中村 勝治(なかむら かつじ、1945年(昭和20年)6月2… 中村 勝治(なかむら かつじ、1945年(昭和20年)6月20日 - )は、日本の政治家。元鳥取県境港市長(4期)。 父は境港市議会議長を務めた中村実三。 鳥取県境港市生まれ。同市湊町在住。鳥取県立境高等学校を経て、1968年3月、国士舘大学政経学部卒業。日本電信電話公社に勤務する。1996年4月、境港市企画部次長。1998年1月、境港市市民生活部次長。同年12月、境港市市民生活部長。2002年4月、境港市総務部長。 2004年6月5日、境港市長の黒見哲夫が健康上の理由により辞職届を提出。里見の辞職に伴い7月25日に行われた市長選挙に立候補し初当選した。 2011年10月29日、全国豊かな海づくり大会レセプション出席のため、鳥取市へ向かう際に公用車が交通事故を起こし、腰骨骨折の重傷を負った。
黒見 哲夫(くろみ てつお、1932年(昭和7年)3月22日… 黒見 哲夫(くろみ てつお、1932年(昭和7年)3月22日 - 2017年(平成29年)5月19日)は、日本の政治家。鳥取県境港市長。 鳥取県西伯郡境町(現境港市)出身。父は印刷業黒見宗次。4歳の時母はるえが病死。 1947年鳥取県立境中学校中退。境町役場勤務。1970年境港市役所財政課長。1980年同総務部長。1983年同民生部長。1986年同助役。 1989年12月境港市長就任。体調を崩して療養が必要な状況となり、2004年6月5日に辞職届けを提出した。 2017年5月19日朝、境港市内の病院で亡くなった。
広島 了輔(ひろしま りょうすけ、1922年(大正11年)1… 広島 了輔(ひろしま りょうすけ、1922年(大正11年)11月6日 - 没年不明)は、日本の税理士、計理士、司法書士、政治家。広島税理士事務所所長。元境港市議会議員。第61代鳥取県議会副議長。 父は元境港市議会議員の広島馨。 鳥取県西伯郡境町(現在の境港市)出身。 立命館大学法学部中退。 1944年(昭和19年)から1950年(昭和25年)まで、組合立境高等家政女学校、組合立境女子商業学校→鳥取県立境高等女学校→鳥取県立境第二高校→鳥取県立境高等学校に勤務。 1950年、税務代理士となる。 1958年(昭和33年)、境港市議会議員に当選。 1967年(昭和42年)、鳥取県議会議員に当選。 元鳥取県米子市長森田隆朝によると「小学生時代の広島了輔氏はガキ大将だった。
安田 貞栄(やすだ さだえ、 1917年(大正6年)12月1… 安田 貞栄(やすだ さだえ、 1917年(大正6年)12月15日 - 1989年(平成元年)11月20日)は、日本の教育者、政治家。鳥取県議会議員、境港市長(第3代)。 元鳥取県議会副議長永井貞録の四男。元米子今井書店社長永井準の実弟。鳥取県議会議員安田優子の実父。 鳥取県西伯郡中浜村出身。永井貞録の四男として生まれ、叔母に子供がなかったため安田家の養子となる。実父貞録の「貞」と養父栄の「栄」をとって「貞栄」と命名された。 学期末通信簿を持って帰って、成績が一番になったことを言うと「百姓の跡取りにならなくなるぞ」と叱られた。部落の長老百太郎じいさんは特に説教の名人で「百姓の跡取りは百姓となるべきである。
下西 文雄(しもにし ふみお、大正2年(1913年)1月26… 下西 文雄(しもにし ふみお、大正2年(1913年)1月26日 - 平成5年(1993年)4月24日)は日本の政治家。元境港市議会議員。元境港市日朝友好協会会長。元山市との友好都市協定締結に尽力。 鳥取県境港市に生まれる。 早大政経学部中退。1935年満州国産業指導官。 帰国後、中学校教諭となる。1951年境町助役、1955年から境港市議会議員。正副議長など歴任。 1990年10月第6次訪朝にあたって、金日成主席は、多年にわたる日朝親善につとめる下西文雄団長に「人民親善勲章(第2級)」を贈ってその功労をたたえた。
松本 豊(まつもと ゆたか、明治39年(1906年)5月8日… 松本 豊(まつもと ゆたか、明治39年(1906年)5月8日 - 平成12年(2000年)12月25日)は日本の柔道家、実業家、政治家。境港商工会議所名誉会頭。元境町会議員、境港市会議員。 鳥取県境港市出身。万一の長男。 米中卒。松本材木店経営。姫路野砲第十連隊入隊、昭和19年(1944年)再応召、陸軍中尉。 昭和21年(1946年)松本木材(株)を設立、取締役社長に就任、同年境港商工会議所会頭(のち公職追放で辞任)。昭和30年(1955年)~昭和61年(1986年)境港商工会議所会頭。 昭和34年(1959年)(株)米子木材市場取締役社長、境港外材輸入(協)理事長、昭和38年(1963年)大山産業(株)取締役社長、昭和57年(1982年)松本木材(株)を境港木材工業(株)に改組、取締役顧問。
佐賀 省三(さが しょうぞう、明治38年(1905年)5月8… 佐賀 省三(さが しょうぞう、明治38年(1905年)5月8日 - 平成2年(1990年)以降)は日本の俳人、政治家。元境港市議会議員。号榎村。佐賀家の12代目。 俳人鹿島平堂は大おじにあたる。 鳥取県西伯郡上道村(現・境港市上道町)の農家に生まれる。 鳥取県立農学校(現・鳥取県立倉吉農業高等学校)、正則英語学校(現・正則学園高等学校)を経て、大正14年(1925年)3月に東京府立園芸学校(現・東京都立園芸高等学校)卒業。大正15年(1926年)3月、早稲田大学専門部中退。 帰郷して農業に従事する。上道村会議員、境港市会議員などをつとめた。 元農業会理事、村会議員、境港市農業委員等務め農業多角経営の指導、実践に努力、養鶏の大家として三十年の経験と共に県下に有名である。
増谷 慶一郎(ますたに けいいちろう、明治38年(1905年… 増谷 慶一郎(ますたに けいいちろう、明治38年(1905年)2月23日 - 昭和45年(1970年)12月13日)は日本の実業家、政治家。境港商工会議所第2代会頭。元増谷薬局代表取締役。元境町会議員。三代目当主。本名は正巳。 鳥取県境港市出身。実家は薬種商。 米子中学校(現米子東高校)、金沢医科大学付属薬学専門部(現在の金沢大学薬学部)卒業。 大正14年(1925年)から大阪で自家製剤を修行して帰郷し、家業の薬種商・増谷薬店“杏花堂”を手伝う。昭和22年(1947年)境町の町会議員を務める一方、境港商工会議所初代会頭松本豊の後を受けて2代目会頭に就任する。 昭和25年(1950年)境町だけでなく米子駅前にも出店し、実弟・芳郎とともに有限会社増谷薬局を設立するなど、会社を大きく発展させた。
松下 整吉(まつした せいきち、1904年〈明治37年〉3月… 松下 整吉(まつした せいきち、1904年〈明治37年〉3月31日 - 1986年〈昭和61年〉)は、日本の実業家、政治家。松下酒店社長。境港商工会議所副会頭。 鳥取県西伯郡境町松ヶ枝町(現境港市松ヶ枝町)出身。質屋・松下専次郎の息子。1947年から2期境町会議員を務める。境港魚市場社長、北陽産業社長、境港魚凾社長などを歴任する。 境港魚市場の大株主である。妻・さいは面谷代表、酒類醸造業の面谷友太郎の二女。住所は境港市松ヶ枝町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
富谷 栄(とみたに えい、1901年〈明治34年〉11月23… 富谷 栄(とみたに えい、1901年〈明治34年〉11月23日 - 1983年〈昭和58年〉4月24日)は、日本の政治家。鳥取県西伯郡余子村長(11代)。余子村会議員。境港町議会議員。境港市議会議長(3代、7代)。旧姓・嵯峨里。 鳥取県西伯郡余子村(現・境港市)出身。嵯峨里長太郎の三男。余子小学校卒業後、富谷家養嗣子となる。農業に従事する。 1933年、余子村会議員に当選する。松江連隊に服役後支那事変及び大戦に再度応召。1945年11月に朝鮮から復員した。 1947年、余子村長に就任する。村長として中浜村との組合立誠道中学校の開校建設、保育所開設と移転新築、小学校増築等次代を担う子供たちの育成に努める。
長山 英一(ながやま えいいち、明治30年(1897年)10… 長山 英一(ながやま えいいち、明治30年(1897年)10月14日 - 没年不明)は、日本の陸上競技選手、登山家、政治家。元境港市議会議員。 鳥取県西伯郡中浜村大字佐斐神(現・境港市佐斐神町)出身。長山善完の長男。長山家は大農家だった。鳥取県立農学校(現・鳥取県立倉吉農業高等学校)卒業。 大正8年(1919年)日本体育会主催の第7回全国オリンピックに出場した英一は、1,500メートル、4分28秒(日本新記録)で第1位、同タイムの早大・麻生武治と優勝を分け合い、優勝カップを夫々受賞した。 大正11年(1922年)松本秀松(渡村出身)と鳥取県で初めて冬山大山登山に挑んだ。 戦後、村会議員、市会議員などをつとめた。
足立 実(あだち みのる、1895年(明治28年)1月28日… 足立 実(あだち みのる、1895年(明治28年)1月28日 - 1974年(昭和49年)4月2日)は、日本の政治家。鳥取県境港市長(初代)。 鳥取県西伯郡余子村大字福定(現境港市福定町)出身。 京都高等蚕糸学校(現京都工芸繊維大学)卒業。郡是製紙の技師として占領下の中国に渡り、帰国した昭和16年(1941年)から5年間、余子村長に、昭和29年(1954年)に境港町長に、昭和31年(1956年)市制施行に伴い初代の境港市長にそれぞれ就任した。 市長を退任するまで村長、町長を含め18年間、地方行政の長として境港市の基盤づくりに努めた。 足立について、次男の足立純一によると
阿部 浅十(あべ あさじゅう、1890年〈明治23年〉12月… 阿部 浅十(あべ あさじゅう、1890年〈明治23年〉12月6日 - 没年不明)は、日本の政治家、農民。鳥取県西伯郡余子村会議員。境港町議会議員。境港市議会議員。 鳥取県西伯郡余子村大字高松(現・境港市高松町)出身。久栄の長男。弓浜高等小学校を卒業後、家業の農業に専念し、傍ら弓浜組合製糸監事、農協理事、農会理事等を歴任する。1954年、境港町議会議員に当選する。西伯郡米子市養蚕農業協同組合連合会理事、誠道中組合議員を兼任する。1956年、市制実施とともに市会議員となる。 自治及び養蚕功労者として当局より再三表彰され、地区有力者として尊敬される。趣味は畜育。宗教は曹洞宗。住所は境港市高松町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
松下 道蔵(まつした みちぞう、1888年〈明治21年〉10… 松下 道蔵(まつした みちぞう、1888年〈明治21年〉10月8日 - 1961年〈昭和36年〉10月25日)は、日本の実業家、政治家。鳥取県西伯郡境町長(第16代)。境町会議員。 鳥取県西伯郡境町栄町(現境港市)出身。中学校では学術優秀で、常に各級の首席を占める。石油、金物商を営む。また境港合同運送社長、岡田回漕店、境港合同運送各取締役、境實業新報監査役をつとめる。 1941年6月から同年8月まで境町長をつとめる。戦後、公職追放を受ける。 「境町の風習」、「八幡通りの変遷」を絵付きで書き残す。蔵書も多く、読書家であった。 父松下哲成(鉄、石油商)は、第8代境町長。妻は岡田汽船社長岡田庄作の二女、岡田商店社長岡田洲二の姉である。
永井 貞録(明治20年(1887年)9月25日 - 昭和17… 永井 貞録(明治20年(1887年)9月25日 - 昭和17年(1942年)7月24日)は、日本の政治家、実業家。元鳥取県議会議員。元中浜村会議員。 弓浜組合製糸組合長、西伯郡米子市連合養蚕組合組合長、伯西社組合長、鳥取県養蚕組合長などを勤め、全国屈指の養蚕王国といわれた県下の大御所的存在として、大日本蚕糸会副総裁でもあった。元鳥取県境港市長安田貞栄・元今井書店社長永井準の父、鳥取県議会議員安田優子の祖父。 旧麦垣集落(現在の鳥取県境港市麦垣町)の大農家に生まれる。綿に代わって蚕が主要作物になっていく頃であった。 昭和2年(1927年)鳥取県議会議員となり4期連続当選、昭和9年(1934年)副議長となる。
庄司 廉(しょうじ れん、1887年(明治27年)4月17日… 庄司 廉(しょうじ れん、1887年(明治27年)4月17日 - 1960年(昭和35年)8月10日)は、日本の豪農、実業家、政治家。世人をして“庄司の殿様”といわしめた。女優の司葉子は姪にあたる。 鳥取県西伯郡渡村(現在の境港市渡町)に生まれる。父・昇造の死により8歳で豪農「本庄司家」を継ぎ、杉山永真(のちの郡会議長)を養育係として成長した。 山陰日日新聞社、米子銀行、米子博愛病院等の取締役、渡村村長(第5代)、同村会議員・学務委員。鳥取県多額納税者。大地主にも名を連ね、奥出雲の山林大地主・23代田部長右衛門(元島根県知事)はいとこにあたる。 木下二介や門脇春翠に絵の修行をさせたり、私財を投じて山陰地方初の繭市場を開設する等、非凡にして識見高く、先見の明があって、事に臨んでは果断と実行の人だった。
景山 圭一(かげやま けいいち、明治16年(1883年)10… 景山 圭一(かげやま けいいち、明治16年(1883年)10月18日 - 昭和32年(1957年)4月25日)は、日本の政治家。境町長(第15代)、境町会議員。鳥取県議会議員(議長、副議長)。 景山塾で名高い景山家の出身であり、景山粛の孫、景山龍造の甥にあたる。 鳥取県西伯郡境町(いまの境港市)出身。父は景山桂。 普通選挙法公布を前にして町村会選挙に初めて等級制がなくなった大正10年(1921年)の選挙で町会に進出、時代の波に乗った新勢力、革新派として境町政界に台頭した。 昭和2年(1927年)から20年間県会議員を務めた。町長職にあった昭和13年(1938年)から昭和14年(1939年)にかけては、第38代県会議長の要職にもあって町政、県政を股にかけ、まさしく飛ぶ鳥を落とす勢いであったという。
遠藤 光徳(えんどう みつのり、1881年〈明治14年〉2月… 遠藤 光徳(えんどう みつのり、1881年〈明治14年〉2月4日 - 1973年〈昭和48年〉4月24日)は、日本の実業家、政治家。鳥取県米子市名誉市民。 鳥取県西伯郡外江村(現在の境港市外江町)出身。遠藤久壽の長男。1895年、弓ケ浜高等小学校を卒業。 少年時代に米子の坂口平兵衛本店に入店、店員となる。3年はただ働きだった。忠実に奉公しているうちに坂口平兵衛に認められ、同家の大番頭に挙げられる。1924年、坂口合名会社の支配人となる。 1921年、米子町会議員に当選後、米子市議会議員・鳥取県議会議員などの公職をつとめ、米子市議会議長に15年8ケ月にわたり在職する。 鋳物諸工具製造業を営む。幾多の事業に関係し、米子製鋼所、大谷オフセット印刷各社長、米子電車軌道、皆生温泉土地各取締役、山陰農具監査役などをつとめる。
岡田 庄作(おかだ しょうさく、明治13年(1880年)10… 岡田 庄作(おかだ しょうさく、明治13年(1880年)10月 – 没年不明)は、日本の実業家、政治家。元境商工会会頭、岡田汽船・岡田物産・境港合同運送各(株)社長。元ネオセメント・合同汽船各(株)取締。元境町会議員、西伯郡会議員。鳥取県平民。鳥取県多額納税者。海運業。幼名泰助。 岡田商店の元代表取締役会長岡田洲二の父。 岡田庄作の二男。前名泰助を改め襲名する。 境港海運界の重鎮として境港発展に尽くした功績は特筆すべきものがあった。 市内光祐寺西の墓地に眠る。その墓碑に元町長足立正による墓誌銘が刻まれている。
荒木 久九郎(あらき ひさくろう、1875年〈明治8年〉10… 荒木 久九郎(あらき ひさくろう、1875年〈明治8年〉10月8日 - 没年不明)は、日本の商人(呉服太物商)、政治家、実業家、荒木合名会社社員。合資会社荒木呉服店代表。境貿易監査役。境電気取締役。鳥取県西伯郡境町会議員。 鳥取県西伯郡境町(現・境港市)出身。荒木重造の実兄である。境製糸社員だったが1902年にその出資額全部を社員の荒木徳三郎へ譲渡し退社する。国産古着、白木綿、呉服、反物、綛糸卸商を営む。 荒木呉服店は土地に於ける第一流の商店であったが、家族に不幸が続き、営業に全力を注ぐことができなかったので、1914年10月にやむなく整理を発表した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
永見 勘太郎(ながみ かんたろう、1874年(明治7年)4月… 永見 勘太郎(ながみ かんたろう、1874年(明治7年)4月13日 - 1947年(昭和22年)3月6日)は、日本の政治家。中浜村長(第6代)、中浜村会議員、郡会議員。 第3代中浜村長永見林三郎の長男。 小篠津村(のち鳥取県境港市小篠津町)に永見林三郎の長男として生まれる。永見家は勘太郎の祖父清四郎が初代で、四国から藍玉を仕入れる仕事を始めるとともに、自家も紺屋を営んで一代で財を成したといわれる。 父林三郎が村長を退くと入れ替わりに村会に出、郡会議員も3期務めた。 村長在任中は不景気の最中で大篠津繭市場も倒産し、出資者の一人だった勘太郎もかなりの畑を失った。 昭和5年(1930年)にはついに農家更生村の指定を受けて、公益質屋や負債整理組合を発足させた。
加島 恵太郎(かしま けいたろう、明治4年4月13日(187… 加島 恵太郎(かしま けいたろう、明治4年4月13日(1871年5月31日) - 昭和25年(1950年)7月6日)は日本の実業家、政治家、漢詩人。鳥取県西伯郡境町長(第5代、7代)、境町会議員、鳥取県会議員。号は洗心。 境町に生まれた。加島房太郎の実弟。 鳥取中学から東京物理学校に学んだが、病気のため帰郷した。家業の加島呉服店を手伝い、28歳で独立して隠岐汽船、境ドッグ、境電気等の会社経営に関係した。 2度にわたって町長をつとめたが名誉職だったので、生活の基盤は家業にあり、急用が起きると走って役場に出かけた。 明治38年(1905年)9月、日露戦争戦勝祝賀会を挙行、町中が沸く中を杉山校長と共に旗行列、提灯行列の先頭に立った。
本角 文蔵(もとずみ ぶんぞう、慶応4年7月14日(1868… 本角 文蔵(もとずみ ぶんぞう、慶応4年7月14日(1868年8月31日) - 昭和10年(1935年)1月25日)は、日本の政治家。中浜村長(第4代)。初代中浜村長本角寅造の義弟。 小篠津村(のち鳥取県境港市小篠津町)の本角家は代々"与平"、"所十郎"を襲名する豪農で、大庄屋をつとめた由緒ある家柄だった。 29歳で村長に就任し、大正3年(1914年)から耕地整理事業に着手したほか、米川水利灌漑事業、信用組合創設等を行って養蚕で栄える本村農業の振興につとめた。 さらに農業補習学校の分教場制度を廃止して、教育の質的向上を図り、尋常高等小学校の増築もなした。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
門永 昇平(かどなが しょうへい、明治元年(1868年)6月… 門永 昇平(かどなが しょうへい、明治元年(1868年)6月1日 - 没年不明)は日本の実業家、政治家。鳥取県西伯郡境町中屈指の豪商。元境町会議員。 鳥取県西伯郡上道村(現境港市上道町)出身。厳父浅重の二男。 弱冠にして実家の業務を扶け大に商業の経験を積み明治23年(1890年)8月境町に分家し、始め酒類販売及び砂糖商を開き一意専心業務に力めたことにより、日増しに繁栄に向かい資産増殖する。 従来の家業を廃し質屋肥料商を開く。明治33年(1900年)実に壮観なる家宅を新築する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
山本 熊吉(やまもと くまきち、慶応3年10月1日(1867… 山本 熊吉(やまもと くまきち、慶応3年10月1日(1867年10月27日) - 大正10年(1921年)2月2日)は、日本の漢詩人、政治家。鳥取県西伯郡境町長(3代)。鳥取県会議員(議長)、郡会議員、町会議員。号碧湾。 境町長(17代)山本亮の父。 川店(かわみせ)と号する資産家の出身。 明治32年(1899年)7月境町長となる。 病気のため明治33年(1900年)4月町長を辞任したが、同年花町に伝染病院を建設した。更にこの年宿願の鉄道敷設工事着工に伴い、県営の荷揚場拡張工事に着手した。 明治36年(1903年)この荷揚場工事の完成と朝鮮貿易を目的として設立された境貿易株式会社への補助金確保のため。
足立 正(あだち せい、元治2年1月10日(1865年2月5… 足立 正(あだち せい、元治2年1月10日(1865年2月5日) - 昭和22年(1947年)10月29日)は、日本の教育者、郷土史家、政治家。きよしこの夜の訳詞者由木康の実父。実業家足立荘の実兄。 坪井正五郎、喜田貞吉、沼田頼輔など一流の学者と親交を持ち、西伯耆を中心とする考古学、歴史学の研究と資料収集にその生涯を捧げた。元境町長。 島根県松江師範学校卒業後は上道小学校で教員となり、1888年(明治21年)からは上道の弓浜高等小学校に12年間務めた。 1900年(明治33年)からは西伯郡淀江町今津の養良高等小学校の校長に就任した。20年以上の在職中には1903年(明治36年)設立の養良農業補習学校での業績を評価され、表彰もされている。
増谷 喬(ますたに たかし、文久3年(1863年)6月5日)… 増谷 喬(ますたに たかし、文久3年(1863年)6月5日) - 昭和19年(1944年)4月13日)は日本の政治家。上道村長(5代)、上道村会議員。 二女よしは元鳥取弁護士会会長君野順三の弟で醤油醸造業君野秀三(元若桜町町長)の妻。ソニー育ての親として知られる増谷麟(元東宝常務、PCL創立社長、日本ポリドール社長)は三男。 上道村(現鳥取県境港市上道町)出身。家業は薬問屋、醤油醸造。若いころから村会議員を務め一派を形成していた。大正15年(1925年)5月から昭和4年(1929年)9月まで上道村長を務めた。 短歌や墨絵を趣味とし、囲碁も強くて碁打ち友達がよく来ていた。
佐中 廉(さなか れん、文久2年(1862年)12月27日 … 佐中 廉(さなか れん、文久2年(1862年)12月27日 - 昭和13年(1938年)10月5日)は日本の教育者、政治家。元余子小学校長、境小学校長。元余子村学務委員。元余子村長。幼名松太郎。 大阪府立大学名誉教授佐中壮の父。 福定村の農家佐中友太の長男として生まれる。中野村木島仙庵の門に入り、次いで中野小、森山村寺本要塾、広瀬町山村勉斎塾でよく学び、24歳の時教員検定試験に合格した。 明治21年(1888年)弓浜高等小学校創設にあたり、以来同校に勤務、校長村上龍の家族主義教育を20余年助けた。次いで校長に進んだがいったん職を退き、さらに余子小学校長、境小学校長を歴任して教育一筋につとめ、多くの人材を出した。
渡部 芳造(わたなべ よしぞう、1861年5月27日(文久元… 渡部 芳造(わたなべ よしぞう、1861年5月27日(文久元年4月18日) - 1936年(昭和11年)3月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(鳥取県第3区選出、当選2回)。 伯耆国会見郡渡村(現鳥取県境港市渡町)の豪商「灘渡部」の渡部茂八郎の一人息子として生まれる。同村の医師渡辺恭平について漢学を学び、次いで備中高梁の山田方谷の塾、米子教員伝習所等で修行を積んだ。 第1回衆議院議員総選挙で支援当選させた松南宏雅の後を継いで、30歳にして第2回衆議院議員総選挙に出馬当選、連続二期国会議員を務めた。中国鉄道創立発起人となった。 一方、1892年(明治25年)の第2回総選挙で現職の門脇重雄を破って当選した渡部芳造(渡村) は吏党系で、以後2人は選挙の度に争い議席を分け合った。
足立 繁太郎(あだち しげたろう、万延元年12月24日(18… 足立 繁太郎(あだち しげたろう、万延元年12月24日(1861年2月3日) - 昭和19年(1944年))は、日本の政治家。元境町会議員。鳥取県会見郡中野村(後に西伯郡余子村、現・境港市)の人。 元日本商工会議所会頭足立正の父。 足立家の家業は酒造りで、江戸時代には大庄屋を務め、苗字帯刀を許された豪家だった。。 父徹造は馬術の達人であり、鳥取藩つきの高名な先生について腕をみがいた。繁太郎は長男の正に剣道を教えた。。 繁太郎は多年にわたり境郵便局長をつとめたため、“郵便足立”とよばれていた。 日本の製紙王と呼ばれた藤原銀次郎の妻の実家(由井家)と足立家は隣同士であり、2人が結ばれたのは繁太郎の仲介によるものであった この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
富谷 千太郎(とみたに せんたろう、安政5年2月5日(185… 富谷 千太郎(とみたに せんたろう、安政5年2月5日(1858年3月19日) - 大正13年(1924年)10月23日)は、日本の茶人、政治家。余子村長(初代)、余子村会議員。 竹内村(のち鳥取県境港市竹内町)出身。父喜七郎は醤油醸造をはじめ手広く事業をやっており、元治元年(1864年)の外江大火には醤油を見舞ったという。また村役人を務めた記録もある。 千太郎は初代村長として余子尋常小学校を開校し、明治23年(1890年)竹内村津山長四郎宅に役場を移転した。 いつのころか家業に失敗し、その後は煮干鰮製造や養鶏等を手掛けた。 またお茶やお花の宗匠でもあり、この道を海外で広めようと渡米したが、時期尚早で目的成らず帰国した。
西村 忠義(にしむら ただよし、1857年1月8日〈安政3年… 西村 忠義(にしむら ただよし、1857年1月8日〈安政3年12月13日〉 - 1925年〈大正14年〉4月22日)は、日本の政治家。鳥取県西伯郡境町長(2代)。境町会議員。 伯耆国会見郡境村(現・鳥取県境港市)出身。1889年(明治22年)に境町会議員に当選した。1890年(明治23年)1月に同町助役となった。1892年(明治25年)、同町会議員に再選した。1893年(明治26年)12月に同町助役を退任した。同月12日から1898年(明治31年)12月12日まで、同町長をつとめる。町長を辞めたあとは台湾に渡り、木村久太郎の下で金山監督をつとめる。同年、同町会議員に返り咲いた。1900年(明治33年)、同町会議員にまた返り咲いた。
足立 長義(あだち ながよし、1856年7月16日〈安政3年… 足立 長義(あだち ながよし、1856年7月16日〈安政3年6月15日〉 - 1930年〈昭和5年〉6月10日)は、日本の実業家、篤農家、教育家、政治家。鳥取県西伯郡外江村長(第7代)。族籍は鳥取県平民。 現在の鳥取県境港市出身。製糸業を営む。1906年3月から1907年8月まで外江村長をつとめる。高等科設置、校地拡張、校舎増築等教育面で尽力する。また外江村会議員、外江村学務委員、小学校長をつとめる。 第4代外江村長足立長重の弟である。住所は鳥取県西伯郡外江村(現・境港市外江町)。 『西伯之資力 大正11年10月調』によれば、地価所有高は588円5銭である。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
南 直一郎(みなみ なおいちろう、1856年6月27日〈安政… 南 直一郎(みなみ なおいちろう、1856年6月27日〈安政3年5月25日〉 - 1893年〈明治26年〉9月24日)は、日本の政治家。鳥取県西伯郡余子村長(3代)。鳥取県会議員。 伯耆国会見郡高松村(鳥取県西伯郡余子村、現・境港市高松町)出身。高松村庄屋・南直四郎の息子。1879年から親に代わって戸長をつとめる。また県会議員、郡役所書記もつとめる。1892年2月、余子村長に就任、1893年9月に退任する。 村長在任中には竹内村の荒山黎斎宅に役場を移す。竹内教場焼失を機に新校舎建築を果たし、竹内・中野二教場を統一する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
松下 哲成(まつした てつなり、安政3年2月22日(1856… 松下 哲成(まつした てつなり、安政3年2月22日(1856年3月28日) - 昭和3年(1928年)1月18日)は日本の実業家、政治家。鳥取県西伯郡境町長、境町会議員、郡会副議長、境町学務委員。伯州境港の豪商。 境町に生まれた。吉三郎の四男。幼名を虎之助と称す。夙に算数の術に長ず。 年甫二十五歳の時、厳君の許容を得、資を分つて同町に分家を創立し鉄石油商を開始した。 日本海上火災保険等の代理商を営むほか、ニューヨークスタンダード石油等の販売商として手広く商いに励み、その傍ら政治にも関心をもった。 若くして町会議員に立ち、町長就任時には郡会副議長の要職にあった。 大正3年(1914年)町の将来的発展と貨客の便を図るため、境駅を現在地に移し、お台場までの中心道路新設改修を計画、一部竣工させた。
松本 節造(まつもと せつぞう、1855年9月18日(安政2… 松本 節造(まつもと せつぞう、1855年9月18日(安政2年8月8日) - 1933年(昭和8年)11月24日)は日本の政治家。渡村長(第2代)、渡村会議員。 渡村(現在の鳥取県境港市渡町)の富農「下渡辺」渡辺又衛の次男として生まれ、千鳥屋松本に婿養子に入った。千鳥屋は渡村草分けの一軒といわれている旧家で、農業の傍ら酒・醤油醸造業を営む富豪だった。 38歳で村長となった節造は、村の発展は道路整備が第一と、改修が終わった外浜街道と渡を直線で結ぶ渡・余子間里道の改修を成し遂げたほか、消防組を設置し、衛生組合の創設や、伝染病避病舎建築等を果たした。
本角 寅造(もとずみ とらぞう、嘉永6年12月12日(185… 本角 寅造(もとずみ とらぞう、嘉永6年12月12日(1854年1月10日) - 大正2年(1913年)6月6日)は、日本の政治家。中浜村長(初代)、県会議員。 小篠津村(のち鳥取県境港市小篠津町)の本角家は代々"与平"、"所十郎"を襲名する豪農で、大庄屋をつとめた由緒ある家柄だった。 寅造は、先代所十郎の長男文蔵が幼少のため財ノ木の角家より入り、同家の家督を継いで明治18年(1885年)県会議員、続いて第7連合戸長を務めた。 明治22年(1889年)11月中浜村長に就任し、小篠津尋常小学校を中浜尋常小学校と改めて新しい村づくりの中核とし、校地も拡張した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
永見 林三郎(ながみ りんざぶろう、1852年3月5日〈嘉永… 永見 林三郎(ながみ りんざぶろう、1852年3月5日〈嘉永5年2月15日〉 - 1924年〈大正13年〉4月2日)は、日本の政治家。 中浜村長(第3代)、中浜村会議員。第6代中浜村長永見勘太郎の父。 1898年(明治31年)当選期の補欠と、1904年(明治37年)の2期中浜村会議員を務めた。また、1905年(明治38年)12月から1909年(明治42年)12月まで第3代中浜村長を務めた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
門脇 重雄(かどわき しげお、嘉永5年2月8日(1852年2… 門脇 重雄(かどわき しげお、嘉永5年2月8日(1852年2月27日) - 大正10年(1921年)12月15日)は、日本の実業家、政治家。元渡村長、渡村会議員、鳥取県会議員、衆議院議員。鳥取県士族。 渡の日御崎神社神官から身をおこし新政府の高官となった門脇重綾の二男。福羽美静の東京英和学校に在学中父の死に遭い帰郷した。県会二期(第九代議長、第七代副議長)、国会三期を歴任し、県下の自由党、後の政友会のリーダーとして活躍した。養蚕業の振興、中海埋立をはじめ、米子銀行・県農工銀行創立や山陰電気株式会社設立等、殖産勧業面でも優れた業績を残した。 明治23年(1890年)7月、国会開設に伴う第一回衆議院議員選挙が実施され、本県第三区(会見・汗入・日野三郡)から県会議員門脇重雄が立候補した。
阿部 藤吉(あべ とうきち、1852年2月22日〈嘉永5年2… 阿部 藤吉(あべ とうきち、1852年2月22日〈嘉永5年2月3日〉 - 1930年〈昭和5年〉6月18日)は、日本の政治家、篤農家、地主、鳥取県多額納税者。鳥取県西伯郡余子村長(2代、5代)。余子村会議員。 伯耆国会見郡高松村(鳥取県西伯郡余子村、現・境港市高松町)出身。農業、金融業を営む。1891年6月、余子村長に就任、1892年1月に退任する。1898年12月に余子村長就任、1906年12月に退任する。 1901年、才仏川のほとりの民家を改築して隔離病舎を開設、尋常小学校を増築する。村長辞任後、連続3期郡会議員を務める。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。藤吉について、曽孫にあたる阿部昭一郎(境港市高松町)は「藤吉は村長を務めたので勲七等を授与された。
宮本 易孝(みやもと やすたか、嘉永3年1月6日(1850年… 宮本 易孝(みやもと やすたか、嘉永3年1月6日(1850年2月17日) - 明治45年(1912年)5月22日)は日本の政治家。中浜村長(第2代)、村会議員、郡会議員。西伯郡町村長代表を務めるほどの実力者村長だった。 小篠津村(現鳥取県境港市小篠津町)の豪農宮本家に生まれる。易孝の父宗久は茶人として知られる一方、明治初期の戸長職も務めた。 明治30年(1897年)12月、第2代中浜村長に就任した。 明治31年(1898年)小篠津村字茶苑畑に7棟86坪の避病舎を建築したのをはじめ、農友会を組織して産業の改良発達や風紀の改善につとめた。退任後郡会議員として活躍したが、2期目の在職中に没した。
稲賀 龍二(いなが りゅうじ、嘉永元年12月21日(1849… 稲賀 龍二(いなが りゅうじ、嘉永元年12月21日(1849年1月15日) - 昭和6年(1931年)3月15日)は日本の政治家。上道村長(初代、第4代)。境町長(第11代)。元鳥取県会議員(議長、副議長)、郡会議員(議長)、村会議員。 孫娘のしげのは元郵政大臣手島栄の妻。同じく孫の稲賀幸は元稲賀外科医院長。鳥取県済生会境港総合病院院長稲賀潔は曾孫。 伯耆国会見郡上道村(現鳥取県境港市上道町)に生まれた。父貞次郎は最後の上道村庄屋。 明治21年(1888年)鳥取県会議員に当選、その後明治28年(1895年)から明治32年(1899年)にかけて当選3回、その間明治30年(1897年)には第15代の県会議長に就任した。
荒木 徳三郎(あらき とくさぶろう、1846年4月18日〈弘… 荒木 徳三郎(あらき とくさぶろう、1846年4月18日〈弘化3年3月23日〉 - 没年不明)は、日本の商人(荒木屋、肥料・綿・米穀商)、海運業、醤油醸造業、鳥取県の大地主、荒木合名会社社員、実業家、政治家。鳥取県西伯郡境町会議員。 鳥取県西伯郡境町(現・境港市)の人で、生家は代々醤油醸造業を営む。 海運業を営み、主に地方の物産を蒐集し、これを北国中国等に輸送し帰港には肥料を積載して年数回往復航行する。危難や損失がなかったため収利は夥しく頓に資財を増殖し声望が大いに起り、地位は益々高まる。 1902年、境製糸社員の荒木久九郎、渡辺広太郎、里見五平は各々その出資額全部を共に社員の荒木徳三郎へ譲渡して退社し、荒木徳三郎はこれを譲り受けてその出資額を金3400円と変更する。
足立 長重(あだち ながしげ、1835年3月11日〈天保6年… 足立 長重(あだち ながしげ、1835年3月11日〈天保6年2月13日〉 - 1913年〈大正2年〉10月15日)は、日本の政治家。鳥取県西伯郡外江村長(第4代)。 現在の鳥取県境港市出身。足立家の家長である。家業は醤油屋で、家号は川足立。1899年4月から1902年4月まで外江村長をつとめた。また小十一区東外江村中総代や外江村会議員をつとめた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
松本 栄禄(まつもと えいろく、1819年5月18日(文政2… 松本 栄禄(まつもと えいろく、1819年5月18日(文政2年4月25日) - 1886年(明治19年))は、日本の政治家(会見郡長、県会議員)、郡役人(浜の目最後の大庄屋)。1872年(明治5年)7月、寛敬と改名する。 松江銀行(現山陰合同銀行)初代頭取、松江商工会議所初代会頭松本歓次郎の実兄。 伯耆国渡村(現鳥取県境港市渡町)に生まれる。松本民三郎(元松本)の長子。 1871年(明治4年)、浜の目支配(大庄屋)を拝命。1872年(明治5年)2月、会見郡長を拝命。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。