相良 守峯(さがら もりお、1895年(明治28年)4月14… 相良 守峯(さがら もりお、1895年(明治28年)4月14日 - 1989年(平成元年)10月16日)は、日本の独文学者。 東京大学名誉教授、鶴岡市名誉市民(第一号)、勲二等瑞宝章受章、文化勲章受章。贈従三位(没時叙位)、贈勲一等瑞宝章(没時陞叙)。山形県鶴岡市出身。幼名は鈇太郎(おのたろう)だったが、鉄太郎(てつたろう)と間違えられることが多かったため、数え23歳の年の瀬に郡長の許可を得て守峯と改めた(『茫々わが歳月』p.7)。 木村謹治とともに編纂した独和辞典は「キムラ・サガラ」と呼ばれた。 大独和辞典の編纂やゲーテの研究等でも有名。日本独文学会の創設に貢献した。
五十嵐 悌三郎(いがらし ていざぶろう、明治26年(1893… 五十嵐 悌三郎(いがらし ていざぶろう、明治26年(1893年)9月21日 - 昭和15年(1940年)5月1日)は、山形県西田川郡栄村(現・鶴岡市)出身の、作曲家、音楽教育者。 代表的な作曲に、『山形県青年団歌』(土井晩翠作詞)がある。 京城で学校教諭を務める傍ら、李王家の雅楽研究に没頭した。 山形県師範学校での授業の始めには、毎回1曲の歌を歌っていた。
齋藤 正市(さいとう まさいち、1893年(明治26年) -… 齋藤 正市(さいとう まさいち、1893年(明治26年) - 1987年(昭和62年)4月6日)は、日本の教育者。藤島町教育委員会教育長、山形県東田川郡校長会長、山形県連合小学校長会評議員、栄典・称号は、従五位・勲五等・双光旭日章・藤島町名誉町民(現・鶴岡市名誉市民)
浦本 政三郎(うらもと せいさぶろう、1891年〈明治24年… 浦本 政三郎(うらもと せいさぶろう、1891年〈明治24年〉5月21日 - 1965年〈昭和40年〉10月8日)は日本の医学博士、尺八奏者。山形県鶴岡市出身。号である浦本 浙潮(うらもと せきちょう)の名でも知られる。 1891年(明治24年)、山形県西田川郡大宝寺村新斎部万年橋(現在の鶴岡市新海町)の名家、榊原家に生まれる。幼少期を鶴岡市で過ごすが、荘内中学校在学中に熊本の浦本家に入り、熊本中学校に転校する。その後は旧制五高、京都帝国大学医科大学、同大学院を経て1921年(大正10年)に医学博士となる。その後は東京慈恵会医科大学の教授を務め、1951年(昭和26年)ごろに退職、浦本研究所を開設する。
酒井 直次(さかい なおじ、1891年〈明治24年〉3月26… 酒井 直次(さかい なおじ、1891年〈明治24年〉3月26日 - 1942年〈昭和17年〉5月28日)は、日本の陸軍軍人。第15師団長、陸軍通信学校長、歩兵第19旅団長等を歴任し、階級は陸軍中将功二級に至る。暗号通信の権威として知られる。本籍は東京府。 1891年(明治24年)3月26日、出羽国庄内藩初代藩主酒井忠勝の6男酒井忠直(藩主家一門・酒井奥之助家)の後裔である酒井直興の次男として山形県西田川郡鶴岡五日町(現:鶴岡市)に生まれる。1902年(明治35年)、東京に移住し、1903年(明治36年)、成城中学校に入学。 1904年(明治37年)、陸軍中央幼年学校予科に入学し同本科を経て、1911年(明治44年)5月27日、陸軍士官学校を92番/740名で卒業する。
寺岡 謹平(てらおか きんぺい、1891年3月13日 - 1… 寺岡 謹平(てらおか きんぺい、1891年3月13日 - 1984年5月2日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 1891年(明治24年)3月13日、山形県東田川郡羽黒町手向(現・鶴岡市)で小学校長・寺岡義秀の二男として生れる。新庄中学校を経て、1912年(明治45年)7月に海軍兵学校(40期)を卒業、少尉候補生となる。 1913年(大正2年)12月、海軍少尉任官。1915年(大正4年)12月、中尉に昇進。1918年12月、大尉に昇進。1919年(大正8年)12月、海軍水雷学校高等科を卒業し、第二艇隊艇長に就任。1920年(大正9年)8月、檜 (桃型駆逐艦)に乗組。1921年(大正10年)6月、菱 (樅型駆逐艦)に乗組。
諏訪 熊太郎(すわ くまたろう、1890年(明治23年)5月… 諏訪 熊太郎(すわ くまたろう、1890年(明治23年)5月23日 - 1975年(昭和50年)1月26日)は、日本のキリスト教宣教家。
酒井 忠孝(さかい ただもと、明治23年(1890年)1月1… 酒井 忠孝(さかい ただもと、明治23年(1890年)1月10日 - 昭和31年(1956年)10月3日)は、出羽庄内藩11代藩主・酒井忠篤の3男。松ヶ岡開墾場2代総長。酒田米穀取引所理事長。山居賃貸倉庫㈱社長。(財)北斗会会長。鶴岡市農業会長。鶴岡市農協組合長。 庄内藩主11代酒井忠篤の3男として鶴岡市家中新町に生れ、酒井家内の学問所文会堂で学び、旧制中学の課程を家庭教師について終了した。明治44年(1911年)22歳のとき、松平親懐の後を受けて松ヶ岡開墾場2代総長となり、その後、酒田米穀取引所理事長。山居賃貸倉庫㈱社長。(財)北斗会会長。鶴岡市農業会長。鶴岡市農協組合長など数多くの役職を歴任した。
朝緑 冨五郎(あさみどり とみごろう、1889年2月4日 -… 朝緑 冨五郎(あさみどり とみごろう、1889年2月4日 - 1947年12月3日)は、現在の山形県鶴岡市出身で立田川部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は石田 富五郎(旧姓伊藤)。173cm、86kg。最高位は東前頭13枚目。大起男右エ門の岳父。 1907年5月初土俵、1912年5月十両昇進。1916年1月新入幕したが、連続負け越しで十両陥落。1919年1月廃業した。その後は相撲茶屋の伊勢福の養子になった。 番付上の表記揺れを無視すれば改名歴なし。 ただし、番付上の表記揺れとして、1908年1月場所は「浅ミとり 冨五郎」、1908年5月場所 - 1911年5月場所は「浅緑 冨五郎」と記されている。
酒井 忠良(さかい ただなが、1888年〈明治21年〉9月2… 酒井 忠良(さかい ただなが、1888年〈明治21年〉9月22日 - 1962年〈昭和37年〉2月12日)は、日本の華族、詩人、歌人、書家。位階爵位は正三位伯爵。財団法人致道博物館の創設者。 庄内藩11代藩主だった華族の酒井忠篤伯爵の次男で、最後の藩主酒井忠宝(忠篤の弟)の養子にあたる。幼名は小五郎。1915年(大正4年)の忠篤の死去に伴い、酒井佐衛門尉家20代当主となるとともに、2代伯爵位を襲爵した。富裕な華族で、山形県の多額納税者だった。1947年(昭和22年)8月15日、昭和天皇が戦後巡幸した際には、鶴岡市内の邸宅が御泊所となった。 1950年(昭和25年)、地域振興のため所有する庄内藩主御隠殿及び藩校致道館資料を財団法人以文会(現:致道博物館)を設立の上で寄付。
池野 勇(いけの いさみ、1888年(明治21年) - 19… 池野 勇(いけの いさみ、1888年(明治21年) - 1978年(昭和53年)3月)は、日本の医師、社会福祉家、動物愛護者、羽黒町名誉町民(現・鶴岡市名誉市民)。 開業医を務める傍ら、羽黒町の社会福祉と動物愛護のために多額の私費を投じて奉仕活動を行った。
土屋 竹雨(つちや ちくう、1887年(明治20年)4月10… 土屋 竹雨(つちや ちくう、1887年(明治20年)4月10日 - 1958年(昭和33年)11月5日)は、日本の漢詩人。本名・久泰。字は子健。大東文化大学学長(初代)などを歴任。山形県鶴岡市出身。 1914年、東京帝国大学法学部卒。1928年、芸文社を興し『東華』を創刊、1931年、大東文化学院講師、のち教授、東京文政大学・文政大学・大東文化大学学長(初代)を務める。国分青崖のあと漢詩壇の第一人者となり、1949年、日本芸術院会員。余香吟社などの詩社を指導した。『日本百人一詩』(砂子屋書房、1943)の著作がある。
酒井 忠純(さかい ただひさ、1886年(明治19年)8月2… 酒井 忠純(さかい ただひさ、1886年(明治19年)8月25日 - 1964年(昭和39年)7月5日)は、昭和時代前期の銀行家、軍人、陸軍中尉・従七位、考古学研究家。荘内銀行初代頭取。庄内民俗学会会長、山形県文化財保護協会理事。幼名は徳太郎、号は松堂。 最後の藩主である酒井忠宝の長男として鶴岡郊外大宝寺村(現:鶴岡市)で生まれる。若い頃から考古学に興味を持ち、庄内各地を踏査し、史料収集につとめ、長年にわたり遺跡・遺物の調査と保存につとめた。その一方で、金融界でも活躍し、1939年(昭和14年)9月に菅實のあとを受け、六十七銀行頭取に就任し、41年4月には合併後の荘内銀行頭取に推され、44年10月まで在任し、48年10月までは会長を務めた。
榊原 弥生(さかきばら やよい、1886年〈明治19年〉4月… 榊原 弥生(さかきばら やよい、1886年〈明治19年〉4月7日 - 1935年〈昭和10年〉4月19日)は、日本の婦人運動家。大正デモクラシーの時期の京都で、市民的な女性運動が盛んになった際に、その中心となって諸運動の連携に尽力した人物である。山形県鶴岡出身、明治女学校専攻科卒業。従兄弟に聖書学者の黒崎幸吉がいる。 1886年(明治19年)に誕生した。東京の明治女学校卒業を経て、熊本女学校や東京女子商業学校など、日本各地の女学校に教員として勤めた。兄の仕事の関係で、満州でも教鞭をとった。 1919年(大正8年)7月、当時の京都大学教授の厨川白村の勧めで、厨川の妻や中外日報記者ら女性たちと共に、知的階級女性による文化団体「京都PL会」を結成した。
村井 貞固(むらい さだかた、明治18年(1885年)6月1… 村井 貞固(むらい さだかた、明治18年(1885年)6月15日 - 昭和37年(1962年)12月1日)は、日本の植物学者。現在の山形県鶴岡市出身。 温海町(現・鶴岡市)が、マルバシャリンバイの北限である事と、飛島がムベの北限である事を証明した。
水野 重功(みずの しげかつ、1885年(明治18年)3月2… 水野 重功(みずの しげかつ、1885年(明治18年)3月20日 - 1960年(昭和35年)5月4日)は、日本の検事、弁護士。朝鮮総督府官僚。 山形県鶴岡市出身。水野重慎の息子として生まれる。荘内中学校(現山形県立鶴岡南高等学校)、第四高等学校を経て、1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。統監府判事を経て、朝鮮総督府判事となった。平壌地方裁判所判事、京城地方法院判事、同検事、京城覆審法院検事、京城地方法院検事、大邱地方法院検事、京城覆審法院検事、高等法院検事、朝鮮総督府法務局刑事課長、同法務課長、高等法院検事を歴任し、1930年(昭和5年)に欧米諸国を視察した。帰国後、京城地方法院検事正、平壌覆審法院検事長、京城覆審法院検事長を経て、1943年(昭和18年)に高等法院検事長に就任した。
松平 穆堂(まつだいら ぼくどう、1884年(明治17年)1… 松平 穆堂(まつだいら ぼくどう、1884年(明治17年)10月22日 - 1962年(昭和37年)10月15日)は、日本の書家。以文会(現・致道博物館)理事、松平武右衛門家10代当主。黒崎研堂門下では吉田苞竹と双璧をなした。 1884年(明治17年)10月22日、塚原権平の子として、山形県東田川郡松ヶ岡(現・鶴岡市羽黒町)に生まれる。松平武右衛門家9代当主・松平久彰の養子となる。その後、黒崎研堂の門下生となり、書と詩を学ぶ。 1907年(明治40年)山形師範学校を卒業し、最上郡鮭川村小学校に勤務。1908年(明治41年)教員試験に合格し中等教員習字科の免許を取得する。1912年(明治45年)酒田高等女学校(現・山形県立酒田西高等学校)教諭。
太田 鉄太郎(鐵太郎、おおた てつたろう、1883年(明治1… 太田 鉄太郎(鐵太郎、おおた てつたろう、1883年(明治16年)4月5日 - 1958年(昭和33年)9月30日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、北海道上川郡名寄町長。 山形県東田川郡東栄村(現:鶴岡市)で太田豊治の長男として生まれる。1900年5月、父と共に北海道天塩国上川郡上名寄村字名寄太に入植し開墾に従事。 学務委員、上名寄村会議員、名寄町会議員、北海道会議員、名寄町長、名寄町農業会長、北海道農業会理事、名寄信用購買販売生産組合理事、名寄信託商事取締役、北海道澱粉統制組合理事長、日本澱粉統制 (株) 監事などを務めた。 1946年4月の第22回衆議院議員総選挙で北海道第二区から出馬して当選。
石川 磐彦(1879年(明治12年)4月 - ?)は、日本の… 石川 磐彦(1879年(明治12年)4月 - ?)は、日本の発明家。 山形県鶴岡市出身。慶應義塾で学び、アメリカ合衆国に留学した。1912年(大正元年)に大阪市に石川商会を創立し、製造工業諸材料品の輸出入業を経営した。 昭和10年(1935年)の5月9日から5月29日までジャパン・ツーリスト・ビューロー主催の鮮満視察団に参加し、朝鮮及び満洲を視察し、『鮮満視察旅行』を著した。
佐藤 丑次郎(さとう うしじろう、1877年〈明治10年〉5… 佐藤 丑次郎(さとう うしじろう、1877年〈明治10年〉5月28日 - 1940年〈昭和15年〉3月16日)は、日本の法学者・政治学者。専門は憲法学、政治学。山形県出身。佐藤功の父、さとうまきこの祖父。 山形県鶴岡市生まれ。荘内中学を経て、1899年(明治32年)に第二高等学校 (旧制)を、1902年(明治35年)に京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。その後、京都帝大の副手、助手を経て、1906年(明治39年)に助教授(政治学・政治史担当)。1908年(明治41年)にドイツ、フランス、イギリスに留学。1911(明治43年)、京都帝国大学法科大学教授。1914年(大正3年)、澤柳事件で京都帝国大学法科大学を辞職し、中京法律学校(現:中京法律専門学校)講師に転じる。
三矢 重松(みつや しげまつ、明治4年11月29日(1872… 三矢 重松(みつや しげまつ、明治4年11月29日(1872年1月9日) - 大正12年(1923年)7月18日)は、日本の国語学者・国文学者。学位は文学博士。國學院大學教授。 折口信夫の師。弟に三矢宮松がいる。いわゆる「三矢文法」を築き、「最後の国学者」と呼ばれる壮烈な学風で知られる。 1872年(明治4年)1月9日、酒田県田川郡鶴岡大字二百人町(現・山形県鶴岡市)で生まれた。父・三矢維顕、母・町子の二男。実家は代々庄内藩に使えた士族の家で、祖父の静は藩校の典学を勤めた人物であった。1877年(明治10年)、鶴岡朝暘学校に入学。朝暘学校卒業後、西田川郡中学校を経て山形県尋常中学校に転入。在学中、中台直矢、角田俊次について漢学を学び、庄内英学会に加わって英語を身につけた。
太田 政弘(おおた まさひろ、1871年11月16日〈明治4… 太田 政弘(おおた まさひろ、1871年11月16日〈明治4年10月4日〉- 1951年〈昭和26年〉1月24日)は、日本の内務官僚、政治家。正三位。警視総監(第30代)、関東長官(第6代)、台湾総督(第14代)、貴族院議員。 山形県出身。鶴岡藩士・弁護士、太田政道の長男として生まれる。山形中学、第一高等学校を経て、1898年(明治31年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。内務属となり内務省警保局警務課勤務となる。1899年(明治32年)11月、文官高等試験に合格。1900年(明治33年)2月、三重県事務官に就任し、さらに同県内務部第1課長を務める。 1902年(明治35年)3月、宮崎県警察部長に就任。
高山 樗牛(たかやま ちょぎゅう、1871年2月28日〈明治… 高山 樗牛(たかやま ちょぎゅう、1871年2月28日〈明治4年1月10日〉- 1902年〈明治35年〉12月24日)は明治時代の日本の文芸評論家、思想家。東京大学講師。文学博士。明治30年代の言論を先導した。本名は林次郎(りんじろう)。 1871年2月28日(明治4年1月10日)、羽前国鶴岡(現山形県鶴岡市)に生まれた。父は庄内藩士斎藤親信。翌1872年(明治5年)、伯父・高山久平の養子になった。養父は山形県、福島県、警視庁などに勤務した。 福島中学中退、東京英語学校を経て仙台の第二高等学校に入学。井上準之助が同級の友人であった。樗牛の号は「荘子」に因むもので高校時代から用いていたといい、同人誌や山形日報などに評論、紀行などを発表。
伊藤 恭太郎(いとう きょうたろう、1870年 - 1929… 伊藤 恭太郎(いとう きょうたろう、1870年 - 1929年11月)は、日本の医師、政治家、開業医、西田川郡医師会2代会長、鶴岡市医師会初代会長、鶴岡市会議員。
加藤 幹雄(かとう みきお、明治2年(1869年) - 大正… 加藤 幹雄(かとう みきお、明治2年(1869年) - 大正5年(1916年))は、日本の弁護士。 明治2年、庄内藩に生まれる。旧制山形中学校、共立中学校、司法省正則法学校、第一高等中学校を経て、帝国大学法科大学に入学し、首席で卒業後、同大学院で国際法を研究し、弁護士となる。仙台で活躍した後、山形に戻り、鶴岡で生涯を送った。
神戸 次郎(かんべ じろう、旧暦 慶応4年4月13日(新暦 … 神戸 次郎(かんべ じろう、旧暦 慶応4年4月13日(新暦 1868年5月5日) - 1933年〈昭和8年〉9月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等功級は従四位勲三等功四級。陸士1期。現在の山形県鶴岡市出身。 旧暦 慶応4年4月13日、出羽国 庄内藩 近習頭取 神戸善十郎(諱:義方)の次男として、鶴岡城下(現・鶴岡市)に生れる。 1887年(明治20年)に陸軍士官学校に入校し、1890年(明治23年)7月26日に卒業した(陸士1期、歩兵科)、ちなみに 1890年(明治23年)7月29日の官報によると、陸軍士官学校第1期を歩兵科47番/103名で卒業している。 1891年(明治24年)3月26日、陸軍少尉。
犬塚 勝太郎(いぬづか かつたろう、1868年3月27日〈慶… 犬塚 勝太郎(いぬづか かつたろう、1868年3月27日〈慶応4年3月4日〉 - 1949年〈昭和24年〉7月2日)は、日本の内務・逓信官僚、政治家。府県知事、衆議院議員、貴族院議員、錦鶏間祗候。 庄内藩士・犬塚盛巍の長男として生まれる。大学予備門を経て、1889年7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を首席で卒業。内務省に入り同7月23日内務試補(年俸六百円下賜)として県治局に配属された。 1890年(明治23年)6月4日、内務大臣秘書官(西郷従道大臣)となる。以後、長崎県参事官、鉄道庁事務官、逓信省参事官兼鉄道局庶務課長、兼法制局参事官などを歴任。1896年6月から1898年1月まで、欧米の鉄道事業を視察するため出張。
堀 維孝(ほり いこう、慶応4年2月(1868年2月8日) … 堀 維孝(ほり いこう、慶応4年2月(1868年2月8日) - 昭和29年(1954年)10月31日)は、日本の教育学者、教育者、国文学者。鶴岡鷹匠町(現・鶴岡市)出身。萩邨と号する。国語漢文教育の権威として知られる。 慶応4年(1868年)、庄内藩士堀平太夫重道の長子として鶴岡鷹匠町に生れた。父は戊辰戦争に出陣して羽後羽根川で戦死したため、母の手ひとつで育てられた。明治18年(1885年)、西田川郡中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)を卒業。山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)に進み、1886年に卒業した。 同1886年、朝暘学校の授業生(代用教員)を命じられた。また、荘内英学会で子弟の教育に当たった。
斎藤 外市(さいとう といち、1865年(慶応元年) - 1… 斎藤 外市(さいとう といち、1865年(慶応元年) - 1926年(大正15年)1月31日)は、日本の発明家、実業家、政治家(鶴岡町町議会議員)、鶴岡ガス株式会社初代社長。 出羽国田川郡長沼村上新田(後の藤島町、現在の鶴岡市)出身。 主に軍用機器と織機(織物機械)の発明に取り組み、「発明は俺の命だ。俺のひとつの病気だ」と豪語し、数多くの発明を残した。現在でもその発明は高く評価されている。 トヨタグループの創業者の豊田佐吉と共に、織機の発明王と呼ばれ、絹の斎藤外市、綿の豊田佐吉と言われていた。1912年(明治45年)には、これまでの数々の発明の功績によりトヨタの創業者・豊田佐吉と共に藍綬褒章を受章している。
斎藤 三郎右衛門(さいとう さぶろうえもん、安政6年9月9日… 斎藤 三郎右衛門(さいとう さぶろうえもん、安政6年9月9日(1859年10月4日) - 大正2年(1913年)12月3日)は、日本の政治家、資産家、衆議院議員(2期)立憲国民党所属、山形県会議員、東田川郡会議員。名は鉄之助、福周、千里とも。 先祖代々「三郎右衛門」を名乗る田川郡渡前村の大地主素封家に生まれ幼名は鉄之助という。幼少より勉学に励み慶應義塾入学を目指し上京するが、母の死を期に郷里に戻る。以後、地元で子供たちの指導育成に努めた。 1887年(明治20年)には、山形県会議員選挙に27歳で出馬し初当選する。以来、議員を務める傍ら地元の教育振興に尽力して小学校の増改築、敷地購入などの為に莫大な私財を寄付し続ける。
斎藤 金吾(さいとう きんご、1859年4月27日(安政6年… 斎藤 金吾(さいとう きんご、1859年4月27日(安政6年3月25日) - 1941年(昭和16年)6月12日)は、明治から大正時代の政治家。大地主。衆議院議員(1期)。 豪農・斎藤安右衛門の長男として出羽鶴岡藩領田川郡、のちの山形県田川郡播磨村(西田川郡播磨村、栄村を経て現鶴岡市)に生まれる。同村加藤良磨に学んだのち鶴岡の中台元について漢籍を修めた。1881年(明治14年)戸長役場に入り、1889年(明治22年)町村制施行と共に栄村助役、1893年(明治26年)同村長に就任する。この間、1891年(明治24年)には西田川郡会議員に当選し、郡制廃止まで33年間在任。1895年(明治28年)からは山形県会議員となり3期務めた。
駒林 広運(こまばやし ひろゆき/こううん、1856年12月… 駒林 広運(こまばやし ひろゆき/こううん、1856年12月23日(安政3年11月26日) - 1935年(昭和10年)11月23日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家。衆議院議員(5期)。 庄内藩士駒林広明の長子として出羽国田川郡鶴岡大海町(西田川郡鶴岡町を経て現鶴岡市)に生まれ、1875年(明治8年)8月、戸主となる。和漢学を修めたのち1879年(明治12年)3月、三等准訓導となったのち山形県会書記に転じた。1883年(明治16年)には同県会議員に当選し、1886年(明治19年)条約改正に反対を掲げ上京する。1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、1904年(明治37年)の第9回衆議院議員総選挙まで通算5回当選した。
秋保 親兼(あきほ ちかかね、1856年(安政3年)5月13… 秋保 親兼(あきほ ちかかね、1856年(安政3年)5月13日 - 1915年(大正4年)5月29日)は出羽国田川郡鶴岡(現・山形県鶴岡市)出身の政治家、衆議院議員(2期)、済急社監査役、庄内煙草社長である。 1856年(安政3年)5月13日、庄内藩士・伴弥平の3男として生まれる。その後、庄内藩校致道館で学ぶ。 1872年(明治5年)、松ヶ岡開墾に参加。1880年(明治13年)、済急社(現・荘内銀行)の設立に関わる。 1889年(明治22年)、鶴岡町会議員就任。西田川郡会議員、山形県会議員に就任。1894年(明治27年)9月1日、第4回衆議院議員総選挙(旧山形3区・立憲革新党公認・2119票獲得)初当選。
小池 正直(こいけ まさなお、1854年12月23日(嘉永7… 小池 正直(こいけ まさなお、1854年12月23日(嘉永7年11月4日) - 1914年1月1日)は、日本の陸軍軍人。貴族院議員。陸軍軍医総監・正四位・勲一等・功二級・医学博士・男爵。山形県鶴岡市出身。 鶴岡藩医・小池正敏の長男として生まれる。大学東校に入り、陸軍軍医生徒となり、1881年3月、東京大学医学部を卒業。同期は三浦守治、高橋順太郎、中濱東一郎、森林太郎、佐藤佐、賀古鶴所であった。 同年6月、陸軍軍医副に任官し、東京陸軍病院に配属。大阪陸軍病院、軍医本部付(釜山駐在)、近衛付、軍医学舎教官、兼陸軍省医務局副課員、医務局第1課長心得などをへて、1888年3月からドイツに官費留学し、ミュンヘン大学で学んだ。
大達 羽左エ門(おおだて うざえもん、1854年1月13日(… 大達 羽左エ門(おおだて うざえもん、1854年1月13日(旧暦嘉永6年12月15日) - 1904年8月17日)は、出羽国田川郡(現:山形県鶴岡市)出身の元大相撲力士。5代千賀ノ浦。本名は諏訪 辯治(すわ べんじ)。最高位は西大関。 1854年1月13日(旧暦嘉永6年12月15日)に出羽国田川郡(現:山形県鶴岡市)で農家を営む家に二男として生まれる。幼少期から地元の土地相撲で活躍したことで村民から「鬼童」と呼ばれて評判だったが、大食漢・大の相撲好きが災いして家業を疎かにすることが多くなったために養子先から離縁され、本職の力士を目指して上京、立田川部屋へ入門した。1873年12月場所において序二段で初土俵を踏むが、素行が悪かったためにまもなく脱走して新潟県を放浪し、村上の酒造家で奉公しながら再び土地相撲で活躍した。
黒崎 研堂(くろさき けんどう、嘉永5年2月15日(1852… 黒崎 研堂(くろさき けんどう、嘉永5年2月15日(1852年3月5日) - 昭和3年(1928年)1月16日)は、江戸時代から昭和時代にかけての書家。庄内藩士。鶴岡町会議員、金融機関済急社社長(第3代)、松ヶ岡開墾場総監督。出羽国庄内(現・山形県鶴岡市)出身。別名は与八郎、馨、聚、敬治、子芳、東瀛。 庄内藩家老・酒井了明の3男として生まれ、後に黒崎友信の養子となる。 藩校致道館で学び、戊辰戦争の際には農兵小隊長として出陣。1870年には酒井忠篤に従い、鹿児島に赴き練兵を学ぶ。帰郷後、松ヶ岡開墾場の経営に従事。この間に黒崎たき(14歳)と結婚した。 研堂は幼き頃から書をよくし、1886年に斯界の第一人者であった日下部鳴鶴が鶴岡を来訪した際に入門した。
加藤 正英(かとう しょうえい、1851年7月17日(嘉永4… 加藤 正英(かとう しょうえい、1851年7月17日(嘉永4年6月19日) - 1915年(大正4年)4月15日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。 工藤重助の二男として鶴岡に生まれ、幼くして田川郡松尾村(山形県東田川郡広瀬村、羽黒町を経て現鶴岡市羽黒町松尾)の加藤三七の養子となる。後田村の岡部宥盈につき和漢学を、父に算学や珠算を学ぶ。諸国を遊学したのち、1879年(明治12年)後田村外8箇村戸長を経て、1889年(明治22年)山形県会議員に当選する。県議会では議長を歴任した。この間、村会議員、東田川郡会議員を歴任した。1893年(明治26年)から1897年(明治30年)まで広瀬村長を務め、私立庄内中学校商議員会会頭を務め、乾田馬耕の普及に尽くした。
加藤 直矢(かとう なおや、1849年2月17日(嘉永2年1… 加藤 直矢(かとう なおや、1849年2月17日(嘉永2年1月25日) - 1892年(明治25年)2月13日)は、日本の治水家。鶴岡家中新町(現・鶴岡市)出身。
氏家 直綱(うじいえ なおつな、弘化2年(1845年) - … 氏家 直綱(うじいえ なおつな、弘化2年(1845年) - 明治44年(1911年))は、江戸時代から明治時代の人物。庄内藩士、官吏、初代西田川郡長。
朝日嶽 鶴之助(あさひだけ つるのすけ、1840年(1838… 朝日嶽 鶴之助(あさひだけ つるのすけ、1840年(1838年説も) - 1882年4月4日)は、山形県鶴岡市出身(生地は現在の新潟県村上市)の大相撲力士。本名は本間→佐藤 庄蔵、本間姓の前の苗字は不明。最高位は大関。現役時代の体格は180cm、113kgと伝わる。 越後国の農家に生まれ、漁師に奉公に出された。庄内藩出入りの船人足として働いていたところが藩主の目に止まり、藩主の勧めで同郷の立田川(7代、元関脇常山五良治)に入門した。初土俵は万延元年(1860年)10月場所、幕下二段目に付け出された。最初の四股名は「由良ノ海庄蔵」だが、文久2年(1862年)2月に朝日嶽と改名した。朝日嶽の名は地元の名山大朝日岳に因んだ。
相良 守典(さがら もりつね、天保8年3月3日〈1837年4… 相良 守典(さがら もりつね、天保8年3月3日〈1837年4月7日〉 - 大正7年〈1918年〉6月22日)は、幕末期の庄内藩銃隊頭。明治期の地方官吏、郡長。通称は文八郎。 相良守峯(ドイツ文学者)、相良守次(心理学者)は孫に当たる。 天保8年3月(1837年4月)、庄内藩士相良文右衛門(守富)の3男として生れ、のちに兄八十吉(守均)の跡を継いだ。安政2年(1855年)選ばれて砲術修業のため江川太郎左衛門の塾に入門した。慶応4/明治元年(1868年)の戊辰戦争では、庄内軍の銃兵部隊を指揮する立場で転戦し、4月の清川口の戦いに銃兵指図役として従軍したのをはじめ、銃隊頭として長岡藩支援のため北越戦争にも参戦した。
石井 武膳(いしい ぶぜん、文政2年7月5日(1819年8月… 石井 武膳(いしい ぶぜん、文政2年7月5日(1819年8月25日)- 明治14年(1881年)10月17日)は、庄内藩士、大泉藩権少参事。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
大山 庄太夫(おおやま しょうだゆう、文化5年(1808年)… 大山 庄太夫(おおやま しょうだゆう、文化5年(1808年)- 慶応2年11月13日(1866年12月19日))は、江戸時代後期から末期の庄内藩士。留守居役。
小関 三英(こせき さんえい、天明7年6月11日〈1787年… 小関 三英(こせき さんえい、天明7年6月11日〈1787年7月25日〉 - 天保10年5月17日〈1839年6月27日〉)は、江戸時代後期の医者・蘭学者。名は好義、幼名は弁助、通称は良蔵。号は鶴斎、鶴洲、篤斎など。 天明7年(1787年)出羽庄内藩給人組外・小関知義(弥五兵衛)の次男として鶴岡に誕生。幼少期に火傷を負って足が不自由となる。 文化元年(1804年)江戸に上り、吉田長淑・馬場佐十郎に蘭学と医学を学ぶ。 文政4年(1821年)故郷の鶴岡に帰り医者を開業するが、翌文政5年(1822年)には蘭学者・大槻玄沢の紹介で仙台藩医学館の教師に着任する。翌文政6年(1823年)長崎に赴いてシーボルトの下で学ぶ。
市野上 浅右エ門(いちのかみ あさえもん、1767年(明和4… 市野上 浅右エ門(いちのかみ あさえもん、1767年(明和4年) - 1802年(享和2年)9月9日(旧暦8月13日))は、山形県温海町(現:山形県鶴岡市温海)出身の元大相撲力士。本名は斎藤 浅右衛門(さいとう あさえもん)。 大相撲史上最強力士、雷電爲右エ門に二度勝利した唯一の力士として知られる。 1767年に山形県温海町(現:山形県鶴岡市温海)で温泉宿「あらやまや(新玉屋)」の三代・斉藤五左衛門の長男として生まれ、幼名は五郎吉だった。1788年(天明8年)に初代・出羽ノ海に見出されたことで入門、1790年(寛政2年)11月場所において三段目付出しで初土俵を踏んだ。1793年(寛政5年)3月場所(幕下筆頭、現在でいう十両)と1797年3月場所にて雷電爲右エ門から勝利を挙げ、雷電に二度勝った唯一の力士となった。
犬塚 盛巍(いぬづか もりたか、生年不明 - 1896年〈明… 犬塚 盛巍(いぬづか もりたか、生年不明 - 1896年〈明治29年〉12月17日)は、庄内藩士。周旋方。日本の司法官僚。検察官。検事長。従三位勲三等。 犬塚盛直(父)と海老名美寿(母)の長男として生まれる。庄内藩士となり戊辰戦争時に周旋方に任じられた。明治3年8月、藩主酒井忠篤の命により、長沢惟和と共に、旧鹿児島藩主島津忠義と西郷隆盛に書簡を届け、鹿児島藩兵器製造所等を視察した。後に司法省に入省し検察官となり、累進して明治19年に大阪控訴院検事長、明治23年には宮城控訴院検事長に就任した。明治29年12月17日、薨去。 衆議院議員及び貴族院議員を務めた犬塚勝太郎は長男。三井物産常任監査役を務めた犬塚勝之丞は次男。
酒井 調良(さかい ちょうりょう)は、出羽庄内藩の家老酒井了… 酒井 調良(さかい ちょうりょう)は、出羽庄内藩の家老酒井了明の次男。農場経営者。荘内蚕糸業組合長。 新品種「平核無(ひらたねなし)」(「庄内柿」)の栽培に成功し、庄内で初めて、リンゴの栽培と豚の飼育を始めた人物として知られている。 兄は、戊辰戦争で活躍した名将酒井了恒、弟は、漢学者の黒崎研堂である。
酒井 了恒(さかい のりつね)は、出羽庄内藩家老酒井了明の長… 酒井 了恒(さかい のりつね)は、出羽庄内藩家老酒井了明の長男。幼名虎之進。元服して吉弥。慶應3年に家督をついでから父祖代々の通称である玄蕃。吉之丞を襲名した。諱は了恒。字(あざな)は伯通である。戊辰戦争において庄内藩二番大隊・大隊長。明治維新後、大泉県参事。 戊辰戦争において庄内藩二番大隊を指揮し、秋田方面の戦いで連戦連勝の活躍を遂げ、新政府軍から「鬼玄蕃」と呼ばれ恐れられた名将として知られている。 弟には、庄内柿の生みの親として有名な酒井調良と、書家の黒崎研堂がいる。 戊辰戦争において東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結んで新政府軍と戦ったが、庄内藩は会津藩、仙台藩、米沢藩とともにその中心となる藩の一つであった(ただし奥羽列藩同盟は会津藩と庄内藩の支援を目的としていたため、会・庄2藩は加盟していない)。
落合 良(おちあい りょう、旧姓:丸谷)は、元東京電機大学講… 落合 良(おちあい りょう、旧姓:丸谷)は、元東京電機大学講師、元共立女子短期大学講師、(財)せたがや文化財団顧問、山形県鶴岡市出身。
岡部 大介(おかべ だいすけ、1973年 - )は、日本の認… 岡部 大介(おかべ だいすけ、1973年 - )は、日本の認知科学者、博士(学術)、東京都市大学教授、慶應義塾大学SFC研究所上席研究員。山形県鶴岡市出身。