察の途にあったが、8ケ月間にして遂げるに至る。 後兵役検査のため一時帰国し、1893年来道、日高国幌泉郡に移住し5ケ年間商業に奮闘する。1898年の秋に十勝は未開地で広漠たる平原地と知り、同年広尾港に転住し、日用雑貨商を営む。 日増人口増加に伴い、海産物仲買その他醤油味噌製造販売業を経営し、一歩を進め、事業を拡張し、販路を広め、優良品本位を以て、需要者に販売し、予期以上の成功を遂げる。
林 直助(はやし なおすけ、1871年3月24日 - 195… 林 直助(はやし なおすけ、1871年3月24日 - 1953年5月13日)は、明治時代から昭和時代の医学者、寄生虫学者、病理学者。ツツガムシ病研究の第一人者として知られる。 岐阜県恵那郡福岡村(現中津川市)に生まれた。1897年11月、第一高等学校医学部を卒業後、東京帝国大学医科大学衛生科選科に入学したが、翌年退学している。1900年に検疫官を命ぜられ、1901年2月に退職した。同月に京都帝国大学医科大学に入り藤浪鑑教授の助手となり、病理学、恙虫病について研究をおこなう。1906年、恙虫病調査委員を嘱託された。同年12月、愛知県立医学専門学校の教諭となり、病理学や病理解剖学などを担当した。1913年1月、論文「恙虫病病理解剖並に組織学的研究」により、医学博士の学位を授けられた。
中林 友信(なかばやし とものぶ、明治4年2月3日(1871… 中林 友信(なかばやし とものぶ、明治4年2月3日(1871年3月23日) - 昭和3年(1928年)2月18日)は、衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲民政党)。 大阪府泉北郡東陶器村岩室(現在の堺市南区)出身。関西法律学校(現在の関西大学)を経て、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。1895年(明治28年)より破産管財人を務める。 泉北郡会議員、大阪府会議員を経て、1902年(明治35年)の第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。当選回数は合計で5回を数えた。 大阪盲人学校を創設して校長を務め、また大阪府教育会副会長に就任した。 その他、東京自由通信社主幹、日刊近畿新聞社社長などを歴任した。
12代 工藤 八之助(くどう はちのすけ、1871年3月23… 12代 工藤 八之助(くどう はちのすけ、1871年3月23日(明治4年2月3日)- 1928年(昭和3年)8月21日)は、明治から昭和初期の地主、政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。幼名・松吉、旧名・郁之助。 出羽国村山郡米沢村(山形県西村山郡高松村を経て現寒河江市米沢)で、素封家・先代工藤八之助(五八)の長男として生まれる。格知学舎で国史、国文、漢学などを学んだ。1900年(明治33年)家督を相続し12代八之助を襲名した。 1900年以降、高松村会議員、村山郡会議員、同議長、村山郡農会長、高松村長、山形県会議員、同参事会員などを務めた。 実業界では、羽前製糸社長、庄内電気社長などを務めた。
福島 藤助(ふくしま とうすけ、1871年3月22日(明治4… 福島 藤助(ふくしま とうすけ、1871年3月22日(明治4年2月2日) - 1925年(大正14年)7月6日)は、青森県弘前市の醸造家、実業家。福島酒造会社(のちに福島醸造株式会社)、富名醸造株式会社、陸奥製糸株式会社、株式会社北日本農園、弘前印刷株式会社の創業者。 藤助が大工から酒造業に転業した1896年(明治29年)は、日清戦争後の好景気の波が青森県弘前市にも押し寄せているさなかであった。国の流れは軍備の強化へと向かい、同年9月に第8師団(日本軍)の弘前設置が正式に決定、翌年10月10日に師団司令部が設置された。廃藩によって沈滞していた弘前の経済界や市民は、これを大歓迎した。また、1894年(明治27年)12月1日には青森‐弘前間の鉄道が開通し、師団設置のための資材の輸送などに大いに貢献した。
白石 大蔵(しらいし だいぞう、明治3年3月19日(1870… 白石 大蔵(しらいし だいぞう、明治3年3月19日(1870年4月19日) - 1941年(昭和16年)9月9日)は、明治から昭和時代前期の政治家。愛媛県温泉郡素鵞村長、松山市長。愛媛県議会議員。 愛媛県温泉郡枝松村(現・松山市枝松)で生まれる。1891年(明治24年)素鵞村収入役、1907年(明治40年)同村長を経て、1915年(大正4年)9月、県会議員に当選。1期在職した。1931年(昭和6年)1月に松山市収入役を経て、1933年(昭和8年)5月11日に同市長に就任したが、同年11月に病気を理由に退任した。
園部 秀雄(そのべ ひでお、1870年4月18日(明治3年3… 園部 秀雄(そのべ ひでお、1870年4月18日(明治3年3月18日) - 1963年(昭和38年)9月29日)は、女性武道家。直心影流薙刀術第15代宗家。大日本武徳会薙刀術範士。 93歳で死去するまでの生涯で敗北した試合は2回のみといわれる。近代薙刀術史上最高の名人として評価が高い。 仙台藩馬廻役日下陽三郎の六女として現在の宮城県大崎市に誕生する。幼名は「たりた」。これは跡継ぎの誕生を望んでいた父親が、「もう女は足りた」という嘆きから名づけたという。幼い頃から父親の馬を勝手に乗り回すほど活発な少女であったという。 1886年(明治19年)、直心影流剣術の榊原鍵吉門人であった佐竹鑑柳斎(観柳齋)がたりたの住む町で撃剣興行を行う。
鵜崎 庚午郎(うざき こうごろう、明治3年3月17日(187… 鵜崎 庚午郎(うざき こうごろう、明治3年3月17日(1870年4月17日) - 昭和5年(1930年)4月3日)は、明治時代から昭和時代初期の日本の牧師である。 1870年に播磨国飾磨郡姫路町元町(現・兵庫県姫路市)に、姫路藩士で漢学者の鵜崎久平の子として生まれる。1887年、アメリカ南メソヂスト監督教会宣教師のウォルター・R・ランバスから洗礼をうける。献身して関西学院に入学してJ.C.C.ニュートン宣教師に育てられる。メソジストの神戸・広島・大阪・京都で伝道をする。 第三高等学校教授、関西学院教授になり、1912年に日本メソジスト教会機関誌『護教』主筆。1914年には鎮西学院の院長に就任して。
東川 徳治(ひがしかわ とくじ、明治3年3月16日(1870… 東川 徳治(ひがしかわ とくじ、明治3年3月16日(1870年4月16日) - 1938年(昭和13年))は戦前日本の中国法制史学者。臨時台湾旧慣調査会補助委員、法政大学講師、東北帝国大学附属図書館事務嘱託。大町桂月と親交があった。 明治3年(1870年)3月16日土佐国(高知県)に生まれた。1881年(明治14年)小学校を卒業して佐川村に移り、佐川中学分校に入学した。1883年(明治16年)廃校後、伊藤蘭林・山本迂斎に漢学を学んだ。1886年(明治19年)高知に出て、奥宮暁峰・松下武重に経学を学んだ。 1888年(明治21年)大坂に出て、梅清処塾で山本梅崖に古文辞学・英学・数学を学び、1889年(明治22年)塾長となった。
橋口 信助(はしぐち しんすけ、1870年4月16日 - 1… 橋口 信助(はしぐち しんすけ、1870年4月16日 - 1928年2月16日)は、日本の実業家である。住宅メーカーである「あめりか屋」の創業者。 1870年4月16日(明治3年3月16日)、宮崎県南那珂郡飫肥町大字板敷で、橋口善吉と妻・トメの間に生まれる。1885年(明治18年)9月に東京商業学校に入学するも、半年後の1886年(明治19年)2月に中退し、郷里に戻り父を助けて鉱山業に従事する。橋口は石炭採掘業のほか、木材伐採業などにも手を出していたようであるが、いずれも失敗し、義理の従兄弟にあたる小村寿太郎を頼り、再び上京する。明治20年代に、妻・マツと結婚する。マツとの間には4人の子どもを設けた。
崎川 才四郎(さきかわ さいしろう、明治3年3月15日(18… 崎川 才四郎(さきかわ さいしろう、明治3年3月15日(1870年4月15日) - 昭和31年(1956年)12月4日)は、日本の農商務官僚、商工官僚。 肥前国小城郡岩松村(現在の佐賀県小城市)出身。崎川幸親の長男。第二高等学校を経て、1896年(明治29年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。農商務属、同参事官、同書記官、山林局書記官、福岡鉱山監督署長、大阪鉱山監督署長、特許局長、鉱山局長を歴任した。1923年(大正12年)に特許局長官に就任し、1930年(昭和5年)5月には親任官待遇を受けた。 同年7月に退官した後は、北樺太石油株式会社取締役、東洋窒素工業株式会社顧問を務めた。
川嶋 庄一郎(かわしま しょういちろう、1870年4月14日… 川嶋 庄一郎(かわしま しょういちろう、1870年4月14日 - 1947年2月12日)は、日本の教育者。学習院教授兼初等学科長、佐賀県師範学校校長、奈良県師範学校校長、和歌山市視学などの職を歴任した。位階勲等は正五位勲五等。文仁親王妃紀子の曾祖父である。 姓の表記に関しては、文書においては「川島」とされる例が多いが、戸籍では「川嶋」である。 1870年(明治3年)4月14日、和歌山県有田郡山保田組板尾村(現・有田川町)の農業・松浦平吉(? - 1876年)の三男として生れた。幼名は力松。母は かつ(1838年10月13日 - 1930年3月11日)、長兄は庄太郎(1861年12月25日 - 1954年8月27日)、次兄は虎松(1865年12月9日 - ?)である。
鹿又 武三郎(かのまた たけさぶろう、明治3年3月13日(1… 鹿又 武三郎(かのまた たけさぶろう、明治3年3月13日(1870年4月13日) - 1933年(昭和8年))は、仙台市長。検事。弁護士。 仙台出身。1895年(明治28年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業し、判事検事登用試験に合格した。1898年(明治30年)、湯沢区裁判所検事となり、奈良地方裁判所検事、大阪地方裁判所検事、名古屋地方裁判所検事、富山地方裁判所検事正、名古屋控訴院検事、旭川地方裁判所検事正などを歴任した。 1919年(大正8年)、仙台市長に就任し、2期8年務めた。3期目を目指した1927年(昭和2年)8月の仙台市長選挙では、市会(市議会)投票において13票を獲得するも、15票を獲得した山口龍之助に及ばず落選した(当時の市長は公選ではなかった)。
庄 晋太郎(しょう しんたろう、1870年4月11日(明治3… 庄 晋太郎(しょう しんたろう、1870年4月11日(明治3年3月11日) - 1939年(昭和14年)9月14日)は、日本の清酒醸造家、政治家。衆議院議員(山口県第一区選出、当選回数は4回)。沖ノ山炭鉱相談役。山口県水産会長。宇部商工会議所副会頭。族籍は山口県士族。 長門国厚狭郡宇部村(現・山口県宇部市)生まれ。庄俊輔の長男。家は代々毛利家の宿老福原家の臣で、父は維新の際勤王の志士であった。 1891年(明治24年)、明治法律学校(現・明治大学)卒業。酒造業を営む。山陽採炭常務取締役、長陽炭鉱、神原炭鉱、沖ノ山炭鉱、宇部銀行、宇部鉄道、宇部セメント製造各重役である。 宇部村会議員、宇部市会議員、同参事会員、山口県会議員、同議長となる。
山崎 直方(やまさき なおまさ、明治3年3月10日(1870… 山崎 直方(やまさき なおまさ、明治3年3月10日(1870年4月10日) - 昭和4年(1929年)7月26日)は、日本の地理学者。高知県生まれ。日本の近代期の地理学の功労者で、しばしば「日本近代地理学の父」として称えられている。専門は地形学であるが、人文地理学でも功績がある。
松崎 壽三(まつざき としぞう、1870年4月10日(明治3… 松崎 壽三(まつざき としぞう、1870年4月10日(明治3年3月10日) - 1960年(昭和35年)11月25日)は、明治後期から昭和前期の官僚、実業家。初代日本水産社長。 山口県出身。松崎源左衛門の長男として生まれた。旧制山口高等学校卒業。1895年(明治28年)帝国大学法科大学(現:東京大学法学部)政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格し、同年農商務省に入省し農務局属に任官。以後、水産講習所技師兼農商務省参事官、農商務書記官兼特許局審判官兼樺太庁事務官、農商務書記官・水産局漁政課長、水産局長などを歴任。1917年(大正6年)に退官した。 1919年(大正8年)9月27日、「共同漁業株式会社」(現・日本水産)の社長として就任。
杉 贋阿弥(すぎ がんあみ、1870年4月10日(明治3年3… 杉 贋阿弥(すぎ がんあみ、1870年4月10日(明治3年3月10日) - 1917年(大正6年)5月13日)は、日本の明治・大正期の劇評家。本名は諦一郎。 備中国阿哲郡野馳村(現、岡山県新見市哲西町)に生まれた。幼少期から漢文を学ぶ一方で、芝居に親しんだ。 1886年(明治19年)(16歳)、上京して明治法律学校に入学し、中退した。郷土の先輩犬養毅の手配で、犬養がいた朝野新聞に入社し、郵便報知新聞に移り、1894年から歌舞伎の劇評を書いた。 演劇雑誌が少なく、新聞紙上の劇評が読まれる時代だった。贋阿弥の評は媚びなくて、松居松葉・岡鬼太郎と共に『三暴れ』と称され、興行側から脅される事もあったと言う。
石坂 荘作(いしざか そうさく、1870年4月6日(明治3年… 石坂 荘作(いしざか そうさく、1870年4月6日(明治3年3月6日) - 1940年(昭和15年))は、日本の実業家・教育家・慈善家・社会事業家。台湾で活躍。台湾初となる私立の図書館「石坂文庫」を創設し、台北州議會議員、基隆夜學會の校長を務めた。「基隆の聖人」とか「台湾図書館の父」と呼ばれる。自著『臺灣古代文化の謎』では「圖南」(読みは「となん」であろう)と号した。 石坂荘作は、1870年(明治3年)に日本の群馬県吾妻郡原町(現東吾妻町)で生まれた。原町小学校を卒業後、同地や水戸で漢学を学ぶ。原町小学校教員、近衛工兵中隊隊員を経験する。1896年(明治29年)3月にフィリピンへ向かう途中に立ち寄った台湾で、創刊間もない『台湾日日新報』の記者になった。
塩川 賢三(しおかわ けんぞう、1870年4月5日〈明治3年… 塩川 賢三(しおかわ けんぞう、1870年4月5日〈明治3年3月5日〉 - 没年不明)は、日本の実業家。深志倉庫社長。六十三銀行常務取締役。軽井沢ホテル、東西商事各取締役。佐久貯蓄銀行監査役。族籍は長野県平民。 長野県北佐久郡三岡村(現・小諸市)出身。長野県平民・塩川仁助の二男。塩川幸太の弟。塩川三四郎の兄。後分家して一家を創立する。銀行会社の重役である。住所は長野県北佐久郡三岡村(現・小諸市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
若名 英治(わかな えいじ、1870年4月4日(明治3年3月… 若名 英治(わかな えいじ、1870年4月4日(明治3年3月4日) - 1907年(明治40年)3月18日)は、日本の園芸家、アサガオ研究家。 上総国武射郡椎崎村(現在の千葉県山武市)の農家出身。東京専門学校(現・早稲田大学)卒業。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
正田 貞一郎(しょうだ ていいちろう、明治3年2月28日〈1… 正田 貞一郎(しょうだ ていいちろう、明治3年2月28日〈1870年3月29日〉 - 1961年〈昭和36年〉11月9日)は、日本の実業家。位階は正五位。勲等は勲三等。 日清製粉株式会社社長、東武鉄道株式会社会長、社団法人如水会理事長、貴族院議員などを歴任した。 上皇后美智子の祖父。今上天皇の曽祖父。 生家は群馬県館林において「米文」の名で米問屋を営み、明治に入って醤油醸造業に従事した。横浜で外国米輸入商売をしていた正田作次郎の長男として生まれるが、翌年父が風邪をこじらせて26歳で亡くなり、館林の祖父・3代正田文右衛門の下で育てられた。 館林小学校を卒業。1884年(明治17年)上京し、1887年(明治20年)東京高等商業学校(現・一橋大学)に入学。
伊藤 恭之助(いとう きょうのすけ、1870年3月29日(明… 伊藤 恭之助(いとう きょうのすけ、1870年3月29日(明治3年2月28日)- 1938年(昭和13年)12月15日)は、明治から昭和前期の醸造家、農業経営者、政治家。衆議院議員、第13代伊藤家当主。 出羽国仙北郡南楢岡村及位(秋田県仙北郡南楢岡村、南外村を経て現大仙市南外及位)で、肝煎、酒造業・伊藤重四郎の長男として生れた。神官・高橋村司の私塾で学び、その後、旧久保田藩士・半田忠蔵などに師事した。父の死去に伴い1888年(明治21年)4月に家督を相続した。当主となったため進学が不可能となり、書物によって独学した。 1894年(明治27年)南楢岡村会議員に選出され32年間在任。1897年(明治30年)8月、秋田県会議員に就任し連続7期在任し、同参事会員、仙北郡会議員も務めた。
吉田 信太(よしだ しんた、1870年3月27日(明治3年2… 吉田 信太(よしだ しんた、1870年3月27日(明治3年2月26日) - 1954年12月24日)は、日本の音楽教師、作曲家。宮城県仙台市出身。1894年に東京音楽学校本科師範部卒業。横浜在住時にルドルフ・ディットリヒに師事。 東京音楽学校分教場、広島高等師範学校(1902年 - 1913年)、神奈川県立第一中学校、神奈川県立第三中学校、神奈川県立高等女学校、東京女子高等師範学校などで教鞭を執る。後に、神奈川県視学。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
堀江 覚治(覺治、ほりえ かくじ、1870年3月26日(明治… 堀江 覚治(覺治、ほりえ かくじ、1870年3月26日(明治3年2月25日)- 1930年(昭和5年)4月23日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・志賀。 陸奥国磐前郡、のちの福島県磐前郡鹿島村(石城郡鹿島村、小名浜町、磐城市を経て現いわき市鹿島町)の志賀家に生まれる。1895年(明治28年)8月、伊達郡梁川村(梁川町を経て現伊達市梁川町)の堀江里の養子となり、1898年(明治31年)10月、家督を相続した。1890年(明治23年)慶應義塾大学部文科を卒業。 郷里の石川義塾(現学校法人石川高等学校・石川義塾中学校)講師に就任。岐阜日日新聞(現岐阜新聞)から招聘され主筆となる。
田中 定吉(たなか さだきち、1870年3月26日(明治3年… 田中 定吉(たなか さだきち、1870年3月26日(明治3年2月25日)- 1929年(昭和4年)1月5日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員、香川県会議長。号・虚堂、俳号・笑蛙。 讃岐国香川郡高松紺屋町(現香川県高松市紺屋町)で、富豪・田中仁八郎の二男として生まれる。1889年(明治22年)に上京し、1892年(明治25年)専修学校理財科を卒業した。1893年(明治26年)3月、家督相続した。 帰郷して、高松銀行取締役を務めた。その他、高松商業会議所会頭、讃紙取締役、高松煉瓦取締役社長、第百十四銀行監査役、高松土地建物監査役、東京郊外土地監査役などに在任。また、讃岐実業新聞社の2代社長に就任し、讃岐日報社に改称して香川新報との競争を繰り広げた。